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女王キリエ  作者: カイリ
第1章 ロンディニウム教会の修道女
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第1章「ロンディニウム教会の修道女」第1話

 息を弾ませながら、少女は古い石段を上がっていった。

 修道女特有の頭布(ウィンプル)を被り、質素な黒いローブをたくしあげ、一段一段上がってゆく。ようやく最上階まで上がると、そこには青い帳が降りかけた夏の夕空が広がっていた。見下ろすと広大な農地が広がり、仕事に勤しむ農夫たちの姿がちらほらと見受けられる。もっと遠くに目を移すと、ところどころ黒々とした森が広がっている。

 少女は、おもむろに鐘から伸びている紐を手に取ると力いっぱい引っ張る。殷々とした鐘の音が鳴り渡り、帰り支度をしていた農夫たちが作業の手を休め、祈りを捧げ始めた。少女も両手を胸で合わせ、一心に祈りの言葉を呟く。やがて顔を上げると、再び外を眺める。

 彼女は、この鐘楼で鐘を鳴らすのが大好きだった。教会から出たことがない少女にとって、唯一広い世界を眺めることができるのが、この鐘楼だったのだ。もっとも、信仰の世界で生きることに喜びと誇りを持つ彼女にとって、外の世界は憧れを持つと同時に恐怖を感じる世界でもあった。

 少女は――まだ十三か十四ほどの年頃――、鐘楼の窓辺に手をついてわずかに身を乗り出した。大きなアーモンド型の瞳が興味深そうに農夫たちの動きを追う。彼らとは親交があった。農作物や生活必需品を教会に運んでくるのだ。彼らは朗らかで、自分の知らない世界の話をよくしてくれた。そして同時に、生活の苦しさや、今起こっている戦争についての不安も漏らしていった。

 神聖暦一四九三年六月。アングル王国。

 プレシアス大陸の西に位置する島国アングルは今、大陸の王国ガリアの内戦に参戦していた。ガリア王リシャールに対し、嫡男である王太子ギョームが反旗を翻したのだ。リシャール王は亡妻の兄であるアングル王エドガーに救援を要請し、それに応じたエドガーは庶子であるルール公レノックス・ハートを派遣した。

 〈冷血公〉の異名を取るレノックスの数々の残虐行為はこの地にも伝えられていた。普段から暴力的なこの青年は無類の白兵戦好きであり、異国の戦争に喜び勇んで出陣していったという。この村からも数人の若者がガリアに向かったが、それは名を上げるためではなく、出稼ぎも同然であった。

 少女が田園を見渡していると、一頭の馬が畦道を教会に向かって駆けてくる。急を知らせる馬か、かなりの速さだ。やがて馬は教会の中へと入っていった。何があったのだろう、少女が不安そうに見下ろしていると、

「キリエ!」

 鐘楼の下から声が上がる。

「いつまで鐘楼にいるつもりです?」

「はい!」

 キリエは慌てて返事をすると石段を駆け下りる。そこには美しい修道女がひとり佇んでいた。

「食堂の手伝いをしておあげなさい」

「はい!」

 キリエが元気の良い返事を返し、食堂へ向かおうとすると、先ほどの馬に乗った若者が急ぎ足で司教の書斎がある建物へ向かう姿があった。

「ロレイン様……。何かあったのでしょうか」

 キリエの問いかけに、ロレインが顔をしかめる。

「……悪い報せでなければ良いのですが……」

 ここはアングル王国グローリア伯領のロンディニウム村。村に入ってくる情報はまず、この教会に伝えられる。アングルがガリアの内戦に参加することが決まった時もここに伝えられ、村の若者たちが次々と戦争へ出かけていったのだ。キリエはその時のことをよく覚えていた。

 キリエは孤児だった。教会付きの司教ボルダーの話では、十四年前にこの村の近くで拾われ、ここロンディニウム教会に託されという。以来教会から出ることなく、修道女として暮らしている。戦争が長引けば自分のような孤児が増えるだろう。キリエは胸を痛めていた。

 教会に持ち込まれた情報が明かされたのは、食事の準備が整った頃だった。

「皆、食事の前に話しておかねばならぬことがある」

 陰鬱な表情のボルダー司教が低い声で語り始めた。キリエを初めとする修道女や修道士たちは、黙って司教の言葉に耳を傾けた。

「つい先ほど、王都イングレスから早馬が着いた。……国王陛下、エドガー・オブ・アングル様が、身罷られたそうだ」

 その場にいた人々から驚きの声が上がる。エドガー王といえばまだ五四歳だ。

「昨年あたりからお体の調子が思わしくないとは耳にしていたが……、まさかあの御歳で身罷られるとは……」

 キリエは眉をひそめ、顔を伏せると手を合わせて祈りの文句を呟く。ひとしきり祈りを捧げ、顔を上げると険しい表情をしたロレインの姿が見えた。

 国王エドガー・オブ・アングルはあまり人徳に優れていたとは言えない人物であった。数多くの愛妾を囲い込み、王妃であるベル・フォン・ユヴェーレンとは諍いが絶えなかった。誇り高い大陸の大国ユヴェーレンの王女であるベルにとっては、愛人に現を抜かす夫に我慢がならず、王宮プレセア宮殿では陰湿な陰謀が常にはびこっていたという。

 だが、そんな愚王にも長所はあった。教会や修道院、施薬院などには少なからず援助を行っており、貧困層にはそれなりの人気があった。地方の小さな教会に過ぎないこのロンディニウム教会にも、毎年かなりの援助金が下りている。

 横柄だが陽気なこの王は、よく王都イングレス市内に出かけては薄汚い居酒屋に現れ、人々を驚かせていた。そして、その豪快さとは裏腹に外交に関してはしたたかな面を併せ持ち、大陸の列強に対してうまく渡り合う技量を兼ね備えていた。現在の戦乱の世にあって、小さな島国に過ぎないアングルが独立を保つことができるのも、一にかかってエドガーの手腕の成果であった。

「どなたが王位を継承されるのかはまだ決まっていないということだが……、今は亡きエドガー王陛下のご冥福を皆で祈ろう」

 王位……。

 キリエはぼんやりと考えた。あの悪名高い冷血公レノックスはエドガーの庶子だ。まさか、この男が王位に就くなんてことは……。

 いつにも増して重々しい雰囲気の中で食事が済むと、キリエはいつものように図書室へと向かった。この時間に聖典を読み、自習するのが毎日の日課だ。

「キリエ」

 図書室へ向かうキリエにロレインが声をかける。

「今日はもう遅いから休みなさい」

「え、でも……」

「今日のあなたは……、少し疲れているように見えます。明日に疲れを残さぬよう、休みなさい」

 キリエはきょとんとした表情でロレインを見上げた。自分では特に疲れを感じてはいない。だが、日頃から細やかな気配りができるロレインだ。自分の疲労を感じ取ったのだろうか。

「では、お先に休ませていただきます。おやすみなさい、ロレイン様」

「おやすみ、キリエ」

 深々と頭を下げ、自室へ向かうキリエをロレインが黙って見送る。

「……ロレイン」

 不意に声をかけられ、ロレインがぎくりと振り返る。

「……司教様」

 廊下の角から、暗い表情のボルダーがゆっくりと歩み寄る。

「……ついに、この日が来たな」

「……はい」

 ロレインが苦しそうな表情で呟く。

「こんなにも早く、この日がやってくるとは思いも寄りませんでした……」

 ボルダーも溜め息をつきながら頷く。

「……明日にも迎えが来るだろう」

「準備をしておきます」

「頼む」

 ロレインは一礼すると、踵を返した。


 翌朝、薪を納めにきた農夫がキリエに愚痴をこぼしていた。

「聞いたかい、王様が亡くなった話」

「ええ、昨夜」

 農夫は手際よく薪の束を運びながら顔をしかめる。

「まだ五四だとよ。しかも、お世継ぎを決めずに亡くなっちまったんだから、一体これからどうなるんだか。イングレスじゃあ、商人どもが右往左往しているらしいぜ」

「何故?」

 不思議そうな表情で聞き返すキリエ。

「そりゃあ、王様に金を貸していた商人たちが少なからずいたってことさ」

「お金のことよりも戦争の方が心配だわ。ガリアの内戦から手を引いて下さるのでしょうか」

「どうかなぁ」

 農夫が頭を掻き毟る。

「ルール公はすぐに帰ってくるだろうな。そうなりゃ村の若い者も帰ってこられるが、あの冷血公は帰ってこなくてもいいんだがなぁ。いっそのこと、ずっとガリアに残ってくれりゃあな」

「リシャール王は残って欲しいだろうな」

 馬の世話をしていた修道士が口を挟む。

「そりゃ、内戦がまだ続いてるんだからなぁ。アングルの他に援軍を頼める国はないし」

「レオン公国は?」

 キリエの言葉に、農夫と修道士が目を丸くする。

「だって、確かリシャール王の弟君のお妃は、レオン公国の姫君ではなかったのですか? レオン公国からの援軍は望めないのでしょうか」

「驚いたなぁ、キリエ」

 農夫が陽気に笑い声を上げる。

「そんなこと誰に教えてもらったんだい」

「ロレイン様に色々教えていただいたもの」

 キリエが誇らしげに答える。

「他の教会区に移ることがあっても、恥ずかしくないようにって、ちゃんと勉強しているんですから」

「なるほどな」

 そう返事を返すものの、農夫は腑に落ちない表情で幼い修道女を見下ろした。他の教会区に移るどころか、キリエは普段教会の敷地内から出ることを禁じられている。教会を出るのは、秋の収穫祭の時だけ。他の修道士や修道女は積極的に村で奉仕活動をしているというのに、どういうわけかボルダー司教はこの少女を教会から出したがらなかった。

「しかしな、レオンはガリアの応援には行けないよ。ほら、レオンはエスタドの属国だろう? エスタドのガルシア王はガリアが大嫌いだからな。宗主であるガルシア王の機嫌を損ねるようなことはしたくないんだろうよ」

「そうそう。ギョーム王太子が、ガルシア王の娘との縁談を断ったからな」

「そんなことが?」

「それでリシャール王が怒ってギョーム王太子をなじって……、で、内戦になったんだろう? 迷惑な親子喧嘩さ」

 親子喧嘩。親の顔も名前も知らないキリエにとっては、血の繋がった親子が国を二分する戦争を引き起こすなど、とても理解できなかった。父親に反逆したギョーム王太子とは、どんな少年なのだろう。

「それで、問題はこのアングルの次の王様さ……。ルール公だけは勘弁してもらいたいもんだ」

 農夫や修道士が国の未来をああでもないこうでもないと言い合っているのを、キリエは黙って聞いていた。だが、教会から出たことがない彼女にとっては、どこか遠くの出来事を聞いているようだった。

 現在、プレシアス大陸ではこのガリア内戦が最も大きな戦禍を引き起こしているが、戦争が起こっているのはこのガリアだけではない。

 キリエたちが信奉するヴァイス・クロイツ教の聖都クロイツはユヴェーレン王国の自治都市だったが、分離独立を宣言。その独立を許さないユヴェーレンとの間では五十年越しの戦争が続いている。さらに、ユヴェーレンは隣国カンパニュラ王国にも王位継承に横槍を入れ、戦争状態に突入して十年になる。

 大陸にはその他、ポルトゥス王国やナッサウ王国、ガリアの属国バーガンディ公国など、小さな国々が寄り集まっている。ここ五十年の間では戦乱が絶えず、長らく平和な時代が訪れていないが、ここへきて大陸の覇権を得ようと台頭してきたのが、大国エスタド王国のガルシア王だった。彼の父、先王カルロスがその土台を築き、息子ガルシアはそれを基盤に一挙に領土を拡大した実績があった。彼はプレシアス大陸の統一を目論み、ヴァイス・クロイツ教最高指導者ムンディ大主教と対立している。

「ああ、そうだ」

 不意に、農夫が明るい声でキリエに呼びかける。

「悪いけどキリエ、おまえさんの薬草をまた分けてくれないかな。代わりに、うちで作ったチーズをいくらか持ってきたんだが」

 キリエの顔が明るくなった。

「まぁ、ありがとう! どの薬草を持っていかれます?」


 その頃、教会の門に馬車の一団が到着していた。派手さはないが、明らかに高位の者が使う馬車の到着に、門番たちは困惑して立ち尽くしていた。馬車から一人の青年が降り立つと、恐々と歩み寄ってくる門番に名を名乗る。

「私はジョン・トゥリー子爵。ボルダー司教に目通り願いたい。クレド伯爵ジュビリー・バートランド様がおいでになったと言えば、わかるはずだ」

「クレド伯……? しょ、少々お待ちを……!」

 この村はグローリア伯領に属しているが、クレド伯領といえば隣の領地だ。何故このグローリア伯領に、しかもこんな小さな教会に? 門番たちは不思議に思いながらも慌てて司教に知らせに走った。

「……静かな村ですね」

 ジョン・トゥリーは、周りを見渡すと呟いた。後ろからもう一人の男が馬車を降りて歩み寄ってくる。

「……そうだな」

 男は三十代半ばほどで、黒髪黒瞳。身にまとっているのも黒い胴衣(ダブリット)で、全身黒尽くめに近い。綺麗に整えられた口髭と顎鬚。思慮深そうな額。鋭い目。どこか近寄りがたい空気を醸し出している。それに対し、ジョン・トゥリーは明るい栗毛に鳶色の瞳。見るからに実直そうな好青年だ。

「クレド伯……!」

 二人の背後から、ボルダー司教の緊張した声が投げかけられる。

「こ、こんな所でお待たせして……、申し訳ございません!」

「構わん。教会がみだりに外部の者を入れないことぐらい知っている」

 冷たく言い放つジュビリー・バートランドに向かって、ボルダーは改めて深々と頭を下げた。少し遅れてロレインがやってくる。険しい表情の修道女は、ジュビリーを凝視すると黙って一礼した。

「お早いお着きでしたな……」

 ボルダーがジュビリーを中へ案内する。

「明け方にすぐ発った」

「お疲れでございましょう。少し休まれては……」

「時間がない」

「はっ」

 一言一言が鋭い棘のように言い放たれ、ボルダーは強張った顔のまま、教会の庭に面した渡り廊下を進んでいく。その時、庭の奥で歓声が上がった。

「キリエ、相変わらずおまえさんの薬草園はすごいな!」

「そんなことないわ。もう少し種類を増やしたいのだけど。どれをお持ちしましょうか」

「えぇと、カモミールとサンザシあるかい」

「乾燥させたのがまだたくさんあります。今、持ってきますね」

 その様子をジュビリーが黙って眺める。ボルダーはおずおずと声をかけた。

「……あの娘です」

「そのようだな」

 じっとキリエを見つめるジュビリー。その目が静かに眇められる。幼い修道女は自分が育てた薬草たちを誇らしげに眺め、明るい笑顔で農夫と談笑している。小柄だが、花のように咲くその笑顔にその場が自然と明るくなるようだった。ボルダーが耳打ちすると、ロレインが前に進み出て声高に呼びかける。

「キリエ!」

「はい!」

「あなたにお客様がいらっしゃっています」

「お、お客様、ですか?」

 キリエは困惑の表情を浮かべた。孤児のキリエに訪れる者などいない。畑を出ると渡り廊下までやってくるが、その顔は不安に満ちている。

 キリエは、司教の後ろに佇んでいるジュビリーとジョンに視線を投げかけた。ジョンはにっこりと顔をほころばせたが、ジュビリーは冷たい瞳のまま無言で見つめてくる。眉間に皺を寄せた険しい表情の男を、キリエはじっと見上げた。誰だろう。キリエの不安はますます膨れ上がった。ロレインはキリエの服装にちらりと視線を走らせた。

「服を着替えましょう。着替えてから司教様のお部屋へ」

「は、はい」

 ロレインはキリエの肩に手を添えると、その場から連れ出した。

「ロレイン様……、あのお方は、どなたですか?」

「……お会いになればわかります」

 言葉少なげに答えるロレイン。一体これから何が起こるのか。キリエは突然のことに戸惑いながら自室へ戻る。替えのローブを取り出すが、ロレインがそれを遮る。

「それではなく、こちらに着替えなさい」

「え、でも、それは……」

 ロレインが取り出したのは祭礼用の白い衣装だった。これは、教会に高貴な人物が訪れた時にも着用することがあった。

「粗相があってはなりません」

「は、はい」

 祭礼用の衣装を着るということは、あの男性は相当な身分なのだろうか。キリエは黙りこくって着替えを済ませた。

 司教の部屋まで来ると、ロレインが扉を静かに叩く。

「お待たせいたしました」

「入りなさい」

 ボルダーのしわがれた声が返ってくる。キリエは緊張で喉の渇きを感じながら、恐る恐る部屋へと踏み入った。

 部屋の中央にボルダーとジョン。ジュビリーは奥の窓から教会の庭を見下ろしていた。そして、ゆっくりと振り返る。

「…………」

 ジュビリーの鋭い目にキリエは思わず息を呑んだ。一八五センチはあるだろうか。小柄なキリエは巨人でも見上げるような表情で彼の顔つきを窺った。

「キリエ、こちらはクレド伯爵ジュビリー・バートランド様。そして、ジョン・トゥリー子爵。……ご挨拶して」

 言われるままにキリエは胸の辺りで両手を合わせ、軽く片膝を付いて最敬礼した。

「キリエと申します。天なる神に、お恵みと今日の出会いに感謝いたします……」

 そう言って立ち上がろうとした時、キリエは思わず「きゃっ」と悲鳴を上げた。彼女の右手をジュビリーが手に取ると、その場に跪いたのだ。思わず引っ込めようとした指先をジュビリーが握り締める。

「……!」

 ジュビリーは上目遣いにキリエを見つめ、ゆっくりと挨拶を述べた。

「……お迎えに上がりました。レディ・キリエ・アッサー」

「はっ……?」

 手を握られたまま、キリエが戸惑いながら聞き返す。ジュビリーは目を眇め、怯えた表情の修道女を探るように見つめた。やがてすっと立ち上がると、静かに口を開く。

「今から言うことを良く聞くのだ」

「は、はい」

「私とそなたは遠縁に当たる」

「え……」

 キリエは眉をひそめた。

「そなたの母はレディ・ケイナ・アッサー。グローリア伯爵ベネディクトの令嬢だ」

「ま、待って下さいっ」

 キリエが慌てて口を挟む。

「お人違いですっ。私は孤児で、ファミリー・ネームがありません。洗礼名だって、司教様がお付けになったもので、私……」

「ベネディクトが、身分を隠して育てるよう言い含めてここへ預けたのだ。そなたが二歳の時、母であるレディ・ケイナが病死したためだ」 

 冷たく乾いた声で淀みなく言い放つジュビリーに、キリエは思わず顔を引きつらせて後ずさる。何……? このお方は……、何故こんなことを言うの……?

「身分を隠す必要があったのだ。そなたの父親は……、昨日身罷られた国王陛下、エドガー・オブ・アングル様だ」

「……は……?」

 キリエの両目が大きく見開かれ、思わず背後のロレインを振り返る。が、ロレインは苦しげに目を閉じ、俯いている。

「もちろん、陛下には王妃がいらっしゃる。だから、そなたは庶子ということになる。だが、陛下には嫡子がいらっしゃらない。つまり、そなたはアングル王国の王位継承権を有しているのだ。そなたには、イングレスのプレセア宮殿で王位を宣言する権利が――」

「やめてッ!」

「………」

 キリエが思わず上げた叫び声にジュビリーは口を閉ざしたが、その表情は微塵も変わらない。

「ひ、ひどいわ……」

 キリエはかすれた声で呟き、顔を横に振る。

「私が、世間を知らない修道女だと思って……、そんな、で、でたらめを……。陛下に対する、冒涜ですッ!」

「キリエ」

 ボルダー司教がなだめるように声をかける。ジュビリーはじっと幼い修道女を見下ろし、口を開いた。

「……時間がないのだ、キリエ」

「…………」

「今から、この国は大きく揺れ動く。そなたを含めて王位継承権保持者は五人。一人はすでに継承権を放棄しているが、エドガー王は後継者を指名せずに崩御された。王位継承までに国が乱れれば、近隣諸国に付け入る隙を与えることになる」

「で、でも、証拠が……」

「証拠?」

 キリエはごくりと唾を飲み込むと、必死に訴えた。

「私が、国王陛下の娘である証拠なんて、何も、ないじゃないですか……。私みたいな修道女に王位継承権なんか、皆が認めるわけがありません!」

「蝶の紋章だ」

 キリエの言葉を遮るように、ジュビリーが言い放つ。その瞬間、キリエは言葉を飲み込み、黙り込んだ。そして、見る見るうちに顔から血の気が引いてゆく。

「蝶の紋章をあしらった指輪を持っているはずだ。蝶はアッサー家の紋章。本来アッサー家の紋章は青い蝶だが、そなたが持っているのは赤い蝶のはず。国王はそなたの誕生を祝い、王家の紋章である〈赤獅子〉にちなんで、赤い宝石で蝶をかたどった指輪を作らせた」

「あ、ありません、そんなの……。持っていません!」

 明らかにうろたえた表情のキリエが叫ぶ。ジュビリーは辛抱強くキリエを見つめていたが、やがて、傍らに控えているボルダーを見やる。

「……ボルダー」

「…………」

 ボルダーは眉間に皺を寄せ、沈黙していたが、やがて諦めたように天井を仰ぎ見た。

「……ネックレスにして……、首から下げております」

 それを聞くとジュビリーが大股に歩み寄り、キリエは恐怖に顔を引きつらせて後ずさった。

「いや……、来ないで……!」

 すると、背後からロレインがキリエの腕を掴む。

「キリエ……」

「ロレイン様……! 放して……! お願い……!」

 泣きながら懇願するキリエを、ロレインは口を引き結び、目を閉じて必死で抱きすくめた。ロレインにももうどうすることもできない。キリエは絶望して再びジュビリーを見上げた。

「もう一度言うぞ。時間がないのだ」

「…………」

「放棄した一人を除いて、他の者は皆、王位にふさわしい人間ではない。アングルの未来を、闇に閉ざすわけにはいかないのだ」

「で、でも……」

「それからもうひとつ。おまえの祖父、ベネディクトはもう長くない」

「!」

 キリエが体をびくっと震わせる。

「十二年間、おまえに会いたくても会えなかった。……おまえに会いたがっている。今会わねば、後悔するのはおまえだ」

「…………」

 キリエはうな垂れると深呼吸を繰り返した。頭ががんがんと割れるように痛い。耳鳴りが響き、気が遠くなりそうだ。しばらく俯いていたキリエだったが、やがてゆっくり顔を上げると、そっと右手を首元に這わせた。指先が鎖を探ると手繰り寄せる。キリエの小さな手に大振りな指輪が現れる。金の台座にルビーの蝶が輝く。ジュビリーの背後に控えたジョン・トゥリーが思わず息を呑む。

「……心配するな」

 ジュビリーが低く囁いた。

「おまえの身は、私が守る」

 そう言うと、右手を差し出す。キリエはその手をしばらく見つめ、やがて恐る恐る手を取る。部屋を連れ出されようとするキリエに、背後からロレインが名を叫ぶ。

「キリエ!」

 振り返ると、ロレインが小走りに駆け寄り、キリエを抱きしめた。

「この日が来なければと、ずっと祈っていました……!」

「ロレイン様……」

 では、ロレインは知っていたのか。自分が王の血を引く娘であることを。だが、そんなことはもうどうでもよかった。

「いいですね。良き女王におなりなさい」

 女王。その言葉に、キリエはぞくりとした。

「……良いか」

 ジュビリーの声に、二人は体を離した。

「……お行きなさい」

 ロレインが囁く。キリエは頷くと、ゆっくりジュビリーを振り返った。再びジュビリーはキリエの手を引くと、部屋を出ていった。

「……キリエ……!」

 ロレインは顔を覆うとその場に蹲った。その後ろで、相変わらず暗い表情をしたボルダーが無言で立ち尽くしていた。


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