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第1章 夢の始まり


『ドリームマシンを起動します。

しばらくお待ちください……

…………ようこそ。

起動完了しました。

夢の内容を作ります。登場人物のデータを入力してください。

確認しました。続いて……

夢の内容が確定しました。

脳波振動装置を装着してください。

30秒後から夢の世界へ移ります。

そのままでお待ちください。

…………

それでは、良い夢をご覧ください……』



『なあ、ジェニファー、今日はどんな商品を紹介してくれるんだい?』

『今日紹介するのは、これ!ドリームマシン!これさえ使えば眠る時に、自分の見たい夢を見られて、その夢の中で好きなように動けるの!』

『それはまさに夢のようなマシンだね!!!夢だけに、HAHAHA!!』

『もう、ボブったら!』

『で、ジェニファー。この商品の肝心のお値段はいくらなんだい?これだけの高性能なら、きっと相当高いんじゃないのかい?』

『ふふふ、実はね、特別な流通経路で商品を仕入れているからとってもお得なの!!

なんと、お値段30万ぽっきりよ!』

『な、なんだってえええ!!??これはもう買うしかないね!数量限定の商品だから、みんな急いでお電話してね』

『このドリームマシンで素敵な睡眠を送りたい人は下記のフリーダイアルまで電話してね!』

『お電話、待ってるよー!!』

ブチっと音を立てて、そこでテレビの画面が落ちる。陽気な二人の外国人という賑やかしを失った部屋は、いつもよりも無音が際立った。

2020年、10月の深夜、俺はやることもなく、腕を枕にしながらテレビを見ていた。目当ての番組が終わった後に始まった、外国人によるありがちな通販番組。何気なく見ていたその番組から流れる宣伝に、ついに人間はこんな商品まで作ったのかと感心する。

製造元は名前も知らないメーカーだったが、果たして本当に効果があるのか、疑問を持たずにはいられない。けれどもし、この商品のうたい文句が本物で、本当に自分の見たい夢が見られるなら、少しだけ欲しいかもしれないと思う。

どういうわけか、俺は産まれてから一度も夢を見たことがない。自分では勝手に、夢を見られない体質なのだと納得しているが、この機械はこんな俺にも効果があるのだろうか。

普通の人が当たり前に見ている夢というものに、憧れたことがないわけじゃないし、見られるものなら見てみたい。だが、夢を見るためだけに30万も支払うのはバカバカしい。夢などと言う形のないものに、それだけの価値があるとは思えない。胡散臭い商品を一笑に付して時計を見ると、時刻はすでに夜中の1時を迎えるところだった。

明日も学校だし、いい加減に寝ないと。重い体を持ち上げて、這うようにベッドに向かう。布団に潜り込で電気を消し、そして俺はまた夢のない夜を迎える。



第1章 夢のはじまり



朝のチャイムが鳴る5分前、昨日の夜更かしで眠気の残る中、ドアを開けて教室の中へ入る。

「おはよー」

「あ、慎哉くんおはよー!」

教室に入ると一番に、幼馴染でもありクラスメイトでもある園山芽衣の顔が入ってきた。普段から真っ先に挨拶する仲ではあるが、今日はやけに勢いが良い。

「おう、おはよ」

「って、おはようじゃないよ!今日私たち日直なんだよ!?こんなにギリギリに来てどうするの」

「やべっ、忘れてた!」

どうせ家も近いんだから、呼びに来てくれても良かったのに、と恨み言を言いそうになったのを、どうにか喉元で押しとどめる。どうせ、自己責任だと怒鳴られるのが目に見えている。

「もう。机の整理と花の水やりはやったから、黒板拭きだけは一緒にやろ?」

「悪いな。分かったよ」

黒板を掃除するのに、わざわざ二人も要らないだろうと思いながらも、おとなしく雑巾2枚を濡らして持ってくる。

昨日の授業ではあまり使われなかったのか、黒板は掃除しなければいけないほど汚いようには見えなかった。

「ほら、ぼうっとしてないで、早く手を動かすー!」

それでも園山が奥の方から黒板を吹き始めるから、俺もおとなしく手前から拭き始める。日直の仕事の大半を任せてしまった手前、口答えなどできる訳もない。それに、こうして園山の尻に敷かれる生活も今に始まったものではない。

しばらくは黙々と黒板を掃除したが、ふと園山の様子が気になった。ひょっとしたら、日直なのにギリギリに登校したことを怒っているかもしれない。恐る恐る園山の方を向くと、意外にも怒っているそぶりはなく、むしろ上機嫌なようにも見えた。そのまま見ていると、鼻歌まで歌い始め、ずいぶんと機嫌がいいのがうかがえる。喜んでいるときも怒っているときも、いつだって園山の機嫌は分かりやすい。

「なんか良いことでもあったのか?」

「え?わかる?」

「顔に書いてある」

比喩ではないくらいに、本当に分かりやすい。

「えへへ。実はね、お父さんが今度ボーナスが入るんだって張り切ってるの。だから、何か新しいもの買ってくれるみたいなんだ」

幼いころから一緒に過ごしてきた身近な仲だから忘れそうになるが、園山の家はなかなかに裕福な家庭だった。園山の家とはお向さんだが、俺の家が昔ながらのボロボロな家なのに対して、園山の家は新築のおしゃれな豪邸で、不釣り合い極まりない。

「ふうん、よかったじゃん。それで、何を買ってもらうの?」

「うーん、わかんない。なにか家電を新調するかもって言ってたし、本当に買ってくれるかも謎だよね。ひょっとしたら、貯蓄するーとか言い出すかもしれないし」

園山はそう言うが、どうせ金持ちの謙遜だ。何か高級なブランド品でも買ってもらうに違いない。

「まずい、先生来たっ」

先生の足音を聞いた園山が小声で告げる。うちの担任は堅物で、こんなギリギリの時間まで日直の仕事をしていると知ったら、何を言われるかわかったものではない。投げるように教室のベランダの手すりに雑巾をひっかけて、慌ててそれぞれの席に向かった。

「よっ!日直なのにギリギリ登校とは相変わらずだな」

席に着くと同時に声をかけてきたのは、隣の席の拓也だ。拓也がこの時間にちゃんと自分の席に座っているとは珍しい。

「うるさい、拓也。遅刻魔のおまえにだけは言われたくない」

「なんだと?慎哉だって、そうとう遅刻してるくせに」

「うっせ。2年になってからはそれなりにちゃんと行ってるだろ?」

まだ高校1年生の時は、拓也と一緒に授業をさぼって遊んで過ごすことも多くあった。だが、担任が今の鬼教師になってからはそれも減って、少しは大人しくなったと自分では思っていた。

「まあ確かに。だめだなあ、慎哉は。あんな中年メタボ教師にビビってるようじゃ」

拓也だけは鬼教師に怯えることなく、2年生になってからも遊び倒している。髪も明るい茶色に染めて、長く伸ばし、高校生然とした身なりからは外れている。うちのような規則に緩い高校でなければ、確実に指導が入るか停学になっているだろう。

いかにも絵に書いたような軟派な男だが、その見た目に反して学業成績は優秀だった。いつも遊んでばかりで、勉強をしている素振りなんて周りには一切見せない。地頭がいいのか、見えないところでこっそり勉強しているのか。間違いなく、その前者だろう。

「なあなあ。それより、今日も学校終わったらゲーセン行こうぜ」

「ああ、わかったわかった」

それでも、拓也のこういう気さくな性格が好きで、入学してからずっと遊び仲間としてつるんできた。高校2年生の秋になって、周りはだんだんと大学入試を意識し始めている。当然、他にも仲のいい友人がいないわけではないが、こんな時期になってもいまだに気兼ねなく遊べる相手は、拓也だけだった。

周りのクラスメイトはみな進路のことを考え始めている中、俺たちはそれから目をそむけるように、ひたすら毎日遊び倒している。

「おい、そこ!なにを話している、ホームルーム始めるぞ!」

どうやらいつの間にか担任が教室に来ていたようで、野太い怒声が教室に響いた。大人しく話すのをやめると、担任は小さく鼻を鳴らして出席を取り始めた。ホームルームが担任の怒号から始まるのも、別に珍しいことではない。特に誰も気にすることなく、いつも通りの学校が始まった。

授業が始まれば、クラスの緊張感は高まり、ほとんどのクラスメイトがそれなりに真剣に勉強している。授業が終われば一斉に緊張感から解放されて、あちこちから楽しげなしゃべり声が聞こえだす。ここはそういう場所だった。




「いやあ、豊作豊作!」

放課後の寄り道後の帰り道、拓也はゲームセンターで獲った景品をパンパンに袋の中に詰めて、嬉しそうに駅前の歩道橋を歩く。毎回毎回こんなにたくさん獲って、いったいどこに保管しているのだろう。

「それだけ獲れればさぞ楽しいだろうな」

俺も何回かクレーンゲームに挑戦したが、結果は惨敗。羨ましくなって、少しひがみっぽく言ってみた。別に欲しい景品があるわけではないが、拓也に負けたみたいで、なんとなく悔しかった。

「そりゃ、こればっかりずっとやってればな。これくらい獲れて当然よ」

拓也は得意げに景品をひけらかしながら、人並みに逆行するように歩く。日暮れ後の駅前は、家路を急ぐサラリーマンや俺たちのような学生であふれかえっている。駅前の往来を行く人々の足取りは、いつだってせわしない。

駅前のビルに取り付けられた大きなスクリーンは、駅前の騒々しさに合わせるように流行りの最新音楽のランキングを流している。

「なあ、今度コツでも教えてやろうか?獲れるようになれば、慎哉もきっと楽しめると思うんだけど」

「いいよ。そんなドでかいぬいぐるみとか獲ったって置くスペースもないし、そもそも別にいらないし」

「そりゃ残念」

拓也は落ち込んだ表情を一瞬だけ見せた後、すぐにいつもの明るい顔に戻した。拓也の表情は、いつだってころころと変わる。

「どうする?もう一件くらいゲーセンはしごしとくか?それともボーリングでも行くか?」

「はあ?さすがにもう金ねえよ。それに、もうそろそろ7時だし、いい加減に帰ろうぜ」

「あり、残念」

あれだけゲーセンに金をつぎ込んで、よくまだ遊ぶ気になれるものだと感心する。拓也は週に数回はゲームセンターに通っているはずだが、お金を気にするそぶりはまるで見せない。

園山しかり、俺の知り合いには意外と金持ちが多いのかもしれない。土地柄的にも、一般的に都会と呼ばれる場所に住んでいるわけだから、当然なのかもしれないが。

「なあ、拓也。次は……って」

ふと横を見ると、隣にいたはずの拓也がいない。慌てて振り返ると、すぐ後ろで駅前のビルのスクリーンを見つめながら、立ち止まっている拓也が目に入った。まるで何かにとりつかれたかのように、ただじっとスクリーンを見つめている。家路を急ぐ人々の中で立ち止まる拓也は、人混みの中でも浮いていた。

拓也の視線を追って駅前のスクリーンを見てみると、いつの間にか音楽のランキングを流すのをやめたようで、何か商品の宣伝を映しているようだった。

「おい、あれ……」

拓也が見つめる先のスクリーンが映す映像、それは記憶に新しいコマーシャル。昨日の夜、何気なく見ていたテレビから流れてきた、怪しげな機械の宣伝だった。

「ドリームマシン」

その機械の名を、拓也がぽつりとつぶやいた。それは、自分が見たい夢が見られる、魔法のような機械の名。

「あれがどうかしたのか?」

「あれって、本当に効果あるんかな?」

拓也はスクリーンを見つめたまま、小さくつぶやいた。それは誰かへの問いかけと言うよりも、自分への問いかけに聞こえた。

「知らねえよ。どうせパチモンだろ?いかにも胡散臭いじゃん」

スクリーンからはまだ例の宣伝が続いている。なんでも人気爆発中で、売り上げ20万台突破だなんて、大きく見出しを出している。つい昨日知った商品だったが、どうやら以前から発売されていたようだ。

「でもさ、本当だとしたらちょっと欲しくねえ?」

拓也の目はじっとスクリーンに縛り付けられたまま動かない。口調はいつものように飄々とした喋り方だったが、本気で言っているだと直感した。

「そうかな……俺はいいや。見たい夢なんて何もないし」

自分が見たいと思った夢が見られるなんて、確かにそれこそ夢のような話だと思う。だがそれは、見たい夢がある人に限った話で、夢を見たこともない俺には関係のない話だ。夢を見ると言うことがどういうことなのか、興味がないないわけではないが、見たいと願う夢の内容はちっとも思いつかなかった。

「相変わらず現実思考だな、慎哉は」

「そんなんじゃねえよ。ただ俺には分からないだけだ」

夢を見るということも、人々が夢を見たいと願うことも、何一つ分からない。

けれど、なぜかこの機械の宣伝を見ると、胸の中がドロドロした何かで覆われて行く感覚に襲われる。こんな感覚を覚えるのは、夢が見られないことの悔しさからかもしれないが、この感覚にはもっと別の原因があるように思える。

どうしてか、ドリームマシンと呼ばれるこの機械が、ひどく不気味なものに見えた。

「こんなものを作るなんて、人間はいったいどこに向かいたいんだろうな」

吐き捨てるようにつぶやいたその声は、人のざわめきに飲み込まれ、かき消されていく。それでも、俺の中にある不安だけはどうしても消えてはくれないみたいだ


「おっはよ」

「おはよ……って、どうしたの?今日はやけに早いね」

翌朝、普段よりも少しだけ早く学校に着いた俺を出迎えたのは、園山をはじめとしたクラスメイト達の、珍しいものを見るような目だった。それだけで、クラスの連中からどう思われているかがよく分かる。

普段よりも10分くらい早く登校するだけで、教室の空気も変わるものだ。30人近くいるはずの生徒数の、およそ半分ほどしか教室に来ていない。

「ちょっとな。昨日珍しく早寝しちゃったせいで、早くに目が覚めたんだよ」

「ふうん。早寝すればちゃんと起きられるなら、これから毎日早寝すればいいのに」

「冗談。毎日あんな時間に寝てたら、やりたいことなんもできないよ」

「どうせ起きてたってゲームくらいしかしないくせに」

園山はそう言いながら朝のホームルームの時間の準備を進める。普段は見ることの無い朝の園山が、やけに新鮮だった。

「この時間に来ても、もう教室にいるんだから、園山はさすがだな」

「さすがって、このくらいの時間普通だよ。と言っても、私も今来たばっかりだったんだけどね。どうせ慎哉君がこの時間に来るんだったら、もうちょっと待って一緒に行けばよかったな」

園山とは中学の途中までは毎日一緒に通っていたが、高校に上がって俺が遅刻魔になってからは、一緒に登校することも少なくなった。もっとも、俺たちが別々に登校するようになった最大の理由は、クラスメイトからの冷やかしの声によるものだったが。当時はクラスメイトからからかわれるのが恥ずかしくて、俺の方から「恥ずかしいから止めよう」と言った記憶がある。

あの頃より少しは大人になれたのか、今では周りの目もそれほど気にすることもなくなった。だからこそ、あの時は悪いことをしたと、あの頃のことを反省することもあった。

「そうだな、たまには一緒に行くのもよかったかもしれないな」

そんな反省を込めて、そう口にした。何気ないその一言に、園山は過剰に驚いたそぶりを見せた。

「え?本当にそう思ってる?いつもみたいに適当言ってるんじゃないよね?」

「お、おう。いつだって俺は大まじめだぞ?」

あまりのその剣幕に、少し面食らう。

「だ、だったらさ、明日は一緒に行かない?もうずいぶん一緒に登校なんてしてないし、久しぶりにどうかな?」

「それはつまり、明日も俺に早起きしろってことか……?冗談きついぞ」

「ええ!?ほんの15分くらい早起きするだけだよ?」

「おまえ、15分の価値を分かってるのか?1時間の4分の一だぞ?それほどの時間の睡眠が削られるんだぞ?」

「うう、なんだか私が酷いことを言ってるんじゃないかって気がしてきた……絶対騙されてるって分かってるのに」

ちょっとからかうだけだったつもりだったが、本気で困らせてしまい反省する。

「悪い悪い、冗談だ。久しぶりに一緒に行くか」

そう言うと、園山はほっと大きく息を吐いて、みるみる表情をほぐしていく。それだけで、勇気を出して誘った甲斐があったかもしれない。

「まったく、いつだって大真面目じゃなかったの?とにかく、明日はちゃんと起きてよ?起きてなかったら起こしに行くからね!」

「ああ、わかったわかった」

この歳にもなって、わざわざ家まで起こしに来られるのは恥ずかしい。どうやら今日も早寝をしなくてはいけないみたいだと、こっそりと覚悟を決めた。

教室には続々とクラスメイトが入ってくる。気が付けば、ホームルームの開始まで、あと少しになっていた。

「じゃあ、また後でな」

「うん、またあとで」

園山と別れて自分席に向かう。今から長い一日が始まるというのに、朝から少しだけ嬉しい気持ちになれた。

「朝から二人でこそこそ何話してたんだ?熱いね~」

隣からは拓也の冷やかす声が聞こえてくるが、適当に無視をする。下手に返事をすれば、余計な詮索をされるのがオチだ。

明日はどんなことを話そうかとか、そんなことを考えながら朝のホームルームを迎えた。結局そのまま、今日の授業は上の空だった。




朝、けたたましい目覚ましの音が聞こえてくる。ベッドの上から止まってくれと念じても、目覚まし時計のアラームは止まってくれるわけもない。薄目を開けて時計を見る。時刻はいつもの目覚ましの時間よりも、15分も早かった。

どうして今日は、こんなに早い時間からアラームが鳴っているのかと、ねぼけた頭で考える。

「あ……」

今日は園山と一緒に登校するんだったと思い出す。こんな目覚まし時計を止めて、もう一度布団に入りなおしたい気持ちもあったが、寝坊するわけにはいかないという危機感が勝った。

ベッドを降りて、朝食に向かう。今朝の朝食は目玉焼きとサラダと食パン。いつもは慌てて食べる朝食だったが、今日は慌てる必要がないことに小さな感動を覚える。柄にもなく優雅な朝食を堪能して、たまには早起きも悪くないと考えを改めた。

朝食を済ませて、制服に着替える。最後に、カバンの中身を確認して準備完了。玄関まで行くと、珍しく母さんが見送りに来ていた。いつもよりニコニコした表情なことには気付かないふりをして、「いってきます」とだけ告げて家を出た。

家を出るとすぐ目の前に、彼女は立っていた。

「よう、園山。おはよ」

「うん、おはよ。よかった、ちゃんと来てくれて。また寝坊するんじゃないかって、心配してたんだよ?」

それだけの何気ない会話。ドアを開けた先に園山が立っているということが久々の感覚で、自然と胸が高鳴る。

「ったく、少しは俺のことを信じろよ。嘘はつかない主義なんだ」

本当は嬉しいはずなのだが、気恥ずかしさからか、返事が少しぶっきらぼうになる。この恥ずかしさは、中学の時の覚えた恥ずかしさとは、また違うものだった。

「昨日ついたくせに……」

俺たちは二人並んで歩きだす。始めは少し緊張していたが、二人で登校するなんてものすごく久しぶりのはずなのに、お互いすぐに自然体になれた。なにを話そうかなんて考えていたのがバカみたいに、考えていた内容は全部吹き飛んだ。こんなに簡単なことなら、もっと早くに誘っていればよかった。

何気ない話をしながら、普段より少しだけ遅い歩調で歩く。気を抜くと園山を置いていきそうになるのが、なんだか新鮮な感覚だ。

やがて通学路の半分を過ぎたころ、「そういえば」と園山が話題を切り替えた。

「慎哉くん。この間、学校帰りにまたゲームセンター行ってたでしょ。友達の聡子ちゃんが見たって」

どうやら、一昨日あたりに拓也と遊んでいたのを、クラスメイトに目撃されていたようだった。ゲームセンターに行っていることなど、今に始まったわけではないのだから放っておいてほしい。ただ、園山は生真面目すぎる性格で、こうしたお小言が長い話になることも多かった。

「高校生なんだから、ゲーセンくらいいいだろ?こんな朝っぱらから、説教はやめてくれよ」

「別に説教ってわけじゃないけどさ、あんなに遅い時間まで遊んでて、補導されても知らないよ?」

「悪かったよ。次からはもう少し早めに帰るから」

「約束だからね?今日は機嫌がいいから、特別にこの辺で許してあげるけど」

堅物の園山にしては珍しく、意外にもあっさりとお許しが出た。長丁場を覚悟していただけに、拍子抜けだ。確かに機嫌がいいという言葉通り、いかにも幸せそうな、ご機嫌な表情を浮かべている。

「ねえねえ、それより聞いてくれる?私の機嫌がいい理由」

こんなに機嫌のいい園山を見るのはずいぶんと久しぶりだ。この嬉しそうな表情を見ているうちに、いったい何が機嫌を良くしているのか、少しだけ興味が湧いてきた。

「えっとね、この前のお父さんのボーナスの話なんだけど」

園山はとにかく話したくて仕方ないのか、俺の返事も待たずに勝手に喋り出す。

「あ、もちろん慎哉くんと一緒に学校まで行けるのが、一番の嬉しい理由なんだけどね!それ以外!」

「そ、そうか……」

ここまで堂々と一緒に登校できて嬉しいといわれると、照れくさい。

「それでね、私の機嫌のいい理由だけど、実はこの間少し話してるの」

その内容をすぐには話そうとはせずに、もったいぶるように間を空けた。いいから早く話せと思わなくもない。

「この間、お父さんにボーナス入るって話したでしょ?それで買うものが決まったんだ!」

そういえば、そんな話をしたことがあったと思いだす。園山の両親の経済力と、この喜び方から考えて、きっと相当いいものを買ってもらうのだろう。

「へえ、何買ってもらうんだ?」

「買ってもらうっていうよりは、家族共有かな?何だと思う?当ててみて!」

「いや、さすがにわかんねえよ」

「じゃあ、ヒント!最近テレビで宣伝してるやつ!」

「いやいや……」

テレビで宣伝している商品がいくつあると思っているんだと、頭の中で突っ込みを入れる。少しだけ真剣に考えてみたが、この程度のヒントだけでは、まったく予想もつかない。

「しょうがないなあ、もう諦める?」

「降参降参、わかんないから教えてくれ」

あっさりあきらめたのが不満だったのか、園山は少しつまらなさそうに眉をひそめた。それでも早く話をしたいのか、すぐに浮かれた表情に戻り、正解発表に移った。

「正解は、なんとね……!」

ここでまた溜めを作る。

そして。

「あのドリームマシン!!」

その瞬間、背筋に悪寒が走った。まさかこのタイミングで、園山の口からその名前が出てくるとは思っていなかった。あまりにも唐突のことで身構えていなかっただけに、衝撃は大きい。

身体が警鐘を鳴らすかのように、心臓の鼓動は早まり、首筋からは嫌な汗が噴き出した。どうしてまた、それの名前を耳にするのだろう。

嬉しそうに話す園山の顔が、余計に俺を不安にさせる。

「へえ、いいじゃん」

どうにか平静を装って、そんな返事をするのが精いっぱいだった。ちゃんと言葉に感情がこもって伝わったかは、分からない。

確かに、ドリームマシンは駅前のスクリーンで大々的に宣伝するほどの存在感を放っている。世間に浸透しているのかは分からないが、金持ちである園山の家がそういう高級品に手を出すことは、何もおかしいことではない。

何一つおかしなことなどないはずなのに。この間から俺は、いったい何をそこまで恐れているのだろう。別に怖がる必要なんてないと自分に言い聞かせてみても、早鐘を打つ胸の鼓動は治まってはくれない。

「うちのお父さん、結構新しいもの好きなんだよね。それで、私がCM見ながら、これいいなって言ったら、すぐ乗り気になっちゃって」

園山はますます嬉しそうに語り続ける。まさかこんな身近にドリームマシンを手にする人が現れるなんて、考えることもしなかった。

「実は、前からずっと欲しかったんだよね。でも、ちょっと高いからどうしようかなって……それが急に買ってもらえることになったんだから、言ってみるもんだよね」

「なあ、園山はどうしてこの機械が欲しいなんて思ったんだ?」

「うーん。だって面白そうじゃない?自分の見たい夢が見られるなんて。実は私小さいころは、見たい夢の内容を書いた紙を、枕の下に入れたりしてたんだよね」

「そうなんだ」口を出たのは、素っ気ない言葉。それでも園山は気にすることもなく、「意外だった?」と機嫌のいい口調を崩さない。

「そうだ!これ、今日の夕方には届く予定なんだけど、今度慎哉くんにも貸してあげるね!」

「ああ、ありがと」

そこから先は、しばらく上の空だった。園山の話は耳を素通りして行き、ちっとも頭の中に入ってこない。できるのは、ただ適当に相槌を打ち続けることだけだった。

だんだんと学校も近くなってきたころ、ドリームマシンの話題も終わって、特に何を話すこともなく並んで歩いていた。沈黙のまま1分近くが経って、ようやく違和感に気づく。沈黙を嫌う園山がこんなにも黙ったままいることは、あまりにも珍しい。

気になって隣を見てみると、なぜか園山は、いつもよりずっと真剣な顔をしていた。そこにはすでに、先ほどまでの浮かれていた表情は残っていない。

「どうした?」

そのあまりの異変に、思わず声をかけた。けれど、すぐに反応は帰ってこない。しばらくの間、園山は黙っていたが、突然うつむいていた顔を上げてこちらを見た。その顔は、まるで決意に満ちたような表情だ。

「あ、あのさ。明日って土曜日で学校も休みでしょ?だ、だからさ……」

普段は白い園山の頬が、赤に染まっている。それにつられて恥ずかしくなって、思わず目をそらす。

「ちょっと、駅の方まで一緒に買い物付き合ってくれない?」

その言葉にはきっと、園山の精いっぱいの勇気が込められている。初めて見せるような真剣な顔を見ていたら、そう思えた。なんてことのない誘いなのに、どうしようもなく照れくさい。

「しょうがねえな。まあ、どうせすることもなくて暇だったし、付き合ってやるよ」

照れているのがばれないように、必死に声の抑揚を抑えて、ぶっきらぼうに返事をした。

「ほんと!?」

返事を聞いた園山は、さっきまでよりもずっと嬉しそうに喜んだ。

「ああ。俺の方もいくつか駅で用事足したいし、せっかくだしいろいろぶらつくか」

「うん!」

嬉しそうな園山の姿を見ていると、こちらの方まで楽しみな気持ちが移ってくる。

そのあとは学校に着くまで、どこに行きたいだとか何時に集合だとか、なにを食べたいとか、二人でいろいろ計画を立てながら歩いた。

園山と二人で出掛けるなんて、いつ以来だろう。思い返してみても、二人で出かけた記憶は見つからない。少なくとも、高校に入ってからは一度もないはずだ。

幼いころからずっと一緒にいて、学校でもいつも顔を合わせているはずなのに、二人で出掛けると言うことが、こんなにもドキドキするものだとは思わなかった。

つまらない授業なんて早く終わって、さっさと明日がやってくればいいのにと願う。こんなにも明日を楽しみに思えたのは、久しぶりの感覚だった。

どれだけ願ったところで時間が早く過ぎるわけもなく、退屈な授業の時間はゆっくりと進んでいく。たとえどれだけつまらない授業であっても、きちんと椅子に座ってやり過ごすのが学生の仕事だ。何度もあくびをかみ殺しながらも、どうにか一日の授業をやり過ごす。休み時間には拓也から、放課後遊ばないかと言われたが、そんな誘いは一瞬で断った。

そしてついに授業も終わり、長く感じられた一日も、気が付けば終わりを迎えようとしていた。帰りの挨拶を済ませると、クラスメイト達はそれぞれの場所へと散っていく。帰宅部である俺と、部活動に入っている園山は、今日はここでお別れだ。

友人と一緒に部活へ向かう園山へ「また、明日」と手を振った。それに気づいた園山は小さく手を振り返す。なんだかまるで、二人だけしか知らない言語で話しているような、不思議な特別感が胸を満たした。この感情はきっと、俺一人の感情じゃない。

園山の背中を見送ってから、俺も教室を後にする。明日のことを考えながら歩くだけで、廊下を歩く足取りは軽くなる。それは、恥ずかしいくらいに浮かれた足取りだったに違いない。

だが、翌日の土曜日、そんな浮かれた心はあっさりと打ち砕かれた。



約束の日、約束の時間、約束の場所で、園山のことを一人待つ。しかし、約束の時間になっても、園山がやってくることはなかった。メールを見返して待ち合わせの約束を確認しても、何も間違いは見当たらない。何かの集合時間に対して、園山が遅れてくることなんて、今までに一度だってありはしなかった。約束の時間から、もう10分も過ぎている。

――こんなことはあり得ない。

頭の中を不安が埋め尽くす。10分、15分の遅刻程度、誰だってやってしまうことではある。そのはずなのに、いったい俺は何を不安に感じているのだろうか。

けれど、俺の不安を裏付けるかのように、それから10分経っても、20分経っても、園山が待ち合わせ場所に来ることはなかった。

待ちきれなくなって、スマートフォンをポケットから取り出し、不安な気持ちに任せてひたすら画面を操作する。

『おい、時間過ぎてるぞ。寝てんのか?』『具合でも悪いのか?もしそうなら、気にしなくていいから、元気になったら返事くれよ』。そんなメールを何通か送って、間に何度か電話をかけた。当然、留守電だって残しておいた。

けれど、何分たっても、何十分たっても返事は来ない。メールを送る以外に何もできない状況に、不安と焦りとじれったさだけが増していく。このまま待つことに、これ以上耐えきれなくなったのは、約束の時間の2時間後だった。

なぜ園山はやって来ないのか、なぜ連絡の一つもくれないのか。その答えを知るために、携帯の電話帳から園山の家の電話番号を呼び出した。

家の方の電話にかけるなんて、小学生以来だろうか。家へと電話するのが恥ずかしいとか、今はそんなことを言っていられる場合ではない。ためらうことなく、園山の家へと電話をかけた。

無機質なコール音が何度か続く。その電子音はどうしてか、俺の心をさらに焦らせる。2,3回ひとまとまりの音が鳴った後、ガチャリと向こうの人が受話器を取った音が聞こえた。

「もしもし!?」

『もしもし?こちら園山ですけど』

受話器から聞こえてきたのは、懐かしい声だった。声を聞く限り、受話器を取ったのは園山のお母さんのようだ。いかにも育ちのよさそうな女性で、昔は家に遊びに行くたびにいろいろと良くしてもらった記憶がある。

「えっと、突然すいません。向かいの中原です。覚えてますか?」

『あら、慎哉君!?もちろん覚えてるわよ。どうしたの?』

いまだに名前を覚えていてくれたことを嬉しく思いつつも、今はそれどころではない。胸の中に凝縮された疑問を、単刀直入に問いかける。

「あの、園山……じゃない、芽衣さんは今どうしてるかわかりますか?今日二人で遊ぶ予定だったんですけど、全然連絡が取れなくて……」

俺が園山の名前を出した瞬間、受話器の向こうから息をのむ音が聞こえてきた。受話器越しに、向こうの緊張が伝わる。それだけで、園山に何かあったのだと分かる。

『そう、今日一緒に遊ぶ相手っていうのは慎哉君だったのね』

園山のお母さんは、不気味なほど穏やかな声で語りかける。あらゆる最悪の可能性が頭をよぎったが、おばさんからの言葉は意外なものだった。

『芽衣は、芽衣ならまだ寝てるわ。昨日の夜からずっと』

「まだ寝てるって、もう14時ですよ……?」

見えない何かに心臓を掴まれたような気がした。

ありえない。園山に限って、そんな時間まで寝て約束をすっぽかすわけがない。

『ええ。私も何度も起こしているんだけど、ちっとも目を覚ましてくれないの。でも、あまりにも幸せそうな顔をして寝ているものだから、私としてもあまり強く起こせなくて……』

頭の中で、何かが繋がり始める。

園山は昨日「今日の夕方には届く」と言っていた。

園山は昨日の夜から眠り続けている。

園山は幸せそうな顔をして眠っている。

そのすべてをつなげると、たどり着く答えは一つ。

受話器の先にいる園山のお母さんまで、届くか届かないかのわずかな声で、ただ一言呟いた。

「ドリームマシン」

そして、俺は一方的に通話を切った。



園山が来ないのなら、いつまでも駅前で立ち尽くしている意味はない。スマートフォンを無造作にポケットの中に突っ込んで、家に向かって歩きだす。一歩足を踏み出すたびに、心臓が握りつぶされるほどの痛みが走る。

形を伴わなかった胸の不安感が、確かな形を持って襲いかかる。家に着くまでの道のりはまるで拷問のようで、ひたすらその痛みに耐えるしかなかった。ようやく家にたどり着くと、心配する母さんの声も無視してベッドに飛び込んだ。

ベッドの上でじっとしていると、どうしても余計な思考が頭を巡る。ドリームマシンのこと、そして園山が昨日見せた、照れるような嬉しそうな顔。やるせなくなって、右手を強くベッドに叩きつけた。

少しだけ痛む右手のせいで、そんな行動の無意味さに気づき、余計に空しさが増すだけだった。俺はすべての感情から逃げるように、両方の耳をイヤホンでふさぎ、布団を頭まで被って小さくなる。

無理やりに目を閉じて、意識を閉ざす。一切の思考を絶って、爆音で頭の中を埋め尽くすと、不思議なことに少しずつ興奮は収まっていった。そうしているうちに、気づけば意識はなくなり、眠りへと落ちていた。

――浅い眠り。

それでも、俺が夢を見ることはない。


目覚めると、窓のから見える景色は真っ暗に変わっていた。慌てて時間を確認すると、時計の針はもう19時を指している。少し寝すぎてしまったかもしれないと思いながら、寝ぼけ頭のまま、枕元に転がるスマートフォンに手を伸ばす。ボタンを押して画面を点けると、いくつかの通知が浮かび上がる。そこに表示されている文字を見た瞬間、さっきまでの眠気は一瞬にして吹き飛んだ。

『今日はごめん』

たった一言だけの簡素なメールが一通、園山から届いていた。

ただの一言だけのメールに、大げさなまでに安堵した。このまま園山が目覚めなかったらどうしようだとか、今にして思えばバカみたいな想像までしたものだ。

『月曜はちゃんと学校来いよ』と、それだけ返事をして画面を消した。ただ、メールの文面があまりにも簡素だったのが、少しだけ気がかりだった。

何事にもマメな園山は、メールのやり取りだっていつも丁寧だ。それが今回はこんな簡素な一文だけ。様子がおかしいのは、誰が見たって明らかだった。

それでも、わざわざ家まで会いにいくのは気が引けた。ドリームマシンを不安に感じているのはきっと俺だけで、家まで行くには圧倒的に理由が足りない。この不安に耐えながら、月曜が来るのを待つしかなかった。

「慎哉?起きてる?ご飯できたよ?」

ドアの向こうから聞こえる母さんの声。「今いくよ」とだけ返事をして、ベッドから立ち上がる。

ダイニングに行くと両親と一人の妹、家族全員でテーブルを囲んで俺を待っていた。何気ない、いつもの夕食の時間。感動すら覚えるほど穏やかな日常の風景の中に、異質なものが一つ紛れていた。ゴールデンタイムのテレビ番組のあいだに流れるテレビCM、宣伝されているのはあのマシン。

「ああ、またか」と、家族のみんなには聞こえないようにつぶやいて、自分の席に向かっていった。



月曜の朝、さらなる眠りを求める身体を叱咤して、定刻通りに家を出る。ここで言う定刻とは、学校に余裕を持って着ける、本来学生が守るべき時間のことだ。そんな健康的な時間に俺は、園山の家の前まで来ていた。

土曜の夜に届いた『今日はごめん』と言うメールが、電話越しに聞いた園山のお母さんの不安そうな声と共に思い起こされる。まさかとは思いつつも、今日も起きてこないのではないかと心配だった。

家の前にまで来たものの、チャイムを押すのをためらった。家の窓から中の様子が分からないかとのぞいてみても、薄いカーテンが邪魔をする。いつまでも家の前で立っているわけにもいかず、不安を抱きながらも、覚悟を決めてチャイムを押した。

ピンポーンと軽快な音が家の中で鳴り響く。ややあって、スピーカーからは、「はーい」と園山のお母さんらしき人の声が聞こえた。その声はスピーカー越しに聞く限り、普段通りの明るい調子に聞こえた。

「あの、すいません。中原ですけど、芽衣さんってまだ家にいますか?」

『え?芽衣ならもう5分くらい前に学校に行ったわよ?どうかしたの?』

園山のお母さんの言葉に、思わず肩の力が抜けていく。あれだけ心配したことがバカみたいなほどに、とんだ取り越し苦労だった。

「いや、もう行ってるならいいんです!すいません、朝からお騒がせして」

『芽衣と一緒に行きたかったのかしら?』

からかうようなおばさんの声。インターフォンの向こうで、にやにやと笑うおばさんの顔が容易に想像できる。俺は少し照れながらも、からかいの言葉をうまく受け流して学校に向かった。

早く園山に会いたい、ただその一心で学校までの道のりを急ぐ。いつも以上に通学路を長く感じつつも、15分もすれば学校まで着いた。

「おはよう!」

教室の扉を勢いよく開けると、中はいつも通りの光景が広がっている。当然、その中には園山の姿だってある。まるで何もなかったかのように、いつもと変わらない笑顔の園山が、そこにはいた。

「あ、慎哉くん。おはよう」

園山の顔を見て、ようやく心から安心する。約束を破ったことに対して、文句の一つでも言ってやろうかと思っていたが、そんな文句の言葉も吹き飛んだ。

「ああ、おはよう。ちゃんと学校に来てたんだな」

「どうしたの?そりゃあ来るよ」

そう言って園山はあっけらかんと笑う。結局、ただ俺が過剰に心配し過ぎていただけのことだった。

「そうだよな、そりゃあ来るよな」

「ふふ、変なの」

ふと、その笑い方に違和感を覚える。

何かが違う。それは園山の笑顔であって、園山の笑顔じゃないような、あまりにも不思議な違和感だった。忘れていた不安が、再び胸の奥からこみ上げる。何かが、確実に変わっている。

ただの気のせいかもしれない。今の園山は、どこかうつろな目をしているように見えた。それはまるで、夢と現実の間をさまよっているような……

「なあ、園山はどうして土曜は駅に来てくれなかったんだ?」

はじめ、こんな質問はするつもりではなかった。それでも、今はもう聞かずにはいられなかった。

「え、土曜日?何言って……」

「おっはよ!」

突然の明るい声に、園山は言葉を止める。振り向けば、後ろには拓也が立っていた。

「おはよ。今日は早いんだな」

「早いって、もう5分前だぞ?慎哉も早く席につかないと、そろそろ堅物が来るかもだぜ?」

「あ、ああ。そうだな。じゃあまた」

「うん、またね」

少しだけ後ろ髪を引かれながらも、拓也に言われるままに自分の席へと向かう。園山が言おうとした言葉の続きは何だったのか、それだけが気がかりだった。

「あさっぱらから二人で何話してたんだ?先週の金曜もなんかいい感じだったし、何か進展合った感じ?」

「うるさい、なんもねえよ」

その時、担任が教室に入ってきた。少しだけ不機嫌そうな顔をしているのは、いつものことだ。名簿を机に置いて、ホームルームが始まった。



――それは朝一番の、一時間目の授業の時のこと。

一時間目は数学の授業。教師の言葉はまるで呪文のようで、俺の耳をすり抜けていく。それでも始めはどうにか話を聞いていたが、次第に集中力は切れていき、授業に関係のない余計なことばかりを考える。

思い出すのは朝に見た園山のうつろな顔と、途切れてしまった言葉の続き。あの時の園山は、まるで質問の意図そのものを分かっていないような顔をしていた。あまりにも不可解な表情だ。土曜日の約束そのものを忘れていたのか、それとも何かもっと別の理由でもあったのか。一人で考えたところで、答えが見つかるはずもない。

授業が終わったら、もう一度聞いてみよう。そうすれば、園山が約束を破った理由も、うつろな表情の訳も、全て分かるはずだ。そう思い、教師から注意される危険も顧みずに、後ろの席にいる園山の方を振り返る。

ただ様子が気になって、何気なしに振り返っただけのことだった。だが、目に飛び込んできたあまりの光景に驚愕する。

まっすぐに黒板の方を見る園山の顔は、朝に見たそれよりも、明らかにうつろなものになっていた。普通でないのは、誰の目に見ても明らかだった。

そのまま見ていると、園山は口を小さく動かし続けていることに気づく。その動きは同じことの繰り返しで、ひたすら何かをつぶやいているように見えた。

微かにその声が聞こえたのか、それとも唇の動きから読めたのか、何と言っているのか俺には確かに分かった。

"違う"と。

園山はそう繰り返しつぶやき続けていた。

「園、山……?」

明らかに様子のおかしい園山に、わずかに恐怖を覚える。今が授業中でなければ、今すぐにでも席を立って園山のもとへ駆けつけたい。

我慢の限界を迎えて、いよいよ席を立とうとした瞬間、ガタっという椅子を引く音が聞こえた。もちろん、俺が席を立った音ではない。

立ち上がっていたのは、まぎれもない園山本人だった。

「違います。違うんです。こんなじゃない……」

それはつぶやくような微かな声。だが、確かに聞こえた。突然のことに、クラス全体が静まり返る。そこにいる誰もが状況を理解していない。

「どうしたんだ、園山。今は授業中だぞ?先生がなにかおかしなことを言ったか?」

数学の教師も困惑の表情を見せる。自分の書いた数式に間違いがないか、何度も黒板を見て確かめる。

けれど、その数式に間違いなんてあるわけがなく、ますます教師は訳が分からなくなっていく。

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う!」

そして今度は、さっきみたいに何度も“違う”と繰り返す。それも、さっきよりもずっと強い言葉で。

クラスメイトはここにきて、ただ事ではないと理解し始めた。

「なあ、園山。おまえどうしたんだよ……」

椅子から立ち上がり、園山に向かって一歩踏み出した瞬間、目が合った。

その瞬間、園山は驚いたように目を見開いて、絶望に顔をゆがめた。

「あ、ああ……」

一歩、俺から逃げるように後退る。

「違う……こんなのが私の現実なわけがない!!」

俺の存在が最後の一押しになったのか、園山は大声で叫んで、そして教室の外へ駆け出していった。

そのあまりの剣幕に、誰も園山を止めることはできなかった。後に残ったのは、静まりかえった空気の教室だけで、俺は居心地悪くその中心で立ち尽くしているだけだった。

彼女を追わなければいけないと気付いたのは明らかにもう手遅れで、結局俺は追いかけることもできなかった。


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