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女王キリエ  作者: カイリ
第8章 落日の慟哭
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第8章「落日の慟哭」第8話

レノックスの死を胸に抱いたまま、ガリアに帰国したキリエ。だが、そんな彼女に忍び寄る新たな影。第8章完結!

 ジュビリーらはイングレスへ戻ると休む暇もなく戦後処理に追われた。ルール城とマーブル城、及びタイバーンの城館を管理下に置き、事態の収拾に努める。キリエがガリアへ帰っていった数日後、ようやくジュビリーは束の間執務室で腰を落ち着けた。

「侯爵。ヒース司教からのご伝言です。ルール公の埋葬が無事に終わったそうです」

「……そうか」

 レスターの報告にジュビリーは険しい表情のまま、机に向かっている。

「マーブル伯の行方は依然不明です」

「……愛人の娘を放っておくとは思えん。ベイズヒル宮殿の警備は万全にしておけ」

「その、レディ・エレソナの件ですが……」

 老臣が言い淀み、宰相が目を上げる。

「処分が甘すぎるのではないかと諸侯らが不満を口にしているようです。……ルール公が討ち死にした一方で、レディ・エレソナはイングレス郊外の宮殿で下にもおかぬもてなしを受けていると」

 もてなしなどではない。だが、エレソナの体を気遣い、少しでも過ごしやすい環境にするようにとキリエが指示を下したのは事実だ。小さな塔で過ごした十二年間を思い出させるようなことはしたくない、とキリエは哀しげに呟いていた。しかし、人々がそれに納得しないのも無理からぬこと。本来、君主への反逆は死をもって贖うべきだからだ。ジュビリーは額を押さえ、険しい顔付きで口を開く。

「……エレソナは重病だということにしておけ」

「はっ」

 レスターは溜息をつくと独り言のように呟いた。

「まさかご結婚から二ヶ月でご帰国になるとは……、予想外でしたな」

 老臣の言葉にジュビリーは険しい顔をますます強張らせた。レスターは、あの日自分を抱き締めた女王を思い出すように、右手をそっと見つめると目を細めた。

「少しお痩せになられたような……。しかし、元が細いお方故。……侯爵なら、お触れになれば少しの違いもおわかりになるのでしょうが」

 レスターの言葉にジュビリーの表情が変わる。

「侯爵にお会いになれたことで、キリエ様もご気分が落ち着いたことでしょう。……あなたも」

「レスター!」

 途端にジュビリーが声を荒らげる。だが、レ本人は顔色も変えずに宰相を見つめ返した。その瞳は、何物にも動じない強い光をたたえている。

「何が言いたい……!」

 眉間に深い皺を刻み、口許を歪めて睨み付けるジュビリーにレスターは諭すように言い含める。

「キリエ様が耳打ちなさいました。あなたが心配だと」

 ジュビリーは狼狽を隠すように顔を背けたが、レスターは追い討ちをかけるように続けた。

「私も心配です。あなたを見るギョーム王の目が……、気になって仕方ありませぬ」

 口をつぐんだまま、机の上で拳を握り締める彼に、レスターは気の毒そうな表情でそっと寄り添う。

「……そろそろ、再婚なさってもよろしいのでは。そうすれば、キリエ様も諦めが……」

「黙れ!」

 ジュビリーは思わず右手で顔を覆った瞬間、腕に激痛が走る。

「……ッ!」

「侯爵」

 ジュビリーは顔を歪めると机の上に突っ伏した。そして、思わず左手で右腕をさする。彼が身を挺してキリエとその夫を守った証の傷だ。レスターが眉をひそめ、召使を呼ぼうとベルに手を伸ばした時。

「……レスター……」

 くぐもった声が彼を呼び、手を止める。宰相はしばらく顔を伏せたまま、動こうとしなかった。レスターは身を屈めると囁いた。

「あなたを一人にしないようにと、キリエ様が……。私は、あなたを支えることが自らの使命だと思っております」

 返事がない。レスターは哀しげに目を伏せた。

「……あなたのことを気にかけながらお亡くなりになった、ベネディクト様のためにも」

 ジュビリーはゆっくりと顔を上げた。乱れた髪に隠れ、表情はわからない。黙ったまま辛抱強く見守るレスターに、ジュビリーは搾り出すように囁いた。

「……もう、キリエを守る必要はない」

 レスターが顔をしかめる。

「私はもう必要ない」

「侯爵……!」

 彼は険しい顔付きで宰相の肩を掴んだ。

「あなたには責任があります! おわかりでしょう!」

 その言葉にジュビリーは奥歯を噛み締めた。長い沈黙の果て、やがてぽつりと呟く。

「……守るべきものは全て奪われた」

 彼の悲痛な思いに、レスターは胸が痛んだ。


 エスタドのピエドラ宮殿。後宮の一角から、明るい笑い声が漏れ聞こえる。

「どうだ、このけむくじゃらな帽子と言ったら! こんな物を皆が被っていると思ったら大笑いだ!」

「まぁ、父上ったら!」

 広間では、三人の娘たちに囲まれたガルシアが深い毛並みの帽子を被っておどけている。極寒の地クラシャンキ帝国から献上された毛皮の帽子を早速娘たちに披露しているのだ。転地療養をしていた下の娘たち、イサベラとアンヘラが数ヶ月ぶりに王都に戻り、ガルシアは上機嫌だった。そんな父王をフアナが嬉しそうに見守る。

「でも、こんな帽子を被るなんてクラシャンキはよほど寒いのでしょうね、父上」

「そうだな。もしもエスタドが同じぐらい寒かったら、おまえたちの体にも障るからな」

 イサベラとアンヘラは、物珍しそうにクラシャンキの帽子や衣装を触ったり、被ったりしては笑い声を上げている。娘たちの無邪気な笑顔を見るガルシアの表情は幸せそのものだ。が、不意に背後から女官に声をかけられる。

「……陛下」

 振り返ると、広間の入り口にビセンテが佇んでいる。彼は中へ入ってこようとはせず、険しい表情で頭を下げた。ガルシアが立ち上がろうとすると、末娘のアンヘラが声を上げる。

「ビセンテ! あなたも被ってみて!」

 王女の言葉に宰相は苦笑してみせる。

「殿下、それは御免被ります」

「どうして? 絶対似合うわ!」

「そう、似合いすぎてとんでもないことになります」

 ビセンテの言葉に娘たちは笑い声を上げると彼の手を引いて広間へ連れ込み、無理矢理帽子を被せる。

「ほら、クラシャンキ人だわ!」

「うふふ、本当に似合ってる!」

 けたたましい笑い声に包まれ、ビセンテはわざと強面の表情をしてみせる。ひとしきりビセンテ相手に妹たちを遊ばせていたフアナが声をかける。

「さぁ、父上とビセンテはこれから執務にお戻りよ。お見送りを」

 妹たちは途端に寂しげな顔つきになるが、素直に立ち上がると一人一人父親を抱き締める。

「今夜の晩餐が楽しみだ。それまで姉上の言うことをよく聞くのだぞ」

「はい」

 娘たちに見送られ、ガルシアはビセンテと共に広間を出る。

「どうした、何かあったのか」

「アングルのルール公が戦死したそうです」

 ビセンテの冷静な口調で言い放たれた言葉にガルシアが歩みを止め、宰相を凝視する。

「……処刑ではないのか」

「討ち死にだそうです。女王の異母姉、エレソナ・タイバーンは捕らえられ、幽閉されています」

 ガルシアは思案深げに黙り込むと顎をさすった。

「異母兄挙兵の報で女王はアングルに一時帰国したようです。今頃、ガリアに戻っていることでしょう」

「……修道女が、兄を殺した……」

 王はゆっくりと噛み締めるように呟いた。

「処刑ではありませぬが……」

「同じことだ」

 ガルシアの言葉に、ビセンテは重々しく頷く。王はにやりと笑いかけた。

「由々しきことだ。修道女が罪を犯したとあっては、ヴァイス・クロイツ教徒として見逃せぬ。クロイツに告発しよう」

「しかし、大主教は罪人ルール公を討伐したと見なすでしょう」

「修道女が兄を死に追いやったことが問題なのだ。聖女王が告発されれば、国民は動揺するだろう」

 ガルシアは再び歩みを進めた。

「アングルとガリアに揺さぶりをかけろ。両国の関係が揺らげば、他の小国どもも慌てふためくだろう」

「御意」

 先ほどまで娘たちと笑い声を上げていた〈エスタドの大鷲〉は、瞳に鋭い光をたたえて後宮を後にした。


 王と王妃が無事にビジュー宮殿に戻ると、人々は皆ほっとして迎え入れた。明るく振る舞うものの、ともすれば沈みがちなキリエにさすがのルイーズも静かに出迎える。身を清め、着替えを済ませて私室に戻るとジョンとマリーが訪れた。

「王妃……」

 マリーの顔を見ると、安心したキリエはどっと疲れを感じた。思わずマリーに抱きつく王妃を見てとると、ジゼルは他の女官らを連れて退出していった。

「……ルール公のこと、お聞きしました」

 マリーの言葉にキリエは無言で頷く。

「……キリエ様のお祈りは、きっと天に届きますわ」

「……ありがとう」

 キリエはそっと顔を上げた。そして、後ろで控えているジョンに微笑みかける。

「留守中、国境警備で大変だったでしょう。お疲れ様」

「何のこれしき、大したことではありませんよ。もちろん、油断は禁物ですが」

 マリーの妊娠がわかってから、ずいぶんと立ち居振る舞いが落ち着いたジョンは穏やかな口調で囁いた。キリエは頼もしげに見上げた。

「そうよね、これからお父様になるんだもの、これぐらい平気よね?」

「はい!」

 勢いよく返事をするジョンに、キリエとマリーはようやく笑顔になる。

「そうだわ。ジュビリーから手紙を預かってきたの。二人が元気だということは伝えたのだけど、忙しくてゆっくり話もできなかったから」

 そう言って手紙を差し出す。

「読んでみて」

「ありがとうございます」

 手紙を受け取ったマリーが眉をひそめ、心配そうに尋ねる。

「……兄の怪我は……」

 キリエは小さく頷いた。

「本人は大丈夫だと言っていたけど、レスターの話ではまだ剣が握れないらしいわ」

「……そうですか」

 ギョームが指摘したように、少し痩せていたのも気になったが、これ以上マリーを心配させたくなかったキリエは黙っていた。

 ジョンとマリーはそれぞれ自分宛てに書かれた手紙に目を通す。すると、ジョンの顔が青ざめる。

「どうしたの?」

「……お叱りの言葉が……」

「えっ」

 ジョンは眉をひそめてぼそぼそと呟いた。

「……妻の妊娠を聞いて気を失う奴があるか、と……」

「それはそうだわ」

「仕方ないわね」

 二人に突き放され、しょげ返るジョンにキリエが思わず吹き出す。夫とキリエが会話を交わす様子を眺めてから、マリーは手紙に目を落とした。しばらく読み進めていたが、やがて眉をひそめる。そして、恐る恐る上目遣いにキリエを見つめる。彼女の視線に気づいたキリエが無邪気に尋ねる。

「マリーは? 何て書いてある?」

「……懐妊おめでとう、と……」

「それから?」

 マリーは何故か顔を強張らせて続けた。

「体を大事にするように。滋養のあるものをしっかり食べよ……」

 ジュビリーらしい言葉だ。キリエは穏やかに耳を傾けた。

「……おまえは、放っておいたら何日でも不眠が続くのが気がかりだ。しっかり、眠るよう……」

 ジョンが目を見開き、思わずキリエを振り返る。キリエも顔を引きつらせてマリーを見つめる。これは、マリーエレンに向けられた言葉ではない! マリーは、声を低めて読み上げた。

「……ビジュー宮殿には様々な人間がいるだろう。辛いとは思うが、おまえにはおまえを守ってくれる夫が側にいることを忘れるな。……夫を信じて、日々を過ごすよう……」

 三人は思わず息を潜めて見つめあった。やがて、キリエは目を潤ませながら囁いた。

「素敵な兄上ね」

 マリーも控えめに微笑むと頷いた。

「……最高の兄です」


 王と王妃が無事に帰国し、ようやく平穏な日常が戻りつつあるビジュー宮殿の一角で、後宮の廊下を小走りに行く女官の姿があった。白亜の彫像が無言で並ぶ奥まった廊下で辺りを見渡していると、不意に背後から名を呼ばれる。

「ジゼル」

 振り向くと、彫像の影からバラが姿を現す。瞬間、ジゼルの顔に笑みが咲きこぼれる。

「アルマンド様!」

 まるで子どものように飛びつくジゼルを愛おしげに抱き締める。

「無事でよかった」

「不安だったわ……。内戦の時を思い出して……」

 愛人の囁きにバラは優しく口付けを落とす。ジゼルは満ち足りた笑顔で頬を摺り寄せる。普段キリエの側でかしずく姿からは想像もできない。

「イングレスはどうだった」

「田舎だわ」

 ジゼルは茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

「王妃と同じ、地味な宮廷だったわ」

「君主が修道女だからな。派手になりようがない」

「王妃も、せっかく可愛らしいのだからもっと着飾ればよろしいのに……」

 言いながらバラの胸に顔を埋め、甘えてくる愛人に目を細めて囁く。

「……アングルの宰相を見たか」

「クレド侯? なかなか素敵なお方だったわ。でも、私はあんな無骨な殿方は嫌」

 無骨か。バラの口許に冷たい笑みが浮かぶ。

「……そなたに頼みがある」

 バラは腰を屈め、ジゼルの耳元で囁いた。

「その無骨な宰相を籠絡してくれ」

 途端に顔を歪めたジゼルが顔を上げる。そして、わずかに顔を青ざめさせて呟く。

「……どうして……!」

「そなたにしか頼めぬ。信頼できるそなたにしか。あんな男などたやすかろう」

「……ひどいわ」

 ジゼルは低く呟くとバラにすがりついた。そして、思い詰めた表情で言い添える。

「……無理よ。あの方は、王妃しか見ていないわ」

「陛下もそれに気づいている」

 ジゼルは恐々と顔を上げた。バラはじっと真っ直ぐ見つめてくる。

「……陛下からのご命令?」

「いや、私の独断だ。だが、陛下のため、ガリアのためだ」

「何を企んでいるの……?」

 バラはうっすらと笑みを浮かべた。

「女王がガリアに嫁した今、アングルは事実上クレド侯が統治している。彼が健在ならアングルは安泰だ。だが、それでは困る」

 愛人の不穏な言葉にジゼルは不安げな表情で聞き入る。

「アングルの女王と結婚した以上、陛下にはアングルも支配下に置いてもらわねばならん。クレド侯が失脚すれば……、女王の王配が実権を握れる」

 ジゼルは息を呑んでバラを上目遣いで見つめた。愛人は自信ありげな表情で微笑んでいる。

 彼が策略好きなのはジゼルもよく知っていた。内戦中、バラが王を裏切り、王太子に寝返ったと聞いた時も驚かなかった。彼は機を見るに敏な上、世渡りがうまい。そして、平気で人を裏切る。彼の本当の望みは何なのだ。国の隆盛を願っているように見せかけて、底なしの欲望が見え隠れしている。その為には、汚い手でも使う。ジゼルは目を伏せたままバラをそっと抱き締めた。

「……ひどい人」

 ジゼルの言葉にバラはゆっくり髪を撫で、顔を上げさせると優しく唇を重ねた。


 異母兄の挙兵で帰国し、再びガリアへ戻ったキリエの生活は少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。その頃合を見計らい、レイムス公妃ロベルタがキリエをロシェ宮殿に招いた。

 こぢんまりとした美しい中庭で、ロベルタとキリエはハーブティーを楽しんでいた。

「少しは落ち着かれたかしら」

 ロベルタの問いにキリエは微笑んだ。

「ええ。ご心配おかけしました」

 レノックスのことは頭を離れない。だが、女王として、王妃としての生活はこれからも続いてゆく。いつまでも哀しみと罪悪感に囚われていてはならない。キリエはそう自分に言い聞かせた。ロベルタが肩にそっと手を添えた。

「……私も、少しだけお気持ちがわかりますわ。夫も実の兄と戦い、死に至らしめてしまったのですもの」

 キリエはカップを皿に置くと俯いた。

「……ギョームが言っていました。どんなに非の打ち所のない君主であっても、為政者は人々の恨みや憎しみを背負う運命にあると」

「だから、私たちが支えなければならないのですわ」

 ロベルタの言葉にキリエは微笑む。彼女は強い。そして、本当に夫を愛している。自分も、彼女のようになれるだろうか。話題を変えるように、ロベルタがカップを持ち上げて微笑む。

「王妃からいただいたこのハーブティー、本当に美味しいですわ。ご存知ですか。今、宮廷ではひそかにハーブティーが大流行なのですよ」

「そうなのですか?」

 ロベルタは片目を瞑ってみせた。

「皆、王妃に嫌がらせをしておきながら、その実、お若くて健康的な王妃に憧れているのですわ。だから、王妃の真似をして皆躍起になってハーブティーを飲んでいるそうですよ」

 キリエが驚いて顔を赤くする。

「……知りませんでした」

「それに、ギョーム王が意外と甘いものがお好きでしょう? ハーブティーに合うお菓子を作らせているともお聞きしましたわ」

「えっ。それも知りません」

「あらあら、内緒にしておいた方がよかったかしら」

 二人が笑い合っていると、ロベルタは不意に何か思い出したように顔を引き締める。

「そう言えば……」

「はい?」

 ロベルタは周りに目をやり、侍女たちに聞こえないように声をひそめる。

「王妃の新しい女官……」

「マダム・ジゼル?」

「……彼女にはお気をつけあそばせ」

 キリエは息を呑んでロベルタを凝視する。彼女は眉間に皴を寄せて囁いた。

「彼女、アンジェ侯の愛人なんですの」

 思わずキリエは手で口元を覆う。そして、早鐘のように打ち鳴らされる胸を押さえる。

「ご夫君が亡くなられた後からですけれど、侯爵にはもちろん妻子がいるわ。私、アンジェ侯も好きになれなくて」

「……マダム……」

 キリエの脳裏に、いつも洒落た身なりで物腰の柔らかなバラの姿が浮かんだ。特に好きでも嫌いでもなかったが、ギョームが信頼している宰相という目で見ていたため、衝撃は大きかった。

 それに、ジゼル本人ももちろんそんな素振りはまったく見せなかった。嫌がらせを受けていた王妃を励まし、ルイーズやマリーと連携して色々と手を尽してくれた。教養も高く、話し上手な彼女はキリエの良い話相手だった。

(そういえば……)

 キリエは眉をひそめた。一度だけ、ジゼルに再婚しないのかと聞いたことがあった。まだ三十そこそこの若さで、魅力的なジゼルが未亡人のままでいるのはもったいない気がしたのだ。だが、彼女は曖昧な表情で言葉を濁すに留まった。もちろん、それ以上追求するつもりもなく、キリエはそれっきりその話題には触れなかった。

「それに、彼も元はリシャール様の寵臣だったのに、後からギョーム王陛下に寝返った過去があるわ。……陛下も、心からアンジェ侯を信頼なさっているとは思えませんわ」

 ロベルタの言葉が黒い霧のように心に忍び込み、キリエは不安になった。何故、アンジェ侯の愛人が自分の女官に? バラは何を考えているのだ。ギョームはこのことを知っているのだろうか。

「余計なことかもしれませんが、彼女には充分ご用心なさって、王妃」

 ロベルタの言葉に、キリエは黙って頷いた。二人が押し黙ってテーブルに向かっていると、不意に元気のいい声が上がる。

「王妃! いらっしゃっていたのですね!」

 振り返ると、息を切らして少年が駆け寄ってくる。ロベルタの息子、アンリだ。

「こんにちは、アンリ様」

「母上、王妃がいらっしゃっているのなら早く呼んで下さればよかったのに!」

「うふふ、おまえは本当に王妃が好きなのね」

 母親の言葉にアンリは真っ赤になって慌てふためき、キリエは声を上げて笑った。アンリは八歳。父親によく似て礼儀正しく、元気のいい少年だ。一人っ子のギョームは年の離れたこのいとこを弟のように可愛がっている。三人が他愛もない話を続けていると、やがて侍女がやってくる。

「王妃、ビジュー宮殿から使者が。すぐお戻りになるようにと、陛下が……」

「まぁ、何かしら」

 キリエは慌てて立ち上がった。

「マダム・ロベルタ、お招きありがとう。今度は私がご馳走しますね」

「うふふ、内緒話ならここがよろしいかも」

 ロベルタの冗談に、キリエは思わず苦笑を漏らす。そして、少し残念そうな顔付きのアンリにも優しく呼びかける。

「アンリ様、今度ビジュー宮殿においで下さい。ギョームと一緒にお茶をしましょう」

「はい!」


 急いでビジュー宮殿に戻り、大広間へ向かうと久々に機嫌がよさそうなギョームが待っていた。

「おば上の所へ行っていたのだろう? 急に呼び戻してすまなかった」

「構いません。何かあったの?」

「そなたの友人が会いに来ている」

 友人? 首を傾げる妻に、ギョームはいたずらっ子のように微笑む。

「入れ」

 ギョームの言葉に、大広間に数人の男たちが入ってくる。その中心にいる男を見て、キリエはあっと声を上げる。

「リッピ殿!」

「ご無沙汰しております。キリエ王妃」

 カンパニュラ人画家、ヴァレンティノ・リッピ。彼は相変わらず人懐っこい笑顔でその場に跪いた。

「お久しぶりね! お元気だった?」

「ええ、おかげ様で。実はこの度のご成婚を祝して、お二人を描かせていただきたいと……」

「まぁ」

 キリエが驚いて夫を振り向く。ギョームは満足そうに満面の笑みを浮かべている。

「すごいことだぞ、キリエ。あのヴァレンティノ・リッピが自分から描かせてくれと頼み込んでくるのだからな」

「本当に……、本当に、描いてくれるの?」

「はい。ご即位の時にそれぞれ肖像画を描かせていただきましたが、そのお二人がご成婚されたとお聞きして、何か不思議なご縁を感じましたもので」

 戸惑いの表情だったキリエの顔に、嬉しそうな微笑が広がる。

「嬉しいわ……。会いに来て下さっただけでも嬉しいのに……」

 キリエの笑顔にギョームがどこかほっとした顔つきになる。

「……そなたの笑顔を久しぶりに見た気がするな」

 キリエが思わずどきりとして夫を見上げる。ギョームは微笑むと妻の頬を撫でた。そして画家を振り返る。

「礼を言うぞ、リッピ。妻の笑顔を取り戻してくれたな。早速、取り掛かってくれ」

「御意」

 リッピは慇懃に頭を下げた。


 王妃の間で早速キリエのデッサンが始まった。今回もリッピは広い室内に女官を入れさせず、数人の弟子が少し離れた場所で画材を準備している。リッピは作品に取り掛かる前に、様々な構図のスケッチを数十枚描いていった。

「一年ぶりね」

「ええ」

 リッピは忙しなく手を動かしながら頷く。だが、ちらりと王妃を見やると顔をしかめる。

「しかし、王妃、いけませんな」

「えっ?」

「ご結婚なさってからお痩せになるようでは、いけません」

 リッピの指摘にキリエはぎくりとする。

「別に、痩せてなんか……」

「私の目は誤魔化せませんぞ。ガリアは大陸でも有数の美食の国でしょうに」

 キリエは肩をすくめて見せた。

「……お肉が苦手なの」

「羨ましい……」

 そう言って自分の腹をさするリッピにキリエはくすりと笑いをこぼす。

「そうそう。ご結婚と言えばつい先日、〈カンパニュラの好色王子〉がご婚約されましたよ」

「フェルナンド王子?」

「ええ。お相手はバーガンディ公国のディアーヌ公女です。しかし、婚約直後に公女の女官に手を出したとかで、兄君のアルベルト王太子が激怒したそうでございますよ」

 キリエは戴冠式で挨拶を受けた、見るからに好色そうな顔つきのフェルナンドを思い出した。甘ったるい表情で口説いてくる王子にキリエは珍しく不快感を覚えたものだ。だからこそ、その後でギョームの姿を目にすると安心感でほっとした。思えば、あの時からすでに心の奥底ではギョームに信頼を寄せていた。キリエは静かに溜息をついた。

「あまり良い趣味とは言えないわ」

「まったく。しかし、フランチェスカ女王もアルベルト王太子も生きた心地がしなかったことでしょう。バーガンディ公国はガリアの属国。バーガンディの公女を蔑ろにしたとあっては、宗主国であるガリアの心象を悪くしてしまいます。カンパニュラはガリアと同盟を結んでいるのですから」

 リッピの言葉にキリエは目を細めた。そして、安心させるようににっこりと微笑む。

「……何かあれば、私から言っておきましょう」

 画家は手を止めて王妃を振り返った。そして、気まずそうに眉をひそめ、頭を下げた。

「助かります」

「大変ね、カンパニュラも」

「アングルも……、つい最近内乱があったとお聞きしていますが……」

 キリエは小さく頷いた。

「……異母兄が死んだわ」

 リッピは筆を止めると、両手を合わせて少しの間頭を垂れた。

「……ありがとう、リッピ殿」

「実は、そのことで王妃が塞ぎがちなので話し相手になってほしいと、ギョーム王が……」

「ギョームが?」

 驚いて身を乗り出す。

「それだけでなく……、宮殿で陰湿な嫌がらせがはびこっていたともお聞きしました」

 リッピの言葉にキリエは寂しげに頷く。だが、彼女は無理やり笑顔を取り繕うと呟いた。

「でも今は大丈夫。ギョームが助けてくれたから」

 画家は片目を瞑って見せた。

「陛下はまだご心配なようですよ。何とかしてお妃を楽しませよう、驚かせようと……。色々お考えのようです。なかなかの御仁ですな」

 キリエは胸がどきどきするのを感じて思わず俯いた。ギョームが自分を喜ばせようと心を砕いている。夫の愛情を感じて胸がせつなく締め付けられる。少し動揺を見せる王妃に、リッピは再び絵筆を動かしながら独り言のように呟く。

「まだ……、お二人は恋人同士のようですな」

「えっ?」

 キリエは頬を赤らめると言葉を失った。


 その日の夕方、リッピがアトリエにしている客間にマリーエレンが訪れた。

「リッピ殿、お久しぶりです」

「これはこれは、ええと、今はグローリア伯夫人、でございましたな」

「ええ」

「ご懐妊おめでとうございます」

 深々と頭を下げるリッピにマリーが穏やかに微笑みかける。

「あなたが来て下さったから、王妃もお喜びだわ。ありがとう」

「その、王妃でございますが……」

「何?」

 リッピが顔をしかめ、周りの女官に目を向ける。女官たちはその意図を察すると、客間を辞した。

「王妃の衣装は、アングルからお持ちになられた物でございますか?」

「ええ、そうだけど……」

「いけませんな。あまりにも地味でございます」

 リッピの言葉にマリーは困惑の表情になる。確かに、相変わらずキリエの地味な姿は宮廷で目立っていた。

「王妃に対する心無い噂が広がっているのは確かだわ。アングルは女王に町娘のような格好をさせている、と……」

「けしからん話です」

 リッピが憤然とした表情でぼやく。

「最近は落ち着いたけれど、かなり露骨な嫌がらせもあったわ。でも……、元が信心深いお方だから、派手な身なりはお好みではないし……」

「派手にしろとは申しておりません。ですが、あれでは……。女官や宮廷に出入りする貴族の方が豪華では、示しがつきませぬ。王妃というのは、その国の美神でなければ」

「でも、どうすれば……」

 確かに、衣装についてはルイーズからあれこれとやかく注文を付けられていた。だが、夫であるギョームが気にする素振りを見せないため、これまでのところはキリエの好きな衣装を着せてきた。実際、ギョームはキリエが豪奢な衣装よりも飾り気のない衣装が似合っていることを誰よりも理解していたのだ。

「ガリアの流行に合わせる必要はございません。王妃には王妃に相応しい衣装があるはずです。よろしければ、この私に衣装を手がけさせていただけないでしょうか」

「あなたに?」

「王妃をもっと輝かせてご覧にいれますよ」

 マリーは、リッピの自信たっぷりな顔をまじまじと見つめる。戸惑いの表情の女官長にリッピが更に畳み掛ける。

「来月、王妃がご生誕日をお迎えになられるそうですな」

「そう。そして、即位一周年でもあるの。盛大な祝宴が催される予定よ」

「ならば、それまでにご用意いたしましょう。人々に王妃の美しさを知らしめる良い機会でございます」

 リッピの熱のこもった言葉に、マリーは恐々と身を乗り出す。

「あなたにお願いしたいのは山々だけれど……」

「大丈夫でございますよ」

 リッピは顔をほころばせた。

「御代はいただきませんよ。これが成功すれば、私の絵の注文も増えるというもの」

 茶目っ気たっぷりに囁く画家に、マリーもようやく笑顔になる。

「では、お願いするわ」


 その頃、キリエは女官たちと礼拝堂で日没の祈りを捧げていた。レノックスの死後、毎日行う祈りを今まで以上に時間をかけることが多くなった。祈らずにはいられなかったのだ。これ以上、争いも諍いも起こらぬよう。ただそれだけを一心に祈る。祈りを捧げ終えた王妃の背に、女官が声をかける。

「王妃……。アンジェ侯が」

 思わぬ訪問者にキリエは驚いて振り返る。礼拝堂の戸口に、相変わらず洒落た身なりのバラが佇んでいる。真顔で頭を下げてくる彼にキリエはわずかに顔を引きつらせ、女官たちに外で待つよう告げた。

「大事なお時間に申し訳ございません」

「構いません、アンジェ侯。何か」

 バラはすぐには口を開かず、じっと幼い王妃を見下ろす。背の高い宰相に見つめられ、キリエは不安そうに眉をひそめて立ち尽くした。やがて、彼は遠慮がちに口を開いた。

「差し出がましいことを申し上げるようで恐縮でございますが……。レイムス公妃とは、あまり親しくされぬよう」

 キリエは目を見開いた。折しもロベルタ自身からジゼルに対して警告を受けたばかりだ。ジゼルはバラの愛人だ、と。心の内を覗き見られた思いがして、キリエはひそかに動揺した。

「……何故?」

 少しかすれた声で囁くキリエに、バラは諭すように答える。

「公妃はエスタドの属国、レオン公国の公女であらせられます」

「だから?」

 眉をひそめて首を傾げる王妃に、バラは聞き分けのない子どもを相手にするような顔つきになった。

「異国から嫁いでこられた妃同士、親しくなさるのもわかります。ですが、いらぬ火種を抱え込むことはありません。……王妃もおわかりでしょう? これは、繊細な外交問題です。ガリアとアングルだけではございません。レオンとエスタドとの問題にまで発展する恐れがございます」

 キリエは黙り込んだまま、夫の寵臣を見つめた。何を考えている? 何を言いたいのだ? ロベルタが自分を警戒していることを察したのか。ギョーム自身は叔父であるレイムス公を慕い、妃であるロベルタにも敬意を払っている。ロシェ宮殿に遊びに行くのを咎められたこともない。それどころか、キリエが気兼ねなく話せる相手ができたことを喜んでいるようにも見える。だが、少なくともアンジェ侯は歓迎していない。

 キリエは納得できないながらも小さく頷いた。安心したように微笑んだバラだったが、やがて高い背を屈め、キリエの耳に口を寄せる。

「それから、もうひとつ」

「何?」

 バラは低く囁いた。

「陛下を……、あまり焦らさぬよう……」

 キリエは不安げに眉をひそめ、首を傾げた。バラの口元に淫靡な笑みが浮かぶ。

「……夜でございますよ」

 キリエは途端に顔を真っ赤にすると後ずさった。はち切れそうな胸を押さえながら宰相を凝視する。

「わ……、わかっています!」

 思わず叫ぶように返すと、キリエは礼拝堂から逃げ出した。小さな後姿を見送り、残されたバラは目を細めるとふんと鼻で嗤った。


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