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女王キリエ  作者: カイリ
第11章 エスタドの大鷲
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第11章「エスタドの大鷲」第7話

エスタドの侵攻を撃退した若獅子王ギョーム。歓喜に沸くガリアで、新年と共に王妃の生誕を祝う祝宴が開かれる。

 一方、挟撃するはずのユヴェーレン軍の到着が遅いことに苛立っていたビセンテは、不意に勢いを盛り返したガリア軍に目を剥いた。

「どうした、何があった……!」

 隣に控えるトーレスも不安げに戦況を見守る中、兵士らを掻き分けて斥候が駆け寄る。

「申し上げます! ユヴェーレン軍が退却を始めました!」

 ビセンテは言葉を失った。トーレスは斥候の胸倉を掴んで引き寄せた。

「どういうことだッ!」

「モンフルール近くまで進軍したようですが、オイールから出撃したアングルの聖女王騎士団に襲撃されたとのことです! それだけでなく、カンパニュラの軍勢も引き連れて……!」

「オリーヴ公!」

 ビセンテが振り返ると、別の斥候が駆け寄ってくる。

「クロイツが神聖ヴァイス・クロイツ騎士団を派兵したという情報が……!」

 次々ともたらされる信じがたい報せに、ビセンテは歯噛みした。兵はすでに限界を超えている。これ以上新たな軍勢を相手にはできない。そろそろガルシアが王都ヒスパニオラを出る頃だ。王に危険を及ぼすわけにはいかない。

「……退却だ」

 ビセンテは呻くように呟いた。トーレスも目を眇め、ガリア軍と奮闘する軍勢を眺める。

「……承知いたしました」

「あの……、小童(こわっぱ)どもがッ……!」

 顔を歪め、憎々しげに吐き捨てるビセンテを、トーレスは息を呑んで凝視した。


 ヒスパニオラのピエドラ宮殿は、今まさに王が出陣しようと浮き足だったざわめきに包まれていた。後宮では幼い王女たちが行かないでくれと泣きじゃくり、ガルシアを困らせている。

「父上が戦場に行くことないわ!」

 末娘のアンヘラが顔を真っ赤にして泣き叫び、ガルシアは困り果てた様子でなだめる。

「しかし、私の代わりにビセンテが戦場で戦っている。いつまでも奴ひとりを戦わせるわけにはいかん」

 ビセンテの名を耳にしてアンヘラは黙り込んだ。そして、姉のイサベラの腕にぎゅっとしがみつく。イサベラも涙を零しながらも口を引き結んで父親を見つめている。

「おまえもビセンテは好きだろう?」

 アンヘラは、普段は強面ながら、自分たちの前では笑顔を見せてくれる父の宰相が大好きだった。

「……父上の次に好き」

「次の次ではないのか? 二番目はフェリペだろう」

 フェリペはビセンテの次男だ。アンヘラは顔を真っ赤にして父親にしがみついた。

「大丈夫だ。すぐに帰ってくる」

 ガルシアは穏やかな表情で娘を抱きしめた。その時、女官を連れたフアナがやってくる。

「イサベラ、アンヘラ。まだ父上を困らせているの?」

「だって、姉上……! 父上が戦場に行ってしまうのよ……!」

 フアナは哀しげに口をつぐむ。長女であるフアナは、幼い頃に父親が遠征に赴く姿を何度か目にしていた。その夫を心配しながらも力強く送り出していた母ペネロペの姿も覚えている。フアナは妹たちと違い、父の後継者となるべく帝王学を学んでいる。だが妹たちはまだ幼い上、父親が出陣する姿を見るのはこれが初めてだ。

「あなたたちがそんなに聞き分けがないと、父上は安心して戦場で戦えないわ。エスタドの女は、強くあらねば」

 姉の凛とした言葉に、妹たちは不安で一杯な表情で黙り込む。そんなフアナの姿にガルシアは目を細めた。

(……ペネロペ。おまえは立派な娘を育ててくれたな)

 王の脳裏にも妻の姿が蘇る。心根の優しい、穏やかな妻だったペネロペ。だが、その芯の強さはガルシアの心の支えだった。

 王の間に悲痛な沈黙が広がる中、外からばたばたと足音が響き、ガルシアは現実に引き戻された。

「陛下ッ!」

 廷臣の一人が血相を変えて飛び込んでくる。

「どうした」

「オリーヴ公が退却を始めました!」

 王の間に衝撃が走る。フアナの顔から血の気が引く。

「一体……、何があった!」

「挟撃するはずだったユヴェーレン軍が、アングルの聖女王騎士団によって撃退されたそうです!」

「……アングル……!」

 ガルシアの歪められた口から怒りに満ちた言葉が漏れ出る。その鬼のような形相に、娘たちは息を呑んだ。

「ビセンテが、あの田舎娘に背を向けたというのか!」

「聖女王騎士団はカンパニュラの援軍も引き連れているとのことです!」

「情けない……! 予が行く!」

 踵を返そうとするガルシアを側近が慌てて押し留める。その王に追い討ちをかける叫びが。

「陛下ッ! 援軍はアングルとカンパニュラだけではございません! クロイツからも神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が向かっております! ポルトゥスやナッサウも挙兵の準備を……!」

 ガルシアはぎりっと歯噛みした。ガリアの若造に、アングルの田舎娘。そして、クロイツの生臭坊主……!

「……どうしてくれる……」

 地獄の底から響くかのような呻きに、フアナはかすかに震えながら父を見上げる。

「この屈辱……、どうしてくれるッ!」


 エスタド軍が退却を始めたものの、完全に撤退したのを確認できるまでギョームは国境に留まった。そして、ビセンテが退却を始めてから一ヶ月が経ち、国境の警備を強化させてから王軍はオイールに向かった。

 ギョーム帰還の報せを受けたキリエは、オイール郊外まで出迎えた。年の瀬も押し迫り、厳しい寒さが続く国境の街で、キリエは夫の帰りを今か今かと待ち焦がれていた。

 寒風が吹く中、城館の窓から身を乗り出すキリエにレスターが呼びかける。

「キリエ様、お風邪を召されてしまいますよ」

 老臣の言葉に頷くものの、キリエの眼差しは夫の軍を探して彷徨っている。

「ギョーム王陛下もご無事だそうで、何よりですな」

「ちゃんと、この目で見るまでは安心できないわ」

「……誠」

「それに……」

 まだ沈んだ声色にレスターは眉をひそめる。

「エスタド軍は撤退したけれど、ガルシア王がこのまま黙っているとは思えないわ」

 キリエの不安はもっともだった。かねてから目の敵にしていたギョームに完敗したのだ。誇り高いエスタドの大鷲は激昂したに違いない。

「侯爵にご相談しましょう。まだしばらくは予断を許さない状況が続くでしょうな」

 侯爵という言葉にキリエはどきりとした。ギョームが出陣してから、寝ても覚めても思うのは彼のことばかり。以前は、何か問題が立ちはだかれば目に浮かぶのはジュビリーだった。無意識のうちにジュビリーに助けを求めていたというのに、夫はいつのまにかそれを超える存在になっていた。締め付けられる胸をそっと押さえる。ギョームに会いたい。早く!

 しばし目を閉じ、息を整えてから再び窓の風景を仰いだ、その時だった。彼女の目が何かを捉えた。思わず両手を突いて体を乗り出す。

「……百合……」

「えっ?」

 丘の中腹に、騎馬の軍団が下りてくるのが見える。その先頭に翻っているのは――。

「〈白百合と赤獅子〉……! ギョーム!」

 叫ぶや否やキリエは部屋を飛び出した。

「キリエ様!」

「王妃!」

 レスターらが慌てて追いかけるが、キリエは階下へ駆け降りるとアプローチに向かう。館の前には数騎の騎士がおり、カンベール子爵が笑顔で振り返る。

「王妃! たった今先遣隊が到着いたしました。陛下はお怪我もなく、ご無事で……」

 子爵の言葉も耳に入らぬ様子で王妃は屋敷を飛び出した。

「お、王妃! 落ち着いて下さいませ!」

 王妃の姿に驚いて下馬する騎士に向かってキリエが叫ぶ。

「あなたの馬を貸して!」

「は?」

 呆気に取られる騎士を尻目に幼い王妃は轡を手にし、騎士らが慌てて乗るのを手伝う。

「キリエ様!」

「王妃! 危のうございますよ!」

 皆の制止を振り切り、キリエは手綱を握ると馬を走らせた。

 街に向かう街道には、王の帰還を待ちわびた市民たちが大勢出迎えていた。さすがに疲労でやつれた表情ながら、市民らの歓声に穏やかな微笑で手を振る若獅子王。キリエ同様、エスタドの反撃が頭を離れないギョームは時々思い詰めた表情を見せ、バラはそんな若い王を黙って見守っていた。やがて、大きく溜息を吐き出したギョームにそっと声をかける。

「……陛下。そろそろオイールです。お疲れでしょうが、もうすぐ王妃にもお会いになれます」

「……ああ」

「お帰りになれば、すぐに次の策を考えねば。しかし、今はしばらくお休み下さいませ」

 ギョームが小さく頷いた時。彼は眉をひそめると手綱を引いた。首を傾げたバラが王の視線を追って身を乗り出す。街道の先に、数騎の騎馬がこちらへ向かっているのが見える。ギョームは黙って目を眇めた。

「出迎えでしょうか」

 騎馬はどんどん距離を縮めてくる。そして、馬上の人影の輪郭を捉えた王の瞳が光を取り戻す。

「……キリエだ!」

「えっ?」

 バラが振り向く間もなく、ギョームは馬の腹を蹴った。

「キリエ!」

 妃の名を叫ぶ王に、市民らは一際大きな歓声を上げる。キリエは、ギョームが自分に気づいて駆け出したことに満面の笑顔になる。近づくにつれ、彼の顔がはっきりと見えてくる。

「ギョーム!」

 キリエがもつれる手で手綱を引き絞り、転げ落ちるようにして馬から降りる。

「ギョーム……!」

「キリエ!」

 馬を降りたギョームにキリエが飛びつく。

「お帰りなさい……!」

「キリエ……!」

 ギョームは妻を抱きしめた。柔らかく、細い妻の体。数ヶ月ぶりに触れる感触に胸が詰まる。

「良かった……、良かった、無事で……!」

「ありがとう。そなたのおかげだ!」

 妻の頬を包みこみ、人目も憚らずに夢中で唇を重ねる。ギョームは無事だった。彼と口付けを交わし、ようやく心から安堵したキリエは泣きながら夫にすがりついた。二人の様子に、見守っていた市民らは惜しみない喝采を送った。


 その頃、全身に悲愴な怒りを漲らせたオリーヴ公ビセンテがピエドラ宮殿に帰還した。宮殿の侍従たちは皆息を呑んで宰相を出迎え、盟友の帰還を知らされたガルシアは王の間で待ちかまえていた。

「陛下……、オリーヴ公が」

 侍従が困惑気味に言上し、ガルシアは眉をひそめた。ビセンテは開け放たれた扉の前で立ち尽くしたまま、中へ入ってこない。

「……皆、下がれ」

 王の呼びかけに、廷臣らが恐々と振り返る。宰相はやつれた顔に険しい皺を刻み込ませ、ただ黙って佇んでいる。

「ビセンテ」

 ガルシアは手を上げると入るよう促す。ビセンテは深々と一礼してから王の間に足を踏み入れた。入れ違いに廷臣らが静かに退出してゆく。

「……陛下」

 王の前に進み出たビセンテは苦しげに囁いた。しばし悔しげに唇を噛み締めていた彼は、やがて搾り出すように囁く。

「言い訳は、いたしませぬ」

 その言葉に、ガルシアは口許に笑みを浮かべてみせた。そして玉座から立ち上がると、拳を盟友の胸にどっと押しつける。

「おまえの屈辱は予の屈辱だ」

「陛下――」

 言葉を続けようとするビセンテの肩を力強く叩き、ガルシアが囁く。

「おまえの力が必要だ」

 ビセンテは顔を歪めるとその場に跪いた。

「申し訳ございませぬ……!」

「立て、ビセンテ」

 ガルシアは再び玉座に腰を下ろした。

「あの若造、たいした手腕だ。だが、おまえを打ち破ったのは奴ではない」

 立ち上がったビセンテは主君を見つめた。ガルシアは手すりに肘をかけ、思案深げに額に手をやる。

「アングル、カンパニュラ、そしてクロイツ。同盟国があってこその戦略だ」

「……はっ」

「奴一人では戦えない。それが、露見した」

 ビセンテは目を細めた。

「如何いたしましょうか」

「……あの小娘」

 ガルシアの口許に冷たい笑みが広がり、大鷲の瞳は凶暴な光を帯びていく。アングルの修道女。ビセンテは黙ったまま主君を見つめた。

「あの小娘が奴を動かしている。そして、あの小娘がいなければ奴は牙のない獅子になり果てる」

 落ち着きを取り戻したビセンテはゆっくり頷いた。

「修道女の化けの皮をかぶった田舎娘に、皆が踊らされているだけだ、と」

「そうだ」

 ガルシアは再び立ち上がると、足下を見やった。広い床は色鮮やかな大理石のタイルで世界地図が描かれている。彼はゆっくり歩みを運ぶと、小さな島国の上で立ち止まる。

「……目障りだ」

 ガルシアの眉間に深い皺が刻まれる。

「このちっぽけな……、島国がな!」


 ギョームがエスタドの侵攻を防いで間もなく、激動の一年が明けた。新しい一年の幕開けの日、国王夫妻が聖オルリーン大聖堂で新年の参拝を済ませると、ビジュー宮殿で新年と王妃の生誕祝賀会が行われた。戦役の直後でもあり、まだ予断を許さない状況に変わりはないため、例年に比べると落ち着いた祝賀会だったが久々の慶事でもあり、皆はほっと息をついた。

 アングルからはジュビリーが側近を連れて参加していた。彼は、エスタドからの侵略を防いだ王と、彼を支えた王妃を皆が祝う様子に安堵の表情で見守った。

「誕生日おめでとう、キリエ」

「……ありがとう」

 夫と杯を合わせたキリエは、遅ればせながら無事に十七歳の祝賀会を夫と迎えられたことに、嬉しそうに微笑んだ。

「……こんな風にあなたと誕生日をお祝いできるなんて。……本当に良かった」

「そなたが勝利を引き寄せてくれたのだ」

 夫の言葉にキリエは少し哀しげに目を伏せ、頷いた。モンフルール戦役では、国境地帯を中心に多くの犠牲者が出た。キリエとギョームは宮廷費を切り詰め、負傷兵の手当や遺族への弔慰金に当てた。それでもキリエの心は晴れない。そんな彼女の気持ちに気づいたギョームは、そっと妻の手を握りしめた。

「……束の間の休息だ。今日は楽しもう」

「……はい」

 キリエは少しだけ口許をほころばせた。そんな国王夫妻を見守っていたバラが、やがて控えめに声をかける。

「……陛下。準備が」

「ああ、頼む」

 バラが一礼してその場を去り、キリエは首を傾げた。

「ギョーム?」

「お祝いだ」

 微笑を浮かべて囁く夫に、キリエは驚きの表情になる。

「本当に、用意してくれていたの」

「当然だ」

 胸を張る夫にキリエが微笑んだ時。侍従を連れたバラが戻ってくる。二人の侍従は赤い布をかけた何かを抱えている。重そうなそれを引きずらないよう運び、細心の注意を払って静かに床に置く。

「なぁに?」

「行こう」

 席を立ったギョームがキリエの手を引いて大広間の中央に連れてゆき、廷臣らも興味津々に見守る。四角い形の布に、キリエが思わず呟く。

「ひょっとして、これは……」

「わかったか?」

 ギョームは得意げに頷くと、「良いぞ」と呼びかけた。すると、赤い包みの影から一人の男が現れ、キリエは「あっ!」と声を上げて口を覆い隠した。

「リッピ殿!」

 姿を現した画家は相変わらず人懐っこい笑顔で恭しく一礼した。

「ご機嫌麗しゅう、キリエ王妃」

「リッピ殿がここにいるということは、まさか……」

「そうだ」

 驚く妻の様子に満足そうに笑うと、ギョームはバラに目配せをした。心得た宰相は赤い布に手をかけると一気に取り去った。

「あ……!」

 現れたのは一枚の絵。そこには、塔の窓を見上げて跪くギョームと、窓辺で手を合わせようとするキリエの姿が描かれていた。ジュビリーやレスターら、アングルの廷臣らは驚いて目を見開いた。

「……こ、これ……」

「そうだ。我々が初めて出会った時の情景だ」

 鮮やかな青い上衣に素朴な表情のキリエと、わずかに幼さが残る旅装姿のギョーム。キリエの脳裏に、あの日の光景が鮮烈に蘇る。あの時、ギョームは無防備な表情でこちらを見上げていた。初夏の爽やかな風が美しい金髪を揺らし、吸い込まれそうな涼やかな碧眼が自分だけを見つめていた。我を忘れるとは、あのことを言うのだろう。キリエはわずかに目を細めた。自分しか見ていないのは結婚してからもだ。そのため、ギョームは大きく傷つくことになった。

「リッピ殿が……、この絵を」

「そうだ。何度も手紙をやり取りして、下絵を何十枚も描かせた。おかげで……、この出来映えだ」

 リッピに対する賛辞の声が次々と上がり、キリエは喜びを滲ませた表情で画家を振り仰いだ。

「……ありがとう、リッピ殿」

「もったいないお言葉」

 慇懃にその場に跪くリッピにキリエはわずかに眉をひそめて囁きかける。

「でも、ガリアへ来て大丈夫なの?」

 彼が最近、エスタドのガルシアに招かれて肖像画を手掛けたことを耳にしていたキリエは、エスタドとの戦闘が終わったばかりのガリアにリッピが訪れたことを心配したのだ。だが、リッピは特に表情を変えることもなく、安心させるように頷いてみせた。

「ご心配なく。私は一介の画家に過ぎませぬ。あくまでも中立の立場でございます。それは、ガルシア王陛下もご理解されていらっしゃいます」

 それでもまだ心配そうに眉をひそめるキリエに、ギョームが耳元で囁く。

「無事にカンパニュラまで送り届ける。大丈夫だ」

「……お願い」

 妻の言葉に頷くと、ギョームは誇らしげにリッピに呼びかけた。

「それにしても、短い製作期間の上、手紙のやり取りだけでこれだけの仕上がりだ。さすがだな。礼を言うぞ」

「これも偏に、ギョーム王陛下の愛情の賜物でございましょう」

 リッピはいたずらっぽく片目を瞑ってみせた。

「あれほどの惚気話は耳にしたためしがございませぬ」

「リッピ!」

 思わず顔を赤らめる王に皆が声を上げて笑う。そんな人々を、ジュビリーは黙って見守っている。穏やかな表情ながらも、どこか寂しげな眼差しで。

「どうだ、キリエ。気に入ってくれたか」

「さすがリッピ殿ね。……本当に、素晴らしいわ」

 言葉とは裏腹に、どこか困惑気味の妻にギョームが首を傾げる。

「どうした?」

 キリエは頬を染めて囁いた。

「何だか……、少し恥ずかしいわ」

 ギョームは満足げに微笑むとキリエの肩を抱いた。

「二人の思い出だからな。寝室に飾ろう」

 それはそれで恥ずかしかったが、キリエは夫の思いに胸が一杯になった。そして、絵の中の自分を指さした。

後光(ニムバス)が……」

 手を合わせようとするキリエの周囲がぼんやりと光を帯びている。ギョームは懐かしそうに囁いた。

「あんな風に見えた。本当だ。だから……、天使かと」

「ギョーム……!」

 キリエが恥ずかしそうにたしなめるが、ギョームは嬉しそうに続けた。

「だが、そなたが手を合わせたから、わかったのだ。〈ロンディニウム教会の修道女〉だと」

「私も、あなたがガリアの王太子だとすぐわかったわ」

「どうしてだ?」

 不思議そうに顔を覗きこんでくる夫を、キリエは微笑を浮かべて見上げた。

「あなたの髪……」

「髪?」

「皆が言っていたの。ガリアの王太子は美しい金髪で、若獅子と呼ばれていると」

 ギョームは少し得意げな笑顔をしてみせた。キリエは夫の髪色を眺め、目を細めて呟いた。

「羨ましいわ。私もあなたみたいに綺麗な金髪だったらよかったのに。……私、自分の髪が嫌いだから」

「何故」

 少なからず驚いた表情で尋ねる夫に、キリエは眉を寄せると目を伏せた。

「……父上と同じ色だから」

「キリエ」

 ギョームは妻の髪を優しく撫でた。長い指が愛しげにゆっくりと髪を梳く。

「私はそなたの髪が好きだぞ。ずっと撫でていたくなる」

 不思議なもので、ギョームに「好きだ」と言われると、キリエはそれまで嫌だった自分の髪が嫌ではなくなった。彼女は、夫が髪を撫でるに任せ、満ち足りた表情で目を閉じた。

 そんな王と王妃を見守っていたバラは、ひとり絵を見つめたままのアングルの宰相に気づいた。穏やかながらもどこか寂しげな表情だったジュビリーは、バラの視線に気づくと気まずそうに会釈をした。

「……アンジェ侯。お二人の出会いはこのように?」

「そうか。貴殿はあの場にはおられなかったな。この通りだ。実に見事に再現されている」

「左様ですか」

 バラはわずかに目を眇めると、ジュビリーの表情を探るように見つめた。

「……娘の初恋を見守る父親の心境……、かな?」

 どこか穿った言葉にも、ジュビリーは素直に頷いてみせた。

「……実に、感慨深いものがあります」

 ジュビリーの言葉にバラは黙り込んだ。そして、彼の視線を追う。キリエとギョームは、屈託ない笑顔で睦まじく言葉を交わしている。

 クレド侯は、このまま王妃を諦めるつもりだろうかと、バラはひそかに思った。クレドで共に過ごした濃密な時間は、彼と王妃を強く結び付けたに違いない。しかし、ギョームはそれ以上に強い絆を結んでみせたのだ。クレド侯は何事もなかったかのように、これまでと同じように宰相として王妃を支えていくつもりなのだろう。

 しばらくリッピの絵の前で歓談が行われていたが、やがてギョームは少し居住まいを正すとキリエに囁いた。

「……実はな、キリエ。祝いの品はこれだけではない」

「えっ?」

 思いがけない言葉にキリエが驚く。が、夫は申し訳なさそうに顔をしかめる。

「それが、この度の戦役のせいで工期が遅れたらしく、まだ完成していない」

「工期って……、また、何を作らせたの?」

 キリエがびっくりして不安げに囁く。ギョームは真顔で呟いた。

「……教会だ。バレクランで作らせている」

 ギョームの言葉にキリエは目を大きく見開いた。

「妻と言えど、そなたの領地に勝手に教会を作らせたことは謝らねば……」

「そ、そんなこと……! ありがとう……! 嬉しいわ、ギョーム!」

 思わず自分の手を両手で握り締め、嬉しそうに満面の笑みを浮かべるキリエに、ギョームはほっとした様子で微笑む。そして、後ろのバラを振り返ると目配せする。宰相は侍従から何かを受け取ると恭しく王に差し出す。ギョームが受け取ったのは、教会の設計図だった。繊細な線で描かれた教会の見取り図は、美しい芸術作品のようだった。

「すごい……! 綺麗だわ……!」

 子どものように目を輝かせるキリエに、ギョームも嬉しそうに頷く。

「あまり大きくはない。バレクランを訪れた時にそなたが寛げるようにと、小さな教会にした」

「でも……、ずいぶん大きそうに見えるわ」

「聖職者が三十人生活できる規模だ」

「三十? 全然小さくないわ……!」

 キリエが育ったロンディニウム教会は、十人足らずの聖職者が住んでいた。単純に計算して、三倍の大きさだ。

「もう少しで完成する。出来上がったら一緒に行こう」

「ええ! ねぇ、名前はつけてあるの?」

 何故か、ギョームはその言葉に顔をわずかに強張らせた。

「……私が名付けた」

「何て名前?」

 無邪気に尋ねてくる妻に、ギョームは慎重に囁いた。

「……聖ロレイン教会……」

 ギョームの囁きに、キリエは言葉を失った。彼は真顔で真っ直ぐ見つめてくる。それまでの歓喜の表情は消えうせ、怯えの表情に近い妻の手をそっと握ると、ギョームは言葉を続けた。

「そなたにとって、大事な人だ。……私にとっても」

 キリエは体を震わせ、何か言おうと口を開くが言葉が出てこない。ギョームは落ち着きをなくした妻の肩を優しく撫でた。

「彼女の功績を称えたい。……だから」

 その時、キリエの目から大粒の涙が溢れ出る。ギョームは咄嗟に彼女を抱きしめた。

「……あ……、ああ……!」

「キリエ」

 ギョームは全身を震わせる妻を強く抱きしめた。周りの廷臣らが、二人のただならぬ様子に気づいてざわめき始める。

「……すまない。辛いことを思い出させてしまった」

 ギョームの囁きに、キリエは彼の胴衣を握り締めた。知っているのか。ロレインが亡くなっていることを。何故彼女が死んでしまったかも……? キリエは嗚咽を止められず、周りを忘れて泣きじゃくった。

 廷臣らは、事情がわからないながらも口をつぐみ、二人を静かに見守った。ただ泣き崩れるばかりの王妃を抱く王に、モーティマーは恐る恐るジュビリーを見上げるが、彼は黙って二人を見つめていた。


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