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女王キリエ  作者: カイリ
第10章 運命の車輪
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第10章「運命の車輪」第4話

王と王妃への不信を募らせた廷臣たちはついにある提言を行う。それはギョームを激怒させたが、その怒りはやがてキリエにも向けられて……。

 廷臣会議で王と廷臣が衝突したことは宮廷中に知られることになった。キリエは絶えず自分へ向けられる哀れみと軽蔑の視線に晒され、いたたまれない毎日が続いた。そんな女王を守ろうとアングルの女官たちが頑なな態度を取るため、ガリアの貴族たちからは益々白い目を向けられ、八方塞とも言える状況になってしまった。特に、日頃からキリエとギョームの双方に仕えるジョンは、廷臣と衝突することが増えた。生真面目な忠臣である彼は、キリエが謂れのない中傷を受け続けることに我慢ならなかったのである。

 そんな中、ロベルタはキリエを励まし続けた。彼女の言葉によると、夫レイムス公シャルルも甥の後継者になるつもりなどなく、とにかくキリエに世継ぎを生んでもらえれば、と願っているという。それを伝え聞いたギョームは、父親よりもずっと好感を持っていた叔父シャルルに対しても心苦しい思いを抱いていた。


 陰鬱な日々が続く中、廷臣たちはついに王と王妃にある提言をすることを決めた。王に呼ばれたキリエは、ジョンとモーティマー、そしてルイーズを伴って王の間へと向かった。マリーも一緒に行きたがったが、出産を間近に控えた彼女の健康状態を考え、キリエは同行を禁じた。

 王の間へ入ると、数人の廷臣が無表情で迎え入れた。王の背後には、険しい表情で控えているバラの姿もある。キリエは刺さるような皆の視線を受けながらギョームの側に寄り添った。

「キリエ王妃。お呼び立てして申し訳ございません。これから、ガリアとアングルの未来について、大事なお話がございます。どうぞ最後までお聞き下さいませ」

 ペール伯が慇懃な口調で述べると、丁寧に頭を下げる。言葉の端々から、キリエを子ども扱いしていることが感じられる。不愉快さをにじませた表情のジョンが無言でキリエの小さな背中を見守る。実際、ガリアの廷臣らにとってキリエは年端も行かぬ子どもに過ぎなかった。だが、まさか彼女がこれほど固く操を守ろうとするとは予想もしていなかったのだ。

「誠に失礼ながら……、先日医師による診察では、お体に異常はなかったとのことで……」

「……はい」

 顔を硬直させ、か細い声で返事を返す妻の手をギョームが握り締める。そして、彼は廷臣らに向かって言い放つ。

「健康に問題がないのであれば、いつかは子ができる」

「いつかでは駄目なのです、陛下……!」

 エイメ侯の強い口調にキリエがたじろぐ。

「お世継ぎをお生みになられて、初めて王妃は王妃として認められます。このままでは、ご懐妊の兆候すら見せない王妃に対して国民は不信感を覚えるでしょう。世が平和であれば、気長にお世継ぎのご誕生を待てるでしょう。しかし、今はそのような状況ではございません。未来のために少しでも不測の事態を避けるために……、我々はある提言をいたします」

 キリエはごくりと唾を飲み込んだ。ギョームの手が強く握り締めてくる。広間に広がる緊張で張り詰めた空気。痛々しい沈黙の果てに、エイメ侯は再び口を開いた。

「選択肢は、二つに一つです。……陛下が側室をお迎えになられるか……、王妃を離縁なさるかです」

「無理だ」

 キリエが口を開く前にギョームが吐き捨てる。

「どちらも無理だ……! あり得ない!」

「陛下……!」

 バラが制するが若い王は聞く耳を持たない。

「ガリアの王妃はキリエ唯一人だ!」

「陛下、何故王妃にこだわるのです?」

 エイメ侯の明け透けな言葉に、他の廷臣らも言葉を失う。彼は身を乗り出すと必死で王に呼びかけた。

「王妃がキリエ女王陛下でなければならない理由は、何でございましょう。アングルとの同盟のためですか」

「……それもある」

 ギョームは震えながら呟いた。

「だが、妃はキリエでなくてはならん。彼女でなくては意味がない」

 顔を歪めたギョームは、エイメ侯に掴みかかる勢いでまさしく獅子の咆哮のように叫んだ。

「そなたらにはわからんだろう! 予にとっては、キリエ以外の妃など考えられぬ!」

 その言葉に、突然キリエが両手で顔を覆うと肩を震わせて泣き出した。

「……王妃!」

 ジョンが後ろから声をかける。彼にはわかっていた。何故、キリエがギョームを受け入れられないのか。修道女としての倫理観。男性への恐怖心。そして……、ジュビリーへの想いが心の片隅に燻っているはずだ。だが、それは死んでも口には出来ない。

「王妃」

 ルイーズがキリエの背を力強く撫でる。彼女にとっても、大事なギョームが選んだ女性だ。できることならばガリアに溶け込み、ガリアの王妃に相応しい女性になってもらいたい。だが、こればかりは……、どうしようもない。

「……陛下に申し上げます」

 ペール伯が恐る恐る口を開く。

「アングルとの同盟を重視するのであれば……。そして、王妃と離縁されたくないのであれば、ぜひ側室を……」

「だから、それはできぬと申したであろう!」

 頭から否定する王に対し、廷臣らはなおも食い下がった。

「陛下。不測の事態に備えて側室を得ることは、ガリア王政の歴史では何度もあった事実でございます。恥じることでも何でもございません!」

「今は良いかもしれませぬ。ですが、王位継承戦争の火種を作るわけにはまいりませぬ! ユヴェーレンがカンパニュラに攻め入ったのも、王位継承問題が引き金でございました!」

「黙れ!」

 夫の吼えるような叫びにキリエは身をすくめた。ギョームが、自分のために廷臣を罵倒している。そう思うと、全身の震えを抑えきれないほどの恐怖に襲われた。廷臣との衝突は、反逆を招く……!

「……陛下。我々は陛下ご自身とガリアの未来のために申し上げます!」

 顔を紅潮させたエイメ侯がギョームの目を真っ向から見据えて言い放つ。

「側室にはアングル王家の血を引く女性を。さすれば……、同盟に支障はございませぬ……!」

 キリエが息を呑み、恐る恐る顔を上げる。ギョームも顔を歪めて気色ばむ。

「……アングル王家の女性だと」

「……レディ・エレソナ・タイバーンです」

「なっ……!」

 ジョンが絶句する。予想だにしなかった名に、キリエとギョームも呆然と目を見開いた。黙って項垂れていたモーティマーも目を剥いて思わず身を乗り出す。これまで自制してきたジョンが、ついにルイーズを押しのけて前へ出る。

「何を仰る! レディ・エレソナはアングルにおける反逆者ですぞ! 陛下、いや、王妃を、何度も命の危険に晒してきた!」

「ですが、アングル王家の血筋でいらっしゃいます。愛人ではなく、側室に迎えるのであれば、それなりの女性でなくてはなりませぬ」

「嫌です!」

 今まで黙り込んでいたキリエが叫んだ。

「そんなの……、そんなの、私、絶対に嫌です!」

 全身を震わせる妻を抱き寄せるとギョームは廷臣らに言い放った。

「もう話すことはない。下がれ……!」

「陛下……!」

「下がれ!」

 廷臣らは、声を押し殺してむせび泣く幼い王妃に気の毒そうな目を向けるものの、動こうとしない。一向に退こうとしない廷臣らに業を煮やしたギョームは、キリエの手をつかむと王の間を飛び出した。

「陛下!」

「陛下、どちらに……!」

 追いすがる廷臣を振り切り、ギョームは隠し扉を開け放って姿を消した。隠し通路の中は複雑に入り組んでおり、廷臣らは扉の前で途方に暮れて立ち尽くした。

「……モーティマー」

「はっ」

 ジョンに耳打ちされ、モーティマーはそっとその場を離れた。ギョームは一度こうしてキリエを連れて宮殿を抜け出している。

「……ギョーム……」

 隠し通路を走りながら、キリエが呼びかける。あの山に連れて行かれるのだろうか。それとも、別の、もっと遠い場所に……?

 厩舎にたどり着いたギョームは慌てふためく馬丁らを尻目に、妻を愛馬に乗せると宮殿を後にした。見覚えのある道を駆け抜ける間、ギョームは一言も言葉を発しなかった。やがて、あの山が見えてくる。ジャンはいつものように静かに山道を登ってゆく。何の話をするつもりだろう。キリエは不安げに胴着を握りしめた。

 眺望が開けた。以前と変わらない美しい景色。二人が結婚式を挙げた聖オルリーン大聖堂が遠くに見える。しばらく二人はジャンに乗ったまま景色を眺めた。

「……ギョーム……」

 恐る恐る声をかけると、夫は黙って馬から降りた。そして、妻が降りるのを手伝う。ジャンは疲れた体を休めるように、静かに首を項垂れた。まだ冷たい風が吹く中、二人は重苦しい沈黙を抱えていた。

 オイールの風景を眺める夫の目はまだ怒りでぎらぎらしている。キリエは、この場に彼と二人きりでいることに俄かに恐怖を感じ始めた。どうするつもりなのだろう。いつまでここにいるのだろう。その一方で、別の思いが頭をもたげる。いっそのこと、このまま離縁してくれればアングルに帰れる。ギョームも別の女性を迎えれば嫡子が得られるかもしれない。だが、キリエの脳裏に先日投げかけられた言葉が蘇る。

(そなたは誰にも渡さぬ。私から離れることは許さない)

 キリエはごくりと唾を飲み込んだ。彼女にとっては政略結婚だが、ギョームにとっては恋愛結婚だ。相手に対する執着がまったく違う。

「……私は……」

「……え?」

 ギョームのかすれ声に、キリエは震えた声で聞き返す。

「……私は……、受け入れぬぞ。……タイバーンの雌狼など……!」

 憎々しげに囁く夫に、キリエは動揺しながらも目を伏せる。

「わ、私だって、嫌だわ……」

「それが嫌なら離縁しろと言うのだ、奴らは!」

 夫の怒鳴り声にキリエは思わず耳を覆い、肩を震わせる。

「……離縁も側室も、あり得ない……!」

「ギョーム、もういいわ……!」

 泣きながら囁く妻にギョームが振り返る。

「私のために、あなたが辛い目に遭うのは嫌だもの……!」

 肩を抱き、苦しげに涙をこぼす妻を見つめていたギョームが唇を噛みしめる。

「……何故だ」

 ギョームの低い声に思わず顔を上げ、息を呑む。眉間に皺を寄せ、怒りに唇を震わせた夫がまっすぐ睨みつけてくる。

「何故、私を拒む……!」

「……ギョーム……!」

 怒りが自分に向けられた。キリエは恐怖に駆られて後ずさった。

「そなたが私の子を生めば何の問題もない……! 何故だ……。何故私を拒む!」

 震え上がり、答えようにも答えられないキリエにギョームは血走った目を細め、口を歪めると絞り出すようにして囁いた。

「……あいつか」

 ぞくりと寒気が走る。キリエの肩を力任せにつかみ、顔を寄せる。

「あの男が、そなたの胸にいるのかッ!」

「ち、ちが……!」

「どうすればいいッ! どうすれば奴を追い出せるッ!」

「やめて、ギョーム……!」

「そなたは私のものだ!」

 叫ぶや否やギョームはキリエを地面に押し倒した。彼女は衝撃と恐怖で声も出せなかった。襟元にギョームの手がかけられ、力任せに引き千切られる。

「……!」

 瞬間、キリエの脳裏が真っ赤に染まる。その脳裏に浮かび上がったのは、顔面に横一文字の傷を負った男。氷のように冷たい蒼い瞳。冷笑が浮かぶ唇。だが、次の瞬間には上衣を胸元まで一気に引き裂かれ、冷たい空気に晒された胸が粟立つ。キリエの細い手が抗うが、ギョームの腕力に敵うわけもなかった。

「……ッ! やめ、て……!」

 キリエの口から悲鳴が切れ切れに漏れる。荒々しい手に胸を鷲掴みされ、身をよじる。耳朶にかかる荒々しい息遣い。

(殺される……!)

 片方の手が外衣の裾をまくり上げ、細い腰を撫で回し、ギョームの唇が胸に触れた、その時。

「やめてッ! レノックス!」

 ギョームはぎょっとして動きを止めた。

「……レノックス……?」

 だが、瞬間キリエは大きく体を仰け反らせ、手足が痙攣を起こす。

「キリエ……!」

「あ……、あ……、あ……ッ!」

 悲鳴を上げ、全身に痙攣が広がる妻をギョームは混乱しながらも必死で抱きしめた。

「キリエ……、キリエッ!」


 どれぐらいそうしていたのだろう。キリエの痙攣がゆるやかになり、呼吸が規則的になるまで、かなりの時間がかかった。ギョーム自身、衝撃と混乱で半ば意識を失いかけた。呆然としたギョームの耳にジャンの鼻息が聞こえ、彼ははっと我に返った。

「……き、キリエ……。キリエッ……!」

 妻は青い顔で倒れていた。唇は紫色に変わり、引き裂かれた上衣がはだけた胸元には引っかき傷から血が滲んでいる。ギョームの顔から血の気が引いてゆく。キリエを傷つけた。体だけでなく、心まで……!

「キリエ……!」

 再び呼びかけると、彼女の目が瞬く。しばらくぼんやりとしていた目に、やがて光が戻る。

「…………」

 わずかに首を動かし、キリエは夫を見上げた。

「キリエ……」

 名前を呼ばれたキリエの意識が一気に鮮明になる。彼女は顔を歪めると夫の手を振りほどいて体を起こした。そして、露わになった胸元に動揺すると必死で前を掻き合わせる。

「……キリエ」

 震える声で呼びかけられるが、キリエは息を押し殺し、がたがたと震えながら上衣の裾を握りしめた。そんな妻の様子にギョームはごくりと唾を飲み込んだ。

「キリエ……、そなた、まさか……、冷血公に……」

 兄の名にキリエの体がびくりと跳ねる。そして両目を見開き、怯えた表情でゆっくりと振り返る。ギョームは押し殺した声で囁いた。

「今……、レノックス、と」

 夫の言葉にキリエの表情が恐怖で歪み、もつれる指で口元を覆い隠そうとする。

「キリエ……!」

 もう、隠し通せない。キリエは観念したようにぎゅっと目を閉じた。

「……お、襲われたの。……レノックスに……」

「いつ……!」

「……き、教会を、出て、すぐ……」

 教会を出たばかりの修道女を? ギョームは愕然とした。が、キリエはばっと振り返った。

「で、でも! 信じて……! か、体は、無事なの……!」

 必死に訴える妻をギョームは必死に抱きしめた。

「う、疑うものか……!」

 キリエは震えながらも夫の背を抱いた。

「……で、でも、ジュビリーの、到着が、遅ければ、い、今頃、私……」

 そうだったのか。ギョームは悔しげに唇を噛みしめた。

「あ、あの時……」

 どもりながらキリエが囁く。

「レノックスは……、こ、殺そうと思えば、殺せた私を……、殺さなかった……」

 キリエは目をぎゅっと閉じて叫んだ。

「でも私は……! 殺したのよ……!」

「違う……!」

「私を殺さなかったレノックスを……、私は、殺したのよ……!」

 泣きじゃくる妻をギョームは黙って抱きしめた。レノックスの遺体と対面した時、彼女が泣き叫んだ言葉。

(あんなことをされても、私の兄上……!)

 あれは、このことだったのか。ギョームはぎこちない手つきで妻の背を撫でた。

「……彼がそなたの命を奪わなかったおかげで、私はそなたと出会えた」

 夫の低い囁きに、キリエは涙で汚れた顔を上げた。

「……クレド侯が駆けつけたおかげで、そなたは無事だった」

「……ギョーム……」

「私は……、感謝せねばならん……」

 しばらく二人は声を押し殺して抱き合っていたが、やがてギョームが囁いた。

「時々……、そなたは夜中にうなされていた」

「え……」

「よく聞き取れなかったが、手を離してくれ、と……」

 キリエは愕然とした。全身を這い回るレノックスの手。あの悪夢にうなされていたことも、夫に知られていたというのか。

「私に抱かれる度に……、怖い思いをしていたのだろう……?」

 答えようにも声が出ない妻に、ギョームは搾り出すように呻く。

「……最低だ! 私は、何てことを……!」

 悔しげに自分を責めるギョームに、キリエは必死に顔を横に振る。

「あ、あなたは、悪くない……!」

「キリエ……!」

 体を震わせ、二人は我を忘れて抱きしめ合った。


 ケープを羽織らせたキリエをジャンに乗せ、ギョームはゆっくりと山を降りた。日が暮れ始め、冷たい風が野草を揺らしている。その山道の先で騎乗の男が辺りを窺っていたが、やがてこちらに気づく。

「……陛下!」

「……サー・ロバート……」

 前を掻き合わせ、ギョームのケープを羽織った女王に秘書官は青ざめた。王に目を向けると、彼は気まずそうに目を逸らす。

「……寝室の準備をさせておきます」

 事情を察し、固い声で囁いて背を向けようとしたモーティマーにギョームが呼び止める。

「……サー・ロバート。グローリア伯夫人を寝室に待機させてくれ」

「……承知いたしました」

 キリエに心配そうな視線を投げかけてから、モーティマーは馬首を巡らした。

「……ありがとう」

 小さく呟く妻の肩を、ギョームは黙って抱いた。

 再び隠し扉を使ってひっそり宮殿に戻ったキリエは、どこにも寄らずに「王妃の寝室」に向かった。モーティマーから報告を受けていたものの、上衣を引き裂かれたキリエの姿にマリーは絶句した。キリエは疲れ果てた様子で寝台に倒れ込む。

「……キリエ様!」

「……ギョームに、知られたわ……」

「え……?」

 マリーは恐る恐る顔を近づけた。キリエはぼんやりとした表情で呟く。

「レノックスに……、襲われたこと」

 マリーは息を呑むと、そっとキリエの手を握る。

「……彼、自分を責めていたわ。……私の気持ちも知らないで、ひどいことをした、って」

 マリーは涙ぐみながら手を強く握りしめ、キリエの髪を掻き撫でた。だが、キリエは顔を歪めて囁く。

「……ひどいのは私の方だわ……!」

「……キリエ様……!」

 ギョームに愛されているのに……、大事にされているのに、私は……。キリエは苦しげに目を閉じた。


 その日の晩。ルイーズから遠回しに寝室を別にするか尋ねられたが、キリエは仮面のような無表情で「いつも通りで」と答えた。寝室を別にすれば、宮廷内がまた騒がしくなる。もう、全てに嫌気がさしていた。誰も理解してくれないのだ。誰も待ってくれないのだ。子を生むまでは。正確には、王位を継承できる男子を生まなければ。自分は、それしか期待されていないのだ。そう思うと、キリエは自らの心が凍て付いていくのを感じた。ガリアになど、来なければよかった。

 ギョームの帰りは遅かった。あれからキリエは部屋に籠もり、晩餐の時だけ人々の前に姿を現したが、ギョームはいつも通りに執務をこなした。昼間に二人で宮殿を抜け出したために予定がずれ込んだらしく、なかなか寝室に戻ってこない。あんなことがあっても執務に手を抜かない生真面目な夫を、キリエはただぼんやりと待った。

 何の音もしない寝室。気分を落ち着かせるためか、ほんのりと柔らかな香りの香が焚かれている。キリエは、できるだけ何も考えないようにした。何か考えればすぐにギョームの顔が浮かび、恐怖感に襲われる。そして、彼に鷲摑みにされた胸がうずいた。キリエは顔を歪めて肩を抱いた。その時、寝室の扉が静かに開かれた。

「……キリエ……」

 夫の声に、キリエは青い顔で振り返る。

「……どうした。気分が悪いのか」

 ギョームが歩み寄りながら心配そうに囁きかける。

「気分が悪いなら女官を呼ぼう……」

 キリエは思わず涙ぐんだ。ギョームは精一杯自分を気遣ってくれる。非の打ち所がない夫だ。キリエは黙ったまま夫に抱きついた。

「……キリエ」

 ひょっとしたら、もう体に触れることすらできないのではと不安だったギョームは、ぎこちない手つきで妻を抱きしめた。背や肩を撫でる手つきが愛おしい。キリエの胸はせつなく締め付けられた。互いの体温を確かめ合うように抱き合っている内、二人の胸の鼓動が少しずつ早まってゆく。

「……ギョーム」

キリエが小さな声で囁く。

「……キスして……」

 ギョームは息を呑んだ。恐る恐る体を離すと、俯いたキリエの髪をそうっと撫でる。そして、両手で頬をそっと包み込む。ギョームは、まるで初めての口付けのようにゆっくりと唇を寄せていった。二人の唇が合わさる。長い口付け。やがて唇が離れるが、キリエは自分から再び唇を重ねた。精一杯の力で抱きしめ、体を密着させる。ギョームは熱い吐息をつくと妻を夜具に寝かせた。キリエはぎゅっと目を閉じ、顔を背けたが拒もうとはしない。ギョームは腫れ物にでも触るかのようにキリエの胸を愛おしげに撫でた。いつものような荒々しさはない。キリエは夜具をぐっと掴み、体を固くする。そんな彼女の首筋に何度も口付けを落とす。

 キリエが欲しい。キリエを自分のものにしたい。渡すものか……。あの男に渡してなるものか……!

「……キリエ……」

 妻の名を呼びながら、ギョームは震える手で寝衣のリボンをほどく。少しずつ肌が露わになると、キリエは顔を歪め始めた。ギョームがそっと胸元に唇を這わせるとキリエはびくりと体を震わせた。

「……ギョーム……!」

 恐怖に満ちた声色に、ギョームはぎくりとして動きを止めた。真っ青に青ざめたキリエが肩を震わせ、ついに両手で胸を覆い隠す。

「……う……、ううっ……!」

 妻の嗚咽にギョームは覆い被さるようにして抱きしめる。

「……キリエ……!」

 夫の呼びかけに、キリエは悔しげに涙を滲ませた。ギョームの震える手が肩を撫でる。やがて、キリエの耳にギョームの呻き声が聞こえてくる。キリエは眉をひそめ、うっすらと目を開けた。

「……ギョーム?」

 夫は無言でゆっくりと体を起こした。その途端、キリエの顔に雫が滴り落ちる。

「えっ……」

 思わず頬に手をやる。涙? 息を呑んでギョームを見上げると、その目から涙が流れ落ちている。

「ギョーム……!」

 慌てて起き上がるとギョームの頬を包み込む。

「な、泣かないで……、ギョーム……!」

 彼は顔を振るとすがりついてきた。

「……キリエ……。すまない……、すまない……!」

「……あ、あなたのせいじゃないわ……! 私が……、私が、悪いの……!」

 夫の涙を初めて目の当たりにし、キリエは動揺しながら必死で抱きしめた。ギョームはしばらく体を震わせながらキリエを抱いていたが、やがてゆっくり顔を上げる。

「……キリエ」

「ギョーム……」

 キリエは細い指でギョームの涙を拭った。

「キリエ……、私に、時間をくれ」

 妻の肩に手をかけ、真正面から見つめる。

「必ず、そなたを幸せにする。二人で、幸せになりたい。だから……、時間をくれ……」

 キリエは胸がいっぱいになった。思わず無言で彼を抱きしめる。ギョームが愛おしかった。こんなに自分を大事にされたことがあっただろうか。幸せになりたい。彼と共に。キリエは心から願った。

「……ギョーム」

ギョームを抱きしめたまま、耳元で囁く。

「……私、あなたが好き」

 彼が息を呑む感触が伝わる。

「あなたが、大好き」

そうだ。ギョームは震える息を吐き出した。キリエは感謝の言葉は口にしても、愛情を伝える言葉を口にしない。だから、不安だったのだ。だから、疑いを抱いてしまったのだ。

「……キリエ」

 ギョームは妻を強く抱きしめた。キリエを信じよう。そして、キリエの心を自分で一杯にしてみせる。彼は小さく囁いた。

「……愛してる……」


 翌朝、キリエはぼんやりと目を覚ました。例に漏れず、昨夜もよく眠れなかった。だが、まだ眠気が取れない彼女の頭を撫でる手にはっと気づく。

「……ギョーム?」

 ほぼ毎朝、早朝から愛馬で朝駆けをするはずの夫に、静かに頭を撫でられている。

「……朝駆けは?」

 ギョームは少し苦笑いしながら呟いた。

「……何だか疲れた」

 ここ数日の心労が溜まっているのだろう。キリエは心配そうな顔つきで体を起こす。

「大丈夫?」

 それには答えず、ギョームは妻を抱いた。

「……ギョーム」

 しばらく黙って妻を抱いていたギョームは、吐息をつくと体を離そうとした。その時、キリエは思わず夫を抱き寄せた。

「……キリエ?」

「……ギョーム、お願い」

 消え入りそうなキリエの声に、ギョームは耳を傾けた。

「……エレソナを、側室に……」

 ギョームは息を呑むと体を起こし、妻の肩を掴んだ。

「キリエ……!」

「だって……」

 キリエは項垂れたまま囁いた。

「あなたと一緒にいるためには、そうするしかないもの……」

 子どものようにおろおろして妻を見つめるギョーム。キリエは眉をひそめ、泣き出しそうな目で彼を見上げた。

「……幸せにしてくれるのでしょう? 私を……」

 ギョームは言葉を失った。そして、悔しげに目を閉じるとキリエを抱きしめた。


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