第4章 反転
1
その日は目覚まし時計が鳴る15分も前に目が覚めた。なにかの騒音で起こされたわけでもなく、悪夢を見たわけでもない。だが、無性に心がざわつき、胸騒ぎが止まらない。当たり前の人たちは、悪夢を見た時はこんな風に胸をざわつかせるのだろうか。
この嫌な気持ちを抑えるために、もう一度寝ようと布団をかぶりなおしても、一向に眠気は訪れない。
ただ、得体のしれない不安だけが俺の心をむしばみ続ける。じっとしているのも嫌になって、鳴り出す前のアラームのスイッチを切って、朝の身支度を始める。
こんなに朝早く起きるのは、園山と一緒に学校校へ行こうと約束した、あの日以来かもしれない。あの時のことを思い出すと、無性にやるせない気持ちになってくる。
けれど、拓也の「昔に戻りたいと思ったことはあるか」という質問に、そんなものは無いと答えた気持ちは嘘ではない。
園山とこうして会えないのは確かに寂しい。けれど、失ってしまったものは一瞬で彩りを失っていく。
懐かしいとは思う。覚えていられるのなら、いつまでだって覚えていたい。けれど、本当にそれだけだ。その思い出に浸ることもなければ、ましてや過去に戻りたいと願うことはない。ときどき思い出しては懐かしんで、それだけで十分だ。いつだって俺は、ただ今だけを見て生きていく。
「おはよう」
こんなに早い時間に起きてくるのがそんなに珍しいのか、口を開けて驚いている母さんに挨拶をして朝食の席に着く。
朝食のトーストにかぶりついて無心で口を動かしても、胸の奥のざわめきはなくならない。朝食を食べきって顔も洗ってすべての準備が整うと、普段よりも20分以上も早く家を出た。
こうして、たまに早く家を出てみても、一緒に登校してくれる奴はもういない。向かいの家では、園山が今も眠っているのだろうか。
少し歩くと、いつか飯河を見送った分かれ道にさしかかる。あの時、あそこで飯河を家まで送っていれば運命は変わっていたのだろうか。
飯河は山中ほど、今に失望していたわけではなかった。あの少女が夢を使って誘惑してきたのだとしても、俺が隣にいてあげれば誘惑に勝つことができたかもしれない。どうしてか、今になってそんなことを思う。
またそこから10分ほど歩くと、今度は山中を引き留めようとした、あの場所が近づいてくる。結局、少女は山中をどこまで連れていったのだろうか。その道は通学路からは外れているが、その場所が無性に気になってしまった。
腕に付けた時計を見て、時間を確認する。朝礼の時間までは、あと30分以上も余裕がある。それに、今さら遅刻していったところでなんの問題もない。
あの鬼教師も今のこのクラスの状況に困り果てたのか、最近ではずいぶんとおとなしくなっている。
俺は通学路のルートを外れて、あの日山中を引き留められなかった場所へと向かった。
あの時、山中が少女に連れていかれた先、きっとそこになにかがある。あの時は確かめる勇気もなかったが、今なら確かめに行ける。一歩一歩、山中とあの少女が歩いた道を辿って歩いていく。しばらくは直線の道をまっすぐに歩いていたが、やがて曲がり角にさしかかった。
記憶ではおそらく、二人は左に曲がっていた。そこで視界から消えたため、その先のことは分からない。この先になにかあってほしいと願いながら、この角を曲がる。だが心の奥では、こんな住宅街にいったい何があるというのかと疑っていた。あの少女が目指すような場所などあるわけないと。角を曲がった瞬間、そんな思いは一瞬にしてどこかへ消し飛んだ。
最初に目に飛び込んできたのは、まるでなにかの工場のような、コンクリートで覆われた大きな建物。
こんな何もない住宅街に、これほどの大きな建物があることを初めて知った。普段から通る道ではないし、知らなかったことはなにも不思議ではないが、あまりにも周りの景色から浮いている。
――が、そんなことはどうだっていい。
次に目に入ってきた光景に戦慄する。
工場のような巨大な建物の前には、一組の男女が立っている。一人は例の不思議な雰囲気の少女。そしてもう一人は、俺のよく知っている人物――拓也が、そこには立っていた。
「なんで……?」
思わず声がこぼれる。
拓也もこちらに気づいたのか、ばつが悪そうにうつむいた。
「悪い」
拓也とあの少女がこんな場所でなぜ一緒にいるのか、まったく状況が把握できない。もしこの場所が山中を連れて行った場所ならば、きっとここは夢を見させるための場所。おそらく、飯河もここに連れてこられたはずだ。
そんな場所になぜ拓也がいるのか。
申し訳なさそうにうつむく姿が、少女に異議を唱えるために来たわけではないことを物語っている。
「なんでおまえがこんなところにいるんだよ……この道、通学路じゃなかったよな?」
それでも拓也は黙ったままで、一向に顔を上げようとしない。そのはっきりしない態度に、少しずつフラストレーションが溜まっていく。
「なんでこんなところにいるのか、答えろって言ってんだよ!!」
一向に口を開こうとしない拓也の態度に、ついに耐え切れなくなって思わず声を荒げてしまった。
なぜ拓也がこんなところにいるのか、本当はなんとなく分かっている。ただ、そんな俺の推測を今すぐにでも否定してほしい。
けれど、そんな俺の願いを裏切るかのように、拓也は嗚咽を漏らし始めた。
「夢を……夢を見たんだ。ほんの数年前の、すごく幸せだったころの夢を」
まるで頭を殴られたような衝撃が走る。なんだって今、そんな夢を見てしまったのだろうか。過去のことは捨てると決意したその日の夜に見る夢にしては、あまりにも酷な内容だ。あれほどの決意をあっさりと打ち砕くほどの魅力が、今朝拓也の見た夢にはあったのだろうか。
「なんで、なんで今日なんだよ……!」
今までずっと黙ったままだったあの少女が、冷たい瞳でこちらを一瞥し、そして不敵な笑みを作って見せた。
「その日見る夢の内容は、その時の考えていることや精神状態に影響されます。こんなことは常識ですが。まあ、つまりはそういうことですよ」
拓也は決して、中学時代への未練を捨て切れたわけではない。それでも、過去へ戻りたいという願いを抑え込んで、どうにか過去から旅立つことを決意した。
しかし、夢に見たことによって、見ないふりをしていた自分の願いに気づいてしまったのだろう。そうなってしまってはもう、昨日のままではいられない。あの決死の覚悟さえ、夢の力の前では無力だと言うのだろうか。
「ごめんな。せっかく昨日メールするのに付き合ってもらったのに」
「なんで謝るんだ」とか、「謝る必要なんてないよ」とか言ってやりたいのに、ちっとも唇が動かない。
どうしてこんなところに拓也がいるのか、その理由は明らかだ。
「さあ、早く行きましょう。夢の続きを見るんでしょう?」
少女は甘くささやく。拓也の悩みも、葛藤もすべて見透かしているかのように。拓也は少しためらったような素振りを見せたが、すぐに少女のもとに歩み寄って行った。
ここで引き留めなければ、拓也は山中と同じ道をたどることになる。もしかしたら、もう二度と会えないかもしれない。そう思った瞬間、ついさっきまで硬直していたはずの身体は、自然に動き出していた。
「行くな、拓也ああ!!」
とっさに腕をつかんで、動きを止める。確かに俺は夢を見たこともないし、今に絶望したこともない。そんな人間には、今の拓也を止める権利はないかもしれない。それでも、だから何だと言うのだ。そんな些細な理由で俺は止まらない。
去って行こうとする親友を止めることに、権利なんて必要ない。引き留めたいから引き留める。腕をつかんでいる手にさらに力を加えて、絶対に離さないという意思を伝えた。
――が、その意思は一瞬にして砕かれる。
「離せよ」
掴んだ腕は強引に振りほどかれ、鋭い視線で射抜かれた。それだけでもう、はっきりと拒絶されたのが分かった。
「俺はもう夢の中に逃げるんだ!あんな夢を見せつけられて、夢の続きを望まずにいられるわけがないだろう!!あんまり夢の中が心地よすぎて、胸の中がめちゃくちゃなんだよ……」
泣いているのか怒っているのか、ぐしゃぐしゃになった顔で拓也は叫ぶ。
きっと、目が覚めてこれが夢だと分かった時、拓也はどこまでも絶望したのだろう。夢と現実のあまりのギャップに耐えられなくなり、ここにある今よりも夢の中の過去を選んだのだ。ありもしない幻に俺は負けたのだと、悔しさがこみ上げる。
「ごめんな、慎哉。けど、俺にはこれしかないんだ……」
謝るくらいなら、今を捨てるようなバカな真似をしないで欲しい。本当は無理やりにでも引き留めて、夢の続きを見るのを止めさせたい。
なのに、そんな意思に反して身体が動かない。今の拓也はきっと、なにをしても止まらない。それに、こんなにも悲しい目をしている人間の願いを、いったい誰が妨げられるだろう。
「本当にごめんな。慎哉と過ごす高校生活も、今にして思えば嫌いじゃなかったよ。だけど、あんなに幸せに満ち溢れた世界を見せつけられて、それでも今がいいなんて言えるほど、俺は大人じゃないんだ。こんなにも弱い俺を、どうか許してほしい」
それでも、なんとか引き留めようと腕を伸ばす。すると今度は、あの少女が俺たちの間に割って入って邪魔をする。
「人の願いを邪魔するのはいけませんよ?夢はときに、現実以上に心を動かすのです。夢を見たこともないあなたには、分からないでしょうけど」
少女の口ぶりに違和感を覚える。
「なんで、俺が夢を見たことがないって知ってるんだよ。そんなこと、おまえに話した覚えはないぞ」
「それはそんなに大事なことですか?」
「なに?」
「私は今まで多くの人に夢を見せてきましたから、その人がどんな夢を見たいのか、相手の目を見れば全部わかります。けど、あなたからは何も見て取れませんから」
俺は、こんな少女に見抜かれるほど、空っぽな目をしているのだろうか。
「なあ、もういいだろ。早く俺に夢の続きを見せてくれよ。もう我慢の限界だ。こちとら、もう耐えられなくておかしくなりそうなんだよ」
「そうですね。彼は放って行きましょうか」
拓也は少女に連れられて建物の方へと歩いてく。今度こそ本当に、俺は引き留めるのを諦めた。二人の背中を見送りながら、ただ呆然と立ちつくす。最後に一度、拓也は後ろを振り返ろうとするそぶりを見せて、けれどまたすぐに前を向いて歩きだした。
今度もまた、止められなかった。後悔とか諦めとか、無力感とか、そんなもので頭の中がぐちゃぐちゃだ。
眠りに向かう友人の背中に向かって、「いい夢を見ろよ」と言ってやるのが優しさなのか、それともそれは残酷な言葉なのか、俺には分からない。
少しずつ二人の背中は小さくなっていき、建物の中に入ると完全にその姿は見えなくなった。その瞬間、身体から一気に力が抜けて、思わず地面にへたり込んだ。
――失敗した。
全身を無力感が支配して、この場から動くことも立ち上がることもできない。二人を追いかけることも、諦めて学校に戻ることもできずに、俺はただ一人地面の上で座り込む。膝を抱え、体を丸め、ついにはうずくまるような態勢になった。朝の住宅街の隅でうずくまる俺の姿は、さぞや滑稽に映るだろう。
仮に、拓也がもう二度と夢から醒めなかったとしても構わない。過去のことと切り捨ててしまえば、割り切ることができる。引き留められなかったことも、後悔なんてしたりしない。いつだって俺は、そうやって無くしたものを切り捨てて、心に傷を負わないように賢く生きてきた。今回だって、そうやって拓也のことを諦めてしまえば楽になれる。
そのはずなのに……いつまで経っても俺は、この場所から動き出せずにいた。
巨大な建物の入り口は閉ざされていて中に入ることはできないが、こうしてここで待っていれば、いつか目を覚ました拓也がやってくるかもしれない。そんな甘い期待を抱きながら俺は待ち続ける。
ドリームマシンを使った人間が、永遠に目を覚まさないわけではないことを、最初に園山が証明してくれている。たとえ、次に目を覚ました拓也が、今までとは別人のように変わってしまっていたとしても。
もう何分座り続けたのか、すっかり時間の感覚が麻痺してしまっていた。おそらく、もうとっくに学校は始まってしまっているだろう。別に無遅刻無欠席を目指す優等生でもあるまいし、今更授業に遅れようとどうでもいい。それに、朝の教室に俺がいなくなったところで、誰も気にする人はいないだろう。
5分が経ち、10分が経ち、こんな時でも時間はいつもと変わらないスピードで過ぎていく。いったい何分の間座ったままでいたのか分からない。気がつけば、座ったままの態勢で浅い眠りに落ちていた。静かな住宅街の細道、まるで人通りはなく、眠りを邪魔するものはなにもない。秋の日差しは少しまぶしいが、暖かくて気持ちいいくらいだ。
そんな心地のいい眠りは、唐突にさえぎられた。
「こんなところで、何をしているんですか?」
重い瞼を開くと、まぶしい光が視界いっぱいから入ってくる。しばらくして目が慣れてくると、ようやく今の状況が把握できた。
見上げると、あの少女が俺の顔を覗き込むように見下ろしている。拓也の夢を見せて、もう彼女は役割を終えたのだろうか。
「別になんだっていいだろ。あんたには関係ない」
「さっきの彼が出てくるのを待っているんですよね?」
彼女は俺が拒絶しているのも意に介さず、この場から離れようとしない。少女からの問いかけにすぐ答えられなかったのは、完全に図星だった。
「彼はもう起きてこないですよ。起きてきたころには、もうあなたの知っている彼ではないですから」
「知ってるよ、そんなこと」
知ったうえで、それでもこんな場所で待ち続けているのだ。こんなバカなことをするなんて、自分でもどうかしていると思う。
少女は相変わらず、観察するような目でこちらを眺めている。その目で、いったい今まで何人の願いを暴いてきたのだろう。相手の内側を探るようなその目が、どうにも不快でたまらなかった。
「こんなところで油を売ってていいのか?俺なんてほっといて、早く新しいターゲットを探しに行った方がいいんじゃないのか」
早くどこかに行ってくれと、そんな願いを込めながら言い放つ。だが意外にも彼女は、俺の願いとは裏腹にこの場所にとどまり続けた。
「ええ、そのつもりですよ。ただ、あなたにも少し興味がわいてきました」
「夢を見ない人間なんてどうでもよかったんじゃないか?急に気でも変わったのかよ」
「ここまで夢に興味を持たない人間というのも初めて見ましたから。どうして夢を見られないのか、少し知りたくなりました」
どうして俺が夢を見ないのか、それは確かに俺自身も知りたい。ただ、その答えはいまだに見つけることが出来ていないのだから、簡単な問いではない。
「ねえ、あなたは夢が嫌いなの?」
「嫌いだよ。というより、嫌いになった」
何人もの友人を惑わして虜にしたものを、今まで通りに受け入れられるはずがない。特に、夢を知らない俺にとっては、未知の恐怖以外の何物でもない。夢が身の回りの現実を侵食していくとともに、その恐怖は増大していった。
ただそれと同時に、夢に対する興味も増していった。夢さえ見ることができたなら、俺も人並みに、何かに希望を持てるのだろうか。
今を楽しく感じたり、未来に希望を持つことができたり、過去の輝きを取り戻したいと願ったり、そんな当たり前の生き方を……
「なるほど。確かに、あなたが夢を嫌いになる理由は分からなくはありません。では、どうしてあなたは夢が見られないのか、その理由を知っていますか?」
「知るかよ。その理由なら、俺だったずっと考えてきた。けど、どれだけ考えたって原因は分かんねえんだよ」
「一つだけ、私から可能性を提示することならできます。私だってエスパーではありませんから、確証はありませんが」
「聞いたら、あんたはその理由を教えてくれるのか?」
「渋る理由はないと思いますが?」
さも当然のことのように首をかしげる。彼女は決して、俺たちに嫌がらせをしようとしているわけではないのだ。少しずつ冷静になって、だんだんと今の状況が見えるようになってきた。
「なら、教えてくれ。どうして俺は夢を見られないのか」
少女はじっと、俺の瞳を覗き込んだ。
「あなたには、何もないから……夢を見ることは記憶の整理のためだと言われていますが、厳密には少し違います。記憶と、そして感情の整理です。何の願いもないあなたには、その必要がない。だからあなたは夢を見ないのだと思います。あなたのその、なんの欲望も後悔もない空っぽの目が、何よりの証拠ですよ」
少女の語る理由は、きわめて単純なものだった。今まで考えてきたことがバカみたいなほどに。あまりにも単純すきで、笑い飛ばしてやりたいくらいだ。
少女の推測は、あながち間違いではないのかもしれない。確証もなければ、確かめる方法もないけれど、俺自身が不思議と納得してしまっている。
「なかなか面白い推測だったよ。もしそれが本当なら、俺は一生夢なんて見られないな。この歳にもなって人は変わらない。この俺が欲望とか未練とかを覚える人間になるなんて、まるで想像もつかないよ」
「そう。あなたはどうあっても夢を見ることはないのですね」
興味を持ったと言っていた時の顔はどこに行ったのか、少女の表情は呆れたような失望に変わっていく。そして、一度だけ小さくため息をつくと、くるりと半回転し背を向けた。
「それなら、やはりここでお別れです。あなたのこと、個人的には少し気になりますけど、夢を見ることもできない人間に構っていられませんから」
少女は去っていこうとする。これからまたどこかで、夢を求める少年や少女に、甘い言葉をささやきに行くのだろう。目的は分からないが、そうやって夢に溺れる人を増やし続けていくのだ。その先にある世界は、いったいどんな世界なのだろう。
別になにか特別な理由があったわけではない。それでも、俺の身体は反射的に動いていた。
「待てよ」
去っていく少女の腕を、俺はとっさにつかんでいた。
「まだ、何か用ですか?」
不快感を隠さない冷たい瞳で見下ろされる。その年齢に見合わない威圧感に思わず怯みそうになったが、その腕は離さずにつかみ続けた。
「ドリームマシン。俺にも使わせてくれないか?」
「ふうん。夢を見られないあなたが?見たい夢なんてないと思ってましたけど」
「まあな。確かに見たい夢はないけど、夢を見てみたいとは思ってるよ」
しばらくの間、少女は何も言わずに俺の顔を見つめ続けた。本当に夢を見たいと思っているのかを見定めるかのように、表情を変えずに見つめ続ける。
やがて満足したのか、一つ大きく息をついたあと、呆れたように目をそらした。
「構いませんよ。あなたにも効果があるのかは分かりませんが、特別に使わせてあげます」
「ありがとう」
「もし夢を見たいと言うのが建前で、本当の目的がこの建物の中に入ってお友達を助け出すことだと言うのなら、そんなバカなことは考えないことです。無理矢理に夢を中断させた場合、使用者の安全は保障できませんから」
「信用無いんだな。そんなことするわけないだろ。俺にはよくわからないけど、夢の途中で無理矢理起こされるのって、すごく気分悪いんだろ?」
「そうですね。それが幸せな夢なら、なおさら」
少女は再び建物の方へと向かっていく。そして、取り付けられた鍵を開けると、重たい入り口の扉を開け放つ。その先に何が待っているのか、建物の中は暗くてここからでは分からない。
「さあ、どうぞ。この先にあなたの求めるものが待っていますよ」
ついに、建物の中に足を踏み入れる。少女に先導されるままに歩くが、中の方は暗くてあまり様子が分からない。次第に目が慣れていくにつれ、その建物の内装が少しずつ明らかになっていく。
外からの見た目以上に建物の中は広く、大きな広間のような空間があるだけの、簡素な造りになっていた。
そして、嫌でも目に入ってくるのは、目当てのものでもある大量のドリームマシン。この大きな広間にびっしりと、等間隔に並べられている。ドリームマシンの中には人が入っているものもあれば、未使用のものもあった。この中のどこかに拓也や山中たちがいるのだろうけれど、暗さのせいで使用者の顔まで分からない。
「さあ、空いているものならどれでもいいですよ」
彼女に導かれるままに、一番近くにあったドリームマシンのそばに立つ。
ドリームマシンの実物を見るのは、これで二回目だ。この一連の騒動のすべての元凶となったマシンを、憎しみを込めた目で睨みつける。
まるで巨大なマッサージチェアのような見た目で、頭を置く部分には巨大なドーム状の機械が取り付けられている。きっとこれが脳に何かしらの作用を起こす機械なのだと容易に想像できた。
憎らしいはずのこのマシンに、俺は今から身をゆだねるのだ。その状況がおかしくて、思わず変な笑いが出た。
「起動すれば、あとはこの機械が使い方を説明しますから安心してください」
本当にこの俺が夢を見られるのかは分からない。けれどほんの少し、初めて見ることになる夢というものを楽しみにしている自分がいた。
夢を見れば、俺も少しは変われるのだろうか。そんな期待を隠しながら、ドリーマシンのチェアの部分に乗りかかる。リクライニング機能付きで、なかなか座り心地は悪くない。そして、俺は迷うことなく手元にある起動スイッチを押した。
冷却ファンの回る音、どんな処理が行われているのかは知らないが、頭の部分の機械からは、小さな音が聞こえてくる。
あれほど恐怖を覚えたドリームマシンを、今こうして受け入れようとしているなんて、いったいどんな因果だろう。
園山も、飯河も、山中も、そして拓也も、みんなこのマシンの――夢の虜になってしまった。俺も今からそこへ行こう。
「せめて、いい夢をご覧になってください」
彼女はそう言うと、この建物から去って行った。扉が閉められ、建物の中は完全な闇に包まれる。いよいよ静かになった空間に、機械の合成音声が鳴り響く。
『ドリームマシンを起動します。』
『しばらくお待ちください……』
目の前に迫る頭上の機械には小さなスクリーンがあり、そこには“起動中”の文字と、進行度合いを示すメーターが表示されている。すぐにそのメーターはいっぱいになり、画面の表示内容が変わる。
『…………ようこそ。』
『起動完了しました。』
『夢の内容を作成します。登場人物のデータを入力してください。』
見たい夢なんて何もない。ここに来て、頭を抱えたくなる。まさか事細かく夢の内容を指定することになるとは思いもしなかった。しばらく悩んだ末に、結局入力したのは一人の人物の名前だけ。
――中原慎哉。と自分の名前を入れていた。
『確認しました。続いてあなたの願いを抽出します。』
『脳波振動装置を装着してください』
言われたとおりに、機械に備え付けられている電極パッドのようなものを頭に取り付ける。これだけで、人の考えが読み取れるのだろうか。
はたしてこのマシンは、見たい夢もないこの俺からいったいどんな内容の夢を作りだすのだろう。興味と不安が混ざって、不思議な気分だ。
『確認しました。』
『夢の内容が確定しました。』
『30秒後から夢の世界へ移ります。』
『そのままでお待ちください。』
目を閉じて、時が来るのを待つ。たったの30秒という短い時間が、まるで永遠のようにさえ感じられる。この30秒というわずかな時間の中で、いろいろな考えが頭の中を駆け巡った。
園山と久しぶりに二人で遊びに行こうと約束したことや、このドリームマシンの誘惑から多くのクラスメイト達を救えなかったこと。そして、何の欲望も後悔もなしに生きてきた今までの俺の人生。
まるで30秒の限界に挑んだかのような膨大な思考も、機械の合成音声によって打ち切られた。
いよいよ、その時が来た。
『準備が完了いたしました。』
『それでは、良い夢をご覧ください……』
どういうわけか、案内の音声が消えた瞬間強い眠気が襲ってきた。
なす術もなく、眠りへと堕ちてゆく……
自分の意識がどんどんと薄くなっていくのが分かる。見たい夢の内容を書いた紙を枕の下に入れておけば、見たい夢が本当に見られるなんて言うけれど、その時の気持ちはこんな感じなのだろうか。
それが最後の思考。俺の意識はそこで途切れる。
――そして、夢が始まった。
2
男が一人立っていた。
そこが夢の世界だと理解するのに、しばらくの時間が必要だった。いわゆる明晰夢というやつだろうか。夢の中だというのに自分の思い通りに身体が動く。そこでの感覚はあまりにもリアルで、本当に夢の中なのか分からないほどだ。
ここが夢の中だと判断できた唯一の理由は、この世界に来る前の記憶があったからだ。間違いなく、起きていた時の俺は、あの不思議な建物の中でドリームマシンを使って、夢を見ようと試みた。
だが、今俺が立っている場所は前後を見ても左右を見ても、はたまた上を見上げても、何もありはしないつまらない空間で、夢と呼ぶにはあまりにも簡素過ぎた。
けれど、そんな何もない空間に一つだけ異質とも呼べるモノがあった。
「やあ、よく来たね」
一人の男が、こんな大きな空間に、ただ一人立っていた。来訪者であるこの俺を歓迎するかのように、うっすらと目を細めて微笑む。
始めは男と形容したが、少年と呼ぶ方が近いか。その少年の顔を俺はよく知っている。まだ小学生ほどの彼の顔は、見ているだけで吐き気がこみ上げる。
瓜二つなんてものではない。その少年は間違いなく、子供のころの俺と、全く同じ姿かたちをしていた。
「誰だよ、おまえ」
俺と同じ顔をした何かに、吐き捨てるように問いかける。
「誰って、あんたは自分の顔も分からないのかい?僕はあんただよ」
確かにドリームマシンで夢の内容を設定する時、登場人物の欄に自分の名前を入力したが、こんなつもりで入れたわけではない。
それに、どうして今の自分ではなくて小学生の時の自分なのだろう。考えても当然、答えは見つからない。ドリームマシンは起動時に、俺の願いを抽出すると言っていたが、こんなものが俺の願いだと言うのだろうか。
「こんなのが、ドリームマシンが作り上げた俺の見たい夢だっていうのか?こんなもの見せつけられても、胸糞悪いだけだ」
早くも現実に戻りたい。やっぱり俺は、当たり前の人のように、普通の夢を見ることはできないのだろうか。
「あんたが望んだんだろう?中原慎哉に会いたいと。夢の中に生きる、もう一人の中原慎哉に会いたいと」
あまりの突拍子もない言葉に、何の反応もできなかった。この少年が何を言っているのか、理解するのに少しの時間がかかる。もう一人の自分だなんて、たかが夢の内容にしては大げさすぎた。
ドリームマシンだなんて、まるでSFの世界のようだと思っていたけれど、本当にそんな訳の分からないことに巻き込まれてしまったのだろうか。
さっぱり事情が理解できないでいると、目の前の俺は呆れたような顔で肩をすくめて見せた。
「分からないか?僕はあんたが子供のころに夢の中に置き去りにしてきた、もう一人の自分だよ」
俺と同じ顔をした少年の放つ言葉は、完全に理解の範疇を超えていた。さっきのセリフを分かりやすい言葉で言い換えたのだろうが、少しも分かりやすくなっていない。そんな俺の様子にしびれを切らしたのか、もう一人の俺は不機嫌そうに頭をかきながら「だから」と続ける。
「なんであんたは夢を見られないのか、これがその答えだよ。欲望や後悔であふれていた自分を、あんたは自身の夢の中に抑え込んだんだ。本来だったら、夢を見る自分と現実を生きる自分が同居していなきゃいけないのに、あんたは無意識のうちにそれを分離させたんだよ」
ずっと知りたかった答え。なぜ俺は夢を見ることが出来ないのか。その問いの答えを、まさか夢の中で知ることになるとは、思いもしなかった。
にわかには信じられない話だったが、なぜか自然と納得できた。相手が俺と同じ顔をしているということも信じた理由の一つだろう。だが、夢を見る自分を夢の中に閉じ込めるなんて、いかにも俺の考えそうなことだと思ったことが、信じようと思った一番の理由だ。この目の前にいる俺は、紛れもない俺自身なのだと実感する。
「夢を見るなんて百害あって一利なし。害悪でしかないと、ずっと昔から俺は悟ってたんだろ?昔のことなんて覚えてないけど、自分のことだし、それくらいは分かるよ」
“正解だ”と言いたげに、目の前の少年は微笑んだ。何がきっかけで夢を見ることが無意味だと悟ったのかは分からないが、思い返してみれば子供のころの努力が実ったことなんて一度もなかったかもしれない。
目の前の俺の年齢は、およそ小学校低学年と言った程度だろうか。当たり前の子供なら、まだまだ夢を見続ける年頃だ。それなのに、俺はそんな歳で夢を捨ててしまったのだ。自分のことのはずなのに、目の前の少年を見ていたら、哀れにさえ思えてきた。
「答えを知って、あんたはどうだ?ずっとこの答えが知りたかったんだろ?」
「ああ、ようやく納得ができたよ。なんだか胸の中の支えが取れたみたいな、そんな気分だ……けど、別にただそれだけだ」
知ったところで、何が変わるわけでもない。明日からも俺は、夢を見ることはないだろう。
夢を見ることで、いいことなんて一つもない。ありもしない幻に一喜一憂して、目覚めと同時に突きつけられる、目の前の現実に嘆くのだ。
現実の世界では絶対に手に入れることのできない幸せの虜になって、帰ってこられなくなったやつを俺はもう何人も見てきた。
夢は麻薬に似ていると、誰かが言っていた。何気ない出来事でも美化されて、目覚めた後もその心をむしばみ続ける。
夢を見ることに意味なんてなくて、ただ心を傷つけるだけだ。夢は決して、人を幸せにしない。
だから俺は、これからも変わらない。今日までも、明日からも……
目の前の俺は、俺の目をじっと見つめた。
「本当にあんたは何も変わらないのか?今でもあんたは、夢を単なる害悪で片付けるのかい?」
少年は問いかける。
それは紛れもない自問自答。
夢を見ることなんて無価値で、欲望も後悔も無意味で、その考えはこれからも揺るがない。
そのはずなのに、目の前の少年はすべてを見透かしたような目で薄ら笑う。
「やっぱりまだ少し早かったかな。あんたは夢を知らなすぎる」
「あいにく、夢なんてものを見た記憶はないんでね」
「うん、知ってるよ。だから、少し社会科見学をしようか」
「社会科見学?」
「うん。知ってるかい?ドリームマシンを媒介にした夢は、全部つながっているんだ。この世界の住民である僕なら、あんたのことを案内してあげられる。さあ、みんなの夢を見に行こう」
そう言うと少年は、手を差し出した。その言葉の意味は何一つ分からなかったが、思わず少年の手をつかんでしまった。
――その瞬間、世界が反転した。
それは一回にとどまらず、ぐるぐると視界が回転を繰り返す。気持ち悪さに耐えられずに目を閉じると、すぐにその浮遊感は治まった。
さっきまでの回転は終わったのか、確かめるために恐る恐る目を開ける。瞳を半分も開けたころ、目の前の世界の異変に気付く。
世界がまるで変っている。目の前に俺と同じ顔をした少年がいることは変わらないが、それ以外の景色は、さっきまでの面影を一切残さずに変わっている。この世界はさっきまでの無機質な空間ではなく、学校の教室だった。そこには見たこともないたくさんの男女がいる。
見たこともない彼らは、一つの机の周りに集まって、男子も女子も関係なく楽しそうに笑っている。彼らの年齢は中学生ほどだろうか。俺よりも少しだけ年下に見える。
遠くからその様子を見ていると、そんな知らない顔の中に、一つだけよく知っている顔を見つけた。その男は輪の中心にいて、一番楽しそうに笑っている。
けれど、その男だけは周りのクラスメイトより老けていて、その集団から少し浮いているように見える。その輪の中にいる人々は、そんなことは気にもせずに、ただひたすら笑っている。
誰もが本当に楽しそうで、そこには幸せだけがあった。
「次も見てみるかい?」
目の前の少年は問いかける。俺は少しも迷うことなく、首を縦に振った。すると、再び世界は反転する。
思わず目を閉じると、再び浮遊感が襲ってくる。しかし、それも数秒のうちに治まると、景色はまた変貌を遂げる。
さっきまでの楽しそうな男女のグループは消え去って、代わりに今度はたった一組の男女が現れた。
その男女のことを、俺は知っている。男の方にいたっては、知っているなんてものではない。間違いなく、俺そのものだった。
そいつは、目の前にいる小学生の姿をした自分とは違って、今の時間の俺だった。一つの空間に自分が3人もいるなんて、あまりにも不気味で夢にでも出てきそうだ。
さっきの中学生グループの時もそうだったが、目の前にいる二人の人物は、俺たちに気づいているそぶりを見せない。こちらからは見えていても、向こうからはこちらの様子は見えていないようだ。
二人は俺の視線にも気づかずに、楽しそうに並んで歩いている。二人が歩いている場所は、俺もよく知っている場所だ。駅前のアーケード商店街、その大通りを二人は手をつないで歩いている。なんとなく、いつもの街並みさえ美化されているように思える。
並んで歩く二人を見ていると、なぜだか気味の悪い違和感を覚える。その違和感の理由は、自分と同じ顔が目の前にあるからというわけではない。むしろその反対で、目の前を歩く俺が、本当は自分ではないように感じていた。
姿や形、声だってこの俺と変わらない。けれど、一つだけ違う。
俺は、こんな風に笑わない。
細部まで忠実に再現されたこの世界で、わずかな綻びは大きな違和感へとつながっている。
「もういいだろう?おまえが何をしたいのかは分からないけど、他人の夢を覗き見るなんてもう十分だよ」
「まあ、そう言うなよ。他人の夢を覗き見るなんて、あんたくらいしかできないんだし、せっかくだからもう少しみていこうよ」
そう言うや否や、視界が反転し目の前の世界が変わる。
今度の舞台は学校の教室。そこは今のクラスの教室で、見知った顔のクラスメイト達が楽しそうに笑っている。これが誰の夢かはすぐに分かった。
ここでは誰も笑っている。何も特別なことはない、当たり前の教室の風景。その夢の主は、その教室の片隅で数人のクラスメイトと話をしていた。
その夢の中の人物の浮かべる笑みは、まるで子供の描いた絵のようで、あまりにも幼稚に見えた。
すると、今度は何の前触れもなく世界が変わった。
今回の夢の登場人物は3人で、その中にはまた俺がいた。おそらく、この場所は園山の家の中だ。中学に進学して以来あまり行っていなかったが、なんとなくこんな部屋だったような記憶がある。
部屋の中で3人は和やかに、思い思いの時間を過ごしている。夢の中なのだから、もう少しありえない設定にすればいいのにと思うが、そういう控えめなところもこいつらしい。夢というのはどうやら、その人の人格を表すようで、彼女の夢はどこまでも穏やかだった。
しばらくの間その夢を眺めていると、唐突に目の前の世界が崩れ落ちた。部屋の家具も、そこでくつろぐ3人ももろともに。後に残ったのは、始めの何もない空間と俺と同じ顔をした少年だけだった。
「楽しんでもらえたかい?」
夢を見せるのはこれで最後のようだ。目の前の少年は俺の反応を楽しむように怪しい笑みを浮かべている。
「人の夢をのぞき見しておいて、楽しいもクソもないだろ。ただ悪趣味なだけだ」
「今さら良い人ぶるなよ。他人のものとはいえ、初めて夢っていうものに触れて、ガラにもなく興奮してるんだろ?」
「別に興奮なんてしてないさ。ただ少し、感心しているだけだ。夢ってのはもっと突拍子もないものかと思ってたけど、案外みんな普通のものを見てるんだな。別に現実離れした夢でもないのに、それでも起きたくないと願うのかよ」
「ドリームマシンは、本人の望んだ夢を見せるものだから、普通の夢と違って自分の想像できる範囲の夢しか見られない。けど、それでも間違いなく本物の夢だから、現実以上に心をつかむのさ」
俺が夢を捨てたのは、小学校低学年の頃。その以前に見た夢の記憶なんて、これっぽっちも残っていない。だから間違いなく、今見てきた夢が俺にとって初めて触れる夢だった。
「で?これだけいろいろ見せてあげたんだ、少しは夢っていうものが理解できたか?」
「ああ。それなりには」
4人の夢を覗き見て、みんながどんなことを考えているのか、まるで心の中をのぞいたような気分になった。他人の心に侵入した罪悪感と、4人の考えや想いを知れた喜びとが入り混じる。
戻りたい過去とか、目指した未来、手に入れたいもの。
人間の感情なんてものは、こんなにも単純だった。
「これだけの夢に触れて、あんたはまだ夢なんて無意味だと切り捨てるのか?何の価値もない、ただの害悪に過ぎないと……」
ずっと昔に捨てた、夢を見るという行為の意味を、今一度自分自身に問う。夢は人の心を壊していく。そんな光景を嫌と言うほど見せつけられてきたはずなのに、俺は夢を否定しきれずにいる。
「夢っていうのは歪なものだよ。理想だけを描いた世界なんて、嘘っぱちみたいなもので、だからどうしても、ひずみみたいなものができてしまう。だけどそれは、間違いなく本物なんだ」
さっき覗き見た夢にあった、偽物みたいな笑顔を思い出す。あれは間違いなく現実にはありえないような、嘘っぱちの幻だった。
けれど、幻のようにさえ思える人の夢は、偽物や幻影なんかじゃない。俺が目にしたみんなの夢は、確かな形をもって目の前に存在した。
夢は幻なんかではなく、一つの世界としてこうしてここに存在している。
だからこそ、夢は時に現実以上に人の心を揺さぶるのだろう。
そして、あまりにも強く感情を揺さぶってしまうがゆえに、悪夢から目覚めた後の抜けきらない恐怖心や、幸せな夢から覚めてしまった後の虚無感は、夢から覚めた後も人の心を締め付ける。
それを十分に理解したうえで、自分自身に問いかける。“夢なんて無駄なものだと切り捨てていいのか”と……
「僕を受け入れてくれよ。あんたがずっと昔に切り捨てた夢を見る自分を、もう一度受け入れてみろよ」
欲望とか後悔とか、当たり前の感情を持つものだけに与えられた特権。目を閉じて眠りにつけば現れる、当たり前の現象。
それを俺は……
「夢が見たい。俺の夢を、いつまでもこんなところに取り残したままにはしたくない。もう一度、おまえを受け入れるよ」
手を伸ばす。これは前に進むための決断。夢を見ることの苦しみは十分に理解できたつもりだが、それ以上に夢を見ることの意味を知ってしまった。
俺たちが手を触れ合わせると、一瞬だけまばゆい光があたりを包み込んだ。そしてその後、少しずつ世界が崩れ始める。
――目覚めの時が来る。
次に目を覚ました時、眠りにつくまでの俺はもういない。より良い未来を夢に見ることもあれば、失った過去を追い求めてしまうこともあるだろう。それでも必ず、そこには意味がある。
「なあ、あんたはこれから目を覚ました後のことを考えてあるか?」
消えゆく姿の、少年の姿をした俺が問いかける。
「詳しいことまでは分かってないけどさ、夢の中に置き去りにしてきた俺を受け入れるってことは、また夢を見られるようになってことだろ?」
「そうだよ。夢を見るってことは、欲望とか後悔のような、当たり前の感情の副作用さ。目を覚ましたらそれも取り戻すことになる」
もう世界は完全に崩れ去って、さっきまでの大きな空間は跡形もない。俺たちの身体も、もうほとんど消えかかっている。
目が覚めた後の自分がどうなるのか、希望や不安があふれてくる。今までの空っぽだった自分では、考えられない感情だ。
今にも世界が崩れ去る、その瞬間のことだった。最後の少年の声が聞こえた。
「けどさ、あんたは目が覚めた時の喪失感に耐えられるのか?」
そこで、夢は終わりを告げた。
いつだって目覚めは唐突にやってくる。目が覚めた、その時が始まり。目を覚ました人間は夢の終わりを受け入れて、現実に立ち向かわなくてはいけない。その時が、いよいよやってくる。
目を開くと、光が差し込んできた。
3
いったい何時間ほど眠っていただろう。建物の入り口の扉は開かれていて、眠る前は真っ暗だったはずの部屋に、わずかだが光が差し込んでいた。建物の中は変わらずに、巨大な機械とそこで眠る人々であふれていた。
機械を使って無理やり眠りに落ちたせいか、頭がズキズキと痛んでうまく思考が回らない。さっきまで見ていたはずの夢の内容も、どうにも思い出せない。
ただ、なぜだろう。心の中には大きな喪失感が引っかかっている。
「まあいいや。いい加減、学校に行かないと」
今が何時なのかもわからないが、ひとまず学校を目指して歩き始める。学校に行けば、みんなは俺のことを待ってくれているだろうか。
建物の外に出ると、日差しがまぶしくて思わず目を閉じて立ち止まった。
昨日までの、未来も過去も興味のなかった自分はもういない。理想の世界を追い求めることもすれば、戻りたい過去があるならばそれにすがって生きていく。そんな生き方を俺は選んだ。
2020年の秋、人は望んだ夢を見られる技術を手に入れた。恋をした人も、安らぎを求めた人も、現実から逃げ出した人も、過去にとらわれた人も、誰もがずっと理想の海に溺れつづけた。一度夢の世界に堕ちてしまった人の心は、もう二度とすくい上げられることはない。
理想郷はすぐそばにある。
どこからか、少女の声が聞こえた気がした。
ささやくような、優しい声だ。
「現実の世界に疲れたら、いつでも思い出してくださいね。願う世界は、いつだって夢の中にあるのですから」
それは甘い香りのように、俺の心をくすぐった。