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女王キリエ  作者: カイリ
第7章 オイールの惨劇
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第7章「オイールの惨劇」第4話

ジュビリーへの想いを残したまま、キリエはついにガリアへ旅立つ。が、そこに現れたのは……。

 翌日、クレドを早朝に出発したキリエ一行は昼前にイングレスに到着した。プレセア宮殿に帰還したキリエを待っていたのは、ギョームからの六通目の手紙だった。

「ご結婚前の、最後のお手紙でございますね」

 留守を預かっていた侍従次長の言葉に、キリエは強張った笑みを浮かべてみせた。

 胸騒ぎを感じながら執務室で手紙を広げたキリエは、やがて眉をひそめた。そこには、ギョームにしては珍しく熱い言葉が並んでいる。

「あなたがオイールへいらっしゃるのも後わずかです。どうかお体には充分お気をつけて……。当日はルファーン港までお迎えに上がります。この一ヶ月は、信じられないぐらい長く感じられました。後少し……、ですが、その少しが待てそうにありません。早くあなたに会いたい。こんなにもあなたに恋焦がれている自分が信じられません。毎日の執務も手につきません。一日も早いお越しを、お待ちしております」

 キリエは震える手で手紙を机に伏せた。これまでの手紙では熱い思いを伏せ、いつも礼儀正しい態度を崩さなかったギョームだが、いざ挙式が近付くとその思いを抑えられなかったようだ。キリエは机に置かれた手紙をじっと凝視した。この手紙を通じて、ガリアにいるギョームに今の自分を見透かされている気がして恐ろしかった。彼に対して後ろめたい気分で一杯のキリエは、思わず両手で肩を抱き締めた。そして、恐る恐る指で自らの唇に触れる。ギョームへの罪悪感は拭いきれなかったが、ジュビリーと交わした口付けは後悔していなかった。そう思う自分に、キリエは恐ろしさを感じて身を竦めた。

「……ギョーム様……」

 キリエはかすかに震えながら婚約者の名を呟いた。


 エスタドの王都ヒスパニオラ。ピエドラ宮殿の庭園では女官たちが夏の訪れを祝い、花々を噴水に投げ込む祭りを楽しんでいた。その様子を見守っていた王太女フアナは、中庭に面した渡り廊下を行く宰相の姿を見かけた。

「ビセンテ!」

 フアナが呼びかけるとビセンテは足を止め、口元をほころばせた。王太女に手招きされ、彼はゆっくりと歩み寄った。

「今年も花祭りの季節が参りましたね」

「ええ」

 女官たちが黄色い声を上げながら花を投げ合うと噴水の水があちこちに飛び散る。中庭に広がる甘い香りと、舞い散る鮮やかな花弁。下界から切り離された楽園のような光景に見入るビセンテに、フアナが低く囁く。

「……そろそろね。ギョーム王とキリエ女王の結婚式は」

 宰相の顔から微笑が消える。一方のフアナは特に表情は変えない。

「あなたはキリエ女王とお会いしたのでしょう? どんなお方?」

「……田舎娘でございますよ」

 わずかに強張った表情でビセンテは呟いた。

「垢抜けない、みすぼらしい田舎娘です。ギョーム王も何を血迷ったか……」

「ビセンテ」

 たしなめるような口調で呼ばれ、ビセンテははっとして顔を上げた。フアナは微笑んではいたが、射るように彼を見据えている。

「私がそのような答えを望んでいると思って?」

 母親譲りの美しく優しい顔立ちだが、その瞳は父王〈大鷲〉のそれだ。穏やかな声色でありながら、有無を言わせぬ言葉。

「キリエ女王もギョーム王も、私と同じ年頃だわ。いつか、私が彼らと戦う日が来るかもしれない」

「……フアナ様」

 ビセンテは神妙に囁いた。

「キリエ女王は……、田舎で育った修道女です。それは間違いありません。ですが、持って生まれた王族の血のせいでしょうか。どこか近寄りがたい高貴さを持った少女でございました。しかし、修道女故に世間知らずで……、怖いもの知らずなお方です」

「……そう」

 その答えに満足したのか、フアナは口許に微笑を浮かべたまま、花祭りの様子に眼差しを戻す。ビセンテも息をつくと、同じように中庭を眺めた。

「……ユヴェーレンのベッケン伯爵からお聞きしましたが、見かけよりも物怖じしない性格だとか。なかなかの強敵になるかもしれませんな」

 フアナは目を細めた。

「ギョーム様は強いお方を選んだのね」

「殿下……!」

 ビセンテは思わず顔を歪めて身を乗り出した。

「そのようなこと、決して陛下の御前では……!」

「言わないわ、安心して」

 フアナの冷静な声にビセンテは口をつぐむと、やがて溜め込んだ息を静かに吐き出した。フアナの脳裏に、幼い頃の記憶がゆるやかに蘇ってきた。


 フアナがアングル王太子エドワードと婚約したのは六歳の時だ。エドワードはひとつ年下の五歳。父ガルシアの反対を押し切り、祖父カルロスが強行に進めた結果だった。それは、妃ペネロペを産褥で亡くしたガルシアが再婚を頑なに拒んだためでもあった。

 やがて二人は頻繁に手紙をやり取りするようになった。フアナは体が弱いエドワードを気遣い、婚約者というよりも姉のような思いで手紙を認めた。一方、エドワードからの手紙も本人の性格が滲み出た優しいものだった。

「フアナ様のために、今アングルで流行している詩集をエスタド語に訳しました。きっとお気に召されると思います」

「素敵な詩集をどうもありがとう。いつかエド様に会える日のために、バージナルを上達させますわ」

 体が弱いことを悩み、勉学に打ち込むエドワードにフアナは励ましの手紙を送り続けた。そして、いつか会える日を心待ちにしていたのだ。だが、その穏やかな日々は突然終わりを告げた。

 婚約から五年後。中庭で妹たちと遊んでいたフアナは不意に名を呼ばれた。

「フアナ」

 振り返ると、父が険しい表情で佇んでいる。父親に駆け寄ろうとした妹たちは眉をひそめて立ち尽くした。

「……父上?」

 フアナが恐る恐る歩み寄ると父は黙ったまま抱き寄せ、頭を掻き撫でた。張り詰めた空気に妹たちは黙りこくったまま身を寄せ合う。

「どうしたの、父上」

 娘の囁きにガルシアは重い溜息をついた。

「……悲しい報せだ」

 その言葉に胸騒ぎが一段と高まる。ガルシアはしばらく娘の背を撫でていたが、やがて肩に手を添えると真っ直ぐに見つめてきた。

「エドワードが亡くなった」

 瞬間、フアナは息を呑んだ。そして、震える唇を開きかけて顔を振る。

「……嘘」

「狩りの最中に落馬したらしい。……手の施しようがなかったそうだ。ここ数年目に見えて体が丈夫になったから、狩りにはよく行っていたらしいが……」

 ガルシアはそこで口を閉ざした。娘が無言ですがりついてきたのだ。

「……フアナ」

 肩を震わせ、嗚咽を漏らすフアナを抱き締める。

「……残念だ。あの幼さで天に召されるとは」

「……可哀そう……」

 ガルシアの胸にフアナの涙声が染み入る。

「エド様が可哀そう……!」

 一度も会うことがないまま死に別れた婚約者。残されたのは夥しい手紙だけ。彼のために何もできなかった。その思いはフアナを長年苦しめることになった。だが、その苦しみが癒されぬうちに、再び彼女に縁談が舞い込む。

「相手はガリアのギョームだ」

 そう告げたガルシアの表情は曖昧なものだった。

「獅子のように美しい金髪に、鮮やかな碧い瞳だそうだ。端正な顔立ちで、頭も切れるらしい。おまえの婿には申し分がない」

 その時フアナは十四歳。多感な時期に舞い込んできた縁談に彼女は困惑した。

「私、結婚なんかしません」

 フアナは固い声色で呟いた。

「ずっと父上のお側にいます」

「願ってもないことだがな、フアナ」

 ガルシアは嬉しそうな表情で愛娘の頭を優しく撫でた。日を追うごとに亡妻に似てくるフアナを手放したくないのは、ガルシアも同じだった。

「リシャールが是非にと言ってきた。並々ならぬ懇願ぶりだそうだ。この縁談がまとまれば、大陸も安定する」

 その言葉にフアナは黙り込んだ。自分が結婚することで争いが未然に防がれるのであれば……。だが、ガリアのギョーム王太子はどんな少年なのだろう。エドワードのように優しい少年だろうか。

 だが、その不安は間もなく打ち消された。思いもしない結末で。

 エスタドとガリアの間で使者が行き交い、やがて正式に縁談をまとめるべく、宰相ビセンテがガリアへ赴いた。だが、彼は怒りを漲らせて帰ってきた。

「ギョーム王太子がフアナ王太女を拒みました」

 ビセンテの言葉にガルシアは激昂した。そして、すぐさま兵を挙げようとする父をフアナは冷静に諌めた。

「私のために戦争を始めないで。エスタドもガリアも傷を負うわ」

 その言葉はフアナの慈愛を示す美談として大陸中を駆け巡ることになる。そして、その美談は間違いなくガルシアの怒りからリシャールを救ったのだ。だが、それでもリシャールとギョームの対立は決定的なものとなり、ガリアは泥沼の内戦を始めた。フアナはいたたまれなかった。

「ごめんなさい、父上」

 フアナはやるせなさに涙しながら父に詫びた。

「父上のお役に立てなくて」

 エドワードと死に別れ、ギョームとも縁談を結ぶことができなかった。縁談とは同盟のことだ。自分はエスタドのために、父のために何もできなかった。それどころか、ガリアでは内戦まで起こった。なんて非力なのだろう。

 心の傷を癒せないでいたフアナに、ギョームがアングルのキリエに求婚したと知らされた時、さすがの彼女も冷静ではいられなかった。自分を拒んだギョームが選んだキリエ女王。教会で育ったという修道女。アングル王の庶子。一体、どんな少女なのだ……。だが、そんなことを考えている余裕はなかった。彼らは強固な同盟を結び、自分たちに牙を剥こうとしている。自分は、何を為さねばならないのだ。父のため、国のために、自分がやるべきことは……。

 フアナは、十七歳。エドワードと婚約した頃のような幼子とは違う。国の命運を見据えた、未来の女王であった。


 七月六日、女王キリエは輿入れの旅に出発した。プレセア宮殿のアプローチを出る間際、キリエは思わず振り返って大廊下(ギャラリー)を眺めた。

 リシャール王を倒し、このイングレスを奪い返して一年が経つ。まさかこうしてこの宮殿を離れることになろうとは……。ガリアとの取り決めで、緊急事態が発生しない限り、キリエは半年間ずつ両国に滞在することになった。アングルに帰ってこられるとわかっていても、半年の間帰れないことにキリエは不安で一杯だった。

「いってらっしゃいませ」

 留守を預かる侍従次長バートン子爵が恭しく頭を下げると、キリエは小さく呟いた。

「留守中、王宮をよろしく頼みます」

「はっ」

 キリエと共に聖女王騎士団の一部が随行することになっており、華やかに着飾った騎士たちが宮殿の前で整然と並んでいる。騎士団を率いるジョンが声高に叫ぶ。

「キリエ女王陛下、ご出発!」

 キリエを乗せた馬車を中心とする行列がプレセア宮殿を出発すると、城門の外にはイングレス市民が押し寄せている。海を隔てた異国へ嫁ぐ女王を見送ろうと、市内は騒然となった。

「歓声と……、惜しむ声と、両方聞こえますね」

 キリエと向かい合って座るヒースがそっと呟いた。ギョームは義兄となるヒースの列席を望んだが、彼は盲目である自分が出席すれば周囲の者に迷惑がかかるとして、その申し出を固辞した。その代わり、ヒースはホワイトピークまで女王の馬車に同乗して見送ることになった。

「……こうして皆に祝福していただけて、幸せです」

 言葉とは裏腹に、どこか沈んだ口調の妹にヒースは眉をひそめる。それに気づいたキリエは兄を安心させようと、明るい声で囁いた。

「ありがとう、兄上。ホワイトピークまでご一緒できて、嬉しいです」

「オイールまで行ければ良いのですが……」

「長旅になります。兄上の体調が心配ですわ」

「あなたもね、キリエ」

「……はい」

 近衛兵らが興奮した市民を下がらせ、ようやく行列が進み始める。

「聖アルビオン大聖堂はいかがですか?」

「まだ慣れませんね。とても広くて……、移動するのが大変です」

 ヒースは口元をほころばせた。彼はクロイツからの推薦で、サーセン聖堂から聖アルビオン大聖堂に移っていた。彼なら数年もすれば大司教補になれるだろう。キリエは誇らしげに兄を見つめた。すると、ヒースはわずかに声を落として囁いた。

「……不思議ですね。次に会う時は、あなたはガリアの王妃なのですね」

 兄の言葉にキリエは顔を伏せる。ヒースはそっと手を伸ばし、妹の手を探した。キリエはヒースの手を両手で握りしめた。

「……ごめんなさい、兄上。一言も相談しないで……」

 だが、ヒースは哀しげに頭を振った。

「政治には口出しをしたくないと思った私が悪かったのです。……不安だったでしょう」

 その言葉にキリエの手が震える。

「……キリエ」

「……兄上、天は……、私を許して下さるでしょうか。誓いを破る、私を……」

 不安そうに小さく呟くキリエに、ヒースは優しく手を握りしめた。

「アングルとガリアだけでなく、世界の平和を願うあなたを天はきっとお守り下さるでしょう。しかし……」

 ヒースの沈んだ口調にキリエは不安げに身を乗り出す。

「……あなたが、心配でなりません」

 キリエは眉をひそめた。項垂れていたヒースは不安げな表情で顔を上げた。

「……良くない噂を耳にしました」

「噂?」

「あなたが、クレド侯と親密すぎると」

 キリエは息を呑んだ。その噂が、俗世から離れた兄の耳にまで?

「兄上……」

「私は知っています。彼があなたを守り、支えていることを。それ故あなたが彼を重用していることも、知っています。問題は……、その噂が宮廷内に留まらず、私の耳にまで届いたということです」

 冷静な兄の言葉にキリエは胸がだんだんと圧迫されてくるのを感じた。

「……私の耳に届いたということは、ギョーム王にも知られているでしょう。……クレド侯の身を案じた人々が、彼に再婚を勧めても応じなかったそうですね」

 ジュビリーの再婚話は、利権が絡んでいただけではなかったのか。キリエは複雑な心境で兄の手をぎゅっと握りしめた。

「キリエ……。クレド侯のことは、お忘れなさい」

 ヒースの言葉にキリエはびくりと体を震わせる。

「あなたを守るため、クレド侯を守るためです」

 そして、ヒースは辛そうな表情で俯く。

「……人の嫉妬心ほど恐ろしいものはありません。私から光を奪ったのは、まさにそれです」

 キリエの脳裏にレノックス・ハートの冷笑が浮かぶ。彼は、自分よりも人々に慕われ、父に愛された兄ヒースを妬み、毒を盛った。結果、ヒースは光を失った。

「嫉妬とは、理屈でどうにかなるものではありません。自分の意志では、どうしようもない……」

 黙り込んだキリエの手が震えている。ヒースはおぼつかない手でキリエの肩を探り、ゆっくりと撫でる。

「大事な宰相を失うわけにはいきません。そうでしょう?」

 ヒースは、危険を承知しながらも妹を自分の元へ連れてきてくれたジュビリーの声色を思い出した。あの頃は、キリエとジュビリーはまだ互いにぎこちなさが残っていた。だが、戴冠式で再会した時にはすでに二人は固い絆で結ばれていた。それが、主従を越えたものであることをヒースは感じ取っていた。それ故、宮廷の噂を耳にした時は不吉な胸騒ぎを覚えた。

「ギョーム王は冷静沈着な賢いお方とお聞きしています。しかし、自らの妻となると話は別です。恋愛結婚となればなおさらです。そのような噂を耳にすれば、冷静さを保てないでしょう」

 キリエの脳裏に、穏やかな微笑を浮かべるギョームが浮かぶ。キリエに対してはいつも穏やかで笑顔を絶やさない彼だが、彼の素顔はそれだけではない。妻を顧みなかった父を憎む激しさも併せ持っている。

「……お気をつけなさい」

「……はい」

 キリエは消え入るようなか細い声で呟いた。

 隊列はやがてイングレスの郊外にさしかかった。街道筋にはまだ多くの人々が女王の馬車を見送っている。周りのざわめきにキリエが落ち着かない様子で黙り込んでいた時だった。突然馬車が止まった。そして、これまでとは違うどよめきが上がる。

「何?」

 キリエが怯えた声を上げ、窓のカーテンを開ける。と、周りを警護する騎士らが緊張した面持ちで馬車を取り巻いている。

「どうしたのですか?」

 ヒースも不安げに呟く。キリエはそっと扉を押し開いた。

「何があったの?」

「陛下……! 中へお入り下さい!」

 騎士の言葉にキリエの顔が引きつる。と、騎士の肩越しにモーティマーの姿が見える。

「サー・ロバート! どうしたの?」

 モーティマーは騎士らを下がらせると女王の耳元で囁いた。

「騎乗の騎士が数人、丘の上に……」

「騎士?」

 秘書官はわずかに青ざめた顔つきで言葉を継ぐ。

「……〈盾に心臓〉の紋章旗が」

 キリエとヒースの顔から血の気が引く。……レノックス!

「……兄上、ここにいて下さい」

「キリエ!」

 ヒースが手を伸ばすが、キリエは馬車を降りた。

「どういうこと?」

「目視で確認したところ、騎士は六人。こちらの様子を窺っているだけで、まだ動きは見せませんが……」

 モーティマーが説明している間、騎士らを掻き分けてジュビリーがやってくる。

「侯爵……」

「今、使者が到着した」

「使者?」

「オリヴァー・ヒューイットだ。……冷血公が、グローリア女伯に面会を申し出ている」

 キリエは息を呑んだ。そして、首を巡らせると遥か遠くの丘を見上げた。夏の陽射しが光る青い丘陵。その中腹に、確かに人影が見える。彼女はごくりと唾を飲み込むと、宰相を振り返った。

「……会います」

「陛下……!」

 ジュビリーが目を剥く。

「おやめ下さい! 陛下の身に何かあれば……!」

「危険なのは彼も一緒でしょう?」

 キリエの言葉に一同が絶句する。確かに、レノックスが僅かな供しか連れずにここへ現れたということは、何か意図があってのことだろう。だが……。

「キリエ……、キリエ、どこです?」

 背後からヒースの声が聞こえてくる。振り返ると、マリーエレンに手を取られたヒースが歩み寄ってくる。

「兄上……。レノックスが、私に会いたいと」

 ヒースとマリーは言葉を失った。が、ヒースは思わず身を乗り出して叫んだ。

「駄目です、キリエ! 行ってはなりません!」

「……会ってきます」

「キリエ!」

「キリエ様!」

 キリエは思い詰めた表情で踵を返すと、手近の馬を見上げた。と、不意に鐙に足をかけ、乗り上がる。

「陛下……!」

 慌てる周囲を尻目に、キリエは馬の腹を蹴った。人並みを押し退け、丘に向かうキリエに、ジュビリーらも慌てて馬に飛び乗る。女王を乗せた馬は一直線に丘陵を駆け上がってゆく。

「キリエ!」

 すぐ後ろまで追いかけてきたジュビリーが馬上で叫ぶ。

「やめろ! 引き返せ! キリエ!」

 ジュビリーの呼びかけにも、キリエは耳を貸さなかった。無心で馬を走らせるうち、騎士らの顔がはっきりとわかってくる。中央の騎乗の男。見間違えるはずもない。冷血公レノックス・ハート。その顔貌を目にして、キリエはようやく冷静さを取り戻した。だが、それでも手綱を引くようなことはしない。やがて相手も馬の腹を蹴り、こちらへ向かってくる。その様子を認めてから、キリエは初めて手綱を引くと馬を止めた。跑足を轟かせ、騎士らは真っ直ぐにやってくる。しばらく彼らを見つめてから、キリエはゆっくりと馬から降りる。レノックスがにやりと笑ったのがわかった。

「陛下……!」

 モーティマーが裏返った声で叫ぶが、ジュビリーが制する。そして、キリエの背後にぴたりと寄り添った。その間にも眼前にまでやってきたレノックスは勢いよく馬から飛び降りた。久方ぶりに対峙する兄。キリエは小さな手を握り締め、静かに歩み寄った。と、唐突に足を止める。そして、顔を歪めると譫言のように呟いた。

「……レノックス……。あなた、目が……」

 その呟きを耳にして、レノックスはにっと笑ってみせた。鼻の傷痕が引き攣る。

「おまえの隣にいる男にやられた」

 思わずジュビリーを振り返る。彼は眉間に皺を寄せ、険しい表情で冷血公を見つめている。キリエは恐る恐る兄に視線を戻した。一年ぶりに会う彼は、どこか違う空気を醸し出していた。なだらかな丘陵が続く景色。周りには何もない。二人はしばらく無言で見つめあった。最初に口を開いたのはレノックスだった。

「……どうだ。これから人妻になる気分は」

 キリエは顔を歪めて兄を見上げた。だが、ごくりと唾を飲み込むと、口を開く。

「……あなたに、聞いておきたいことがあるの」

「何だ」

「……ジョージ・エセルバートを、覚えている?」

 レノックスはおどけた表情で肩をすくめた。その態度にかっとなったキリエが思わず身を乗り出す。

「私とギョーム様を暗殺しようとした騎士よ……! あなたが命令したはずよ!」

「さぁてな。おまえに恨みを持つ人間は多い。一々捨て駒の名まで覚えていない」

 捨て駒。キリエの背にぞくりと寒気が走る。そんな妹に構わず、レノックスは言い放った。

「おまえも捨て駒になるのか」

「……え?」

「国のため? 平和のため? 嘘くさい話だ」

 その言葉に、キリエは体を小さく震わせ始めた。捨て駒? そうだ。捨て駒だ。平和になるためなら、自分は捨て駒になる。だが、自分はこれからどうなるのだ……?

「女王だからか。ご苦労なことだ」

「レノックス……!」

 彼は面白がるようにしばし笑い声を上げた。やがて口をつぐむと妹をじっと見つめる。そして、不意に歩み寄ったかと思うと、キリエの顎をぐっと掴んで引き揚げた。

「ッ……!」

「レノックス!」

「動くな」

 冷血公の一喝に、ジュビリーは凍りついたように動きを止めた。キリエは無理やり顔を上げさせられ、震えながら異母兄を凝視した。レノックスは残された左目で妹を見つめた。やがて、その口許に冷酷な笑みが浮かぶ。

「……私は拒んだくせに、若獅子は受け入れるのか」

 キリエの両目が見開かれる。が、その瞳が次第に虚ろなものへと変わっていくのにレノックスは気づいた。

「……ふん」

 冷血公は鼻で笑うと唇をキリエの耳朶に寄せた。

「……せいぜい可愛がられるがいい」

 レノックスが手を離すと、キリエは震えながら後ずさった。そして、すぐ様ジュビリーが彼女の腕を引いて下がらせる。

「……結局、歴史は繰り返す、か」

 険しい表情で凝視してくる黒衣の宰相に、レノックスは冷たく吐き捨てた。

「おまえは妻を父上に奪われただけでなく、キリエも若造に奪われたわけだ」

「……!」

「やめて……!」

 思わず剣の柄に手をかけようとするジュビリーをキリエが制する。口許を歪め、奥歯を噛み締めたジュビリーにレノックスはくっくっと忍び笑いを漏らした。

「……じゃあな」

 レノックスは冷笑を浮かべたまま呟くと踵を返した。

「レノックス!」

 妹の呼びかけに彼は足を止めた。そして、ゆっくり振り返る。キリエは顔を引きつらせたまま、上ずった声で訴えた。

「……お、お願い、レノックス。……服従して。私、これ以上あなたと争いたくない!」

「断る」

 レノックスは短く吐き捨てた。

「……言ったはずだ。死んでもおまえの臣下にはならん」

 キリエの瞳が揺れる。そして、彼女は震えながら声を搾り出した。

「兄、上……!」

 その呼びかけにレノックスは妹を見つめた。ジュビリーやモーティマーも息を呑んで見守る。が、冷血公は満足げに目を細めると、外衣を翻して背を向けた。そして、二度と振り返らなかった。

 兄を見送るキリエの手にジュビリーがそっと手を伸ばしかけるが、その動きが止まる。そして彼は、躊躇いがちに手を引き戻した。


 キリエたちが押し黙って丘を降りてくると、騎士らの集団がざわめきに包まれている。キリエが胸騒ぎを感じながら馬を下りると、青年の悲痛な叫びが耳に飛び込む。

「キリエ! キリエはどこです! キリエ!」

「落ち着いて下さい! ヒース司教!」

 マリーが必死にヒースを押し留めている。キリエは息を呑んで兄の元に駆け寄った。

「兄上……! 兄上、ここです! 兄上!」

「キリエ……!」

 キリエが兄の手を取ると、彼は手探りで妹の背を撫でた。

「……ぶ、無事ですか、怪我は……!」

「だ、大丈夫です。怪我はありません」

 その言葉に、ヒースは押し殺した息をつくと、震えながら妹を抱きしめた。

「キリエ……、あなた、今、死のうとしましたね……!」

 キリエはヒースの言葉にぎくりとした。彼は耳元でなおも囁いた。

「ガリアに嫁ぐぐらいなら……、レノックスに殺されようと思いましたね。そんなことは……、絶対に許しません!」

 兄の鋭い言葉に、キリエは体を小刻みに震わせた。

「そんなに……、そんなにガリアへ行くのが嫌ならば……、やめてしまいなさい……!」

 キリエは悔しげに目を閉じた。やめられるものなら、やめてしまいたい。だが、この体はもう、自分の物ではない。半分はアングル。そして半分はガリアの物だ。キリエは兄の細い背を抱きしめた。人々は、息を呑んで遠巻きに兄妹を見守った。

「……兄上……」

 しばらく兄にすがりついて嗚咽を漏らしていたキリエは、やがてそっと顔を上げた。硬く閉ざされた兄の瞼には、涙が滲んでいた。キリエは、そっと兄の涙を指で拭った。

「……兄上、私……、行きます」

「……キリエ……」

「ガリアで、幸せになります。……約束します」

 ヒースは顔を歪めると項垂れた。


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