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女王キリエ  作者: カイリ
第7章 オイールの惨劇
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第7章「オイールの惨劇」第1話

キリエの婚約に揺れる国内。キリエとジュビリーとの間にできた溝も深まったまま。そんな中、エヴァの婚約者・グラスヒル子爵が王都に到着する。

 大陸の緊張は高まったままであったが、アングルでは貴族院議会が緊急に開かれた。キリエとギョームの婚約が成立したにも関わらず、それでも婚約に納得しない貴族たちが大勢いたためだ。反対派はガリアに対する不信感を露にし、キリエが求婚を受け入れたのは宰相クレド侯に強要されたためではないかとジュビリーを責めた。そのため、会議は紛糾した。

「そもそも、陛下はガリアとの同盟はお望みであったが、ご結婚はお望みではなかった。他に方法はなかったのか」

「ギョーム王陛下はイングレス市民には人気がおありだ。だが、ご結婚となると話は別だ。ガリアは王都イングレスを奪ったのだぞ!」

「クレド侯、同盟を優先した結果が女王陛下の犠牲につながったのではないのか」

一方、キリエとギョームの政略結婚によって強固な同盟を望む一派は激しく反論を返した。

「そなたたちは大陸の動きが目に入らぬのか。エスタドの勢力は日ごと勢いを増している。弱小国家に過ぎない我が国が生き残るために、陛下がご英断を下されたのだ。それを責めるつもりか」

「すでにご婚約は成立したのだ。これからの両国の連携に水を差すのか」

 主張はそれぞれに理があり、話し合いは平行線を続けた。貴族たちが激しく責め合う中、キリエは口を固く閉ざし、わずかに項垂れた様子で玉座に座している。青白い顔は眉間に皴を寄せ、虚ろな瞳は空に彷徨っている。背後に控えるモーティマーはいたたまれない表情で唇を噛み締めていた。やがて、不毛な罵り合いにジュビリーは不快感を露に声を荒らげた。

「陛下のご英断を犠牲呼ばわりするとは何事ぞ! 両国の平和を願う陛下のお心がわからぬか!」

「しかし、陛下はご結婚をあれほど拒まれていたではないか!」

「やめんか」

 喧騒がわずかにおさまる。声の主は苦み切った顔つきのホワイトピーク公ウィリアムだ。人々は不満げな表情ながらも口をつぐむ。

「これ以上陛下のお心を乱すな。ご成婚が無事に成立しなければ同盟そのものが危うくなる。それとも、この動乱の世においてアングルを孤立させよと申すか」

 人々は改めて玉座の女王を振り仰いだ。キリエは小さく息を吐くと居住まいを正した。見開かれた瞳に生気を感じられないことにジュビリーの胸が痛む。

「……アングルを侵略したのは、リシャール・ド・ガリアです。ガリア王国ではありません。リシャール王はガリアを捨てたのです。それを、忘れてはなりません」

 静寂に包まれた大広間に、キリエの細い声が響く。

「ギョーム王陛下のご協力でイングレスを奪還することができました。ご恩を忘れることはアングル人の誇りに悖ります」

 反論のしようがない言葉に、結婚を反対していた貴族たちは悔しげに顔を歪める。キリエは寂しげに目を伏せた。

「……それに、ギョーム王陛下の真心は私の心に届きました。……思いを受け止めたいと思います」

「しかし、それでは陛下が……!」

 顔を上げると、ブリー公が苦しげな表情で身を乗り出している。彼はキリエの結婚を反対するため、直訴までしたのだ。キリエは安心させるように微笑を浮かべてみせた。

「私たちの結婚でゆるぎない同盟が実現すれば、アングルもガリアも守られるのです。それは大陸の平和にもつながるはずです」

 人々の口々からやるせない嘆息が漏れ出る。

「……私に、守らせて下さい」

 その言葉に、ジュビリーは目を閉じると拳を握り締めた。


 やがて、バラが交渉のために再びアングルを訪れた。他国に動きを悟られぬため、ひっそりとした訪問だった。プレセア宮殿の一角でジュビリーとバラの交渉が始まったものの、まだ幼い女王は一人蚊帳の外で不安な時間を過ごしていた。

 薬草園の四阿(あずまや)で物思いに耽っていると、モーティマーが静かに現れた。

「ホワイトピーク公が謁見を願い出ております」

「……おじ上が?」

 応接間に向かうと、相変わらず生真面目に表情を引き締めたウィリアムが待っている。

「お忙しい時に申し訳ない、陛下」

 キリエは寂しげに笑いかけた。

「忙しくなんかないですわ、おじ上」

 そして、小声で付け加える。

「忙しいのは私の周りです。私は、何もすることがありません」

「……陛下」

 ウィリアムが眉をひそめてじっと顔を覗き込んでくる。その視線を避けると、キリエは俯いて「ごめんなさい」と囁く。そして、黙ってソファを勧めると静かに腰を下ろす。ウィリアムは気の毒そうな目で口を開いた。

「……浮かない顔だな」

 キリエはこくりと頷いた。

「……今でも、この縁談が白紙に戻らないものかと、考えてしまいます。……決めたのは自分なのに」

 ウィリアムが溜息をつき、二人の間に気まずい沈黙が流れる。部屋の隅では、モーティマーが居心地悪そうに天井を見上げている。

「庶民院も荒れているそうだな」

「はい。民の間でも意見が分かれているそうです」

 国民が自分の結婚に不安を感じていることに、キリエはいたたまれなかった。国民が望まないことを、敢えてやることに意味があるのだろうか。

「あなたの宰相はどう言っている」

 あなたの宰相、という表現にキリエはどきりとする。そして、顔を強張らせて呟く。

「……クレド侯が、結婚するように進言したのです」

「それは……、意外だな」

 ウィリアムの脳裏に、キリエが即位した頃の記憶が蘇る。あの時、ジュビリーは自分にこう告げたではないか。親代わりでもあったグローリア伯のためにもキリエを守り、支え続けていく、と。だが、思い通りにいかぬのが世の常だ。

「私も……、正直驚きました。……反対してくれるものと思っていましたから」

「陛下」

 ウィリアムが溜息混じりに呼びかける。

「彼とは何年の付き合いだ」

「……そろそろ二年になります」

「二年間、あなたを女王に即位させるために奔走してきた彼のことだ。生半可なことでは、あなたを手放そうとはしないだろう」

 ウィリアムの言葉にキリエは唇を歪めて項垂れる。

「きっと、悩み抜いた末の決断のはずだ」

 本当に、そうなのだろうか。ジュビリーは何も語らない。約束を破ったと責めても、「すまない」としか答えない。彼の真意がわからない。自分は、彼にとって何だったのだろう。

 その時、部屋の扉が静かに叩かれる。不安そうな顔付きで顔を上げるキリエの背後で、モーティマーが侍従から耳打ちされる。

「……どうしたの?」

 キリエの問いかけに、表情を引き締めたモーティマーが振り返る。

「……グラスヒル子爵が到着したそうです」

 グラスヒル。その名を耳にしてキリエは思わず息を呑んだ。


 胸騒ぎを感じながらキリエは応接間へ向かった。グラスヒル子爵は、エヴァをどうするつもりだろう。逆に、自分に判断を委ねてきたらどうしよう。キリエ自身はすぐにでもエヴァを解放してやりたかったが、解放した後はどうする? 今まで通り宮殿で働かせるわけにはいかない。しかし、故郷に帰したとしても、果たして受け入れられるのか。そんなことを考えながら歩いていると、背後から声をかけられた。

「陛下」

 振り返ると、奥からジュビリーがやってくる。その表情を目にして思わず息を呑む。落ち窪んだ目だけがぎらぎらと光り、痩けた頬には深い皴が刻まれている。

「……私も行こう」

 彼もエヴァの処遇が気になるのだろう。

「アンジェ侯は?」

「休憩中だ。……早朝からずっと会議だったからな」

 ジュビリーこそ、ギョームの意を汲んだバラとの交渉は神経をすり減らすはずだ。

「……あなたも後で休んで」

 キリエが呟くと、彼は無言で頷いた。キリエは胸騒ぎを押し隠すように目を伏せた。ジュビリーの顔付きは、初めて教会で出会ったあの時と同じだ。何者も寄せ付けない、幾重にも張り巡らされた防塁の頂に聳え立つ未知の人。あれから共に困難を潜り抜け、固い絆を結んだはずなのに、今のジュビリーは誰よりも遠くに感じる。

(こんなに近くにいるのに)

 キリエは唇を噛み締めた。

(……もうすぐ、離れ離れになってしまうのに)

 一行は黙りこくったまま石畳の冷たい廊下をゆく。

 応接間にはマリーエレンとセヴィル伯、数人の侍従が控えていた。そして、広間の中央には痩せた男が所在なげに立ち尽くしている。

「陛下」

 マリーの言葉にグラスヒル子爵がはっとして振り返る。彼は緊張をみなぎらせた顔つきで跪いた。

「アルバート・グラスヒルにございます」

「遠くからご苦労でした」

「とんでもございません……!」

 玉座に腰を下ろしたキリエは、目の前で体を固くする子爵を見つめた。臣従の礼の時に感じた誠実そうな印象は今も変わっていない。ただ、今は緊張で顔が強張り、全体的にやつれた感じに見える。

「この度は、お詫びの申し上げようもございませぬ……!」

 グラスヒルは絞り出すように震える声で詫びた。

「謀反を企てた許しがたい逆賊が女王陛下とガリア王のお命を狙ったとお聞きした時は、耳を疑いました。そして、その逆賊に我が妻が臣下の本分を忘れ、機密を漏らしたと……」

 グラスヒルの言葉にキリエは思わず身を乗り出した。

「妻?」

 彼は顔を伏せ、さらに頭を垂れた。

「……私にとって、エヴァンジェリンはすでに妻です」

 キリエはマリーと顔を見合わせた。マリーは思わず胸を詰まらせると目元を手で押さえた。

「行儀見習いの侍女と言えど、陛下の臣下であることに変わりはございません。王宮の機密を軽々しく口にした妻は、罰せられるべきです。しかし……!」

 グラスヒルはしばし口をつぐんだ。

「妻は……、陛下に対して二心など持ち合わせておりませぬ! 陛下にお仕えすることに、誇りを持っておりました。出仕してから約半年。送られてくる手紙には、そのことばかりが綴られておりました」

 キリエはエヴァの言葉を思い出した。

「私は、優しくて誠実な男性が良いですわ」

 エヴァはグラスヒルの誠実さに惹かれていたのだろう。それでもエセルバートに心を奪われたのは、彼が若く美しい青年だったからではない。故郷を遠く離れ、不安と孤独を抱えた少女に彼が言葉巧みに接近した結果だ。しかし、束の間婚約者を忘れ、狂おしい恋に落ちたことは事実だ。キリエは恐る恐る子爵に問いかけた。

「子爵。エヴァを、許してくれる……?」

 キリエの問いかけに、グラスヒルは顔を上げた。だが、その表情を歪めると彼は恥じ入るように目を伏せる。

「……私は、彼女がまだ子どもだと思っておりました」

 その言葉にジュビリーが思わず目を見開く。

「彼女をひとりの女性として見ていれば、このようなことには……。浅はかでした」

 ひとりの、女性。ジュビリーはそっとキリエの横顔を見つめた。キリエは彼の視線には気づかず、グラスヒルに静かに微笑みかけた。

「エヴァは、優しい殿方が好きだと言っていたわ」

 グラスヒルはわずかに顔を上げた。

「エヴァはあなたを必要としています。彼女を、グラスヒルに連れていってくれますか?」

「陛下のお許しがあれば、今すぐにでも。しかし……」

 不安げなグラスヒルに対し、キリエは穏やかに語りかけた。

「三五の歳の差を引け目に感じて、あなたは腫れ物でも触るかのように彼女を大事に扱った。……気持ちはわかるわ。でも、エヴァはそれ以上にあなたに気を遣ってしまった」

 そこで言葉を切ると、キリエは自分に言い聞かせるように呟いた。

「優しいだけじゃ駄目なのね。……私も、いろんなことを考えたわ」

 キリエの言葉にマリーはどきりとした。そして、思わず隣の兄を見上げる。

「婚約を解消しようとは思わなかったの?」

 キリエの問いに、グラスヒルは目を細めて顔を横に振る。

「私の妻は、彼女以外には考えられませぬ。……エヴァンジェリンは、全てを承知した上で婚約に応じてくれました。三五の歳の差も、辺境の地であることも、全て……」

 そこでグラスヒルは声を低めた。

「……前妻との間に娘が一人おりますが、娘はエヴァンジェリンよりも歳が上でございます」

 キリエが思わず息を呑む。自分よりも年上の義理の娘……!

「それでもエヴァンジェリンは婚約を承諾してくれました。……不満も言わず。私は、彼女を愛おしく思うようになりました」

 恐らく、エヴァ本人にも告げたことがないであろう言葉を、グラスヒルは必死に訴え続けた。キリエはせつなさに胸が締め付けられ、ぎゅっと手を握りしめて耳を傾けた。

「今でも覚えております。彼女との縁談をまとめるため、グラスヒルから一週間かけてエクスまでやってきたあの日のことを。長旅を終え、埃だらけで現れた私を見て、エヴァンジェリンは泣き出しました」

 キリエは眉をひそめて首を傾げた。

「自分のために長く危険な旅をさせてしまったと思うと申し訳ない、と。自分はそれだけの価値がない小娘だと泣いて詫びてきました」

 彼の脳裏には、その時の情景が蘇っているのだろうか。グラスヒルはしばし思い出に浸るように口を閉ざした。

「……年甲斐もなく、胸が熱くなりました。この娘と共に、穏やかな暮らしを送りたいと願いました」

 静かな広間に、重い溜息が響く。

「前妻が亡くなったのは五年前です。原因は、領内の絶えない争いによる心労だと、私は思っております」

 キリエは、政略結婚の理由が領地争いによるものだというエヴァの言葉を思い出した。

「私は前妻を守ることができませんでした。だから、今度こそ妻を守りたいのです」

 グラスヒルの言葉に胸を突かれたのは、キリエだけではなかった。ジュビリーは息苦しさを感じながら黙ってグラスヒルを見つめた。そうだ。自分もだ。自分も妻を守れなかった。だが、自分はまた、守れないのか。

 やがて、黙ったまま懇願の目を向けてくるグラスヒルに、キリエは静かに頷いた。

「……あなたが受け入れることを条件に、エヴァを釈放します」

 グラスヒルが目を大きく見開く。キリエは微笑むと身を乗り出して囁いた。

「エヴァを守ってあげて」

「陛下……!」

 グラスヒルは再びその場にひれ伏した。

「ありがとうございます……!」


 翌日、プレセア宮殿の侍従寮の裏口に人が集まっていた。解放されたエヴァンジェリン・リードはここからひっそりと出発することになっていた。見送りに集まったのは、女官長マリーエレンと、数人の侍女だけ。それでも、こうして旅発ちを見送ってもらえることにエヴァは申し訳ない気持ちで一杯だった。

「グラスヒル子爵、エヴァをよろしくお願いします」

 マリーの言葉にグラスヒルは深々と頭を下げた。そして、エヴァも怯えた表情で頭を下げる。

「……ご、ご迷惑を、おかけ、しました……」

 愛らしかったはずの顔はやつれ、体の線も細くなったエヴァの髪をマリーがそっと撫でる。

「私がもっと厳しく指導していれば……。ごめんなさい」

「わ、私のせいです……! わ、私の……!」

 両目を見開き、がくがくと体を震わせて叫ぶエヴァにマリーは痛ましげに顔を歪め、彼女を抱き締める。

「……グラスヒルまでは長旅です。体にお気をつけなさい」

「……あ、ありがとう、ございます……!」

 口ごもりながら礼を述べ、エヴァは眉をひそめて恐る恐る尋ねた。

「女官長……、陛下と、ギョーム王は……」

 マリーは小さく頷く。

「ご婚約が、成立されたわ」

「わ、私の、せいでしょうか」

「違うわ。両国の平和のために、陛下御自らご決断された結果よ」

「でも、陛下は……!」

 エヴァの言葉を遮るように、マリーは彼女を再び抱きしめた。

「……今まで、陛下を側で支えてくれてありがとう」

「…………」

「親友ができたと、お喜びだったのよ。この度の寛大な処分、忘れてはなりませんよ」

「……はい!」

 ぎゅっと閉じた瞼から大粒の涙がぽろぽろと溢れ出る。震えるエヴァの肩を撫で、マリーは彼女の耳元で小さく囁いた。

「……上を見てご覧なさい」

 言われるままに目を上げると、エヴァははっと息を呑んだ。

「……陛下……!」

 彼らを見下ろす窓越しに、キリエの姿が見える。エヴァは思わず隣のグラスヒルを見上げた。彼もごくりと唾を飲み込むと無言で窓を見上げる。キリエは微笑むと両手を胸の前で合わせた。エヴァとグラスヒルは慌てて居住まいを正すと両手を合わせ、片膝を突く。エヴァはわずかに目を眇めた。女王の背後に、背の高い男性が佇んでいるのが見える。

「……侯爵……」

 窓の奥では、キリエが寂しげな表情で彼らを見守っていた。やがてグラスヒルに連れられて馬車へと向かうエヴァ。二人がそっと手を取り合っているのを見て、キリエは少しだけ口元をほころばせた。

「……ねぇ、ジュビリー。グラスヒルに行ったことある?」

「……いや」

 背後から宰相の低い声が返ってくる。

「行ってみたいわ……。どんな所かしら」

 ジュビリーが黙り込んでいるとキリエはわずかに顔を上げ、明るく言い放った。

「そうだ。私、船に乗れるんだわ。ずっと憧れていた船に乗れるのよ。ホワイトピークでソーキンズに会えるかしら……」

「キリエ」

 ジュビリーの呼びかけにキリエは顔を背け、その場を立ち去ろうとする。

「キリエ」

 再び呼びかけられ、キリエは足を止めた。そして、ゆっくりと振り返る。眉をひそめ、口を閉ざしたキリエは、思った以上に凛とした表情だった。ジュビリーは、昨日のグラスヒルの言葉を思い出した。

「私は、彼女がまだ子どもだと思っていました」

 ジュビリーは痛みを感じたように目を眇めた。

(……私もだ)

 いつまでもキリエのことを幼い修道女だと思っていたのは、他ならぬ自分だったのではないか。彼女は、アングルの女王。すでに大人の女性になった。

「……キリエ」

 そっと歩み寄るとジュビリーが低い声で呟く。

「ジョンと、マリーエレンの挙式の日取りが決まった」

 それを耳にすると、キリエの顔が明るくなる。

「そう……。良かったわ。いつ?」

「六月二四日。……クレド城で行う」

「……クレド?」

 本来ならば、ジョンの現在の居城であるグローリア城で挙行されるのが筋だろう。何故、マリーエレンの実家であるクレドで……。

「ジョンが、結婚式に女王陛下をご招待したい、と」

 キリエは、驚きと喜び、そして寂しさが入り混じった表情を浮かべた。クレドへ、帰れる……!

「……ジョンに、お礼を言わないと」

 わずかに言葉を詰まらせながら呟くと、キリエは目を伏せる。が、はっとしてジュビリーを振り返る。

「……六月……、二四日……?」

 ジュビリーは黙ったままキリエを見つめた。

 六月二四日。キリエとジュビリーが出会った日である。


 聖クロイツ大聖堂の一室。険しい表情でプレシアス大陸の地図を見つめているムンディに、若い司教がヘルツォークの帰還を告げた。

「ヘルツォーク様がお戻りになりました」

 開け放たれた扉から、甲冑だけを脱いだ胴衣姿のヘルツォークが現れる。

「ヨハン、無事だったか?」

「天なる神のご加護により、ほとんど損害もありませんでした」

 ユヴェーレンがカンパニュラに侵攻し、エスタドが援軍を差し向けたことを受けてムンディは神聖ヴァイス・クロイツ騎士団を派遣していた。名目は「国境警備」だったが、実際はエスタドの更なる追加支援を防ぐためである。

「ギョーム王は大したものですよ」

 さすがに疲れた表情ながら、ヘルツォークはやや興奮した口調で切り出した。

「これまでエスタドの顔色を伺っていたポルトゥスやナッサウまでもが、即座に挙兵し、ユヴェーレンに対して包囲網を張りました。ギョーム王を盟主とした密約が成立していたとしか考えられませぬ」

「そうか……」

「ギョーム王は熱心なヴァイス・クロイツ教徒であった母君の影響で、信仰心もおありです。我々にとっても大きな力になりましょう」

 ムンディは吐息をつくと両手を組んで顎を乗せた。

「……その、ギョームだが、キリエとの婚約を成立させた」

 ヘルツォークが驚きの表情を浮かべる。ムンディは険しい顔つきで呟いた。

「アングルで彼らの暗殺未遂があったらしい。そんなこともあって……、キリエが求婚を受け入れたそうだ」

「……左様でございましたか」

「先日ガリアから使者が参った。二人が従兄妹であること、キリエが修道女であること……。私の許しを得た上で結婚したいと」

 ヘルツォークは、クレドで初めてキリエと会った時のことを思い返した。おとなしく、控えめだったが、鋭い洞察力と強い信念を併せ持った少女だった。父王リシャールを追撃するギョームに恐れを感じているようにも見受けられたが……。

「……意外です。簡単に求婚など受け入れられるようなお方だとは思えませんでしたが」

「個人の信条より、国の平和を優先させたのだろう。……修道女としてな」

 思わず黙り込むヘルツォークだったが、やがて口を開こうとした時。おどおどした表情で司教が呼びかけた。

「猊下……。エスタドの使者が謁見を願い出ております」

 途端に二人の表情が険しくなる。

「……エスタド?」

 ムンディは眉間に皺を寄せるとゆっくり立ち上がった。

 大広間には、相変わらず黒尽くめの衣装に身を固めたエスタドの使節団が待ちかまえていた。見るからに横柄な態度の使者が、高座に座したムンディを見上げる。

「ご機嫌麗しゅう、大主教猊下」

 エスタドの男は、皆どうしてこうも不遜なのだ? ムンディは胸中でぼやきながら頷いた。

「何の用かな」

「単刀直入に申し上げます」

 使者は臆することなく言い放った。

「ガリアのギョーム王陛下と、アングルのグローリア女伯がご婚約されたとお聞きいたしました」

 ムンディはぴくりと眉を吊り上げた。ヘルツォークが目を見開いて使者を凝視する。

「……キリエはすでにアングル女王に戴冠しておる」

「我が君ガルシア王は認めておりませぬ」

 使者の鋭い口調に、ムンディは不快感を露わにした。

「ガルシアはそのようなことを口にできる立場ではない」

「仮に女王であるにしても……、ご結婚をお認めになられるのですか? お二人は従兄妹同士でございます。そして何より、グローリア女伯は生涯を天に捧げる誓いをなされた修道女。ご結婚となれば……、ヴァイス・クロイツ教の信条から大きく逸脱することになるのでは?」

 若い司教たちは、ムンディの神経を逆撫でする使者の態度に青くなった。そわそわと落ち着きをなくす彼らを、ヘルツォークが目でたしなめる。

「ガルシアはまだわからんようだな」

 ムンディは苛立たしげに息を吐き出した。

「まず第一に、キリエはアングル王家の血を引く正当な王位継承者である。修道女としてヴァイス・クロイツ教の教義を実践し、アングル、ひいては世界の平和を実現するために即位したのだ」

 淀みなく語るムンディを使者がじっと聞き入る。

「第二に、キリエとギョームは確かに従兄妹同士である。だが、二人の両親は共に近親婚の出自ではない。取るに足らぬ問題だ」

「猊下」

 使者が一際大きな声で呼びかける。そして、狡猾そうな目で嘲るように言い放った。

「グローリア女伯は呪われたお子です」

 ムンディは眉をひそめ、見守る人々は皆息を呑んだ。

「ヴァイス・クロイツ教の教義に則り、天の祝福を受けて婚姻を結んだエドガー王とベル・フォン・ユヴェーレン王妃。その正妻を差し置いて、天の教えに背いた交わりで生まれたお子が、グローリア女伯でございます」

 その場に静かなざわめきが起こるが、ムンディの表情は変わらない。ヘルツォークがそっと大主教を見上げる。

「よろしいのですか? 不義の子が一国の君主に即位するなど、教徒に示しがつかないのでは?」

「ガルシアこそ天の教えに背き、強硬な領土拡大は目に余る」

「論理のすり替えは無用! 我らの問いにお答えを!」

 使者が叫び、大広間は墓場のように静まり返った。司教たちは息を呑んでムンディに視線を注いだ。彼は目を細め、厳しい表情で口を開いた。

「……責められるべきは、エドガーだ」

 使者が黙って目を眇める。

「生憎……、存命している彼の子は皆、〈呪われた子〉だ」

「猊下……!」

 思わずヘルツォークが囁く。が、ムンディは身を乗り出すと太い声で言い放った。

「キリエは天が遣わした天使だ。呪いは天が授けた試練だ」

 予想だにしていなかった言葉に使者は思わず目を剥いた。

「キリエには、数々の試練に立ち向かうことが宿命づけられている。彼女はその試練を揺るぎない信仰心で克服し、今こうしてアングルの女王に即位した。試練を乗り越えてこそ、奇跡という言葉に意味が与えられるのだ。キリエが呪いを克服してゆく姿は、世界中のヴァイス・クロイツ教徒の希望になる」

「天よ!」

 ヘルツォークが叫ぶと両手を胸の前で合わせ、片膝をつく。

「聖女王を守りたまえ! 聖女王に栄光あれ!」

 途端に、その場にいた司教や修道士など、全ての者が一斉に跪く。

「天よ、聖女王を守りたまえ! 聖女王に栄光あれ!」

 大広間に響きわたる大音声に、使節団の男たちは顔を引きつらせた。ムンディは満足げな顔つきで使者を見下ろした。

「ガルシアには、左様に伝えよ」


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