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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第4話

新年を祝う晩餐。美しく成長したキリエに動揺を隠せないジュビリー、そして、その二人を襲う陰謀。

 ジュビリーがそんな思いを抱えているとは知らず、キリエは夫の側で控えめに微笑んでいる。だが、そのうちに彼女の目の瞬きが多くなったことにジュビリーは気づいた。今回の祝宴では、ギョームが手土産に持ち込んだバーガンディ産のワインが振舞われていた。アングルの祝宴ではアルコールに弱いキリエのために果汁を用意していたが、ギョームの手前、こっそり果汁を飲ませるわけにもいかない。

「……酔い始めたな」

 宰相の呟きに、モーティマーが身を乗り出す。

「ガリアに行かれてから、少しはお強くなられたのですが……」

「元が弱いのだ。当てにはならん」

 やがて貴族たちの挨拶がひとしきり落ち着くと、ギョームはキリエとバラを連れてジュビリーたちの元へやってきた。

「皆、女王の帰国に喜んでいるな」

「お元気なお姿を拝見できたことで皆、安心したのでございましょう」

「それも、そなたがアングルでキリエの留守を預かってくれているおかげだ。改めて感謝するぞ」

「もったいないお言葉……」

 どこかいつも以上に固い表情で頭を下げるジュビリーに、キリエはかすかに首を傾げた。レスターに視線を送ると、老臣も心配そうに眉をひそめてみせる。

「キリエのためにもう一度乾杯しよう」

 ギョームはそういうとゴブレットを上げた。

「女王に」

「女王陛下に」

 一同が乾杯すると、ゴブレットを傾ける。が、ジュビリーは杯に軽く口をつけただけだった。目ざとくそれに気づいたバラが声をかける。

「どうなされた、クレド侯」

 ジュビリーは恐縮した様子で頭を下げる。

「申し訳ございません。最近、酔いが回りやすいので少々控えております」

 実際、執務に忙殺されるようになってからは自分の体のことも考え、元々あまり飲まないながらもジュビリーは酒を止めていた。だが、ガリアの宰相は追及をやめない。

「残念ですな。せっかく陛下がバーガンディから取り寄せた名産のワインですぞ」

「よせ、バラ。無理強いでは土産にならぬ」

 ギョームがやんわりとたしなめるものの、バラは鋭い視線をジュビリーに向けた。

「確かに、お独りでは夜の御酒も美味しくいただけないでしょうな」

 暗に再婚を勧めてくるバラに、ジュビリーはさすがに顔を引きつらせた。思わず黙り込んで相手を見据える。バラの灰色の瞳には、明らかに反発と侮蔑の色が浮かんでいる。が、バラは気づいていなかった。主君の側に佇む王妃が表情を変えたことに。

 この男、本性を現し始めた。キリエの胸にくすぶっていた、バラに対する不満に火がつく。ジュビリーに再婚を勧めることが心底許せないキリエは酒が入ったこともあり、怒りを抑えられなかった。

「では、私が代わりにいただくわ」

 不意にそう声を上げると、ジュビリーのゴブレットを取り上げる。

「王妃……!」

 皆が驚く中、女王はなみなみとワインが満たされたゴブレットに口をつけると一気に仰ぐ。バラが真っ青になって王を振り返る。宰相が口をつけた杯を王妃が……! 当のジュビリーも体を硬直させ、息を呑んでいる。皆が固唾を呑んで見守る中、キリエはようやくゴブレットから顔を上げた。紅を引いた唇が燭台に照らされ、濡れ光る。頬はワインと同じぐらい紅潮している。ギョームは顔を強張らせると、妻が飲み干したゴブレットを取り上げた。

「よせ、キリエ。飲めもしないのに……!」

「でも、だって」

 幼い口調に皆の胸がひやりとする。

「せっかくの、バーガンディ産ワインだもの。もったいないわ。ねぇ、アンジェ侯?」

 呂律が回らない言葉。先ほどから酔いが回り始めているのだ。これは危険な兆候だった。

「お許し下さい、王妃。言葉が過ぎました」

 バラは青ざめた顔つきのまま頭を下げる。

「……申し訳ございません」

 ジュビリーも固い表情で頭を垂れる。そして、恐る恐るキリエに目を向けるが、本人は嬉しそうににっこりと笑いかけてくる。まずい、完全に酔っている。ジュビリーはますます青くなった。その時、

「キリエ」

 名を呼ばれ、振り返った途端にキリエは喜びの声を上げた。

「兄上!」

 そこには白い祭礼服に身を包んだ一行が佇んでいた。中央には目を閉ざした司教の姿がある。子どものようにはしゃいで兄に抱きつくキリエを、ギョームが穏やかな表情で見守る。が、その瞳は落ち着きを失っていた。

「兄上、兄上、来て下さったの!」

「キリエ? あなた酔っていますね」

 ヒースが顔をしかめながら妹の背を撫でる。

「ううん、酔ってなんかないわ」

 とは言え、明らかに言葉がたどたどしい。ヒースは心配そうに眉をひそめた。そんな彼の耳元に別の声が呼びかけられる。

「お元気そうで何よりです、義兄上」

「ギョーム王陛下。新年おめでとうございます」

 ギョームの声にヒースは少しほっとした様子で顔を上げる。ギョームが側にいれば妹も安心だ。

「お変わりございませんか。大陸の冬は厳しいでしょう」

「キリエが少し風邪をひきました。アングルに滞在している間に治してもらわねばなりません」

 義理の兄と和やかに会話を交わすうち、再びガリア王の周りにはアングルの貴族たちが集う。そんな夫を見守っていたキリエが、足を一歩前に出そうとしてぐらりとよろめく。

「陛下!」

 咄嗟にジュビリーが手を取る。

「だ、大丈夫」

 キリエは強張った笑顔で呟くが、顔色が良くない。ジュビリーはキリエを近くのテーブルまで移動させると椅子に腰を下ろさせた。

「女王陛下」

 ギョームの側に控えていたルイーズが慌ててやってくる。

「……そろそろお休みになられた方が良いかもしれない」

 ジュビリーの呟きにルイーズは頷くと女官を手招く。

「浴室と寝室を整えておくように。それと、侍医もお呼びしておかないと……」

「畏まりました」

 ルイーズが女官を伴って立ち去ってゆく姿を見送るキリエに、ジュビリーが鋭い目を向ける。

「馬鹿な真似を」

 思わず呟いたジュビリーにキリエは口を尖らせた。

「私、アンジェ侯が嫌いだわ」

 顔をしかめるジュビリーに構わず、今まで溜め込んでいた不満を吐き出す。

「本当に、嫌な人……! 陰険で、何を考えているかわからない……! さ、さっきだって、あなたのこと」

「わかったから少し落ち着け」

 ジュビリーの囁きにキリエは口をつぐんだ。その耳元に口を寄せて言い聞かせる。

「言いたいことはわかる。だが、立場を考えろ。おまえは……」

「ガリア王妃? それとも、アングル女王?」

 胸を刺す言葉にジュビリーは目を眇め、沈んだ表情のキリエを見つめた。

「私、女王でも、王妃でもないわ。私は……」

 キリエの寂しそうな声にジュビリーは目を伏せた。

「……わかっている」

 ジュビリーの呟きに、キリエはほんの少し嬉しそうに微笑んだ。思えば、こうして二人で言葉を交わすのはずいぶん久しぶりのことだった。

「……ねぇ、ジュビリー」

 キリエはぼんやりと囁いた。目に映る宴は水中の出来事のように滲んでいる。

「……キリエって呼んで。……お願い」

 ジュビリーはわずかに眉をひそめ、キリエの横顔を見つめた。王妃として美しく成長しながらも、その瞳には孤独の色が見てとれる。自分の手が届かない場所で必死に生き延びようとしているのだ。ジュビリーはそっと腰を屈めると、キリエの耳に唇を寄せた。

「……キリエ……」

 その一声に、キリエは満ち足りた表情で瞳を閉じた。そして、そっと手を上げるとテーブルの下で彼の手を握り締めた。ジュビリーも、胸が締め付けられる思いで指を絡めた。いつぶりだろう、彼の大きな手に触れるのは。この時間が永遠に続けば良いのに。

 だが、その一瞬の光景を目にした者がいた。

(王妃……!)

 二人の様子を目の当たりにしたジゼル・ヴィリエは息を呑んで凝視した。気分が悪そうな王妃に気がつき、声をかけに行こうとして偶然その場に遭遇したのだ。ジゼルは顔を伏せると逃げるようにしてその場を離れた。

 ちょうどその時、妻の姿が見えないことに気づいたギョームが声を上げる。

「キリエ? キリエ!」

「ギョーム」

 席を立ったキリエが慌てて夫の側へ駆け寄る。酔いのせいか、それとも風邪のせいか頭が軽く疼く。

「大丈夫か、キリエ」

 戻ってきた妻にギョームが心配そうに声をかける。

「……やっぱり、ちょっと酔ったみたい」

 ギョームは顔をしかめ、妻の手を強く握り締めると耳元で囁く。

「勝手に側を離れるな」

「……ごめんなさい」

 ヒースが心配そうな顔つきで囁く。

「キリエ、戴冠式でも倒れたでしょう。無理をして皆に迷惑をかけてはいけませんよ」

「気をつけます」

 女王と司教が言葉を交わす様子を眺めていたバラの背に、控えめな声で「アンジェ侯」と呼びかけられる。振り向くと、強張った顔つきのジゼルが立ち尽くしている。バラは驚くと同時に顔をしかめ、目で下がるよう命じた。が、ジゼルはなおも囁いた。

「お伝えしたいことが……!」

 愛人のただならぬ様子に眉をひそめたバラは、そっとその場から離れると大広間の隅へ向かう。ジゼルは爪先立つと愛人の耳元で要点だけを囁いた。バラの顔色が変わる。そして、眉間に皴を寄せた表情でキリエを凝視する。事を告げると、ジゼルは身を翻してその場から立ち去った。やがてバラは何食わぬ顔で王の側へと戻っていった。だが、その胸中は穏やかではなかった。

(王妃とクレド侯が……、手を握り合っていた……?)

 ちらりとジュビリーの様子を窺うが、アングルの宰相は相変わらず無表情で女王とその王配を見守っている。キリエの方は眠そうに目をこすりながら夫の側で立ち尽くしている。

(……幼子のように、あどけない顔をしておきながら)

 バラの口許に人知れず笑みが浮かぶ。

 最も知られたくない相手に秘密を握られたことも知らず、夫を見つめていたキリエだったが、急に胸がむかつき始めた。胸元に手をやり、忙しなく早くなる呼吸を鎮めようとする。酔いが回ったのだろうか。キリエがジゼルの姿を探そうと頭を巡らした時。強烈な目眩に襲われてギョームの腕にすがりつく。

「キリエ?」

 その場にどよめきが起こる。キリエは必死に足を踏ん張ったが、やがて耐え切れずに膝を突く。

「大丈夫か、キリエッ」

 耳元で夫の声がする。だが、周りの声も音楽もキリエの耳からはだんだんと遠ざかっていく。返事がない妻を抱き上げると、ギョームは大廊下に向かった。

「陛下! 我々が……」

 側近たちが慌ててキリエを受け取り、両脇から支える。

「キリエ?」

 状況がわからないヒースが不安げな声を漏らし、レスターがそっと囁く。

「急に眠気に襲われたようでございます」

「また……?」

「女王として、王妃として、務めを果たそうとご無理をなさっておいでですから……」

 ヒースは心配そうに眉をひそめ、周りのざわめきに耳をそばだてた。

 女王が寝室に引き下がったため、祝宴はしばらくしてお開きとなった。そのまま浴室へ向かうつもりだったギョームにバラが呼びかける。

「陛下、お休み前に少々よろしいでしょうか」

「何だ」

 ギョームは不機嫌そうに言い放った。

「……大事なお話がございます」

 険しい顔つきの宰相に、ギョームは眉をひそめた。そして、疲れた体をやや引きずるようにして客間へ向かう。

「陛下、落ち着いてお聞き下さいませ」

 強気な態度ながらもどこか不安げな瞳で見上げてくる若い王に、バラはゆっくりと告げた。

「王妃が……、人目を憚りながら、クレド侯と手を握り合っていたそうです」

 一瞬、ギョームの目が大きく開かれる。バラは鋭い視線で王を見つめた。

「陛下」

「……見間違いだ」

 吐き捨てるように呟き、顔を背けるギョームにバラが食い下がる。

「陛下! いつまでお目を逸らすおつもりですか! 陛下もご覧になられたでしょう。王妃が、クレド侯の杯を……!」

「やめろッ!」

 ギョームは顔を歪めて怒鳴り返すが、バラはなおも迫った。

「ジゼル・ヴィリエが目撃しました。王妃とクレド侯が手を握り合っていたと……」

 ジゼルの名を耳にしたギョームはますます激昂した。

「貴様の愛人の言うことなど、信用できるかッ!」

「陛下!」

 苛立たしげに頭を振り、背を向けるギョームにバラは耳元で囁く。

「冷静に、よくお考え下さいませ。クレド侯は確かに王妃の後見人として支えてきたお人です。ですが……、お二人の親密さは異常です!」

「黙れ!」

 若い王は叫ぶと当てもなく部屋を歩き回った。

 ギョームは、初めてキリエとジュビリーに出会った日のことを思い出した。キリエの穢れなき天使のごとき瞳に心を奪われたが、その瞳は常に黒衣の寵臣に向けられていたことに、彼は気づいていた。何をするにしても常にジュビリーの指示を仰ぎ、ジュビリーと相談し、ジュビリーの助言を優先してきたキリエ。王妃になってからはアングルを離れ、彼の管理下からも離れた。だが、その心の目はいつも遠いアングルに向けられていたことも、ギョームは気づきつつもそれを認めようとはしなかった。

 自分はキリエを愛している。出来うる限りの表現で愛情を示している。修道女としての倫理観や羞恥心に阻まれながら、キリエも自分の愛に応えようと必死に努力していることは肌で感じてきた。だが……。

 苦しげに瞳を閉じると、脳裏にキリエの笑顔が浮かぶ。自分のために薬草で軟膏を作り、足首に摺りこんでくれたあの夜が思い出される。彼女が自分を労わってくれることがこの上なく嬉しかった。夢にまでみた温かなひと時。母が願いながらも叶えることができなかった、睦まじい夫婦の形。自分はそれを叶えたはずだった。なのに、それを壊されようとしている!

「……今夜は予も疲れた」

 怒りを抑えながらギョームは呟いた。

「もう休む。このことは誰にも言うな。事実がわかるまでは、誰にも」

「陛下」

「キリエに悟られるな」

 ギョームは短く言葉を投げつけると扉を開け放ち、客間を出て行った。

 客間に一人取り残されたバラは長い吐息をついた。口許に手をやり、口髭を撫でる。様々な考えが浮かんでは消え、眉間の皺が深く刻まれる。と、物音に気づいて顔を上げる。

「……アルマンド様」

 扉の隙間から細い声が呼びかけられる。バラは扉を開くとジゼルの手を引き、後ろ手で扉を閉める。

「陛下のご様子は……?」

「動揺なさっておられる」

 愛人の言葉にジゼルは落ち着かない表情で視線を彷徨わせる。

「間違いないのだろうな。王妃とクレド侯が手を握り合っていたのは」

「間違いないわ。王妃は……」

 ジゼルは思わず胸元に手をやると目を閉じた。

「幸せそうだったわ。あんなに満ち足りたお顔は、見たことがない……」

 せつなげに息をつくジゼルの肩を抱くと、バラは低く呟いた。

「……もう一押しだ。クレド侯の足元は今や奈落の一歩手前だ」

 肩を愛おしげに撫でる手がやがて首筋を這う。

「おまえの力を貸してくれ」


 入浴の前にギョームはルイーズを呼びつけた。

「ルイーズ、キリエは?」

「お休みになられています」

 ルイーズは声をひそめた。

「年末から執務でかなりご多忙でございましたし、お風邪も召されていたので……」

 あのルイーズが認めるほどだから、かなり仕事に追い込まれていたに違いない。ギョームは痛ましげに目を細めた。

「熱がおありのようです。……寝室を別になさいますか」

「いや、いい」

 ギョームはそれだけ呟くと、浴室へと向かった。

入浴を済ませてから寝室に戻ると、酒の匂いを消すために香が焚かれていた。薄暗い寝室の中央、大きな寝台にキリエが静かに横たわっている。ギョームは音も立てずに寝台に上がると、キリエの寝顔を覗き込んだ。熱のせいかわずかに苦しそうな表情で口を少し開け、眠りについている。ギョームは、枕元に投げ出された妻の手を握った。

「……ん……」

 キリエの口から小さな声が上がる。ギョームは顔を寄せるとそっと囁いた。

「……キリエ……、わかるか? 私がわかるか? キリエ……」

 その呼びかけに眉をひそめ、顔をわずかに動かす。そして、手の感触を確かめるように弱々しく握り返す。

「……キリエ……」

 ギョームがもう一度名を呼んだ時。キリエの口が動く。

「…………ギョーム…………」

 一瞬、胸が圧迫されて息を止める。そして、安心したように重い溜息を震えながら吐き出す。が、返事がないことに不安そうに顔をしかめ、キリエは目を閉じたまま譫言のように呟く。

「……違うの……? ……ギョーム……?」

 ギョームは慌てて妻の頬を撫でた。

「私だ、ギョームだ。すまん、休んでくれ」

 キリエはまだ眉をひそめていたが、やがて寝息を立て始めた。包み込んだ頬が熱い。確かに熱がある。キリエは、熱にうなされながらも自分を認識した。そのことにギョームは深い安堵感を覚えた。だが、疑念が晴れたわけではない。ギョームはじっと妻を見つめ、呟いた。

「……そなたは私のものだ。誰にも渡さぬ。……誰にも……」

 そして、そうっと顔を寄せると唇を重ねた。


 その頃、祝宴の最中の様子が気がかりだったレスターはジュビリーの部屋へと向かっていた。

「……侯爵」

 扉を叩いても返事がない。もう一度呼びかけると、低い声で「入れ」と返事が聞こえる。そっと扉を開くと、ジュビリーは椅子にもたれて座り込み、ワインを煽っているところだった。

「侯爵」

 テーブルに置かれたワインの瓶は半分以上空けられている。レスターは眉をひそめた。

「お体に触りますぞ」

 元々あまり飲まないジュビリーにとって、この量は多い。だが、ジュビリーは瓶を傾けると杯を満たす。

「……おまえたちが言っていた通りだ」

 ジュビリーは低く呟いた。明かりに照らされた顔には険しい皴が刻み込まれている。

「キリエは……、綺麗になった。大人になった。ギョームが……、女にしたのだ」

「侯爵」

 ゴブレットに口を付けようとした手をレスターがそっと押さえるとテーブルに戻す。ジュビリーは顔を歪めると溜息を吐き出した。

「……結婚してよかったのだ。結婚して、綺麗になった……。ギョームの妻になって……、幸せになった」

 わずかに呂律が回っていないジュビリーにレスターが顔をしかめる。

「アングルを去ったからだ。キリエは、アングルを忘れたのだ。アングルにいる者のことなど、全部、忘れて幸せになった……!」

「侯爵!」

 太い声と共に肩を掴まれ、ジュビリーはびくりと体を震わせた。老臣はまっすぐに目を凝視してきた。

「今のお言葉……、キリエ様には口が裂けても仰らぬよう!」

 レスターの怒りとも同情ともつかぬ瞳に見つめられ、ジュビリーは力なく肩を落とした。レスターは幾分穏やかな声で語りかけた。

「……寂しいお気持ちはわかります。ですが、それはキリエ様もご一緒のはず。今夜のキリエ様のはしゃぎ様、ご覧になられたでしょう。酒の席は苦手でいらっしゃるのに、あのように楽しそうに……。アングルに帰ってこられたから、そして、あなたにお会いできたからでございますよ」

 ジュビリーは黙ってワインの瓶を見つめた。レスターは宰相の肩から手を離すと顔を上げ、遠くを見るような目つきで呟いた。

「キリエ様は、母君と似た人生を歩んでいらっしゃいますな。お二人とも、王に愛された。ですが、真に愛しておられたのは……」

「……やめてくれ」

 ジュビリーは目を閉じると苦しげに呻いた。レスターは気の毒そうに目を向ける。

「……侯爵もご存知だったのでしょう? レディ・ケイナが、本当はあなたとのご結婚をお望みだったことを」

 レスターの言葉に、ジュビリーの脳裏に若かりし頃の光景が浮かんだ。

 グローリア城の貴婦人。明るく朗らかで、いつでも自分を歓迎してくれたレディ・ケイナ。成長するたびに、美しくなるたびに、キリエは母親に似てきた。つぶらなアーモンド型の瞳。柔らかな栗毛。寂しげな微笑み。ジュビリーは苦しげに囁いた。

「……知らなかったのだ。ケイナ様が、私をそんな目で見ていたとは……」

 ジュビリーは幼い頃に両親を相次いで失った。先に母を。そして父を。彼は十二歳で伯爵家を継いだ。妹のマリーエレンに至ってはまだ七歳という幼さだった。幼い頃から非凡な才能を発揮していたジュビリーだったが、あまりの幼さに心配した父の親友、ベネディクト・アッサーが後見人となり、事ある毎に城に兄妹を招いた。その時、父と共にもてなしたのが、娘のケイナ・アッサーだ。

 ジュビリーよりも三歳年上のケイナは一人っ子だったということもあり、幼いバートランド兄妹を温かく迎え入れた。特に、母を恋しがっていたマリーエレンはケイナを姉のように、母のように慕った。伯爵家を守り、盛り立てていかねばならないという自覚と気概で張り詰めた日々を送っていたジュビリーも、穏やかなグローリア城で落ち着きを取り戻していった。ジュビリーはベネディクトから領主としてあるべき姿を学び、若いながら領民に愛され、王から一目置かれる存在として成長していくことになる。

 そして十八歳で成人し、正式に伯爵位を継承した頃。クレド城に騎士見習いとしてやってきたのが、当時十歳のジョン・トゥリーだった。どこか頼りなく、大人しい少年だったが生真面目で、槍を持たせるとたちまち頭角を現した。ジュビリーは大勢の小姓の中でも内気な少年ジョンを特に熱心に指導した。

 そんな中、ジョンは馬術の修練中に落馬するという事故を起こす。その彼を看病しにやってきたのが、姉のエレオノールだった。

 彼女は奇しくもキリエが教会を出た年齢と同じ十三歳だったが、明るさと落ち着きを併せ持った不思議な少女だった。ジュビリーが静かな時は明るく振舞い、ジュビリーが饒舌だと黙って耳を傾けてくれた。その関係が彼にとっては心地よく、胸から離れることのない存在となった。ジュビリーは間もなく求婚した。当惑するトゥリー家の当主ギルフォード子爵を説得し、どうにか婚約に漕ぎ着けた。エレオノールが成人するまでの、五年間の婚約。二人にとって、それは重い決断だった。だが、それでもジュビリーは婚約できたことが嬉しかった。

 婚約が成立すると、ジュビリーはベネディクトに報告するべくグローリアを訪れた。堅物で奥手なジュビリーが早々と求婚を成功させたことにベネディクトは驚いた。そして、寂しげにこう告げた。

「ケイナが一人娘でなければ、そなたにやりたかった。娘も、それを願っていた」

 その時初めて、ジュビリーは姉のように慕っていたケイナの思いを知って驚愕した。だが、もっと愕然としたのはベネディクトがその後に続けた言葉だった。

「ケイナは宮廷に出仕することが決まった。……王に奉仕するためだ」

 それは、王の愛人になることを意味する。ジュビリーは取り乱し、何故そんなことになったのか問い詰めた。

「先月、宮廷に出向いた時に見初められた。ケイナがグローリア伯爵家の女相続人であることを理由に断ったが、それを受け入れるようなお方ではない。……イングレスに娘を連れて行った私が悪いのだ」

 王の愛人、それもお気に入りの寵姫となれば簡単に手放すはずもなく、ケイナ本人は他の男性との結婚が許されなかった。そのため、生まれた子どもにアッサー家を継ぐ権利が与えられるという契約の下、ケイナはグローリアを去っていった。

 その後ジュビリーは若くしてプレセア宮殿に出仕し、エレオノールと共にホワイト離宮を訪れてケイナと再会を果たしている。ケイナはジュビリーの婚約を喜んでくれた。その時、彼女が胸に抱いていたのが生まれたばかりのキリエだった。だが、ジュビリーたちが結婚する前年に、ケイナは病でその短い人生を終えた。

 実はその時、ジュビリーはキリエを自分たちの養女として引き取りたいとベネディクトに申し出ていた。だが、キリエをできるだけ王宮から遠ざけたかったベネディクトは娘の遺言通り、孫を教会へと預けたのだった。

 その三年後だ。ジュビリーが愛したエレオノールは王に襲われ、身篭った子と共に死んだ。絶望に打ちひしがれた彼の脳裏に浮かんだのは、ケイナが胸に抱いていたキリエだった。思えばエドガーはエレオノールだけでなく、姉のように慕っていたケイナまで奪った。怒りに燃えたジュビリーは、キリエを利用して復讐を果たすことを決めた。それが、結果的にケイナの娘を数奇な運命に翻弄することになった……。

 ジュビリーの脳裏に、ロンディニウム教会に迎えに行った日の光景が蘇る。本当は、あれが初めての出会いではなかった。生まれたばかりの乳飲み子だったキリエ。母親に頬を撫でられ、無邪気に笑い声を上げていた。その笑顔に、自分もエレオノールも幸せな気持ちになった。思えば、あれから十三年の月日が経っていた。

 何も知らされず、親の存在も知らされずに育ったキリエ。確かに、復讐の道具に過ぎなかった。だが……。自分を恐れながらも寄り添い、少しずつ距離を縮めてきたキリエは、いつのまにか自分の傷を癒した。いつしか復讐の道具ではなく、彼女は生きるための希望となった。自分に心を開き、明るく笑いかけてきたキリエが、ケイナの顔と重なって見えた。

「ケイナ様とベネディクトに、合わせる顔がない……!」

 テーブルに突っ伏し、悔しげに囁くジュビリーをレスターは悲痛な面持ちで見守った。だが、そんなジュビリーとキリエに、更なる試練が待ち受けていた


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