表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女王キリエ  作者: カイリ
第12章 ゴールデン・ニムバス
96/109

第12章「ゴールデン・ニムバス」第3話

ギョーム死す。その報にキリエは…。一方、アングル上陸に失敗したガルシアは再びガリアへの越境を目論む。

 翌朝。ルファーンの使者がバレクラン城に到着した。侍従次長カンベール子爵は崩御した王の子を身篭っているエレソナの元へ、王の死を報せに行かせたのだ。ルファーンからの報せに、バレクラン城の人々に動揺が走る。

「レディ・エレソナには、まだこのことは伏せておくよう……、お願いいたします」

 使者の言葉に、侍従らは怯えた様子でローザを仰ぎ見た。

「……ミス・シャイナー……」

 さすがに青ざめた顔つきのローザはしばらく沈黙を守っていたが、やがて静かに口を開いた。

「……エレソナ様のご様子を窺って参ります」

 侍従らは固唾を呑んでローザが立ち去ってゆくのを見守った。臨月を迎え、まさにいつ生まれてもおかしくない状況のエレソナ。彼女は静かにその時を待っているが、心を乱すようなことは耳に入れたくない。

 温めたミルクを持ってエレソナの寝室へ向かうと、主は窓のカーテンを開け、嵐が過ぎ去った空を眺めていた。その横顔はいつもと変わらない。

「……おはようございます、エレソナ様。ミルクをお持ちしました」

 ローザの呼びかけにもエレソナは振り返らず、無言のままだ。

「昨夜の嵐は大変でしたね……」

「ローザ」

 エレソナは外を見つめたまま呼びかけた。

「ギョームは、どこで死んだのだ」

 ローザは手にしたカップを取り落とした。温めたミルクが絨毯にこぼれ、かすかな湯気を立てる。小さく震えながらローザはエレソナを凝視した。彼女はゆっくりと振り返った。いつもと変わらない、やぶ睨みの目。

「奴が、昨夜夢枕に立った」

「……エレソナ様……」

 ローザは深呼吸を繰り返した。そして、ごくりと唾を飲み込んでから口を開いた。

「……ギョーム王陛下は、ルファーン城で、砲撃の巻き添えを……」

 エレソナはわずかに眉をひそめると目を閉じ、大きくなった腹をそっと撫でた。

「……子が、騒いでいる」

「……え?」

 ローザが恐々と聞き返す。エレソナはうっすらと目を開けると、呻くように呟いた。

「父親を殺されて……、子が怒り狂っている」

 静かな呟きには、怒りや絶望といった響きは感じられない。それでも、彼女は言葉を続けた。

「ここから出せと、騒いでいる」

 室内には、二人の息遣いだけが静かに響いた。


 ルファーン城の礼拝堂へ続く渡り薄暗い廊下。そこに、肩を分厚い包帯で覆われたアンジェ侯バラが床に座り込んでいた。顔には深い皺が刻まれ、引き結んだ唇が歪む。彼の周りには、数人の兵士が鎮痛の表情で立ち尽くしていた。やがて、廊下の奥からばたばたと足音が響いてくる。バラは顔を上げると、重い体をゆっくりと起こした。足音が少しずつ大きくなり、廊下に反響して大音響へと変わってゆく。やがて、暗い廊下からキリエの姿が浮かび上がる。真っ白い顔で息を弾ませ、両目を見開いて走ってくる王妃に、バラは胸が詰まった。

「……王妃」

 バラの姿を認めたキリエはぎくりとして立ち止まった。そして、痛々しい姿の彼に恐る恐る近寄る。

「……あ、……あ……」

 口を開くものの、キリエは言葉を発することができなかった。そして、彼女は泣き出しそうな顔で宰相の肩をそぅっと撫でた。バラは目をぐっと閉じるとその場に跪いた。

「……キリエ様」

 追いかけてきたマリーエレンが息を切らしながら囁く。キリエは小さく震えながら礼拝堂の開け放たれた扉を見つめた。震えを止められない手をマリーがしっかりと握り締める。足がすくんで動けないキリエをじっと見つめると、彼女はゆっくりと足を踏み出した。

 冷たい空気に満ちた礼拝堂に、不規則な靴音が響く。仄暗い礼拝堂。祭壇へと導く長い長い通路の先に黒檀の棺が置かれているのを見て、キリエは顔を引き攣らせた。あの時と同じだ。レノックスが死んだ、あの時と……! キリエはマリーに抱きつくようにして、震える足で歩み寄った。だが、あと数歩というところでキリエの足はがくがくと震え、動けなくなった。彼女の目から堪えきれず涙が溢れ出る。

「……キリエ様……」

 マリーも涙の滲む声で囁く。二人が立ち尽くした様子を見て、背後に控えていたモーティマーが強張った顔で前へ進み出た。

「……陛下」

 モーティマーはキリエの手を取ると、半ば抱きかかえるようにして一歩一歩棺へと歩み寄った。やがて、棺の前までやって来るとキリエは口を手で覆った。

そこには、彫像のように美しい遺体が納められていた。真新しい鎧が着せられているのは、バラの配慮だ。脇腹を吹き飛ばされた夫の姿を目の当たりにすれば、王妃はきっと狂気に駆られる。

 輝く金髪。長い睫毛。白い頬。まるで生きているようだ。だが、キリエにとっては恐ろしく違和感があった。表情がないのだ。キリエが大好きだった優しい微笑がない。穏やかで柔らかな微笑が、ない。ギョームは、やや強張った顔で静かに眠りについていた。二度と覚めることのない、永遠の眠りに。

「……ギョーム……!」

 キリエの口からその名前が漏れる。彼女は恐る恐る両手を差し伸べた。

「お、お帰り、なさい、ギョーム……」

 どもりながら呼びかけ、そっと頬を包み込む。が、その冷たさにびくりと体が跳ねる。キリエの表情が崩れる。……冷たい。あんなに、温かかった頬が、こんなにも冷たい。

「お、お疲れ様……。さ、寒かったでしょう……? あ、温めないと……。ね? ギョーム……」

 幼い王妃のたどたどしい呟きに、マリーが顔を覆ってその場に崩れ落ちる。モーティマーも悔しげに目を閉じると顔を背ける。

「……ねぇ……、ねぇ、ギョーム。ギョームってば……」

 キリエは頬に幾筋もの涙を流しながらギョームの頭を掻き抱いた。

「つ、疲れているのは、わかるけど……、お、お願い、起きて……! 起きてよ……! 目を覚まして!」

「……陛下」

 キリエはぎゅっと目を閉じて叫んだ。

「嘘吐き……! 私を……、絶対にひとりにはしないって……、言ってくれたじゃない……! ギョーム……!」


 援軍を率いるジュビリーを乗せたゴールデン・ラム号がルファーンに着いたのは翌日の昼過ぎだった。そのまま船で待つつもりだったソーキンズをジュビリーはルファーン城まで同行させた。ソーキンズは嫌がったものの、宰相から「女王が待っている」と言われればそれ以上拒むことはできなかったのだ。

 ソーキンズを城内で待たせ、ジュビリーは侍従の案内で礼拝堂へ向かった。静まり返ったルファーン城の礼拝堂の入り口に、モーティマーがひとり佇んでいた。

「……クレド侯……」

 疲労で少し痩せた面立ちの秘書官に、ジュビリーは黙って頷いた。そして、そっと礼拝堂の中を窺う。礼拝堂の中心に、大きな棺が置かれている。その前に、キリエとマリーエレンが座り込んでいるのが見える。

「……ギョーム王がお帰りになられてから、ずっとあのままお側に……」

 モーティマーが低い声で呟き、ジュビリーは目を眇めた。

「お部屋にお連れしようとすると、激しく拒まれるので……。グローリア伯夫人もずっとご一緒に……」

 ジュビリーは息をつくと、重い足を踏み出した。静かな堂内に足音が響く。マリーエレンがびくりと体を震わせ、振り返る。一晩中一睡もせずにキリエに寄り添っていた彼女の目は赤く腫れていた。

「……兄上……」

 妹のか細い声にジュビリーは頷いた。そして、振り返ろうともしないキリエの背中をじっと見つめる。

「……キリエ……」

 ジュビリーが静かに呼びかけるが、それでもキリエは振り返らなかった。彼女の背中はいつも以上に小さく、儚げだった。ジュビリーには、まるでキリエの抜け殻がそこに置かれているように見えた。そっと隣に回りむと、ジュビリーは息を呑んで動きを止めた。キリエは、虚ろな目で棺を見つめていた。口をわずかに開け、真っ白な顔にはまるで生気が感じられない。ジュビリーはそっと跪くと腰を屈めた。

「……キリエ」

 二回目の呼びかけで、キリエはわずかに唇を動かした。

「…………」

「キリエ」

「……ギョーム……」

 ジュビリーは顔を歪めた。キリエは虚ろに呟き続けた。

「ギョーム……、……ギョーム……、……ギョー、ム……」

 思わず咄嗟にキリエを抱きすくめる。

「キリエ……!」

 歪んだ口許から、悔しげな呟きが漏れる。ジュビリーに抱かれながらも、キリエはしばらく放心した顔つきで呟き続けた。が、やがてふっと目を閉じると、がくりと体を預けた。


 その頃、エスタドのピエドラ宮殿に艦隊が帰還したことが伝えられ、ガルシアは激昂した。

「何て様だ……!」

 王は顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。

「それが、誇り高いエスタド海軍か! 恥を知れ!」

「陛下……!」

 ビセンテが険しい表情でなだめるが、ガルシアは目の前で縮こまるトーレス男爵に歩み寄ると腰を屈めて言い含める。

「エルナン公は何と言っている……!」

「それが……、アングル海軍の鉄壁の守りを崩せなかった上、あの海賊が……」

 ガルシアがぎりっと歯噛みする。

「あいつか……! フィリップ・ソーキンズ……!」

 ソーキンズの悪名はエスタド国内にも知れ渡っていた。アングル王エドガーの存命中にエスタドの貿易船を次々と襲い、財宝を強奪した海賊。ガルシアは再三エドガーにソーキンズの引渡しを求めたが、彼は知らぬ存ぜぬを貫いた。痺れを切らしたガルシアは討伐隊を差し向けたが、それでもソーキンズを捕らえることはできなかった。ガルシアにとってソーキンズは、意のままにならぬ〈生臭坊主〉のムンディやガリアの〈若造〉らと同じぐらい憎い存在だった。

「許さぬ……。どこまで予を馬鹿にすれば気が済むのだ……!」

「陛下……!」

 ガルシアはすっくと立ち上がるとビセンテを振り返った。

「もう容赦はせぬ! もう一度ガリアに攻め込む!」

「な……!」

 ビセンテは息を呑んだ。目をぎらつかせたガルシアは有無を言わせずに怒鳴りつけた。

「まずはガリアを攻め滅ぼす! それから修道女の島国だ!」

「陛下!」

「国境を越えたら予も出る! 良いなッ!」

 王の一喝に、ビセンテらは言葉が出なかった。だが、その時。

「父上」

 大広間にフアナが女官を従えてやってくる。王太女はいつもと変わらぬ穏やかな表情で告げた。

「私も参ります」

「フアナ……!」

 娘の思わぬ言葉にガルシアは目を剥いた。側近たちの間にざわめきが広がる。

「何を言い出す……! おまえが往くことはない!」

「でも、私は父上の後継です」

 フアナは冷静に言葉を返した。意思の強さを感じさせる瞳がまっすぐに自分を見つめてくる。思慮深い、知的なその瞳は亡き妻ペネロペ譲りだ。ガルシアは思わず口をつぐんだ。

「私ももう、十九歳です。未来のエスタドを背負う者として、父上と共に戦場へ参ります」

 ガルシアは眉間に皴を寄せた。

「……フアナ」

「ご安心を、父上。自分の身は自分で守ります」

 未来のエスタド女王は静かに微笑んでみせた。


 キリエの耳に、ちゃぷちゃぷと水が戯れる音が聞こえてくる。うっすらと目を開けると、目にも柔らかな白い雲が浮かぶ青空が広がっている。視界の四隅には、大輪の百合がこちらを覗き込み、物思いに耽っているかのように揺れている。気づけば、辺りは百合の強い香りで満ちている。ここは……、どこだろう。そう思っていると、青い蝶が一羽、ひらひらと音もなく舞い去ってゆく。温かい空気に包まれ、キリエは何とも言えない安らかな気持ちだった。

「起きたのか?」

 不意にかけられた声にはっとする。慌てて体を起こすと、そこは百合の花が敷き詰められた花舟だった。雪が降り積もったかのように真っ白に埋め尽くされた花舟。その先には、ギョームが頬杖をついてにこにこと微笑んでいる。

「もう少し休んでおけ」

「でも、私……、こんなにゆっくりしている時間は……」

 ギョームは美しい碧眼でじっと見つめてきた。

「大丈夫だ。起きれば、また慌しくなる。休める時に休んでおけ」

「ギョーム……」

 川面の光がきらきらと二人を包んでいる。ここは、どこだろう。だが、そんなことには構わず、ギョームはどこか寂しげに微笑むと呟いた。

「もう少し時間があれば……、そなたを幸せにできたのに……」

「……何を言っているの? ギョーム……」

 キリエは眉をひそめた。

「私、幸せよ。あなたと出会えて、あなたの妻になれて……。私、幸せよ」

「……ありがとう」

 ギョームは手を伸ばすとキリエを抱き寄せた。温かな手がゆっくりと髪を掻き撫でる。ギョームの温かさに包まれ、キリエは心が満たされた。

「……ギョーム……」

 夢見心地で囁くキリエの耳元に、ギョームの唇が触れる。

「……キリエ、私を忘れないでくれ」

「え?」

「これからは、自由に生きろ」


 そこで、キリエは目を見開いた。

「…………」

 薄暗がりの中、天蓋を見つめる。目を瞬かせると涙が頬を伝い落ちる。思わずその涙を拭おうとして、はっと動きを止める。誰が嵌めたのだろう。左手の親指に赤獅子の指輪が光っている。ギョームの、結婚指輪だ。

「……ギョーム……!」

 涙が後から後から溢れ出す。ギョームはもういない。もう会えない……! 両手で顔を覆い、むせび泣く。だがその時、窓辺のカーテンが静かに揺れる。キリエは肩を震わせながらゆっくり体を起こした。

 少しだけ開かれた窓から、海原を臨む。嵐が過ぎ去った余韻が残る港。灰色の雲が広がる空。その先には……、エスタドがある。そして、ギョームを殺したガルシアがいる……! キリエは手を握り締めると体を乗り出した。

……許さない。絶対に、許さない……!


 その頃、ルファーン城の大広間では戦略会議が開かれていた。会議は重苦しく悲痛な空気に包まれている。

 王都オイールからは廷臣団が駆けつけていた。レイムス公シャルル、貴族院議長エイメ侯、侍従次長ペール伯、バーガンディ公国の公使などだ。皆険しい顔付きで目を伏せ、唇を噛み締めている。

「オイールからの報せでは、エスタドとユヴェーレンの軍勢が国境に迫っているとのことです」

「クロイツにもすでに使者を派遣し、支援を要請しております」

「しかし……、兵はすでに疲弊しております……」

 ガリア側の弱気な言葉にジュビリーは苛立ちを感じていた。

「国境警備を強化し、何としても越境を阻止しなくては……。軍が疲弊しているのはエスタドも同じ。何とか時間を稼いで……」

「時間稼ぎだとッ?」

 そう怒鳴り声を上げたのは、〈アングルの海賊〉ソーキンズだった。彼は椅子に踏ん反り返り、汚いブーツをテーブルに乗せたまま喚き散らした。

「てめぇら何を言ってんのか、わかってんだろうな! おまえらの王様が殺されたんだぞ!」

「よせ、ソーキンズ」

 ガリアの廷臣らが顔を強張らせる中、ジュビリーが冷静に制する。そして、人々の顔を見渡してから声を高める。

「ガルシア王はガリア侵攻に失敗し、アングルの上陸にも失敗した。誇り高い大鷲のことだ。今度こそ攻め滅ぼす構えでやってくるだろう」

「しかし、クレド侯……」

「今こそエスタドの傲慢さに鉄槌を下さねばならん。大主教に要請し、ヴァイス・クロイツ教国全てをこのガリアに集結させ、エスタドを迎え撃つべきだ」

「最終決戦に臨むべきだと、そう仰せになりたいのですか」

 廷臣らの困惑の言葉にジュビリーが苛立たしげに息を吐き出すと。

「あのくそ生意気なエスタドをこのままのさばらせていいのかッ!」

「ソーキンズ」

「止めるな! 侯爵!」

 ソーキンズは椅子を蹴って立ち上がった。

「お姫さんを見やがれ! あんな年端もいかねぇ修道女が、たった一人で国を守ってるって言うのに、てめぇらはがたがた震えて隠れてるつもりかッ! てめぇらのその臆病風がギョーム王を殺したんじゃねぇのかッ! 腰抜けどもがッ!」

 その言葉に、それまで黙っていたバラが鋭く顔を上げる。

「我らは最後まで陛下を守ろうとした! エスタドに恐れをなしたわけではない!」

「けど、王は死んだじゃねぇかッ! 誰のせいだッ!」

「やめろ、ソーキンズ!」

 ジュビリーがソーキンズの腕を掴むと椅子に座らせる。海賊はけっと毒づいた。

「これだから貴族ってのは……、当てにならねぇ!」

 それはガリアの廷臣たちの神経を逆撫でした。

「おのれ……! 言わせておけば、海賊風情が!」

 廷臣らが気色ばんで立ち上がり、ソーキンズが再び顔を歪めて立ち上がろうとした時。

「王妃がお越しです」

 侍従の言葉に皆が息を呑む。扉が開かれると、簡素な長衣をまとったキリエが静かに入ってくる。その背後にはモーティマーが無言で付き従っている。

「王妃……! まだお休みになられないと……!」

「大丈夫です」

 低い声でキリエが呟き、ジュビリーはごくりと唾を飲み込んだ。キリエは相変わらず虚ろな瞳のままだった。青白い顔は痩け、目の下には痛々しい隈が広がっている。

「状況は?」

「……はっ」

 バラが痛む体を起こそうとすると、キリエは手を上げて制した。

「座ったままで良いわ……」

「……ありがとうございます」

 ジュビリーの目配せに、ソーキンズが納得できない表情ながら席につく。

「エスタドとユヴェーレンの軍勢がガリアの国境に迫っております。すでに同盟各国に呼びかけ、国境警備は進めております。クロイツにも使者を派遣し、協力を要請しております」

「そう……」

 キリエは大陸の地図をじっと見つめた。皆が息をひそめて幼い王妃を見つめる。やがてキリエは静かに顔を上げるとバラを仰ぎ見た。

「アンジェ侯。ガリアの大地を私に貸して下さい」

「……は?」

 バラだけでなく、その場にいた全員が眉をひそめる。キリエは静かに立ち上がると地図に指を這わせた。

「エスタドを迎え撃ちます」

 皆が息を呑む中、キリエは言葉を続ける。

「アンジェ侯、この城は?」

 キリエが指差しているのは、ガリアとエスタドの国境を守る城のひとつだ。

「プイグ城です」

「この城を棄てます」

「は?」

 人々の口からざわめきが起こるが、ジュビリーが手を上げる。

「お静かに」

「国境の守りを万全にし、プイグ城だけを手薄にすれば、エスタド軍はここから侵入するはず。プイグ城があるバスケー地方は、この季節になると非常に濃い霧が発生します。そして、深い湿地帯が広がっているため、騎馬の機動力が削がれます。時間を稼ぐことができるはずです」

「王妃……」

 バラが思わず譫言のように呟くと、キリエは表情を変えないまま目を向ける。

「間違っていたら、教えて」

「い、いえ、その通りでございます。王妃、よくご存知で……」

 キリエは口をつぐんで黙り込んだ。彼女の脳裏にギョームの語りが蘇る。眠れぬ夜に、ギョームはキリエのためにガリア各地の話をしてくれたのだ。

(バスケー地方は冬になるとすごい濃霧でな。手を伸ばした先もわからないほどだ。おまけに深い湿地がどこまでも続いている。エスタドを迎え撃つならここだ。騎馬隊は思うように進軍できないだろう)

「では、王妃は……、エスタド軍と全面対決するべきだと……?」

「国境を守るだけでは駄目よ。あの男は、諦めない」

 キリエの乾いた声に皆が言葉を失う。だが、ソーキンズがひとり、満面の笑みを浮かべる。さすがは我がお姫さんだ。

「国境から追い払っても、何度でもやってくるわ。我々はエスタドに屈しない。それを、示さなくては」

 皆が困惑の表情のまま黙り込む中、キリエは険しい表情をした男性に声をかける。

「レイムス公」

「はっ」

「……ロベルタ様に、レオンとレイノに協力を呼びかけるよう、お願いしていただけますか」

 シャルルは目を見開いた。バラも息を呑んで彼の顔色を窺う。

「レオンとレイノの王位を復権するために、共にエスタドと戦ってもらえるよう、呼びかけてほしいのです」

 王妃は、本気だ。本気でエスタドと全面対決に臨もうとしている。廷臣らは言葉を失った。次々と冷静に指示を下すキリエを、ジュビリーは複雑な表情で見守った。彼女はこの一年半で大きな成長を遂げた。だが……。

「それから、アンジェ侯。クロイツにもう一度使者を送って下さい」

 キリエはそこで息をついた。

「……女帝になることを、承諾すると」

「……何ですと?」

 バラが顔を歪め、人々の口からざわめきが漏れる。

「一体……、何のお話ですか……!」

「そうお伝えすれば、おわかりになります」

「しかし……!」

「時間がないわ、アンジェ侯」

 ざわめきを打ち消すようにキリエは強張った顔で正面を見据えた。

「この度の戦いでわかったはずです。ガルシアは決して諦めない。ガリアに侵攻を企て、それを阻止されると我がアングルに艦隊を送り込んだ。上陸に失敗すると、再びガリアへ侵攻しようとしている。……あの男は、ガリアとアングルを攻め滅ぼすまで、何度も何度も戦いを仕掛けるわ……! 我々も諦めない! エスタドからガリアを、アングルを守ってみせる! そのために戦わなくては!」

 皆は息をひそめて幼い王妃を見つめた。青ざめ、かすかに震えながらも断言してみせた女王。このいたいけな少女が戦おうと言っているのだ。戦わないわけにはいかない。バラは息を大きく吐き出した。

「……承知いたしました。エスタドとユヴェーレンを迎え撃ちましょう。軍を整えます」

「私も行きます」

「は?」

 今度ばかりはバラだけでなく、ジュビリーも顔をしかめて振り返る。

「王妃……!」

「前線まで赴きます。……皆の邪魔にならないよう気をつけます」

「おやめ下さい、王妃!」

 ジュビリーが間髪を入れずに叫ぶ。

「王妃に万が一のことがあれば……!」

「陛下も仰っていたではありませぬか! 戦場へは、絶対にお連れできませぬ!」

「もう決めたのです。ギョームは体を張ってアングルを守ってくれた……。今度は、私がガリアを守らないと」

 頑なな表情で言い切るキリエにジュビリーが詰め寄る。

「そのギョーム王のためにも……、王妃を危険な戦場へお連れすることは、断じてできませぬ!」

「クレド侯……!」

 キリエは奥歯を噛み締めると目を伏せた。小さな握り拳が震えている。

「ギョームは……、ギョームは、殺されたのよ……!」

 低い声で怒りを滲ませながら囁く王妃に、皆は顔を見合わせた。

「ガルシアに……、ギョームは殺された……! 絶対に許さない……!」

 これまで我慢してきた、ギョームを失った絶望と怒りがついに迸った。キリエの歪められた口許から怒りの吐息が漏れ出る。だが、それでもジュビリーは目を眇めると言い放った。

「王妃……、はっきり申し上げます。戦場においでになれば、足手まといになります!」

 キリエはきっとジュビリーを睨み付けた。

「ジュビリー……!」

「王妃はガリアの王妃であり、アングルの女王でもあらせられます。今、王妃まで失えば、両国の民はどうなるのです!」

「じゃあ、どうすればいいの!」

 キリエは子どものように叫んだ。

「このまま、ここで泣いていればいいの? そんなこと……! そんなことできない!」

「王妃!」

 キリエの目から涙が滲んだ時、

「失礼」

 しゃがれた声にキリエははっと顔を上げた。目の前で椅子にもたれかかった海賊が手を挙げている。

「海賊としてではなく、海の男として申し上げる」

「ソーキンズ……!」

 ジュビリーが思わず言葉を荒げるが、キリエは手を上げて彼を制した。ソーキンズは声を高めた。

「海賊に限らず、船乗りは皆一様に迷信深い。裏を返せば信心深いってことだ。海の男たちは、〈聖女王〉のためならば命を懸けて戦うだろう」

 そこで言葉を止め、廷臣たちを眺め渡す。ソーキンズはにんまりと歯を剥き出して笑った。

(おか)の男たちはどうだ?」

 ジュビリーは目を見開いて海賊を凝視した。その場は静寂に包まれた。海賊がふんと鼻を鳴らした時、エイメ侯が静かにキリエに向き直る。

「……王妃。我らは王妃のお言葉に従います」

「エイメ侯……!」

 ジュビリーやバラが思わず口走るが、エイメ侯はじっと幼い王妃を見つめた。

「申し上げたはずです。我らは王妃に対して誠心誠意お仕えすると」

 キリエの脳裏に、エレソナを側室に迎えることを承諾した日の光景が蘇る。あの日、確かに彼は宣言した。「我々は、これまで以上に王妃に敬意を表し、王妃のために、誠心誠意お仕えすることを誓います」と。キリエは目を伏せ、小さく呟いた。

「……ありがとう、エイメ侯」

 バラも溜息をつくと居住まいを正した。

「……では、早速ご準備を」

「妻に遣いをやります」

「お願いします、レイムス公」

 キリエは疲れた表情ながら頷いた。そして、ソーキンズに呼びかける。

「……ソーキンズ、あなたにはアングルとガリアの沿岸警備の指揮を頼みます」

「了解」

 海賊は大袈裟な身振りで敬礼してみせた。 そして、キリエは目を閉じて大きく息を吐き出すと心を落ち着かせた。

「……それから、もうひとつ」

 人々が振り返る。

「私は、必ず帰ってきます。でも……、万が一の事態のために、後継者を指名しておきます」

 後継者。皆は言葉を失った。ギョームがいない今、ガリアの暫定的な指導者は王妃であるキリエだ。だが、もしもキリエまでいなくなれば、アングルとガリアは共に君主不在という事態に陥る。

「アングルのように……、王位継承戦争を起こすわけにはいきませんから」

 自ら王位継承争いの渦中にいたキリエは、それを最も恐れていた。多くを語るまでもなく、皆はすぐに理解した。

「私に、もしものことがあれば……」

 キリエは目を伏せ、震える声で囁いた。

「エレソナの産んだ子を……、私の後継者に指名します」

 一同は悲痛の面持ちで項垂れた。

「エレソナの子が成人するまでは、アングルの摂政はホワイトピーク公に。ガリアはレイムス公、あなたにお願いします」

 シャルルはかすかに唇を噛み締めて頷いた。

「でも……、不幸にして、その子が成人を迎えられなければ、ホワイトピーク公及びレイムス公に王位を継承していただきます。ガリアにおいては……、産まれた子が女子だった場合もです」

 ジュビリーはそっとキリエを見つめた。自分の死んだ後のことまで気にかける彼女が、痛々しくて仕方がなかった。愛する者を失った哀しみに打ちひしがれる間もなく、女王として、王妃として、戦いに臨まなくてはならない。

「……今言ったことは、すべて議会の承認を得て下さい」

「……はっ」

 皆が黙って頭を下げる中、キリエはひとり背を伸ばし、顔を上げた。

「……大丈夫です。私は、帰ってきますから」

 そう呟くものの、キリエの虚ろな瞳が気掛かりでたまらないジュビリーは、眉間の皺を深めさせた。そして、ひとりの廷臣が恐る恐る身を乗り出す。

「王妃……。陛下の……、ギョーム王陛下の、帰天礼は……」

 帰天礼。その言葉を耳にしてキリエは顔を歪ませた。思わず口許を手で覆い、肩を震わせる。ギョームが天に帰るために、祈りを捧げなければならない。嫌だ……! ギョームを天になど帰したくない……!

 声を押し殺して涙を滲ませる王妃に、バラが静かに呼び掛ける。

「……お願いします。……王妃の祈りでなければ、陛下は天にお帰りにはならないでしょう」

 それでも黙って咽び泣いていたキリエは、やがて目をぎゅっと閉じた。

「……ルファーンを、発つ前に……」

「はっ……」

 皆は深々と頭を下げた。そして、重い体を引きずるようにして大広間を退出してゆく。キリエもモーティマーに伴われて大広間を出ようとした時、バラが彼女を呼び止めた。

「……王妃」

 振り向くと、宰相は哀しげな表情で見つめてきた。キリエは小さく頷いた。

「……アンジェ侯……。ご苦労でした」

「はっ……」

 バラは一礼してから口を開いた。

「王妃……。ギョーム王陛下の、最期のお言葉をお伝えいたします」

 キリエは目を見開いた。そして、怯えた表情でジュビリーを振り返る。彼は黙って頷いた。キリエは震えながらバラに向き直る。黒衣の宰相はそっと女王の背を支えた。

「……陛下は、こう仰せになられました。私を、忘れないでほしい、と」

 キリエは両手で口許を覆い隠した。

「それから、自由に生きてくれ、と……」

 穏やかなギョームの微笑。温かい手で抱き締めると、彼は耳元で囁いた。

(キリエ、私を忘れないでくれ。……これからは、自由に生きろ)

 あれは……、夢ではなかった……!

 キリエは溢れる涙を抑えられず、背を向けるとその場を走り去った。

「王妃……!」

 思わず追いかけようとするジュビリーを、バラが呼び止める。

「貴殿は、王妃が戦場へ赴くことを、まだ反対なさるのか?」

 ジュビリーは険しい表情でバラを見返した。彼はふっと微笑むと言葉を続けた。

「危険ならば、貴殿がお守りすれば良かろう。……これまで通り」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ