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女王キリエ  作者: カイリ
第10章 運命の車輪
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第10章「運命の車輪」第2話

王妃がガルシアに退位を迫られた。忍び寄る戦争の足音。不安に駆られた国民が望んだのは…。

 その日の晩、レスターは重い足取りでクレド・ハウスへ戻った。キリエがガルシアによってクロイツに告発されたが、ジュビリーやギョームの予想通り、大主教はろくに相手はしないだろう。だが、今のレスターにとっては、それ以上に娘のことが心配でならなかった。

 出迎えた妻にアンの様子を尋ねると、少し落ち着かない様子だが、特に落ち込んだりはしていないという答えが返ってきた。

「……父上」

 夫婦で話し込んでいると、アンがやってくる。彼女は彼女で緊張の一日だったのだろう。少し疲れが見える表情だ。

「お疲れ様でした。お勤めは大丈夫でしたか」

「ああ……、大丈夫だ。それは心配しなくていい」

 レスターは心配そうな表情で娘に歩み寄る。

「すまなかったな。せっかくの見合いが……」

「お気になさらないで。父上は宰相閣下の補佐官なのですから」

「……モーティマーが、失礼なことをしたと気落ちしていた」

 モーティマーの名を耳にすると、アンは顔を赤らめて俯いた。

「……素敵でした」

「何?」

 娘はか細い声で囁いた。

「……どんな時も、お勤めに対して真摯なお姿が……」

 レスターは目を細めるとそっと娘の肩を撫でる。

「おまえは……、本当に惚れ込んでおるのだな」

 アンはわずかに強張った顔を上げた。

「ロバート様が……、見守ってほしいと仰って下さいました」

「……アン」

「私は……、あのお方のお側にいたいです」

「側にはおられぬぞ」

 父の諭すような言葉にアンは口を閉ざした。

「キリエ様がガリアの王妃でいらっしゃる限り、アングルとガリアを往復する生活が続く。アングルに帰国しても、今日のようにいつ何時宮廷に呼び戻されるかわからん。奴もそれを気にしていた。……耐えられるか?」

「耐えておりますよ」

 背後から投げかけられた言葉に二人が振り返る。キャサリンはにっこりと笑って見せた。

「あなたが今度グローリアへお帰りになるのは、一体いつですかしらね?」

「……キャサリン……」

 妻は頼もしげな笑顔で続ける。

「あなたがいらっしゃらないことを寂しく思う時もありますが、やらねばならぬことがたくさんありますもの。落ち込む暇はありませんわ」

「その割にはおまえ……、いつの間にそんなに太って……」

「あなたッ!」

 妻の甲高い叫びにレスターは肩をすくめ、アンはくすりと微笑んだ。そして、幾分晴れやかな表情で口を開く。

「父上。私、母上のように夫が安心して務めに励めるような家庭を作りたいです。……待ちます、ロバート様を。父上のように真面目で誠実な……、ロバート様を」

 それを聞くと、レスターは思わず娘を抱き寄せた。そして、少し寂しげな表情でアンの背中を力強く撫でた。

 

 翌朝。モーティマーは早朝から宮殿を連れ出され、クレド・ハウスへ向かった。何を告げられるのか気が気でなかったモーティマーは珍しくおどおどした表情だったが、迎えに現れたレディ・キャサリンの穏やかな笑顔に思わずほっと表情をゆるめた。

「朝早くに申し訳ございません、サー・ロバート。でも、今しかお時間が取れないと主人が申しますので……」

「私は構いませんが……」

「モーティマー」

 レスターがどこか緊張した顔つきで呼びかける。モーティマーも居住まいを正して見つめ返す。

「アンが、そなたを待ちたいと言っておる」

 モーティマーは思わず息を呑んだ。老臣は目を細め、わずかに身を乗り出した。

「後は……、そなた次第だ。そなたの意思を尊重したい」

 脳裏に、昨日のアンの顔が浮かぶ。不安に満ちた表情。一途な眼差し。あんな風に見つめられたことがかつてあっただろうか。モーティマーは意を決したように背を正した。

「……レディ・アンは、どちらに」

 どこか上ずった声で尋ねられ、キャサリンは居間を出ると娘を連れて戻ってきた。アンは緊張に顔を強張らせながら母親の手を握り締めている。キャサリンは手を離すとそっと娘を前へ出した。

「……レディ・アン」

 モーティマーはかすかに震える声で呼びかけた。

「……待っていただけますか。私を、ずっと見守って下さいますか」

 アンはこくりと頷いた。そして、小さな声で囁く。

「……待ちたいです。……ロバート様」

 その返事に、モーティマーは胸が一杯になった。そして、そっと手を伸ばすとアンの手を取り、静かに握り締めた。その瞬間、キャサリンは両手で顔を覆った。

「……レスター子爵。レディ・キャサリン。……よろしいですか」

「……ありがとう、モーティマー」

 レスターも声を詰まらせながら囁いた。アンは嬉しさで涙が込み上げ、揺れる瞳で愛しい人を見上げた。

 瞼の裏に焼きついている、あの日の情景。皆が杯を打ち合い、歓声を上げ、若い伯爵夫妻を祝していた。そんな酔客たちを穏やかに見守っていた幼い女王に、影のように寄り添っていた青年。周りに常に目を配り、女王がくつろげるよう細心の注意を払う。そして、その表情からはそうした自らの立場に誇りが感じられた。なんて立派なお方なのだろう。そして、程なくして声をかけられたのだ。憧れの眼差しで見つめていたその青年から。

「失礼。薬草園はどちらかな」

 穏やかな顔立ちと同じく、柔らかな低い声。だが、どこか陰のある瞳だったのが印象的だった。華やかな宮廷でも、人目につかない影に徹する勤めはきっと辛いことも多いのだろう。アンは思った。この人の助けになれたら。そして今、その想いが叶えられようとしている。


 数日後、プレセア宮殿の侍従寮前で、数人の女官が旅装姿で馬車に乗り込もうとしていた。ジゼル・ヴィリエはウィンプルを目深に被り、寮のアプローチに佇む女王を見上げた。

「……行ってまいります、陛下」

 キリエは頷いた。ジゼルはキリエの代理として、グローリアのロンディニウム教会を訪れるという名目でプレセア宮殿を離れることになっていた。が、帰ってくるのはジゼル以外の女官だけ。そのまま、ジゼルはロンディニウム教会に身を隠すことになっている。エヴァの時は、こうして見送ることができなかった。窓越しから彼女の姿を見守ることしかできなかった。また、奪われた。人を信じるたびに裏切られ、側にいた者を奪われる。キリエは寂しくてならなかった。ふと、ギョームの言葉が胸に蘇る。

「君主ほど孤独で、呪われた人種はいない」

 今ならわかる、あの言葉の意味が。キリエは重い溜息をついた。

 その時、アプローチに足音が響き渡ったかと思うと、奥から黒衣の宰相が姿を現した。ジュビリーはジゼルの姿を目にして顔をしかめた。彼女は居住まいを正すと宰相に向かって頭を下げ、ジュビリーは、黙ったまま頷いた。ジゼルはふっと微笑んだ。彼女が見抜いた通り、アングルの宰相は女王しか目に入っていなかった。鉄の宰相は自分の誘惑に屈しなかった。彼はこれまで通り、自分の思いを押し隠したまま女王に仕え続けるつもりだろう。

 だが、ジゼルはふと表情を強張らせた。そして、瞬間目を伏せたかと思うと宰相に歩み寄った。

「……クレド侯」

 低い呼びかけに思わず身を乗り出すと、ジゼルはジュビリーの耳元で囁いた。

「……アンジェ侯は、この度のこと以外にもアングルに対して策謀を巡らしていました」

 ジュビリーの眉間の皺が深まる。

「密書などをでっち上げていたのを目にしました。ですが、この度のことでもはや思うような動きはできませんでしょう」

 鋭い視線で見つめられたジゼルは小さく頷いた。ジュビリーは息をつくと低い声で呟く。

「……承知した」

 ジュビリーには思い当たる節があった。ホワイトピーク公ウィリアムが認めたとされる密書。あれも、バラの差し金だったのかもしれない。ジゼルは踵を返すと改めて女王に一礼した。

「……気をつけて、ジゼル」

「はい」

 名残惜しそうな眼差しを投げかけてから、ジゼルは馬車に乗り込んだ。御者が馬に鞭をくれ、馬車は音を立てて走り出した。馬車が過ぎ去ってゆくのを、キリエは体を乗り出して見送った。

「……さよなら」

 小さく呟く女王の隣に、ジュビリーが寄り添う。

「……陛下。ガリアからギョーム王に使者が到着しました」

 キリエは顔を強張らせて振り返る。

「……大陸に動きが」

「……わかりました」

 緊張した顔つきでギョームの客間へ赴くと、夫は思い詰めた表情で書状に目を落としていた。隣では、やはり強張った顔つきのバラが控えている。

「ギョーム……」

「キリエ」

 書状から目を上げ、ギョームは妻をソファの隣に座るよう示した。

「……ガリアからの報せだ。ガルシアがクロイツにそなたを告発したのは事実らしい」

 息を呑む妻に、ギョームが穏やかに言葉を続ける。

「大丈夫だ。大主教は取り合わなかったらしい。だが……」

「……何?」

 ギョームは眉間に皺を寄せると、妻の手を優しく撫でた。

「ガリア国内で、動揺が広がっているらしい」

 キリエの胸に冷たく重い何かが込み上げる。

「ガリアでも〈聖女王〉は人気がある。その王妃が告発されたとあっては、国民も不安がるだろう」

「……本当に、それだけ?」

 恐る恐る尋ねるキリエの目を覗き込む。

「王妃が告発されたから……、だから国民が不安がっているの? 本当に、それだけで? 他に……、理由があるんじゃないの……?」

 ギョームは寂しげに微笑むと幼い妻の頭を撫でた。

「……さすがだな。勘が鋭い」

「ギョーム……」

 これ以上妻を不安がらせないよう、ギョームは慎重に囁いた。

「エスタドと戦争が起こるのではないかと、不安が広がっているらしい。それと同時に……、世継ぎを求める声が上がっている」

 ギョームは、思わず涙ぐむ妻をそっと胸に押し付けた。キリエは苦しげに呼吸を繰り返した。戦争が起これば、国の未来を危ぶむ人々が増える。世継ぎがいないままでは王位継承戦争が起こり、国が乱れる。この、アングルのように。国民が世継ぎを求めるのは、当然だ。

「……もう少しアングルに留まるつもりだったが、帰ろう。国民の不安を取り除かねばならん」

「……はい」

 キリエは涙が混じった声で返事をすると、夫の胴着をぎゅっと握り締めた。

「……ギョーム……。ごめんなさい」

「そなたが謝ることはない。ただ……、そなたへの風当たりは強くなるかもしれん」

「……はい」

「……大丈夫だ。私がついている」

 ギョームはキリエを優しく抱きしめた。


 キリエの帰国が決まった日の夜。晩餐が終わる頃にジュビリーがキリエの元へやってくると低い声で言上した。

「王妃。少々よろしいでしょうか。実は、モーティマーから報告がございまして」

「何?」

 キリエが不思議そうな顔つきで振り返る。後ろで控えていたモーティマーが慌ててジュビリーに呼びかける。

「侯爵……、な、何も今でなくとも……!」

「ギョーム王陛下にも聞いていただこう」

「どうした?」

 隣のギョームも何事かと身を乗り出してくる。女王と王配に注目され、モーティマーは体を硬直させた。そして、おずおずと切り出す。

「実は私……、この度婚約いたしました」

 キリエが口を覆い隠し、慌てて隣の夫を見上げる。ギョームも驚いて腰を浮かす。

「誠か、サー・ロバート!」

「……はっ」

「ど、どなた? お相手は?」

「……レスター子爵のご息女です」

「アン?」

 キリエがすぐに名前を挙げ、モーティマーは面食らった。

「ご存知なのですか?」

「だって、レスターの結婚していないお嬢様と言ったら、アンしかいないもの!」

 そして、席を立つと少し後ろで立ち尽くしている老臣に呼びかける。

「レスター! おめでとう!」

 彼は慇懃に頭を下げ、周囲にいた廷臣や侍従からも拍手が起こる。キリエは嬉しそうにモーティマーの手を取った。

「アンは私も何回かお会いしたことがあるわ! おとなしいけれど、とってもいい人よ!  よかった……。おめでとう!」

「おめでとう、サー・ロバート」

 ギョームからも祝いの言葉をかけられ、モーティマーは恥ずかしそうに頭を下げる。が、ギョームが首を傾げる。

「結婚式はいつするつもりだ?」

「挙式は……、少し先になるでしょう」

 実は、キャサリンが娘を女王の女官として同行させてはどうかと提案していたが、宮廷の陰湿な体質を知り尽くしているレスターやモーティマーが賛成しなかった。そのため、落ち着いた時期が来るまで二人は婚約することになった。

「どうせならガリアへ連れてまいれ」

「いえ、私の帰りを待ってくれるそうです」

 その言葉に王と王妃は思わず顔を見合わせた。そして同時に笑い声を上げる。

「意外だな! サー・ロバートがのろけるとは!」

「へ、陛下!」

 慌てふためくモーティマーに向かって、ギョームはゴブレットを挙げて見せた。

「サー・ロバートのために乾杯しよう!」

「おめでとう、サー・ロバート!」

 王と王妃の言葉に、モーティマーは喜びを噛み締めながら頭を下げた。


 一月の中旬、女王キリエとその夫はガリアへ向けて出発した。多くの廷臣たちがホワイトピークまで見送りに参じる中、キリエはジュビリーに声をかけた。

「……エレソナを、お願いね」

「承知いたしました」

 ガリアで世継ぎを求める声が大きくなったことを知ってから、ジュビリーはキリエが心配でならなかった。許されるならば自分もガリアに同行したいぐらいだったが、そうはいかない。自分は、キリエがいないアングルを守らなければならない。不安で一杯のはずのキリエは穏やかな笑顔を見せた。

「……マリーの出産まであと少しよ。今度会う時には、きっと可愛い赤ちゃんがいるわ」

 ジュビリーは目を細めた。マリーエレンにも会いたい。父親になってしっかりしたであろうジョンの姿も見たかった。

「クレド侯」

 ギョームが控えめに声をかけてくる。

「この度の滞在では迷惑をかけた。許してくれ」

「滅相もございません」

 そこでジュビリーは声を低めた。

「……陛下。王妃を、どうかよろしくお願いいたします」

「安心しろ」

 ギョームは相変わらず柔らかな笑顔で答えた。だが、目を細めて付け加える。

「そなたに言われずとも、わかっている」

 ジュビリーは息を呑んでガリア王を凝視した。あの日と同じ目だ。ジュビリーに嫉妬心を垣間見せたあの日の目と。隣で寄り添うキリエも、顔を青ざめさせた。そんな彼女の耳に、ざわめきが聞こえてくる。目を移すと、人々のざわめきを一身に受けながらこちらに歩み寄ってくる男がいる。肩で風を切り、自信を漲らせた足取り。キリエはあっと声を上げた。

「ソーキンズ!」

 海賊はにやりと笑ってみせた。女王は思わず駆け寄ると両手で彼の手を握り締めた。

「あなたの船に乗せてくれるの?」

「残念ながら、今回も海軍の艦だ」

「海軍の鈍くさい船?」

 ソーキンズは女王の言葉に豪快な笑い声を上げた。

「……キリエ?」

 怪訝そうな表情の夫に、キリエが少し引きつった笑顔を向ける。

「……紹介するわ。フィリップ・ソーキンズ。私の海賊よ」

「いつからあんたの海賊になった」

 女王に反論する海賊を、ギョームはぽかんとした顔つきで見つめる。キリエはちらりとジュビリーを振り返った。彼がソーキンズを呼び寄せてくれたのだろう。少しだけ表情をほころばせたキリエに、ジュビリーは小さく頷いた。

「そうだわ、ソーキンズ。サー・ロバートが婚約したのよ」

 女王の言葉に、海賊は大袈裟な身振りで秘書官を振り返る。

「何だ、まだ結婚していなかったのか!」

「ソーキンズ!」

モーティマーが顔を真っ赤にして声を上げ、海賊は愉快そうに笑うとモーティマーの肩を手荒く叩いた。


 アングル女王とその一行を載せた艦は間もなくホワイトピーク港を出港した。ギョームは海賊という人種に初めて会うらしく、甲板で色々と質問攻めにした。不遜な態度で言葉を返すソーキンズにバラははらはらしながら見守り、キリエも固い表情で佇んでいる。

 先ほど夫がジュビリーに投げかけた言葉が頭を離れない。ガリア王として、ギョームはアングルの宰相であるジュビリーにいつでも最上級の心遣いを見せてきた。露骨に不機嫌さを滲ませることなど、今まではなかった。やはり、あの新年祝賀会でのことが尾を引いているのだろうか。

 そこでキリエは眉をひそめた。あの日のことはほとんど記憶にない。ジゼルに言われなければ、ジュビリーの手を握り締めたことも思い出せなかった。ひょっとして自分は、もっと大変なことをしでかしたのでは……。

(大丈夫だ。何もない。何も……)

 ギョームは晩餐で起こったことを何も語らなかった。キリエは不安で胸が押し潰されそうになった。

彼女は暗い表情でガリアの方角を振り仰いだ。心配の種はそれだけではない。ガリアの国民が世継ぎを望んでいる。オイールに戻ったら、ビジュー宮殿の廷臣たちは自分をどう迎えるだろう。妻が黙り込んで空を見つめている姿に気づいたギョームが口をつぐむ。その様子を見たソーキンズは、目を眇めると人知れずふんと鼻を鳴らした。

 艦がルファーンに近付くと、ギョームはバラたちと帰国後の打ち合わせをするために船室へと降りていった。

「お姫さんよ」

「私はお姫様じゃないわ」

 ソーキンズの呼びかけにキリエは肩をすくめて見せる。

「ガルシア王に告発されたってな」

「さすが……、耳が早いわね」

 キリエは眉をひそめた。そして、辺りを気にしながら囁く。

「……ガリアの民が、世継ぎを求めているの」

「当然だろ」

「……そう。当然だわ」

 暗い表情で顔を伏せる女王に、ソーキンズは不機嫌そうに舌打ちする。

「……あのガキじゃ駄目だ」

「え?」

 キリエは不安そうに海賊を見上げた。ソーキンズは言葉少なく吐き捨てた。

「ガキだ。……まだまだガキだ」

「ソーキンズ……。私だって、まだ子どもよ」

 だが、ソーキンズは顔を歪めて肩をすくめた。

「あんたの方がよほど大人だ。……大人になった」

 初めて会った時、ソーキンズがジュビリーに言い放った言葉をキリエは覚えていた。

(侯爵! 貴様、こいつをガキのまま女王にするつもりかッ!)

 あの頃に比べて大人になったと言うのだろうか。キリエは静かに顔を横に振った。

 やがて艦はルファーン港に到着し、繋留された。キリエは、大きな不安を抱えたままガリアの地へ降り立った。


 ルファーンから二日かけてオイールまで帰ると、市民たちはそれなりに歓迎してくれた。だが、オイール市街にはどことなく緊迫した空気が満ちていた。アングルと違い、国境を接した大陸の国はちょっとした噂にも過敏な反応を示すことを、キリエは痛いほど肌で感じた。

 ビジュー宮殿に戻ったキリエを、ジョンとマリーが出迎える。マリーはずいぶんとお腹が大きくなっていたが、体調は良さそうだった。だが、不安そうなその表情にキリエも顔を曇らせた。

「お帰りなさいませ、キリエ様」

「マリー、体調はどう?」

「お蔭様で、順調ですわ」

 暗くなりがちなキリエは、無理やり笑顔を作るとモーティマーにちらりと目をやる。

「みんな聞いて。サー・ロバートが婚約したのよ」

「まぁ!」

 マリーとジョンが驚きの表情になる。モーティマーは恐縮して頭を下げた。

「お相手はレディ・アン。レスターのお嬢様よ」

「なるほど!」

 思わずジョンは声を上げるとモーティマーの肩を叩いた。

「おめでとう、モーティマー」

「……ありがとうございます」

 マリーは穏やかに微笑んでいたが、やがて眉をひそめて小さく囁く。

「兄のこと……、聞きました」

 隣のジョンも表情を引き締め、キリエたちを見守る。キリエは寂しそうに微笑んだ。

「……何とかなったわ」

「でも……」

 キリエは、心配そうな顔つきのマリーをソファに座らせた。

「……アンジェ侯が宮殿で噂を聞きつけたのよ。でも、兄上の墓を暴いたことによって、疑いを逸らすことができたわ」

 マリーはおろおろした表情で口元を覆い、ジョンが肩を優しく撫でる。

「あの日何があったのか……、私にきちんと話してくれたわ」

「……義兄上……」

 ジョンも辛そうに目を伏せた。そして、キリエは顔を強張らせると呟いた。

「……ただ、心配なのが……」

「どうなさったのです?」

「……マダム・ジゼルが、アンジェ侯に告げ口をしたらしいわ。私が……、ジュビリーの手を握ったことを」

 マリーとジョンは息を呑んでキリエを見つめた。

「晩餐会で、彼の手を握ったの。……寂しくて、どうしても……、彼に触れたかった」

「……キリエ様」

「きっと、ギョームも報告を受けたはずよ」

 マリーはごくりと唾を飲み込んだ。キリエは、居心地が悪そうに顔を伏せていたモーティマーを振り返った。

「……サー・ロバート。私、他に何かしたのでしょう?」

 女王の言葉にモーティマーは心なしか引き攣った顔を上げる。

「……情けないけど、よく思い出せないの、あの日のこと」

「陛下……」

 秘書官は顔を強張らせて黙り込んでいたが、やがて低い声で呟いた。

「……クレド侯が口をおつけになった杯を、陛下が……」

 キリエは顔を真っ赤にして絶句した。マリーも思わず口に手をやって青ざめる。

「ギョーム王陛下が振舞われたワインを、クレド侯がお飲みになられないことを目にしたアンジェ侯が当て擦りを仰って……。ご機嫌を損ねた女王陛下が、代わりに召し上がったのです」

 キリエはかすかに震えながらモーティマーを凝視した。

「……ギョーム王陛下は、お咎めになるようなことは仰いませんでしたが……」

 ギョームは、一年の恋を実らせて結婚したキリエに異常な執着心を持っている。妻と寵臣の親密さに激しい嫉妬心を燃やしているに違いない。落ち着きをなくしたキリエの肩をマリーがそっと撫でる。

「……キリエ様……」

 キリエは震えながら吐息をつくと囁いた。

「……オイールの様子は? 世継ぎを望む声が上がっているらしいけど……」

 ジョンが険しい顔つきで頷く。

「アングルとの同盟はこのまま継続するべきだが、一刻も早く世継ぎが欲しい、という声が上がっています。国民の声を受け、王に進言するべきだと口にしている廷臣もいます」

「……そう」

 キリエは頷いた。やがて扉が叩かれ、侍従が声をかける。

「王妃。レイムス公妃が謁見を願い出ております」

 ぎくりとした様子でキリエは立ち上がった。

「ロベルタ様……」

 王妃の間へ向かうと、不安そうな顔つきのロベルタが待っている。

「お帰りなさいませ、王妃」

「ロベルタ様」

 彼女の様子を見て、キリエは女官を下がらせた。ロベルタは小走りにキリエの傍らにやってくると声をひそめて囁いた。

「王妃にお知らせしなければ……。王妃に早くお世継ぎを生むようギョーム王に進言する廷臣がおりますの」

「ええ、聞きました」

「それが……、話が大きくなって……」

 珍しく狼狽した表情のロベルタにキリエも不安になる。

「王妃にお子を妊娠する能力がなければ、シャルルを……、私の夫を後継者に指名するべきだと……」

 ロベルタの囁きにキリエは両目を見開いた。

「確かに、夫にも王位継承権はございます。でもそれは、もっとずっと先で論議されるべきことですわ。ガルシア王が王妃を告発したことで、皆が不安を煽られているものだから……」

 キリエは目眩を感じるとソファに座り込んだ。

「……王妃……」

 ロベルタはキリエの手を握り締めた。

「あなたと王の愛が試されようとしていますわ。どうか冷静に……」

 キリエはわずかに体を震わせながら頷いた。

 

 キリエがガリアに帰国して間もなく、更に国民を不安と混乱に陥らせる事件が起こった。ガルシアがキリエの退位を迫ったことは国民にも知られていたが、ガルシアだけでなく、ユヴェーレンのオーギュストまでもが退位を迫ったのだ。娘のベル・フォン・ユヴェーレンを失った怒りはおさまらず、同盟国であるエスタドがキリエの退位を要求したことを知り、オーギュストもそれに便乗したのだ。プレシアス大陸の二大強国から退位を迫られた王妃。ガリアの国民は恐慌に陥った。


 王と王妃の噂で不穏な空気が渦巻くビジュー宮殿。王妃が後宮から姿を現すたび、皆は不審と憐憫が交じり合った視線を投げかけ、キリエは居たたまれない日々が続いた。そんなキリエを見かねたのか、ある日とうとうルイーズがキリエの私室にやってきた。

「王妃、本当はこのようなことをお尋ねしたくはございませぬが」

 人払いをした私室に二人きり。キリエは固い表情で固く握り締めた手を膝に乗せ、目を伏せた。

「ですが、他の者が先にお尋ねする前に、私が……」

 幼い王妃はこくりと頷く。ルイーズは気の毒そうに眉をひそめて囁いた。

「……王妃は、陛下にまだお体を許してはいらっしゃいませんね」

 半ば予想していた言葉ではあったが、それでもキリエは狼狽えた。落ち着きを失った視線は四方を彷徨い、ルイーズはキリエの握り拳をそっと包み込んだ。

「……間違いございませんね」

 キリエは俯いたまま黙って頷いた。羞恥心で頬が紅潮していくのが自分でもわかる。

「誠に失礼ながら……、陛下は、その、お体を求めることは」

「……時々」

「……良うございました」

 ルイーズは溜め込んでいた息を吐き出した。しばし痛々しい沈黙の果てに、ルイーズは静かに囁いた。

「それでも、まだお許しにはなられていないのですね」

「……怖くて」

 涙声で呟くキリエの肩をそっと撫でる。

「……王妃には申し上げておかねばなりません」

 ルイーズの慎重な声にキリエは目を真っ赤にして顔を上げる。

「ギョーム王陛下は……、父君を忌み嫌っております」

 キリエは眉をひそめるとわずかに首を傾げる。どこか辛そうな表情でルイーズは言葉を継いだ。

「はっきり申し上げて、先王陛下はひどい猟色家でございました。陛下はそんな父君を心から軽蔑なさっておいででした。それ故、女性や弱者には敬意を払う立派なお方にご成長なさいました。ですが……」

 キリエは不安そうな表情でルイーズの語る言葉に耳を傾けた。確かに、ギョームは身分の別なく女や子ども、老人には丁寧に接する。特に女性にはその傾向が強い。

「その反動からか、ひどい潔癖症におなりになられました。女性を大事になさいますが、同時に女性と距離を置き、扱いにも慣れておられません。女性を敬いながらも女性に触れることに恐れを感じていらっしゃるのです」

 キリエは恐る恐る口を開いた。

「……母君の影響かしら」

 ルイーズは頷いた。

「恐らく。尊敬してやまない母君の面影が胸に強く残っていらっしゃるのでしょう」

 そこで口をつぐみ、息をついてからルイーズはゆっくりと言い含めた。

「ですが、その陛下が初めて身も心も手に入れたいと願ったお相手が、王妃、あなた様でいらっしゃいます」

 思いもよらない言葉を投げかけられ、キリエは眉をひそめた。そして、思わず目を見開いてルイーズを凝視する。

「……陛下は陛下なりに、心の葛藤がおありでしょう。愛する王妃の心を手に入れたいという思いと、王妃の心を傷つけたくないという思いが」

 キリエは再び泣き出しそうな表情で俯いた。ギョームが自分を大事にしてくれているのは肌で感じてきた。ずっと彼の寛容さに甘えてきたのだ。もう、甘えは許されない。

「王妃」

 ルイーズの呼びかけにびくりと体が跳ねる。

「……どうか、少しずつでも陛下の思いにお応えになられて下さいませ」

 いつもは辛辣な言葉を投げかけるばかりのルイーズが、どこか必死な表情で懇願する姿にキリエは胸が痛んだ。


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