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女王キリエ  作者: カイリ
第7章 オイールの惨劇
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第7章「オイールの惨劇」第5話

服従しない異母兄と異母姉を残したまま、異国へ嫁ぐキリエ。そんなキリエをギョームは優しく出迎える。

 ホワイトピーク港に到着すると、ヒースと入れ違いに同行することになっていたウィリアムが出迎えていた。

「無事で何よりだ。ルール公が接触してきたそうだな」

「……ご心配おかけしました、おじ上」

 暗い表情で呟く女王に、ウィリアムは複雑な表情で見つめた。キリエは、押し殺した息を吐き出すとヒースを振り返った。

「……行って参ります、兄上」

 その言葉にヒースは両手を広げ、キリエは兄に縋りついた。細い指がゆっくりと髪を撫でてゆく。やがて、ヒースがそっと囁く。

「……ギョーム王はあなたを大事にしてくれるでしょう。これからは、彼を信じていきなさい」

 キリエは黙って頷いた。二人の様子をウィリアムが心配そうに見守り、そしてジュビリーを振り返る。宰相はいつもと変わらず、寡黙に女王の側に控えている。だがその顔には、どこか悲壮感が漂っているようにも見えた。

「道中気をつけて」

「……はい」

 ようやくキリエは体を離した。ヒースが強張った顔つきのまま呼びかける。

「……クレド侯?」

「ここにおります」

 ジュビリーがヒースの側へ歩み寄る。

「私の代わりに、キリエの花嫁姿を見届けて来て下さい」

「承知いたしました」

「……キリエを、お願いします」

「はっ」

 頭を下げるジュビリーに、ヒースが身を乗り出す。

「侯爵」

「はい」

 ジュビリーが耳をヒースの顔に近づける。両目を固く閉ざした司教は、低い声で呟いた。

「……キリエがギョーム王の妃となっても、あなたは彼女の理解者であって下さい」

 ジュビリーは思わず息を呑むと、ヒースを凝視した。彼は低い声で言葉を続けた。

「ですが、キリエはこれから人の妻となる身。……それを、忘れないよう」

「……はい」

 ジュビリーはかすれた声で呟いた。二人の声が聞こえないキリエは眉をひそめ、黙って彼らを見守っていた。

 やがて、キリエはイングレスから見送りに同行した廷臣たちに別れを告げると波止場に向かう。そこには美しい花々で飾りつけられた艀舟がキリエを待っていた。女王を始めとした一行が乗り込むと、艀舟は静かに波止場を離れる。ゆるやかな波の音を聞きながら、キリエは波止場で立ち尽くしているヒースを見つめた。段々と小さくなってゆくその姿に、キリエは涙を滲ませた。やがて艀舟は軍艦に辿り着く。女王が乗り込んだことを確認すると、艦長は大声で号令をかける。

「祝砲を!」

 艦に搭載された大砲が轟音を響かせる。港の人々の顔が少しずつ遠のいてゆく。視線を遠くに向けると、入り江にも市民が大勢詰めかけている。皆、キリエに向かって手を振っている。中には両手を合わせ、一心に祈っている者もいる。キリエも名残惜しげに手を振り、そして手を合わせて祈った。

 輿入れの船団は全部で十隻。女王を乗せた旗艦を守るように多くの軍艦が周りを固めている。多くの侍従や女官、騎士団やロングボウ隊も同行するため、どの艦も人や馬で一杯だ。

 ホワイトピーク港が小さくなっても、キリエは思い詰めた表情で艦の艫からアングルの方向を見つめていた。深い群青の海面には太陽の光がぎらぎらと照り返っている。いつか船に乗ってみたいと願っていたキリエだが、思い描いていたのは、こんなものではなかった。船端に手を突き、艦が白い波飛沫を上げて進んでゆくのを見下ろす中、レノックスの言葉が頭を離れなかった。

(おまえも捨て駒になるのか)

 彼女は、目を閉じると重たい溜め息をついた。その時、

「浮かねぇ顔だな」

 ぎょっとして振り返ると、そこには似合わぬ海軍の制服を着込んだ男が斜に構えて佇んでいる。

「ソーキンズ……!」

 キリエの表情がわずかに明るくなる。海賊は帽子をちょいと持ち上げてみせた。

「ようこそ、憧れの船へ」

 その言葉に、キリエは寂しそうに微笑を浮かべる。

「……あなたの船だったのね」

「俺の船はこんなに鈍くさくねぇ。侯爵が女王の船に乗れって、うるさくてよ」

「……クレド侯が?」

 眉をひそめるキリエに構わず、ソーキンズは彼女の隣まで歩み寄ると船縁にもたれかかった。そして、自分たちを見守っているジュビリーに向かって手を振ってみせる。

「花嫁の顔にゃ見えねぇぞ」

 ソーキンズは顔を逸らしたままぼやいた。

「……そう?」

「そんなにガリアの若造が嫌か」

「そんなことはないわ。私にはもったいないぐらい立派なお方だもの」

「嘘くせぇ」

 ソーキンズは鼻で笑いながら吐き捨てる。

「国を守るために嫁入りとはねぇ……」

 キリエは声を落として囁いた。

「……私が結婚することで、多くの命が守られるのよ」

 ソーキンズは女王を一瞥した。

「……酷なことを言うようだがな」

「何?」

 ソーキンズにしてはしおらしい言葉に、キリエは首を傾げてみせる。海賊は口許の皴を深めると海原に視線を投げた。

「これから先は、荒波しかねぇぞ」

 荒波。キリエは口をつぐんだ。

「アングルの女王だけじゃねぇ。ガリアの王妃というしがらみが増えるんだからな」

 顔を強張らせてソーキンズを見つめていたキリエだったが、やがてわずかに顔をほころばせると小さく囁く。

「あなた……、本当に海賊なの?」

「海賊以外の何に見える?」

 ソーキンズはそう嘯くと顔をもたげ、空を見上げた。

「……重たいしがらみに我慢できず、身を滅ぼした奴らを腐るほど見てきたからな」

 彼がそれ以上のことを語ろうとしないため、キリエも敢えて追求はしなかった。だが、ソーキンズが言いたいことはわかったつもりだった。

「……心配してくれてありがとう」

「別に心配なんぞしてねぇよ」

 キリエは微笑むとガリアの方角に目を向けた。

「……きっと、悪いことばかりじゃないはずよ。……そうでしょう?」

 先ほどよりは晴れやかな表情の女王を眺め、海賊はにやりと笑みを浮かべてみせた。

「……ああ」


 キリエが向かっているガリアの港湾都市、ルファーン。ルファーン城の城主の間では、先程からそわそわと室内を行ったり来たりしている若い王の姿があった。

「陛下」

 微笑ましさを通り越し、半ば呆れた様子でバラが声をかける。

「今からそのように落ち着きをなくされていては保ちませんよ。式は三日後なのですから」

 思わず答えに詰まるギョームだったが、しばらくして彼は真面目くさった表情で振り返る。

「そなた……、式の前には緊張しなかったのか」

 宰相は苦笑いしながら肩をすくめてみせた。

「私は親が決めた結婚でしたからな。むしろ、重い足枷をはめられると思うと逆に気が滅入りましたよ」

「罰当たりめ」

 ギョームはぼそりと呟くと大きく息をついた。

「そろそろ大主教もクロイツをご出発されたでしょうな」

 二人に祝福を与えてもらうため、クロイツからムンディを招いていたが、ガリアからムンディを警護する軍が派遣されている。ガルシアがギョームとキリエの結婚を非難していることは、すでにガリアにも伝わっていた。エスタドが不意を突いて侵攻してくる可能性もあったため、大主教の出迎えはもちろん、王都オイールや各国との国境には厳戒な警備態勢が取られている。

「しかし、今のところエスタドにまったく動きがないのが不気味でございますね」

「挙式が済んでも警戒を怠るな」

「御意」

 そこでバラが感慨深げに息をつくと、独り言のように呟いた。

「不思議でございますな……。今頃、ひょっとしたら陛下のお妃がフアナ王太女だったかもしれないと思うと……」

「やめろッ!」

 途端にギョームが荒々しく声を上げ、バラは慌てて居住まいを正す。王は宰相に鋭い視線を投げかけた。

「バラ……。女王の前ではフアナ王太女の名を口にするな。絶対にだ……!」

「承知いたしました。申し訳ございません」

 バラはごくりと唾を飲み込んで王を凝視した。相変わらず、ギョームのキリエに対する執着心は異常なものを感じる。これから先が思いやられる……。バラは複雑な思いで、顔を強張らせる主君をじっと見つめた。その時、侍従が現れると恭しく言上した。

「陛下、アングルの船団が到着いたしました」

 はっと息を呑んだギョームが顔を上げると、慌てて城主の間を飛び出す。

「陛下、落ち着いて」

 バラが後を追いかけながら声をかける。待機していた側近たちも続々と集まってくる。アプローチまでやってくると、女官を引き連れたマダム・ルイーズ・ヴァン=ダールが待っている。

「いよいよご対面ですね」

 相変わらず耳障りな高い声ながらもルイーズは落ち着き払って呼びかけた。ギョームは頷きながら顔をしかめてみせる。

「ルイーズ。言っておくが、キリエ女王は長らく教会で過ごした敬虔な修道女だ。そなたの目から見れば気になる点は多いだろうが……」

「承知いたしております」

 ルイーズは慇懃に頭を下げて見せた。

「私がガリア王妃に相応しい女性に育て上げてみせますわ」

「……それが心配なのだ」

 思わず漏らした言葉にルイーズは「まぁ」と目を見開く。ギョームは気を取り直すと息をつき、アプローチを出た。


 アングルの船団は刻一刻とルファーン港に接近している。やがて、港に大勢の人々が待ち構えている様子が見えてくる。ジュビリーは目を細めてルファーン城を眺めた。もう、港にはギョームが到着していることだろう。すでに港は日が暮れかかり、城はオレンジの陽の光に染まっている。港には仰々しく飾り立てられた船着台が据え付けられている。ジュビリーの背後から人々の話し声が聞こえてくる。振り返ると、女王が女官を伴って船室から姿を現す。キリエはジュビリーと目を合わせると、緊張した表情で頷いた。

「繋留します」

 艦長が告げると、甲板は慌しくなった。艦はゆっくりと船着台に横付けされ、キリエは揺れる甲板に足を取られぬよう、マリーの手を握り締めながら船縁に歩み寄った。

 整然と並ぶガリアの騎士団。出迎えの貴族。その周りには多くの市民が詰め掛けている。その中心、船着台の下では、顔を強張らせたギョームが艦を見上げていた。夕日を浴びた甲板の人々の中からキリエの姿を見つけ出したギョームの表情が輝く。キリエもそっと身を乗り出す。二人の脳裏に、クレド城で初めて出会った時の光景が蘇った。

「……ギョーム様……」

 思わず小さく囁く彼女の背後で、ジュビリーが艦長に命令を下す。

「式が終わり、我々が戻ってくるまでルファーンで待機せよ」

「承知いたしました」

「……ソーキンズ」

 宰相に呼ばれ、離れた場所で船縁に寄りかかっていたソーキンズが面倒くさそうに体を起こす。ジュビリーは彼を手招きすると耳打ちする。

「……そなたのおかげで女王の気が晴れた。礼を言うぞ」

「どうかな……」

 ソーキンズは苦笑いを浮かべてぼやいた。

「そこは、自信がねぇな」

 ジュビリーは黙って海賊の肩を叩くと背を向けた。

「参りましょう、陛下」

 ジュビリーに呼びかけられ、キリエはこくりと頷いた。そして艦長に向かって両手を合わせる。

「ありがとう、艦長。皆を無事アングルまで送り届けて下さいね」

「承知いたしました。女王陛下、道中お気をつけて」

 そして、キリエは後ろで控えているソーキンズに微笑みかけた。

「ソーキンズ」

 相手は相変わらず無愛想な表情のままだ。

「……ありがとう」

 ソーキンズはぎこちなく頭を下げた。

 キリエは深呼吸をすると踵を返し、強張った顔つきで艦を降りた。壮大な船着台の先には、夕日を受けて光輝く金髪の若獅子王が待っている。キリエは片方の手でドレスの裾を持ち、もう片方の手はマリーに握られ、ゆっくりと船着台を降りていった。やがて、ついにガリアの大地に降り立つ。

 思わず辺りを恐々と見回すキリエ。この感覚は覚えがあった。初めてイングレスのプレセア宮殿にやってきた時と同じだ。そして、ガリアの廷臣や貴族、騎士、市民らが異国からやってきた女王の一挙手一投足に注目する中、キリエはマリーの手を離すと両手を合わせて片膝を突いた。途端にどよめきが上がる。皆、〈ロンディニウム教会の修道女〉の噂は耳にしていたが、実際に目の当たりにして感慨深げに感嘆の声を漏らす。が、ギョームの背後に控えたマダム・ルイーズは露骨に顔をしかめた。立ち上がったキリエの元に、ギョームが小走りに駆けよる。

「キリエ様!」

 満面の笑みを浮かべたギョームは、いきなりキリエを抱きしめた。

「ギョーム様……!」

 今まで公衆の面前で抱きしめられたことなどなかったキリエは、怯えた声を上げた。

「お待ちしておりました」

 ギョームが耳元で囁く。その声はどこか震えているようにも聞こえた。

「長かった……。本当に長かったです」

「……ギョーム様」

 キリエは、胸の鼓動が彼に伝わるのではないかと顔を赤くした。そして、思い出したようにギョームの背をそっと抱く。キリエの背後では、緊張に顔を強張らせたジョンとマリー。そして、相変わらず険しい表情のジュビリーが二人を見守っていた。しばらくキリエを抱き締めていたギョームはようやくそっと体を離した。と、首を傾げてキリエの髪に手をやる。

「青蝶……」

 青蝶をあしらった髪飾りが耳の上で艶やかな光を放つ。

「母の……、形見です」

「よくお似合いです」

 そう囁くと顔を寄せて髪を撫でる。が、キリエは身を竦めて顔を強張らせ、ギョームは慌てて体を離した。

「あ、申し訳ございません……!」

「い、いいえ」

 若く、幼い二人は互いに顔を赤らめて俯いた。やがて、恐る恐るギョームが呼びかける。

「お疲れになったでしょう。船酔いは?」

「……少しだけ」

「今宵はルファーン城でゆっくりお休み下さい」

「お気遣い、ありがとうございます」

 そこでギョームは顔を上げると、ジョンとマリーに微笑みかけた。

「結婚おめでとう。グローリア伯夫妻」

 二人は控えめに微笑むと頭を下げた。

「キリエ様、紹介しましょう。ビジュー宮殿女官長、マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールです」

 ルイーズは恭しく跪くとキリエの右手を取った。

「ルイーズと申します。女王陛下のオイールでの生活をお支えいたします」

 そう言って上目遣いに見上げたルイーズに、キリエは顔の表情こそ変えなかったが、ひそかに息を呑んだ。彼女の本能が、ルイーズに対して警告を発したのだ。

「……よろしくお願いします」

 それでもキリエは穏やかに挨拶を述べた。ルイーズもにっこりと笑って立ち上がった。

 

 翌朝、オイールに向かうガリア王とアングル女王の一行がルファーンを出発した。ガリアの近衛兵団に加え、アングルの聖女王騎士団に守られた隊列は、実に壮観なものだった。

「キリエ様、昨夜もお眠りになれなかったのでしょう。どうぞお休み下さい」

 馬車に同乗したマリーの言葉に、キリエは固い表情で頷く。

「……大丈夫ですよ。これだけの軍勢に守られていれば」

 こうして馬車に揺られていると、アングルでの暗殺未遂事件が思い出されるのだろう。落ち着かない様子のキリエに気づいたマリーが安心させるように穏やかに言い添える。

 キリエは窓のカーテンを開け、流れゆく景色を眺めた。同じ森でも、アングルよりも明るい光に満ちたガリアの森に、彼女は目を細めた。馬車が進むごとに、ギョームとの結婚式が近づき、アングルは遠のいてゆく。式が終われば、大勢の人の目に晒されながら床に入る〈見届け〉が待っている。キリエは眉をひそめ、顔を伏せた。ギョームは……、約束を守ってくれるだろうか。

 一行はその日の晩、中央ガリアの地方都市マリルで一泊した。ギョームは婚約者を甲斐甲斐しくもてなし、気遣い、キリエが恐縮するほどだった。ヒースが言った通り、ギョームは自分を大事にしてくれるだろう。だが同時に、ヒースが彼の嫉妬心を懸念していたことも頭をもたげた。自分はともかく、ジュビリーに嫉妬の目が向かなければ良いがと、キリエはそればかり考えていた。

 そのジュビリー自身も、自分の立場を心得て可能な限り表へは出ず、これから先キリエと行動を共にするジョンやマリーに立ち働かせていた。彼は、疲れた表情ながらも婚約者を見上げて談笑するキリエをじっと見つめた。娘を嫁がせる父親の気分とは明らかに違う。だが、この喪失感は身に覚えがあった。エレオノールを失った時と似ている。彼が重い吐息をつくと、臨席のレスターがそっと耳元で囁いた。

「……マリー様が仰っておられました。キリエ様は昨夜はほとんどお眠りになられていないようです」

 レスターの言葉にジュビリーは眉間の皺を深めた。挙式は明後日だ。このまま不眠が続けば、挙式の最中に倒れかねない。

「今夜も眠れないようなら、明日ワインを馬車に積ませろ。無理にでも休ませる」

「それから、侯爵も」

 老臣の言葉にジュビリーが振り返る。レスターは目を伏せると低く呟いた。

「……キリエ様が、我々の体調をご心配されているそうです。特に、あまりお姿を見かけない侯爵を」

 実際、キリエの婚約が成立してからジュビリーの日常は彼女以上に多忙になった。疲れも溜まりに溜まっている。だが、これから異国の地で見知らぬ人々に囲まれて生活するキリエとは、比べようもない。ジュビリーは再びキリエをそっと見つめた。


 ジュビリーの願いが通じたのか、疲れが勝ったキリエはその晩、久しぶりに深い眠りについた。そして翌朝、いよいよ王都オイール郊外のオルリーンに向かって出発した。ビジュー宮殿には寄らず、オルリーンのロシェ宮殿で一泊し、翌日に聖オルリーン大聖堂で結婚式を挙げ、それから王宮へ向かうことになっている。

「ロシェ宮殿?」

 キリエの問いにモーティマーが答える。

「ギョーム王陛下の叔父君、レイムス公の居城でございます」

「レイムス公シャルル。リシャールの弟だ」

 ジュビリーの添えた言葉にキリエは表情を引き締めた。兄リシャールを裏切り、甥に寝返ったレイムス公の話はキリエも聞き及んでいた。王都オイールには、当然のことながら様々な人々がいる。レイムス公などはそのごく一部に過ぎない。だが、どんな人々が待ち受けているのか、キリエは憂鬱な心持ちで馬車に揺られていた。だが、目に映る自然の風景は心を癒してくれる。キリエは飽きもせずに眺め続けた。

 山も多いが広大な平野も多いガリアの地に、キリエは驚いた。教会に閉じこめられていた生活から一転、様々な場所を訪れたが、ガリアがこれほど広大な国だとは思わなかった。エスタドはもっと広く、もっと豊かな地だ。地図ではわからなかった国土の広大さ。それを思うとキリエはにわかに不安になってきた。自分はアングルを守りきれるのか。ギョームを支える存在になれるのか。そんな彼女を乗せた馬車は、ついにオルリーンに到着した。


 オルリーンに到着したのは夜だったにも関わらず、人々は遙か海を越えてやってきた王妃となる少女を歓迎した。家々の軒先には花の輪飾りが連なり、鮮やかなリボンや旗が風になびいている。歓声に包まれながら、キリエたちはロシェ宮殿へと入城した。

 アプローチには、背の高い男と金髪の美女が並んで出迎えていた。二人の間には幼い少年の姿もある。男が穏やかな表情で恭しく跪く。

「ようこそガリアへ。キリエ女王陛下。レイムス公爵シャルル・ド・ガリアにございます」

 キリエも両手を合わせ、片膝を突く。溌剌とした印象のロベルタは晴れやかな笑顔で身を乗り出した。

「妻のロベルタ・デ・レオンにございます」

 そして、傍らの少年の肩に手を添える。

「アンリ、女王陛下にご挨拶を」

 アンリと呼ばれた少年は、緊張に顔を強張らせながらも前へ進み出た。

「……レイムス公爵嫡男、ローラン侯爵アンリでございます」

 子どもらしいあどけない表情ながらも、澄んだ青い瞳は賢そうな印象を持たせる。

(ギョーム様と同じ瞳だわ)

 一目見た瞬間、キリエはそう思った。やがてアンリは手にした花束をおずおずと差し出す。

「お、お会いできて、嬉しいです、女王陛下」

 ガリアを象徴する青い花々は長旅で疲れきったキリエの瞳に優しく映りこんだ。彼女は腰をかがめて受け取ると優しく微笑む。

「ありがとう、アンリ様。とっても綺麗だわ」

 その言葉にアンリの顔がぱっと嬉しそうに輝く。なるほど、ギョームのいとこか。道理でとてもよく似ているわけだ。

「お疲れでございましょう、女王陛下。どうかお寛ぎ下さいませ」

「ありがとうございます、ロベルタ妃殿下」

 美しいが、見るからに気の強そうな顔立ちのロベルタはキリエの手を取ると宮殿の奥へと導いた。

(このお方が、〈レオンの頼もしいお嬢様〉……)

 ロベルタの横顔を見つめながらマリーは胸で呟いた。祖国を愛するレオン公女の激しさは国の内外で有名だった。ビジュー宮殿の貴族たちはそんな彼女を〈レオンの頼もしいお嬢様〉と揶揄していたのだ。

「いよいよ明日でございますね。お覚悟はよろしくて?」

 ロベルタの冗談にキリエの顔もほころぶ。

「大丈夫。ギョーム王陛下に全てお任せすれば何も怖いことはございませんわ。良い式を挙げるためにも、今宵はしっかりお休み下さいませ」

「はい、ありがとうございます」

 客間に案内され、ソファに身を預けたキリエは溜め込んだ息を吐き出した。

「晩餐は客間でとお願いいたしました。その方がゆっくりできますでしょう」

「ありがとう、マリー」

 疲れ果てた様子のキリエにマリーが心配そうに歩み寄ると、「陛下」と呼びかけられる。

「マダム・ルイーズがお越しです」

 女官の言葉にキリエは慌てて居住まいを正した。扉が開かれると、侍女を連れたルイーズが現れる。

「陛下。お休み前に申し訳ございませんが、少々よろしいでしょうか」

「……ええ」

 ルイーズは深々と頭を下げてから切り出した。

「長い道中、お疲れになったことでしょう。明日のために今宵はゆっくりお休み下さいませ。ただ、ひとつだけ申し上げておかねばなりません」

「何でしょう」

 キリエは緊張しながら尋ねた。

「本来ならば明日、晴れてガリア王妃になられてから申し上げるべきことですが……」

 ルイーズは目を細め、探るように見つめてくる。

「合掌の礼はともかく、片膝を突いての最敬礼は今後お慎み下さいませ」

 キリエはごくりと唾を飲み込んだ。マリーも眉をひそめてルイーズを凝視する。

「女王陛下が信仰心の篤い修道女であらせられたのは、もちろん存じ上げております。しかし、陛下はアングルの女王であらせられ、そして明日、ガリアの王妃になられるお方。臣下や民衆に対して膝を突き、頭を垂れるなど、あるまじき行為でございます。これは……、ガリアとアングル両国の国威に関わることでございます」

 言葉遣いは丁寧なものの、そのきっぱりとした口調にキリエはたじろいだ。だが、反論しようと身を乗り出したマリーを手で制する。

「……あなたの、仰る通りだわ」

 キリエはゆっくりと呟いた。

「ありがとう。今後気をつけます」

 緊張気味にそう述べるキリエをじっと見つめたルイーズは、やがてにっこりと微笑んでみせた。

「ご理解いただけてよろしゅうございました。お時間をお取りして申し訳ございません。さ、今夜はゆっくりお休み下さいませ」

「ええ」

 言うだけ言うとルイーズは侍女を連れて客間を出て行った。扉が閉まると、キリエとマリーは思わず無言で顔を見合わせた。そして、マリーが恐る恐る口を開く。

「……マダム・ルイーズ……。手強そうなお方ですね」

 キリエは不安そうな顔つきで頷いた。

 一方、客間を辞したルイーズは思い詰めた表情でしばしその場に佇んでいた。やがて小さく息をつき、足を踏み出そうとした時。

「マダム・ルイーズ」

 声の主に目を向けると、ルイーズは益々顔を強張らせた。

「アンジェ侯」

「いかがでございますか。あなたのお目からして、キリエ女王陛下は」

 宰相の言葉にルイーズは眉間に皴を寄せて顔を伏せた。いつも居丈高な態度で皆の顔をしかめさせている彼女の不安げな表情に、バラは首を傾げた。

「……マダム・ルイーズ?」

「不安でございます」

 そう言い放つルイーズにバラは言葉を飲み込んだ。彼女は固い表情のまま言葉を継いだ。

「御歳は存じ上げておりましたが、想像以上に幼すぎます。……心配でなりません」

「しかし……」

 ルイーズの言葉にバラは戸惑いがちに口を開く。

「女王陛下は親政をなさっておいでです。政治手腕もなかなかのものだと伝わって……」

「アンジェ侯」

 乾いた声に遮られる。

「必要なのは、女王としての力量ではなく、王妃としての能力です」

 能力。その言葉にバラの顔色が変わる。そして、ルイーズの憂いの正体を知った彼は黙り込むしかなかった。


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