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第2章 侵食

園山が教室を飛び出した後の、教室の空気は重かった。一時間目の授業が終わった瞬間、クラスメイト達は一斉にうわさ話を始める。誰もが突然の出来事に衝撃を隠せていなかった。

「ねえ、芽衣ちゃんは大丈夫なの?中原くん、何か知らない?」

クラスメイトの女子が数名近づいて、そう尋ねた。彼女たちは全員心配そうな顔をしている。園山は人当たりもよくて、クラス内からの人望は厚かった。

「悪い、俺も何も知らないんだ」

「そうなんだ。突然、どうしちゃんたんだろうね。心配だな……」

「ああ、何事もなければいいけどな。とりあえず、帰りにでも家に寄って、様子を見てくるよ」

「うん、よろしくね」

それだけ話すと女子は各々の席へと戻っていく。一瞬にして周りには、隣の席の拓也しかいなくなった。

「大変だな、おまえも」

本当にそう思っているのかいないのか、隣で拓也がそんなことを言う。

「まったくだよ、本当」

「おまえさ、マジで何も知らないの?」

拓也からの思わぬ質問に、ドキリとする。俺が知っていることなんて、ほんの少しだけで、なぜ園山が眠り続けているのかもわからない。

あるのは、ただ一つの仮説だけ。

いつになく真剣な目で見つめる拓也の目を見つめ返す。拓也になら、俺の知っていることや考えていることを全部、話してもいいかもしれない。

そう思った瞬間のことだった。

「だから、知らないって言ってんだろ!?」

突然、教室内に怒号が響いた。授業間休みで会話にあふれていたクラスは、一瞬にして静まり返った。

声のする方向を向いてみると、クラスメイトの男子二人がもめあっている。向かい合っているのは体格のいい男子と、メガネをかけた暗い印象の男子。体格のいい方の男子は普段から気性の荒いことで有名な大山で、もう一人の暗めの男子はクラス内で浮いた存在である山中卓だ。

大声を出していたのは、山中の方だった。

「やれやれ、またあいつらか」

呆れたように拓哉はつぶやく。あの二人がもめ事を起こすことは、何も珍しいことではない。大山はその素行の悪さでは有名だが、問題の引き金となるのは大山の方ではない。いつだってもめ事を起こすのは山中の方だ。

山中はいつも問題を起こしては、クラスメイトから疎まれている。山中は決して不良というわけではなく、素行が悪いわけでもない。ただあまりにも協調性に欠いていた。

「おい、山中。今度はどうしたんだよ」

見かねたクラスメイトが山中まで事情をききに行く。

「どうしたもこうしたもねえよ!僕の古文の教科書がないんだ。またおまえらがどこかに隠したんじゃないのか!」

「そんなことするわけねえだろ!濡れ衣だ!」

反論するように、大山が怒鳴る。

一度だけ、クラスの中心角の女子が、山中の素行に嫌気がさし、懲らしめるためと言って物を隠したことがあった。

けれど、そんなことで山中が懲りるはずもなく、それをきっかけにますます山中はクラスと対立するようになった。

「今回はどうなんだろな。クラスの様子見てる限り、マジで誰も隠してなさそうだけど」

「山中のやつがどこかに失くしただけだろ。どうせ。ったく。こんな態度じゃ、ますますクラスで孤立するだけだってのに」

拓也はひややかに言い放つ。冷たい言い方に聞こえるが、山中の日頃の態度を見ていれば仕方のないことに思える。

「てめえも、いい加減しつこいんだよ!」

大柄な大山が山中を突き飛ばす。よろけて倒れた山中に手を貸そうとした人は、誰一人いなかった。

教室はおかしな空気をはらんだまま、着実に一つ一つの授業を消化していく。授業の内容など、もはや少しも頭になんて入っていなかった。園山のことが気がかりで、頭の中はただそれだけだった。

そして、最後のホームルームが終わり、ようやく放課後が訪れる。帰りの挨拶を終えた瞬間、普段は一緒帰る拓也も放っておいて、急いで教室を飛び出した。

のんびりと廊下を歩く生徒たちの間をくぐりながら、一分一秒でも早くと帰り道を急ぐ。そう言えば、今朝もこうして道を急いでいたのを思い出す。だが、同じ道を走っているはずなのに、今朝よりもずっと心が重かった。

今回もまた15分ほどで園山の家に着いた。今度はもうためらうこともない。荒い息を整えることもしないままにチャイムを鳴らす。程なくして、『はい』とおばさんの声がスピーカーから聞こえてきた。

「あの、中原です。芽衣さんは……」

おばさんは少し黙ってから「ちょっと待っててね」と言ってインターフォンを切った。それと同時に家の中では足音が聞こえ、やがて家のドアからおばさんが顔を出した。

「すいません、わざわざ」

「ううん、いいのよ。芽衣のことを心配してくれるなら、私も嬉しいわ」

そう話すおばさんの顔色は優れない。それだけで、園山の調子が良くないことが分かってしまう。それでも、訊かないわけにはいかなかった。

「それで、あの、芽衣さんの調子はどうですか?」

言いきらないうちに、おばさんの顔は陰りを増す。

「芽衣は、もう寝ているわ。どんな夢を見ているのか、ずいぶんと幸せそうな顔をして眠っているわ」

もはや予感は確信に近い。何もなしに園山がこんなことになってしまうなんて、絶対にあり得る訳がない。園山をおかしくしたものの正体へ。確信へと迫るときがやって来た。

「一つだけ、教えてもらってもいいですか?」

「ええ、私にわかることなら」

覚悟は、もう出来ている。

「金曜日の夜、芽衣さんはドリームマシンを使いましたか?」

その時、おばさんの目の色が変わった。



「おっしゃあ!フルコンボ!」

日暮れ後のゲームセンターに、一人のチャラついた男の声が響く。男はいくつものボタンのついた不思議な形の台の前に立ち、得意げな顔をしていた。

「ずいぶん楽しそうだな」

「そりゃあ、フルコンボ決められたら爽快だよ!慎哉もやるか?」

「遠慮しとくよ。音ゲーとか、気付いたら金がなくなりそうだし。よっぽど、ゲームソフト買ったほうが安上がりな気がする」

「お金とか、そういう問題じゃないんだよ。わかってないなあ、慎哉は」

別に分かりたくもないけどと思っても、怒られそうだから言葉にはしない。

俺が高校に入って拓也と出会って、最初にゲームセンターに連れて行かれたときは、ここまで拓也のゲームの腕は高くなかったはずだ。いつの間に練習をしているのか、気がつけば高難度の譜面でフルコンボを決められるまで上達していた。

このレベルに上達すまで、いったいいくら使ったのか気になったが、なんとなくこの質問はタブーな気がした。

「なあ、拓也。どこかカラオケでも行こうぜ。もうそろそろゲーセンはいいだろ」

時計はすでに6時半を指し、いつもならそろそろお開きにしてもいい時間なのだが、今日はまだ帰る気分にならなかった。

結局、今日も園山は学校に顔を出していない。どうしようもできない歯がゆさと、得も言えぬ不安で、胸の中はぐしゃぐしゃだ。胸の中にある不安を吐き出したくて、思わずそんな提案をしてしまった。

「珍しいじゃん、慎哉のほうから誘ってくれるなんて。何時間でも付き合うぜ?」

こういう時に、気を遣わない友達がいてくれるのは心強い。

「ありがとよ。店はどこでもいいだろ?」

「ああ、もちろん」

ゲームセンターを出ようと、賑わう店内を歩く。何気なく後ろを振り向いた瞬間、人ごみの中明らかに浮いている人物が目に入った。

歳は俺たちと同じくらいか、それよりも一回り幼いくらいだろうか。めかしこんだような可愛らしい服を着た少女が、店の中で一人立っている。

その少女はゲームセンターにいながら、なにかゲームをするわけでもなく、何もせずにただ立っている。少女の目は真剣で、このゲームセンター全体をじっと見つめている。その目はまるで、ここでゲームをプレイしている人たちを観察しているようにも見えた。

「おい、行くならさっさと行こうぜ」

拓也が俺を急かそうと声を出した瞬間、その少女の瞳が拓也のほうを向く。

そして少女は、ニヤリと不気味な笑みを浮かべて見せた。



「さて、なんでもいれていいぜ」

もう何度目になるかわからないカラオケ店の個室に入ると、いつもなら真っ先に曲を入れるはずの拓也が、珍しく曲を入れる機械を譲ってきた。

「園山のことで、ずっとモヤモヤしてるんだろ?」

拓也には、俺の悩みなどお見通しのようだった。ふと、昨日の昼休みに園山の話をして、中途半端に終わってしまったことを思い出す。これ以上、黙っているのはもう無理だった。

「やっぱり、拓也はすげえな。俺のことなんて、全部お見通しってわけだ」

「別にすごくなんかねえよ。お前が分かり易すぎるんだ。それに、園山が突然おかしくなって、気にならないやつなんてこのクラスにいねえよ」

「ああ、そうだよな」

「だから、話してみろよ。俺でよければ、話くらいいくらだって聞くぜ」

拓也は気さくな笑顔を浮かべてそう語る。俺は曲を入れる機械をテーブルに置いて、少しだけ間をとった。

「この前の土曜、園山と二人で駅まで出かける約束をしたんだ。二人で出かけるなんて久しぶりだったらから、すごく楽しみだった。本当に、楽しみだったんだ……」

いざ語り始めると、言葉は流れるように口を出た。拓也はそれを、普段の不真面目さが嘘みたいに、真面目な顔をして聞いている。それだけで、俺の言葉は勢いを増す。

「だけど、約束の時間になっても園山は来なかった。何分待っても、何時間待ってもいっこうに来なくて、もちろんメールもしたし電話もしたけど、それに対する返事もない。明らかにおかしいと思って家に電話したら、園山はまだ寝ていますって。あいつに限って、こんなの絶対おかしいだろ?」

「確かに、らしくないな」

おそらく拓也は、土曜の出来事と一昨日の園山の奇行が、どうつながっていくのかを分かっていない。それでも俺は構わずに続ける。

「俺は、園山が約束を無視して寝続けてしまったことも、おとといの教室での異変も、どちらも原因は同じだと思ってる」

回りくどいことはせずに、核心へと迫る。

「園山は、ドリームマシンを使ったんだ」

「どうしてそう思うんだ?」

「――実際に確認したから。園山は確かに金曜の夜にドリームマシンを使い、今もまだ夢の中にいる」

拓也は驚いた反応を見せて話の続きを促す。

「園山がドリームマシンを買ったっていう話は、前に聞いてたんだ。その時から、なんとなく嫌な予感がしてた。そして土曜日、約束の時間になっても現れない園山を心配して家に電話をしたら、園山の母親から、まだ寝てるって言われたんだ。それも、すごく幸せそうな顔をして眠ってるって。だから昨日、家までお見舞いに行った時に、我慢できなくなって母親に聞いたんだ。園山はドリームマシンを使いましたかって。答えは、予想していた通りだった……」

やけに乾いた喉を潤すために、ワンドリンクで頼んだ烏龍茶を飲む。その間も拓也は、何かに悩むような難しい顔をして、じっと黙っている。いったい何を考えているのか、この表情からは読めなかった。

「なあ、拓也はどう思う?俺はこれからどうしたらいい?」

「悪いけど、それは俺の教えることじゃねえよ。どうすればいいかより、どうしたいかを考えた方がいいぜ」

拓也に言われて考える。俺はいったいどうしたいのか。自分のことだと言うのに、考えてもいっこうに答えは出ない。

今まで通りの園山にもう一度会いたい。それだけは間違いないはずなのに、園山を起こすことを躊躇している自分がいた。

思い浮かぶのは、昨日の放課後のこと。園山の家に訪ねた俺を、おばさんは家の中まで通してくれた。居間でしばらく話をした後、おばさんはおもむろに立ち上がり、「会っていく?」と尋ねた。その提案を二つ返事で受けて、案内されるままに家の階段を上った。あの階段を上るのは本当に久しぶりで、階段を一段上るたびに胸がキリキリと痛んだ。階段を上りきった先に、何か絶望的な光景が広がっているような気がしてならなかった。

階段を上りきると、おばさんは左手にあるドアをノックした。そこはずっと昔から、園山の部屋だった。少しの間待ってみてもノックの返事はなく、おばさんはドアを開けて部屋の中に入る。部屋の手前で立っていた俺に、「どうぞ」と言って中に入るように促した。まるで初めて訪れる場所のように、俺はゆっくりと歩を進め、部屋の中へと入っていった。

そこで目にしたものは、いつかのCMで見た物々しい見た目の機械と、その機械の中で眠る園山の姿。

丸一日たった今でも、あの時の感覚ははっきりと覚えている。部屋の中で眠る園山は優しい微笑みを浮かべ、不可侵の存在のように思えた。

あの怪しげな機械を破壊してでも、園山のことを無理やり起こすことだってできた。おばさんだって、できることならそうしたいはずだ。それでも、そうできないだけの神聖性が、あの光景の中にはあった。

「やっぱり分からねえよ。どうして園山はドリームマシンを使ったくらいで、あんなふうになっちまったんだ?ただ見たい夢が見られるってだけで、こんなにもおかしくなっちまうもんなのか?」

ドリームマシンの存在が園山を狂わせてしまったことは突き止めたが、どうしてここまでおかしくなってしまったのか、その理由が分からない。まるで、問題の答えを聞かされても、その過程に納得できない時の気持ち悪さのようだった。

夢とは、そこまで人をおかしくさせるものなのだろうか。

「そういえば、慎哉って確か夢を見たことが無いんだったよな?」

「ああ、そうだけど」

「人が寝ている間に見る夢っていうのはさ、まるで麻薬なんだ。夢の中で見たものはすべて美化されて、目覚めた時までその人の胸を締め付けるんだ」

普段のふざけた態度からは想像できないほどの真面目な顔。拓也にだって、胸を締め付けられるような夢を見た経験が、きっと何度もあるのだろう。それが夢を見る者にとっては当たり前の感覚なのか、夢を知らない俺には判断がつかなかった。

「だから、園山はあんなにおかしくなっちゃったのか?夢の内容が頭から離れなくなって、それで……」

「とういうより、夢で見た内容と現実の乖離じゃねえの?現実がつまらないほど、夢の中が幸せなほど、目が覚めた時の絶望は大きいし。どんな夢を見たのかは知らないけど、あの子は向上心高かったし、女の子は夢見がちだし、きっと後戻りできないほどの夢を見たんじゃねえの?」

現実が霞むほどの夢を、園山は手に入れてしまったのだろうか。

「一度夢におぼれた人間は、もう二度と引き上げられることはない。夢の中の体験は、時に現実のリアル感をも超えることもあるんだ。たぶん今の園山は、どっちが現実でどっちが夢かも、分からなくなってるんじゃないかな」

拓也の語る言葉はどれも俺には分からないことばかりだ。自分が夢を見られないことを劣等感に感じたことないし、今でも見たいとは思えない。理解できない異国の文化を語られているみたいな、そんな気分だ。

一昨日の朝に見せた園山の顔も、まさに夢と現実の区切りが分からなくなったような、そんな表情をしていた。だとすれば、あの日現実に気づかせてしまったのは、間違いなくこの俺だ。

「一昨日、待ち合わせに来なかったわけを園山に聞いたんだ。そうしたら、質問の意図が分からなかったような、そんな反応をしてたんだ。今にして思えば、あれが引き金だったのかもしれない。きっと園山は夢の中では約束を守ってて、俺があんな質問をしたせいで、現実との違いに気づかせてしまったのかもしれない」

「確かに、それなら突然園山がおかしくなったわけも納得がいくな。けど、遅かれ早かれ、どのみち園山はああなってたさ」

慰めるような拓也の言葉。別にあの時の質問を後悔しているわけではないが、拓也の気づかいは単純に嬉しかった。

「なあ、もう園山が元に戻ることはないのか?夢に溺れていくだけで、もう二度と現実には戻ってこられないのか?」

「そんなことまで俺が知るかよ。でも、メーカーだって、放っておかないんじゃねえの?被害者が園山だけなんてことはないだろうさ」

けれど、どれだけテレビを見てもドリームマシンが原因で事故が起こったなんてニュースは放映されていない。映し出されるのは、ついに何万台突破だとか、好評の声続々だとか、そんなのんきな宣伝ばかりだ。試しにメーカーのホームページに行ってみても、お詫びの欄の一つも見当たらない。こんな状態に陥っているのが、園山だけなのではないかと不安になる。

「夢なんて、誰も見なくて済めばいいのにな」

人は眠るたびに夢を見る。人が睡眠をとる限りは離れられないものなのに、そう考えずにはいられない。

そんなつぶやきが聞こえたのか、拓也は少し寂しげな顔をした。

俺には園山を起こせない。夢を見ることすら出来ない人間に、誰かの夢を妨げる資格なんてありはしないのだから。

「まあまあ、とりあえず今は吐き出そうぜ」

そう言って拓也はマイクを差し出した。いつの間に入れたのか、カラオケのスピーカーからは、今流行りの曲のアップテンポなメロディーが流れだす。

怒りとか悔しさとか不安とか、胸の中に渦巻くドロドロした感情をすべて吐き出すように、歌に込めてただ叫んだ。




「ホント、むかつく」

3時間目の授業中、後ろの席の方から不機嫌そうな女子生徒の声が聞こえてきた。3時間目の授業は英語で、教師に指名された山中卓が、英文を音読しているところだった。わざわざ振り向いて確認するまでもなく、この声の主は、以前に山中のノートを隠した犯人である森だろう。森はクラスの中心核であり、女子に対して大きな影響力を持っている。

「もういっぺん、しめてやろうか」

事もなげに、恐ろしいことをつぶやく声が聞こえる。教壇に立つ教師には聞こえないが、近くにいるクラスメイトには聞こえるくらいの、計算された声の大きさだった。

何気なく目を向けた先に、園山の机がある。今はそこに、誰の姿もない。教室の空気が、わずかにだが淀み始めている気がした。

3時間目の授業が終わり、4時間目の授業も終わる。授業を終えた教師は、足早に教室を去っていく。教師がドアを閉めた、その直後のことだった。

「ねえ、あんたさあ、いい加減にしてくんない?ずっと大目に見てきたけど、そろそろホントうざい」

冷ややかな森の声が教室に響く。それは決して大きな声ではなかったが、狭い教室に響かせるには十分だった。自体を察したクラスメイトは会話を止め、一触即発のムードに息を飲む。

「僕が何かした?悪いけど、あんたに恨まれるようなことをした覚えはないんだけど」

森の高圧的な態度にも怯むことはなく、むしろ挑発するような態度を見せる。こうしたどこか斜に構えた態度も、クラスの中で浮いていく原因の一つだろう。

「やっぱむかつく。あんまり調子に乗るなよ」

そう言うと森は、山中の机の上にあった水筒を逆さにして、中身を机の上にぶちまけた。置いてあったお弁当と教科書、そして制服のズボンにまで水がかかる。

空になった水筒を机に戻し、バカにするように鼻で笑う。

「お茶をこぼした、可哀想な山中くん。だっさ」

わざとらしいくらいに大きな声で森は言う。教師に告げ口をするなと、今の言葉の裏にある警告を、クラス中の誰もが感じ取ったはずだ。

「床汚れちゃうし、さっさと掃除しといてよね」

森はそれだけ言うと、満足したように自分の席へと戻っていく。山中は反論することもなく、ただ去っていく背中を睨みつづけているだけだった。

「ねえ、山中が先生にチクったらヤバくない?推薦くれないかも……」

自分の席へ戻った森へ、いつもつるんでいる女子生徒が声をかけた。それは決して、山中への仕打ちを責めるものではない。

「心配しすぎ。山中ってポンコツのくせに無駄にプライドだけは高いから、誰かに助けを求めるようなまねはしないって」

クラスメイトの目も気にせずに森は嘲笑う。馬鹿にしたような口ぶりだが、確かに山中の性格を言い当てているようにも思えた。少なくとも、教師に告げ口をしたり、誰かに助けを求めたりはしないだろう。

山中は表情を変えることもなく、淡々と自分の机に溜まった水を拭き始める。そんな山中の様子を見ても、誰ひとり手伝おうとする人はいなかった。

森は確かにクラスなの中で権力を持っている部類には入るが、誰もが言いなりになっているわけではない。つまり、クラスメイトの誰もが自分の意思で、山中を庇わないことを選択したのだろう。結局、最後まで誰も山中に声をかけることはなく、昼休みは終わりを告げた。

午後一番の授業は体育で、そこでも山中は一人だった。ストレッチの相手がいないことはいつものことだが、クラスメイトからの冷ややかな態度は、明らかに度を越していた。

そして、体育の授業を終えて教室に戻った時、山中の怒鳴り声が聞こえた。感情に任せたような声で、「制服がない」「確かにしまったはずだ」「お前らが盗んだんだ」と、断片的に言葉が聞こえてくる。

そんな山中の様子にクラスメイトは、憐れむでもなく、疎ましげな視線を送っている。その中に一人、明らかに他と反応が違う男がいた。ついこの間、山中と口論をしていた大山だ。彼一人だけが口角を上げ、愉快そうに笑っている。いったいいつ隠したのかは知らないが、犯人は明らかだった。

結局休み時間の間に制服は見つからず、山中はジャージのまま授業を受けることになった。制服が見つかったのは放課後の掃除の時間のこと、教室のゴミ箱の奥から見つけ出された。



放課後の帰り道、珍しく寄り道をしないで帰ることにした俺は、クラスメイトの飯河栞と二人で歩いていた。

飯河は園山の親友であり、家が近かったこともあって、何度か3人で下校したことがあった。飯河と知り合ったのは中学校生の時のことで、当時は今よりも話すことが多かったように思える。

飯河は園山に似て優等生で、テストの成績はいつも上位だった。反対に、俺は高校に入ってから次第に不真面目になっていき、同じ教室にいても話すことも少なくなっていた。

飯河と二人で下校をするのは、高校に入ってから初めてかもしれない。飯河と話をするときは、間にはいつも必ず園山がいた。

疎遠になったはずの俺たちがこうして二人で下校をしているのは、園山の異変がきっかけだ。俺たちの関係は、いつだって園山を起点にして構築される。特に園山のことを話題にだすことはなかったが、お互いに親友を失って、慰め合える相手が欲しかった。

「ねえ中原くん、どうしよう。私たちのクラス、おかしくなっちゃうのかな……?」

「そんなの、俺だってわかんないよ。けど、今回の主犯格は森とかと一部の男子だけじゃないのか?そりゃあ、みんなが山中のことを快く思ってないのは確かだけどさ」

「こんなのほとんどいじめだよ。なんとなくだけど、このままだといじめがますます悪化していっちゃいそうな気がする。こんな時、芽衣ちゃんがいてくれたらな」

「別にあいつがいたって変わらないだろ。やめようぜ、そういうこと言うの」

「……ごめん」

しばらくの間、気まずい沈黙が流れる。別に園山の話題が禁句になっているわけではないが、それでもこのタイミングで名前を出さないでほしかった。

園山がいても変わらないと言うのはただの強がりで、園山ならきっと今回の問題も、大事にならないように収めてくれるだろう。けれど、そんなことは間違っても口にしたりしない。

「それより、女子の方はどうなんだよ。森が率先してやってるけど、無視するようにとか言われたりしてんのか?」

「私が聞いてないだけかもだけど、別にそういうのはないかな。でも、暗黙の了解みたいなのはやっぱり……」

暗黙の了解とは、これ以上ないほどに今のクラスの状態を表した言葉だろう。誰かに直接言われた訳ではない。けれども、クラス中の誰もが山中に関わってはいけないと察している。

「女子も同じような感じか。男子の方も、誰も話題にこそしないけど、やっぱり嫌な雰囲気だよ」

「もうやだよ。私の好きだったクラスが、こんな風になっちゃうのは……」

飯河は昔から気が強いタイプではなく、クラスでは園山の隣にいることが多かった。拠り所であった親友と、落ち着ける場所だったはずのクラスを失った飯河の苦しみは、想像に余りある。どうすればその苦しみを和らげてあげることができるのか、ただそれだけを考えた。

「そうだよな。やっぱり、クラス内でいじめが起こるなんて、嫌だよな」

いじめは絶対にダメだから、それを止めてやろうなんて大層な精神は持ち合わせていない。それでも、クラス内で誰かがいじめられているというのは気分のいいものではない。それが原因で自分の友人が苦しんでいるのならなおさらだ。

「みんな何も言わないけど、きっと心の中では同じにように思ってくれてるよね?」

「ああ。うちのクラスはいいやつばっかりだし、きっと大丈夫だろ。ぎくしゃくしてるのも今だけで、ほとぼりが冷めたら元に戻るさ」

「うん、きっとそうだよね。また芽衣ちゃんも学校に戻ってきて、クラスだって元に戻るよね」

当たり前だったはずの日常を飯河は願う。それがどれほどに難しい願いなのかは、誰にも分らない。

「今日は、中原くんと一緒に帰れて良かったな。こんなこと話せるの、中原くんしかいないし」

そう言って飯河は、今日始めての笑顔を見せた。

飯河のためにも、明日山中に話しかけてみよう。その笑顔を見ていたら、そう思えた。園山がまた学校に顔を出してくれるのはいつになるか分からないが、その時までに元通りのクラスに戻っていたらいい。

やがてお互いの家に近づいて、それぞれの帰り道が別れる場所に差し掛かる。隣を見ると、飯河の顔は、また不安そうな表情へ変わっていた。

大丈夫。そう声をかけようとした瞬間、一人の少女の姿が目に入った。分かれ道の先にある、飯河の帰り道の方角に、いつかゲームセンターで見かけた不思議な少女が立っていた。少女は以前と同じように、ただ何もせずにただ立っている。

「中原くんは、向こうだったよね?」

気が付けば分かれ道までたどり着き、飯河は足を止めていた。

「ああ。また、明日だな」

「そうだね。久しぶりにいろいろと話せて嬉しかったよ。話聞いてくれて、ありがとね」

「気にすんなよ。俺だって一人で帰るのは嫌だったしさ」

「ありがと。じゃあね」

「おう、じゃあな」

俺たちは別れ、それぞれの帰り道を進む。ここまでくれば、お互いの家はすぐそこだ。不思議な少女の待つ道に向かって、飯河は歩き出す。俺はその背中を見送ったあと、踵を返して自分の道へ歩き出す。


どこかで、少女が笑った気がした。



6

「おっはよー」

始業を告げるチャイムが鳴る5分前、クラスの中心核である森が、朝の挨拶とともに教室に入ってきた。数人の友人をひきつれて、堂々とした足取りで自分の席に向かう。

「邪魔」

その時、道の途中にいた山中を突き飛ばした。山中は耐えきれずによろけて、森はそれを、まるで虫けらでも見るかのような冷たい目で見降ろした。

それだけで、クラスの空気が一気に冷え込んでいくのが分かる。見てみぬふりをするものもいれば、露骨に目を背けるものもいる。

気なって飯河のいる席のほうを見てみると、顔を下げてうつむいているのが目に入った。飯河にとって今のクラスは、直視できないほどに歪んだものに見えるのだろうか。

異常をきたした時計の針は、加速度を上げて狂い続けていく。ずれてしまった時計の針は、もう自力では元に戻れない。

やがて教師が現れて、朝のホームルームが始まる。午前中の授業の間、教室を包み込む空気は冷ややかなままだった。

園山のためにも、飯河のためにも、どうにかしなくてはいけないという想いが強まっていた。

午前中の授業が終わり、お昼休みの時間。いつものように一人でお昼を食べている山中を横目に見ながら、拓也とご飯を食べるために席を合わせる。周りのクラスメイトに聞こえないように顔を近づけて、考えていることを伝える。

「なあ、拓也。山中のことだけど、俺たちでどうにかできないかな」

「どうにかってなんだよ。俺らでいじめを止めさせようっていうのか?」

「ああ。きっとみんな乗り気じゃないし、誰か一人が止めれば他のみんなもやめてくれると思うんだ」

拓也は渋い顔をして、「うーん」と唸る。悩んだ様子を見せているが、拓也ならきっと、俺の考えを理解してくれる確信があった。

「そんなにうまくいくかよ。なにより、あいつ自身が助けを欲しているようには見えないけど?」

「それは、確かにそうだけどさ」

山中はプライドが高く、誰にも助けを求めようとしてこなかった。助けようと手を差し伸べても、それをありがたく思うことはないだろう。けれどそれは、いじめられている人間に手を貸さない理由になりはしないはずだ。

「それでも俺は、やっぱり手を差し伸べたい。山中のためだけじゃなくて、このクラスのみんなのためにも。恩着せがましいかな?」

「いいんじゃねえの?それでこそ俺の親友だ。手伝ってやるよ」

そう言って拓也は微笑んだ。最高の協力者の存在に頼もしさを覚える。俺と拓也の二人ならなんだってできるようにさえ思えた。

「そうだ。飯河にも協力してもらわないと」

クラスに働きかけるなら、一人でも仲間は多い方がいい。飯河なら絶対に協力してくれるという確証がある。そしてなにより、女子に対して働きかけられる仲間が欲しい。いじめの主犯になっている森を抑えるには、女子をまとめる必要がある。気の弱い飯河がどこまでできるかは分からないが、それでも純粋に飯河にも仲間になってほしかった。

お昼ご飯を食べ終えて、飯河の席へ向かう。一番端の窓際の席、まぶしいくらいの光が差し込む場所に飯河の席はある。

だが、光を浴びるその椅子に、本来いるべき主人の姿はなかった。

「あれ、あいつ学食だったっけ?」

「栞ちゃんならもう帰ったよ?具合が悪いのか、お昼前には早退してたから、もうそろそろ家じゃないかな」

飯河の隣の席の女子が、俺のつぶやきを聞いていたのか親切に教えてくれる。けれど、教えてくれたその内容は、そう簡単に受け入れられるものではなかった。

胃のあたりが、強く締め付けられるような感覚がした。

「具合悪そうだったのか?」

「うーん、わかんない。でも、朝からなんだか様子はおかしかったかな。なんだかずとっとうつむいてて、あと独り言とか多かった気もする」

同じような状況を、俺たちは知っている。飯河のことを教えてくれたクラスメイトも、不安そうに眉を下げている。きっと彼女も俺と同じことを考えているはずだ。

「そっか。教えてくれてありがとな」

それでも余計なことは口にせず、おとなしく自分の席へ戻る。核心のないことを口にしても仕方がない。もう家に帰ってしまったと言うのなら、園山の時と同じで、俺にはもうどうすることもできないのだから。

それならせめて、今できることをやるだけだ。

「拓也、行こうぜ」

自分の席で待っていた拓也に告げる。今の一言だけでどこまで事情を察したのかは分分からないが、拓也は静かに立ち上がった。

ちょうどその時、廊下から方から“ドカッ”と大きな鈍い音が聞こえた。次に聞こえてきたのは、女子生徒の短い悲鳴。クラス中の誰もが音のした廊下の方へと振り向いた。何事かとざわめきが広がる。

様子を気にしたやじ馬たちが、ぞくぞくと廊下へ飛び出していく。気になった俺たちも、やじ馬にまぎれて教室の外へ飛び出した。

廊下で繰り広げられていたのは、よくある普通の喧嘩だった。男子生徒が、誰か他の男子生徒を殴ったようだ。別にただの喧嘩なら気にすることもないと思い、教室へ戻ろうとした。

けれど、廊下の隅で座っている男の顔を見て足を止める。殴られて廊下の壁に倒れ掛かっているのは、まぎれもない山中だった。

やじ馬からの同情するような目と、それ以上に蔑むような目を向けられながら、殴った相手の方をにらんでいる。

よく見れば山中を殴った男の方も、顔にあざを作っている。

「ちっ!」

山中を殴った男は、あたりを見回して一度舌打ちをし、見物人が増えたことに怖気づいたのか、どこかに去って行った。取り残されたのは、やじ馬と山中だけ。

男がいなくなると、そこかしこで噂話が始まった。事実は分からないが、その噂の内容はどれも、山中が最初に殴りかかったというものだった。

男の顔にもあざがあったことを考えれば、やはりそれが真実なのかもしれない。けれど、山中がなぜ男を殴ったのか、その理由まではわからない。

大きな騒ぎになる前に済んだからおかげか、教師はいっこうにやって来ない。次第に野次馬は興味を失って、徐々に辺りの人だかりは減っていった。

やがて廊下からは誰もいなくなり、山中だけが取り残された。結局、倒れている山中に声を掛ける人は、誰一人いなかった。

「おい。いつまで見てんだよ。見せもんじゃねえぞ」

「別に見てない。ほら、立てよ」

いつまでも立ち上がらない山中に手を差し出す。けれど、その手はすぐにはたかれ拒絶された。

「頼むから、ほっといてくれないか?もう授業始まるぞ?さっさと消えろよ」

時計はもう、授業開始の3分前を指している。廊下から人がいなくなったのは、どうやらそのせいみたいだ。

「ちっ」

山中は何かに気づいたようなそぶりを見せた後、舌打ちをして慌てて廊下の隅へ走って行った。山中が向かっていった方向と逆の方を見てみると、遠くから次の授業の準備を持った教師が歩いてきているのが見えた。俺と拓也も教師に気づかれる前に、山中の後を追う。

一瞬だけ山中の姿を見失ったが、すぐに廊下からは死角になっている階段の隅に立っているのを見つけた。追いかけてきた俺たちを視認すると、山中は苛立たし気に顔をゆがめた。

「おい。なんでついてくるんだよ。今から戻っても間に合わないぞ」

「いやあ、どうせ俺らは遅刻常習犯だし、怒られ慣れてるからさ」

「いや、一緒にするな。お前ほどは遅刻してないから」

そんなことを気にしている場合ではないと分かっていたが、それでも突っ込まずにはいられない。拓也のような本当のサボり魔と一緒にされるのは不名誉だ。

「それで?おまえらが僕を追いかけてくる理由がわからないんだけど。僕のみじめな姿を見て笑いたいのか?」

「そんなわけないだろ。ただ、山中のことが心配だったから」

素直に自分の思いを告げる。プライドを傷つけてしまう可能性もあったが、それでも今は嘘をつく場面じゃない。

同情されたと思った山中は、確実に怒るだろう。けれど、返ってきた反応は意外にも平静だった。

「そっかよ。そんなやつが、いるとは思わなかったな」

気のせいかもしれないが、顔も少しだけ穏やかになって、警戒心のようなものが和らいだように見えた。

「そんなことないと思うぜ。言い出せないだけで、みんな卓のことは心配してるって!」

こういう時、拓也の明るさは頼りになる。根拠のない励ましだけれど、山中が少しでもクラスメイトに心を開いてくれたらいい。

「嘘の慰めなんてやめろよ。クラスの連中はみんな、僕のことを疎ましく思ってる。その証拠に、誰一人僕のことを助けてくれやしないじゃないか」

「それはお前が助けを求めようとしないからだろ?さっきだって、あそこで先生から隠れないで相談すればよかったのに」

「できるかよ、そんなこと。おまえだって、噂は聞こえてただろ?」

「……噂?」

一瞬なんのことか考えた後、すぐに一つの考えが浮かんだ。

「まさか、本当にお前の方から殴ったのか?」

山中は小さくうなずいた。予想はしていたが、できることなら嘘であってほしかった。このうわさが広まれば、ますますクラスでの印象が悪くなってしまう。隣では拓也が頭を抱えている。

「幻滅したか?あんたらが助けようとしている人間は、こんなしょうもないクズなんだよ」

山中はそう言うって自嘲する。

「けど、何か理由があったんだろ?そりゃあ、確かに暴力は良くないけど、どうしたって許せないことの一つや二つ誰だってあるだろうさ」

せめてなにか強い理由でもあればと思い、祈るような気持ちで訊く。けれど、帰ってきた返事は期待していたものとは離れていた。

「別に、ただちょっとバカにされただけだよ。いい加減鬱憤が溜まってたからさ、ついつい手が出ちゃったんだ」

山中は少しだけ赤くなった右手をさする。感情に任せて殴ってしまったことに、反省する感情があったのかもしれない。

「自分から殴っておいて、相談するのはないだろ?そんなの自首しに行くようなもんじゃないか。仮に向こうが最初に手を出してきたとしても、絶対に教師に相談したりはしないけどさ」

山中は絶対に誰かに対して弱みを見せない。その強さが、結果的にいじめのターゲットにしやすくしてしまっている。

「なあ。俺や拓也、それに先生でも誰でもいいからさ。もう少し周りを頼ることをしろよ。今回のことだって、もっと前に誰かに相談してたら、そもそも挑発されることもなかったかもしれないし」

「ああ。一人で乗り切る強さも大事だけど、頼るところは頼らねえと」

俺の言葉に拓也も続く。強がりだけでもやめてもらおうと訴えかけるが、想いが届いているかは分からない。

「悪いけど、お前らなんかに心配されなくても僕は平気だから。本当に、余計なお世話なんだよ」

また見え透いた強がりを言う。けれど、そんな頑なな心をほどく方法を俺たちは知らない。

「じゃあな。もういい加減に鬱陶しいから、おまえら早く授業行けよ」

「おい、卓はどうするんだよ。どうせなら3人一緒の方が教室入りやすいぞ?」

「いいよ別に、僕は5時間目の間は適当に時間つぶすから。顔のあざだってまだ治ってないし」

「おい!」

去っていこうとする山中の手を、拓也が慌ててつかむ。山中は一瞬つかまれた手首を睨んだ後、無理矢理拓也の手を振りほどいた。

「それと、もう二度と僕に関わるのはやめてくれ。たぶんきっと、お互いのためにならないと思うから」

そう言って去っていく山中に、俺も拓也もこれ以上声をかけることはできなかった。俺たちの最初の説得は、見事に失敗に終わった。

どうすることもできなくなった俺たちは、おとなしく教室に戻り、途中から授業を受けた。運のいいことに、遅刻して教室に入っても冷ややかな視線を受けるだけで、特にお咎めはなかった。

やがて5時間目は終わり6時間目の時間がきたが、結局山中がクラスに戻ってくることはなかった。



7

「それ、楽しいか?」

放課後のゲームセンターで、ノリノリになりながらリズムに合わせてボタンを叩く拓也に問いかける。

「楽しいぜー。って、前も言わなかったか?」

「……言われたかも」

いちいち拓也と交わした会話なんて覚えていないが、以前も似たようなことを聞いた記憶がある。今まではゲームセンターで遊ぶ拓也の姿を見て、楽しそうだなんて思ったことはなかったが、なぜだか今日はいつもと違う気分になった。

「それ、俺でもできるかな」

「うーん、これは上級者向けだから別のにしよう。光った場所を叩くだけの簡単なのもあるんだぜ?」

「じゃあ、それやる」

ちょうど空いているうちに、さっそく二人で百円玉を投入する。自分でもガラじゃないことをしているのは分かっていたけれど、それでもやめる気はない。

ジャラーンと機械音が鳴り、ゲームが起動する。慣れないゲームの操作に戸惑いつつも、拓也の指導を受けながら進めていく。適当に流行りのJ‐POP選択すると、音とともにボタンが光り始めた。

俺たちは必死に光るボタンを目で追って、もぐらたたきのようにボタンを叩く。最初は雑談をしながらプレイしていたが、次第に慣れてくると無心でプレイをするようになっていった。

後ろで待っている人もいないために2回目3回目とプレイしていると、なぜだかいろいろなものが見えてくる。

拓也が普段どんなことを考えながらゲームをしているのか。思考を放棄した人間がたどり着く光景。きっとここは、何かを諦めたものだけがたどり着く世界。

「すごいな、最初よりめちゃくちゃスコア上がってるじゃん!意外に才能あるのかもしれないぜ?」

「そんなどうでもいい才能あっても、嬉しくないんだけどな」

五百円くらいは使っただろうか。今更ながらに、少しだけ後悔をする。たった数回プレイをしただけで、癖になりそうな自分がいて怖くなった。

「拓也はさ、初めて会った時よりだいぶ上手くなってるけど、中学時代はやってなかったのか?」

「やってないよ。俺がゲーセンに通い始めたのは、高校に入学してからだから」

「ふうん」

高校に入っていきなりゲームセンターに通い始めるなんて、いわゆる高校デビューだろうか。もっと他に良いデビュー方法があっただろうと言いたくなる。

「慎哉もゲーセンの魅力に気付いたか?」

「そんなわけあるかよ。ただ、暇つぶし程度にやるならいいかもな」

楽しくなかったと言えば嘘になるが、それでもゲーセン通いになるつもりはない。はまったら抜け出せなくなるのは、目に見えていた。

「ま、それが賢明だな。慎哉には、俺みたいになってほしくないしな……とか言いつつ、こうして俺に付き合わせてるわけだけど」

「別にいいよ。見てるだけだって暇つぶしにはなるし」

時刻は午後の7時を回った。特に決めたわけではないが、7時を過ぎるとお開きになる。今日もいつもと同じように、お互い帰りの支度を始めた。

夕方のゲームセンターは様々な感情を抱えた人たちで溢れている。大げさな笑い声を上げながらプリクラを撮る女子グループ。クレーンゲームの結果に一喜一憂する若者グループ。レースゲームに白熱する男子学生。無表情でコインを投入する大人たち。機械の音と笑い声で騒がしい場所に、また“彼女”はいた。

初めてこの場所で見かけた時と同じ格好をして、彼女はまたもじっと立っていた。嫌でも目立つ格好のせいか、彼女を見かけるのはこれでもう3回目だ。偶然とは分かっていながらも、彼女の不思議な雰囲気も相まって、少しだけ不気味に感じる。

いつも彼女は何をするわけでもなく、ただじっと立っている。冷たい瞳だけを動かして、今日も辺りの様子を眺めている。

「なあ、卓のことどうする?当然、諦めたりしないよな?」

何の脈絡もなしに突然、拓也はそんなことを言う。

「諦めたくはないよ。ここでやめたら、うちのクラスは変わらないし」

今日山中と話して、ますますこのままにしたくないという気持ちが強まった。けれどもそれと同時に、厳しい現状も思い知った。諦めの感情が生まれていないと言えば嘘になる。

「めげずに、明日も頑張ろうぜ。そう簡単にいかないのなんて分かってことだ」

「ああ、そうだな。根気強くやっていくしかないよな」

拓也に相談をしておいて、本当によかったと思う。拓也がいなければ、とっくに心が折れていたに違いない。

ふと気になって例の少女の方を向くと、彼女は姿勢を変えずに、こちらの方を見つめていた。俺たちはそんな彼女に見送られるようにして、ゲームセンターを後にした。

外に出ると、あたりはもう真っ暗だった。夜の駅前はせわしなく生きる人たちであふれている。誰もが退屈な現実にあくびをしながら生きていた。

拓也と別れて、暗い夜道を一人歩く。今日は雲が厚いのか、星の数は普段よりもずっと少ない。

ポケットからスマートフォンを取り出して、メールの画面を呼び出した。宛先には飯河の名前。今日のことを心配する内容のメールを作り、送信ボタンを押す。何年ぶりかの、久しぶりのメールだった。

しばらくの間ポケットに入れたスマートフォンを意識しながら歩いたが、それが震えることはなかった。やがて昨日の分かれ道にたどり着き、飯河の家のある方を見る。今から家に尋ねれば、早退の原因も分かるだろう。だが、俺はまた何もできないまま、自分の家の方へ歩いていた。

せめてメールの返事が返ってくればいいと期待をしても、結局返事が来ることはなかった。翌日一縷の望みを抱きながら学校へ行ってみても、そこに望んだ人物の姿は見当たらない。朝の授業が始まるまでの少しの間、頬づえをつきながら、まるでテレビのニュースを見るような気持ちで、クラスの光景を眺めていた。


8

昼休み、いつものようにお弁当を取り出して机に置くと、拓也はおもむろに、親指を使って方角を指した。その指の先をたどると、弁当箱を取り出して、一人でお昼を食べようとする山中の姿があった。

指された指の意味を察して小さくうなずく。それぞれのお弁当を持って、山中の席へと向かった。

「よっ。一緒に飯くおーぜ」

お弁当を広げちょうど食べ始めようとする山中に、拓也は自然な調子で声をかけた。

「ちっ、また来たのかよ。もう僕に関わるなって言ったはずだけど?」

構うなと警告したはずの相手に声をかけられ、不快感を隠そうともしない。拓也は動じずにヘラヘラと笑っているが、険悪な空気はクラス中に広がっていく。昼休みで気の緩んだ教室に、一瞬にして緊張が走った。

「別に良いだろ。誰に話しかけるのだって、俺の自由だ」

「こっちは嫌だって言ってるんだから、その意思を尊重して欲しいもんだな」

クラス中の視線が一気に向けられる。俺たちに同情的なものもあれば、面倒事を起こすなと言いたげな冷ややかな目もある。けれど、声をかけてしまった以上、もう後戻りはできない。

「別に話をするくらいいいじゃんかよ。たまには一緒に飯食おうぜ」

「はあ?本当迷惑だから、早く自分の席に戻れよ」

「まあまあ、そう言うなって」

拓也は鬱陶しげにあしらう山中を、ものともせずに立ち向かう。畳みかけるように話すものだから、一緒に声をかけたはずの俺は、後ろでただ黙って見ていることしかできない。いじめの主犯格の一人である森は、そんな様子を見て、さぞ愉快そうに笑った。

「嫌がってるんだし、ほっといてあげなよ。本人の意思をそんちょーしてあげるのが、優しさってもんだと思うけど?」

「なんだと?優しさがどうとか、おまえにだけは言われたくねえな」

挑発する森に拓也は敵意を隠さない。二人は睨み合い、教室に漂う緊張感は増していく。

「ふん、馬鹿みたい。こんなくだらない男のためにムキになっちゃってさ。いじめられっ子を助けて、自己満にでも浸りたいの?」

「別にそんな理由じゃねえよ。人を貶めることしかできないおまえには、分からないだろうけどさ」

「何よ、まるで人を悪人みたいに。私はただ、クラスの和を乱す異分子を制裁してるだけ。恨まれる覚えはないんだけど?」

始めはからかっていただけの森も、次第に熱を増していく。二人の好戦的な姿勢を見て、森の周りには数人の仲間が集まってくる。

「拓也、今はやめておこう。こんなことしても何の意味もないよ」

不利な状況を悟り、今は引くように諭したが、それでも拓也は引こうとしない。

ヒビの入ったガラスみたいに、今にも壊れてしまいそうなほどの冷たい空気が、辺りを包み込んでいく。

「言ったよね?私はこのクラスの異分子を制裁してるって。こいつに加担するっていうなら、あんたらも同罪だからね?」

一層凄みを増して森は言う。だが、そんな脅しをかけられたところで、拓也がひるむことはない。今にもその口から挑発の言葉が出てこようとした時、ずっと黙っていた山中が口を開いた。

「もうほっとけよ。そう言うのが、一番迷惑なんだ。それとも、ただ喧嘩がしたいだけなら他所でやってくれ」

静かに放たれたその声に、拓也は言葉を失った。俺たちのしていることは、ただ山中のプライドを傷つけるだけだった。それが分かってしまった今、これ以上かける言葉なんてどこにもない。「ごめん」と一言謝って、俺たちは自分の席に帰る。

「ばっかみたい」

後ろでは森とその仲間が笑う声がする。それに抗議することもできず、きまり悪くただ黙っていることしかできない。

少しでもクラスを変えたいと思って行動した結果がこの結末だ。クラスは良くなるどころか荒れるばかりで、これ以上どうしたらいいのかも分からない。なんとなく、こうなる結末が分かっていたような気がした。

クラスには空席が二つ。山中は広げたお昼を食べようともせず、じっとうつむいている。

現実は、こうも簡単に嫌な方向に転がっていく。



9

放課後のホームルーム後の教室は、自由な空気に満ちている。あるものは教室に残り、あるものは部活に向かう。誰もが一日の授業が終わった解放感に浸っていた。

けれど、俺たちはそんな解放感に浸っている場合ではない。荷物を詰め込み、帰りの支度を済ませて、真っ先に山中のもとに向かう。たとえ嫌がられたとしても、もう一度しっかりと謝っておきたい。しかし、もうそこに山中の姿はなかった。

確かに放課後のホームルームが始まる直前までは自分の席にいたはずで、今こうしていなくなっていると言うことは、慌ててホームルームの前に教室を抜け出していたと言うことだ。そこまでしなくてはいけなかった理由を考えた時、そんなものは俺たち以外にいなかった。

「やっぱり、俺たちは余計なことしてるかな?嫌がりながらも、心のどこかでは助けを望んでるんじゃないかって思ってたけど、違ったかな」

拓也にしては珍しく、自信がなさそうに弱音を吐く。昼間に山中から言われた言葉が、今でも胸の奥に刺さっている。望む望まないにかかわらず、確かに俺たちは山中のプライドを傷つけた。

けれどだからこそ、このままでいいわけがない。

「追いかけよう」

「正気かよ。今から走っても間に合うかわかんねえし、それに、行っても嫌な思いさせるだけかもだぞ?」

「それでも、行かなきゃ後悔する」

「わかったよ。それで、道は分かるのか?」

「途中までなら」

「十分だな」

「ああ!」

俺のその声を合図に、二人一斉に教室を飛び出した。授業終わりの生徒でにぎわう廊下を、まるで障害物競走をするように俺たちはするすると駆け抜けていく。

肺の中の空気が足りなくなって、口の中が唾でドロドロになっても、それでもひたすら無言で走り続けた。学校を出て、道路を渡る。そこでようやく、求めていた背中を見つけた。

その背中を俺は見たことがあった。あの日分かれ道で見送った飯河の背中。実際よりもずっと小さく見えるその背中に、俺は思わず叫んでいた。

「山中ああ!!」

きっと完全に俺たちのことを撒いたと思っていたのだろう。振り返った山中の顔は驚きの色に染まっていた。

「こんなところまで追いかけてくるなんて、むかつくのも通り越して感心するな」

「そりゃどうも」

息が上がっているせいで、上手く言葉が出てこない。山中に追いつくのはあくまで前提で、本当に大事なのはこれからだ。少し呼吸を落ち着けた後、話をするために一歩前に出る。

まずは昼のことを謝ろうとしたその時、山中の身体の影に隠れていた一人の人物が目に入ってきた。

その人物の顔を俺は知っている。知っているのはあくまで顔だけで、経歴も知らなければ名前さえ知らない。

何度か街で見かけた、おかしな恰好をした少女――彼女が山中のすぐ後ろでじっと立っていた。二人は一緒にいたのだろうか。

「なあ、山中。そいつは知り合いなのか?」

驚きのあまり、予定していたものとは違う言葉が口を出ていた。

「違うよ。今ここで声をかけられたんだ。そういうわけで、あんたらと話してる暇はないから、もう帰ってくれないか」

そう言って山中は、俺たちのことを追い出そうとする。その言葉が本当かどうかは分からないが、ここで引き下がるわけにはいかない。

その時、声が聞こえた。

「……いえ」

その声が目の前にいる少女のものだと気付くのに、少し時間がかかった。

「あなたたちも、一緒にお話ししませんか?」

少女の声は、透き通るようでいて、しっかりと芯の通った凛とした響きも含んでいる。確かに綺麗な声質なのだが、どこか不安にさせるような響きを持っていた。

「おい、俺たちはそいつに用があるんだ。悪いけど、ちょっと後にしてくれないか?」

拓也は不思議な少女を相手にしても臆することはない。

「最初にこの人と話していたのは私の方なのですが……それに私の話は、あなたにとっても悪い話ではないと思いますよ?」

「なに……?」

すると、少女は突然一人でどこかへ向かって歩き始めた。用があったのは山中の方で、こんな少女は放っておいてもいいはずなのに、どうしてかその背中についていってしまった。

数分間の間、少女は黙々と歩き続けた。どこに案内されているのかも知らずに、俺たちはただ黙ってその後ろを歩き続ける。

いい加減に我慢の限界になって声をかけようとしたとき、ようやく彼女は立ち止まって、後ろにいる俺たちの方を振り向いた。その顔はほんの少し、笑っているようにも見えた。

「お待たせしました。到着ですよ」

辺りを見回してみても、これといった目的地になりそうなものは無い。ただからかわれただけなのではないかと、不安になってくる。

「こんなところまで連れてきて、なにがしたいんだよ」

拓也は警戒心を崩さない。山中は俺たちが来るまでにどんな話をしたのかは知らないが、今の状況に身をゆだねているように見える。

「夢を……見せてあげようと思って」

「夢……?」

“夢”と聞いた瞬間、背筋を冷たいものが這いずり回った。こんなところで、またその言葉を聞くことになるとは思ってもみなかった。

「好きな夢を、なんでもあなたたちに見せてあげましょう。あなたたちが望むものなら、なんだって」

「それって……」

ドリームマシンと、全く同じだ。拓也にもそれが分かったのだろう。一瞬だけ目の色が変わったのを、俺は見逃さなかった。

「うん。ドリームマシンですよ?あなたたちに貸してあげるって言ってるんです」

「なにが目的だ?なんでわざわざ赤の他人に、安くもない自分の機械を貸そうだなんてするんだよ」

信じられないと言いたげに拓也が言う。

「単なるボランティア、ですよ」

ゲームセンターや通学路で、なぜ彼女はなにもせずに立っていたのか、ずっと分からなかった。ひょっとしたら、ドリームマシンを貸し与える相手を見定めていたのではないだろうか。そんなでたらめな考えが頭を巡る。

「もういいだろ。使いたくない相手に無理に貸す必要もないじゃないか。いいから、早く俺に夢を見させてくれよ。もう、この現実にはいたくない」

じっと黙って聞いた山中が、しびれをきたしたように少女を急かす。俺たちが来たときにはもう、山中は少女の口車に乗せられた後だったのだ。

「山中……」

今まで俺たちに見せてきた、毅然として憮然とした態度が全部嘘みたいに思えるほど、今の山中はあまりにも弱弱しかった。“この現実にはいたくない”その言葉はきっと、何の嘘も誇張もない、紛れもない心からの願いなのだろう。

「そうですね。私としては、そこの二人も救ってあげたいのだけど、まずは助けを求めている人から救ってあげるのが道理ですよね」

「ちょっと待てよ!そんなふざけた機械を使って、救うも何もないだろ!」

「救いですよ。その人の心は確かに楽になるのだから」

「そんなの、まがい物の幸せだろ!?麻薬みたいなもんじゃないか……!」

拓也は必死に少女に食らいつく。けれど、どうしてかその言葉は、全部自分に言い聞かせるために放たれているようにしか聞こえない。

「人の見る夢がニセモノだって、誰が決めたんですか?時に夢は現実以上のリアルを伴っているんです。夢の中にいるときは、確かにそっちが現実なんですよ」

俺は、そんな拓也の様子を見ながらあの日のことを思い出す。あの時も今と同じように、少女は道の真ん中に立っていた。

「なあ、飯河栞っていう女の子を知ってるか?ほんの2,3日前に、おまえはその子にも夢を見せなかったか?」

恐る恐る問いかける。どちらの答えを期待していたわけでもないが、訊かずにはいられなかった。そんな俺の覚悟の質問にも、少女はまるでなんでもないことのように、あっけらかんと答えてみせた。

「うん、見せてあげましたよ。それがなにか?」

あまりにも大したこともないように、いや、きっと彼女にとっては大したことではないのだろう。

あの日、あの分かれ道で、飯河のことを最後まで見送っておくべきだった。この少女の異常性にもっと早く気が付いていれば、飯河が夢の世界へと堕ちてしまうこともなかったかもしれない。そんな反省ばかりが頭に浮かぶ。それでも、過去の飯河は救えなくても、今目の前にいる山中ならまだ助けられる。

「だったら、悪いけど山中をおまえに渡すわけにはいかない。もっと別のやり方で、助けてみせる」

これ以上、クラスメイトが減るのは嫌だった。こんな訳の分からない機械のせいで、実態のない幻想のせいで、現実が壊されるなんて許されない。

「どけよ」

けど、そんな覚悟を打ち壊すかのように、後ろから山中は俺のことを突き飛ばした。

「行きましょう。今からあなたは夢を見に行くのではなくて、夢と現実をひっくり返しに行くの」

「待てよ卓!戻ってこれなくなるぞ!」

拓也が叫ぶ。それでも、山中は止まらない。

「別にいいよ、帰れなくったって。帰りたくもないし」

山中の背中が遠くなる。どうにか引き留めなければならないことは分かっているはずなのに、それでも身体は動かない。

俺は逃げ出したくなるほど現実に追い詰められたこともなければ、夢を見たことさえ一度もない。そんな俺に、今の山中を止める権利なんてない。できることといえば、ただ二人の背中を見送ることだけ。

「もう、この現実に生きるのは疲れた。夢は確かに残酷だけど、それでいてどこまでも優しいんだ。現実という世界から零れ落ちた僕の心を受け止めてくれる。こんなにも残酷な現実を捨てて、どこまでも優しい夢の世界を選ぶことの、いったい何がいけないっていうんだ?」

それはまるで、泣いているみたいな声だった。ずっと虚勢ばかりを張り続けてきた山中の、本当の姿を見られた気がした。

「あなたたちも、救いが欲しくなったらいつでも来てくださいね?私はいつでも待っていますから」

今自分が生きている世界を現実だと呼ぶのなら、夢の世界に生きる人間にとって、いったい何が現実なのだろう。

目覚めることのない永遠の夢ならば、夢の中に生き人間にとって、それは紛れもない現実だ。

夢の現実と、現の現実。どちらも現実だと言うのなら、一度眠りについた人間は、もう一度目覚めようとは思わないだろう。

山中と少女、二つの背中が遠ざかっていく。何をすることもできずにそれを見送る俺たちの耳に、かすかに山中の声が聞こえた気がした。

「だけど本当は俺だって、クラスのみんなと仲良く学校生活を送りたかったよ」

あまりにもかすかな声で、聞き間違いかもしれない。けれどもう、そんなことはどうでもよかった。

クラスメイトと笑いながら過ごす高校生活、そんな楽しいばかりの日々を、山中はきっと夢見てきたのだろう。

そして今から、そんな日々を本当に夢に見るのだ。

それは果たして、本当に幸せなことなのだろうか。

俺にはもう、なにも分からなかった。


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