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女王キリエ  作者: カイリ
第9章 終わりの始まり
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第9章「終わりの始まり」第1話

ガリアに帰国したキリエは夫と共に穏やかな時間を過ごしていた。だが、彼女のあずかり知らぬところでひそかに陰謀の芽が。

 秋も深まったガリアのビジュー宮殿はどこか気忙しい空気が満ちている。それは、迫り来る冬への備えだけが原因ではなかった。

 後宮の通路を落ち着かない様子で小走りにゆくモーティマー。後宮の最奥部はごく限られた侍従しか入ることを許されない。人気の少ない通路。思わず靴音を立てぬよう摺り足で進む。そうしてやってきたのは中庭に面したガラス張りの温室。磨き上げられた水晶の柱が整然と立ち並ぶ不思議な森を思わせる温室の窓。窓が放つ鈍い光を背に浴びた女が、扉の脇でクッションに腰を下ろしている。モーティマーは目を眇めて女を眺めた。

 光沢のある深いエメラルドグリーンの衣装。裾からワイン色の靴先がちらりと覗く。温室の窓から漏れる光を頼りに小さな本を読み耽るその姿は、絵画の世界にでも入り込んだような印象を受ける。濡れ光る黒髪が白い頬を覆い隠し、微笑を浮かべた薔薇色の唇が見える。モーティマーが一歩踏み出すと石の床が乾いた音を響かせた。女がはっとして顔を上げる。が、その表情はすぐに和らいだ。

「――あら」

 その声には聞き覚えがあった。

「サー・ロバート」

「パルム伯夫人?」

 ジゼルはにっこりと微笑むと立ち上がった。

「びっくりした」

「陛下をご存知ありませんか。そろそろ廷臣会議のお時間なのですが、温室からまだお戻りになられていないと……」

 そう言って温室の窓に歩み寄ろうとするモーティマーを慌てて押し留める。

「駄目。今、とっても良い雰囲気なんですから」

「はい?」

 ジゼルは細い指を唇に当てながら、窓に掛けられたレースのカーテンをそっと引き上げた。そこから中を覗き込んだモーティマーは思わず言葉をなくした。

 光を集めた温室の中央に素朴な花柄のソファがある。そこに腰掛けたキリエの膝を枕にギョームが寝そべっている。妃の手を握り締めたまま、王は普段人々に見せないような伸びやかな笑顔で何か語りかけている。頬を染めたキリエが耳を傾けながら小さく頷いている様子が見てとれる。顔を赤らめているのは、温室の気温のせいではないだろう。話している途中でギョームは不意に顔をしかめるとあくびを噛み殺した。その頬をキリエがそっと撫でると、彼は嬉しそうに微笑んだ。

「陛下は今とってもお疲れなんですの。執務に加えて、王妃のお誕生日のお祝いの準備にも余念がなくて……」

「……なるほど」

 確かに、ギョームは忙しい執務の間を縫って愛妻の誕生日を迎える準備を進めさせていた。モーティマー自身、王から王妃の嗜好について細かく尋ねられている。そして、あれこれと計画を練る若い王の楽しそうな様子に微笑ましく思ったものだ。

「アングルからお帰りになられて一層睦まじく……。安心いたしましたわ」

 二人の様子を見つめながらジゼルがそう囁く。

「本当に素敵なお二人。……羨ましいわ」

 その言葉にモーティマーは思わず目を向ける。穏やかな表情の中にもその瞳の奥からは寂しげなものを感じる。その表情と声色から読み取れるのは、自分はそうではなかった、という思いだ。モーティマーが口を開こうとした時。

「あら」

 温室に視線を戻すと、どういうわけかキリエが真っ赤にした顔を慌てた様子で左右に振っている。そんな妻にギョームが更に笑いかけ、尚も畳み掛けている。困惑しきった顔付きだったキリエは、やがて恐る恐る体を屈め、ギョームの顔を覆い隠した。

 モーティマーは咄嗟に窓から身を引いた。甘やかな場面に遭遇して赤面するほど純情ではないが、さすがに主君の秘め事を覗き見るのは憚られる。

「……会議を遅らせてもらうよう、お願いしてまいります」

 ぼそぼそと呟き、頭を下げて踵を返そうとするモーティマーの胴着の裾をジゼルが引っ張る。

「サー・ロバート」

 思わず強張った顔つきで振り返ると、王妃の女官は嬉しそうに微笑みかけてきた。

「ありがとう、お願いいたしますわ」

「……はっ」


 キリエが明るく陽気なガリアの宮廷でギョームと共に初冬を迎えようとしていた頃、アングルの王都イングレスにはどんよりと黒い雲が垂れ込めていた。暖流に囲まれたアングル島は冬が近づくにつれて湿った重苦しい空模様に支配される。そして、遠からず何もかも凍りつく厳しい冬がやってくる。王都では迫り来る冬の支度で人々が忙しく動き回っていた。

 プレセア宮殿でも冬に備える人々で落ち着かない空気が流れる中、執務に追われるジュビリーは側近から声をかけられた。

「クレド侯、ホワイトピーク公がお見えです」

 思わぬ訪問者にジュビリーは眉をひそめた。彼とは、先月レノックスの反乱の際に顔を合わせている。何かあったのだろうか。

 侍従に連れられてきたのは、中庭に張り出したバルコニーだった。空を覆い尽くした暗い雲を所在なげに見上げるウィリアムの姿が目に入る。

「公爵」

「ああ。突然押しかけてすまない」

「滅相もない」

 ウィリアムを宮殿の中へ導こうとすると、彼は顔をしかめて手を挙げた。

「すまん。人には知られたくない話だ」

 そう言って周囲に目をやるウィリアムに、ジュビリーの胸に嫌な感触が広がる。

「……何かございましたか」

 宰相の慎重な口ぶりに頷いてみせると、ウィリアムは低い声で呟いた。

「女王陛下のご結婚以来、正式に同盟を結んだガリアからの船舶数が急増した。だが、私は敢えて入国の審査は厳しくしている」

 ジュビリーは頷くと「賢明なご判断です」と言い添える。

「元々ガリア人はアングルを見下す輩が多いからな。押し寄せる人数が増えれば厄介事も増える。港でもつまらん小競り合いが多い。まぁ、それはいい」

 そこで息をつくと、ウィリアムは苦々しい表情で懐に手をやった。

「先日、ガリアからやってきた不審な一団をホワイトピーク郊外で拘束した。すると、こんな書き付けを持っていた」

 ウィリアムが差し出した手紙をじっと見つめる。折り畳まれた羊皮紙。黙って受け取ると静かに広げる。そこには予想に反してアングル文字が並んでいた。文章を読み進めるうち、ジュビリー顔色が青ざめる。

「公爵……!」

 大きく見開いた目を向けられ、ウィリアムは苦笑いを浮かべて頷く。

「その書き付けによれば、『私』は機を見てイングレスに攻め込み、王位を簒奪することになっている。そのためにエスタド王ガルシアに協力を要請する密書だ」

「ガリア人が何故、このようなものを……!」

「ガリアがでっち上げたとは限らん。ガリアを装ったエスタドの謀略かもしれぬ。あるいは」

 ウィリアムはじっとジュビリーの目を覗きみた。

「私の失脚を狙ったアングル人か」

 その言葉を最後にウィリアムは口を閉ざした。二人の男は沈黙を守ったまま見つめ合う。と、唐突に鳥が鋭い鳴き声を上げる。

「……ワタリガラスか」

 ウィリアムが中庭から飛び立った黒い鳥を眺めて呟く。ジュビリーは静かに息を吐き出した。そして、憎々しげに書き付けを凝視する。

「こんなものが出回ったら……」

「充分予想できたことだ」

 だが、これがもしもキリエの目に触れたら。想像するだけで背筋が凍りつく。思わず口許を歪めるジュビリーの肩を叩くとゆっくりと言い含める。

「これは氷山の一角だ。そして、相手は一人とは限らん。落ち着いて対処せねば」

「……はっ」

 ジュビリーは気を落ち着かせるように再び息を吐き出した。

「……警戒を強めます。イングレスを含め、国内に外国人が増えたという報告は受けています」

「うむ。決して油断はするな」

 そして、もう一度書き付けに目をやると眉をひそめる。

「……陛下には」

「彼女には知らせない方が良いだろう。だが……」

「モーティマーに警戒を怠らぬよう伝えましょう」

「それが良いな」

 ウィリアムは憤然とした表情で腕を組むとふんと鼻を鳴らした。

「どこの誰だか知らぬが、このような小細工。絶対に許せぬ。……誰かがアングルを内部から崩壊させようとしている。誰かがな」

 その言葉に、ジュビリーは思わず空を仰ぎ見た。キリエが心配でならなかった。海を越え、遠い異国に連れ去られたキリエが。アングルにいればこの手で守るのに……! ジュビリーは目を眇めると手にした書き付けを握り潰した。


 それぞれの思いを胸に、時はやがて十一月を迎えた。初冬の寒さにも関わらず、どこか浮き足立った華やぎにキリエ自身もどこかそわそわと落ち着きをなくしていたが、ついに十一月十六日の朝を迎えた。

「おはよう」

 ぼんやりと目を覚ましたキリエの目にギョームの笑顔が飛び込む。驚く妻に覆い被さるようにして唇を塞ぎ、キリエは朝から胸が破裂しそうになった。

「ギョーム……!」

 顔を真っ赤にして囁く妻の手を引いて体を起こす。

「今日は一日忙しいぞ、キリエ」

「ま、待って、ギョーム……!」

 ギョームの手でキリエは女官に託され、衣装部屋に直行する。

「大張り切りでございますね、陛下」

 着替えを手伝いながらジゼルがくすくすと笑いかける。

「楽しみだけど、何だか心配だわ。興奮しすぎじゃない?」

「大丈夫でございますよ」

 着替えが終わり、大広間へ向かうとそこは一夜にして華やかに飾り立てられていた。壁という壁にはいつにも増して彩り鮮やかなタペストリーが掛けられ、テーブルには冬でも可憐に咲き誇る花々―パンジーやデイジー、ギョームの母と同じ名のマーガレット―などが色を添えている。食堂で待っていた廷臣や侍従たちが恭しく跪く。

「おはようございます、陛下。王妃、ご生誕日おめでとうございます」

 バラが一歩前へ出ると深々と一礼する。

「おめでとうございます、王妃。今日一日はギョーム王陛下と共に、素晴らしい時を過ごしていただけるでしょう。どうか、お楽しみ下さいませ」

「……ありがとう、アンジェ侯」

 思わずぎこちなく言葉を返す。キリエは、バラから王を拒むなと言い含められたことを誰にも言わずに胸にしまっていた。ギョーム本人にはとても言えないし、マリーに相談して自分以上に悩ませることもしたくなかった。だが、当のバラは落ち着き払った様子で自分を見守ってくる。キリエは複雑な顔つきでガリアの宰相を見返した。

 テーブルには、いつも以上に趣向を凝らした料理が並べられている。

「十六歳おめでとう、キリエ。そして、即位一周年だな」

 ギョームは笑顔でキリエとゴブレットを合わせた。

「ありがとう、ギョーム」

 大広間では、二人のために楽師たちが爽やかな朝に相応しい楽曲を奏でている。

「昼から祝宴が開かれる。その前に、そなたに贈り物があるのだ」

 楽しみで仕方がない、といった表情の夫にキリエも嬉しそうに微笑む。

「まぁ、何かしら」

「食事が終わったら見に行こう」

 キリエは首を傾げた。

「そんなに大きなものなの?」

「それは行ってからのお楽しみだ」

 朝から華やかな食事が済むと、キリエは中庭へと連れ出された。その時に着せられた金糸の縫い取りがされた典雅なガウンも、生誕祝いの品だ。内側は柔らかな兎の毛でできており、キリエはその温かさに少しだけ心が痛んだ。教会で過ごしていた頃はこんな贅沢なものは身に付けられなかった。故郷でも、このガリアでも、寒さと飢えで苦しんでいる者はたくさんいよう。どうしても、頭の片隅でそんなことを考えずにはいられなかった。だが、晴れ晴れとした笑顔で自らの手を握り締めてくる夫を思うと、素直に感謝しなければと思い直す。

 手を取り合って庭園を歩いていると、巨大な白い幕を張り巡らした一角が見えてくる。

「何?」

「あれだ。あれが、そなたへの誕生祝いだ」

 キリエが目を丸くして幕を見つめる。ギョームが目配せをすると、侍従たちが幕の端を持つ。

「さぁ、開けてくれ」

 その言葉に侍従が一気に幕を引きおろす。と、そこに薔薇の蔓で作られたアーチが姿を現す。そして、その先にはキリエにとって見慣れた草花が。

「……!」

 キリエは思わず小走りにアーチを潜った。セージやミント、ローズマリー、タイムといった、控えめだが可憐な野草の花々が咲きこぼれている。綺麗に手入れをされた園の奥には、白亜の大理石で作られた四阿(あずまや)もある。キリエは目を輝かせて夫を振り返った。

「……薬草園だわ!」

「アングルで見かけた薬草園を思い出しながら、庭師と相談して作った」

「ありがとう、ギョーム!」

 キリエは侍従らの前で思わず夫に抱きついた。ギョームは満ち足りた表情で妻を抱きしめた。二人の様子を見てとると、バラは侍従らと共にその場を引き下がった。

「懐かしい……。教会を思い出すわ」

 キリエは目を嬉しそうに薬草園を見渡した。

「良かった。こんなに喜んでもらえるとはな」

 優しく肩を撫でられ、キリエは急に胸が高鳴ると頬を染めて黙り込んだ。ギョームは目を細めて薬草園を眺めた。

「薬草園は私にとっても大事な場所だ」

 ギョームの言葉にキリエはかすかに首を傾げて見つめてくる。

「結婚の返事をもらったのも、プレセア宮殿の薬草園だった」

「……そうだったわ」

「気に入ってもらえたかな」

 感謝の言葉が思いつかなかったキリエは、顔をほころばせると夫の首に腕を巻きつけて抱きついた。宮殿での暮らしが落ち着いてきたとは言え、心を静めて過ごせる場所はまだ少ない。これからは、この薬草園で一人になれる時間を作れるに違いない。大好きな野草に囲まれながらのひと時は、何者にも代え難い。ギョームも穏やかな表情で妻を抱きしめた。が、やがてそっと耳元で囁く。

「もう少し……、太ってもいいぞ、キリエ」

「えっ」

 驚いて体を離すキリエの細腰を両手で掴む。

「きゃッ!」

「ほら、指が届きそうだ」

「ギョーム……!」

 顔を真っ赤にして恥ずかしがるキリエに、面白がるように微笑みかける。

「あの時もそうだ。結婚を受け入れてもらえた嬉しさで思わずそなたを抱きしめたが、あまりの細さに驚いた」

 キリエの脳裏に、プレセア宮殿の薬草園で抱きしめられた光景が蘇る。

(こんな細い体で、今までお一人で戦ってきたのですか)

 あの言葉は、確かに心を打たれた。ギョームは少し目を伏せて囁いた。

「本当は……、その細い体のままでもいいのだが。ただ、そなたは少食であろう。それが心配でな」

「……ギョーム……」

 ギョームは手を腰に回すと抱き寄せ、妻の額に優しく唇を押し付けた。そして、耳元で熱っぽく囁く。

「いつまでも綺麗でいてくれ」

 キリエの胸は張り裂けそうなぐらい波打っていた。だが、必死に胸の鼓動を抑え、夫に囁く。

「晩餐を……、楽しみにしていて。リッピ殿が、私のために衣装を……」

「リッピが?」

 ギョームが驚いて顔を上げる。キリエは恥ずかしそうに呟いた。

「……あなたのお気に召すといいのだけれど……」

「それは楽しみだ」

 ギョームは嬉しそうに妻をそっと抱きしめた。


 その後、野外演劇場で演劇の上演が行われ、午餐の後の茶会ではキリエがアングルから持ち込んだハーブティーと、ギョームが作らせた新しい菓子が振舞われた。茶会の後には演習場で馬上槍試合が行われ、トーナメントが終わる頃には日も傾き始めていた。

 招かれた賓客たちは晩餐のために大広間に案内された。だが、王妃がお色直しをするとあって、多くの人々が大廊下で待ちかまえている。ひしめく人々の中から、マリーエレンはレスターの姿を見つけ出した。王妃の故郷であるアングルからは当然のことながら使節団が招かれていた。レスターはマリーに気づくと顔をほころばせ、頭を下げた。

 一方のギョームは、妻の到着を心待ちにしていた。いつになくそわそわと落ち着きのない王にバラは思わず苦笑を漏らす。やがて、大廊下の先からどよめきと感嘆の声が上がる。

「キリエ?」

 ギョームが振り返ると、人々が道を開けた先に妻とおぼしき姿が目に入る。が、彼はキリエの姿を見て息を呑んだ。

 キリエは、ギョームが好む鮮やかな青の衣装をまとっていた。彼女の痩身を引き立たせるぴったりとした上衣(カートル)。金糸の刺繍が施された胸当てに、美しい細腰を強調する黄金色のサッシュベルト。胸元を露出したくないキリエのために、美しく繊細なレースの襟飾りが首元を覆っている。円錐形の帽子の上から純白の頭布を被り、華やかながらもどこか修道女を連想させる。

 普段よりは少し化粧を施した王妃は、まさに光を放つように美しかった。ガリアの女たちは自分たちの衣装を見やった。大きく開いた胸元はふしだらに見えるし、ゆったりした腰周りは肥満を思わせる。女たちはキリエの衣装を食い入るように見つめた。いつもは地味なキリエの変貌ぶりに皆羨望の眼差しで喝采を送る。アングルの使節団も、女王の晴れ姿に言葉を失った。

「キリエ……!」

 思わずギョームが小走りに駆け寄ると両手を握る。

「見違えたぞ!」

「お、おかしくない?」

「いや、綺麗だ。本当に……」

 ギョームは言葉に詰まると妻をぎゅっと抱きしめた。

「皆が驚いている……。私もだ……!」

「……よかった……」

 キリエはほっとして囁いた。体を離すとギョームは辺りを見渡し、リッピの姿を見つける。

「リッピ! 本当にそなたが手がけたのか?」

 画家は満面の笑みを浮かべて深々と一礼した。

「はい。さすが大陸文化の中心、オイールでございますな。私が考えた通りの衣装に仕上げていただきました」

「礼を言うぞ。そなたにこんな才能まであったとはな」

 ギョームは妻と画家を連れて大広間へと向かった。女たちは王妃の衣装がリッピの手によるものだと知って、彼の一挙手一投足に注目した。

 大広間は贅を尽くした飾り付けがなされ、すでに楽団が演奏を始めていた。色とりどりの料理が所狭しと並べられ、食欲をそそる香りが満ちている。本来ならば、自分たちの結婚式はこんな風に皆に祝福されるはずだった。そう思うとキリエは少し感傷的に目を伏せた。

 王と王妃がテーブルに着くと、アングルの廷臣団がやってくる。

「おじ上! レスター!」

 二人の顔を見てキリエが嬉しそうに声を上げる。が、すぐに顔をしかめる。……ジュビリーがいない。

「ギョーム王陛下、お招きありがとうございます。キリエ王妃、ご生誕日おめでとうございます。そして、無事にご即位一周年を迎えられましたこと、心よりお祝い申し上げます」

 ウィリアムの祝辞に微笑を浮かべて会釈を返す。ジュビリーがいないことに心を乱されながらも、彼女はレスターに声をかけた。

「船酔いは大丈夫?」

「この度は酔い止めを処方していただきました」

「そう」

「あまり効きませんでした」

 肩をすくめる老臣にキリエがくすくすと笑いを漏らす。すると、隣に座したギョームが身を乗り出した。

「クレド侯は?」

 王の言葉にウィリアムが申し訳なさそうに眉をひそめる。

「お許し下さい。共にこちらへ参る予定でございましたが……。実は少々体調を崩しておりまして」

 キリエが目を見開いて口許を隠す。

「侯爵は祝宴に水を差すような失態は許されないと、大事をとってこの度の出席は見送ることに……。両陛下にお許しいただきたいと申しておりました」

 レスターがそう付け加え、キリエは失望を顔に出さぬよう、必死で無表情を装った。だが、ギョームはそっと妻に寄り添うと笑みを浮かべて呟いた。

「残念だったな」

 ウィリアムは眉をひそめ、レスターは顔を引きつらせた。

「綺麗になったそなたを見てもらいたかったのにな」

 目を伏せたキリエには夫の表情はわからなかったらしい。

「だが、今のアングルにとって彼はなくてはならぬ存在だ。無理をさせてはならないな」

 キリエは思い詰めた表情で頷いた。

「私の代わりにアングルを治めてくれているから……」

 だが、その表情がやがて崩れる。ふてくされたようにわずかに唇を尖らし、ぽつりとこぼす。

「でも……、こんな時に体調を崩さなくても」

 レスターは、ギョームの口元に満足げな笑みが広がるのを見てごくりと唾を飲み込んだ。

「きっとマリーも会いたかったはずですわ」

「そうだな」

 ギョームは再び廷臣団に向かって呼びかけた。

「ホワイトピーク公、クレド侯にお伝え下さい。体調には万全を尽くすよう。女王陛下がご心配なさっておる」

「はっ。きつく、叱っておきます」

 ウィリアムがわざとしかめっ面をして仰々しく跪く。ギョームは笑顔でゴブレットを掲げると、妻にも杯を促した。

「ガリアとアングルの永久の平和を願って、乾杯しよう」


 乾杯の後、廷臣同士の挨拶が終わると、使節団の元にマリーとジョンがやってくる。王と王妃がウィリアムと話し込んでいるのを眺めながら、マリーは声を潜めて尋ねる。

「兄上の容態は? 本当に悪いの?」

「いえ、ご心配なく。……方便でございます」

 レスターの言葉にマリーは溜息をつく。

「やっぱり。……では、どうして?」

「……ガリアに行きたくない、と」

「子どもじゃあるまいし!」

 思わず声を上げる妻にジョンは戸惑いの表情ながらも制する。

「侯爵は……、ギョーム王の機嫌を損ねないよう振る舞う自信がない、と仰せでした」

 三人は黙り込んだ。キリエがジュビリーに全幅の信頼を寄せていることを、ギョームが快く思っていないことには皆が気づいていた。下手をすればキリエにも影響が及びかねない。だが、一人思い詰めた表情のジョンは胸の中で呟いた。

(……それだけではないだろう)

 彼はキリエとギョームが楽しそうに寄り添う姿を眺めた。二人の仲睦まじい様子を目にしたくはないはずだ。ジョンはやるせない気持ちで頭を振った。

「ただ、侯爵の体調が過労で思わしくないのも事実でございます。……ご本人は決してそのようなことは口にはいたしませぬが」

 マリーとジョンが眉をひそめて振り返る。レスターは周囲に目をやると二人に身を寄せる。

「それに加え……、現在アングルには大陸からの間諜が大勢潜入していると見られ、一時の気の緩みも許されませぬ。それもあって、今回の渡航はお見送りに」

 老臣の目を覗き込み、しばし黙り込んでいたジョンは静かに頷いた。

「……わかった。こちらも充分に警戒しよう」

「お願い申し上げます」

 と、大広間に、一段と大きな演奏が始まる。三人が振り返ると、王と王妃が手を取り合って踊り始めるところだった。キリエは、戴冠式での失態を伝え聞いたルイーズによってダンスの猛特訓を受けていた。おかげで、二人のダンスは流れるように美しかった。

「……マリー様」

 思わず見とれていたマリーにレスターが囁く。振り返ると老臣は眉をひそめ、心配そうに呟いた。

「侯爵は、本当はあなたにお会いしたくて仕方がないご様子でした。あなたのお体を……、心からご心配されております」

 マリーは手を握りしめた。兄の妻は出産時に命を失った。兄は、自分の妊娠を喜ぶと同時に恐れているに違いない。その時、ジョンがそっと手を握ってきた。見上げると、夫は力強い瞳で黙ったまま見つめてくる。ほんの少し微笑むと、マリーはレスターを振り返った。

「……兄上に伝えて」

「はい」

「私もお腹の子も元気よ。体には充分気をつけます。だから、兄上も無理しないで、と……」

「……はい」

 三人は再びキリエたちを眺めた。キリエは、端から見れば幸せそうに優雅なダンスを披露している。複雑な表情で見守るレスターに、マリーがそっと呟く。

「……本当に、レディ・ケイナに似てこられたわね」

「……はい。お綺麗になられました」

 レスターの脳裏に、若く美しいケイナの姿が蘇った。王の目に留まり、愛妾として迎えられ、豊かな暮らしを約束されたが、それと引き換えに結婚という女性としての本来の幸福を奪われたケイナ。生まれた子も将来が約束されているどころか、政争に巻き込まれる可能性があった。レスターは、無邪気に遊ぶ幼子キリエを見つめながら、思い詰めた表情をしていたケイナをよく見かけたことを思い出した。そして今、キリエはアングルの女王になり、ガリアの王妃となった。今、ケイナに「娘は幸せか」と問われたら、何と答えれば良いのだろう。レスターは沈痛な表情で目を伏せた。

 一方、キリエは微笑みながらギョームが耳元で囁く言葉に聞き入っていたが、ふっと会場に目を向けた。豪華絢爛な晩餐会場。自分たちを羨望の眼差しで見つめる貴族たち。見たこともないような珍しい料理。香しい芳香がたゆたい、流麗な音楽が流れている。キリエは眉をひそめると目を伏せた。

 教会を出て三回目の誕生日。最初はクレド城でジュビリーとダンスを楽しんだ。二回目はアングル女王の戴冠式と共に誕生日を祝い、その時にギョームから求婚された。そして今、ガリア王妃として異国で誕生日を祝っている。夢のような贅を尽くした祝宴だが、クレド城での誕生日がどうしても忘れられない。それと同時に、教会で過ごした日々が脳裏に蘇る。

 静かな教会で祈りを捧げる毎日。鐘楼から田園風景を眺めていたあの日々。あの頃に比べて、自分はずいぶんと汚らわしくなった気がする。強くはなった。だが、したたかで、小賢しく、腹黒くなったのではないか。そんなことを考えていると、ギョームが呼びかけられる。

「キリエ」

 夫の目が見られず、キリエは俯いた。

「どうした」

「私……」

 キリエはか細い声で囁いた。

「私、こんな所にいていいの……?」

「何を言う」

 ギョームは顔をしかめると妻の顔をのぞき込む。

「私、アングルの片田舎で育った修道女よ。あなたには……、ふさわしくない」

「キリエ」

 ギョームはたしなめるように囁いた。

「よく聞くのだ。教会で過ごした十年は、失われた十年だ」

 キリエは眉をひそめて顔を上げた。ギョームは真顔で囁いた。

「本当ならば、そなたはイングレスで生まれ、そのままプレセア宮殿で育つはずだったのだ。……王太子殿下がご存命ならば、そなたが王位を継ぐことはなかったのだろうがな」

 キリエは体を強張らせ、動揺して目を左右に彷徨わせる。その王太子を殺したのはジュビリーだ。彼女は、夫に秘密を見透かされているようで恐ろしくなった。落ち着きをなくした妻の頭をそっと包み込むと、自分の胸に押しつける。

「……怖いか?」

 ギョームの声は優しかった。

「修道女から女王になり、そしてガリアの王妃になった。……怖がるのも無理はない」

「……ギョーム……」

 ギョームは妻の耳元で囁いた。

「私だって、一人でガリアを支えるのは怖い。だが、そなたがいる。……もう、独りじゃない」

 もう独りじゃない。かつて同じ言葉をジュビリーに告げたことを思い出す。キリエはそっと顔を上げた。ギョームは柔らかな微笑で見つめてくる。ああ、この笑顔だ。自分はこの笑顔に惹かれずにはいられない。キリエはつないだ手を強く握りしめた。すると、ギョームは腰を屈めると突然唇を合わせてきた。思わずステップを止め、その場に立ち尽くす。同時に周囲の人々から一斉に拍手喝采が巻き起こった。二人は、鳴り止まぬ喝采を浴びながら口付けを交わした。


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