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女王キリエ  作者: カイリ
第12章 ゴールデン・ニムバス
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第12章「ゴールデン・ニムバス」第4話

エスタドとユヴェーレンの連合軍が国境に迫る。キリエは、反エスタド諸国に団結を呼びかけ、決戦に臨む。

 その頃、エスタドの軍勢は続々とガリアの国境に集結しつつあった。そして、ガルシアの要請に応じ、ユヴェーレンのオーギュスト王も軍勢をガリアへ差し向けた。

 決戦が始まる。エスタドの国民は物々しい空気に満ちる王宮を固唾を呑んで見守っていた。正直、本音を言えばエスタド国民は疲れきっていた。昨年の暮れから立て続けに侵攻を繰り返し、まだこれ以上戦うというのか。だが、元が誇り高く、束縛を嫌う国民性の故、クロイツの信仰の押し付けや、自分たちに従わないガリアに我慢がならなかった。国民は誰一人、王を非難しようとはしなかった。世界の頂に立つのは、我が主君、ガルシアただ一人なのだから。この戦いが終結した暁には、世界はエスタドの下にひとつになるだろう。


 ホワイトピーク海峡を臨むルファーン城の砲台。夕焼けで真っ赤に染まる砲台に、黒衣の男がひとり佇んでいる。

 ギョームの死はまだ公には伏せられていたが、若獅子王が絶命した場所には白銀の甲冑が捧げられていた。胴がめくれ、いびつに歪んだ鎧は砲撃の凄まじさをまざまざと見せ付けている。辺りに目を向けると、砲台の石垣も粉砕され、崩れかけている。

 ジュビリーは腰の剣に手をやった。誕生祝いに授けられた剣が、まさか形見の品になるとは夢にも思わなかった。

 彼の脳裏に、キリエを巡って憎悪の瞳を向けてきた青年の姿が浮かぶ。だが、ギョームはそのひたむきな情熱でキリエの心を勝ち得た。二人は互いを求めるようになった。そして、キリエに愛されていると確信を得たギョームは、自然とジュビリーに対する視線も穏やかになった。もう、揺るがない。自分たちは心から愛し合っている。その満ち足りた思いは、ギョームを大きく変えた。ジュビリーもそれを受け入れ、二人を見守る決意をしたのだ。ギョームならキリエを幸せにできると、信じたのだ。

「……若獅子王」

 ジュビリーは甲冑に向かって跪き、頭を垂れた。遺された者として、必ずキリエを守ってみせる。ジュビリーはギョームに誓った。

「侯爵」

 不意に声をかけられ、ジュビリーははっと振り返った。そこには、夕日を背に浴びた海賊が仁王立ちしていた。

「……ソーキンズ」

 彼は崩れかけた石垣に寄り掛かると港を見下ろした。

「夜明けと共に出航する」

「……頼んだぞ。ホワイトピーク公にはおまえが自由に動けるよう要請してある」

 ジュビリーはそこで一度口をつぐみ、目を伏せて呟いた。

「……出航する前に女王に挨拶してゆけ」

了解(アイ)、サー」

 ソーキンズは素直に応じた。二人はしばらく赤く染まる海を眺めていた。やがてジュビリーは海賊を一瞥した。逆光を浴びた黒い顔は表情が掴めない。

「……王侯に恨みでもあるのか」

 宰相の呟きに振り返る。

「それとも、エスタドにか」

 ソーキンズはふんと鼻で笑う。

「……そんな御大層なもんじゃねぇ」

「何があった」

 会議で見せたガリアの廷臣らに対する激しさは引っ掛かるものがあった。ジュビリーはじっと海賊を見つめた。長い沈黙の末、小さく吐息をついてからソーキンズは口を開いた。

「俺はな、アングル生まれのエスタド育ちだ」

 ソーキンズの言葉にジュビリーが思わず身を乗り出す。彼は腕を組むと目を細めて続けた。

「親父は船乗りで、金を稼いだら船を降りて商人に鞍替えした。……夢だったのさ。大陸一の貿易商になるってな」

 海賊の目が懐かしさと寂しさが入り混じった色に変わる。

「商人になるなら貿易の盛んなエスタドがいいってんで、親父は俺とお袋を連れてエスタドに移住した。だが、奴らはよそ者の俺たちを見下した。田舎の島国から来た俺たちを相手にしようとしなかった。必死に働く親父とお袋を見て育った俺は、エスタドの奴らを見返してやりたいと思うようになった。だから、十三になるとエスタド海軍に入隊した」

 エスタド海軍。ジュビリーは黙って言葉の先を待った。

「波の上じゃ実力が物を言う。俺はどんどん出世していったよ。それで、少尉になった年だ。ユヴェーレンの援軍としてカンパニュラ海軍と戦った時、司令官がしくじって艦隊が壊滅状態になった。……その司令官、どうしたと思う?」

 ソーキンズはにやりと凄絶な笑みを浮かべてみせた。

「俺の伝達間違いをでっち上げて、すべての責任をなすりつけやがった」

 赤い夕日に照らされたジュビリーが眉間に皺を寄せる。

「誰も俺を庇おうとはしなかった。邪魔くせぇよそ者を厄介払いできるぐらいにしか思わなかったのさ。拷問を受けた俺は死にかけた状態で船倉にぶち込まれた。その時、俺は誓ったんだ。エスタドの奴らを許さねぇってな」

 ソーキンズは息を吐き、やがて言葉を継いだ。

「俺は何とかして船を抜け出し、運よく商船に潜り込んでアングルに逃げ帰った。今更もう陸では生きていけねぇ俺はアングル海軍に入ろうとした。そしたら、奴ら何て言ったと思うよ。『一度他国と関わった者を入隊させるわけにはいかない』と門前払いさ」

「……本当か」

「けっ、これだからお役人ってのは……」

 苛立たしげにふんと鼻を鳴らす。

「そんなわけで、俺は居場所がなくなった。どこにも行けねぇ。だから、俺は海賊になった」

 海からの風が海賊の髪を揺らす。白髪が混じった縮れた髪。風雨と焼き付ける太陽の陽射しを長く浴びた顔には、険しい皺が刻み込まれている。ジュビリーは低い声で問いかけた。

「だから……、エスタド船籍だけ襲ったのか。奪った財宝をアングル王室に献上したのは、アングル人に戻りたかったからか」

 海賊は自虐的な笑みを浮かべた。

「お墨付きが欲しかっただけだ。……だけどよ、ガルシアが怒り狂って俺をとっ捕まえようとしていると聞いた時ぁ嬉しかったね。あのハゲワシの吠え面を想像するとな」

 だが、やがてその笑みは消え、海賊は目を眇めて海を見つめた。

「でも、まだだ。戦いはこれからよ。だから……、お姫さんには強くなってもらう必要があった」

 二人の脳裏に、あの日海賊に一喝された幼い王位宣言者の姿が蘇る。

「これからもあんたのために人が死んでいくことを忘れるなッ!」

 その言葉でキリエは悟ったのだ。自分はこれから、人の生死を左右する為政者になるのだと。

「……女王は強くなった。おまえの一言で目が覚めた」

「俺は何もしてねぇよ。強くしたのは、あの若造だ」

 ジュビリーは目を細めた。そんな宰相を振り返ると、ソーキンズは低く呟いた。

「……気ぃつけろよ、侯爵」

 海賊は鋭い目で言い添えた。

「今のお姫さんは(たが)が外れると、沈むぞ」


 翌日。夜明け前の礼拝堂に廷臣たちが集まっていた。凍て付く寒さに皆が白い息を吐きながらその場に立ち尽くしていると、やがて靴音が響く。皆が静かに振り返ると、そこには修道女のローブを身にまとったキリエが佇んでいた。マリーエレンとモーティマーに手を沿われ、キリエは静かに歩みを進めた。その背後を黒衣の宰相が続く。

 キリエはルファーン城に到着してからほとんど眠っていない。眠ったと言えるのは、ジュビリーが到着し、気を失って倒れたあの時ぐらいだ。睡眠だけでなく、ほとんど食事も取っていない。そんなキリエが戦場へ赴くことをマリーは最後まで反対したが、すでに彼女は聞く耳を持たなかった。

 ギョームの棺に近付くと、キリエはその場に立ち尽くした。あの日から、キリエはずっとギョームの棺の側で過ごしていた。風邪をひくと周囲がなだめても、離れようとはしなかったのだ。

「……陛下」

 モーティマーがそっと囁く。キリエは小さく頷くと震える手を合わせる。

「……〈聖使徒〉ギョーム・ド・ガリアの帰天礼を、執り行います」

 王妃の小さな声に、廷臣らが跪く。

「あまねく広がるヴァイス・クロイツのお恵みを……」

 キリエはそっと棺の前に進み出た。棺には、あの日のままのギョームが静かに横たわっている。何度覗き見ても慣れることなどない。キリエは表情を崩すと必死に涙を堪えた。

「……ギョーム・ド・ガリア」

 震える声が礼拝堂に響く。

「汝の魂は今肉体を離れ、天へと帰ります。……天の門を潜る前に汝の罪を清めるため、今ここに参列する者たちが祈りを捧げます……」

 キリエの詠唱に続き、皆が祈りの言葉を呟く。

「……暗き淵より生まれし命の光。天の恵みを受けし大地に根ざし、命と命が手を取り合い……」

 詠唱が始まるが、すぐに口をつぐんでしまう。

「……王妃」

 マリーがそっと肩に手を添える。キリエは合わせた手を離すと顔を覆う。

「……駄目! ギョーム……!」

 幼い王妃の悲痛な叫びに廷臣らが唇を噛み締め、項垂れる。

「王妃」

 ジュビリーがそっと寄り添うと耳元で囁く。

「……無理はするな。……きっと彼も、おまえに無理はさせたくないはずだ」

 その囁きにキリエはしゃくり上げながら顔を上げ、棺の中の夫を覗き込む。無表情で眠っているギョーム。キリエは恐る恐る手を伸ばすと彼の頬を撫でた。

「……ギョーム……」

 許してくれる? あなたを天に帰したくない。今だけ、修道女をやめてもいい? だが同時に、キリエの胸にギョームの強い声が響く。

(キリエ、そなたはアングルの女王だ。そして、ガリアの王妃だ)

 ……そうだ。私は、女王だ。ギョームの妃だ。いつまでも嘆き悲しんでいるわけにはいかない。戦いは今も続いているのだ。キリエはぎゅっと目を瞑ると涙を呑んだ。黙ってギョームの頬を撫で、やがて静かに目を開く。キリエはギョームの腰に短剣が添えられているのを目にすると、無言で短剣を引き抜いた。

「王妃!」

 止める間もなかった。キリエは頭布(ウィンプル)を取り除けると長い栗毛の髪を手で束ね、切り裂いた。

「王妃……!」

 切り取られた栗毛が肩の上で揺れる。廷臣らは絶句して王妃を見つめた。

「キリエ様……!」

 マリーが口を覆うとその場に座り込み、声を上げて号泣する。

「……キリエ……」

 ジュビリーも顔を歪めて呻く。だが、キリエはひとり静かに髪をウィンプルで包むとギョームの胸に捧げた。彼女の脳裏に、ギョームの言葉が響く。

(私はそなたの髪が好きだ。ずっと撫でていたくなる)

 彼はそう言って優しく撫でてくれた。この髪を置いてゆく。彼を、ひとりにはさせない。キリエは棺に身を乗り出すと、そっとギョームの唇に口付けた。冷たく、固い唇。乾いた頬に涙がこぼれる。ことあるごとにくれた優しい口付け。これからもずっと交わされるだろうと思っていたのに。これが、最後なのか。長い口付けを終えると、キリエはギョームに囁いた。

「……いってくるわ。ギョーム」

 その時。突然背後の扉が音を立てて開け放たれた。皆が息を呑んで振り向くと、そこには侍女を連れた初老の女性が立ち尽くしていた。

「……ルイーズ……」

 ルイーズは血の気の失せた白い顔で呆然と立ち尽くしていた。やがて、覚束ない足取りで祭壇までゆっくりと歩み寄る。ルイーズは震える手を挙げ、短く切られた王妃の髪に触れた。

「……王妃……!」

 キリエは黙ってルイーズを抱きしめた。

「ルイーズ……、今までありがとう。あなたはいつでも、ギョームの味方だった」

 ルイーズは声を押し殺して咽び泣くとキリエの背を抱きしめた。しばらく抱き合っていた二人だったが、やがてキリエはルイーズの手を引いて棺へと導いた。

「陛下……!」

 ルイーズは顔を歪めてギョームの顔を両手で包み込んだ。幼い頃からいつも側で養育してきたルイーズ。王妃マーガレットが亡くなってからは、ギョームに煙たがられていることを自覚しながらも寄り添ってきた。父王に対し挙兵し、内戦が始まるとギョームの身を案じながらも後宮を守り通した。そして、ギョームは立派な王になった。命を懸けて愛する人も見つけ出した。彼女にとっては、「自慢の息子」だったのだ。

「ルイーズ、ギョームの側にいてあげて」

「王妃……!」

 キリエの言葉に、涙で汚れた顔を上げる。

「お、王妃は……、どちらに……!」

「……ガリアを守りに行くわ」

「王妃!」

 ルイーズは金切り声を上げてキリエにすがりついた。

「なりません! そんな、戦場へ行くなど……! 陛下が……、陛下がお許しになるはずが……!」

「でも、私が行かないとガリアもアングルも守れないわ」

「王妃……!」

 キリエはそっとルイーズの肩を抱くと耳元に口を寄せた。

「約束するわ、ルイーズ」

 虚ろな瞳のまま、キリエは低く呟いた。

「無様な戦いはしないわ」

 ルイーズは、息を呑んでキリエを凝視した。


 クロイツでは、出陣の準備を終えてまさに今大聖堂を出ようとしていたヘルツォークが騎士に呼び止められ、ムンディの執務室に向かっていた。

「猊下」

 ムンディは険しい表情で顔を上げた。その手には書状が握り締められている。

「ギョームが……、身罷った……!」

 ヘルツォークの顔が青ざめる。そして、無言で大主教の元へ小走りに駆け寄る。

「砲撃の巻き添えを食ったらしい……。まだガルシアには知られてはおるまいが、しかし、まさか、こんなことになろうとは……!」

 悔しげに呻くムンディに、ヘルツォークは眉間に皴を寄せる。彼の脳裏に、愛する妻と寄り添っていた若い王の姿がよぎる。

「キリエ女王は……」

「それが心配だ。せっかくギョームとの絆が深まった矢先に……」

「エスタドとユヴェーレンの連合軍がガリアとの国境に迫っているとのことです。一刻も早く支援に……」

 その時、執務室の扉が荒々しく叩かれる。

「何事だ」

「猊下! ガリアから使者が……!」

 瞬間、ムンディはヘルツォークと目を合わせると「通せ」と告げる。

「大主教猊下……」

 顔を強張らせた使者が現れると恭しく跪く。

「キリエの様子はどうだ」

「はっ……」

 使者は搾り出すようにして言葉を口にした。

「ギョーム王のご遺体と対面した折にはかなり取り乱され、一時は憔悴しきったご様子でございましたが、すぐに各方面へご指示を……」

 ムンディは目を細めると口許を歪めた。

「惨いのぅ……。まだあんなに幼い娘が……」

「それから、猊下へお伝えするようにと……」

「何だ」

 使者はごくりと唾を飲み込むと、上目遣いで大主教を見つめた。

「……女帝になられることを、承諾すると」

 ヘルツォークがムンディを仰ぎ見る。ムンディは目を見開き、使者を凝視した。

「……確かにそう申したのだな」

「はっ……」

 その場が静寂に包まれる中、ムンディは額に手をやった。

「……わかった。すべて私に任せよと伝えよ」

「はっ」

 使者が深々と頭を下げて部屋を退出すると、ムンディは深い溜息をついた。

「……キリエは女帝になる」

「猊下……」

「各国に呼びかけるのだ。カンパニュラ、ポルトゥス、ナッサウ、バーガンディ、レオン、レイノ。エスタドとユヴェーレンに対抗する国々全てだ!」

「御意」


 帰天礼を終えると、廷臣らを従えたキリエが城門に向かった。ギョームと共に随行していたガリア軍に加え、ジュビリーが引き連れたアングル軍。将兵らは異様な興奮でざわめき立っていた。出発を前に、正式にギョームの死が公表されたのだ。兵士らは甲冑に身を包んだ王妃を目にして色めき立った。いつも綺麗に結い上げられていたはずの王妃の長い栗毛は切り裂かれ、肩の上で揺れている。

「王妃……!」

「王妃様!」

「女王陛下!」

 自分を呼ぶ兵士らを振り返り、キリエは哀しげに目を伏せると、やがて表情を引き締め、用意されていた(やぐら)に登った。

「聞いて! 皆……!」

 皆は口をつぐみ、壇上の王妃を見つめた。

「……王が、身罷られました」

 兵士らは唇を噛み締め、項垂れた。中には不安げに眉をひそめ、キリエを凝視する者もいる。

「ギョームは、エスタドのガルシア王から私の国を守ろうとして……、命を落としました」

 櫓の下では、二人の宰相が悔しげに眉間の皺を深めた。

「そして今、ガルシアは再びガリアに襲いかかろうとしている! 国境にはエスタドとユヴェーレンの連合軍が迫っています」

 兵士らの口からざわめきが漏れる。だが、キリエは拳を握り締めて叫んだ。

「これを、最後の戦いにしましょう……! クロイツのムンディ大主教が、大陸各国に呼び掛けて下さいます! だから……。だから、私に力を貸して……! 共に世界を守るのです!」

 その時、バラが右手を左胸に添えると声を限りに叫んだ。

「〈聖女王〉の下へ集え! ギョーム王の無念を晴らそうぞ! 天はお守り下さる!」

 その言葉に兵士らは目を見開いた。

「……天はお守り下さる……!」

「天はお守り下さる……!」

 皆の口から次々と叫びが上がる。

「ギョーム王のために……! キリエ女王のために!」

 キリエは馬上で身を乗り出した。

「世界のため! 今ここにいる皆のため! そして、皆が守りたい全ての者たちのため! 戦うのです!」

 天を揺るがす鬨の声が上がる。キリエの名を呼ぶ何千もの将兵の叫び。キリエは震えながら彼らを眺め渡した。そして、再び口を開こうとした時、涙が喉元まで込み上げ、思わず口を覆った。

 歓声が響き渡る中、軍勢は一斉に城門へと繰り出した。涙を堪えながら櫓を降りたキリエに、ジュビリーが背後から名を呼ぶ。彼は、剣を捧げ持って佇んでいた。

「……今だけ、おまえに預けておく」

 そう言って剣を差し出すジュビリーに、キリエは眉をひそめる。彼は低く呟いた。

「これは、私がギョームから賜ったものだ。戦いが終われば……、返してもらう」

 キリエは恐る恐る両手を差し出して剣を受け取ると、剣の鞘をそっと撫でた。柄に埋め込まれた鮮やかなサファイアが光る。その青い輝きはギョームの瞳を思い出させた。彼女は思わず剣を胸に抱いた。

「……ギョーム……」

 ジュビリーは眉間に皺を寄せ、目を細めてキリエを見つめた。思わず拳を握り締める。自分がキリエの運命を変えたのだ。キリエだけでなく、ギョームの運命も。

「……キリエ……」

 ジュビリーは小さく呼びかけた。

「私は、おまえをひとりにはしない。……絶対に」


 ガリアとエスタドの国境を、黒い軍勢が波のように押し寄せている。エスタドとユヴェーレンからなる連合軍は、平野を埋め尽くすかのような勢いで進軍した。第一陣を指揮するトーレス男爵は、斥候からの報告に顔を歪めた。

「国境を突破できんのか」

「はっ。前衛隊からの報告によると、唯一攻略しつつあるのが、プイグ城です」

「プイグ城……」

 トーレスは苦々しげに舌打ちをした。バスケー地方がこの季節には濃霧に覆われることは、知らぬはずもなかった。だが、ガリアとエスタドの国境には、およそ三百年前にガリア王によって築かれた堅牢な城壁が連なっている。城を攻め落とすしかない。

「全軍をプイグ城に集結させろ。時間が惜しい。早いうちに越境せねばならん。今頃、あの修道女が田舎の軍勢を呼び寄せているはずだ。急げ!」

 トーレスの判断により、すべての軍勢がプイグへ集められ、城は間もなく陥落した。だが、その間にもガリアにはカンパニュラやポルトゥスの軍勢が集結していた。その報せは、エスタドの王都ヒスパニオラに速やかに伝えられた。王の出陣を促すために。


 物々しい空気に満ちたピエドラ宮殿。ガルシアの出陣に備えて厳重な準備が進められる中、姉が軍に同行することを聞きつけた末の王女アンヘラが後宮で泣き喚いていた。

「どうして父上だけでなく、姉上まで行かなくちゃならないの!」

 しゃくり上げながら叫ぶアンヘラを、フアナは困りきった顔つきで抱きしめた。その後ろでは、やはり険しい顔つきをした父親が椅子に座り込んでいる。

「ほ、本当は、父上にも、行ってほしくないのに……! どうして、姉上まで……!」

「アンヘラ、私は父上の跡継ぎだから」

「そんなの、理由にならないわ!」

 アンヘラは顔を上げると父親に食ってかかった。

「お願い! 父上! 姉上を連れて行かないで! 父上も……、父上も行かないで!」

「駄目だ」

 ガルシアは強い口調で言い放った。

「それはならん。軍の指揮を執るのは私の義務だ。……フアナは、私だって連れて行きたくはないが……」

「ひどい……! ひどいわ……!」

「アンヘラ」

 二女のイサベラが父親を責める妹をたしなめる。フアナが再びアンヘラを抱きしめる。

「為政者はね、戦争を始めたら、戦争を終わらせなきゃならないの」

「姉上……!」

 妹の髪を優しく撫でるフアナを、ガルシアは複雑な表情で見守っていた。この慈愛に満ちた優しい顔つきは、亡き妻を思い出させる。妻も、自分が出征する時には泣き喚いていた幼いフアナを必死になだめていた。フアナは、そんな母を見て強い女性に育った。ガルシアにとっては喜ばしく、そして頼もしいことだった。だが本当は、娘にこんな決断をさせることは胸が張り裂けそうなほど辛いことだった。

フアナはいつか女王になる。このプレシアス大陸に広がる強大なエスタド王国に君臨するに足る存在だということを、知らしめねばならない。同時に、民だけでなく、自らも戦うことで人心を高める必要もある。フアナの決断は正しい。ガルシアは断腸の思いでそれを認めざるを得なかった。

「……フアナ」

 父親の呼びかけでフアナは振り返った。ガルシアの哀しげな瞳に彼女はにっこりと微笑んでみせた。だが、その時。

「陛下!」

 広間にビセンテが駆け込んでくる。

「どうした」

「一足先に越境した斥候が戻ってまいりました」

 その場に緊張が走る。ざわめきと共に数人の兵士がやってくる。広間は一気に殺伐とした空気に満たされた。

「状況は」

「はっ。国境には、ガリア・アングル連合軍だけでなく、カンパニュラやポルトゥス、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の軍勢が集結しつつあり、我が軍と接触するのも時間の問題かと思われます」

「うむ」

「それから、未確認なのですが……」

 ひとりの斥候が躊躇いがちに呟き、ガルシアとビセンテは眉をひそめた。

「どうした」

「はっ。それが……、〈白百合〉の軍旗は確認できたのですが、〈白百合〉と〈赤獅子〉の軍旗が……、見当たらないのです」

 ビセンテが目を見開き、ガルシアを振り返る。王も息を呑んで斥候を凝視している。〈白百合〉はガリア王家、〈赤獅子〉はアングル王家の紋章。それぞれの血を引くギョームは、この二つを組み合わせて自身の紋章としている。それが、見当たらないということは……。

「どういうことだ……!」

「……わかりませぬ。ですがその代わりに、〈赤獅子〉と〈白百合〉と……、〈青蝶〉の軍旗が……」

 恐る恐る言上する斥候に、一同は言葉を失った。〈青蝶〉は、グローリア伯爵家の紋章……!

「……聖女王騎士団か」

「いいえ。聖女王騎士団の紋章は〈赤獅子〉と〈青蝶〉のみです。……〈白百合〉が加わっているということは……」

 ガルシアは呻くように呟いた。

「……キリエ・アッサーが……、戦場に?」

 斥候は重々しく頷いた。

「……恐らく。ですが、あのギョーム王が妃を戦場に送り込むなど考えられません。王の軍旗がなく、王妃の軍旗が前線にあるということは……、よもや……」

 皆が息を潜める中、ガルシアはやや呆然とした顔つきで呟いた。

「……ギョームが、死んだのか」

「……では、ないかと」

 ビセンテがごくりと唾を飲み込んだ時。がたん、と物音が響く。

「フアナ!」

 フアナは顔を背けて広間を飛び出した。ガルシアは顔色を変えて娘を追いかけた。

「フアナ! 待て……!」

「……来ないで!」

 大廊下を走りながら、フアナは振り向きもせず叫び返した。侍従や女官、貴族たちはひとりで大廊下を走り抜ける王太女に驚き、息を呑んだ。後宮に向かったフアナは、小部屋に飛び込むと扉をばたんと閉ざした。

「……フアナ……。フアナ、開けろ」

 父の声が聞こえてくる。

「……駄目……!」

「フアナ……、おまえ、まさか……」

「来ないで……!」

 フアナの嗚咽が混じった叫びにガルシアは困惑の表情で立ち尽くした。扉は体当たりでもすればすぐに開かれるだろう。だが、ガルシアは途方に暮れた様子で扉を見つめた。

 フアナは肩を小刻みに震わせながら、扉に背中を預けるとずるずると座り込んだ。今まで誰にも語らず、胸に秘めていた想いがあった。

 ギョームに、会ってみたい。

 縁談が持ち上がった時、フアナは様々な人々からギョームの噂を伝え聞いた。獅子のように輝く金髪に、美しい碧眼。容貌も麗しい上に賢く、人民に慕われている王太子。フアナは秘かに胸を躍らせた。どんな人なのだろう。会ってみたい。

 それは、最初の婚約者、アングルのエドワード王太子に対する思いとは違っていた。エドワードと婚約していた頃は互いが幼すぎた。フアナにとっては年下でもあり、体の弱いエドワードは婚約者というよりも、弟を見守るような想いがあった。だが結局、エドワードは十歳という幼さで夭逝した。

 その後に持ち上がったギョームとの縁談。人々の噂を伝え聞いたフアナは、まだ見ぬギョームに恋心を抱いたのだ。だが、その想いは無残に打ち砕かれた。自分を拒んだギョームは父の逆鱗に触れ、エスタドとガリアは一触即発の危機に陥った。ギョームがエスタドとの同盟を嫌がった結果だと聞かされたものの、フアナは心に深い傷を負った。彼女は悩み苦しんだ。自分は、誰にも必要とされていないのではないか。ガリアとの同盟を願っていた父の役に立つこともできなかった。

 だが、それでもフアナは心の奥底でギョームを思い続けていた。ひと目で良いのだ。会ってみたい。あの、ガリアの若獅子に……。

「……ギョーム・ド・ガリア……」

 フアナの震える唇から小さな囁きが漏れる。想いは伝わらずとも、一度だけでも会いたいという願いは、もはや永遠に叶うことはない。フアナは悔しげに顔を覆い、嗚咽を漏らした。


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