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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第2話

夢のような生誕祝賀会。夫に愛されている。そう実感するキリエだったが、心の奥底に絡みつく罪悪感に心は晴れない。

 晩餐会は夜遅くまで続いた。ガリアに来てから少しずつアルコールに強くなったキリエは、何とか最後まで耐えることができた。だが、お開きになる頃には彼女の足はおぼつかず、目も開けているのがやっとの状態だった。

「王妃、しっかり」

 自分に呼びかけてくるジゼルの声が遠くの出来事のように思える。両脇を支えるジョンとモーティマーは手馴れた様子だ。石の廊下に敷き詰められた豪華な絨毯が靴音を消し、壁に吊り下げられたランプが静謐な光を投げかける中、一行は静々と進んでゆく。

「後もう少しのご辛抱でございますよ、王妃」

 浴室の手前まで来るとキリエは侍女に抱えられるようにして中へ連れ込まれる。その姿を見届けると、ジョンとモーティマーはほっとした顔付きで息をついた。そして、そわそわと落ち着かない顔つきの若い伯爵にモーティマーが微笑みかける。

「後はお任せ下さい、グローリア伯。奥方がお待ちでございますよ」

「ああ、すまないな」

 ジョンは気恥ずかしげに頷くと踵を返した。その後姿を見つめていたジゼルが、不意にぽつりと呟く。

「伯爵も大変な愛妻家でいらっしゃいますね。アングルの女性は幸せ者ですわ」

 その寂しげな響きにモーティマーが思わず振り返る。

「……ガリアの女性はそうではないと?」

 ぎくりとした様子で顔を上げたジゼルは、少し動揺した様子でモーティマーの視線を避けた。

「……ご入浴のお手伝いを」

 そう囁くと逃げるように浴室へと入ってゆくジゼル。モーティマーは自分の失言に後悔しながら閉じられた扉を見つめた。

浴室はほの暗く、しっとりとした温もりに満たされていた。絹のカーテン越しに浮かび上がるキリエの細い体。侍女の呼びかけにキリエが低い声で返しているのが聞こえる。

「王妃」

 ジゼルが呼びかけると細い影が振り返る。

「ジゼル……?」

「ご気分は」

「ええ、少し良くなったわ。心配かけてごめんなさい」

「よろしゅうございました」

 湯が散る音と共に石鹸の香りが漂う。しばらくすると湯から上がる音が聞こえてくる。侍女に体を拭われたキリエが心細げに姿を見せる。

「お疲れでございましょう。いかがでございましたか、ガリアでお迎えになられたお誕生日は」

 そう声をかけながら寝衣を着せ付けると、キリエは嬉しそうに微笑を浮かべる。

「素敵だったわ。皆に感謝しないと」

 ガウンを羽織らせながらジゼルが何気なく語りかける。

「そう言えば、この度はクレド侯がいらっしゃいませんでしたね。楽しみにしていましたのに」

 ジュビリーの名を耳にした途端、キリエの酔いが醒める。

「……知らない」

 珍しく不機嫌そうに呟くキリエに、ジゼルは思わず目を瞠る。やはり王妃もクレド侯を……?

「王妃、お足元にお気をつけて……」

「ありがとう……」

 浴室を出ると外で待っていたモーティマーが寝室まで先導する。王と王妃の寝室まで立ち入ることができるのは側近と言えどモーティマーだけである。先ほどよりは顔色がよくなったキリエに秘書官もほっと胸を撫で下ろす。やがて寝室の前までやってくるとモーティマーは恭しく頭を下げた。

「お疲れ様でございます。王妃、おやすみなさいませ」

「ありがとう、サー・ロバート。おやすみなさい」

 寝室の扉を開くと、すでに夜具が整えられている。王妃を寝台に座らせ、冷たい水を飲ませるともう一度顔色を確認する。キリエはにっこりと微笑んだ。

「ありがとうジゼル。あなたもお疲れ様」

「もったいないお言葉」

 ジゼルは優雅に一礼してみせると寝室から引き下がった。キリエはふぅと息をついた。ロベルタから警告を受けたものの、ジゼルは甲斐甲斐しく世話をしてくれる。毎日小言を浴びせかけるルイーズに比べたらよほど心が落ち着く。だが、バラがロベルタと親しくするなと警告をしてきたことが頭から離れない。自分に対していつも物腰柔らかに接していた彼があんな警告を堂々としてくるなど、驚きだった。そんなことを考えていると、やがて寝室の扉が静かに開いてギョームが入ってくる。

「大丈夫? ギョーム」

 夫は珍しくふらつきながら寝台に辿り着くと、ごろりと仰向けに寝転がった。そして、疲れた笑みで呟く。

「……さすがに疲れたな」

 キリエはふっと微笑みかけた。

「お疲れ様。……ありがとう」

「楽しんでもらえたかな」

「ええ。忘れられない誕生日になったわ」

「……結婚式ができなかったからな」

 ギョームも同じことを考えていたらしい。皆に祝福してもらうはずだった結婚披露宴の埋め合わせのつもりだったのだろう。

 目を閉じ、疲労が混じった息を静かに吐き出す夫をじっと見つめる。今の自分を守ってくれるのは彼だけだ。そう思うと、ジュビリーの言葉が胸に蘇る。

「これからは、私の代わりにギョームがおまえを守る」

 思わず膝の上で両手を握り締める。そうだ。自分はギョームに守られている。大事にされている。薬草園を誇らしげに見せてくれた時の笑顔を思い出すと素直に嬉しさが込み上げてくる。彼の思いに、応えなくては。キリエはそっと体を屈め、恐る恐る夫に唇を合わせた。と、ギョームの目が開かれ、キリエは咄嗟に顔を離した。が、彼は体を起こすと妻を夜具に押し倒した。

「きゃ……!」

 悲鳴を上げそうになるが唇を塞がれる。いつもよりも激しく深い口付け。唇が離れ、夫の獣のような息遣いに慄く。ギョームは荒々しく背や肩を撫でると胸にまで手を伸ばした。寝衣のリボンがほどけ、熱い手が滑り込まれる。

(ギョーム……!)

 初めて夫に胸をまさぐられ、思わず彼を突き飛ばそうと肩に手をかける。が、その時。脳裏にバラの声が響いた。

(陛下を、あまり焦らさぬよう)

 彼だけではない。様々な人の言葉がキリエの胸を刺した。

(キリエ様も、陛下に歩み寄らなければ)

(クレド侯のことは、お忘れなさい)

 最後に、ジュビリーの声が頭にこだまする。

(おまえはすでに、ガリアの王妃だ)

 キリエは肩を掴む手を震わせた。ギョームははだけた妻の胸に顔を埋める。が、キリエの体が小刻みに震えるのに気づいた彼は、はっとして顔を上げた。キリエは片方の手で夜具を握り締め、背けた顔には幾筋もの涙が流れている。

「……キリエ……」

 震える声で呼びかけるが、キリエは目を固く閉じたままだ。ギョームはそっと両手で妻の顔を包み込んだ。

「キリエ……」

 彼女はようやく目を開けると、怯えた表情で夫を見上げた。彼は顔を歪めると妻を抱きしめた。

「……すまない」

 搾り出すような囁き。

「誕生日に……、嫌な思いをさせてしまった。……許してくれ……!」

 夫の名を呼ぼうと口を開くが声が出ない。ギョームは再び顔を上げるとキリエの目を見つめた。必死で言葉を発しようとする妻の髪を撫でると、顔を横に振る。そして、そっと口付けを交わすと再び優しく抱きしめた。


 だが、それから数時間後。

「……う……、うぅ、ん……」

 押し殺した息遣いにギョームは目を覚ました。

「……いや、だ……。……やめて……、……離して……」

 ギョームは眉をひそめて体を起こした。まただ。またキリエがうなされている。

「……キリエ」

「……はな、して……、やめて……!」

 真っ青な顔を振り、苦しげに呻く妻の頬を恐る恐る撫でる。が、彼女はびくりと体を震わせる。

「キリエ……」

「……離して……」

 ギョームはごくりと唾を飲み込んだ。先ほどの行為が尾を引いているのだろうか。彼は腫れ物でも触るようにそぅっとキリエの髪を撫でた。

「キリエ……、すまない。もう、しない。しないから、大丈夫だ……。許してくれ」

 ゆっくり丁寧に髪と頬を撫でているうち、キリエは口をつぐんだ。そして、ようやく呼吸が穏やかになってくる。ギョームは不安げな顔付きで妻を見つめた。

 彼女がうなされるのはこれが初めてではない。あれは、アングルに帰国する直前だった。今夜の自分の行為以外に、過去に何か恐ろしい思いでもしたのだろうか。

「……キリエ」

 まだ青い顔の妻の唇を指でそっとなぞる。キリエ……、何がそなたを苦しめているのだ。……許さない。そなたを苦しめる存在など、許さない。どうしたら、そなたを安心させてやれるのだ? キリエ……。

 ギョームはそっと唇を重ねると妻を抱きしめた。


 翌日の早朝。いつになく眠そうな王の顔を目にしたバラは、含み笑いを浮かべながら囁いた。

「陛下。ひょっとして、昨夜ついに……?」

「まだだ」

 ギョームは不機嫌そうに言い放った。

「急かすな。……キリエはやっと十六歳になったばかりなのだ」

「もちろんでございます」

 慇懃に頭を下げたバラが顔を上げた先に、王妃の姿が見える。

「王妃」

 バラの声にギョームが振り向くと、キリエが女官を連れてこちらへやって来る。

「おはよう、キリエ。……気分はどうだ?」

 心配そうな口調の夫にキリエは首を傾げた。

「大丈夫よ。……どうしたの?」

「いや、大丈夫なら、いいのだ。昨日は疲れただろうから、少し……、心配だったものだから」

 キリエはにっこりと微笑んだ。

「ありがとう。大丈夫よ」

 賓客から朝の挨拶を受ける王と王妃の姿を見守りながら、バラはふんと鼻を鳴らした。

(所詮子ども同士だ。どうしようもないか)

 五月に二十歳になったギョームは、年に似合わず政治家としての才能を遺憾なく発揮していた。まるで老練な策士のように外交の駆け引きにも秀で、対エスタド戦略は着々と整いつつある。だが、ことキリエのこととなると途端に幼さを見せる。キリエを子ども扱いしながらも、その実自分が一番子どもらしいことに気づいていないのだろう。

 そんなことを考えながら国王夫妻を眺めていると、キリエが髪留めを気にする仕草を見せた。白百合をあしらった象嵌細工の髪留めがきらりと光を弾く。細い指で位置を変えようとする王妃の傍らで控えていた女官が手を添える。ジゼルはしなやかな手つきで髪留めを直してやると穏やかに微笑んだ。その視線が流れ、バラの瞳を捉える。美しく結い上げられた艶やかな黒髪。真紅の唇。薔薇色の頬。目尻へ流れる深い眼差し。胸元から覗く陶器のように滑らかな白い肌。あどけなさを残す幼い王妃とは対照的な豊潤な美だ。黒い瞳が意味ありげに見つめてくるが、二人は同時に目を逸らす。

「ありがとう、ジゼル」

「お似合いですわ、王妃」

 何事もなかったかのように主と言葉を交わすジゼル。バラも居住まいを正すと王の側へと歩み寄っていった。


 その日はリッピが完成させた〈ガリア王と王妃〉のお披露目が行われ、大広間に人々が集められた。王と王妃が寄り添い、二人で月桂冠を捧げ持つ構図の絵を、招かれた客たちが見入っている。ギョームは絵の出来栄えに満足していた。その上、妻の美しさを引き立たせる衣装を手がけた画家に惜しみない賛辞を送った。

「素晴らしいですな」

 レスターはキリエの隣で呟いた。

「ええ、さすがリッピ殿だわ」

 そこでキリエはそっとレスターに寄り添うと囁いた。

「……国内の様子は?」

「落ち着いております。ただ……、マーブル伯の行方がまだわかっておりませぬ」

「……エレソナは?」

 沈んだ調子のキリエの声にレスターが振り返る。キリエはどこか寂しげな表情で絵を見上げている。

「健康は回復いたしましたが、ルール公の死をまだ受け入れられないらしく……」

 気性の激しいあの二人が、そこまで深い絆を結んでいたというのか。キリエは複雑な表情で黙り込んだ。彼女の胸には、あの日の姉の叫びが深く刻み込まれている。

(私はおまえを一生許さんぞ!)

 どんなに慰めの言葉を聞かされても、兄を戦死に追いやったのは自分だ。一生、この罪を背負っていかねばならない。キリエは目を伏せると口を開いた。

「……目を離さないで。健康には特に……」

「はっ」

 そして、ちらりと周りに視線を走らせてから言葉を続ける。

「ジュビリーの体調はそんなに悪いの?」

「……お許し下さいませ。訪問を中止したのは体調不良が理由ではございません」

 キリエが眉をひそめて振り返る。レスターはますます声を低めた。

「国内に間諜がはびこっており、予断を許さぬ状況になっております。そのため……」

 女王は不安に満ちた瞳で老臣の顔を見つめた。レスターはゆっくりと頷く。

「……キリエ様も何かございましたならば、すぐにでもお知らせ下さいませ」

「……わかったわ」

 しばし口をつぐんでいたキリエは小さく息をついてから囁いた。

「……ジュビリーに伝えて。……いつも任せきりでごめんなさい、って」

 レスターはじっとキリエの横顔を見つめた。アングルにいた時よりも垢抜け、ずいぶんと大人びた表情のキリエだが、その瞳は変わらない。レスターは深々と頭を下げた。

「御意」

 その日もそれなりの祝宴が引き続き催され、アングルの廷臣団はその翌日に帰国した。その際、次にキリエがアングルに帰国するのは年末に決定したことが伝えられ、新年の祝賀会には女王と王配が揃って出席することが取り決められた。

 年末まで我慢すればジュビリーにようやく会える。そう考える自分にキリエは心がざわついた。ギョームの愛に応えたい自分と、ジュビリーへの思いを押し隠す自分。不誠実だ。自分は修道女である資格がない。だが、その相容れない揺らぐ思いを止めることができない。いつまで、この思いに苦しまなければならないのだろう。そんな自分に不安げな眼差しを向けている夫に気づかぬまま、キリエはアングルの使節団を見送った。


 日も落ちかけた頃、アングルの廷臣団の見送りを済ませたバラが大廊下(ギャラリー)を通り抜け、アプローチへと忙しげに向かう姿があった。

「アンジェ侯」

 不意に女の声に呼びかけられ、ぎくりとして立ち止まる。辺りを見渡すと、大階段の脇に黒髪の女が佇んでいる。美しい弧を描いた眉がひそめられ、じっと眼差しを向けられる。

「ジゼル……」

 彼女は愛人の裾を引っ張ると扉の影に引き込み、壁に押し付ける。バラは困惑の表情でジゼルを見下ろした。

「……すまん、今日は忙しいのだ」

「お勤めはもう終わりでしょう」

「……ジゼル」

 言葉を濁すバラに、ジゼルはどこにも行かさないといった表情ですがりついてくる。目を伏せ、口を閉ざしたままの女の背に手を回すが、どこか尖った感触に胸がひやりとする。

「……そなたも疲れているだろう、この数日忙しかったから――」

「だから、今日はあなたと一緒にいたいの」

「それは……」

 それでもはっきりした言葉を口にしないバラに、ジゼルは突然顔を上げると突き放した。

「ジゼル――」

「お屋敷にお帰りになりたいのでしょう?」

 ジゼルの目は怒りとも哀しみともつかない色に満ちている。

「今日は……、ご次男のお誕生日ですものね」

 愛人が言い放った言葉にバラは絶句した。ジゼルの射るような目にかすれた声で呟く。

「……覚えていたのか……」

「お帰りになれば!」

 ジゼルは鋭い声を投げかけた。

「さっさとお帰りになるといいわ!」

 そう叫ぶとジゼルは背を向けて走り去った。

「ジゼル!」

 慌てて後を追おうとするものの、侍従の姿を見かけて咄嗟に壁に隠れる。しばらく息を潜めて身を隠し、やがてそっとアプローチに出る。遠くで侍従や侍女が行き交う様子は見えるものの、ジゼルの姿はない。バラは押し殺した息を吐き出した。

 ジゼルは無我夢中で走った。人目のつかない廊下を泣きながら走り抜ける。息を切らし、ようやく足を止めるとその場に崩れ落ちる。口を押さえ、肩を震わせてむせび泣く。

 バラと関係を持って三年。年に数回、家族との時間を優先させる彼にジゼルはどうしようもない嫉妬に身を裂かれる思いをしてきた。野望家で有能な宰相。不誠実で、自分を翻弄する愛人。彼女の脳裏に、死んだ夫の顔がよぎった。バラに比べると面白みのない生真面目な男だった。バラに惹かれたのはそのせいかもしれない。だが、こんな惨めな思いに苛まれていると、堅物だが誠実だった夫が思い出されてならない。自分は、いつまでこんなことをしているのだろう……。

 声を押し殺して涙を拭う彼女の背後から、不意に声がかけられる。

「どうなされた」

 びくりと肩を震わせ、恐る恐る振り返る。晩秋の薄闇に浮かぶ人影。そっと歩み寄ってくるその顔が一瞬夫の顔に見えたジゼルは、思わず立ち上がった。

「パルム伯夫人?」

 その声にジゼルははっとした。モーティマー!

「どうされたのです。ご気分でも……」

 ジゼルは答えず、無言でモーティマーの胸にすがりついた。

「夫人!」

 実直なモーティマーはバラと違い、慌てて体を離そうとした。が、ジゼルは夢中で背を抱いた。その細い手が激しく震えていることにモーティマーは痛ましげに眉をひそめる。

「……夫人、何があったのです?」

 女王の女官のただならぬ様子に戸惑いながらも声をかける。それでも、ジゼルは黙りこくってモーティマーの胸に顔を埋めた。


 ガリア王妃の盛大な生誕の祝宴を終え、母国カンパニュラへと戻った画家リッピを待っていたのは、ガルシアからの召喚だった。ここ二年ほど、ガリアやアングルといった「反エスタド国家」に招かれては君主を描いてきた彼に、弟子たちは皆こぞって訪問を反対した。だが、「即位十周年の記念肖像画を描いてほしい」という使者の言葉を信じ、リッピはエスタドへ向かった。彼には画家として中立な立場を貫く誇りと自負がある。それに、ギョームやキリエの肖像画を描いたからといって、当代随一の芸術家に手を下すなど、自尊心の高いガルシアがするわけもなかった。事実、ガルシアはリッピを手厚く歓迎した。彼と、彼の娘たちを描いてから実に十年ぶりの再会だ。

「久しぶりだな、リッピ」

「ご無沙汰いたしております、ガルシア王陛下」

 相変わらず慇懃な態度の画家にガルシアは気安い手つきで肩を叩く。

「噂は聞いておるぞ。今や大陸中を飛び回る時代の寵児だな」

「ひとえに陛下のご厚情の賜物でございます」

「実力であろう」

 見る限り、ガルシアは上機嫌だった。十年前に会った時と同じく、自信に満ち溢れた瞳は変わりがない。

「この度も予と娘たちを描いてほしい」

「王女もずいぶんと大きくなられたことでしょう」

 リッピの言葉にガルシアは表情を和らげ、傍らに控えたビセンテに目配せする。一度謁見の間を出たビセンテは、三王女を連れて戻ってきた。

「これはこれは……!」

 王女たちを目にしたリッピが驚きの声を上げる。

「大きゅうなられましたな……!」

「お久しぶりです、リッピ殿」

 長女のフアナが優雅に微笑む。二人の妹たちは姉に比べて人見知りが激しく、体を寄せ合って異国の画家を見つめている。

「お元気そうで何よりでございます、フアナ王太女。美しさに磨きがかかりましたな」

「またそんなことを……」

 フアナが屈託ない笑顔で呟く。

「イサベラ王女とアンヘラ王女も、こんなに大きゅうなられたとは……」

「アンヘラはまだ二歳だったからな」

 ガルシアの言葉にリッピは時の流れの早さを思った。

「リッピ、早速取り掛かってくれ」


 執務の合間を縫って王のデッサンが始まった。キリエやギョームと比べ、さすがのリッピも多少の緊張を感じながら画布に向かう。それはただの緊迫感とは違い、時代を牽引する最強の君主を描くという興奮と気概もあった。黒光りする甲冑に身を包み、篭手を嵌めた手で大剣を支えるその姿は、堂々たる〈エスタドの大鷲〉だ。鋭い眼光と、不敵な笑みを浮かべる口許。彼が望むのは大陸世界すべてだ。そしてそれは、確実に彼の手の内におさまろうとしている。だが、世界は今になってそれを拒もうとするかのように激しく身悶えし始めた。自分は時代の瞬間に立ち会っている。リッピはその一瞬を逃すまいと絵筆を振るった。

「先月、ガリアに招かれたそうだな」

 ガルシアの不意打ちにリッピは手を止めた。

「お招きではなく、私が訪問させていただきました」

 事実は妻を喜ばせたかったギョームの要請だったが、表向きはリッピが肖像画を描かせてほしいと懇願したことになっている。ガルシアはにやりと笑みを浮かべた。

「そなたらしくもないな。あのような青二才を自分から描こうとするなど」

 傍らに控えるビセンテが視線を送ってくる。言葉に気をつけるようにとの警告だ。リッピは肩をすくめてみせた。

「ここだけのお話でございますが、戴冠式の肖像画を手掛けさせていただいた時の報酬が、それはそれは魅力的だったもので」

「相変わらずの狸だな」

 ガルシアの含み笑いに、リッピは頭を下げた。

「青二才とその妻はどうだった」

 リッピは当然、ガルシアがギョームとキリエを毛嫌いしていることを知っていた。だが、王がリッピに求めているのは、偽らざる言葉だろう。

「大変睦まじいご夫妻でした」

 リッピは筆を止め、遠くを見るような目つきをした。

「ですが、まだまだ幼いですな。王と王妃という感じではございませんでした」

「ほう」

「あれは……、ギョーム王の方が相当惚れ込んでいらっしゃいますな」

 思わず漏らした本音に、ビセンテが慌てて前へ出ようとするのをガルシアが制する。

「そなたは正直者だな。だから好きだ」

 ガルシアの言葉にリッピは微笑んでみせる。すると、ガルシアは声を高めて問いかけた。

「ギョームもキリエも予は見たことがない。どうだ、ひとつ描いてみてくれないか」

 リッピは思わず顔を強晴らせたが、やがて微笑を浮かべると弟子に紙を要求した。さらさらと木炭で人物の顔を描く画家に、王がゆっくりと歩み寄る。二枚の紙に、まだ幼さを残した男女の顔が出来上がる。ギョームの端正な顔立ちと柔らかな質感の髪。キリエの素朴な微笑と特徴的なアーモンド型の目。ガルシアは目を眇めて見入ると、宰相に見せる。

「どうだ」

「さすがですな。よく似ています。しかし、リッピ。王妃が少々綺麗すぎやしないか」

 ビセンテの指摘に、リッピは人懐っこい笑顔で答えた。

「ご結婚されてからお綺麗になられました。私も驚きました」

「……なるほど」

 ビセンテは戴冠式の時しかキリエを見かけていないが、リッピは即位前と即位後、両方目にしている。ガルシアは再び似顔絵に目を落とした。やがて口元に笑みを浮かべると画家に問いかける。

「リッピ。予のフアナと、ギョームのキリエ。どちらが綺麗だ?」

 室内の空気がぴんと張りつめる。宰相は目を見開いて主君と画家を見つめた。部屋の隅に控えた弟子たちが青ざめた顔つきで息を呑む。一方、リッピは顔の表情を変えないまま、〈エスタドの大鷲〉を見上げた。やがて彼は一歩後ろに下がると、恭しく頭を垂れた。

「……陛下。私は舌が二枚ございます」

「はっはっはっ!」

 リッピの答えにガルシアは思わず笑い声を上げた。

「そう来たか、くっくっくっ……!」

 腹の底から笑うガルシアを、ビセンテは顔を引きつらせて見守った。

「愉快な奴だ、本当に……!」

「恐れ入ります」

 ガルシアは腹を押さえて笑い続け、ソファにどっかりと腰を下ろした。

「どうだ、正直なところ。フアナとキリエをどう見る?」

「それは難しい質問です」

「そうか?」

「正直……、フアナ王太女とキリエ女王は、性格もお育ちの環境も異なっておいでです。比べることなどできませぬ」

 リッピの言葉に、ガルシアは興味深そうに身を乗り出す。

「まず……、フアナ王太女はご両親の愛を一身にお受けになられてご成長されております。キリエ女王も愛に囲まれてお育ちになられましたが、それはご家族の愛ではなく、信仰という天上の愛でございます」

 ガルシアは目を細めた。しばらく黙ったまま画家を見据えていた王は、低い声で問い質す。

「地上の愛より、天の愛が強いと思うか」

「……どうでしょうか」

 リッピは思わせぶりな表情で呟いた。

「キリエ女王は強い信仰心でアングルの君主となられました。ですが、ご家族の愛に飢えておられることが……、弱点にもなりえましょう」

「家族を知らぬが故に非情になれるやもしれんぞ」

「家族に対して非情になることは、修道女として許されないことだとお考えになるでしょう」

 ガルシアはふんと鼻先で笑った。

「あの女、腹違いの兄を殺したぞ」

「それでしばらく、塞ぎ込んだそうでございます」

「ふん」

 つまらなげに鼻を鳴らすとソファから立ち上がる。

「とんだ修道女だ! 兄を殺し、姉を幽閉した。聖職者の風上にもおけん!」

「陛下……」

 眉をひそめるリッピにガルシアは冷酷な笑みをくれた。

「近い内に島国の田舎娘をクロイツに告発する。信心深いアングルやガリアの民はどう思うかな?」

 リッピはごくりと唾を飲み込むとガルシアを凝視した。


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