14/01/23 「大丈夫ですか?」
全盲に生まれた事に感謝する時がある──そう言ったら、不謹慎だとか自虐的だとか思われるかも知れませんが、でも本当に有り難く感じます。
白杖を振りかざせばどこへ行っても優遇される、例えばどんなに混み合ったバスに乗っても、必ず席を譲って貰えるから、という話ではありません。それはある意味で特権なのでしょうが、優越感を感じるどころか、私にとってはとても鬱陶しく、惨めな気持ちにさせるものです。
特に嫌なのは、一つの言葉です。
「大丈夫ですか?」
その問い掛けをされる度に、三十年も見えないのだから大丈夫に決まっているだろうとも、見えないのだから大丈夫な訳が無いだろうとも思ってしまいます。生涯に渡って付きまとうその言葉には、慣れていても、やはり心のどこかに引っ掛かりが残るのです。
数年前、あのバスに乗り込んだ時にも言われました。
「大丈夫ですか?」
若い女性の声でした。
図書館への出勤はいつも遅め、乗客も交通量も少ない時間にさせて貰っています。ですから、普段同じ時間に乗り合わせる人は大抵決まっていて、バスの中でその問いをされる事は多くありません。ただしこの日はちょっと混んでいて、私の事を知らない人ばかりの様でした。近くに祭場がありますから、時折こういった日もあります。
「どうぞ座って下さい」
その女性は綺麗な声で、私に席を譲ってくれました。
別段、それ以上の会話はありません。正直なところ、私は女性の声とまだ彼女の体温が残るシートとで、やや気持ちに高まりを感じていたのですが、若い女性と話をする機会はそうそうありませんから、気さくに会話を楽しむ事なんて出来ません。
ただじっと、窓際の一人掛け席に座り込み、まだ近くに立っている彼女を見ていました。私にとって、見るというのは気配を感じる事を言います。衣擦れから髪を掻き上げたのだとか、佇まいを変えて踵の音がしたのだとか、そういった事です。ですから、私がじっと見詰めていたとしても、誰に気取られる心配もありません。
私の勤め先は終点で、少々時間が掛かります。途中何人か乗り降りして行きましたが、彼女は降りませんでした。段々と申し訳無く思いましたが、けれど束の間女性がすぐ側に立っている状況を楽しんでもいました。
そして、彼女の目に私はどう見えているだろうかと考えていました。杖を手にした可哀想な人かも知れません。しかし私は私の顔さえ知らないので、自分を美化する事も容易です。それは儚くとてつもなく恥ずかしいものでしょうが、絶世の美女と悲劇の美男とが偶然の出会いから結ばれる物語を想像していました。
もうすぐ終点、もうすぐ妄想も終劇というところでした。
突然強く揺さぶられたかと思うと、下から突き上げられる衝撃に襲われました。ぐらりと床が傾いて、私は咄嗟に前の座席を掴みましたが、今度は反対側に傾き、通路に投げ出されました。
バスが横転したのです。急に飛び出してきた子供を避けて、ブレーキも間に合わなかったのが原因でした。
私はたぶん、暫く気を失っていました。或いは突然のショックで放心していたのでしょう。我に返った時、全身打撲と左腕左脚の骨折で体が動きませんでした。
「大丈夫ですか?」
あの女性の声がしました。私は驚いて、あなたこそ大丈夫なのかと聞き返しました。
「わたしは大丈夫です。大丈夫ですか?」
とても感動したのを覚えています。立っていたのだから、座っていた私より酷い怪我をしたに違い無いとその瞬間でさえ想像出来ました。それなのに自分より私の事を心配する、なんて気丈で心優しい人なのだろうと。
彼女は、ずっと私の耳元で「大丈夫ですか?」と声を掛け続けてくれました。救助されるまでずっと励まし続けてくれました。
次に「大丈夫ですか?」と問われたのは病院でした。看護師から、打撲と骨折の他に内臓が傷付いてもいたので、麻酔を掛けて手術をしたのだと聞かされました。
私は真っ先に、あの女性は無事だったのかと尋ねました。もしかすると妄想が現実になるかも知れないという期待をしていました。
ところが看護師は答えませんでした。暫くすると医師がやって来て、私の名前や住所、両親の名前を聞いたり、簡単な算数の問題をしたりするのです。そして一時的な記憶障害だと一方的に診断を下しました。
そんな女性は居なかったと言うのです。
それどころか、事故が起こった時、バスには私と運転手の他に乗客は居なかったと言われました。
そんな事はあるはず無いと言い張る私を、医師はCTだかMRIだかにかけ、脳に問題が無いと解ると、カウンセリングルーム──つまりここを紹介しました。
今、あなた方には私が、事故のショックで妄想に取り憑かれた、可哀想な視覚障害者に見えるかも知れません。けれどあの時、私は確かに彼女の存在を感じ、彼女の声に励まされ、そしてここに居るのです。
そうでした。まだ最初に言った、目が見えない事に感謝する場合について、ちゃんとお話ししていませんでしたね。
──いいえ。居ないはずの人を見ないで済んだなんて、そうではないのです。たぶん彼女は、私が目が不自由だから話し掛けたのですから。
──それも違います。あの時は心が安らいだのは本当ですが……私は怖いのです。居ない人の声を感じ、しないはずの声を聞くのは。
だけど目が見えないおかげで、誰も彼もが、私が一番嫌な言葉を投げ掛けてくれます。
目の見えない私から、区別を奪ってくれますから。
「大丈夫ですか?」
一日二日一話・第十六話。
全ッ然怖くない怪談シリーズ、まさかの第二弾。
もっと短く書けただろうけど、まーいいやと投げ遣りに。
しかしすっかり三日一話が定着しつつある……こりゃあかん……