03
早朝、Tシャツにジーンズのキリーは私物のダッフルバッグを車に積み込んでいたが、その後ろに留まった車を見て眼を見張った。
「俺達も海水浴・・じゃない、水泳訓練に参加するぞ。こっちはこっちで勝手にやるから気にするな。」
賑やかしい御一行の顔触れはアロハシャツを着こんだジーンを筆頭にコオハク、無理やり連れて来られ苦虫を噛み潰した表情のモクだった。にこやかに笑うジーンをキリーは気温さえ下がる眼で見て何か言いかけたが、そこへキッドがやって来た。
「済みません、遅くな・・・どうしたんです?ジーン。」
聞かれたジーンこそ眼を見張った。
夏らしい向日葵模様のタンクトップとデニム地のミニスカートはキッドの若さを鮮やかに引き立て、かてて加えて脚のラインは絶品だった。見惚れたのは当然ジーンだけでは無く、知って居る筈のキリーでさえ眼を奪われた。
「・・・運転しろ。」
余計な言葉が出ない内に出発した方が無難だった。
「驚いた、本当に貴方の云った通りの展開ですね。」
ハンドル捌きも軽くキッドが感心したように笑うが、キリ-の眼は呆れるくらい正直にキッドの脚に惹き付けられる。
ジ-ンを笑えない、と男は煙草に火を点けて窓を開けた。
「馬鹿だよな、男は。」
「いや・・・此処からが本番だ。先導しろよ、追い越されるな。」
「はい。」
「見たか、あの脚。」
「好いねぇ、男心をくすぐるねぇ。」
「キッドが運転してたら、見放題だろう。」
「くそぅ、何て羨ましいドライブだ。」
「俺も向こうの車に乗れば良かった。」
オヤジ4人がキリ-を罵り倒しながらのドライブは16号から横浜横須賀道路に入っていた。
ぴったりと後をつけて行くがフロント以外がスモ-クの車内は覗きようも無く、それが余計に腹立たしい。
「逗子か葉山か、あの辺りには洒落たホテルのプライベ-トビ-チが多いな。」
「生意気に、奴なんぞは江ノ島で十分だ。」
「そうだ、そうだ、キッドにたかる男を追い払って苦労すれば良いんだ。」
これが日本陸軍の少佐と大尉の会話だと思うとモクは情けなくて泣けてきそうになる。
だが、車は左へと車線を変える。
「こっちは・・・横須賀だな。」
「・・・海水浴場なんて、在ったか?」
「おい・・・まずいぞ。この路は・・」
確かに此処にも海は有る。海も有るが・・・それを支配する日本海軍の基地が堂々と広がってもいた。
「ジ-ン、この形じゃ拙い。」
「今更仕方が無い、奴等だっておんなじだ。」
開き直ったジ-ンは正面ゲ-トに止ったキリ-の後ろにつけた。が、降り立った前の二人に声を失くす。
触れば切れるほどの折り目の標準軍服を着こなし、鏡の様に磨き上げた靴を鳴らして警備兵に敬礼する二人の姿は見事なほど揃っていた。
後ろの席で何とも言えない声が上がる。
笑いを堪えるモクの、押さえた口から洩れた音だった。
「海軍に見学者は多いが、さすがにあれでは連れては歩けん。気に入らんかも知れんがそれで我慢して貰おう。」
ハクの伝手で何とか呼び出した高田大佐の笑い含みの呆れかえった言葉にジ-ン達は何も言い返せなかった。
ゲ-ト前でいきなり向きを変えて逃げては却って大事になりかねない以上前に進むしか無かったが、如何にも胡散臭げな視線の中で身分証の提示は顔から火が出そうに感じられた。
せめてG倶楽部の着衣ならば大威張りで入れるのに。
非公式ではあったが日本陸軍のG倶楽部を知らない軍士官は居ない、口に出す事は無いにしても・・・
高田大佐のコネをフルに使ってキリ-とキッドの訓練を見学するまでには多大な時間と忍耐が必要だったのだ。
「河野中尉は急ではあったが正式な手順を踏んでの要請だったが・・・まぁいい、此方だ。」
開いたドアの先は広大な室内プ-ル、では無く巨大な水槽。
台の上で通常戦闘服にコンバットブ-ツまで身に着けたキリ-が腕を組んで仁王立ちに立っていた。
「そうだ、落ち着けば浮かぶだろう。人間は嫌でも浮かぶように出来ている。」
キリ-の声に水の中を見るとキッドがぽっかりと浮かんでいた。
その顔は引きつり蒼褪めている。
「何がビキニだ・・・」
一昨日の買い物は絶対水着。それもキッドの表情から超際どいビキニだと断言したジ-ンに乗せられた挙句の、『海水浴バカンスお邪魔虫御一行(モクを除く)』は、針の視線をジ-ンに突き立てた。
キッドはキリ-同様フルの着衣を身に着けていたのだ。
高田大佐に気付いた一人の士官がキビキビと歩み寄って来た。
「大佐、彼らは何者ですか?」
ジ-ン達には見向きもせずその視線をキリ-へ投げる。
「なんだ、何か在ったのか?」
「泳げない女性兵士の水泳訓練と聞いていたので・・」
示した先に海軍女性士官がふたり困ったように立っていた。
どちらもウエットス-ツであるが、水に入った形跡は無い。
「用意をしていたのですが、服を着たままの彼女をいきなり水中に放り込んだ挙句、必死に足掻く彼女の頭を・・・」
聞かなくても解かった。おそらく蹴り飛ばしたに違いない。
キリ-の声が飛ぶ。
「眼を開けて顔をつけろ、眼薬が挿せるなら大丈夫だ。」
「力を抜け。そうだ、仰向けに伸びろ、沈みはしない。」
「息を大きく吸って止めたまま潜れ。」
海軍士官は只々見入っている。
なるほど海軍も此処までのスパルタは初めてらしい、とジ-ンは大佐に向かった。
「御厄介をお掛けしますが、宜しくお願いします。」
ジ-ンの敬礼にコオ以下も揃った礼を取った。
身体に合わない借り物の寸足らずなジャ-ジでなければ、もう少し恰好がついたものをと、モクは思いながら・・・
三日後の夕方になって帰って来たキリ-とキッドはそのまま戦闘訓練に入ったが、キッドの動きはまた変わっていた。相も変わらずキリ-は顔色一つ変えずにキッドを叱咤し続けていたが表情がどこか明るい、それは水泳訓練の成果がはっきりと表れたからに違いなかった。が・・・
「で? 着衣水泳は完全に仕込んだんだな。」
ジ-ンの確認は別の意味で返された。
「何を言ってる、そんな物は初日にクリアした。
二日目には遠泳と潜水、水中の格闘訓練までこなして・・今日は葉山の海岸でのんびり楽しんで来たぞ。
周りに群がる小僧共を追うのに難儀したがな。」
噛みしめた歯の隙間から唸る様に出た言葉は、
「このガキが・・・嵌めやがったな・・」
実際の話、キリ-が冗談の積りで買って与えたビキニはキッドの魅力を引き出す以上の効果があった。
深い血の色の真紅はビロ-ドのような手触りの不思議な色合いの肌にこの上なくマッチし、完璧なボディラインと日毎に増す美貌とを際立たせた。
その辺りでは育ちの悪い小僧は居ない筈なのにキリ-が睨みを利かせるのも一度や二度では済まなかったのも事実であった。
「これだけは言っておく。今のキッドには色恋沙汰の感情は一切無いし、今の俺は奴を完全な戦闘兵士に仕立て上げる事こそが何より大事な任務だと思っている。
ジ-ン、忘れてくれと俺が云うのは可笑しいが、何処かのポケットにしまっておいて置いてくれないか。
何時かそれを問題にする時まで。
どうでも許せないと云うのなら今、この場でケリを着けた方がキッドの為にも良いと思うが。」
僅かな静寂が室内を包みジ-ンの吐息がそれに被さった。
「そうだな・・・キッドの為ならそれがベストだろう、が・・・お前はそれで本当に良いのか?」
思わずキリ-は息を飲んだ。
キッドお大事のジ-ンに自分の内心を問われるとは考えてもいなかった。
「これでも俺はお前を育てた積りだぞ、お前を理解できる人間の一人だと思っている。対象の女に何の感情も無く抱ける男だと・・」
「辞めてくれ、ジ-ン。」
その顔に浮かんだ苦悩が総てを語っていた。
どれほどの言葉を重ねても、今のキリ-の心情を語ることは出来ないだろう。
「それ以上は聴く気は無い。俺は・・・」
背を向けた男が出て行くのをジ-ンは黙って見送った。
「怖かったです、息が出来ないし、鼻からも口からも水が入って来るし、眼を開けても閉じても。
でも初日の午後からキリ-が用意してくれたプ-ルにはイルカが居て、海軍のマスコットのヤマト君と泳いだら何だか楽しくて、クルクル回っている間に泳げるようになってました。」
満面の笑みで話すキッドに男達は言葉も無かった。
「でも、みんなは何処に居たんです?」
情けない恰好を見せたく無いお邪魔虫御一行(モクを除く)はそそくさと海軍基地を後にして帰投したのだが、どうやら姿は見られずに済んだらしいと胸を撫で下ろした。
「葉山で遊んだって?」
ハクの問いにキッドは美しい眉をきゅっ、と吊り上げる。
「軍に居ると民間の甘さは眼に付きますね。用も無いし知り合いでも無いのに馴れ馴れしく触って来たから張り倒そうかと思いました。」
「張り倒さなかったのか?」
していれば当然問題になるのだが、キッドは小さく吹き出した。
「私の後ろにキリ-が立っただけで逃げだしました。」
当然だろう、180を優に超える長身に加え、日々の鍛練を怠らない引き締まった体格は男の眼からも堂々としているし、整った顔立ちの中の鋭い眼差しはそこらの小僧では到底太刀打ち出来る物では無かった。
もっとも、その一度だけではなくキッドが歩くだけで視線が集まり、キリ-が飲み物を買いに行った隙にも、シャワ-の時にも、男達が群がりキリ-が無言の威圧で追い払ったのをキッドだけは気付いて居なかったのだが。
「
まあ、泳げるようになって良かったな、まさか金槌だとは知らなかったが。」
モクの笑い含みの声にキッドが頷いた。
「これで蒼龍とも戦えます、あの太極拳とはもう一度試合って見たかったから。」
ハクが眼を見張った。ジ-ンが云った通りだ。
「キッド、お前本当に李一族を知らなかったのか?」
「ジ-ンから聞きました、清国皇帝の末裔だと。」
コオが首を傾げて尋ねた。
「お前まだ知らない事が山ほど有りそうだな。なんなら俺が教えてやるが・・・」
「辞めておけ。」
いつの間にかキリ-が後ろに立っていた。さっきまでとは違う剣呑な表情がそこには浮かんでいる。
「此奴に関しては、語学と地理はジ-ン、銃火器はモク、それ以外は総て俺が仕込む。一般常識まで含めてな。」
それははっきりとした宣言だった。自らの後継として育成する覚悟を此処で示したのである。
誰一人何も言えない内にキリ-は出て行った。
「言い切りやがった、あれは本気だ。」
モクの呟きにハクも頷いた。
「キッド、覚悟しておけよ、おそらくは今まで以上の訓練が課せられる。」
「泣きたくなったら俺の処に来いよ。」
「大丈夫です、キリ-は出来無い事は教えません。今までも無理な訓練を強要された事は無かったし。」
男達は唖然とした。吐くまでの戦闘訓練も、いきなり水中に蹴り込まれるのも、この娘は極当然な訓練として受け入れているのか。ましてこのキリ-に対しての絶対の信頼は、世間擦れした海千山千の男達の胸を打った。
「・・・でも、今までも同じだったのに。何で今頃そんな事を云うんだろう。」
天然の強さと怖さを心底知った三人だった。
「マサチュ-セッツ、工科、大学。」
「・・・アメリカのマサチュ-セッツ州ケンブリッジ市の学校だね、ああコンピュ-タ-工学か。何時から?」
イヴが肩を竦めた。
「来週。気は進まないけどエラ-もそこで短期留学して専門知識をつけたから、行けって。」
キリ-と顔を合わせた時にキッドは尋ねてみた。
「何でエラ-は自分で教えないんですか? 貴方の様に。」
「あの分野は日々進化している、エラ-が知らない技術も多い筈だ。イヴが勉強してくればエラ-の為にもなるな。」
「・・・イヴは気が進まないと云ってましたが。」
「短期とは言っても半年以上は懸かるだろう、イヴは外の経験が無いからな。
だが向こうに行けばなかなか楽しいぞ。日本とは違う文化に触れると視野が広がる。」
何とも云えない表情のキッドをキリ-は見下ろした。
「どうした?」
「貴方は・・私を出しませんね?」
「・・・出して欲しいのか?」
「いいえ、確認しただけです。」
にっこり微笑んで立ち去る背中を見送ってキリ-はエラ-のいる情報管理室に立ち寄った。
「イヴをMITに送るのか?」
「ああ、最新の技術を取り込んで欲しいからな。イヴが帰ってきたら様子を見て俺も行って来る。」
端末の前に陣取るエラ-の横にキリ-は断りも無く座ると同期の男にだけ見せる顔を向けた。
「良い事だ、お前独りでは厳しかったからな。」
エラ-が片頬で笑った。
「あれを戦闘兵士にはしたく無かったんだろう? マッドへの配慮か?」
「・・・それも在るな。眼の前で死なれるのは辛い。」
まじまじとキリ-の横顔を見つめて、
「なんだ、最近は素直になったな、以前なら絶対に認めなかったお前が。」
「・・・・そうだな、人を育てるとそう云う感情も出て来るのかも知れんな・・」
「まぁ、大人になったと云う事にしておこう。」
イヴがMITに発って2週間が過ぎ、キッドは新入りの智也改めレオンの格闘訓練に駆り出されていた。
今まではルウとナイトが見ていたが二人がドンとボニに附けられキッドにお鉢が回って来たのだが、対したレオンは何とも困ったような表情を浮かべていた。
それに向かってウルフが煽る。
「レオン、良いか良く聞け。キッドの手足を床に着けられたら何でも奢ってやるぞ、抑え込んだら欲しい物を買ってやる、やってみせろ。」
「はぁ。」
ルウはなかなか良い腕だと云っていたし、ナイトも褒めていた。対峙すれば身体も大きいし反射も鋭そうに見える。
「では、行きます。」
律儀に云ったが後の動きは速かった。が、キッドからすれば隙だらけで、躱して投げて終わってしまう。
「ジ-ン、駄目だ。キッドは手加減が出来ない。師匠そっくりだなぁ。」
モクが何となく嬉しそうに言うと、キリ-が呆れたように横を向いて呟く。
「だから辞めろと云ったのに。」
だが、レオンは表情を改めキッドに向き直った。
「お願いします。」
今度は気迫が違う、と見てキッドが頷いた。
隙を攻める手加減は確かに出来ないが、中てる掌の弾きはもう一人の師匠キリ-仕込みの軽いものを見舞える。
何度も弾かれ、転がり、叩きつけられてもレオンは頑張ったが、30分が限界だった。
「今日は此処までだな。キッド、アップだ。」
ウェイトトレーニングに入ったキッドをレオンは驚きの眼で見送った。
「落ち込むなよ、キッドはキリ-同様G倶楽部の戦闘兵士だ。お前処か俺達でも手は出ない、キリ-の愛弟子だ。」
ハクの言葉に頷きながら呟いた。
「あんなに可愛いのに・・」
「全くだな。」
「歳も同じなんです。」
「ほう。」
「ハクイ女ですよね。」
「・・・レオン、手は出すなよ。殺されるぞ。」
「はい。でも、俺に惚れちゃったら仕方ないですよね。」
ハクは横目でレオンの若い顔を見て肩を竦めた。
「それは無いな。」
「ねぇ、今夜は良いだろ、面白い処を知ってるんだ。」
「駄目だ。」
「またぁ。此処じゃムードも無いじゃん。俺の連れが集まるクラブに連れてってやるからさ。」
「帰って寝ろ。」
「あんた其処でも目立つぜ、良い女は受けが良いから。」
「いい加減にしろ。」
「その素っ気なさが良いねぇ。」
G倶楽部内のキッドの部屋のドア口に立ったレオンは決して室内に入ろうとはしなかったが、この3日毎晩やって来て連隊を抜け出しての夜遊びに誘う。もっとも長居はしなかった。ひとしきり誘ってすぐに消える。翌日は何の変わりも無くトレーニングに励みまた夜やって来るのだった。
キッドが特に誰にも言わなかったのは部屋には入らない事と、それほどしつこくないからだった。叩きのめすのなら誰に頼むより自分で出来る。
だがその日はいつもと違っていた。
「不味い事になった、俺、あんたを連れて行かないと袋にされる。助けてくれないか。」
見ると手を合わせて青い顔を見せていた。
「馬鹿だな、私の知った事では無い、袋にされて来い。」
呆れてしまった、許可も無い夜間外出は禁止事項だった。
それを誘う人間を信じる馬鹿は居ない。だが、
「こうでもしなきゃ動いて呉れそうも無いからな。」
レオンの手の中にはハンドガンが銃口を此方に向けて握られていた。
「悪いな、傷をつける気は無い。俺と来てくれ。」
僅かに躊躇ったがキッドは吐息をついて立ち上がる。
「いくら私でも銃には敵わない、解かった。」
部屋を横切りレオンの横をすり抜けた一瞬、キッドの肘が銃口を跳ねあげた。同時に膝が腹に入り正拳が顎先に決まった。声を上げる間もない早業に崩れ落ちた男の手から拳銃を取り上げる。
「まったく、何が銃には敵わないだ。」
イヴの部屋からハクが現れてキッドから拳銃を取り上げた。
「俺の出番が無いじゃないか。」
「あ、あぁ・・・それより、どうします? これ。」
「ジ-ンに押し付けよう、色々やってそうだ。なぁ、キリ-。」
暗がりのマシンの影からキリ-がゆったりと立ち上がる。
「全くだな。後は始末しておく、お前は寝ろ。夜更かしは美容の敵だ。」
レオンは懲戒免職になり軍法会議で懲役が科せられた。
兄とツルんで遊んでいたぐらいは可愛い物だったが、ヤクザな仲間を怒らせ逃げる様に入隊したのだった。
更生したとの話をなまじ可愛い顔で言われた採用官は信じたし、初年兵時もエ-スだったおかげでG倶楽部に入ったが、ジ-ンの調べでも裏を取れず此処まで来てしまったのだ。
「この4.5日だな、態度が急変したのは。」
「何があった?」
「聞いて驚くなよ。キッドを売ろうとしたらしい。」
G倶楽部の男達は驚くより失笑してしまった。
「買い手が居るのか?」
「居ないとは言わんが・・・変わり者だな。」
「あれを買ってどうする?」
「黙って言いなりになどならないのになぁ。」
キリ-の言葉は痛烈だった。
「馬鹿が。」
吐き捨てる様に言い捨てて出て行った。
「カリフにはジ-ン、お前からきちんと伝えろよ。」
九龍島の蒼龍から連絡が入ったのは11月に入ってすぐだった。
珀龍が膝を日本で直す覚悟を決めたとの事だった。
ジ-ンに呼ばれてキッドが部屋に行くとキリ-が微妙な顔をして壁に寄りかかっていた。
「キッド、ガバメントオ-ダ-の単独任務だ。」
「はい。」
単独任務は独り立ちの証であった。
だからキリ-が立ち会って居るのだろう。
緊張と誇らしい思いを身体中に満たして顔を上げた。
だが、
「九龍島まで行き、無事に珀龍を連れて来い。」
「・・・・・・・奴はお姫様か。」
堪えきれずに吹き出したキリ-を横目で睨んで、ジ-ンはキッドに向かう。
「返事は?」
「承知。」
「失礼の無いようにな。」
「・・・了解。」
「珀龍の帰国時もお前に送ってもらう、その際は2.3日遊んで来て良いぞ。」
ここぞとばかりに言い切った。
「いいえ、結構です。」
11月の半ば、キッドが香港へ発つとG倶楽部には18期生が一人も居ない状態になってしまった。
「つまらん、何処を見ても可愛くないオヤジばかりだ。」
確かに見渡すとウルフ、コオハク、シュリとモク。エラ-にキリ-と新鮮さの欠片も無い顔触れが並んでいるだけだった。モクが笑う。
「レオンでも引っ張り出して突き倒すか?」
「笑えんな・・・奴のお蔭でG倶楽部は酷い目にあった。
採用官とは別のシステムを考えなくてはならん、表の中に絡めれば良いのだが・・・難しいかな。」
「少し考えて見ますよ、形が有ればいいんでしょう?」
イヴのお蔭で余裕の出たエラ-が珍しく機嫌良く云うとシュリも頷いた。
「確かにな、自分たちで創った方が確実だな。」
「叩き台で良い、出来次第で師団長に持って行く。」
「了解。」
情報管理室へ向かうエラ-を見送って、キリ-が立ち上がった。
「身体が鈍りそうだ、誰か相手を頼む。」
コオハクが顔を見合わせて笑い出した。
「お前の相手はきついなぁ、キッドが帰るまで待ってろよ。」
「袋で良いならやってやるぞ。」
ウルフがポンと手を打った。
「それだ、キリ-は手出し無用、俺達は何でも有り。」
行きかけたキリ-が振り返る。冷徹な表情が微かに笑んだ。
「好きにしろ。」
1時間後、累々とした屍に成り果てたG倶楽部の並居るオヤジ連中を片付けたキリ-は、息一つ乱さずに掻いても居ない汗を流しにシャワ-室へと歩き去った。
「まじ、ツエ-・・・」
「また腕を上げた・・・俺達じゃ無理だな・・」
日本陸軍の最精鋭、G倶楽部の誇る戦闘兵士キリ-は現在28歳。今が最も油の乗り切った時期である。
キッドがどれほど腕を上げても、当面はキリ-の首座を揺るがす事は出来ないであろう。
だが、キリ-は冷静に考えていた。
男の彼は今の状態を保てば34.5歳までは現役で行けるだろうし、その後は後輩の育成をしながらべつの技術を身に着けて活動を続けられる筈だった。もっとも担当伍長を経験するまでは何時、何処で命を落としても構わないと思っていたので未来を見ることも無かったのだが。
自分はそれでいい。此処でG倶楽部で生きて行けるならそれで良かった。
だが、キッドは・・・ロ-ワン、キリ-の直系の弟子は未だにその能力を伸ばしつつある。
それも恐るべき速さで・・・育てたキリ-でさえ眼を見張る才能は、素直な性格を根にふたりの師匠から与えられた技能を総て受け入れて花開こうとしている。
それでもキッドは直に二十歳を迎える女性でも有るのだ。
女性の身体は鍛練や摂生でもその変化を抑え切れる物ではない。
何処まで戦闘兵士として通用するものかキリ-でも先は見えなかった。
キッドの未来に何を残してやれるのか、初めて会った頃の迷い児の様にだけはしたくは無かった。
翌朝キリ-は自分の愛弟子をこよなく愛するもう一人の男の執務室のドアを叩いた。
「何だ、お前か。」
顔を見るなりの無礼な挨拶にキリ-は笑った。
「何を言ってる、当然俺だ。」
悪態をつこうとしたジ-ンを指で止めて壁に身体を預けて話し出した。
自分の考えを。
「・・・と云う事なんだが、奴の今後の路を幾つかは用意して置きたい。どう思う?」
キッドの名前が出た途端黙って聞いていたジ-ンは頷いた。
「そうだな、幾つかは有るな。まずはG倶楽部の戦闘兵士育成トレーナー、軍上層部への配置換え、もしくは結婚引退・・・おぉ、俺の嫁でも良いか。」
キリ-はもっともらしく頷いた。
「それがキッドに良いなら反対はしない、が・・俺は、キッドの、事を、云っている。
お前の事は考えては居ない。」
沈黙が続き、やがてジ-ンが、
「解かった、キッドの先を考えよう。だがキリ-・・」
「駄目だ、俺はこれ以上は聴く気は無い。」
くるりと背を向けた男にジ-ンが云う。
「キッドは何と思うかな、お前が手を離すと知ったなら。」
脚が止った。
「・・・今すぐの話では無い。ただ・・」
ジ-ンは黙って待った。
「・・・俺の職種を考えたら奴の今後を託せるのはあんたしか居ないだろう、どんな・・例えあんたの嫁でも奴が良いなら俺は構わない。行き場を失って迷う事にだけはしたく無いだけだ。後は任せるよ。」
返事も待たずに出て行く背中に届いた言葉は、
「承知した。」
キリ-が逃げているのはジ-ンには解かっていた。
出て行ったドアを見つめて僅かにその緑灰色の眼を伏せる。
キッドのこの先まで思い巡らせる男の屈折した愛情を、当の本人はどう受け止めるだろうか。
未だに未成熟なキッドでもいずれは大人になる、キリ-の心情を理解できる大人になる以前に手を離されたなら・・・傷つくのは必至。
ただ、今のキリ-の様子ではキッドが大人の女性として彼の前に立つまで待つ気は無さそうに思えた。
「難しい事だな・・・」
咥えた煙草に火を点けるのも忘れて呟いた。
昼近くジ-ンの元に電話が入った時、その場にはコオとウルフしかいなかった。以前は男ばかりが当然だったG倶楽部でも、キッドやイヴと云った生物学的に女の分類が入った事で、心情的にも変化は大きかった。
「つまらん。」
ジ-ンの一言が総てを表している様だった。が、
「ジ-ン、九龍島だ。」
取り次いだシュリから気軽に受け取ったジ-ンの表情が凍りつく。
黙って聞くジ-ンが緊急招集のシグナルを出したが、それはジ-ンらしからぬ緊迫の度合いの高い波長。
全員が集まるまでジ-ンは石と化したかの様に動かなかった。やがて、
「九龍島の蒼龍からだ。日本時間で今朝08:00時に香港に到着したはずのキッドが消えた。」
静まり返った男達の消された表情に続ける。
「到着が遅いので電話をしたが通じないそうだ。」
エラ-が素早く携帯を操作する。
「蒼龍が調べたところ、香港には着いた記録は残っている。が、その先が途切れた。今現在、李家の総力を挙げて調べているそうだが・・・何の手掛かりも無い状態だ。」
「電源が切れている。」
エラ-が携帯を切ってジ-ンに告げた。
「俺はネットワーク内を捜索する。」
キリ-は席を立つと、
「香港へ飛ぶ。仮にもガバメントオーダーだ、珀龍の始末だけはつける。キッドの捜索はその後だ。」
「いや、キリ-。それは俺達でやろう。お前はキッドに当たれ。手分けをした方が早い。」
ジ-ンの声が響いた。
「シュリとウルフはエラ-のフォローに入れ、全G倶楽部員に通達しろ。キリ-、コオハクモクは俺と九龍島だ。」