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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第7話

ジュビリーの疑惑は晴れた。だが、彼が王太子に手をかけたのは紛れもない事実。彼は、ついに「あの日」を語り始めた。

 一行は、皆押し黙ってプレセア宮殿へと帰還し、侍従たちは不安そうに出迎えた。精神的にもぐったりとしているキリエの肩に手を添えると、ギョームはバラを呼びつけた。誰よりも蒼い顔付きの宰相は黙って傍らに参じた。

「……功を焦ったな」

 耳元で吐き捨てるとギョームは宰相に一瞥をくれ、キリエを伴って客間へと向かった。バラは唇を噛み、手を握り締めた。灰色の瞳に鈍重な黒い光が満ちる。そして、踵を返すと後宮へと駆け出した。

 後宮の中でも最も華やいで賑やかな広間、女官たちの控えの間。そこからは女たちの絶え間ないおしゃべりや笑い声が聞こえてくる。供も連れずにやってきたバラは大勢の女官たちの前で叫んだ。

「マダム・ヴィリエ!」

 おしゃべりに花を咲かせていた女官たちは一斉に口をつぐむ。ソファに腰掛けていたジゼルは息を呑んで立ち上がった。

「話がある……!」

 鬼のような形相の愛人に、彼女は事情を察した。顔を青ざめさせ、ごくりと唾を飲み込むと足を踏み出した。広間を出ると彼女の手を荒々しく掴み、半ば引きずるようにして人気のない廊下へと連れ出す。

「アルマンド様……!」

「黙れ……!」

 バラはジゼルを壁に押し付けると耳元で囁いた。

「貴様が仕入れた情報はとんだガセだった……! あの田舎娘の前でどんな辱めを受けたと思う……!」

 ジゼルは震え上がった。逃げようとする彼女の手を鷲摑みすると冷たい石の壁に押し付ける。血走った瞳で憎々しげに凝視してくる愛人にジゼルは顔を引き攣らせ、擦れた声で囁く。

「でも、私……、あなたのために……!」

「ほざけ!」

 一喝するや否やバラはジゼルの顔を殴りつけた。彼女は呻き声も上げずにその場に崩れ落ちた。そして、小刻みに震えながらゆっくりと顔を上げる。結い上げた髪がほどけ、艶やかな黒髪が頬に流れ落ちる。口の端から血が滴り、頬は見る見るうちに腫れ上がる。その瞳には恐れだけでなく、怒りと軽蔑の光が見え隠れしている。

「二度と……、私の目の前に現れるな!」

 捨て台詞を残すとバラは背を向けた。ジゼルは震えながら顔を伏せ、そっと口を覆う。指に鮮血が光る。ジゼルは拳を握り締め、悔しげに細められた目から涙が零れ落ちた。


 その日の晩。くたくたに疲れ果てていたものの、キリエは寝台の上にぽつんと座り込み、ギョームの帰りを待っていた。

 今日の出来事を思い返してみる。ジュビリーが妻を陵辱され、その復讐のために王太子エドワードを暗殺したのではと詰め寄られた時、もう終わりだと思った。あの短い時間に様々な思いが駆け巡り、それでも辿りついた結論は「ジュビリーを守らなければ」ということだった。結果、異母兄の墓を暴くことでジュビリーの疑いは晴れた。だが、彼がエドワードを死に至らしめたのは事実だ。知っている者はごくわずか。自分が女王でいる限り、この秘密は守り通さなければならない……。

 キリエは震えながら息を吐き出した。王太子の墓を暴いてほしいと言上した時のジュビリーの目。生気が感じられない、淀んだ瞳だった。あの時の彼は、誰よりも死の淵の近くに佇んでいた。もしかしたら、今も。その手を掴んで、引き寄せなければ。

 と、その時。前触れもなく寝室の扉が開き、ぎょっとして顔を上げる。寝衣姿の夫が静かに入ってくる。

「……起きていたのか」

 キリエは上目遣いに夫を見つめるとこくりと頷いた。ギョームは少しだけ嬉しそうに口元をゆるめると、寝台に上がった。そして、二人はしばらく無言で向き合った。

「……キリエ」

 やがてギョームが躊躇いがちに囁く。

「私を、許してくれるか?」

「……え?」

 かすかに首を傾げると、ギョームは思い詰めた表情で申し訳なさそうに囁いた。

「私も、クレド侯を疑った。……と言うより、バラを信じた」

 キリエは優しく微笑んだ。

「当然よ。あなたの宰相だもの」

「しかし……」

 口ごもる夫の手を取るとそっと握り締める。

「私がクレド侯を信じるように、あなたはアンジェ侯を信じた。……それだけのことよ。クレド侯は命をかけて私を守ってくれる。アンジェ侯もあなたを守ろうとする。そうでしょう?」

 ギョームは顔を歪ませた。

「そなたも……、知っているだろう。バラは、父の腹心だった」

 搾り出すようにして囁いた言葉に、キリエは哀しげに口をつぐむ。

「父を裏切り、私の元へ降った。……一度主君を裏切った男だ」

「ギョーム」

 キリエは諭すように遮った。

「彼は、ガリア王にふさわしいのはリシャール様ではなく、あなただと見抜いたのよ。だから……」

 ギョームの強張った顔が少しずつほぐれてゆく。やがて目を伏せると、小さく呟く。

「……ありがとう」

 キリエは安心したように微笑むと夫の手を愛しげに撫でた。

「……キリエ」

「何?」

「抱いてくれ」

「えっ」

 キリエは顔を赤くしたが、肩を落とし、頭を垂れた夫を見つめると恐々と手を伸ばし、そっと抱きしめた。ギョームは無言ですがりついてきた。キリエがしばらく夫の背を静かに撫でていると、やがて彼は小さく囁いた。

「……時々、怖くなる……」

「……え……?」

 ギョームの声はどこか震えていた。

「……自分が怖くなる。自分がしていることに、意味が見出せなくなって……、本当に、これでいいのか……、不安になる」

「大丈夫よ。あなたは間違っていないわ」

 しかし、なおもギョームは訴えた。

「自分が怖い……。そなたが、いなくなるのも、怖い……」

「え?」

 キリエは眉をひそめると顔を寄せた。

「私の手から……、すり抜けてどこかへ行ってしまうのではないかと……、怖くなる」

 夫のか細い声に、キリエは呆然とした。この人は……、こんなにも恐ろしい孤独を抱えている。私が、私だけが側にいる。側にいなければ。キリエは不安に駆られると必死に夫を抱き締めた。

「……ギョーム。私は、どこへも行かないわ。ずっとあなたの側にいるわ。だから、安心して、お願い……」

 ギョームは顔を上げたかと思うと、キリエの頬を包み込んで唇を重ねてきた。

(……嘘吐き……)

 ギョームの唇の感触を感じながら、キリエは胸の中で囁いた。あの日、ジュビリーも同じことを言った。

(私は、おまえの側を離れん)

 でも、その約束は守れなかった。自分も、約束を破らないと言えるのか……? キリエは顔を歪めた。ジュビリーを守りたい。ギョームも守りたい。どちらが本当の自分なのだ。キリエは夫の背を強く抱きしめた。


 暗い森。騎馬の嘶き、鳥の鋭い鳴き声。悲鳴と怒号。喧騒の渦の中、目の前に倒れている幼い少年。柔らかな巻き毛が白い頬にかかり、紫に変色した唇がうっすらと開いている。長い睫に包まれた瞳は虚空を映し出している。

 自分の手によって命を落としたエドワードを前に、ジュビリーは立ち尽くしていた。八年前、こうして彼を殺した。そう、八年前に。ジュビリーは張り裂けそうに波打つ胸を押さえた。八年前には感じ得なかった心の動きだ。

と、少年の目が瞬く。

「……!」

 ジュビリーは息を呑んだ。少年は目を見開くと、むくりと体を起した。

「……殿下……!」

 ジュビリーは青ざめ、思わず後ずさった。エドワードは薄い灰色の瞳をジュビリーに向けた。そして、ゆっくりと右手を上げるとジュビリーの顔を指差した。

「……私は」

 しゃがれた声でエドワードは囁いた。その顔に表情はなかった。

「私は、そなたから、目を離さないぞ」

 ジュビリーはごくりと唾を飲み込んだ。エドワードは無表情のまま、再び囁いた。

「妹を守れ」

 その言葉に、思わず顔が強張る。

「……一生守れ」


「……ッ!」

 ジュビリーはそこで跳ね起きた。胸の鼓動が不気味なほど大きく脈打つ。大粒の汗が額から頬へ流れ落ちる。目を細め、大きく息を吐き出す。彼は何度か息を吐き出すと、ごくりと唾を飲み込んだ。ふらつきながら立ち上がり、窓辺のカーテンをそっと開ける。冬の朝はまだ暗い。ジュビリーは乱れた前髪を掻き揚げると、寝衣を脱ぎ捨て、着替えを始めた。


 夜明け前の鐘楼。冷たい風が吹き付ける中、ガウンの襟を立て、まだ暗い街並みを見つめるキリエの姿があった。足元のランプが彼女の顔をオレンジ色に浮かび上がらせる。朝駆けのために夫が寝室を出て行った後、キリエは寝衣にガウンとコートを着込み、暗い中この鐘楼までやってきた。寒さが体に染み入るが、身じろぎもしない。

 やがて、背後から扉が軋む音がする。キリエはゆっくり振り返った。重い扉が開かれると、そこには一晩でやつれた黒衣の宰相がいた。二人はしばらく無言で見つめ合った。

「……ごめんなさい。ここしか、思いつかなかった」

 キリエの囁き声に、ジュビリーは小さく頷いた。女王に即位した時、そして、ジュビリーへの恋心に目覚めて混乱した時、二人で城下を見下ろした塔。人目を避け、ゆっくり話ができる場所はもはや限られていた。

「腕の傷が痛むでしょう。……大丈夫?」

 それでもジュビリーは口を閉ざしたままだった。キリエは目を伏せた。

「……不思議ね。今日、あなたの誕生日をこんな風に迎えるなんて」

 返事はなく、風を切る音だけが響く。

「私、自分の誕生日も大切だけど、あなたの誕生日も大切にしたいの。まだ、持ってくれている? 祈祷書……」

「陛下」

 陛下という言葉にキリエは眉をひそめて顔を上げた。ジュビリーはわずかに項垂れ、低い声で言葉を継いだ。

「この度は……、申し訳ございませんでした。私が過去に犯した罪のために、あなたまで窮地に追いやることに――」

「やめて!」

 キリエは泣き出しそうな顔で叫んだ。

「今更……、女王扱いしないで……!」

 彼女の訴えに、ジュビリーは苦しげに顔を歪ませた。キリエはそっと身を乗り出した。

「あなたとは、いつまでも対等でいたい。……そのために、確かめておきたいことがあるの」

 キリエの大きな目がまっすぐに見上げてくる。アーモンド型の大きな瞳は、母親譲りだ。その瞳で見つめられていると、どうしても彼女を思い出してしまう。ジュビリーが哀しげに目を細め、キリエは恐る恐る尋ねた。

「兄上の遺体に……、手を加えたの?」

「……いや」

 ジュビリーは呻くように呟いた。

「何もしていない」

「あの日……、八年前に、何があったの?」

 彼は目を閉じ、束の間黙り込んだ。やがて息をつくとゆっくり目を開け、目の前のキリエを見つめた。そして、彼は静かに語り始めた。

「……バラが話した通り、私はエレオノールが死んでからはずっとクレドに引き篭もっていた。毎年狩りの時期になると王から召喚状が届いたが、毎回送り返していた。その間、ずっと綿密な計画を立て……。そして時が満ち、私は八年前のあの日、イングレスへ向かった」

 キリエの息遣いが耳を突き、ジュビリーは口をつぐんだ。だが、青白い顔付きのキリエは小さく「続けて」と囁く。

「……五年ぶりに王に会い、彼は私に侯爵位を叙位したいと言ってきたが、当然断った。そして……、狩りの当日を迎えた」

 キリエはごくりと唾を飲み込んだ。ジュビリーも息をつくと目を伏せた。

「あの日、我々は慣習に従って夜明け前の森で朝食をとった。その時、私は王太子の水筒に眠り薬を、入れた」

 彼の脳裏に、狩り場独特の浮き足だったざわめきが蘇る。


「父上、寒いです」

「これぐらいの寒さで音を上げてどうする」

 駄々をこねる息子の頭を撫で、乱れた胴衣を直してやる王。たしなめながらもその仕草のひとつひとつに愛情を感じる。だからこそ、傍らにいた異母兄レノックスは苦々しげに見つめていたのだ。そんな最中、不意に馬の嘶きが響き渡ったかと思うと鳥の大群が一斉に飛び立つ。その場にいた皆が慌てて腰を上げる中、ジュビリーは王太子の水筒に手を伸ばした。栓を抜き、手の平に隠し持った薬の粉末を落とす。栓を締め直した水筒をエドワードの足元に戻す。一瞬のことだった。その間、手が汗ばむことも、胸の鼓動が早まることもなかった。彼は、不安そうに森の空を見上げる幼い王太子をじっと見つめた。


 あの時の光景は、死ぬまで忘れることはないだろう。何度も何度も悪夢にうなされるのだ。今朝のように。きっと、死ぬまでこの悪夢は続く。ジュビリーは震える息を吐き出した。

「……薬を口にしても、すぐには効かない。食事を終え、狩りが始まってしばらく経ってからだ。獲物を追っていた王太子が突然昏倒し、落馬した」

 キリエは目をぎゅっと閉じ、顔を伏せた。震えを止めようとしても止まらない。彼女は両手を握りしめて震えを押し隠した。ジュビリーはしわがれた声で続けた。

「その時、隣で馬を走らせていたのがレノックスだ。当時彼は十四歳だったが、すでに別の異母兄弟に危害を加えていたことが噂されていた。当然……、暗殺を疑われた」

 瞬間、脳裏に昨日のヒースの叫びが蘇る。

「エドワードが死んだ時、偶然一緒にいたレノックスが疑われ、あの子は深い心の傷を負ったのです!」

 そうだ。エドワードの死で、多くの者が運命を変えたのだ。

「その件に関しては潔白のレノックスは激怒し、兵を起こしかねない様子に恐れをなしたエドガー王は、それ以上レノックスを追求しなかった。……誰も、私に疑いの目を向けることはなかった。だが、ベネディクトはすぐに察した」

「おじい様が……」

 ジュビリーは恥じ入るように顔をわずかに背けた。

「……あの時からだ。我々の間に確執が生じたのは」

 祖父は、息子のように可愛がっていたジュビリーの手によるものだと気づいたというのか。キリエは祖父の死に際の表情を思い出し、唇を震わせた。

「彼は私を責めた。王太子に罪はないと。だが、それを認めるわけにはいかなかった。子に罪はない。それは、エレオノールも同じだ!」

 不意に声を荒らげた彼にキリエはびくりと体を震わせた。

「王も王太子も憎かった……! エレオノールと腹の子は死んだのに、何故奴らは生きている? そう思うと……、許せなかった!」

 両の手を握り締め、口許を歪めて叫ぶジュビリー。これまで、父エドガーに対する呪いの言葉を直接耳にしたことはなかった。だが、これだけの激しい思いを押し殺してきたのだ。今まで、ずっと。二人に冷たい風が容赦なく吹き付ける。長い沈黙の果てに、ジュビリーは大きく息をついた。

「あの男を絶望に追いやるための復讐。……いつかは白日の下に曝されるだろうと覚悟はしていた」

 その言葉にキリエは歪めた顔を上げた。

「まさか……」

 やつれた表情のまま、彼は頷いた。キリエは顔を振ると両手で口許を覆い隠した。

「……いつかは糾弾される。罪を問われれば、身を委ねるつもりだった」

「ジュビリー……!」

 悲鳴のようなキリエの呼びかけに、彼は力なく肩を落とした。

「……バラがマダム・ヴィリエを使って情報を探っているとモーティマーから報告を受けた時、私は覚悟を決めていた。だが……、レスターが許さなかった」

「レスター……」

 老臣の慈愛に満ちた瞳が思い浮かぶ。彼は祖父から自分だけではなく、ジュビリーの行く末も託されたはずだ。

「キリエを女王に擁立した以上、逃げることは許されない。彼はそう言った。……その通りだ。私は、レスターに命じて偽の情報を流した。私が弓で王太子を暗殺した、と」

「でも……、もしも、矢傷に似た傷があったらどうするつもりだったの?」

 キリエは切れ切れに囁いたが、ジュビリーは静かに顔を振った。

「墓を暴く必要があった。私自身が犯した罪と向き合うために。……たとえ、処刑されることになったとしても」

「嫌よ!」

 駄々っ子のように叫ぶキリエ。

「残された私はどうなるの? 言ったでしょう? あなたが地獄に堕ちる時は、一緒だって! 私、あなたがいないと生きていけないって……!」

「おまえに罪はない。おまえを道連れにはできん」

「私がいたからでしょう!」

 ジュビリーは息を呑んで顔を上げた。

「私がいたから、復讐を……、決めたのでしょう……!」

 キリエは白い息を吐きながら、涙を浮かべた瞳でジュビリーを見上げた。

「……ずっと、聞きたくて、聞けなかった。……怖くて聞けなかった……」

 ジュビリーは顔を歪ませた。キリエの目から涙が零れる。

「あなたの奥様を奪ったのは、私の父。娘である私も……、憎いのでしょう?」

「違う!」

 ジュビリーは叫ぶと苦しげに額に手をやった。寒さで傷が痛むであろう右手は、がたがたと震えていた。

「確かに、私はおまえを復讐の道具に使った。心も魂も捨てて、復讐を遂げるつもりだった。だが……、捨て切れなかった……!」

「……どうして」

「……おまえが、ケイナ様の娘だからだ」

 母の名にキリエは目を見開いた。

「彼女は、私の幼馴染だ……。彼女も、結婚という幸せを王から奪われ、若くして亡くなった」

 キリエの脳裏に、グローリア城で見かけた母の絵が浮かび上がる。寂しげに微笑んだ母の胸には、どんな思いが秘められていたのだろう。

「……それだけではない」

 重く垂れ込めた黒い雲を見上げ、ジュビリーは呟いた。

「おまえは、異母兄を殺した私に怯えながらも、私に頼ることしかできなかった。……おまえに恐ろしい真実を知らせ、深い傷を負わせ、絶望させた私しか」

 ジュビリーの苦しげな囁きに、キリエは無言で顔を横に振る。

「なのにおまえは、私に心を開いた。私に歩み寄った。……私の傷を、癒した」

「……ジュビリー……」

「身勝手な復讐の犠牲のはずの、おまえは、私を――」

「もういいわ!」

 キリエはジュビリーにすがりついた。彼も思わず抱きしめた。ジュビリーの腕に抱かれ、キリエは言葉にできない感情がこみ上げてきた。ジュビリーの大きな手がゆっくり肩と背を撫でる。やはり、この手だ。この手でなければ……。彼でなければ……!

「ジュビリー……」

「私は、おまえを何度も傷つけた。嫌がるおまえを女王にし、挙げ句の果てには、望まぬ結婚まで……」

「もう言わないで……!」

 キリエは細い腕で抱きしめた。やがて、彼女は震える唇を耳元に寄せた。

「……ジュビリー。右腕を、見せて……」

 ジュビリーは顔を歪めた。

「……お願い……」

 彼女の囁きにジュビリーはそっと体を離し、右腕の袖をゆっくり引く。冷たい外気に触れると、指先から肘にかけて鈍い痛みが走る。逞しい腕に、赤く抉れた傷が生々しく残されていた。キリエは恐る恐る両手で腕を包み込む。この手が、自分を救った。自分と……、夫を。彼女は愛しげに腕を撫でると、顔を寄せ、傷痕に唇を押し当てた。ジュビリーは震える左手でキリエの髪を掻き揚げると、彼女の白い項に唇を押しつけた。

 二人の肩越しに、黒い雲を赤く染める朝日が覗く。朝焼けの炎。赤、青、黒の彩りが音もなく広がってゆく。


 二人が息を殺して塔の階段を降りると、昇り口に二人の男が辺りに目を光らせながら佇んでいた。

「……レスター」

 老臣と秘書官は黙って頭を下げた。モーティマーが前に進み出る。

「陛下、お部屋までお送りいたします」

「……ありがとう」

 キリエはジュビリーとレスターに微笑みかけると背を向けた。

「キリエ」

 ジュビリーの呼びかけに振り返る。彼は懐に手を入れると、そっと深緑色の祈祷書を出して見せた。キリエの顔に嬉しそうな笑みが広がる。彼女は黙って頷くと、モーティマーと共にその場を後にした。

 後宮の暗い廊下を急ぎ足で行く二人。モーティマーがそっと囁く。

「……ギョーム王はまだお戻りになっておりません。ですが、もうしばらくすれば……」

「ありがとう、サー・ロバート」

「お風邪をこじらせぬよう」

 モーティマーはどこまで事情を知っているのだろう。エドガーがエレオノールを襲った事件は知っている彼だ。ジュビリーが王太子に手をかけたことも薄々感づいているのかもしれない。だが、これまで通りあれこれ詮索はしないだろう。彼には、それだけの信頼があった。

 寝室に戻るとモーティマーは辺りに目を配りながら帰っていった。キリエはガウンとコートをしまうと夜具に潜り込んだ。体にジュビリーの手の感触が残っていた。だが、ついさっきまではこの夜具でギョームと共に眠りについていたのだ。心が乱れる。キリエは、肩を抱くとぎゅっと目を閉じた。


 その頃、私室に戻ったジュビリーに、レスターは温めた酒を用意していた。

「傷が痛むでしょう」

 ジュビリーは眉をひそめて右腕に目を落とした。そう言えば、あれから痛みがない。冬になってから絶え間ない鈍痛に悩まされていたのに、キリエが口付けを落としてからは痛みを感じない。

「……いつからです」

 杯を手渡しながらレスターが尋ねた。

「いつから、キリエ様を……」

「……わからん」

 それは正直な気持ちだった。いつの間にか惹かれていった。だが確実に、強烈に心を乱され、そして奪われた。

「マリー様からご相談を受けたのは、戴冠式の後でした」

 老臣の言葉に目を上げる。彼はわずかに険しい表情で続けた。

「キリエ様のご様子がおかしいと。ひょっとすると……、恋に目覚めたのではないかと」

 さすがだな。ジュビリーは溜息をついた。

「ギョーム王との婚約が決まった時……、マリー様は泣いていらっしゃいました」

「……泣いた?」

 わずかに狼狽しながらジュビリーは聞き返した。

「キリエ様に、恋をしてもらいたかった。そして兄上にも、もう一度恋をしてもらいたかった、と」

 ジュビリーは狼狽えて視線を彷徨わせた。レスターは体を屈めて囁いた。

「だから私は申し上げたのです。後悔なさらないご決断をと。ですが、あれでは……、あれでは後悔しないどころか……」

 ジュビリーは顔を強張らせ、目を逸らした。

「……見ていたのか」

 クレド城の礼拝堂。明かりが漏れる扉からそっと中を窺うと、そこには声を押し殺して抱き合い、口付けを交わす女王と宰相の姿があった。その光景を目にした時から、レスターは不吉な予感に胸を支配され続けていた。

「……あのまま、駆け落ちでもなさるのかと」

「馬鹿な……」

 動揺を押し隠しながらジュビリーは呻くように呟いた。

「ご結婚は……、避けるべきだったかもしれませぬ。もちろん、もう後には引けませぬが」

「……私は」

 レスターは目を細めて黒衣の宰相を見つめた。

「どうせキリエを結婚させるなら、……幸せにしてやりたかった」

 一度口をつぐみ、低い声で言葉を継ぐ。

「ベル・フォン・ユヴェーレンや、マーガレット・オブ・アングルのような不幸な結婚はさせたくなかった。キリエを心から求める男と……、結婚させてやりたかった」

「だから……! このような悲劇が起こったのではありませんか!」

 思わず声を上げたレスターをジュビリーが無言で見返す。老臣は俯くと「申し訳ございません」と詫びる。

「……おまえのせいではない」

「侯爵……」

「おまえにとって、キリエは孫のようなものだからな」

 悲劇か……。悲劇に違いない。キリエは初めての恋がこんな形で終止符を打たれ、意に染まぬ結婚を強いられた。ギョームにとっても悲劇だ。結婚した妻が心を開かず、体を許さないのであれば……。

「……これから厳しい状況が続く」

「はっ」

「キリエとギョームの確執は、アングルとガリアの軋轢に繋がる。二人はまだ互いを尊重し合っているが、私のせいで余計な緊張が生じた。苦労をかけるが……、これからも頼む」

「はい」

 レスターは頭を下げた。ジュビリーはぬるくなった酒を飲み干すと静かに立ち上がった。そこで、レスターが神妙そうな顔つきで身を乗り出した。

「侯爵……。私事で恐縮ですが、少々ご相談したいことが……」

「どうした」

 レスターは複雑な面持ちで呟いた。

「……モーティマーのことで」

 ジュビリーは眉をひそめた。


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