07
亜湖の忙しい毎日が始まった。
それは今までとは全く違っていた。
朝9時に当番兵の仕事で雪代大尉にへばりつき、身の回りの仕事をこなして、15時からG倶楽部でウルフに鍛え上げられる。
ウェイトトレーニングは確かにきつかった。
空調が効いているにも拘らず、ふきだす汗でジャージが重くなる。
時折ボニやローワン、ドンが加わり僅かに和ませてくれたが、亜湖は神経は緩めることが出来なかった。
此処、G倶楽部では何もかもが計算されている、見られている、計られている。表の顔は優しいエラーもその眼に常に冷ややかな何かを浮かばせていた。
だが、不思議な事にジーンだけは変わらなかった。
第二中隊の中隊長としての顔も、G倶楽部のトップの顔も亜湖が見る限り大きな変化はなかった。
雪代大尉は自分の当番兵を楽しんでいるように見えた。
洗濯物を取りに行かせ、伝令として使い、様々に使い倒す。
話を聞き、笑い、お茶を飲んでまた笑う。
自分のどこが面白いのか亜湖にはさっぱり解らなかったが、雪代大尉の寛いだ物腰は亜湖本人でさえ気持ちを落ち着かせるものであった。
『ジーン』の世話をしているのか、世話になっているのかは解らないが、5時間の仕事は楽しかった。
そして亜湖の黒い作業着は確かに驚くべき効果をあげた。
手元に届いたのは作業着3セット、黒のジャージ3セット。
どちらにも白の腕章が留められていたが、洗濯は最優先、クリーニングボックスに入れておくだけで勝手に消えて、綺麗になって戻ってくる。
それを着用した亜湖に声を掛けるのはAチームの、それも元の仲間だけであったが、更に厳しい状況に集中している亜湖には気にもならなかった。
一週間が過ぎ、身体がだいぶ慣れてきた頃、雪代大尉からの講義を受けることになった。
『担当伍長からの依頼だ。』
雪代大尉のにんまり笑った顔は、世界で一番怖い。
学歴に引け目のある亜湖の躊躇は、だがすぐに消え去った。
とにかく面白かった。
今現在の世界情勢から日本の立場、過去の因縁、それに絡んだ経済の流れ等を、ざっくりした言葉ながらも的確に表現し、各国の逸話に手厳しい寸評を加えながらも亜湖の意見を引き出していく。
自分が何を考えているのか、どうしたいのか、その為には何をすれば良いのか。
今まで見えなかったこの先が見えてくる。
『将来は幾つも在る、どれを取っても間違いではない。
自身が選んだ道程を信じる限りは正しい道だ。』
『選択するというのは、切り捨てることだ。けして選ぶことではない。切り捨てる中に自分の想いが残っていない
かの確認は怠るな、それが後悔の種子になる。』
それは迷う亜湖をいざなう言葉、一般教養であり、一種の軍人としての英才教育であった。
一つの問題に角度を変えた答えを幾つも出させ、一つ一つの答えの中に存在する問題点を挙げさせる。
立場、視点、展開、利益不利益・・
おそらくは一般大学より遥かに高いレベルの講義であったろうが、その楽しさに亜湖は引き込まれていった。
10日が過ぎた頃、河野伍長に呼ばれてミーティングルームに入った亜湖の表情は明るいものだった。
「その様子だと何とか上手くやれてるようだな。」
久しぶりの河野の声は相変わらず深く穏やかであった。
メールでは近況報告はしていたし、朝食、夕食にも顔は逢わせている筈だが、ここ最近の忙しさに追われていたのだろう。飛んだ記憶を探って頬を染めた。
「雪代大尉の講義が楽しくて。
ありがとう御座います、河野伍長のおかげです。」
この素直で真っ直ぐな性格を損なう事のない様に育てたい思いがある。それとG倶楽部の本来の任務との隔たりの大きさに河野卓は未だに悩んでいた。
キリーとしては揺らぐ事など無いのだが・・・
「雪代大尉から連絡は来ている、伊達軍曹からも最近は急に理解力が伸びたと聴いている。頑張ってるな。」
嬉しそうに頷いた亜湖に河野は続けた。
「配属時でいきなり当番兵はキツイだろうが、お前の長所は素直さだ。余計なことは気にせずに全力を尽くせ、何が有っても俺はお前の後ろにいるから。」
「はい。」
「何か気になることは無いか?」
怪訝そうに首を傾げた亜湖はひとつ思いついた。
「河野伍長は・・・」
躊躇うように黙り込んだ沈黙はながい。
「なんだ、俺に文句があるなら、言えば良い。」
笑いながら促すと困った様な表情を浮かべた。
「いつかご自分のチームに帰るんですか? いつまでAチームに居てくれるんですか? 私は河野伍長にずっと見てもらいたいです。あ、歩美も真理も、たぶん皆も同じだとおもいます。」
息が詰まった。
こんな言葉を他人から貰える日が来るとは思いもしなかった。
「あ、あぁ、初年兵訓練は1年だ、Aチームの名は来年に引き継がれる。 このAチームは他の名前に代わる。」
亜湖は逸れた話に食いつきはしなかった。
「河野伍長は?」
嘘は言えない、軍に詳しい何人かは知っているだろうし、亜湖にはその場逃れの言葉を聞かせたくはない。
「あとみつきで新たに班長を決める、俺が此処に居るのは3ヶ月未満だろう。」
この娘の動揺した顔は見たくない。たとえそうさせたのが自分だととしても・・・
「・・河野伍長のチームは?」
「初年兵訓練を共にしたファミリーチームの生き残りは、今現在、エラーだけだ。」
自分で言っておきながら、河野は内心で特大の溜息をついてポケットからハンカチを取り出した。
見開いた大きな瞳から零れ落ちる涙は、河野が初めて見るものだった。
あの初年兵訓練でも涙を見せなかった亜湖が泣く姿は胸に応える。
「俺達の頃は情勢的に厳しかったからな。今は落ち着いて来ているし、お前達は大丈夫だ。」
声を立てないまま肩を震わせていた亜湖が首を振った。
「河野伍長・・帰るところは・・何処に帰るんですか・・」
それを心配してくれたのか・・・
「G倶楽部だ。」
ふっと、亜湖の眼が上げられた。
「俺もエラーもG倶楽部で育てられた、あそこがチーム、ジーン達がファミリーだ。」
深く響く声に涙が止まった。
「待っていろ、G倶楽部のキリーとして俺が戻るのを。」
「はい、待ってます。」
最後の涙がひとつ、零れ落ちた。
その夜、河野は再び眠れずにいた。
ここまで己が教育者に向かないとは思わなかった。
ジーンの指導、教育を自ら受けながら、それが何の役にも立っていない事を思い知るのはこんな時だった。
ジーンやエラーが知ったらさぞかし笑うだろう。
(・・待ってろ、か。 ガキは俺だな。)
全ての行動から一切の感情を切り離して動いてきた男にとって、情の脆さは弱点以外の何物でもない。
こんな弱さが自分の中に残っていたとは、今の今まで気づかずにいた。
隠し切らなくてはならない。何が在っても。
だが、事件は3日後に起こった。
亜湖のG倶楽部への正式加入が決まる明日を控え、取り合えず今日までを無事に終わらせたことで、河野は安堵して夕食の席に着こうとした時だった。
河野と亜湖にメールが入った。
『緊急救命部隊、3班、高村亜湖。緊急事態発生につき久野少尉まで出頭せよ。』
初めての任務であった。
メールを見た瞬間、引き締まった表情の亜湖の眼が河野と合う。河野が僅かに頷いた。
「行ってきます。」
細い背中を見送るAチームの仲間達は、幸運を祈るしかなかった。
「35キロほど北の再開発地区にある児童公園で3歳の女児が穴に落ちた、警察、消防が手を尽くしたが、すでに9時間が経過している。」
特殊作業車両を引き連れ輸送車両内で現場に向かいながら状況の説明を受ける。
「生命は?」
「生体反応は有り、意識は混濁している。」
「距離は?」
「53M、穴の直径は40弱だ。」
「厳しいな。」
専門用語がはいると亜湖にはついていけないが、悠木伍長がヘルメットに着けるインカムを渡してくれた。
「お前さんはじっとしてな、みんな気が立ってるからな。」
「はい。」
実際、亜湖には何も出来ないだろう。配属されたと同時に雪代大尉の当番兵になったし、そうでなくても初出動のヒヨッ子に過ぎないのだから。
それでも3歳の子供だと思うと可哀想だった。
暗く狭い穴の中で、母親を呼んでいるだろう、咽喉も渇くしお腹も空かしているのだろう。
きっと母親も生きた心地もないまま、泣いている筈だ。
「あそこだな、騒ぎだけは大きくしやがって。」
悠木伍長の声に眼を向けると、照明から人数からまるで祭りのように雑然とする一角があった。
久野少尉が降り、その後に全員が続いた。
久野少尉が警察官から説明を受ける間に、3班の男達は手早く余計なものを片付けていく。
たかっている警官とレスキュー、救急車を退かせ、野次馬とマスコミを更に遠ざける。
特殊作業車を誘導していたひとりが手を止めた。
「悠木伍長、足場が緩いです、これ以上は無理だ。」
どう見ても10メートル以上離れている。
「あと5はいけないか。」
「うーん、厳しいけど・・でなきゃこいつが使えませんね、
やってみるか。」
動かし始めた作業車は、だが久野少尉に止められた。
「いかん、近づけるな!」
久野の表情は強張っていた。
「この辺りは昔 かなり大雑把に埋め立てられた土地で、地盤が相当やわいそうだ。車がめり込むだけなら良いが穴を潰しかねない。消防もそれで手が出せずにいたそうだ。」
一瞬、その場を空白が支配した。
「で、でも・・それじゃ、どうし・・」
「なんだ、まだ片付かないのか?」
人事のように軽い口調は、
「・・雪代大尉。」
どこから湧いて出たのか、それは確かに雪代大尉だった。
「どうし・・いや、作業車が使えません、地盤が・・」
「なるほど。」
久野少尉に説明を受けながらも雪代大尉の足は穴の周囲をまわり、辺りを見渡している。
「指揮車両はどれだ。」
「まだ警察です。」
「インカムのシンクロは?」
「すぐ出来ます。」
「やれ。」
すっ飛んで行った久野少尉に見向きもせず、雪代大尉は警察の指揮車両に大股で近づいた。
久野少尉以下、全員が青灰色の作業着の中で、漆黒のそれは異様に目立った。
ましてその体格から魔界の王のようにさえ見える。その雪代大尉のひと睨みで木っ端警官はあとずさった。
魔王はのたまう。
「誰か一人、逆さに吊るして放り込む。」
ざわつくを通り越した警官達に冷ややかな一瞥をくれて、彼は続けた。
「殺したいなら俺達に任せろ、助けたいなら邪魔はするな。どちらを選ぶかはお前達が決めろ。」
沈黙の中に久野少尉の声が響いた。
「インカムのシンクロなりました。 雪代大尉、後の指示をお願いします。」
「高村! ガキを拾って来い。俺が引き上げてやる。」
作業車が使えなかった事で予感は有ったし、穴の直径から見て入れるのは亜湖以外に無いだろう。ましてや中の広さは不明なのだから。
亜湖は雪代大尉の言葉を冷静に受け止めた。
「了解しました。」
ハーネスの装着を久野少尉が手伝う間に、雪代大尉の指示で穴の周りに櫓が組まれた。
作業車から伸ばされたロープを櫓の滑車に通し、亜湖のハーネスにフックで留められた。
「悠木伍長、タオルを貸して貰えますか?」
「おぅ。」
ヘルメットを脱ぎ、インカムが外れないようタオルを被って留める。首元にシールが張られた。
「これで君の体調が判る、30分が限度だ、気を付けて。」
久野少尉の声は低かった。
「心拍数や血圧が急変したら、すぐに引き上げる。
此処が君の死に場所ではないからね。」
「久野、ブツクサ言うな。高村、行け。」
「はい。」
頭から入り込み、肩が抜けると全身がするりと入る。
そのまま滑り降りて行くと、中は思ったより広く子供では止りようも無く落ちてしまうのも頷ける。
『高村、どうだ、』
久野少尉の声が耳元で響く。
「もう少し早くても大丈夫です、」
『無理はするな、今15M、あと34Mでカーブに入る。』
「了解。」
延びたケーブルの所々に点った誘導ライトのお陰で、少なくとも先が分かるのは有り難かった。
ケーブルの先端にはカメラとマイク、鼓動や身体から出る二酸化炭素で生死が判る測定器があり、そこに子供がいる。
カーブに差し掛かると途端に狭くなった。
おそらくこれで死なずに済んだのだろう。
スピードが落ちないまま真下に叩きつけられたら、即死は免れても9時間も持たない筈だ。
その時、小さな頭と手が見えた。
「久野少尉、見えました。」
『よし、予備ハーネスで繋げ。』
「はい。」
多少角度が付いているとは言え、ほとんど宙吊りのままの作業はきつく、肩口の予備ハーネスを取り出すだけで汗が滴り落ちる。そっと子供に触ると、驚いたことに子供の眼が亜湖を見返した。
「もう大丈夫、お母さんの所に帰ろう。」
ぱちりと、瞬きをした子供が頷いた。
「久野少尉、」
『聞こえている、早くしろ、お前の血圧、心拍数が上がっている。』
久野少尉の声に緊張した響きが混ざっている。
手早くハーネスを留めた時、子供が泣き声を上げた。
「どうしたの?」
「モモちゃんも一緒。」
「・・・モモちゃん・・は、何処に居るのかな?」
「落ちちゃったの。」
『高村、それはウサギのぬいぐるみだそうだ。』
久野少尉が母親にきいたのか。
子供の身体越しにライトで照らすと、すとんと落ちた穴の底に白いかたまりが見えた。
「解った、後で拾ってあげる。」
「いや・・一緒~」
『高村、捕まえておけ、引きずり上げるぞ。』
「久野少尉、後でもう一度降ろして下さい。」
『だめだ、もう限界だ。』
「お願いです、私なら大丈夫です。」
『これは命令だ。ぬいぐるみと人の命を計れはしない。』
か細い泣き声が亜湖の心を揺さぶる。
暗い穴の中で幼い命を支えてきたのは・・・
腹を括るしかない。
「ジーン、 そこに居ますか?」
騒がしかったインカムの向こうに突然の静寂が満る。
それは長いようで有りながら、泡のように一瞬で消えた。
『何だ。』
感情を一切消した声。
「確約を下さい。」
『・・・承知した、早く捕まえろ。』
「有難うございます。」
「今ね、一番偉い人が約束してくれたから、必ずモモちゃんも助けるから、上で待っててね。」
しぶしぶと伸ばした子供の手を掴む。首の下に抱え込んで、
「Okです。」
声を掛けた瞬間、動き出した。
『40分 経過、急げ。』
脚も背中もぶつかりながらも、子供の頭を自分の身体で守り、やっと地上に引きずり出された時、亜湖は血が逆流する思いを味わっていた。
ぺたりと座り込んだ亜湖の手から子供が離され、待機していた救急車に運ばれて行くのを見送って立ち上がった。
「無茶をする。」
久野少尉の苦々しい声にわずかな笑みを返して首のシールを剥がした。
「行ってきます。」
誰もが黙ったまま、だが一言も止めようとはしない中、亜湖は穴に滑り込うとして、一瞬、ジーンと視線が合った。
煌くライトや照明の中、その瞳は不思議な輝きを放った。
( 綺麗だな・・)
おそらくもう二度とあの瞳を見ることは無い。
G倶楽部から離れたなら雪代大尉の当番兵も外されるだろう。命令に逆らい、公の場で口にしてはならない名を出したのだ。軍に残れる可能性さえ少ない。
穴の中を落ちるように進みながら亜湖は思い出していた。
切り捨てた片方に残る大きな思い、後悔のかたまり。
それでも・・・
「子供の居た地点です、出っ張りが有ります。」
『その先は?』
「急激に落ち込んでます。およそ15M。」
『一気に降ろす。』
「了解。」
そこは瓦礫の隙間であった。あの出っ張りも瓦礫の一部で、そこに引っかかっていたから助かったのだ。
白いかたまりがウサギだと視認した瞬間、降下が止った。
「久野少尉?」
任務遂行中は必要最小限の会話しかしない筈の兵隊達が、インカムが騒然とするほど騒いでいる。
久野少尉からの返事を待つまでもない、ロープの長さが足りないのだ。作業車が近づけないから。
『高村、距離は?』
「約5M。」
『済まない、これ以上は無理だ。』
決断の一瞬。
「ハーネスを外します、待って・・」
『高村、そのまま待て、いま降ろす。』
雪代大尉の声が聞こえた途端、身体が持ち上がった。
「大尉? 何を・・」
『黙ってろ、いま忙しい。』
インカムのざわめきが消え、久野少尉の指示だけが流れる。
『作業車、ロープを外せ。悠木、離すなよ、ゆっくりだ。』
亜湖の身体が再び降り始めた。
『距離。』
「4・・3・・2・・・・っ、届いたっ。」
『離すな、次は無いぞ。』
「了解。」
ぐいぐいとまるで手繰られるような上がり方がいったん止り、その間にウサギをハーネスにねじ込む。
再び身体が動き始めたのを、亜湖は遠ざかる意識の中で感じていた。
「高村、あと35Mだ。」
・・・・・・・・・・
沈黙したインカムに久野少尉は表情を変えた。
「急げ!」
真夏の夜の中でざわりと肌が粟立った。