第7章「オイールの惨劇」第2話
キリエのガリアへの輿入れの準備が着々と進む中、ジョンとマリーエレンの婚礼を迎える。
アングルとガリアの同盟交渉は約一ヶ月に及んだ。何度も話し合いが持たれたが、ようやく大体の折り合いがついた。
キリエの持参金は八十万スターリング。この額に落ち着くまで、アングルでは議会が幾度も召集された。
そして、アングルが誇るロングボウの一個連隊。ギョームはロングボウ隊の常駐を望んだが、アングル国内においてもロングボウ技術はクレド侯爵家にのみ、その継承が許されているため、キリエがガリアに滞在する間に同行するという形が取られた。この措置に関しては国内諸侯から多くの反対意見が出たが、ガリアの対エスタド戦略に必要不可欠であるとバラが熱弁をふるったため、何とか実現した。
更には北アングル海に浮かぶメイン島が譲渡されることが決まった。メイン島は僻地の島だが良港があり、ガリアにとっては遠洋漁業や北方貿易の拠点にできる地だ。
一方ガリアからは、キリエの渡航費を永久に負担し続けることが申し出された。つまり、結婚後に何度も行われるであろう両国の往復費用である。
そして、ガリアが誇る砲兵連隊。大砲はまだプレシアス大陸においては要塞や軍艦に据え付ける大型のものが主流だったが、ガリアでは移動できる小型で高性能な大砲が開発されていた。威力はロングボウとは比べものにならないほど強力だが、莫大な費用がかかる兵器であり、ロングボウとの併用で大きな戦果を挙げられることが期待されている。
そして、キリエ個人にガリアの公爵位が叙位され、ルファーン近辺の広大なバレクラン公領が与えられた。これにより、アングルは海外に領土を得た。
結婚を間近に控え、キリエはレスターによってアングルとガリアの歴史について学んでいた。
「百年前のアングル・ガリア戦争において、当時のアングル王バーソロミューがガリアへ侵攻し、一時は領土の三分の一を獲得しましたが、その後、ガリア王アルフォンスの巻き返しにより、ガリアからの撤退を余儀なくされました」
キリエはロレインの教育によってその歴史的事実を教え込まれていた。だが、あの頃はまるでお伽話でも聞くような気持ちでしか聞いておらず、今改めて耳にすると複雑な気分になる。
「ガリア人の精神的根本には、この過去の侵略が未だに刷り込まれており、アングルに対して警戒心を持っております。その冷戦状態から和解するための同盟策が、先王エドガー陛下の妹君、マーガレット王女とリシャール王の政略結婚でございました」
「……私の、叔母上……」
「左様」
どこか緊張した表情のキリエを気遣いながら、レスターは言葉を続けた。
「昨今の両国の友好関係は、一にかかってマーガレット王妃の努力の賜物でございます。元々、王妃はアングル国内でもそのお人柄が愛されておりましたが、嫁ぎ先のガリアでは、最初こそ色々と波乱があったそうですが、時と共に人気が高まり、ガリア国民に愛されるようになっていったそうです」
やはり、時間がかかるのだ。その土地に溶け込もうとするならば、それなりの時間と努力が必要だ。キリエは自分に言い聞かせた。
「マーガレット王妃は兄君とは性格が正反対で、表へ出たがらないおとなしいお方だったそうです。しかし、性格が正反対だったためか、ご兄妹仲は大変よろしかったとか」
「……ギョーム様のお話では、リシャール王とはうまくいってらっしゃらなかったそうね」
レスターが肩をすくめる。
「……ええ。マーガレット様がガリア国民に愛され、大変な人気を集めたのが癪に障ったそうですな」
「ひどい話だわ」
「王妃は、ガリアの文化や慣習を柔軟に受け入れ、リシャール王とガリア王室に対して服従と恭順の姿勢を崩さなかったといいます。それをいいことに、リシャール王は妃を省みず……」
そこでレスターは口をつぐんだ。キリエの顔付きから、「何故、男は皆そうなのだ」と言いたげな表情を読みとったのだ。
「……ギョーム王が内乱を起こし、リシャール王が救援を要請した折、エドガー王は一度お断りになられたそうです」
「……そうなの?」
初めて聞く言葉にキリエが顔を上げる。
「これまで妹を冷遇した報いだと、突っぱねたそうです。しかし、結局は同盟の契約を果たすために援軍を派遣したわけですが……」
キリエの表情が曇る。結婚による同盟は強固な繋がりを持つことができるが、血が繋がった家族だけに、争いが起こった場合は冷静ではいられなくなる。自分は、選択を迫られた場合、果たしてどちらを選ぶのだろう。女王としての自分か、王妃としての自分か。
「……妻という存在は、貴賎の別なく重要な存在だと思っております」
レスターの重々しい呟きに、キリエは彼を振り仰いだ。自分以上にどこか沈んだ表情のレスターに、キリエは身を乗り出して尋ねた。
「……ねぇ、レスター。あなたにとって奥様はどんな存在なの」
「うちの、ですか?」
不意の質問にレスターは目を白黒させた。その大袈裟な表情にキリエは思わず吹き出す。
「レスターの奥様、お元気かしら。クレドを出てから会ってないわ」
「まぁ、達者でしょう」
「会いたくないの? クレドにいる時もずっとお屋敷を留守にしていたでしょう。寂しくないの?」
矢継ぎ早に質問をしてくるキリエにレスターはひそかに眉をひそめたが、それを隠すように顎鬚を撫でる。
「家のことは全て任せておりますからな。あれがいるからこうしてキリエ様と侯爵にお仕えできます。頭が上がらないのは確かでございますよ」
「奥様って、皆そういうものなの?」
レスターははっとしてキリエをまじまじと見つめた。彼女は寂しげに微笑みかけてくる。
「……私も、そんな風になれるかしら」
「……キリエ様」
キリエは強張った顔つきで目を伏せた。
「私、周りに結婚している人があまりいないから……。結婚って……、どんな感じなのかわからないの」
キリエの憂いを帯びた表情と共に、室内の空気が少しずつ変わってゆく。
「私の理想の家族はね、教会にお祈りにくる農家の人たちだった」
過去の情景を思い返すキリエに、レスターは哀しげに目を細めた。
「陽気なお父様に、優しそうなお母様。可愛い子どもたち。とっても幸せそうだった」
レスターの脳裏に、幼い頃のキリエの姿が蘇る。キリエを胸に抱いたケイナと、その二人に会いにやってくるエドガーの満面の笑顔。キリエは両親から惜しみない愛情を一杯に受けて育ったのだ。なのに、キリエ本人は何ひとつ覚えていない。ふと、キリエは不安そうに顔を上げた。
「レスター。……ギョーム様も、ご両親には恵まれていないわ」
「……そうですな」
「母君は父君に虐げられていた。ギョーム様は、そんなご両親を見て育ったのよ。わ、私……」
「大丈夫ですよ、キリエ様」
レスターは安心させるようにキリエの細い肩を撫でた。
「ギョーム王陛下は母親思いの優しいお方。父君と同じ過ちはしないと、心に決めておられると仰せでございました」
それでも固い表情で俯くキリエに言い聞かせる。
「皆、最初は戸惑うものです。思い描いた通りの結婚生活はなかなか送れるものではありません。ですが、互いを思いやる暮らしは二人で作り上げるものです」
レスターの言葉のひとつひとつが胸に染み込んでゆく。キリエは目を閉じると静かに頷いた。
「……そういえば」
少し強張った声に顔を上げる。
「挙式の日取りが、決定いたしました」
キリエは表情を引き締めると頷いた。
「七月の十日です。オイールまでは四日かかります。出発は七月五日頃になります」
七月六日と言えば、ジョンとマリーの結婚式が終わってからすぐだ。きっとあっという間に時は過ぎるだろう。思い詰めた表情のキリエの肩越しに、奥の書き机に手紙の束があるのを見たレスターが目を細める。
「今日も……、ギョーム王からお手紙が届きましたな」
キリエが後ろの書き机に目をやり、黙って頷く。ギョームが帰国してから約一ヶ月、彼は毎週のように手紙を送ってきた。内容は人目を憚るようなものではなく、ガリアの文化や気候、国民性などが丁寧に綴られていた。
ギョームの手紙は特に情熱的な言葉が並んでいるわけではないが、文章の端々からキリエに対する思いやりが感じられ、彼女は複雑な思いに駆られた。彼に惹かれそうな自分と、惹かれたくない自分。そして、これから彼を愛さなくてはならないという強迫めいた義務感に、キリエは精神的に追いつめられていた。
「これで五通目だわ」
「なかなか筆まめなお方ですな」
レスターの言葉にキリエは寂しげに微笑むと呟いた。
「私も、あちらからたくさん手紙を送るわ」
「……はい」
レスターは複雑な表情でキリエを見つめた。そして、息を吐くと居住まいを正す。
「もうすぐですな、ジョン様とマリー様の結婚式も」
「そうね」
キリエがようやく明るい表情を見せる。大好きなマリーとジョンが結婚する。そのことが嬉しくて仕方がないキリエの様子に、レスターも顔をほころばせる。
「きっと、マリーの花嫁姿は綺麗よ。楽しみだわ」
「はい」
気丈に振舞うキリエに、レスターは思わず目を伏せた。
六月二三日。エドガーの二周忌を終えると、すぐにキリエはクレドへ向かった。グローリア伯ジョン・トゥリーと、マリーエレン・バートランドの婚礼に参加するためだ。
馬車の窓からクレド城が見えてくる。目になじんだその風景にキリエは懐かしさで胸が一杯になった。初めてクレドを訪れた時と同じ、夕闇が迫る城。クレドに帰るのは実に一年ぶりだ。幼かったグローリア女伯が女王として凱旋したことに、クレド城の家臣たちも万感の思いでキリエを出迎えた。
「お帰りなさいませ、女王陛下」
クレド城代家令のハーバートが嬉しそうに出迎える。
「陛下がイングレスへ行かれて一年しか経っておりませんのに、ずいぶんと大人になられましたな」
相変わらず人の良さそうな城代家令の言葉に、キリエは顔をほころばせる。ハーバートは隣に控えているジュビリーに目を移すと、喜びを滲ませた声で呟いた。
「……お帰りなさいませ、殿。この度はおめでとうございます」
ジュビリーが黙って頷く。そして、城のアプローチにジョンとマリーが現れると人々から歓声が上がる。
「レディ・マリーエレン!」
「グローリア伯! おめでとうございます!」
人々からの祝福の言葉に二人が嬉しそうにはにかむ。そして、マリーがハーバートに囁く。
「頼むわね、ハーバート」
「はい、お任せ下さいませ」
一方、大広間へ続く大廊下には多くの召使いや小間使いたちが出迎え、キリエは何人もの懐かしい顔を見つけた。
「ナンシー!」
「女伯!」
小間使いのナンシーが思わず懐かしさのあまりに叫び、隣の召使いが慌てて小突く。
「あ、申し訳ございません……! 女王陛下……!」
「いいのよ。懐かしいわ。みんな元気だった?」
「はい」
キリエの側近くで仕えていた者たちが、女王の帰還に喜びの言葉を口にしながら取り囲む。キリエの嬉しそうな表情を久しぶりに目にしたジュビリーは、やや寂しげな面持ちで見守った。
その日の晩餐は先王の命日ということもあり、ささやかなものだったが、婚約中の女王が里帰りしているため、終始和やかなものだった。マリーは独身最後に過ごす実家であり、胸に去来するものがあるのか、いつになく口数が少なかった。そして、翌朝が早いということで、皆早々に部屋に引き上げた。
キリエは一年余りを過ごした部屋で、懐かしい天蓋を見上げた。今度この部屋で過ごすのはいつになるのだろう。そう思うと胸がせつなく締め付けられる。
寝室の片隅にひっそりと佇む姿見。その前に立ち、マリーと共にその日のドレスを笑いながら選んでいた日々が思い出される。そして、こんなこともあった。母ケイナの形見である青蝶の髪飾りを姿身の前で身につけた。
「ねぇ、似合う?」
振り返ってそう尋ねると、ジュビリーは黙って頷いた。若かりし日の母の姿を思い出したのだろうか。彼はどこか寂しげな瞳をしていた。
思い出が詰まったこの部屋とも、ひょっとしたらもう二度と過ごせないかもしれない。キリエは寂しさで思わず涙ぐみながら眠りについた。
翌朝、夜明け前から城は慌ただしく動き始めた。式が挙げられる礼拝堂は花々で飾られ、大広間は祝宴の準備で大わらわだった。
食事を済ませたキリエは、花嫁がいる衣装部屋へと向かった。石造りの壁、赤い絨毯、分厚いガラスがはまった窓。すべてが懐かしいクレド城にいると、キリエは女王であることを忘れた。
「入っても大丈夫?」
「どうぞ! 女王陛下!」
侍女の華やいだ声にキリエは期待を膨らませてドアを開けた。
「マリー!」
「キリエ様……」
そこには、美しい純白のドレスに身を包んだマリーエレンが佇んでいた。美しい黒髪を覆うヴェールは繊細な刺繍が施され、胸当ての部分には光輝く透明なガラスビーズで薔薇と木の葉の模様があしらわれている。この日のために、キリエは自分の宝飾職人に装身具を作らせていたが、そのどれもがマリーの美しさを引き立たせるものに仕上がっていた。キリエは思わず目を潤ませながらマリーを見つめた。
「……綺麗だわ、マリー。とっても綺麗……!」
「……ありがとうございます」
眩い光をまといながら、喜びと寂しさが入り交じった表情でマリーが囁く。いつにも増して美しいマリーに、キリエは身を乗り出して茶目っ気たっぷりに囁いた。
「あなたがあんまり綺麗だと、ジュビリーがやっぱり嫁にはやらない、なんて言い出すかもしれないわ」
「まさか……!」
二人が声を上げて笑う。そして、一頻り笑い合うと不意に同時に黙り込み、キリエとマリーはじっと見つめ合った。わずかに眉をひそめ、大きく見開いたマリーの鳶色の瞳。その美しい瞳から突然大粒の涙がこぼれる。
「マリー……!」
キリエの手にすがり、マリーは顔を歪めて泣き崩れた。
「……キリエ様……!」
「マリー……、どうしたの。どうして、泣くの」
肩を震わせるマリーの背を困惑しながらも撫でる。
「本当に、こんな日が来るなんて……、私……、信じられません……!」
こんな風に感情を露わにするマリーを初めて見たキリエは、戸惑いながらも彼女をそっと抱き締めた。
「……ずっと、ジョンが好きでした」
むせび泣きながらマリーが囁く。
「でも、いつか……、自分はジョンではない誰かの妻になるのではないか……。彼は、私ではない誰かを妻にするのではないかと……。ずっと、怖かったのです……!」
不安な思いを胸にしながら兄を支え続けてきたマリー。その彼女を支え続けたジョン。二人は、ようやく互いを支え合える日を迎えた。キリエはマリーの耳元で囁いた。
「……ごめんなさい、マリー。……私もあなたを待たせてしまった原因の一つだわ……」
「キリエ様のせいではありませんわ……!」
「ごめんなさい」
キリエは声を詰まらせながら詫びた。
「あなただけじゃない……。私と、私の父のせいで、皆の人生が……」
「キリエ様……!」
二人は声を押し殺して嗚咽を漏らした。二人を見守る侍女たちも黙って目頭を押さえる。やがて涙を拭うとキリエはマリーの手を握ると額に押しつける。
「……天よ、彼らを光ある道に導きたまえ。暗闇と孤独にあっても、互いに手を取り、同じ時を過ごせるよう……。導きたまえ、守りたまえ、支えたまえ……」
祈りの言葉を呟き、キリエはマリーに微笑みかけた。
「幸せになれるわ、きっと。ジョンと一緒なら」
「……はい」
マリーは涙を拭った。そして、迎えが来たことを告げられ、二人はそっと立ち上がった。扉が開かれると、華やかな盛装をまとったジュビリーが佇んでいる。
「……兄上」
彼は、美しく着飾った妹を目にして言葉を失った。何か言いかけて口を開くが、すぐに閉ざしてしまう。その様子にキリエは微笑むとマリーに呼びかけた。
「私は先に行っておくわ。マリー、また後で」
「……はい」
キリエは、久々に見せる明るい笑顔で手を振るとその場を立ち去っていった。
「……兄上」
マリーの呼びかけに、ジュビリーは改めて妹を見つめた。彼女は、幸せに満ちた笑顔で兄の視線を受け止めた。
「……今まで、ありがとうございました」
ジュビリーは黙ってマリーを抱き寄せた。両親を亡くした時、妹はまだ七歳だった。人目を憚らず泣きじゃくっていたマリーの手を握りしめ、父親の代わりとして妹を守ると誓ったあの日から、ずいぶんと時が経ってしまった。自分こそ、マリーに支えられてきた日々だった。
「……幸せになってくれ」
「はい。……兄上も」
妹のその言葉に、ジュビリーは言葉を返せなかった。
礼拝堂では、落ち着かない様子のジョンが司教の側で立ち尽くしていた。聖歌隊の子どもたちの歌声が静かに響く中、ジョンの緊張は最高潮に達していた。参列者はクレドやトゥリーの関係者だけでなく、セヴィル伯やウィリアム、モーティマーといった廷臣たちも参加していた。盛装を身にまとったジョンは、凛々しいというよりも緊張で顔を引き攣らせている。蒼白な顔つきのジョンを見て、キリエが隣のレスターに囁く。
「大丈夫かしら。ジョンったら、あんなに緊張して……」
「お美しいマリー様を目にすると失神しかねませんな」
「笑えないわね……」
すると、礼拝堂の外から涼やかな鐘の音が響き、列席者が一斉に立ち上がる。アプローチから、ジュビリーと彼に腕を添えられたマリーが現れ、皆の口から感嘆の声が漏れる。マリーの美しさに誰もが羨望の眼差しを向ける中、息を呑んだジョンがぐらりとよろめき、慌てて司教が彼を支える。
「ジョン……!」
マリーが悲鳴のような声を上げ、ジュビリーは思わず顔を手で覆った。慌てたレスターが駆け寄ろうとするが、何とかジョンは体勢を立て直した。
「だ、大丈夫だ」
「ジョン!」
思わず兄の手を離し、小走りに駆けよってきたマリーに、ジョンは申し訳なさそうに目を伏せる。
「……も、申し訳ありません」
「しっかり……!」
囁き合う二人の間に、ジュビリーがぐいと割り込む。
「ジョン」
「あ……、義兄上」
ジョンが青い顔で義兄を見上げる。と、彼はジョンの背中を思い切り叩いた。
「痛ッ!」
「しっかりせんか!」
ジュビリーの一喝にジョンが両目を見開き、直立不動で義兄を凝視する。
「ふふッ!」
彼らを見て思わず吹き出したキリエにつられて、列席者から笑い声がわき起こる。厳かな空気は一瞬にして和み、司教すら声を上げて笑い出した。
「ふん」
ジュビリーは鼻を鳴らすとジョンを睨みつけて背を向ける。睨みつけたとはいえ、その瞳は笑っていた。
「よろしいですかな? 伯爵」
司教の言葉に、ジョンは慌てて居住まいを正して頷く。
「それでは、グローリア伯爵ジョン・トゥリーと、レディ・マリーエレン・バートランドの結婚式を執り行います」
侍祭の少年たちが手にした鈴を静かに打ち鳴らす。ジョンとマリーは緊張した面持ちで、祭壇の司教を見上げる。
「あまねく天に広がるヴァイス・クロイツの祝福を。光と陰、安寧と孤独、幸福と不幸、様々な試練を共に手を取り歩んでいく二人に、天よ、導きたまえ、守りたまえ、支えたまえ」
司教がジョンに視線を向ける。
「汝、ジョン・トゥリー。この女性、マリーエレン・バートランドを娶り、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
ごくりと唾を飲み込んでから、ジョンは口を開いた。
「……我、これを願う」
多少上ずった声ながらも、ジョンははっきりと告げた。レスターは、ジュビリーが思わずほっと溜息をついたのを見て微笑んだ。
「汝、マリーエレン・バートランド。この男性、ジョン・トゥリーに嫁ぎ、天の祝福を受けし婚姻を結ぶことを願うか」
「我、これを、願う」
マリーは言葉を詰まらせながら囁いた。司教は頷くと結婚指輪を捧げ持った侍祭を招き寄せる。ジョンはぎこちない手つきで指輪を手にすると、恐る恐るマリーの手を取る。彼女のしなやかな薬指に指輪が填められる。ヴェール越しにマリーの幸せそうな笑顔が見え、ジョンは強張った顔をほころばせた。続いてマリーがもうひとつの指輪を手に取ると、ジョンの指に填める。
「それでは、天なるヴァイス・クロイツのお恵みの下、誓いのキスを」
ジョンはかすかに震える手でマリーのヴェールをそっと上げる。そこには、花のように笑顔が咲いたマリーがいた。その瞬間、ジョンの脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。
クレド城の薔薇園で侍女に連れられた美しい少女。城主の妹君をただ憧れの眼差しで見つめるだけだった少年は、やがてふとした偶然でその少女と言葉を交わした。あの日の胸の高鳴りは今でも忘れていない。
ああ、やっとだ。やっと、一緒になれるのだ。万感の思いを胸に、ジョンは彼女の肩にそっと手を添えた。身を屈め、ゆっくりと唇を寄せた、その時。ジョンは勇気を振り絞って「マリー」と囁いた。瞬間、彼女は嬉しそうに微笑んだ。二人は、引き寄せられるようにして唇を重ねた。
キリエは思わず口元を両手で覆った。やっと結婚できた。ずっと長い間愛し合ってきた二人が、やっと……。聖歌隊の軽やかな歌声が響く中、ジョンとマリーは周りを忘れて抱きしめ合った。