第3章 過去夢
1
山中があの少女のもとについて行ってから、3日目の朝がやってきた。もともと好きでもなかった学校が、どんどんとつまらないものに変わっていっているのを、日を追うごとに痛感する。
園山も、飯河も、山中も、あれから教室に来ていない。気付けばクラスの人数が随分と少なくなっている気がする。3人だけではない、明らかに欠席の数が目立つようになっている。
山中をいじめていた、あの森の姿さえこの数日見ていない気がする。あいつにもこの現実を捨ててまで浸っていたい理想があったのだろうか。
少しでも今に満足していない人間や、理想を追い求めている人間を、彼女はきっと見逃さない。町中のいたるところで、ああやって人間を観察しながらターゲットを探しているのだ。
けれど、あれ以来彼女には会ってもいなければ、見かけたことさえもない。結局彼女が何のためにあんなことをしていたのか、分からずじまいだ。なんだかもう、すべてがどうでもよくさえ感じてしまう。
「おい!なにをぼうっとしてるんだ。早く調査書を書き上げろ。あとは中原だけだぞ」
「ああ、すいません」
教師の声で一気に現実に引き戻される。机の上には進路希望調査書。3つほどの空欄があるその紙には、名前だけが書かれていて肝心の部分は空白のままだ。
「なんだよ慎哉、おまえまだ書いてなかったのかよ。こんなのそんなに悩むことじゃないだろ?」
「うっさいな、こういうのは苦手なんだよ」
この高校を選ぶときも最後の最後まで悩み続けて、結局自宅から近いという理由だけで決めてしまった。別にやりたいことが選べないわけではない。やりたいと思えることが何一つ見当たらない。
「そういう拓也はなんて書いたんだ?」
「俺か?俺は適当に有名な4年制大書きまくった」
「適当って……もう少し、なんか学部とかいろいろあるだろ」
「あれ?言わなかったっけ、俺は法学部一筋だよ」
「へえ。そうだったんだ……」
勉強のできる拓也には確かにお似合いの学部かもしれないが、少し驚いた。いつもあれだけ適当な生活をしている拓也が、そんなに真剣に先のことを考えているとは思わなかった。
「でも、いいんじゃないか?今からやりたいことがはっきり決まっている奴なんてそういないし、適当に就職に強そうな4大でも入ってそこで遊べば」
おそらく、それが一番現実的で選択肢で無難な道だろう。けれど、そんな未来さえ、俺には描くことが出来ない。叶えたい未来も、送りたい日々も、欲しいものさえ、何もない。
ずっと今だけを見て、なんとなくで生きてきた。
「別にやりたいことなんてなにもないよ。今自分のいる場所で、適当に折り合いをつけながら生きていければそれでいい」
「重症だ、こりゃ」
自分でもそう思う。けれど、これが俺の生き方で、おそらくこれからもずっと変わることはない。
どれだけ頭を使って悩んでも、自分がどうしたいのかなんて分からない。こんなことにいつまでも悩んでいることが、バカバカしく思えてきた。
「じゃあ、俺も拓也に倣って」
用紙の空欄に、思いついた大学名を適当に並べていく。一応学力は気にして書いたが、学部や学科は全て適当だ。後で先生に怒られたら、その時はその時だ。
拓也はそんな俺を見て、「後で苦労するぞ」と忠告をした。そんなことは自分でも十分分かっている。
適当な大学名で空欄を埋め尽くしペンを置いた時、何かが振動する音が聞こえた。
「おっと」
どうやら聞こえてきた音はスマートフォンのバイブ音のようで、拓也は自分のポケットからスマートフォンを取り出した。
「おい、うちってスマホは持ち込み禁止じゃなかったか?」
「まあまあ、細かいこと気にしない気にしない」
そう言って机の下の、担任の死角になるところでこっそりといじっている。すぐにばれそうなものだが、担任はちょうど黒板に書き込みをしていて気付かない。
「こういうのはちょっとしたタイミングなんだよねー」
確かに今どきスマートフォンの使用禁止も珍しいし、持ち込んでいる生徒はよく見かけるが、ここまで堂々といじっているのは拓也くらいだろう。
だが、最初は嬉しそうにスマホをいじっていた拓也の表情が急に曇った。その表情の変化が気になって、思わず画面をのぞき見てしまう。
ちょうどその瞬間担任がこっちを振り向いて、慌てて拓也はスマートフォンをポケットの中に引っ込めた。画面が見えたのは一瞬で、拓也が何を見ていたのか細かいところまでは分からなかった。しかし、かすかに見えたものを思い出してみると、あれはメールの画面だったように思えた。
それから朝のホームルームの時間中、担任はまめに教室中の様子を気にしていて、スマートフォンを開けるような時間は来なかった。
その間、拓也はやけに落ち着きがなく、いつもと様子が違うのは明らかだった。もしもさっき見ていたものが本当にメール画面なら、それにはいったい何が書かれていて、そして誰から送られてきたものだったのだろう。
ホームルームが終わると拓也は、すぐに席を立ち上がり教室の隅に移動した。教師が入れ替わるこの時間は、自由にスマートフォンが使える、生徒にとっては貴重な時間だ。誰もが嬉々としてスマートフォンを操作しているのに、拓也だけは違う。画面を見つめるその姿からは、哀愁のようなものさえ感じられる。
なにもこんな様子の拓也を見るのは、初めてのことではない。ゲームセンターで遊んでいる時に、たまに見せる無機質な目。今の目はそれに似ている。
やがて教師が教室のドアを開けて入ってくると、スマートフォンをいじるのをやめて、慌ててポケットに突っ込んだ。暗い表情をそのままに、自分の席に戻ってくる拓也に、俺は触れてはいけないと思いつつも、つい好奇心から声をかけた。
「誰かからメール?」
「中学の頃のダチから」
俺の意地悪な質問にも拓也は、無理やり笑顔を作って答えた。別に暗い顔を作るようなメールの送り主には思えなかったが、考えてみれば俺は拓也の中学時代をよく知らない。お互いに昔の話なんて、わざわざ話すような間柄でなければ、そんな昔のことなんて知る機会はなかった。
少なくとも中学の時はゲーセン通いなんてしていなかったはずで、今よりはまともな奴だったように思える。拓也にさぼり癖がついたのも、見た目がチャラついたのも、全て高校に入ってからのことだろう。
「なあ。慎哉は、昔に戻りたいって思ったことあるか?」
そんなことを考えていた時のこと、つぶやくような声で、拓也はそう問いかけた。あるいは、独り言だったのかもしれない。
「え……?」
とっさのことで何も言えずにいると、拓也は「なんでもない、気にすんな」と言って、会話を切るように黒板の方を向いた。質問の意味を訊こうか迷っていると、教師が教壇に立ち、1時間目の授業が始まった。
最初の授業は現代社会。暗記ばかりつまらない授業で、普段であればとっくに眠っているはずだが、今日に限っては眠気が来ない。だからと言って、真面目に授業を聞いているかと言えばそうではない。拓也の問いかけが、頭の奥にこびりついていた。
授業が始まって、おとなしく先生の話を聞いている拓也の横顔は、先ほどまでの暗い顔に比べれば、ずいぶん落ち着いたように見える。
そういえば一度、拓也の様子が今みたいにおかしくなっていた時があったような気がする。一学年の後期、ちょうど今から一年ほど前のことだっただろうか。あの時も、こうして空っぽの目をしてどこか遠くを眺めていた。
俺は教師の板書を適当に書き写しながら、一人頭の中で、さっきの拓也の質問に答える。
――昔に戻りたいなんて思ったことは一度もないよ。戻りたいと思えるような過去なんて持ち合わせてないし、別に今に不満があるわけじゃない。未来に希望なんてなければ、過去に未練なんてない。
それが俺からの答えだ。
2
山中がいなくなって、森もいなくなって、誰がいないのかもわからない教室は不気味なほど穏やかだ。この教室から消えていった彼らについて、誰も話題に出そうとしない。得体の知れない恐怖がこのクラスを――この学校中を包み込んでいた。
「そういえばさ、今日面白い夢を見たんだよ」
どこからか聞こえるクラスメイトの楽しげな声。“夢”という単語に反応した自分が嫌になる。
「へえ、なになに」
「それがさ、なんかクラスのみんなが出てきてさ、みんな一緒にバスに乗って出かけてるわけよ。おまえは途中でバスから落ちてたけどな」
「はあ、なんだよそれ!」
狭い教室の中では、盛り上がっているクラスメイトの男子二人の会話が嫌でも耳に入る。たかだか夢の話で、ここまで盛り上がれるものなのかと感心する。
「ま、気付いたらなぜかまたバスの中にいたんだけどさ。んで、面白いのがそのあとでさ、バスの着いた先に、なんとあのレナちゃんがいたんだよ!」
「レナちゃんってあのアイドルの?ただの自慢じゃねーか!」
「いやあ、幸せだったなあ。夢の中だけでも、レナちゃんと仲良くなれて」
夢を見たと話す男の方はどこまでも幸せそうだ。ただの夢なのに。幻なのに。ニセモノなのに。
「でもさ、ちょうどいい感じの時に母ちゃんに起こされて終わっちゃったわけよ。どうしても続きが見たくて二度寝したけど、夢を見たのかすら覚えてないよ」
「それで今日遅刻しかけたのかよ!でも、二度寝したくなる気持ちは分かるわ。俺も何度かやったことあるけど、結局ちゃんと続きを見られたためしがないんだよな」
「ホント、こんな時こそ欲しいと思うことはないよね。ドリームマシン。あれさえあれば、夢の中ではレナちゃんと好き放題できるのに」
「確かに。けど、あれ高すぎでしょ。俺ら庶民に手の出せる代物じゃねえって」
「だな……あーあ、つまんね」
この二人は金さえあればあんなものを使いたいと思うのだろうか?
俺はふと、隣で昼飯を食べている親友を横目で見た。その目は今も暗く沈み切ったままだ。その横顔に問いかける。
「なあ、拓也。おまえはなにか見たい夢とかってあるのか?」
拓也は食事をする手を止めたが、黙ったままで俺の問いには答えようとしない。この質問はタブーだっただろうか。その質問を撤回しようとしたその瞬間、拓也は突然立ち上がった。
「ちょっと付き合ってくれよ」
俺がうなずくと、拓也は教室の外へと歩き始めた。
3
拓也について行って、案内された場所はこの学校の屋上だった。立ち入り禁止のロープをくぐり、こっそりと侵入する。こんなところに来るのは、一年半近くこの学校に通っていて初めてのことだった。
外に出てみると、屋上は思いのほか広く、とても落ち着ける雰囲気だ。そんな屋上の隅に、拓也はゆったりと腰を下ろした。
「あるよ」
何の前触れもなく、拓也はそう口にした。
屋上に吹く風は秋の物寂しさを感じる冷たい風で、ほんの少し肌寒い。
「さっきの質問の答え。見たい夢なんて、いくらだってある」
拓哉は空を見上げながら語り始める。この話をするために、俺を屋上へと案内したのだろうか。拓也の顔からは、いつのまにか朝の暗い表情は消えていて、なにか覚悟を決めたような表情に代わっていた。
「見たい夢ってたとえばどんなの……?」
もう遠慮したりはしない。一年以上一緒に遊んできて、こんな風に真面目に向き合ったことはなかったが、もう覚悟なら決めた。
「昔の夢。ホントは昔に戻りたいんだけど、そんなのは不可能だから、せめて夢の中で、もう一度あのころに帰りたいんだ」
『慎哉は昔に戻りたいって思ったことあるか?』そんな今朝の言葉が頭の中でフラッシュバックする。
「ひょっとして、今朝のメールと関係あるのか?」
「お、当たり。おまえ結構勘いい?」
俺の言葉を聞くと、拓也は驚いたような表情を作って見せた。こんなの誰だって分かる。
「ヒント出し過ぎだよ、バカ」
拓也が戻りたいと願う過去は、きっと中学生の時のこと。だからこそ、朝に来た中学の時の友人からのメールにひどく動揺したのだろう。
「別に隠したいわけじゃなかったんだ。ただ、あまりにも情けない話だから、話しづらかったって言うか……」
そこで一度、大きく息を吐いた。そして、語りだす。
俺の知らない拓也が、顔をのぞかせる。
「俺はさ、今と違って中学校の時はもっと輝いてたんだ。部活も頑張ってたし、勉強だってできたし、自分で言うのもなんだけどクラスの中心人物だったし、なにをやってもすごく楽しかったんだ。みんな俺のことを一目置いていたし、俺のいるところには必ず誰かがいて、俺を中心にしてクラスが動いてた」
一息に、俺の知らない中学生の時の拓也が語られた。今だって別にクラスの中では浮いているわけではないし、友達だっているように見える。けれど、話の中の拓也は今の姿からは遠く離れている。
「けど、そんな風にずっと中学生活送ってきたせいか、高校に入ってから驚いたよ。ギャップっていうか、落差っていうか。最初は友達なんてほっといてもできると思って、余裕かましてた。けど、中学とは違う。俺を知ってるやつは一人もいないし、向こうから寄ってきてはくれない。なんとか少しは友達もできたけど、やっぱり全然足りない。あの頃持ってたものは何もなくて、気が付いたらひどく深いところまで落ちていた」
俺の知らなかった拓也が、ようやく全部わかった気がした。
「あとはお前の知ってる俺だよ。授業はいっつも遅刻して、部活もやらなくて、帰りは毎日ゲーセンに寄り道して、ひたすら一人で遊んでる。あのころの俺なんて、もうどこにもいない」
なんとなく、俺は自分のことを言われている気がした。なにもせず、毎日を無意味に過ごしていく。俺たちは、似た者同士だからこそ仲良くやれているのかもしれない。
戻りたい過去があるか、それすらもないかの違いだけ。
「俺は戻りたいよ。あのころに戻りたい」
「でもさ、今でも中学のやつらとは遊んだりしてるんじゃないのか?高校はつまらなくても、そいつらと会えば……」
なにも高校のメンバーにこだわる必要はない。自分にとって居心地のいい場所を選べばそれでいいはずだ。けれど、拓也は悲しげな笑顔を作るだけだった。
「遊んだよ。ちょうど去年の今ごろ。けど、あれからずっとあってない」
「なんでだよ?楽しくなかったのか?」
「みんな、変わってたよ。すごく、楽しそうだった。それぞれの進学先で頑張ってるやつばっかでさ、すごくうらやましかった。新しい友達たくさん作って、部活に全力で打ち込んで、彼女作って遊んでたり……それなのに、俺だけはずっと立ち止まってて、くすぶってて。俺はもうそれ以上その場にいられなかった。自分のなさけない姿を見せたくなかった。みんな俺のことをすごいやつだって思ってくれたのに!俺がほかの誰よりも輝いていたはずなのに!情けなさとか、申し訳なさとか、恥ずかしさとか、いろんな感情が渦巻いて、俺は逃げ出すように、用事があるからって言ってすぐに帰ったよ」
「拓也……」
そんな話を聞いて、俺はどんな言葉をかけてあげればいいのだろう。きっと去年の拓也は、中学校のころのメンバーに会えば、昔に戻ったような気分になれると信じていたはずだ。それなのに、その期待は裏切られた。
変わらないものなんてない。人は絶対に過去へは戻れない。あまりにも辛すぎる現実を、これ以上ないほどに突きつけられたはずだ。
「今朝のメールだけどさ、一年ぶりにみんなで集まらないかって来たんだ。会えるわけねえよ!どんな面して会えばいい?きっとみんなさらに成長してる。それぞれの居場所で頑張ってんだ。もう、あいつらに会うのが怖い。でも本当は会いたい。あいつらが、俺にとっての唯一の居場所だから。だから、断りたくない。あいつらと一緒にいれば、またあのころに戻れるんじゃないかって、まだ心のどこかで思ってるんだ」
語りながら拓也は、自らの膝を力強く抱く。会いたいけれど会いたくない、矛盾した心の葛藤が痛いほどに伝わってくる。こうして話を聞いてあげることが、少しでも心の安らぎにつながってくれたらいい。
「そうだよな、簡単に諦められるわけないよな……」
こんな時に上手い励ましの言葉をかけてあげられない自分に嫌気がさす。昔に戻りたいと願う感情が俺には分からない。せめて少しでも、その苦しみに共感してあげることができればいいのにと思う。
中学校のころの友人に会うべきなのか会わないべきなのか、この俺にはどんなアドバイスしていいのかも分からない。
欠ける言葉も見つからずに黙っていると、拓也は突然顔を上げた。その顔は意外にも、きっぱりとした何かを決意したような顔だった。
「スマホ、ここでならいくら使っても先生から怒られないだろ?」
拓也はポケットからスマートフォンを取り出して、今朝届いたというメールを見せた。
「俺、やっぱり断るよ」
そう、きっぱりと言い切った。その表情には少しの曇りもない。
「本当に、それでいいのか?」
「ああ。もう昔にとらわれるのはやめにしたいんだ。今ここでまたみんなに会ったら、俺はいつまでたっても成長できない気がする。だから、あいつらには今より成長できたと思えるようになったその時、会いに行くことにするよ」
そこで一度、拓也は口を止めた。見ると、さっきまでの曇りない表情を崩して、不安そうに顔をゆがめていた。
「けど、やっぱりまだ不安だから、勇気をくれないか?」
こんなに弱弱しい拓也を見るのは初めてで、頼ってくれたことがすごく嬉しかった。その想いを右手に込めて、思い切り背中を叩く。
「拓也はやりたいことがあるんだろ?おまえは俺とは違う。俺はやっぱり拓也には前を向いていて欲しいんだ」
「ありがとよ。慎哉もきっと、すぐにやりたいこととか見つかるって信じてるぜ」
一度だけ穏やかな顔で微笑むと、拓也は慣れた手つきでスマホの画面を操作し始めた。朝のメールへの返信画面を作り、文面を打ち込んでいく。文面に少し悩んではまた打ち始め、やがて内容が完成した。あとはもう、送信のボタンを押すだけだ。
過去にすがり、今も未来も捨てて立ち止まるのは簡単だ。けれど、それではいつまでたっても人は変われない。だから、どこかで断ち切らなければいけない。
今この誘いを断ったとしても、なにも一生会えなくなるわけではない。けれど、これは確かに決別だ。中学の友人たちとの決別ではない、過去にすがる自分との決別だ。
拓也は親指に力を込めて、ゆっくり力強く、ボタンを押してメールを送信した。
「これで、よし!」
秋の空の下、吹っ切れたような、すがすがしいほどの無邪気な笑顔を、俺は心に焼き付けた。
*
夢はどこまでも優しい。
夢を見た人間は、現実では絶対に手に入れられないような幸せを感じることが出来る。
夢はどこまでも残酷だ。
夢を見た人間は目覚めとともに、その幸せが偽物だと知り、現実がいかにつまらないものかに気づかされる。
だから忘れる。
人が寝ている間に見た夢をいつまでも覚えておくことはできない訳は、夢の記憶は人が現実で生きて上で毒でしかないからだ。
しかし、そのシステムも完璧ではない。
稀に、その日見た夢を詳細に覚えていることもある。その夢の内容がその人にとってリアルであればあるほど、その可能性は高くなる。夢の中で覚えた胸の高鳴りは、目覚めた後もその人の心を蝕み続ける。
その日の夜、少年は夢を見た。
どこまでも優しくて、どこまでも残酷な夢を。
夢の中の少年は今よりも幼くて、まだ中学生だった。少年は夢の中で、たくさんの友人に囲まれて、ただひたすら笑っていた。
夢の中の少年はただただ幸せそうで、今が夢の中だなんてこれっぽっちも疑っていない。今が永遠に続くと、そう信じている。
しかし、夢は覚める。
どれだけ幸せな夢を見ていても、悪夢にうなされていたとしても、誰にでも平等に目覚めは訪れる。
目覚めはいつだって残酷だ。
*