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女王キリエ  作者: カイリ
第8章 落日の慟哭
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第8章「落日の慟哭」第4話

ロベルタにも励まされ、宮廷での暮らしに前向きになろうと決意するキリエ。ところが、マリーエレンの様子がおかしい。理由を聞き出すと……!だがその頃、祖国アングルに動きが。

 ロベルタが帰った後、キリエは彼女との会話を思い出しながらマリーに話しかけた。

「ロベルタ様がご夫君を説得なさった背景には、あんなことがあったのね。立派なお方だわ」

「……そうでございますね」

 マリーのどこか気のない返事に、キリエは首を傾げた。

「……マリー、やっぱり今日のあなたはおかしいわ。疲れが溜まっているのだわ、きっと」

「い、いえ。大丈夫です」

 マリーは強張った顔つきで口ごもる。キリエは思わず席を立つと真正面からマリーを見上げた。

「お願い、私にできることがあれば何でもするわ。何か困ったことでも……」

「……キリエ様」

 これ以上は無理だと観念したのか、マリーは思い切った様子で居住まいを正した。

「キリエ様、私……」

「……何?」

 マリーが何を言い出すのか、キリエは恐々と身を乗り出す。彼女は大きく深呼吸をしてから口を開いた。

「私……、妊娠いたしました」

 思わずキリエが口を覆う。マリーはかすかに震える声で続けた。

「今朝、わかりました。医師の話では、二ヶ月ではないかと……」

「おめでとう!」

 思わずキリエがマリーに飛びつくが、すぐに慌てて体を離す。

「か、体を大事にしないと……! 絶対に無理をしては駄目よ!」

「はい。……ありがとうございます」

 マリーは涙ぐみながらも笑顔で呟く。

「……触ってもいい?」

「ええ」

 キリエは恐る恐るマリーの腹部に触れた。マリーも静かに手を添える。彼女の、優しく満ち足りた表情にキリエも自然と笑顔になる。ここにジョンとマリーの子がいると思うと、不思議な幸福感に包まれた。羽毛のように軽やかな温かい何かが部屋中に降り注ぐ、そんな感触だ。

「ジョンは? ジョンには知らせたの?」

「……まだです」

「どうして!」

「だって、彼……」

 マリーが真顔で呟く。

「きっと……、倒れてしまいますわ」

 それが冗談には聞こえないことに、キリエは思わず頭を抱えた。やがて体を起こすと、テーブルに置かれたベルを鳴らす。

「お呼びでしょうか」

 控えの間から現れた女官にキリエが告げる。

「グローリア伯とサー・ロバートを呼んできて」

「かしこまりました」

「……モーティマーも?」

 首を傾げるマリーにキリエが囁く。

「ジョンが倒れても大丈夫なように、ね」

 それを聞いてマリーは困ったように苦笑を漏らした。

 やがて、女官に呼ばれたジョンとモーティマーがやってくる。

「お呼びでございますか、キリエ様」

「来て、ジョン。話があるの」

 生真面目なジョンは眉をひそめると声を低めた。

「何か、大事でも」

「そう、大事な話よ」

 キリエは席を立つとマリーを前へ押し出す。

「ジョン、私……」

「マリー?」

 キリエではなく、マリーが切り出したことにジョンは戸惑いの表情になる。妻は慎重に、ゆっくりと口を開いた。

「ジョン、お願い、落ち着いて聞いて」

「な、何があった?」

 ジョンがどぎまぎした様子でマリーを見つめる。傍らのモーティマーも何が始まるのか困惑気味に若い夫妻を交互に見やる。室内の緊張が最高潮に達した、その時。

「……私……、お腹に、赤ちゃんが……」

「……!」

 ジョンとモーティマーの目が大きく見開かれ、口が半開きになる。

「グローリア伯ッ!」

 モーティマーが嬉しそうに振り返るが、ジョンは硬直したまま妻を凝視している。

「お父様になるのよ、ジョン」

 キリエが横から畳みかけるが、ジョンは口をぱくぱくさせるだけで何も答えない。やがてマリーは夫の手を取るとそっと自分の腹へ触れさせる。

「ここにいるのよ。私と……、あなたの子が」

 慈愛に満ち、穏やかな微笑をたたえた妻をじっと見つめていたジョンは、ふっと目を閉じたかと思うと真後ろに倒れた。

「伯爵ッ!」

「ジョン!」

 頭が床に直撃する前にモーティマーが抱き止める。

「伯爵! 伯爵! お気を確かに……!」

 ぐったりと気を失ったジョンを前に、キリエとマリーは顔を見合わせた。


 その日の晩。「王と王妃の寝室」では静かな声が漏れ聞こえていた。夏の夜に相応しい爽やかな果実の香りの香が焚かれ、海の底のように青い闇。中央の寝台には細かな刺繍が施されたカーテンが引かれ、傍らに置かれた小さなランプの灯明だけが差し込む。中では、枕によりかかった王と妃が楽しげに言葉を交わしている。

「グローリア伯夫人が懐妊したそうだな」

「ええ」

 ランプの温かなオレンジの明かりを受けたキリエが嬉しそうに微笑む。そんな妻の笑顔にギョームも微笑を浮かべた。

「そなたも嬉しいだろう。姉のように慕っているのだからな」

「はい。きっと可愛い子が生まれるわ。マリーとジョンの子どもですもの」

 そこでギョームは体を起こした。

「グローリア伯が喜びのあまり倒れたというのは誠か?」

 キリエは微笑んだまま黙って頷く。ギョームはおかしそうに肩を震わせて笑いをこらえる。

「いや、気持ちはわかる」

「ふふっ……」

「婚礼でも卒倒しかけたらしいな。彼らしいと言うか、何というか……」

 ひとしきり笑い合うと、ギョームは少し遠くを見るような目で呟く。

「クレド侯も喜ぶだろう。たった一人の妹なのだからな」

「そうね」

「トゥリー家はこれで安泰だな」

 ギョームの何気ない一言が、キリエの何かを刺激した。が、彼女は黙って夫を見つめた。

 しばらく二人は静かに他愛ない会話を交わした。先日の一件以来、二人の距離はずいぶんと縮まり、彼らの睦まじさは廷臣たちをひそかに驚かせていた。やがてギョームはいつものようにキリエの肩を抱き寄せた。一日の終わりを告げる「おやすみのキス」は、どこか神聖な儀式を思わせる。いつもと変わらない優しい口付けに、キリエはその日に限って胸がせつなく締め付けられた。背中を撫でるギョームの温かな手が愛おしく感じられ、体を離そうとした彼に思わずすがりつく。

「……どうした?」

 どきりとしたギョームが囁くが、キリエは答えずにぎゅっと抱きしめてくるだけだ。いつもはギョームが積極的に愛情を表現するが、いざこうしてキリエが身を委ねてくると動揺してしまう。

「……キリエ?」

 ギョームは高鳴る胸を抑えながら、キリエの背をぎこちなく撫でる。耳元で妻の吐息が漏れ、彼は思わず胸に手を伸ばしかけ――、唐突にぐいと体を離した。

「……ギョーム?」

「だ、駄目だ」

 押し殺した声で呟き、肩を震わせる夫をキリエが不安そうに見つめる。

「……これ以上は、駄目だ。そなたを……、襲ってしまう」

 キリエははっと息を呑んだ。そして、気まずそうに顔を強張らせて夫を見つめる。彼も男だ。いつまでも口付けだけで満足できるはずがない。その事実を突きつけられ、キリエは項垂れた。

「……何かあったのか?」

 ギョームの穏やかな声にキリエは涙ぐんだ。俯いたまま、震える口を開く。

「……今日、ロベルタ様とお会いしました」

「おば上か……」

 ギョームが低く呟く。

「……何か言われたのか」

 キリエは顔を横に振る。

「……ご立派なお方です。祖国とご夫君、両方を愛していらっしゃる」

「そなたは違うのか?」

「私……」

 キリエの目から玉のような涙がぽろぽろと零れ落ち、ギョームは慌てて妻を抱き寄せた。

「どうした、何があった」

 ギョームの寝衣を握り締めたキリエは、言葉を詰まらせながら囁く。

「……王妃の務めは、世継ぎを生むことです」

 キリエの言葉にギョームが息を呑む。

「でも、私……」

「ルイーズだな」

 夫の呼びかけに応えず、キリエは黙ってギョームの胸に顔を押し付けた。

「ルイーズに言われたのだな。……あまり、深く考えるな、キリエ」

 ギョームはルイーズに対する怒りを抑えながら妻に言い聞かせた。

「そなたはまだ幼い。まだ十五歳ではないか。子を生むのは大変なことだ。母は姉を生んですぐに亡くした。私を生むのも大変な難産だったそうだ。私は……、世継ぎよりもそなたが大事だ。それに……」

 ギョームは妻の耳元に口を寄せると小さく囁いた。

「……そなたは私の天使だ」

 思わず言葉を失うキリエに、ギョームは優しく言い聞かせた。

「ゆっくりでいい。ゆっくり、少しずつでいい」

「……ありがとう」

 キリエは小さく呟くと、再び夫を抱きしめた。待ってくれる。きっと彼は待ってくれる。だが、自分は本当に夫を受け入れられるのだろうか。不安でならない。どうしても、その「いつか」はぼんやりと朧げで曖昧な輪郭でしかない。それでも、「いつか」はやってくるのだ。必ず……。

 だが、その晩の深夜のことだった。ギョームは押し殺したような囁き声で目を覚ました。寝室にかすかに響く苦しげな息遣い。

「……やめ……、やめて……、離して……」

 眉をひそめてギョームが体を起こすと、キリエが蒼白の顔で呟いている。

「……キリエ……?」

「やめて……」

 キリエは固く目を閉じたまま譫言を繰り返し、体を震わせている。やがて閉じた眦から涙が滲み、ギョームはそっとキリエの手を握った。

「……っ!」

 キリエはびくりと体を震わせた。わずかに開いた唇から、不規則に息が漏れる。

「キリエ……、大丈夫だ。私がいる。……大丈夫だ」

 キリエは眉をひそめたまま黙り込む。ギョームが額に触れると、少し熱があるようだ。女官を呼んだ方が良いだろうか。彼が迷っていると、不意にキリエが手を握り返してきた。そして、夫を探す仕草を見せ、ギョームはそっと妻を抱きしめた。抱いてやると安心したらしく、キリエはおとなしく寝息を立て始めた。ギョームは、しばらくキリエを抱きしめたまま、じっとしていた。幼いキリエが余計に幼く見える。悪い夢でもみたのだろうか。ギョームは妻の前髪を掻き揚げると、額に唇を押し付けた。


 それから数日後、マリーエレンの手紙を携えたモーティマーがアングルに帰国した。キリエの結婚式から早二ヶ月が経っていた。

「ただいま戻りました」

「ご苦労だったな」

「疲れただろう」

 レスターもねぎらいの言葉をかける。モーティマーはわずかに目を眇めた。

「クレド侯……、少しお痩せになられたのでは」

「……さぁな」

 相変わらず、自分のことは投げやりな言葉しか返さないジュビリーに、モーティマーは眉をひそめる。女王の代わりに国政を担っている彼は、息をつく間もなく執務に忙殺されているのだ。体調を崩さなければよいが。だが、それもこの報せで気力が奮い立つはずだ。

「実はご報告があるのですが……、まずはグローリア伯夫人からの手紙をお読み下さいませ」

「マリーエレン?」

 顔をしかめて手紙を受け取り、読み始めたジュビリーはまず眉をつり上げ、目を見開いた。が、やがてその目は細められ、穏やかな表情になる。しかし、更に読み進めるうちに眉をひそめ、顔を歪め、最終的に彼は手紙を机に置くとこめかみを押さえて溜息をついた。

「いかがなさいました、侯爵」

 レスターが声をかけると、ジュビリーはやや放心した顔を上げた。

「……マリーエレンが妊娠した」

「なんと!」

「それを聞いて、ジョンが気を失ったらしい」

「……!」

 レスターは思わず頭を抱えたが、やがて声を押し殺して忍び笑う。

「ジョン様……」

「……本当に倒れたのか」

 ジュビリーの問いかけにモーティマーは微笑みながら頷く。

「驚きましたよ。まさか、お倒れになられるとは」

「大丈夫か、あの男……」

「心配ご無用ですよ。いざ父親になればしっかりされるでしょう」

「だといいが」

 やや憮然とした表情でぼやくジュビリーにレスターが口を挟む。

「私も上の娘が生まれた時は抱き上げるにもおっかなびっくりで、妻によく叱られたものです。それが、二人三人になればもう……」

 そこで唐突に言葉を切ったレスターは、眉をひそめて「失礼」と呟いた。

「構わんぞ」

 機嫌の良さを隠しながらジュビリーが声を上げる。

「色々教えてやってくれ。私にはできんからな」

「はっ」

 だが、ふと表情を翳らせたジュビリーはじっと机上の手紙を見つめた。その眼差しに気づいたレスターがそっと身を乗り出す。

「……ご安心下さい、侯爵。きっと、ジョン様がご無理をさせないはずでございます」

 老臣の言葉にモーティマーははっとした。そうだ。宰相は妹の懐妊に喜びと同時に不安を抱いている。亡妻のようになりはしないかと恐れているのだ。ジュビリーは小さく息をついて頷くと、モーティマーを振り返った。

「……女王はお元気か」

「はい」

「何と言ったか、あの女官長……。鷲の(くちばし)を鼻につけたような女だ」

 ジュビリーの言葉にモーティマーが思わず吹き出す。

「マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールですね?」

「小姑のように女王をいびってはおるまいな」

「毎日小言を言っては陛下を困らせていますが、ギョーム王が体を張ってお守りしていらっしゃいます」

 ジュビリーは目を細めて手紙を見つめた。キリエがギョームを愛するならば、それでいい。それが一番だ。だが、もう一人の自分が懐疑的に囁く。本当に、それでいいのか? おまえの気持ちはどうなるのだ……? その囁きを打ち消すかのように、ジュビリーが顔を振った時だった。突然執務室の外が騒がしくなる。

「クレド侯!」

 侍従の慌てた声に男たちは鋭く顔を上げた。

「どうした」

 モーティマーが扉を開けると、青ざめた顔つきのセヴィル伯が飛び込んでくる。

「侯爵! ルール公が……、挙兵したと早馬が……!」

 レスターがさっと宰相を振り返る。彼は眉間の皺を深く寄せ、低く呟いた。

「……冷血公……」


 すでに大半の軍勢が出撃したものの、未だに多くの将兵が行き交うルール城で、鎧を着込んだレノックスが大股にアプローチを歩いていた。

「公爵」

 兵士らを掻き分け、兜を捧げ持ったヒューイットが小走りに駆け寄る。

「エレソナは?」

「それが……、ご自分も出陣すると言い張って、ミス・シャイナーを困らせています」

 レノックスがちらりと振り返ると、ヒューイットは険しい表情で顔を振る。

「医師の話ではまだ体力が……」

 レノックスは溜息を吐き出すと立ち止まり、くるりと踵を返した。

 騒然としたアプローチを後にし、城の奥へ向かうと石造りの廊下の先から叫び声が聞こえてくる。

「離せ、ローザ! 行かせろ……! 兄上の所へ行かせろッ!」

 エレソナの尖った声が寒々しい廊下に響くが、それに対してローザの声は聞こえてこない。いつもと変わらず、無言で主を押し留めているのだろう。レノックスが黙ったまま扉を押し開くと、寝台の上でローザに抱きすくめられるように押さえ込まれたエレソナの姿があった。

「ローザを困らせるな」

「兄上ッ!」

「どんなに喚いても連れていかぬぞ」

 エレソナがわずかに力をゆるめ、ローザは黙って体を離す。

「病み上がりのおまえを連れていくつもりはない。十二年幽閉された体だ。十二年かけて鍛えろ」

 冷たく言い放たれる兄の言葉にエレソナは顔を歪め、絞り出すように囁く。

「私には……、そんな時間をかけている暇は……!」

「大人しくしておけ」

「何故だ? 何故こんな時に挙兵するッ? 私は……、兄上と一緒に行く!」

 瞬間、残された左目を細め、レノックスはエレソナの二の腕を掴むと唇で唇を塞いだ。顔を歪め、なおも暴れる妹にレノックスは手に力を込めた。ローザは沈黙を守ったまま、二人を見つめた。

「……わからんのか」

 唇を離したレノックスが呟く。

「おまえが体を動かせない今だからだ」

 わずかに体を震わせ、黙ったままエレソナは兄を凝視した。レノックスはエレソナの髪を掻き撫でた。

「おまえのために戦いたいのだ。ここにいろ」

「嫌だ……。そんな……、そんな兄上は嫌いだッ!」

 レノックスは苦笑を漏らすとエレソナの額に唇を押しつけた。

「喧嘩なら帰ってからにしよう」

「兄上!」

 レノックスは側で控えているローザに目を向けた。

「……頼んだぞ」

 ローザは黙って頭を下げた。背を向ける兄に追いすがろうとエレソナが体を起こす。

「兄上! 行くなッ!」

 ローザに再び押さえつけられ、それを振りほどこうとした時、エレソナの腹部に鈍い痛みが響く。顔を歪めながらも彼女は身を捩った。

「兄上……! 兄上ッ!」

 妹の叫びを背に浴びながら、レノックスは寝室を後にした。廊下には陰気な表情をしたヒューイットが佇んでいる。

「状況は」

「現在、マーブル伯がヒーリス伯の部隊と戦闘を開始したとのことです」

「わかった」

「……公爵」

 ヒューイットが控えめに呼びかける。

「……お側におられた方が……」

 そう言って寝室の扉を見やる。が、レノックスは顔を横に振った。

「私が行かんでどうする」

「……はっ」

 二人は黙ってアプローチに向かった。不穏なざわめきが地の底から這い上がってくるようだ。暗い石の廊下はそのまま地獄の門へと続くのか。レノックスは口許に笑みを浮かべた。それもいいだろう。


 プレセア宮殿では、すぐさま大広間が戦略会議の間へと変貌した。女王が嫁した後の落ち着きを破る挙兵の報せに皆が動揺していた。

「クレド侯……!」

 鋭い呼びかけに地図から顔を上げる。

「ヒーリス伯の元へ送った斥候が戻ってまいりました」

 モーティマーはそこで息をついた。

「斥候の話では、ルール軍に思った以上の勢いがあり、進軍を阻めないとのことです」

 ジュビリーは眉間の皺を深めて秘書官を凝視した。モーティマーは身を寄せると言葉を続けた。

「確認が取れていないのですが、エスタドの防具を装備しているらしい、と……」

「……エスタドの?」

 大陸の覇者エスタドを支えているのは、優れた武器や防具を製造する技術だ。軽くて硬い防具。切れ味が良く、刃毀れしにくい刀剣類。これらは、軍事力を飛躍的に上げるだけでなく、ユヴェーレンやクラシャンキ帝国といった友好国に輸出することで、莫大な富を得ていたのだ。

「冷血公がエスタドから武器や防具を密輸していたというのか」

「だとしたら……、由々しきことです」

 侵攻に対する警戒はしていても、密輸までは手が回りきらなかった。ジュビリーは唇を噛みしめた。そして、しばらくテーブル上の地図を見つめていたが、やがて目を細めて顔を上げる。

「……ガリアの砲兵隊を待機させろ」

「はっ」

 モーティマーが一礼して下がろうとした時、顔を強張らせたレスターがやってくる。

「侯爵」

「どうした」

「ヒース司教が目通り願いたいと……」

「……司教が?」

 思わぬ人物にジュビリーとモーティマーは顔をしかめた。

「侯爵は今お忙しいと申し上げたのですが……」

「……いや、会おう」

 ジュビリーは険しい顔つきで呟いた。

 応接間へ向かうと、数人の修道士を伴ったヒースが宰相の到着を待っていた。

「ヒース司教」

 宰相の声にヒースは顔を上げ、連れの助けを借りて立ち上がる。

「お忙しい時にお許し下さい、クレド侯」

「いえ。何のご用でしょうか」

 ヒースはわずかに青ざめた顔つきながら、静かにはっきりと切り出した。

「大変身勝手な申し出ですが……、私をレノックスの陣へ連れていって下さいませんか」

 一瞬、ヒースの申し出が理解できなかったジュビリーは、目を見開いて体を乗り出す。

「司教……!」

 側に控えているレスターやモーティマーも、言葉を失った様子で顔を見合わせる。ヒースは、予想していた反応に哀しそうに顔を伏せた。

「……大規模な戦闘が続いているとお聞きしています。キリエがいない今を選んだということは、彼にとって最後の挙兵のつもりなのではないでしょうか」

 ジュビリーは険しい顔つきで盲目の司教を見つめた。毒の副作用で今も血色が良いとは言えないヒースだが、いつにも増して顔が青ざめている。

「戦闘の行方が気になるでしょうが、我々にお任せ下さい」

「きっと、弟は」

 ヒースがわずかに声を高める。

「死に物狂いでやってくるでしょう。グローリア女伯の軍ではなく、アングル王国の軍を相手にするのですから。手遅れになる前に……、彼を説得したいのです」

「なりません!」

 ジュビリーが太い声で言い返す。が、瞬間、右腕に鋭い激痛が走り、顔を歪めて腕を押さえる。

「侯爵……」

 レスターが心配そうに声をかける。痛みに顔を歪めながら、ジュビリーは言葉を続けた。

「聞く耳を持つお方ではないことを、あなたが一番よくわかっておいでのはず……! そのような危険な場所へお連れするなど、断じてなりません!」

「そうでございますよ、ヒース司教。キリエ様がお聞きになったら、どんなに驚かれることか……」

「でも、弟なのです」

 ヒースの言葉に一同は黙り込んだ。彼は眉をひそめ、拳を握り締めた。

「たとえ私から光を奪ったとしても……、キリエを殺そうとしたとしても……、私の弟であり、キリエの兄なのです」

「……司教」

 応接間の空気が緊張感で満ち満ちてゆく。ヒースに付き従う修道士たちも皆顔を歪め、項垂れている。ヒースがプレセア宮殿に参内することを、彼らは思いとどまるよう反対したはずだ。

「彼は、アングルの民に対しても多くの罪を犯しました。許されざる罪です。でも、それを許すことができるのは、私たち兄妹だけなのです」

 そこで息をつき、小さく言い添える。

「……共にいるはずのエレソナも気になります」

 レスターが困惑の表情でジュビリーを見上げる。宰相は眉間に皴を寄せたまま、ヒースを凝視している。やがて、ゆっくりと口を開く。

「あなたのご協力を仰ぐことがないよう、全力を尽します。戦場へは……、お連れできません」

「クレド侯」

 ヒースが声を低めた。

「三日待ちます」

 その言葉にジュビリーたちは顔を強張らせた。

「三日経っても戦況が変わらなければ……、私は供の者を連れて、レノックスに会いに行きます」

「司教……!」

「侯爵」

 その時、モーティマーの呼びかけにジュビリーが振り返る。秘書官は思い詰めた表情で宰相を見つめた。

「……その時は、私が司教をお守りします」

「モーティマー……」

 彼はやや苦しげな表情で呟いた。

「私も……、あのお方には会っておかねばなりません」


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