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女王キリエ  作者: カイリ
第12章 ゴールデン・ニムバス
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第12章「ゴールデン・ニムバス」第2話

ホワイトピーク沖のエスタド海軍が嵐に翻弄され、ルファーン沖へと流される。深手を負った船団にガリア軍が攻撃を仕掛ける中、悲劇が。

 ホワイトピーク海峡を臨むルファーン城。嵐の影響はここも例外ではなかった。城から張り出した砲台では、ランタンを持った兵士たちが暗闇の中で暴風に足を取られながら右往左往している。

「ひどい嵐だ」

 砲台の見張り塔では、雨が打ちつける窓からホワイトピーク海峡を眺めるギョームの姿があった。

「これでは戦闘どころではなかろう」

「エスタド海軍が退却する可能性もございますな」

「そこを叩け。本国に帰すな」

「はっ」

 しかし、バラは眉をひそめると暴風でぎしぎしと軋んだ音を出す天井を見上げた。遠くから、悪魔の喉笛が鳴らすような不気味な唸りが轟く。

「陛下、嵐は治まりますまい。城内に戻りましょう」

「皆が嵐の中で迎撃の準備に勤しんでいる時に、予がひとりで安全な場所にいるなど――」

「王妃と同じことを仰いますな」

 バラが苦笑しながらたしなめるが、ギョームはどこか思いつめた表情で呟いた。

「……予は、そなたたちが言うようにまだ若いし、戦の経験も少ない」

「陛下……?」

 王の思わぬ言葉にバラが顔をしかめる。ギョームは静かに息をついた。

「陸戦なら誰にも負けぬ自信がある。だが、確かに海の戦いは経験がない。あるとしたら、父上を追ってホワイトピークを海上から攻撃した時だけだ。その時もホワイトピークの守りは万全ではなかった」

 宰相は思わず口をつぐんで王の言葉に耳を傾けた。

「……時間がないのだ。いつか、ガルシアと戦場で刃を交える時が来る。それまでに少しでも経験を積んで……、強くなりたいのだ」

「陛下……」

 若獅子王は、やや青ざめた顔つきで窓越しに見える荒れた海を見つめた。

「……キリエを、守れるだけの強さを」

 キリエと出会ったことでギョームは強くもなり、弱くもなった。だが、苦難を乗り越えた今、ギョームもキリエも互いの弱さを支えることで逞しくなった。だが、エスタドの大鷲はそれ以上の強大さで襲いかかってくる。

 室内に不穏な風切り音が響く中、二人は沈黙した。と、その時。扉の外が騒がしくなったかと思うと斥候の叫び声が飛び込む。

「申し上げます! エスタド海軍の艦隊が、この嵐でルファーン沖に流されてきております!」

 ギョームはバラを振り返った。

「予想通りだ。迎撃しろ!」

「はッ!」

 その場が一斉に慌しくなる。王の命令を待っていた砲台では、準備を終えた大砲が次々に砲撃を始める。窓からその様子を見ていたギョームは、突然見張り塔を飛び出した。

「陛下ッ!」

 見張り塔を出ると、ギョームは激しい風圧に一瞬押し返された。それと同時に冷たい雨が刺すように体を打ちつける。だが、体勢を低くするとゆっくり砲台まで降りてゆく。海上には、激しく猛り狂う嵐に揉まれながらこちらへ近づいてくる艦隊が見える。まるで幽霊船のようにぼろぼろの船体に、ギョームは思わずぞっとしながらも砲台の石垣に手を突く。

(損傷が激しいな)

 砲台で方々へ指示を下していた砲兵長が兜のバイザーを上げて駆け寄る。

「陛下! ここは危のうございます! 城内にお戻り下さい!」

 砲兵長の言葉に、ギョームは嵐に負けぬように声を張り上げた。

「艦隊を本国へ帰すな! ここで仕留めろ!」

「我々にお任せ下さい! 早く、城内に……!」

 その時、嵐の中で閃光が走ったかと思うと、砲台に砲弾が撃ち込まれた。

「うわッ!」

 見張り塔の石壁が爆破され、兵士らが吹き飛ぶ。

「……!」

 ギョームが息を呑んでその場に立ち竦む。が、すぐさま周りの側近たちが王を取り囲み、壁際に押しやる。

「早く! 城へ!」

「陛下? 陛下はどこだ?」

 怒号と吹きすさぶ風音が飛び交う中、主君を探すバラの叫び声が聞こえてくる。

「バラ……!」

 ギョームの叫びは嵐で掻き消されたが、宰相は王の姿を見つけ出した。

「陛下、早く城へ……!」

 側近らを掻き分けて王の元へ向かおうとするバラ。その時、再びかっと稲光が走る。それと同時だった。轟音と共にすぐ近くの城壁と兵士が吹き飛ぶ。

「ぐぁッ!」

 爆風で兵士らが地に叩き伏せられる。悲鳴と怒号。暴風の中、砲撃はなおも続いた。

「陛下……! 陛下ッ!」

 ギョームの姿を見失ったバラが声を限りに叫ぶ。と、その時――。

 閃光、砲声。バラたちのすぐ近くの壁が粉砕され、爆音と共に人々が吹き飛ばされる。

「ぐわッ!」

 バラは石の壁に打ち付けられ、一瞬意識を失った。だが、朦朧とする頭で歯を食いしばりながら体を起こす。と、肩に激痛が走り、しゃがみ込む。見ると鎧のショルダーが砕かれ、左肩が真っ赤に染まっている。石垣の破片が直撃したのだ。

 呻きながらも立ち上がるが、轟音で耳が聞こえない。音のない世界の中、暴風が煙を吹き払う。やがて、血まみれの兵士らが折り重なる光景が目に飛び込んでくる。

「くそッ……!」

 バラが痛みに顔を強張らせて歩き出し、周りを見渡す。と、彼はぎょっとして動きを止めた。晴れた煙の先に、白銀の甲冑を身につけた若者が倒れている。バラは息を呑んだ。 乱れた金髪。血に染まった外衣(サーコート)。石畳に投げ出された篭手(ゴーントレット)。まさか……!

「陛下ッ!」

 痛みも忘れて駆け寄ると、そこには口から血を流して仰向けに倒れた若獅子王の姿があった。見ると――、脇腹を吹き飛ばされている。

「陛下……! そんな……! そんな……! 陛下!」

 バラは震える手で王を抱き起こした。ギョームはぼんやりと目を開けた。そして美しい顔を歪め、自らの体に目をやる。

 めくれ上がった鎧。吹き飛ばされた脇腹と腰。血溜まりが暴風で飛び散り、顔に降り懸かる。

 ギョームを襲ったのは、複数の鉄球を絡み合わせた葡萄弾だった。砲撃を受けた瞬間、焼け付くような激痛を受けたが、それも一瞬だった。もはや痛みがわからないほど意識が急激に薄らいでゆく。

「…………!」

 震える唇が悔しげに何か呟く。バラの聴力がわずかながら戻るが、激しい耳鳴りで聞き取れない。彼はギョームの耳元で叫んだ。

「陛下ッ! しっかり……! しっかりなさって下さい! まだ……、まだ、戦いは、始まったばかりでございます! 陛下ッ!」

 ギョームは呆然として空を見上げた。荒れ狂う嵐。光る稲妻。その黒雲の先に、青衣の少女が見える。窓から身を乗り出し、こちらを見つめる天使。美しく澄んだ瞳が真っ直ぐに見つめていた。

「…………キリエ…………」

 初めて会ったあの時。そうだ。あの時、恋に落ちたのだ。

(もう、会えないのか……、……キリエ、もう、二度と……?)

 二人で過ごした記憶が、次々と思い起こされる。二人で苦しみ、乗り越えた試練も。

(やっと、愛し合えるように、なったのに……! こんなところで……!)

 やがて、記憶の中のキリエの顔が歪み、髪を振り乱して泣き叫ぶ。

「行かないで! ギョーム!」

 ギョームは奥歯を噛み締め、口許を歪めた。

(あの泣き虫を遺して、一人でいくのか? ……できない。そんなことはできない……!)

「陛下ッ! 陛下……! 駄目です! いってはなりません!」

 耳元にバラの絶叫が飛び込む。ギョームは泣き叫ぶ宰相の襟元を掴むと引き寄せた。

「つ……、伝えて、くれ」

「陛下……!」

 耳鳴りが渦巻く中、その声だけがはっきりと聞こえた。バラは必死に耳を近付けた。

「…………」

 囁き終えると、ギョームはがくりと体を地に沈めた。バラは顔を振り、喉が潰れるほどに吠えた。

「陛下ッ……! 嫌です! こんなお役は……、御免です! 陛下!」

 ギョームは再びうっすらと目を開けた。だらりと伸びた左手の薬指が、きらりと赤く光る。〈ルビーの獅子〉が無言で彼を見つめている。消えゆく意識の中、ギョームは指輪に右手を伸ばした。小刻みに震えながらも、獅子を愛おしげに撫でる。

「…………キリエ…………」

 それが、若獅子王の最期だった。


「――あっ」

 マリルの城館。礼拝堂で祈りを捧げていたキリエは、突然消えた蝋燭に息を呑んだ。

「…………」

 祭壇に置かれた燭台の蝋燭が、何の前触れもなく全て消えたのだ。キリエはごくりと唾を飲み込んだ。……何故だ。一本どころか、燭台全ての明かりが消えるなんて。

 城館を取り巻く嵐は相変わらず激しく吹き荒れている。だが、朝方に比べれば勢いは弱まった。吹き付ける風が窓ガラスをかたかたと鳴らし、不吉な胸騒ぎを煽り立てる。キリエは、どきどきと波打つ胸元をぐっと押さえ付けた。何を見ても不吉な予兆に思え、キリエは視線を四方に彷徨わせた。

「……キリエ様?」

 びくりとして振り返る。と、マリーエレンが静かに歩み寄ってくる。

「明かりは?」

「き、消えたの……!」

 キリエの上擦った囁きに眉をひそめる。

「か、風もないのに、全部、消えたの……! 教会にいた時だって、こんなこと、なかったのに……!」

「落ち着いて、キリエ様」

 マリーは慌てて体を屈めると幼子をなだめるようにキリエの髪を撫でる。

「きっと、どこかからすき間風が吹き込んだのですわ」

「でも……!」

 真っ青な顔のキリエをマリーは戸惑いながらも優しく抱きしめた。

「嵐もじきに落ち着きます。そろそろご出発の準備を……」

「……嫌」

「キリエ様」

 キリエは震えながら顔を振る。

「私、帰らない。ここで、ギョームを待つ」

 マリーは体を離すとキリエを見つめる。

「王と王妃が長く王都を留守にするべきではありませんわ」

「嫌……! ここで待つ……!」

 まるで聞き分けのない子どものように口走るキリエに、マリーまで胸騒ぎを感じ始めた。今のキリエは、教会から連れ出されたばかりの頃を思い出させる。

「陛下……!」

 礼拝堂にモーティマーが駆け込んでくる。雨で濡れた顔を拭いながら言上しようとして、女王のただならぬ様子を見て思わず口をつぐむ。そして、隣のマリーエレンに目を向ける。

「……何か、ございましたか」

「……いいえ。どうしたの、モーティマー」

「はっ。ルファーンから斥候が到着しました。退却を始めたエスタド海軍に向けて、ルファーン沖から砲撃を開始したとのことです」

「……キリエ様」

 マリーがキリエを振り仰ぐが、彼女はまだ強張った顔付きだ。キリエは目を閉じると息をついた。こんな時でも、自分は女王でなければ、王妃でなければならない。キリエは静かに目を開いた。

「……沿岸警備を、強化しなければ」

「はっ。皆様がお待ちです」

 従者たちがマントを広げ、王妃を雨風から守りながら礼拝堂から連れ出す。

「ルファーンに部隊の増援を」

「エスタド本国が再び越境する可能性がございます。一刻も早くオイールにご帰還を」

 モーティマーの言葉にキリエは益々顔を青くした。

「……陛下」

 城館の大広間に続く廊下で、キリエは立ち尽くした。

「……ここを、離れたくないの」

 思わぬ言葉にモーティマーは困惑の表情を浮かべた。マリーがキリエの肩にそっと手を添え、静かに言い聞かせる。

「キリエ様、オイールの廷臣たちがお帰りを待っていますわ」

「ギョーム王のご不在中、王都で指揮を執れるのは陛下だけでございます」

 二人の説得にも、キリエは顔を歪めて耳をふさぐ。

「嫌……! 私……、王妃も女王ももう嫌……! ギョームの帰りを待っていたいの……!」

 国の危機に際し、いつでも全力で陣頭指揮を執ってきたキリエが、初めて采配を投げ出した。マリーとモーティマーは不安げに顔を見合わせた。

「モーティマー、少し休んでいただくわ」

「はっ……」

 マリーは震えが止まらないキリエをその場から連れ出す。その後ろ姿を見送ったモーティマーに、侍従次長カンベール子爵が声をかける。

「モーティマー、王妃は」

「ご気分が優れないのでお休みに……」

 子爵は顔を曇らせ、溜息をつく。

「無理もない……。この嵐だ。陛下のご様子が心配でならないのだろう」

「引き続き王都で指揮を執っていただくよう、レイムス公にご連絡を」

「そうだな」

 二人は足早に大広間に向かった。

「ルファーンも気になりますが、国境も気になります」

「一度越境されておるからな」

 大広間では王妃の側近たちがテーブルに地図を広げ、斥候からの報告に耳を傾けている。ひとりが顔を上げ、モーティマーとカンベールしかいないことに眉をひそめる。

「王妃は」

「少々ご気分が優れない故、お休みに」

「こんな時に?」

 側近たちがあからさまに顔をしかめた。

「急ぎオイールに戻り、陛下のご帰還に備えねばならぬというのに……」

 モーティマーは顔を強張らせた。

「お察し下さいませ。嵐の中戦っていらっしゃる陛下がご心配でならないのです」

 だが、ガリアの側近たちはわざとらしく息を吐き出す。

「やれやれ、ならばお見送りなどされず、オイールに留まっていただきたかったな」

「まったくだ。元はと言えば、王妃の代わりに陛下がアングルの支援に向かわれたのだ。後を預かる王妃にしっかりしていだかねば困る」

 思わずかっとなったモーティマーが身を乗り出し、温厚な侍従次長が慌てて押さえ付ける。

「よせ、モーティマー」

 だが、彼は珍しく怒気を含んだ口調で言い放った。

「皆様もご存知でございましょう! 王妃は十七歳というお歳で、アングル・ガリア両国のためにこれまで精一杯戦ってこられたことを!」

「それは間違いない」

 ひとりの側近が冷たく言い返す。

「とても、元修道女とは思えぬご采配だ」

「無礼な!」

「モーティマー!」

 二人が揉み合い、大広間が騒然とする。そんな中、ばたばたと従者が駆け込んで来る。

「申し上げます! ルファーンから砲撃を受けていたエスタド海軍が沿岸を離れ、退却を始めたそうです!」

 皆が一斉に振り向く。そして、更に別の従者が息せき切って駆け込む。

「オイールからレイムス公の使者が! 大主教が神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の派遣を決定されたそうです! ユヴェーレンとの国境に動きがあったそうです!」

「ユヴェーレン……」

「王妃にお知らせを」

 モーティマーはさっと踵を返した。

 ガリアの側近たちの態度が許せなかった。モンフルール戦役でキリエの働きが評価されたにも関わらず、廷臣たちの間では依然彼女は「田舎の修道女」でしかなかった。それを思うと腹立たしくてならない。女王はまだ十七歳なのだ。教会を出て、まだ四年しか経っていないのに。これ以上何を求めるのだ。まるで夜のようにランプを灯した廊下を無言で通り抜ける。

「陛下……」

 客間の扉にそっと声をかけると、程なくしてマリーが扉を開ける。

「エスタド海軍がルファーン沿岸を離れはじめたそうです。それから、ユヴェーレンにも動きが」

 息を呑むマリーの背後から、「どうしたの」と、か細い声が聞こえてくる。モーティマーが中を覗き込むと、部屋の隅で両手を合わせて蹲っているキリエが目に入る。

「エスタド軍が退却を。しかし、ユヴェーレンにも動きがあるそうで、大主教が神聖ヴァイス・クロイツ騎士団を派遣されるそうです」

「オイールに指示を送らなければ……」

「ガリアの廷臣は役立たずです」

 モーティマーらしからぬ言葉にマリーが顔をしかめる。どこか荒んだ表情の秘書官にキリエがそっと立ち上がる。

「サー・ロバート……、何かあったの?」

 彼は恥ずかしそうに俯いた。

「……申し訳ございません。少々取り乱してしまいました」

 モーティマーは自らを落ち着かせるために大きく息をついた。

「……ガリアの側近たちが、無礼な発言を」

 キリエははっと息を呑んだ。

「私のせい?」

「い、いえ、違います」

「ごめんなさい、すぐ戻ります」

「キリエ様……!」

 止めようとする二人を振り切るようにして客間を出ると、キリエは大広間に向かった。そこは相変わらず斥候が慌ただしく行き交っている。

「王妃」

「ごめんなさい、もう大丈夫です」

 だが、一人の側近が地図を覗き込んだまま言い放つ。

「お部屋にお戻りを、王妃。我々が対処いたします」

「でも……」

 側近は冷たい表情で顔を上げる。

「王妃に何かございましたら、我々が陛下に叱責されます」

「いい加減にせんか!」

 普段キリエの側に仕えているカンベール子爵がさすがに声を荒げた。キリエが手を挙げると子爵を制する。

「戻ってもいいのね?」

 キリエは鋭い目つきで囁く。

「だったら、今すぐアングルに戻るわ!」

「王妃……!」

 側近たちが呆れたように声を上げる。侍従や斥候たちも、王妃のただならぬ様子に息を呑んで振り返る。キリエは顔を真っ赤にしてまくし立てた。

「もう誰にも迷惑をかけないように、ひとりでアングルに帰るわ!」

「落ち着いて下さい! 王妃!」

「私がアングルに帰って、アングルを守れば良いのでしょう? ギョームに行かせた私が悪いんだわ……!」

「おやめ下さい! 王妃!」

 髪を振り乱して泣き叫ぶ王妃を取り押さえようとした時だった。瞬間、広間に青い閃光が走ったかと思うと、轟音が鳴り響く。

「ひッ……!」

 皆は身を竦めてその場に蹲った。と、窓から赤々とした炎が差し込む。

「……!」

「落雷だ!」

 皆がよろめきながら立ち上がり、呆然と窓の外を見上げる。城館のすぐ近くの樫の巨木が炎の柱と化している。暗い空に聳え立つ炎の巨木。踊る炎の明かりを顔に受けながら、キリエはごくりと唾を飲み込んだ。その彼女の手をマリーエレンが握り締める。

燃え上がる樫の木を目の当たりにして、皆は瞬間的に悟った。王の身に、何かが起こった……!

 皆が黙り込んでその場に佇んでいると、突然階下からざわめきが起こる。皆が顔を見合わせる中、胸騒ぎに襲われたキリエは広間を飛び出した。

「キリエ様ッ!」

 キリエは破裂しそうな胸で廊下を走った。階段を駆け下りると、踊り場でぎょっとして立ち尽くす。開け放たれた扉から強風が吹き込む中、アプローチに人だかりができている。従者たちに囲まれた中心に、ぼろぼろの甲冑を身にまとった兵士が座り込み、肩を震わせて号泣している。キリエの顔から血の気が引いてゆく。ゆっくりと階段を下りてゆくと、やがて人々がキリエに気づいて振り返る。その顔は皆一様に強張っている。

「……どうしたの……」

 キリエは震える声で囁いた。

「……何があったの」

「王妃……」

 従者らが道を開け、キリエは恐る恐る斥候に向かって歩み寄った。

「……王妃……!」

 泥で汚れた顔を上げ、斥候は呻き声を上げた。

「……へ、陛下が……! 陛下が……!」

 キリエは手で口を覆った。足元がよろめく王妃を従者が慌てて支える。その時、背後からマリーらが駆けつける。異様な雰囲気に廷臣たちも困惑する。

「どうした……! 何があったのだ!」

 側近の言葉に斥候ががっくりと肩を落として項垂れる。

「陛下が……、身罷られました……!」

 その場が恐ろしい沈黙に包まれる。嵐の鳴轟が不気味に響き渡る中、キリエは両膝を突いた。

「王妃!」

 モーティマーが咄嗟に支えるが、キリエは呆然と囁いた。

「……嘘よ……」

 斥候は涙ながらに言葉を続けた。

「お、王妃……! へ、陛下は……、陛下は……、最期まで、王妃の御名前を呼んでいらっしゃいました……!」

 それを聞くと、キリエはモーティマーの手を振り払って立ち上がった。

「嘘よ! ギョームが……、ギョームが死ぬわけないわ!」

「王妃……!」

「い、行かなきゃ……!」

 ふらふらと走り出そうとするキリエをモーティマーが抱きとめる。

「陛下、……王妃!」

「行かなきゃ……! ギョームを、迎えに、行かなきゃ……!」


 ホワイトピークでは、完全に姿を消したエスタド艦隊を追撃するべく準備が進められていた。

「艦隊は退却したが、エスタドとガリアの国境が気になる。ガルシアは簡単には諦めないだろう」

 ジュビリーが息をつきながら頷く。

「女王陛下のご様子が気になります。ガリアへ向かいます」

「そうだな」

 ウィリアムも険しい表情を崩さないまま返す。その時、

「クレド侯! ガリアから使者が参りました!」

 二人は同時に振り返った。

「ルファーンの状況かな」

 ウィリアムはそう言ったが、二人の前に現れたのは、青ざめた顔を強張らせた使者だった。一瞬、不思議に思いながらもジュビリーが使者に歩み寄る。

「この度はガリアからの援軍に感謝する。ギョーム王陛下にお伝えしてくれ」

「……はっ……」

 使者は跪いたまま項垂れ、顔を上げようとしない。ウィリアムとジュビリーはにわかに胸騒ぎを覚えると顔を見合わせた。

「……どうしたのだ」

「……も、申し訳ございませぬ……。お人払いを……」

 使者のくぐもった声にジュビリーはごくりと唾を飲み込んだ。広間から人々が退出すると、使者は震える口を開いた。

「……陛下が……、ギョーム王陛下が……、崩御されました」

 ジュビリーらの顔がさっと青ざめる。ウィリアムは咄嗟にジュビリーを振り返った。宰相は目を見開き、微動だにせず使者を凝視した。

「……なん、だと……」

 かすれた声で呻くアングルの宰相に、使者は涙を呑んで語りだした。

「我が君は……、ルファーン城の砲台よりエスタド艦隊に砲撃を指揮されておりました。ですが、エスタド艦隊からも砲撃が行われ……、その、巻き添えで……」

「何故砲台にいたのだッ!」

 思わず食ってかかるジュビリーにウィリアムが押しとどめる。

「落ち着け、バートランド……!」

「ど、どうして、そのような……、危険な場所に……! 何故だ!」

 使者は震えながら肩を落とした。

「我が君は、自ら皆の先頭に立って敵と戦うことが君主の勤めだと、常日頃から仰せでございました」

「しかしッ……!」

「……王妃にも、今頃報せが……」

 その言葉にジュビリーは言葉を失った。彼の脳裏に、最後にギョームとキリエに会った日の光景がよぎる。キリエの生誕祝賀会を終え、アングルに帰国するジュビリーにギョームは穏やかな表情で呼びかけた。

「キリエを連れてアングルへ行きたい」

 だが、キリエは夫の手を握り締めるとジュビリーを見つめてきた。あの眼差しは、自分はこれからギョームと共に生きてゆくという決意を語っていた。そして、ジュビリーもそれを受け入れたのだ。だが、まさか、ギョームが……!

 ジュビリーはかすかに震えながら使者を見下ろしていたが、やがて突然踵を返すと広間を飛び出した。

「バートランド……!」

 ジュビリーはホワイトピーク城を後にすると、港へ向かった。まだ嵐の余韻を残す港には、戦闘で傷ついた艦船が多く繋留されていた。小雨が降りしきる中、ジュビリーは波止場にたむろしていた水兵のひとりを捕まえる。

「ソーキンズはどこだ!」

 水兵は宰相の怒号に息を呑むと、一隻の船を指差す。〈黄金の羊〉の船首が雨に打たれている。ジュビリーは無言で走り出した。

 ゴールデン・ラム号の近くでは、ソーキンズと港の役人が揉み合っていた。が、ひとりの水夫が走り寄ってくるジュビリーに気づいてソーキンズの肩を叩く。

「フィル」

「あぁ?」

 ソーキンズはジュビリーに気づくと目を剥いた。

「侯爵! こいつに何とか言ってやってくれ! 海賊船の補修は後回しだとよ! こっちゃ死ぬような思いで女王陛下のために戦ったってのによ!」

 海賊の言葉にジュビリーは港湾の役人に一瞥をくれた。

「ゴールデン・ラム号の補修を最優先しろ。早くやれ!」

「か、かしこまりました!」

 役人が慌てて指示を下す様を見ると、ジュビリーはソーキンズの腕を取った。

「ソーキンズ、私をルファーンに連れてゆけ」

「あ?」

 ソーキンズは迷惑そうな顔つきで聞き返した。

「お姫様を迎えにいくのか?」

 だが、ジュビリーは眉間に皴を寄せると海賊の耳元で囁いた。

「ギョーム王が身罷られた」

「みま……?」

「お亡くなりになった」

 言葉を知らぬ海賊のために言い直してやると、さすがのソーキンズも目を見開いた。

「……あの、若造が……?」

「ガルシア王はアングル上陸には失敗したが、今度はガリアを狙うやもしれん。一刻も早く女王にお会いしなければ……!」

 ソーキンズは宰相を凝視した。やがて、大きく息をつくと傍らの操舵手に声をかける。

「大急ぎで補修を済ませろ、ホッジ。それから、物資の補給だ。ルファーンに向かう」

「アイアイ、船長」

 そして、ソーキンズは強張った顔でルファーンの方角を見つめるジュビリーを見守った。


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