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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第3話

新年を祖国で迎えるため、夫ギョームと共に帰郷するキリエ。だが、彼らを不穏な空気が出迎える。

 年末の足音が近づき始めた頃、里帰りする女王に先立ってモーティマーがアングルに帰国した。ガリア国内の動向や、キリエとギョームの様子などを知らされたジュビリーは相変わらず険しい表情で考え込む。レスターが控えめに口を開いた。

「……ご生誕日の祝宴にご参加できませんでしたからな。侯爵はホワイトピークまでお出迎えになられた方がよろしいでしょう」

 ガリアから帰国したウィリアムから、自分が訪問しなかったことにキリエが機嫌を損ねたことを聞かされたジュビリーは、ガリアに行かなくてよかったと改めて感じていた。ギョームにとっては、目の前に自分がいるのといないのでは、大きな違いがあったに違いない。

「侯爵にとっては、三ヶ月ぶりになりますな」

 老臣の言葉にもジュビリーは沈黙を続けた。モーティマーは宰相をじっと見つめると、おずおずと呟いた。

「……クレド侯」

 椅子にもたれかけて座り込んだジュビリーは上目遣いで秘書官を見つめた。彼はどこか気の毒そうな目で言葉を続けた。

「陛下は……、お綺麗になられました」

 モーティマーの言葉にジュビリーが眉間の皺を深めた。レスターも隣で頷く。

「……左様。美しゅうなられました」

 ジュビリーは黙ったまま、小さく頷いた。


 十二月の下旬、キリエとギョームはアングルに向けて出発した。妊娠五ヶ月のマリーエレンは不測の事態を考慮し、ガリアに留まった。ジョンはキリエに同行を申し出たが、異国でマリーを一人きりにさせたくなかったキリエはそれを断った。

「あなたも、マリーの側にいたいでしょう?」

 キリエの言葉に、ジョンは申し訳なさそうに頷いた。

 オイールを出発して二日後。やっとルファーンで船に乗り込んだキリエは厚手のコートを羽織り、白い息でかじかむ手を温めた。寒さに体を縮こませながらも、嬉しそうにアングルの方角を眺める。今回の帰国では新年の祝宴と、アングルにおける女王の王配の正式なお披露目も予定されていた。ギョームはともかく、キリエは数ヶ月の滞在が許されている。ルイーズの監視の目が光っているとはいえ、アングルに戻れるだけでずいぶんと気分がよかった。

「楽しみだな」

 隣にやってきたギョームが優しく声をかけてくる。キリエは嬉しそうに頷く。

「もう少しでホワイトピークが見えてくるわ」

 妻の弾んだ声にギョームも穏やかな表情になる。そこで、キリエの顔が不意に歪んだかと思うとくしゃみをする。

「大丈夫か、風邪をひいてはならん」

 そう言ってギョームは妻を抱き寄せた。彼の温もりにキリエの表情がゆるむ。

「去年の戴冠式で訪れた時もイングレスは寒かった。今回はもっと寒いであろうな」

 その言葉にキリエが顔を上げる。冷たい潮風に目を細める夫にふっと微笑を浮かべると、コートの袂に手を忍ばせる。

「……ギョーム、実はあなたに贈り物があるの」

「うん?」

 妻の突然の言葉にギョームは目を丸くする。キリエは袂から小さな瓶を取り出した。分厚いガラス瓶にコルクの栓が閉められ、薄紫のリボンが結ばれている。

「あなたがくれた薬草園で採れた薬草で作った軟膏よ」

 目を輝かせて囁くキリエに、ギョームは驚きの表情で小瓶を手に取る。中には薄黄色の軟膏がたっぷり入っている。

「何に使うのだ?」

「捻挫の痕」

 思わず妻を振り返る。キリエは、少しだけ寂しげな表情で言葉を続けた。

「……痛いのでしょう? 寒くなってから、あなた時々足を引きずっているもの」

 そうだ。キリエに求婚するためにアングルを訪れた時、賊に襲われて足首を痛めた。晩秋に入ってから時々疼くような痛みに不快な思いをしていたが、妻はそれに気づいていたのか。そう思うと自然と笑みがこぼれる。

「ありがとう、キリエ……!」

 ギョームは喜びを滲ませた声で囁くとキリエを抱き締めた。夫に喜んでもらえた。そう思うとキリエの顔にも安堵の表情が広がる。

「良かった……」

「早速使わせてもらおう。おかげでこの冬は乗り切れる」

 そして顔を上げると、船縁越しに見えてきたホワイトピークの島影を眺める。

「今回の滞在が楽しみだ」

「ええ」

 だが、二人にとってこの帰国が運命の分岐点になるとは、この時まだ知る由もなかった。


 真綿のように柔らかくも重い霧が立ちこめ、幻想的に浮かび上がるホワイトピークに、女王の船団が到着した。内陸のオイールに比べると暖流に囲まれたアングルは全体的に湿っぽく、それが冷やされると凍てつく寒気となる。

「霧がすごいな」

 思いの外深い霧にギョームが驚いた様子で呟く。一方のルイーズは顔をしかめた。ホワイトピークは軍港でもあり、殺風景で物々しい雰囲気だったためだ。やがて、降り立ったガリアの一行をウィリアムやレスターらが出迎える。

「ギョーム王陛下、キリエ王妃。ご無事の到着、何よりでございます」

「ホワイトピーク公、ここはアングルです。キリエのことは女王とお呼び下さい」

 ギョームの申し出に、ウィリアムが少し困惑気味にキリエに視線を投げかける。

「ありがとう、ギョーム。でも、私はあなたの妻だから……」

「だが、アングルの君主だ」

 ガリア王は機嫌よさそうに妻の肩に手をかける。

一方、キリエの背後に控えていたジゼルはレスターの隣のモーティマーと目が合い、互いに気まずそうに会釈を交わした。

 結局、モーティマーはあの日ジゼルを部屋まで送り届けると、逃げるようにその場から立ち去った。我ながら意気地がないと思いながらも、ジゼルが醸し出す不吉な魅力に危険を感じ取ったのだ。

「……あのご婦人が」

 モーティマーの傍らでレスターがぼそりと呟く。

「新しい寝室付き女官であったな」

「はっ。グローリア伯夫人のご出産までの間でございます」

 老臣は目を眇めてガリアの美しい女官を眺めた。

「ところで、クレド侯は?」

 ギョームがそう尋ねた時、廷臣らの後ろから侍従を伴ったジュビリーが現れる。

「お出迎えが遅れ、申し訳ございません。ギョーム王陛下、キリエ王妃」

 恭しく跪く黒衣の宰相にギョームはにっこりと微笑んだ。

「体調はどうだ。良くなったかな」

「はっ。王妃のご生誕祝賀会の折は大変失礼いたしました。お蔭様で回復いたしました」

「キリエが心配していた」

 ジュビリーは顔を強張らせて顔を上げた。目の前のキリエは旅装に身を包み、確かに以前より垢抜けた顔立ちをしていた。だが、夫の言葉に動揺した表情で慌てて言葉を挟む。

「だって、クレド侯は私の代わりにアングルを守ってくれているんだもの。心配するのは当然だわ」

「そうだな。感謝しているぞ」

 ギョームの言葉にジュビリーは再び頭を下げた。キリエは小さく吐息をつくとジュビリーを見つめる。

「でも、元気そうで本当に安心したわ。ほら、来月は誕生日だし」

「それはめでたいな。何歳になる?」

「三六です。もう、あまりめでたくない歳になってまいりました」

「そんなことはないだろう。だが、再婚するなら早い方が良いぞ」

 再婚という言葉に、ジュビリーよりキリエが目の色を変えた。眉をひそめ、唇をぎゅっと引き結ぶ。彼女にしては敵意に近い瞳に、ジュビリーは落ち着くよう目で訴えた。そんな妻に気づかぬまま、ギョームは気安い表情でジュビリーの肩を叩く。

「今回の滞在が楽しみだ。世話になるぞ」

「はっ」

 キリエは顔を強張らせると夫と腕を組んで馬車へと向かった。やがて女王と王配を乗せた馬車が走り出し、隊列はホワイトピークを出発する。

(……なんて身勝手なんだろう……)

 キリエは馬車の窓からホワイトピークの街並みを眺めながら呟いた。自分は結婚しておきながら、ジュビリーには再婚してほしくないと願う。まだ彼への思いがくすぶっていることにキリエの胸は軋んだ。


 イングレス市民は女王と王配の帰国に総出で出迎えた。寒空の下、市民らのためにキリエは馬車の窓を開けて歓声に応えた。ガリアの若獅子王を一目見ようと集まった市民たちは、噂に違わぬ美しい金髪と端正な顔立ちのギョームにどよめいた。前回の訪問は反乱の鎮圧で物々しい空気に満ちていたが、今回は心置きなく歓迎できるとあって熱気に包まれている。ギョームも満足そうに手を振って歓声に応えた。

 プレセア宮殿に到着すると、セヴィル伯ら廷臣が出迎えた。

「王妃……! ずいぶんとお美しゅうなられましたな!」

 侍従長の言葉にキリエは困ったようにはにかむ。

「ギョーム王陛下、遠路お疲れでございましょう。歓迎の晩餐をご用意いたしております」

「セヴィル伯、ありがたいが少し早めに切り上げてくれ。キリエが少し風邪気味だ」

「それはいけませんな」

 廷臣らは、相変わらずギョームのキリエに対する愛情と敬意に感心しながら頭を下げた。

 そして、ギョームの要請どおりその日の晩餐の規模は縮小され、女王と王配は早々に寝室に引き下がった。

 二ヶ月ぶりに過ごす、「居城」の寝室。寝台を目にすると、ここで兄レノックスの死に取り乱して泣き明かしたことを思い出し、キリエは胸が痛んだ。

「良い香りがする」

 夫の言葉に振り返ると微笑を浮かべる。寝室では香が焚かれていた。

「カモミールとラベンダーよ。体を温めてくれるし、良い眠りを導いてくれる香りなの」

「さすがだな」

 と、言ってからギョームは何か思い出したように顔を上げる。

「そうだ。早速あの軟膏を使わせてもらおうかな」

 キリエは子どものようにはにかむと頷いた。寝台に上がったギョームが寝衣の裾を引き上げると白い足が晒される。思っていたよりも逞しい足が現れたことにキリエが思わず顔を赤らめる。

「意外と……、しっかりした足なのね」

「当然だ。小さい頃から武芸に励んできたのだ」

 少し不満げに言い返すギョームに慌てて「ごめんなさい」と囁き、いそいそと軟膏の小瓶を取り出す。が、不意にその手を握り締められる。

「ギョーム……!」

「ほら、やっぱり冷たい」

 夫の呟きに思わず言葉を失う。

「そなたの手は冷たいからな。温めてからでないと飛び上がるところだ」

「ご、ごめんなさい……」

 顔を真っ赤にして詫びる妻にギョームがくすりと笑いをこぼす。

「さっきから謝りっぱなしだな」

 困りきった表情で見つめてくる妻に笑いかけながら、ゆっくりと両手を揉む。その温もりにキリエは胸がずきんと痛んだ。ジュビリーの手はもっと大きかった。だが、夫はこの手で自分を守ってくれている。

「もういいだろう。頼む」

「はい……」

 温められた手で軟膏をすくうと、ギョームの右の足首をそっと包み込む。薬草の香りがつんと鼻を突く。ゆっくり慎重に揉みほぐしてゆくキリエの真剣な表情にギョームは思わず微笑を浮かべた。

「上手なのだな」

「教会でよくやっていたから」

「何だか気持ちいい。温かくなってきた」

 言われて嬉しそうに顔を上げる。寝室のランプに浮かび上がる笑顔の妻。こんなに温かなひと時を過ごせるなんて。そうだ、自分はこんなひと時にずっと憧れていた。

「キリエ」

 手を伸ばすとそのまま妻を抱き締める。

「ま、待って。私、手が……」

 汚れてしまうわ、と言いかける妻の唇を塞ぐ。少しの間唇を重ね合わせ、唇が離れると互いに息をつく。

「ありがとう」

 そう囁くと、ギョームは再び唇を合わせる。二人を包む柔らかな香草の香りと、ランプの明かり。

(夢のような時間だ……)

 キリエはぼんやりと思った。教会では考えられなかった豊かなひと時。自分はこんなに恵まれていいのだろうか。罪悪感に胸が軋むが、ギョームの手と胸の温もりは何物にも代えられないものだった。


 翌日から、キリエは廷臣会議や議会に出席するなど、慌ただしい日々を送った。キリエのことを島国の修道女という先入観が拭い切れないでいたルイーズはキリエの多忙ぶりに内心驚いたが、それをおくびにも出すような彼女ではなかった。

 半年間溜まっていた仕事に頭を抱えながらもジュビリーらと共に執務をこなしていると、キリエは結婚前の頃に舞い戻った感覚に陥った。ギョームはその間、バラと共にアングルの騎士による馬上槍試合(トーナメント)を観戦したり、挨拶に訪れた聖アルビオン大聖堂のバウンサー大司教と歓談したりして時を過ごした。そうして数日があっという間に過ぎ、新年を迎えた。


「さすがに冷えますね」

 朝、衣装の着付けを手伝いながらジゼルが話しかけた。

「お体を冷やさないよう、お気をつけ下さいませ」

「そうね」

 装身具を身につけ、姿見を眺めながらキリエは女官に尋ねた。

「どう? あなたもプレセア宮殿には慣れたかしら」

「そうですね……。意外と宮殿内のしきたりがこちらと違っているものが多くて驚きましたわ」

 そこで彼女は手を止めると低く囁いた。

「王妃……。輿入れされてからずいぶんと苦労されたことでしょう」

 ジゼルの労りの言葉にキリエは思わず振り返った。そして、微笑むと小さく頷く。

「……ありがとう」

 衣装部屋を出てアプローチに向かうとすでにギョームが待っていた。馬車に乗り込み、聖アルビオン大聖堂へ向かう道すがら、キリエは遠くを見るような目で呟いた。

「……不思議だわ」

「何がだ?」

 ギョームが振り向いて聞き返す。

「去年の今日よ。アンジェ侯が、あなたの使者として訪ねてきたのは」

 去年、新年の祝いでバラがイングレスを訪問し、ギョームがキリエを妃にと求めていることが告げられた。あの日からだ。日々が慌ただしく、そして重くのしかかってきた。

「……あれから一年か」

 ギョームも感慨深げに呟くと、妻の手にそっと自分の手を重ねた。

 聖アルビオン大聖堂には、去年を上回る群衆が押し寄せた。そのため、警備も倍の人員が配備され、物々しい雰囲気になるはずだったが、それをかき消すほどのお祭り騒ぎと発展した。去年から聖アルビオン大聖堂へ移ってきたヒースは群衆の歓声を耳にして、妹がアングルの君主になってしまったことを改めて実感した。

「あまねくヴァイス・クロイツのお恵みを……。今年一年、大きな恵みと発展がありますよう。そして、アングル、ガリア両国に永久の平和が訪れるよう……」

 キリエとギョームは並んで両手を合わせると、片膝を突いて跪いた。二人でこうして最敬礼をすると、ギョームは結婚式を思い出した。

 式典が終わると、女王と王配はプレセア宮殿まで行進(パレード)を行った。本当なら、結婚式の後もこうしてパレードをしながらビジュー宮殿に戻るはずだったのだ。沿道には予想以上の市民が集まり、キリエたちはゆっくり時間をかけて宮殿へ向かった。

「寒いだろう、大丈夫か」

「ええ」

 市民に手を振りながらも、ギョームは妻に囁きかけた。

「風邪をこじらせてはいかん」

 ギョームは妻の体を少しでも温めようと肩を抱く。そして、少し興奮気味に辺りを見渡す。

「すごいものだな。〈ロンディニウム教会の修道女〉は大変な人気者だな」

 キリエは穏やかに笑った。

「皆あなたを見に来ているのよ。〈ガリアの若獅子王〉を」

 妻の言葉にギョームは嬉しそうに微笑むと、彼女を抱きしめた。それを見た群衆はますます歓声を上げる。

 騎馬で馬車に併走していたジュビリーは、二人の様子をじっと見つめた。見る限りでは、キリエは幸せそうだ。このまま二人が愛し合えば何の問題もない。すべてがうまくいくのだ。群衆に囲まれながら、一人孤独な思いでジュビリーは手綱を握りしめた。そして、ふと視線を動かすと、馬車を挟んだ向かい側で馬に跨ったバラと目が合う。彼は思わせぶりな表情で会釈をしてみせた。

 実は数日前、祝賀会の準備が進められている大広間を目にしたバラが、「地味過ぎる」と注文をつけていたのだ。

「よくお考え下さい。アングルとガリアの君主が共に新年をお祝いになられるのですぞ。この程度の祝宴では恥をかきます」

 確かに、クロイツや各国の大使も挨拶に訪れる新年祝賀会は大事な外交の現場だ。

「しかし、女王陛下は贅沢を嫌います」

「贅沢と権威を知らしめることは違うでしょう」

 バラは自信に満ちた顔つきでなおも言い放った。

「クレド侯、我が君は修道女を娶ったのではござらん。アングルの女王陛下を妃にお迎えになったのでございますよ」

 洒落た身なりに、物腰の柔らかな身のこなし。だが、ジュビリーはその化けの皮の下を垣間見た気がした。この、見栄っ張りが。バラの言葉にアングルの廷臣たちは神経を逆撫でされたが、ことを大きくしたくなかったジュビリーは会場をもっと豪勢に飾りつけるよう命じた。

 バラとのやり取りを苦々しく思い出したジュビリーは、我ながら情けないとぼやいた。だが、彼と揉める姿をキリエやギョームに見られたくはなかった。これでよかったのだ。ジュビリーは自らにそう言い聞かせた。

 たっぷり時間をかけて宮殿まで帰った女王の一行は、冷えた体を温める茶会を催し、すぐに晩餐の時間が訪れた。

 バラが満足するまでに豪華な飾り付けがなされた会場を、ジュビリーは苦虫を噛み潰したような顔つきで見渡した。

「……キリエ様がご覧になられたら、驚かれるでしょうな」

 レスターの言葉に小さく頷く。

「……つまらん意地を張った」

「侯爵……。アンジェ侯の態度も気になるでしょうが、どうか堪えて下さい。せっかくキリエ様がお帰りになられているのですから」

 ジュビリーは眉間の皺を益々深めさせた。執務に追われている間は余計なことを考えずに済む。だが、人と関われば不愉快なことは避けては通れない。

 大広間の入り口がざわめき、振り返るとギョームがバラたちを伴って現れたところだった。ギョームの後ろに控えている、相変わらずつんと澄ました女官長を目にしてジュビリーは思わず肩をすくめた。が、肝心のキリエがいない。

「陛下、キリエ王妃は?」

 怪訝そうに尋ねられ、ギョームは嬉しそうな表情で答える。

「着付けに手間取っているのだろう。アングルの女官は、リッピが誂えた衣装など初めてだろうからな」

「リッピ殿が?」

 思わぬ名前が出たことにジュビリーが驚く。

「誕生日の晩餐用の衣装を誂えてくれた。それが実に素晴らしい出来でな。この度のために、新たに作らせた」

 王はそこで言葉を切ると後ろに控えたレスターに目をやる。

「レスター子爵も見たであろう。リッピの衣装を」

「まさに天使にふさわしいものでございました」

 慇懃に頭を下げるレスターに、ギョームは満面の笑みを浮かべた。

「それは……、楽しみでございますね」

 ジュビリーは穏やかに呟いた。ギョームとアングルの宰相は言葉少なげに会話を交わし、主役の登場を待った。と、入り口から悲鳴に近い歓声が上がる。皆が振り返るとそこには女官を引き連れた女王の姿があった。

「……!」

 キリエの姿を目にしたジュビリーは息を呑んだ。

(……キリエ……!)

 アングル王家の鮮やかな赤を身にまとったキリエ。誕生日の時と同じく、体にぴったりした衣装だが、印象は大きく異なっている。喉元までのブラウスに、後頭部を飾る美しいレースの襟。袖口が大きく広がり、重ねた内着がのぞく。キリエの細い体を強調するよう、後ろの裾は相当な長さがある。頭には、すでにキリエの象徴ともいえる頭布(ウィンプル)に王冠。燭台の明かりに照らされた女王の美しさは、その場の空気を変えた。ジュビリーはごくりと唾を飲み込むと胸の中で囁いた。

(……レディ・ケイナ・アッサー……)

 人々の視線を一身に浴びた妻を、ギョームが笑顔で抱きしめる。

「時間がかかったな」

 その言葉尻には満足な響きが感じられる。

「ご、ごめんなさい。どうしても、お化粧が苦手で……」

 面立ちが変わったように見えても、言葉を発すればジュビリーの知っているキリエだ。ギョームは得意げな顔つきでキリエの腕を取るとジュビリーに声をかける。

「どうだ、クレド侯。見違えたであろう」

「はっ……。これほどまでとは……」

 言葉を詰まらせるジュビリーをキリエがじっと見つめてくる。その目を受け止められず、彼はわずかに目を伏せた。そんなジュビリーに満足すると、ギョームは「アングル女王キリエ」に礼を取り、招かれた客たちから喝采を受ける。そして、皆に挨拶をするようキリエに促す。

「……新年おめでとう」

 いつもとは違う目で皆が自分を見ていると思うと、キリエは緊張で声がかすれた。

「これからも、長く国を留守にすることが多いでしょうが……」

 キリエは恐る恐る夫に視線を投げる。ギョームは安心させるように微笑を浮かべて頷く。

「ガリアとの強い結びつきによって、我が国はこれからも平和を築いてゆけるでしょう」

 次いで、キリエはジュビリーに目を向けた。彼は瞳で「充分だ」と言い聞かせた。キリエは手にしたゴブレットを掲げた。

「アングルとガリアの平和と幸運を祈って、乾杯」

「乾杯!」

 キリエは夫とゴブレットを合わせると、ワインを口にした。乾杯が終わるとすぐに様々な人々が女王と王配を取り囲む。招かれた貴族たちは皆、口々に新年の祝いやギョームを賞賛する言葉をかけ、その場は一層華やいだ。

 挨拶を受けるたびに微笑み、ワインを口にしたり、夫と笑い合ったりするキリエを見守りつつ、レスターはジュビリーが落ち着きをなくしていることに気がついた。

「侯爵、大丈夫ですか」

「……大丈夫だ」

 ジュビリーは不安げに目を四方に彷徨わせていた。あまりにも美しくなったキリエから目を離せない一方、夫のギョームに悟られまいと視線を外そうとするものの、うまくいかない。モーティマーからキリエが綺麗になったと聞かされてはいたものの、これほど変わったとは思いもしなかった。いつまでも幼い修道女だとばかり思っていたキリエが、しばらく見ないうちに急に美しくなったことがジュビリーにとっては衝撃だった。ギョームがキリエを大人の女にしたと思うと、どうしようもない嫉妬心が沸き起こる。マリーからの手紙では、まだキリエは夫に体を許していないと知らされていたが、本当はすでに身を任せたのではないかなど、そんな下世話な想像までする自分に、ジュビリーは愕然となった。

「お綺麗になられた」

 思わず呟いたレスターにモーティマーも頷く。

「……レディ・ケイナを思い出します」

「ああ」

 彼らの脳裏には、在りし日のケイナの姿が蘇っていた。彼女も、自らを寵愛する王の傍らで、こうして寂しげな微笑を浮かべていた。自由と引き換えに全てを与えられたケイナとキリエ。二人は正しく同じ人生を歩んでいる。

 しばしキリエの姿を見守っていたレスターだったが、おもむろにモーティマーを振り返る。

「……ところで、モーティマーよ」

「はい」

 秘書官は相変わらず生真面目な表情で返事をする。レスターは目を細めてモーティマーを見つめた。

「そなた、その……、今日は目当ての女性はおるか?」

「は?」

 思いもよらない言葉にモーティマーは目を丸くした。

「……別に、おりませぬが」

「ガリアからお気に入りの女性を連れて帰ったりは……」

「おりませぬ!」

 モーティマーの堅物ぶりはジュビリーといい勝負だ。困惑を隠せない秘書官に、レスターは口の中でもごもごと呟く。

「そうか、おらぬのなら、良いのだ、すまん。気にしないでくれ」

「き、気になります……!」

 だが、レスターはいつもの胡乱な眼差しを向けた。

「まさかとは思うが、そなた。あのご婦人に……」

 モーティマーは顔をしかめてレスターの顔を凝視する。そして、相手が顎をしゃくる方向へと首を巡らす。そこには、王妃の背後で影のように佇む美しい女官の姿があった。ジゼル・ヴィリエ。キリエの姿に皆の視線が集められてはいるものの、彼女の美しさも際立っているのは明らかだ。モーティマーはあからさまに顔を歪めた。

「まさか」

 思わず同じ言葉を繰り返す。そして、目を細めると小さく呟く。

「……魅力的なお方には違いありませんがね」

「おい」

「ご安心を」

 モーティマーは慇懃に頭を下げてみせた。レスターはなおも何か言いたげな顔つきであったが、むっつりと黙り込んだ。

 その間も、ジュビリーは複雑な胸中でキリエとギョームを見守っていた。抑えきれない胸騒ぎを抑えながら。


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