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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第8話

ようやく宮殿に穏やかな時間が戻る。その頃合を見計らい、レスターはモーティマーに私的な話を持ち込む。「私の娘と会ってくれないか」降って沸いた見合いの話。だが、「時代の歯車」は待ってはくれなかった。

第9章完結!

 あれからしばらくすると、女官が起こしにやってきた。控えの間で着替えを手伝ってもらいながら、キリエは女官に尋ねた。

「そういえば、昨夜からジゼルを見かけないのだけど」

 その問いに、女官は暗い表情で答えた。

「それが……、少し、怪我をいたしまして」

「怪我?」

「勤めに支障はないのですが……」

 キリエは胸騒ぎを感じた。ジュビリーの話では、ジゼルがバラのために宮殿で噂を嗅ぎ回っていたというではないか。

 着替えを終えて衣装部屋を出ると、十数人の女官が左右に並んで出迎える。

「おはようございます、王妃」

「おはよう」

 女官たちは皆、心なしか引きつった顔で押し黙っている。不思議に思いながらもキリエは足を踏み出し、やがてある女官の姿に思わずあっと声を上げた。

「ジゼル……!」

 キリエは震える声で囁いた。他の女官たちも気の毒そうな目でジゼルを見つめている。

 ジゼルの左頬は青く腫れ、唇の端には裂けた傷が残っている。それでも彼女は気丈にも顔を上げ、背を正して佇んでいた。キリエが思わずその顔を凝視していると、ルイーズが声をかけてくる。

「……女王陛下。マダム・ジゼルには本日お休みをいただきとうございます……」

「いえ、大丈夫です」

 ジゼルが固い声で言い放つ。ルイーズは眉をひそめた。

「しかしそれでは……、陛下にご迷惑が」

 キリエはジゼルに向き合うと見つめ合った。バラだ。彼に殴られたのだ。自分の策略のために彼女を利用しておきながら……。エヴァと一緒だ。ジゼルもエヴァと同じ運命を辿ろうとしている。キリエは哀しさとせつなさで胸が一杯になった。

「……ジゼル」

「はい」

 キリエは突然被っていた王冠を脱いだ。

「陛下……!」

 ルイーズたちが息を呑む中、キリエは王冠の下に身につけていた頭布(ウィンプル)を外した。

「しゃがんで」

「え……」

「早く」

 ジゼルは恐る恐る腰を屈めると、キリエはウィンプルを彼女の頭に被せた。裾を引き、顔が隠れるように整える。ジゼルは唇を震わせながら女王を見つめた。キリエは微笑を浮かべて頷くと女官たちを振り返った。

「しばらくは、皆でウィンプルを着けましょう」

「……はい!」

 女官たちは我先に衣装部屋へ駆け込んだ。最後に残っていたルイーズが口元に笑みを浮かべて囁く。

「お見事ですわ」

 キリエは得意げに微笑み返した。そしてジゼルを見上げる。

「あなたは私が守るわ。大丈夫よ」

 キリエがそうと囁くと、ジゼルの瞳から涙が零れる。女王は哀しげに言葉を続けた。

「一度、親友を失ったことがあるの。同じ思いは、したくないわ」

「王妃……!」

 ジゼルは思わずその場に跪いた。


 食堂に向かうと、すでにギョームたちが待っていた。彼は、女官たちがウィンプルを身につけているのを見て首を傾げた。

「今日は……、どういう趣向だ?」

 キリエは微笑んで答えた。

「ビジュー宮殿でハーブティーが流行っているでしょう? 今度はプレセア宮殿でウィンプルを流行らせたいわ」

「なるほどな」

 実は修道女を連想させるウィンプルをルイーズが嫌っていたのだが、一度キリエの修道女姿を目にしたギョームは、以来積極的にウィンプルを着けさせていたのだ。キリエにとっても、馴染み深いウィンプルを身に付けられることは心の安らぎにつながった。

「……女王陛下。昨日のご無礼、平にご容赦を……」

 テーブルに着くと、いつもの洒落者ぶりが鳴りを潜めたバラが陰鬱な表情で詫びてくる。キリエはにっこりと笑いかけた。

「大丈夫よ、アンジェ侯。今日の午餐は仲直りの印に御馳走しますわ」

「……お心遣い、痛み入ります」

 その時、ひとりの女官が女王にナプキンを差し出した。その女官がちらりと顔を上げ、バラは顔色を変えた。

「ありがとう、マダム・ジゼル」

 ジゼルは上目遣いにバラを見据えた。大きな黒い瞳に射すくめられ、彼は息も止まらんばかりに立ち尽くした。やがてジゼルはキリエに恭しく頭を下げ、その場を辞した。

「アンジェ侯」

「はっ!」

 キリエの呼びかけにバラは飛び上がりそうになる。

「あなたはハーブティーが苦手だったわね。たまには良いわよ。ワインで疲れた体を癒してあげて」

「……はっ」

 バラは冷や汗を流しながら頭を下げた。


 昼からはアングル、ガリア両国の廷臣を招いた午餐が開かれた。午餐には、昨日迷惑をかけた詫びにと、聖アルビオン大聖堂のバウンサー大司教とヒースも招かれた。どこかぎこちない空気が流れる中、キリエとギョームは明るく振る舞っていた。その会食の途中、キリエが皆に呼びかけた。

「皆さん、今日はクレド侯の誕生日です」

 皆が拍手をすると、ジュビリーは恐縮して頭を下げる。

「セヴィル伯」

「はい」

 セヴィル伯が侍従に目配せすると、彼らは装飾が施された大きな木箱を捧げもってきた。

「これは……?」

「開けてみて」

 キリエに言われるまま蓋を開けると、美しい装填の書物が納められている。キリエは優しく微笑んだ。

「ガリアの歴史書です。本がお好きでしょう? 今は、読む時間もないと思うけれど」

「……ありがとうございます」

「急拵えだが、予からも贈り物がある」

 ギョームの言葉にジュビリーは顔を上げた。ガリア王は立ち上がるとアングルの宰相に歩み寄った。そして、腰の剣を鞘ごと外すとジュビリーに差し出し、皆がどよめく。

「……陛下……!」

 ジュビリーは息を呑んだ。君主が臣下に武器を与えるのは最高の栄誉であり、信頼の証だ。しかし、これは……、信頼の証などではない……!

「予の剣でアングルを守ってくれ」

「しかし……!」

 王は穏やかに微笑んだ。

 受け取るが良い。黒衣の宰相よ。予は……、いつでもそなたの側で目を光らせるぞ。

 ジュビリーはごくりと唾を飲み込むと、片膝を突いて頭を垂れた。

「……恐悦至極にございます……」

 恭しく差し出された両手に剣が載せられると、皆が一斉に拍手を贈る。椅子に腰を下ろした夫にキリエが囁く。

「……ありがとう、ギョーム」

 ギョームは口元に微笑を浮かべると妻の手を握った。廷臣たちから祝いの言葉をかけられるジュビリーを眺めながら、ギョームは呟いた。

「彼には、キリエの留守を預かってもらわねばならんからな」

「ええ」

 ギョームがちらりと振り返る。身を乗り出してきた夫に、キリエも耳を寄せる。彼は妻の耳元で低く囁いた。

「……そなたを守るのは私一人で良い」

 キリエは思わず息を呑んだ。夫は更に強く手を握りしめてきた。

 この手は離さぬぞ。この手を握るのは、私一人だけだ。

 ギョームの囁きが頭に響いた気がした。キリエは、わずかに震えながら頷いた。

 宰相ジュビリーの王太子暗殺の疑いは晴れたが、ギョームにとってキリエの不義は疑惑が晴れていない。離すものか。渡すものか。やっと出会えたのだ。自分の孤独と苦しみを分かち合う存在と。誰にも邪魔はさせない。

 静かに微笑むガリア王と、心なしか青ざめたアングル女王。二人を遠目に見守るモーティマーにレスターが声をかける。

「……年明け早々、波乱含みだな」

「はい。気を引き締めねばなりませんね」

「ああ」

 レスターはちらりと隣の青年を見上げる。

「……ところで、ガリアの生活はどうだ」

「慣れませんね。どうも性に合わないようです。アングルが一番ですよ」

 苦笑いを浮かべて答える秘書官に、レスターは少々意外そうな顔付きで畳み掛ける。

「そなたは王都の生活が長いから、華やかなオイールの方が合いそうなものだが」

「いえ、元が田舎者ですから」

「……アングルとガリアを往復する生活は大変だろう。すまんな」

「いえ……」

 実際、キリエ以上に両国を行き来する生活はきつい。だが、彼にとっては〈正しい主君〉に仕えることは無上の喜びだった。レノックス・ハートとベル・フォン・ユヴェーレンの間を渡り歩いたあの頃に比べれば、日々の辛さなど雲泥の差だ。これまでの辛さをおくびにも出さない秘書官の横顔を一瞥しながら、レスターは小声で囁いた。

「……モーティマー。ビジュー宮殿はプレセア宮殿よりも女官が多い。……佳い人はいなかったのか?」

 モーティマーは顔をしかめた。

「子爵……、先日もそのようなことを……」

「うむ……」

 レスターは神妙そうな顔付きで黙り込むと、視線をキリエの背後に向けた。そこには、顔をウィンプルで隠したジゼルの姿が。

「……マダム・ジゼルはどうするのだ」

 ジゼルの名にモーティマーは顔をしかめた。そして、小さく息をつく。

「……許せなかったのですよ。あのような賢いご婦人が日陰者でいることが」

 やがて、その言葉に怒りが混じる。

「あのような御仁に、翻弄されたままでいいわけがない。……ただ、それだけだったのですよ」

 いつもは感情を露にしないモーティマーの言葉から、彼の思いを読み取ったレスターは納得したように頷いた。

「……それならば良い。良いのだが……」

「まだ何か……?」

 何か言いかけては口を閉ざすレスターに、モーティマーは居住まいを正すと声をひそめた。

「子爵、私に何か問題があるならば、どうぞ遠慮なく……」

「待て、待て、違うのだ、モーティマー……!」

 慌てたレスターが困惑気味に遮る。秘書官は腑に落ちないといった表情で見つめてくる。

「やれやれ、どこまでも生真面目な奴だな、おまえは」

「子爵……」

 レスターは辺りに目をやりながら呟いた。

「そなたに頼みがあるのだ」

「はい」

「私の……、娘と会ってくれぬか」

 さすがのモーティマーも、その言葉の意味するところを理解した。彼は驚いて息を呑み、すぐには返事が返せなかった。

「……子爵の……、お嬢様、でございますか?」

「いや、実はな」

 レスターは困ったような顔つきで更に声を低めた。

「末の娘……、アンと言うのだがな、二十歳になったのだからそろそろ見合いを、と話をしたところ……。いきなり、もう一度会いたい殿方がいる、と言い出してな」

 モーティマーは顔をしかめた。

「アンは本当に地味で目立たん娘でな。他の兄姉たちに隠れて、自分を主張することが全くない。その娘が殿方ともう一度会いたいと言い出したものだから、家中大騒ぎになってな。よく話を聞きだしたところ、どうやらそなたのことらしい」

「私、ですか? い、一体どこで……」

 どもりながら聞き返すモーティマーに、レスターは寂しそうな表情になる。

「そなたは覚えてはおるまいな……。とにかく地味な奴だから……」

「子爵、ご自分のお嬢様を……」

「クレド城でジョン様とマリー様の結婚式があったであろう。その時に出会ったというのだ」

 クレド城。確かにあの時は様々な人々が一堂に会した。宮廷の人々だけでなく、クレドやグローリア、トゥリーの人々も……。

「あッ!」

 いきなりモーティマーは声を上げ、慌てて口を押さえる。レスターは信じられないといった顔つきで、彼をまじまじと凝視する。

「そなた……、覚えておるのか……?」

「も、もしや……、薬草園の場所をお尋ねした……」

「そ、そうだ!」

 モーティマーは呆然とした。確かに目立たない娘だった。だが、静かな雰囲気だったのでかえって道を尋ねやすかった。今の今まで忘れていたが、唐突に記憶が蘇る。

「まさか、そなたが覚えていたとは……」

「その、お嬢様が、私を……?」

「ああ。女王陛下の側で黙々と立ち働くそなたを見て憧れを抱いたらしい。その本人に声をかけられて舞い上がったのだ。男前に惚れるような器量でもないくせに……」

「子爵……!」

 あまりのけなしように、モーティマーは顔を赤くしながらたしなめる。

「まぁ、そんなわけで、向こうは覚えてはおらんぞ、と念を押しておいたのだが……」

 レスターは不安そうな表情でじっと見つめてくる。

「そなたが、もしや誠にマダム・ジゼルに想いを抱いておるならば……」

 モーティマーは思い詰めた表情で黙り込んだ。聡明で知的な魅力を持ったジゼル。だが、その魅力はどこか男を破滅に追いやる危うさもあった。確かに、彼女を救ってやりたいと願う自分もいた。だがそれは、結婚という枠に囚われたものではない。

「……違うのです」

 彼はどこか沈んだ声色で呟いた。

「彼女に必要なのは、私ではないのです。……うまく言えませんが」

「だが、おまえには伴侶が必要だ」

 追い討ちをかけるような言葉にモーティマーはぎくりとして振り返った。

「……おまえの務めは厳しいものだ。これからの長い人生をひとりで歩んでゆくつもりか」

 モーティマーは黙り込んだ。確かに伴侶は欲しい。支えてくれる者がいれば、どんなに心強かろう。だが。

「私は……、陛下にお仕えする限り、アングルとガリアを行き来する生活が続きます。私の妻になれば寂しい思いをするでしょう。そう思うと……」

「モーティマー」

 老臣の穏やかな声に彼は目を上げた。

「男はな、待つ者がいると思えば強くなる。娘に限らず、そなたの留守を預かる者がいれば、心強くなる」

 その言葉はモーティマーの心に染み入った。

「もちろん、いろんな人間がいる。待つ女を足枷に感じる男もおるだろうし、待たせる男に我慢できない女もいよう。だが、そなたは……」

 モーティマーの脳裏に、あの日自分にすがりついてきたジゼル・ヴィリエの姿がよぎる。彼女は、待てない女だったのだろうか。

「……子爵」

 モーティマーは、どこか吹っ切れた表情で顔を上げた。

「もう一度、お会いしてよろしいでしょうか。……お嬢様に」

 レスターは目を見開いた。そして、おかしいぐらいに動揺しながら必死で囁く。

「む、無理はしなくて良いのだぞ。そなたの自由だ」

「だから、お会いしたいのです」

 老臣は喜びと不安が混ざった顔つきになった。

「わかった。……すまんな。会って……、印象が悪ければ断ってくれて結構だ。私は恨み言など言わん」

「はい」

 レスターはほっとした表情で溜息をついた。


 その晩、ジュビリーに呼ばれたモーティマーは執務室へと向かった。

「失礼します」

 宰相は膨大な書類を机に山積みにしていた。書類から目を上げると、表情を変えないまま口を開く。

「そなたの報告書は目を通した。人員の確保はもう少し待て。何とかする」

「はっ」

 モーティマーは眉をひそめた。

「侯爵……、お疲れでしょう。今夜は早くお休みになった方が……」

「大丈夫だ」

 ペンを止め、溜息を吐き出すとジュビリーは独り言のように呟く。

「新年祝賀会も終わったし、これからは少し時間ができる。……余計な騒ぎを起したがな」

 モーティマーは複雑な表情で俯いた。そして、恐る恐る尋ねる。

「侯爵。私に……、できることがあればぜひ仰って下さい」

「……待っていたぞ、その言葉」

 言うが早いか、ジュビリーは書類の束を持ち上げると秘書官に押し付けた。

「こ、侯爵ッ?」

「事務作業はどうも苦手だ……」

「こ、これは全て宰相の決済待ちの書類ではないですか!」

「私の署名を知っているだろう? 似せて書いてくれれば……」

「侯爵……!」

 慌てふためくモーティマーにジュビリーが珍しく含み笑いを漏らす。

「ところで、他に報告はないか?」

「いえ、特には……」

 と、言いかけて彼は思わず口をつぐんだ。そして、書類の束を抱えたまま、おずおずと切り出す。

「侯爵……。できれば、明後日……、半日だけお休みをいただきとうございます」

「一日休め」

 ジュビリーは再び机に向かいながら答えた。モーティマーは慌てて体を乗り出す。

「いえ、半日で充分です。半日いただければ……」

「一日だ」

 ジュビリーは振り返ると鋭く言い放った。

「わざわざグローリアからレディ・アン・レスターが来るのだろう? 失礼があってはならん」

「……!」

 書類の束を抱きかかえたモーティマーが口を半開きにして宰相を凝視する。ジュビリーはにっと笑った。

「……レディ・アンは私も知っている。おとなしい娘だ。そなたにはぴったりだ」

「侯爵……」

 珍しく狼狽する秘書官にジュビリーが語りかける。

「そろそろ、身を固めてもよいだろう。確かに……、妻を故郷で長く待たせる生活にはなるだろうが、あの娘なら黙って帰りを待ってくれるだろう」

 よもやジュビリーから見合いを勧められるなど予想もしていなかったモーティマーは、思い詰めた様子で顔を強張らせた。

「……しかし、半年ぶりに会うのですよ。あちらも、もしかしたら、記憶にある印象と違うと仰るかも知れません……」

「弱気になるな」

 ジュビリーがぴしゃりと言い放つ。

「ジョンを見ろ。私が許すと飛んで行ったぞ。女官たちの前で求婚したらしい。後先を考えないというか、見境ないというか……。あれで、結婚式では倒れかける始末だからな」

 ジュビリーのぼやきにモーティマーは思わず微笑んだ。

「そなた、何歳だ?」

「……三二歳です」

「確か、レディ・アンは二十歳だったな」

「正直、不安です。十二歳も年の差が……」

 そこまで言ってモーティマーは口をつぐんだ。彼は、宰相と女王がひそかに心を寄せ合っていることにすでに気づいていた。二人は、二十歳の年の差がある。ジュビリーは目を細めた。

「……私の妻は五歳年下だったが、求婚した時は十三歳だった。年の差はともかく、あまりにも幼いために向こうの父親は驚いたし、難色を示した。だから、向こうが成人するまで五年待った。それに比べれば、そなたたちはもう大人だ。問題はないだろう」

 モーティマーはジュビリーを見つめた。彼は立ち上がると肩を叩いた。

「自信を持て。そなたは今まで苦労をしてきた。労わってくれる者が側にいるべきだ」

「……はい」

 モーティマーはようやく表情をゆるめると頷いた。


 見合いの当日、モーティマーはさすがに緊張した面持ちでプレセア宮殿を出た。見合いの場は、ジュビリーがキリエから拝領したイングレス市内の私邸、クレド・ハウス。宰相の好意で見合いの場を提供してもらったのだ。モーティマーはキリエに報告すべきか迷ったが、結果が出てからにしようと、黙って宮殿を後にした。

 クレド・ハウスに到着すると、ふくよかな女性と二人の青年が出迎えた。レスターの妻と息子たちだ。

「モーティマー、紹介しよう。妻のキャサリン。それから、息子のフィリップとチャールズだ」

「初めまして」

「わざわざお運びいただき、ありがとうございます、サー・ロバート」

 キャサリンの挨拶にモーティマーは折り目正しい挨拶を返す。

「奥方こそ、遠くからお疲れでございましょう」

 キャサリンは人好きのする笑顔を見せた。

「イングレスを訪れるのは女王陛下の戴冠式以来ですわ。いつ来ても王都は華やかで素敵ですわね。こうして王都を訪れる機会を作って下さって、感謝しております」

「いえ……」

 キャサリンは、緊張で顔を強張らせているモーティマーに思わずくすりと笑いをこぼすと、背後を振り仰いだ。

「ほら、早くおいでなさい、アン」

 だが、開け放たれた扉からは沈黙しか返ってこない。やがて、長男のフィリップが奥へ下がると、引き攣った顔付きの妹を連れてくる。モーティマーはごくりと唾を飲み込んだ。

「まったく、あれほど会いたがっていたサー・ロバートがこうしていらしって下さったのに……」

 母の言葉にアンは益々顔を青くした。

「……娘の、アンだ」

 レスターがやや緊張した顔つきで紹介する。モーティマーとアンは気まずそうに向かい合った。

 確かに、一見地味な印象の娘だが、半年前とは雰囲気がやや違う。柔らかな栗毛に、薄い薔薇色のドレスがよく似合っている。ふっくらとした頬は、今でこそ青白いが、柔和な顔立ちはどこか安心感を与える。アンは恐々とモーティマーを見上げたが、やがて青ざめていた顔は見る見るうちに真っ赤に紅潮していった。自分でも顔が赤くなったことに気づいたのだろう。彼女は目をぎゅっとつむると俯いてしまった。慌てたモーティマーが、やや上ずった声で挨拶をする。

「は、初めまして」

「初めてではないだろうが」

「あなたッ!」

 レスターの一言に妻の手厳しい声が飛ぶ。

「そ、そうでした。お久しぶりです、レディ・アン」

「……お久しぶりです」

 アンはか細い声で囁いた。モーティマーはわずかに首を傾げた。

「……お綺麗になりましたね?」

「無理はするなと言ったはずだぞ、モーティマー……!」

「あなた!」

 とうとうレディ・キャサリンは怒り出した。

「フィリップ! チャールズ! 父上をつまみ出しておしまい!」

 二人の息子は笑いを押し殺しながら父親を羽交い絞めにした。

「こ、こら、待て! おまえたち!」

「ほらほら、父上。後は母上にお任せしましょう」

 困惑する父親を二人の息子が部屋から引きずり出す光景は、まるで喜劇を見ているようだった。モーティマーとアンはぽかんとして三人を見送る。ふんと鼻息荒く夫を見送ったキャサリンは、やがて恥ずかしそうに笑いかけた。

「ごめんなさいね、サー・ロバート。こういったことには本当に無粋な夫で……。温室にお茶をご用意しております。そちらでゆっくりお話を……」

「ありがとうございます、レディ・キャサリン……」

 冬の日差しを集めた温室は穏やかな空気に満ちていた。小さなテーブルを挟んで座り込んだ二人は、しばらく無言でハーブティーを口にしていた。モーティマーはそっと上目遣いで目の前の娘を見つめた。綺麗になったという言葉は嘘ではなかった。クレド城で見かけた時から半年経ったが、あの時よりも幼い顔立ちが幾分細面になり、どことなく垢抜けた。それに比べて、自分はどうなのだろう。あれから半年、少しは成長したのだろうか。

「……イングレスは、いかがですか」

 女性とこんな場を持ったことがほとんどないモーティマーは、とりあえず当たり障りのない言葉から始めてみた。アンは恐る恐る顔を上げると小さな唇をおずおずと開く。

「……とても華やかで、素晴らしいです。でも、人が多すぎて……、少し疲れてしまいました」

「そうでしょうね」

 モーティマーは素直に頷いた。アンはわずかに身を乗り出した。

「オイールはもっと華やかだとお聞きしています。……どんな所です?」

 質問をしてくれた。モーティマーはほっとした表情で答える。

「確かに華やかです。大陸中から様々な人々が集まっていますからね。ですが……、私にとっては華やかを通り越して派手過ぎです。なかなか静かに過ごせる場所はありません」

 そう言って肩をすくめて見せるモーティマーに、アンの表情がようやくほぐれる。

「アングルとガリアを行ったり来たりで……、大変ではないですか?」

「……大変です」

 モーティマーは表情を引き締めると頷いた。

「短い時は、一ヶ月単位で移動します。オイールとイングレスを往復するだけで、早くても三日はかかります。それだけでも正直きついです。しかし、女王陛下のためと思えば、辛くはありません。ただ……、さすがに疲れます」

 生真面目に言葉を返すモーティマーに、アンは眉をひそめて見つめた。

「……お体が、心配です。きっと、ご無理をなさっているのでしょう?」

「……これも務めです。主のために、主の代わりに動くのが秘書官ですから」

「あの時も、陛下のお側で働いていらっしゃったわ」

 アンは静かに言葉を続けた。

「伯爵の結婚のお祝いで、たくさんの人がいらっしゃっていて……。皆は酒宴や踊りに興じていたけれど、あなたは一人で立ち働いていらっしゃった。女王陛下も頼もしそうにしていらっしゃったわ。皆が祝宴を心から楽しめたのは、あなたの働きのおかげです」

 モーティマーは目を細めると穏やかに呟いた。

「……見ていてくださったのですね」

 アンの顔が真っ赤になる。そして、震えながら俯いてしまった。温室に微妙な沈黙が広がる。今までの時間は無駄ではなかった。冷血公と王太后の間を渡り歩き、自分を見失いかけていたあの日々も、決して無駄ではなかったのだ。モーティマーは息をつくと口を開いた。

「……できれば、ずっと、見守っていただければ……」

「……!」

 アンは目を大きく見開いた。半年前に目を奪われた青年からの思いがけない言葉に、彼女は目を潤ませて手を握り締めた。

「……は、はい……」

 そんな二人の様子を、固唾を呑んで見守っていたレスターの背後に、召使いがそっと声をかける。

「申し訳ございません、レスター子爵……」

「……どうした?」

 召使いが耳元で何事か囁き、レスターは顔色を変えた。思い詰めた表情をした彼は、居間でそわそわと歩き回っている妻に目をやった。

「……キャサリン。すまん、宮殿に戻る」

「あなた……!」

 妻はがっかりした顔つきで声を上げる。

「お勤めですの? 今日はお休みをいただいのでは」

 レスターは低い声で妻の言葉を遮る。

「エスタドから使者がやってきたらしい」

 エスタドと聞いて妻も息を呑んだ。少し離れた場所でソファに座り込んでいた息子たちも思わず立ち上がる。おろおろとした表情で立ち尽くしたキャサリンは、温室に目を向けた。

「モーティマーには黙っておけ。私は戻る」

「あなた……、お気をつけて……」


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