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女王キリエ  作者: カイリ
第8章 落日の慟哭
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第8章「落日の慟哭」第1話

いよいよ「ガリア王妃」としての日々が始まったキリエ。だがそれは決して平坦なものではなく……。

 結局、その夜二人は抱き合ったまま眠りについた。とは言えキリエは芯から眠ることなど到底できず、夢と現を彷徨い、やっと眠りについたのは朝方近くだった。

 キリエがぼんやりと目を開けると、厚いカーテンの隙間から朝の光がうっすらと差し込んでいる。けだるい体をゆっくり起こし、前髪を掻き揚げる。隣にギョームの姿はなかった。そして、寝衣が特に乱れてはいないことに安堵の息を吐き出す。心細げに素足で寝台から降りると、控えの間に続く扉が少しだけ開く。

「……キリエ様?」

「マリー……」

 キリエの声を聞いてマリーエレンが入ってくる。彼女はキリエが青白い顔をしているのを見て眉をひそめる。

「そのご様子では……、お休みになれませんでしたね」

 小さく頷くキリエを寝台の縁に座らせ、マリーは王妃の乱れた髪を撫でつけた。

「……ギョームは?」

「夜明け前に起床され、朝駆けに行かれています」

 そうだ。クレドにやってきたあの時も、朝駆けの習慣のために早起きをしていた。あの頃は、こうして夜を共に過ごすことになるなど思いもしなかった。

「……そう」

 マリーは心配そうにキリエの目を見つめ、声を潜めて囁く。

「……昨夜は……」

 問われて恥ずかしそうに俯くと、たどたどしく呟く。

「……彼は、約束を守ってくれたわ」

「……そうでしたか」

 マリーが頷くが、決して安心した表情ではない。キリエは顔を歪め、両手を握りしめた。

「……体に触れられた時……」

「はい」

「……レノックスを、思い出して……」

 そこでマリーはキリエを抱きしめた。隣の控えの間にいた彼女には、その時の悲鳴が聞こえていた。マリーは気が気でなかったが、その後は特にキリエの取り乱した声も聞こえなかった。ギョームが求婚に訪れた時も悪夢にうなされたほどだ。この傷はそう簡単には癒されまい。マリーはキリエが不憫でならなかった。

「……今日も……」

「……はい?」

「今日も、明日も、明後日も、私はギョームを拒み続けるの? 彼が……、我慢してくれるとは、思えないわ……」

 マリーは答えられず、黙り込んだ。だが、そっと体を離すとキリエの目を正面から見つめる。

「きっと……、陛下はキリエ様のお心を溶かす努力をされますわ。誠意を感じたなら……、キリエ様も、歩み寄らなければ」

 キリエは、自分以上に辛そうな表情をしているマリーに見つめられているうち、ヒースの言葉を思い出した。

「クレド侯のことは、お忘れなさい」

 忘れることが、できるだろうか。キリエは心細くてたまらなかったが、静かに頷いた。マリーがそっと立ち上がるとキリエの手を取る。

「お着替えを。陛下がお腹をすかせて待っていらっしゃいますわ」

 促されるまま立ち上がるキリエに、マリーが思い出したように振り返る。

「……今日、兄が帰国します」

 思わずキリエが息を呑んで立ち尽くす。マリーは声を低めて呟いた。

「キリエ様……。兄の気持ちを、どうかお察し下さい。あれは……、本心からの言葉では……」

 マリーの懇願するような口調に、キリエは顔を横に振った。

「……きっと、本心よ」

 キリエは目を伏せ、自分に言い聞かせるように囁いた。

「ジュビリーは……、いつだって私のことを思ってくれているんだもの……」


 着替えを済ませ、朝食のために広間へ向かうと、ギョームが先に待っていた。

「おはよう、キリエ」

「……おはようございます」

 ギョームは相変わらず明るい笑顔だった。

「少しは眠れたか?」

 声を低めて尋ねる夫に、キリエは思わず顔を赤らめて頷く。と、その頬に手を添えられ、どきりとして目を上げる。顔を寄せたギョームが静かに囁く。

「……初めて、そなたの寝顔を見た」

 朝の陽光を受けたギョームの瞳は晴れやかな空のような青さで、その鮮やかな瞳はキリエを捉えて離さなかった。

「寝顔を見つめていて、幸せな気持ちで一杯になった。……無事でよかった」

 その言葉に思わず目を見開く。ギョームは、顔を歪める妻の額をそっと胸に押し付けた。

「皆に感謝しよう」

「……はい」

 こうして二人で朝を迎えられるのも、命があってこそだ。反乱では多くの犠牲者が出たであろう。心が晴れなかった。ギョームはまだぎこちない手つきでキリエの髪を撫でると、やがて食堂へと導いた。

 朝食を済ませると、二人は帰国する賓客たちの挨拶を受けに玉座の間へと向かった。初夜の翌日にジュビリーと顔を合わせるのは気が重かったが、今会っておかねば次に会うのは半年後になってしまう。玉座の間へ入ると、ジュビリーを先頭にした廷臣の一団が跪いて待っている。

「おはようございます、ギョーム王陛下、キリエ王妃」

 ジュビリーが恭しく頭を垂れて言上する。キリエは眉をひそめて宰相の右腕を見つめた。あの腕が自分と夫を守ってくれたのだ。今まで自分を守ってくれていた、あの手で。キリエは思わず顔を強張らせ、目を伏せた。

「おはよう、クレド侯。この度は本当にすまなかった。せっかくアングルから結婚式に参列してくれたのに、まさかあのような事態になるとは……」

「陛下がご無事で何よりでございます」

「そなたのおかげだ」

 ギョームがバラに呼びかけると、宰相は勲章を恭しく捧げて歩み寄る。

「クレド侯。予と妃の命を救った功により、ブリュー勲章を授与いたす」

 顔を強張らせるジュビリーに、ギョームは笑顔で手招きする。ジュビリーは一度頭を下げると、ゆっくりとガリア王の前へ進み出る。鮮やかな青い正十字の勲章を手に取ると、ギョームはアングルの宰相に勲章の綬をかけた。

「……恐悦至極にございます」

 ややかすれた声でジュビリーが呟き、一礼する。

「キリエの留守を頼むぞ」

「はっ」

 ギョームが顔を引き締める。

「先の反乱も、背後にエスタドの影があるようだ。まだ……、調査中だがな」

「……左様でございますか」

 ジュビリーは慎重に言葉を返す。

「ガリアはエスタドやユヴェーレンと国境を接している。いつ何時均衡が崩れるか予測できぬ。アングルも冷血公が服従していない。お互い、連絡を密に取り合わねばな」

「承知いたしました」

「頼むぞ」

 彼らの会話をどこか他人事のように聞いていたキリエに、不意にギョームが呼びかける。

「キリエ」

「は、はい」

 慌てて顔を上げると、ギョームが真顔で見つめてくる。

「……そんな顔をするな。そなたが笑顔でなければ、クレド侯が安心して帰国できぬ」

 言われて思わずジュビリーに視線を移す。彼は、いつもと変わらない表情でキリエを見つめ返してきた。だが、その瞳にはキリエにしかわからない感情が見て取れた。キリエが眠れなかった日の翌朝は、いつもそれに気づいて健康を気遣っていたジュビリーだ。昨夜も、ほとんど眠れなかったことに気づいているに違いない。キリエは精一杯の笑顔を見せると、呼びかけた。

「……クレド侯」

「はい」

「この度は、本当にありがとう。怪我を……、早く治すよう」

「はっ。王妃もお体には充分お気をつけ下さいませ」

「大丈夫よ」

 キリエははっきりとした口調で返し、ジュビリーはわずかに眉をひそめた。キリエはまっすぐにジュビリーの目を見つめた。

「……私の体は、大丈夫です」

 その言葉でジュビリーは、初夜にキリエが何もされなかったことを確信した。彼は深々と頭を下げた。

「……それと」

 顔を上げると、キリエは顔をほころばせて言葉を続けた。

「ソーキンズによろしく」

 ジュビリーも思わず目を細める。

「お伝えいたします。……彼も喜ぶでしょう」

 やがて、宮殿を後にする廷臣団を皆でアプローチまで見送る。

「……ジョン、モーティマー、頼んだぞ」

「はい、お任せ下さい」

「侯爵も道中お気をつけて……」

 キリエと共にガリアに留まる二人に声をかけると、ジュビリーはキリエの背後に控えるマリーにも目配せする。妹はにっこりと微笑んだ。

「……マリーのことも、お任せ下さい」

 低い声でどもりながら呟くジョンにジュビリーは「しっかりしろ」と言わんばかりに睨みつける。が、ふと目を眇めてアプローチを見渡す。

 相変わらず洗練された衣装で身を飾ったギョームと、これまでよりは多少華やかな衣装をまとったキリエ。だが、王妃に付き従うガリアの女官たちの衣装は王妃のそれを遥かに凌駕する艶やかさだった。文化が違うとは言え、豊満な胸元が強調された上、鮮やかな布地がふんだんに使われており、とにかく華美だ。彼女たちはそれを充分心得ており、笑みを含んだ瞳で王妃を見つめている。ジュビリーの胸に暗雲が広がる。

「……ジョン」

「はい」

「キリエの身の回りに気をつけろ」

「……はっ」


 オイールを発った翌々日。ルファーン港に舞い戻ったジュビリーたちはソーキンズたちが待つ船に乗り込み、一路アングルへと向かった。

「やれやれだぜ。とんだ目に遭った」

 ジュビリーと顔を合わせるなり、ソーキンズは苦りきった顔つきで吐き捨てた。

「どうした」

「どうしたもこうしたも、王都が襲撃された報せが届くと、俺らまで沿岸警備に狩り出しやがった。迷惑な話だぜ」

「……ご苦労だったな」

 ジュビリーが険しい表情で呟くと、ソーキンズは相手の右腕をちらりと見やった。

「……名誉の負傷って奴か」

 それについては語ろうとしないジュビリーに、ソーキンズは気安く肩を組んで囁いた。

「キナ臭ぇ話を聞いたぜ」

「……何だ」

 ジュビリーが顔をしかめながら聞き返す。

「反乱軍はフラン城から出てったってぇ話じゃねぇか。それが知れると、ギョーム王はすぐに軍勢をフランに差し向けたらしいが……」

「アンジェ侯が向かったはずだ」

「幽閉されていたリシャールはどうなったと思う?」

 ジュビリーは黙り込んだ。フラン城にリシャールが幽閉されていたことはマリーの口から知らされた。そういえば、あの後ビジュー宮殿ではフラン城やリシャールの名は一切耳にしていない。まるで、存在さえしていないかのように。ジュビリーは海賊の目を覗き込んだ。

「……奴の消息を聞いたのか」

「死んだらしい」

「……死んだ……?」

 思わず聞き返すジュビリーに、ソーキンズは組んでいた肩を離すとおどけた表情で呟いた。

「俺が聞いた話では、アンジェ侯が王の到着を待たずに攻撃をかけ、リシャールは討ち死にしたらしいぜ」

「……バラ……」

 わずかに動揺した様子の宰相に向かって、ソーキンズが言い添える。

「奴にとっては、王を〈父親殺し〉にしたくなかったんだろうさ」

 父親殺し。その一言が胸を突く。

「考えてもみろ。結婚式を滅茶苦茶にされた若獅子王が、怒り狂って父親を処刑すれば国民はどう思う? そうならないために、奴が先に手を下したんだろうよ」

 バラにとっては、かつての主君リシャールがいつまでも生きながらえているのも居心地が悪かったに違いない。確かにソーキンズの言うとおり、怒りにまかせてギョームが父親を処刑すれば、国民は王に対して不信感を持っただろう。ある意味において、バラの取った行動は正しいと言える。だが……。

「……早晩、お姫様の耳にも届くぜ」

 ジュビリーの胸中を見透かしたようにソーキンズが追い討ちをかける。

「新婚早々、修羅場にならなきゃいいがな」

 ジュビリーは、重たい溜息を吐き出すと船縁に両手を突いた。夏の太陽の光を受けた波がぎらぎらと波打ち、それと同じようにジュビリーの胸も騒ぐ。黙り込む宰相に、ソーキンズがとってつけたように呼びかけた。

「綺麗だったか? お姫様の花嫁姿はよ」

「……ああ」

 ジュビリーの目には、美しい花嫁姿のキリエではなく、血染めの衣装で軍馬に跨ったキリエの姿が蘇っていた。ジュビリーはゆっくりと重い体で振り返った。

「……おまえによろしくと言っていた」

「やれやれ」

 海賊は苦笑いを漏らした。

「律儀なお方だねぇ」


 キリエがアングルを去って一ヶ月。ルールの地は相変わらず頑なに王宮側の侵入を拒んでいた。未だに服従を拒む自分たちに王宮は絶えず圧力をかけてきたが、女王がいない今、無用の衝突を避けたいのはむしろ王宮側だった。ルールには、不気味な沈黙が続いていた。

 そんな、ある晩のルール城。私室でひとり酒を呷るレノックスの姿があった。険しい表情をランプの灯火が照らし出す。そして、眼帯を外し、傷が剥き出しになった右目も。レノックスは溜め込んだ息を吐き出すとゴブレットに手を伸ばそうとして、やめた。右目を失ってから、飲み過ぎると均衡を保てずに目眩を起こすことが多くなったのだ。彼は苛立たしげに舌打ちすると立ち上がった。

 私室を出て寝室に戻ろうとするレノックスの目が、廊下を横切る白い影を捉えた。

「…………」

 彼は眉をひそめて後を追った。青白い影は頼りなげにふらつきながら薄暗い廊下を漂う。しばらく静寂に包まれた廊下を歩いていると、バルコニーに面したホールに辿り着いた。冷たい月光が差し込むソファに、青白い顔付きのエレソナが寝そべっている。

「……エレソナ」

 寝衣姿の妹は目だけこちらへ向けてきた。彼女が時々夜中に城内を徘徊していることは、ローザやシェルトンから聞かされていた。

「……眠れないのか」

 エレソナは無表情で窓の月を見上げた。

「……時々、部屋にいられなくなる」

 感情が感じられない、乾いた声。レノックスは目を細めてエレソナを見つめた。

「こうして月を眺めていると、シャイナーの塔にいた頃を思い出して……、部屋でじっとしていられなくなる」

 レノックスは黙って隣に腰を下ろした。エレソナはわずかに眉をひそめた。

「……塔にいた時は、時間は永遠だと思っていた。死ぬまで……、いや、死ぬことさえないんじゃないのかと。永遠に、ここにいるんじゃないかと」

 エレソナは顔を歪めた。

(出せ! ここから出せ! 母上に会わせろ! 母上……! 母上ッ!)

 母に会いたくてたまらなかった。父を奪われたくない一心で妹に刃を向け、すぐさま宮殿内に拘束された。その後、母アリスに会うことも許されず、エレソナはシャイナーに送られた。

 何もない狭い一室。窓から見えるのはシャイナーののどかな田園風景だった。だが、見えるものはそれだけ。夜の帳が下りれば、彼女に訪れるのは月だけだった。物音のしない部屋でひとり青白い月光を浴びていると、エレソナは時々狂気に駆られて暴れだすことがあった。それも、ローザが世話係になってからは少しずつ心を通わせ合い、ゆっくりと人間らしい感情を育てていった。そんな生活が、十二年続いた。

「でも、塔を出てからは、恐ろしいぐらいに時間があっと言う間に過ぎてゆく」

 そして、黙ったままの兄を見上げる。

「……八歳だった兄上が、再会したらもう二十歳だなんて」

 レノックスの脳裏に、幼い日々の光景が蘇る。後宮で顔を合わせるたび、自分たちは喧嘩を繰り返していた。だが、それでも心が通じ合うところがあった。父の愛情を独占していた兄ヒースと、妹キリエ。二人に対する抑えがたい嫉妬心は、自分たちにしかわからなかった。あれから、十三年の歳月が流れた。エレソナはゆっくり手を上げると細く長い自らの指を見つめた。

「……怖い。両手から……、時間がこぼれてゆく。砂のように……」

 レノックスは静かに手を伸ばすと妹の頬を包み込んだ。彼女はやぶ睨みの瞳で見つめ返してくる。月光に照らし出されたエレソナの顔は、いつにも増して病的に青ざめていた。レノックスが黙ったままエレソナの頬を撫でると、彼女は引きつったように目を細めた。相変わらず、笑うのが下手な奴だ。レノックスはひとりごちた。そして、体を屈めると静かに唇を重ねた。

「…………」

 エレソナは目を見開いた。かさついた唇が、自らの唇を優しく噛む。一度離れ、再び合わさる温もり。初めて感じる感触。これは、何。兄上は何をしている? しばらくそのまま唇を合わせていると、レノックスは眉間に皺を寄せて顔を上げた。

「目を閉じろ」

「どうして」

「……普通は閉じる」

 だが、その言葉にエレソナは顔を歪めた。

「どうせ私は、普通じゃない」

 体を起こすと兄に向かって言い放つ。

「四歳で妹に斧を振るった。普通じゃない。でも、私のせいか?」

 レノックスは無言だった。

「私が普通じゃないのは、私のせいか? どうしてこんなことになった? 私のせいじゃない! 全部、全部父上のせいだ……!」

 そこで、彼女は再び唇をふさがれた。体を強張らせて微動だにしないエレソナの脳裏に、ある光景が蘇る。

 マーブル城の一角で、思いつめた表情で見つめ合っていた母とシェルトン。不安そうな表情の母の肩を撫でると、シェルトンは静かに唇を寄せていった。

 これが、口付けなのか。そう思いながら、エレソナはゆっくりと瞼を閉じた。


 各国の来賓が帰国し、反乱騒ぎの混乱がようやく落ち着きを取り戻したガリアの王都オイール。キリエは本格的にビジュー宮殿での生活が始まったが、来賓が帰ってからは側近たちの態度ががらりと変わった。

 ガリアの生活習慣、及びビジュー宮殿独特の規則を学ぶよう要求されたキリエだが、それは予想以上に辛いものだった。女官長ルイーズの厳しさは前もって感じていた通りだったが、女官たちの冷たさにキリエだけでなく、マリーらアングルの侍従たちも戸惑いを隠せなかった。

 その上、キリエにとって大問題なのは食生活だった。元々食が細く、野菜を好むキリエにとってオイールの肉料理を中心とした食事は彼女を大いに困らせた。ガリア人はとりわけ食文化に並々ならぬ情熱を注いでおり、それを遠慮するようなことは許されない雰囲気であった。

 一方、結婚してからもギョームの優しさは変わることがなかった。ルイーズに毎日小言を言われるキリエを気遣い、何かにつけてキリエを庇った。確かに、ギョームに愛されているという実感はあった。毎晩、「おやすみのキス」の他はキリエに触れてくることはなく、せいぜい抱きしめられる程度だ。だが、かえってそんな夫に申し訳なく、キリエは罪悪感に苛まれていた。

 やがて、キリエの「立場」が招いた不穏な出来事も起こった。

 ルイーズによる宮廷作法の指導が一段落ついた頃、ギョームが大陸の防衛構想について廷臣と会議をもつという話を耳にしたキリエは、自分も参加したいと申し出たのだ。

「王妃、お待ち下さいませ。まだ陛下にお伺いを立てておりませぬ故」

 会議が行われる大広間にやってきたキリエを、宰相バラが慌てて押し留めた。

「私はプレシアス大陸の状況を学ぶべきだと思うの。ガリアとの同盟関係を深めるためにも……」

「それは……、仰せの通りでございますが……」

 だが、集まった廷臣たちは皆不審げな視線を幼い王妃に投げかけている。同伴したジョンとモーティマーははらはらしながら見守ることしかできない。

「王妃、誠に申し上げにくいことでございますが、これは我が国の機密を扱う会議でございます」

 廷臣の一人、貴族院議長エイメ侯の言葉にキリエが眉を寄せる。その表情にその場の空気が変わる。王妃の顔つきは「小娘」ではなくなっていたのだ。

「私はギョームの妃です。妃として国防の知識がなければ、どうして夫の助けができましょう。そして私は、アングルの女王です。同盟を果たすためには、私も……」

 その時、背後から大理石の床に響く足音が響き、皆が振り返る。侍従を連れたギョームの姿に皆が恭しく頭を垂れる。

「どうした? キリエ」

「ギョーム……」

 バラが声を落として囁く。

「王妃が会議にご参加なさりたい、と。国防の知識を身に付け、陛下のお力になりたいと仰せで……」

 そこで言葉を濁すと廷臣らに目を泳がす。その意味するところを敏感に察知したギョームは表情を引き締めて頷いた。

「キリエ、勉強熱心だな。そなたのためにいつか時間を作ろう。今日の会議は急を要するものもある。すまない」

 キリエは寂しげに口をぎゅっと引き結んで夫を見上げた。だが、彼を困らせることはしたくない。キリエは、小さく息をつくとおとなしく引き上げることにした。

 そのすぐ後だった。半ば予想していたことであったが、早速ルイーズがやってきた。

「王妃、あまり陛下にお気を遣わせないように。国防会議は機密性の高い重要なものでございます。王妃のご出席が必要となれば、陛下から直々にお呼びがかかりますでしょう。それまではお控え下さいませ」

 戸惑いと不満が入り混じった顔つきで懇々と諭すルイーズに、キリエはすっかり落ち込んだ様子で頷くしかなかった。そんな王妃に、ルイーズは溜息をつきながらも声をかける。

「しかし、さすが女王陛下でございますわ。国防の意識が高いのは喜ばしいこと。ですが、くれぐれも陛下のご迷惑にならぬよう」

 それが王妃に対する物言いか。マリーが顔を引きつらせて身を乗り出すが、キリエは無言で制止した。

「……気をつけます」


 だが、このことが宮殿に知れ渡ると、キリエに対する視線は一層厳しさを増した。まだ幼い小娘が何を偉そうなことを。元々島国アングルを卑下していた宮廷の貴族たちはキリエの言動に反感を持ったのだ。それと同時に、恐れていた事態が起こった。キリエに対するあからさまな嫌がらせが始まったのだ。

 特に、王太子時代にギョームに接近したにも関わらず、相手にされなかった貴族の子女たちは垢抜けない王妃に容赦ない嫌がらせをしてきた。彼女たちからしてみれば、一国の国家元首とはいえ、妾腹に過ぎない田舎の修道女が若く美しい若獅子王の心を射止めたことが癪に障ってならなかったのだ。嫌がらせは様々な方法で行われた。キリエのアングル訛りのガリア語をあげつらったり、わざわざ難解な仕来りを強要したりと、細かいことを挙げれば切りがない。そして、最も多い嫌がらせのひとつが、キリエの身なりを揶揄することであった。本来優美な美意識を持つオイール宮殿であったが、キリエの地味な衣装を嘲笑するが如く、宮殿の女たちの衣装は日毎に派手になっていった。彼女たちは密かに王妃を「島国からおいでの修道女」と呼び、蔑むのであった。

 だが、そんなキリエを守ったのが、意外なことにルイーズ・ヴァン=ダールだった。彼女にとって、キリエは大事なギョームが選んだ特別な女性。また、良くも悪くもルイーズには女官長たる自負があり、後宮の秩序が乱れることを嫌ったのだ。ルイーズは、子飼いの女官を使って王妃に対する嫌がらせを取り締まらせた。しかし、それも限界がある。嫌がらせは王の耳に入らぬよう、こっそりと陰湿に続けられた。キリエも夫に迷惑をかけたくないとの思いから、黙して語らない。それをいいことに嫌がらせは激しさを増し、ついに大きな事件が起こることになる。


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