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女王キリエ  作者: カイリ
第6章 初恋
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第6章「初恋」第6話

ギョームの優しさに触れ、心が揺れるキリエ。だが、それは同時に、忘れかけていた傷を思い出させた。動揺するキリエに、ジュビリーは決断を促す。

 その後は、ガリア王をもてなす演奏会や晩餐が催された。今回はギョーム個人の訪問であり、戴冠式のような華々しい祝宴ではないものの、逆に円卓を囲んでの密接な食事にキリエは終始緊張気味だった。

「聖マーガレット修道院は明日ご案内いたします」

 ジュビリーの言葉にギョームは機嫌よさそうに頷いてみせた。昼間の謁見の時よりは打ち解けた会話を交わす二人を眺めながら、ジュビリーはモーティマーを側に呼んだ。

「どんな話をしていた?」

「……ギョーム王が何故キリエ女王をお選びになったのか、といったお話を」

「……それで?」

 モーティマーは肩をすくめて見せた。

「陛下の穢れなき瞳に一目惚れされたそうでございます」

 ジュビリーは苦虫を噛み潰したような顔つきで鼻を鳴らした。モーティマーは宰相の表情をそっと伺うと、遠慮がちに付け加えた。

「……ギョーム王は、他人の視線が苦手だと仰せでした。しかし、キリエ女王のまっすぐな瞳に心を動かされたと」

 それでも黙ったままのジュビリーに、秘書官は吐息をついてから言葉を継ぐ。

「……陛下は、お優しいですから」

 モーティマーの言葉に、ジュビリーは首をめぐらすとキリエとギョームを振り仰いだ。ギョームが利害を超えてキリエに惹かれていることは紛れもない事実だ。偽りのない言葉でそれを語られれば、キリエの心も揺らぐだろう。

「……侯爵」

 隣のモーティマーが声を低めて囁きかける。

「……どうなさるおつもりですか」

 ジュビリーは目を眇めた。どうしたいのだ、自分は。国を守りたいのか。それとも、キリエを守りたいのか。どちらなのだ、自分は。口を閉ざしたまま黙して語らないジュビリーを、モーティマーは険しい表情で見守っていた。


 晩餐を終えたキリエを寝室に送り届ける道すがら、マリーエレンが尋ねた。

「ギョーム王との舟遊びはいかがでした」

「……疲れたわ」

 思わずこぼした本音に、マリーは苦笑した。

「でも……、ギョーム様は本当にお優しいお方だわ。とても真面目で……、怖いぐらい」

「怖い?」

 マリーは眉をひそめてキリエの表情を覗き込む。少し思い詰めた表情の彼女は小さく呟いた。

「……信念を貫くお方だわ。何があっても。……まっすぐ過ぎて、怖い」

「キリエ様……」

 不安そうなマリーの声色にキリエは安心させるように少しだけ顔をほころばせた。 

「でも、私を大事に思って下さるのはわかったわ。本当に……」

 だが、もう一人の自分は違うものを感じ取っていたことに、キリエ本人はまだ気づいていなかった。


 その日の真夜中。マリーは突然の悲鳴に眠りを破られた。

「いやあぁーッ!」

「――キリエ様ッ……?」

 マリーは飛び起きると寝室の扉を開け放った。通路には、やはり飛び起きた女官たちがおろおろしている。マリーが女王の寝室の扉を開くと、暗がりの寝台でキリエがうずくまり、頭を抱えて悶えている。

「ああッ……! あああ……! やあぁッ……!」

 マリーが駆け寄るとキリエの手を取る。

「キリエ様……! どうなさったのです? 落ち着いて!」

 キリエは恐怖に顔を引き攣らせると譫言のように口走った。

「あぁ……! 手が……! レノックスの、手がッ……! いやあぁ!」

 キリエの胸を這い回る大きな手。ワンピースを引き裂き、胸をまさぐる手。首筋と胸に押しつけられる唇。キリエが痙攣を起こしかけ、マリーは必死に抱きしめた。

「キリエ様……!」

 女王を抱きしめるマリーに、女官が恐る恐る呼びかける。

「女官長……!」

「しばらく二人にさせて……!」

「はい……!」

 しがみついてくるキリエの背を力強く撫で続けるマリーは悔しそうに目を閉じた。キリエの咳き込むような嗚咽が治まり、痙攣がゆるやかになるまでには長い時間を必要とした。

「……キリエ様」

 マリーの呼びかけに、キリエは震えながらも顔を上げた。

「……大丈夫ですよ、もう大丈夫ですよ。私が、お側にいますから」

 涙で汚れた蒼白い顔でまっすぐに凝視してくるキリエ。マリーは痛ましげに顔を歪めると再びキリエを抱きしめた。

「……マリー……」

「はい」

「わ、私……、怖い……。男の人が、怖い……!」

 泣きじゃくるキリエを、マリーは黙って抱きしめ続けた。

 やっとのことでキリエを寝かしつけたマリーは、疲れ果てた様子で寝室を後にした。

「マリーエレン」

 顔を上げると、通路にジュビリーが佇んでいる。マリーはおろおろしている女官たちを部屋へ帰し、兄の側に寄り添った。

「キリエは……」

「今はお休みになられています」

 マリーは溜め込んだ息を吐き出した。

「……ルール公の夢を……」

 ジュビリーの眉間に深い溝が刻まれる。そして、悔しげに目を閉じる。

「……そうか」

 マリーが更に言葉を続けようとした時。

「侯爵!」

 二人が咄嗟に顔を上げると、レスターが駆け寄ってくる。

「どうした」

「ホワイトピークから早馬が……! ユヴェーレンがカンパニュラに侵攻したそうです!」

 マリーは兄を振り仰いだ。ユヴェーレンとカンパニュラの争いは今に始まったことではない。だが、今アングルを訪れているギョームはカンパニュラと同盟を結んでいる。

「しかもこの度は、エスタドが援軍を送っているとのことです……!」

 ジュビリーは右手で額を押さえると、壁にどっともたれかかった。


 未明、夢と現の間を彷徨っていたキリエは女官によって起こされた。

「ユヴェーレンがカンパニュラに侵攻したそうです」

 女官の言葉がすぐには理解できず、キリエは怯えた表情で眉をひそめた。

「ギョーム王陛下はカンパニュラを支援すると仰せです」

 その言葉で一気に現実に立ち返ったキリエは、ふらつきながら体を起こした。

 マリーに手を取られながら大広間にキリエが姿を現した。目の下にクマを作っているキリエの顔を見て眉をひそめたジュビリーだったが、それには触れずに側に寄り添う。

「アンジェ侯が一足先に帰国するそうだ」

「……ギョーム様は?」

「今帰国するのはかえって危険だ。状況が落ち着くまでは留まってもらう」

 内心、このままギョームがガリアに帰ってくれればと期待していたキリエだったが、そううまくはいかない。彼女は憂鬱そうに溜息をつく。

「女王陛下」

 大広間で待っていたギョームが恭しく頭を下げる。

「おはようございます」

「……おはようございます、陛下」

 そして、顔色が悪いキリエに申し訳なさそうに眉をひそめる。

「申し訳ございません、このような早いお時間に」

「いえ、それは……、大丈夫です」

 ギョームの傍らに控えたバラが一歩前へ出る。

「女王陛下。誠に申し訳ございませんが、ガリアへ帰国させていただきとう存じます。同盟国であるカンパニュラを支援せねばなりません」

「どうぞお気をつけて……」

「ギョーム王」

 ジュビリーが申し訳なさそうに呼びかける。

「聖マーガレット修道院へは明日ご案内してもよろしいでしょうか」

「もちろんだ。今はそれどころではないな」

 ギョームもどこか緊張した表情で頷く。

「……オーギュスト王も、娘に死なれて血迷ったか」

 キリエは、ギョームの独り言を耳にして思わず息を呑んだ。


 キリエとギョームはそのまま広間で共に朝食を取った後、庭園の散策に出かけた。その間、ジュビリーは廷臣会議へ臨んだ。

 会議は紛糾した。年明けにユヴェーレン大使から挑発を受けた矢先のことだったため、カンパニュラを支援するべきだと発言する者もいたが、台所事情が火の車のアングルにとって、それは現実的ではなかった。しかし、エスタドがユヴェーレンを支援している事実に、誰もが恐れをなしていた。下手をすればエスタドとガリアの代理戦争になりかねない。ガリアと友好関係を結んでいるアングルも巻き込まれる可能性がある。プレシアス大陸を巻き込んだ大戦争。王位継承戦争が終結したばかりのアングルは、生き残っていけるのか。

「一刻も早く、ガリアと確かな同盟を結ぶべきです。今はギョーム王の好意で同盟に限りなく近い状況ですが、あやふやな立場のままでは危険です」

「ガルシア王は最初からキリエ女王の王位を認めておりません。きっと、侵攻の機会を窺っているに違いありません」

「大陸の脅威だけではございません。未だにルール公やタイバーン女子爵が戦闘を引き起こしています。我が国は、今でも内戦状態なのです」

 興奮した廷臣たちの言葉が飛び交う中、ジュビリーはじっと目を閉じ、沈黙を守っていた。

「しかし、だからといって安易にギョーム王とキリエ女王の政略結婚を認めてしまうわけには……」

「陛下がガリアへ嫁げば、国民は不安になりましょう」

「では、ギョーム王にアングルへ通っていただくおつもりか? いくら何でもそれは無理だ!」

 廷臣の一人がジュビリーに向き直る。

「クレド侯……。どうなさいますか」

 会議室が静まり返り、皆の視線が一斉にジュビリーに注がれる。ジョンが青ざめた表情でジュビリーに呼びかける。

「……義兄上……」

 しばらく黙ったままだったジュビリーだったが、やがて目を開け、静かに呟く。

「……説得してみる」

「説得? ど、どうなさるおつもりですか」

 会議室が一気に騒がしくなる。

「陛下と話し合わなければならん」

「侯爵!」

 廷臣たちのざわめきに目もくれず、ジュビリーは席を立った。


 プレセア宮殿の広大な庭園を散策し、帰ってくる頃にはキリエの疲労はかなり溜まっていた。夜ほとんど寝ていない上に、昨晩の悪夢が頭を離れないでいたのだ。

 ガリアの廷臣がギョームの帰りを待ちかねていたように、応接間に連れてゆく。ガリアからも大陸の動静を伝える使者が到着していたのだ。その間、マリーはキリエを休ませることにした。

「キリエ」

 マリーに連れられたキリエの背後から、ジュビリーが声をかける。振り向いたキリエはぎょっとした顔つきになる。そこに佇んでいたのは、思い詰めた表情の寵臣だった。

「……話がある」

 マリーも兄のただならぬ表情に息を呑み、キリエを振り返る。

「……わかったわ」

 キリエはジュビリーと共に執務室へと向かった。


 その頃、キリエとギョームの庭園散策に同行していたエヴァは、控え室へ戻る前に厨房へ立ち寄ろうとしていた。キリエがかなり消耗した様子だったため、何か口にした方が良いと判断したマリーからの言いつけだった。厨房へ繋がる渡り廊下を歩いていると、突然名を呼ばれる。

「レディ・エヴァ!」

「……エセルバート様」

 胴着姿のエセルバートが眉間に皴を寄せて歩み寄る。

「いやはや、大変な警備体制ですね。我々も警護に駆り出されましたよ」

「ギョーム王がいらしてますからね」

 エヴァも溜め込んだ息を吐き出す。

「大陸でも大きな動きがあったとか」

「ええ、ユヴェーレンとカンパニュラで……。おかげでギョーム王の滞在予定が大きく変更になりました」

「あなた方にとっては大迷惑ですね」

 エセルバートの言葉にエヴァは困ったような笑顔を見せる。

「そうなのですよ。聖マーガレット修道院のご訪問も明日に延期になりましたし……」

「聖マーガレット修道院と言えば……、イングレス郊外のカンブリーでしたね」

「ええ。それに、警戒のために表の街道ではなく、山沿いの道を使うそうですよ。同行される方たちは大変ですわ」

 眉をひそめて肩をすくめるエヴァに、エセルバートが心配そうに身を乗り出す。

「あなたも行かれるのですか?」

「いいえ」

 その返事に、エセルバートはほっとした表情になった。

「それは良かったですね。ご一緒に行くとなれば大変ですからね」

「本当は……、陛下のご様子が心配だから、一緒に行きたかったのですけれど……」

 まるで友人の身を案じるかのような表情のエヴァを、エセルバートは頼もしげな目で見つめた。


 執務室に戻ったキリエとジュビリーは、黙りこくったまま部屋の中央で立ち尽くしていた。顔を背けたままのジュビリーに、キリエは恐る恐る声をかける。

「……話って……?」

 呼びかけてもすぐにジュビリーは顔を上げなかった。しばらくしてから、彼は観念したかのようにキリエを見つめた。そして、重い口を開く。

「……キリエ」

「……何」

 怯えの色がありありと見える声色に、ジュビリーは眉間の皴を深めた。しばしじっと彼女を見つめてから、ジュビリーは静かに、だがはっきりと言い放った。

「ギョームと、結婚しろ」

 短いその言葉に、キリエは顔を引きつらせた。そして、唇を震わせ、呆然として囁く。

「どうして……、そんなこと言うの」

「これから……、大きな波がやってくる」

 ジュビリーは苦しげな表情のまま続けた。

「巨大な波に飲み込まれぬよう、堤防を作らねばならん」

「だからって……!」

 キリエが上ずった声で叫ぶ。がたがたと体が震え、頭が混乱して言葉がうまく出てこない。

「ど、どうして……、どうして結婚しなきゃ、ならないの? 結婚しなくたって、同盟は結べるわ!」

「ギョームはおまえと結婚したいのだ。それ以外の方法で……、同盟は考えないだろう」

「嫌よ! 私は嫌!」

「キリエ」

 ジュビリーが辛そうに呟く。

「私……、アングルを出たくない! 皆と、離れるなんて……、絶対に嫌!」

「おまえはアングルの女王だ。ずっとガリアへ留まらせるわけにはいかん。恐らく、ガリアとアングルを行き来することに……」

「同じことよッ!」

 キリエの叫びが泣き声に変わり、両手で顔を覆う。室内に嗚咽が響く。ジュビリーが思わず彼女の肩に手をかけた時。キリエは小さな拳を振り上げると彼の胸に叩き付けた。

「一緒に……、一緒にいてくれるって、言ったじゃない……! 側にいてくれるって、約束したじゃない……!」

 胸を叩く拳は徐々に弱々しくなり、キリエは声を上げて泣きじゃくった。ジュビリーは悔しげに目を閉じると肩を抱く手に力を込める。

「これからは……、私の代わりにギョームがおまえを守る」

「駄目よ! ギョーム様じゃ駄目なの……! あなたじゃないと……、駄目なのよ……!」

 ジュビリーは思わずキリエを抱きしめた。

「……すまない」

「ジュビリー……!」

 キリエの嗚咽は途切れることなく続いた。


 その日一日は会議に次ぐ会議で慌ただしく終わり、キリエもギョームも早々に就寝した。とはいえ、キリエは昼間にジュビリーから告げられた言葉が頭から離れず、一睡もできなかった。体も疲れを訴えていたが、眠りにつくと再びレノックスの悪夢に襲われるのではないかという恐怖もあり、キリエはますます目を冴え渡らせていた。

 翌朝、聖マーガレット修道院に向かうため、キリエたちは朝早くから馬車を走らせていた。キリエとギョームは同じ馬車に乗り込み、途切れがちの会話を静かに交わしていた。ジュビリーやレスターは大陸からの報せに対応できるようプレセア宮殿に待機し、女王の一行にはジョンとモーティマーが随行した。王と女王に不測の事態が起こらぬよう、馬車の前後には数十騎の騎兵が守りを固めている。

「……大陸の動きが気になりますか」

 窓辺に寄りかかったギョームが、伏し目がちのキリエにそっと声をかける。彼女は固い表情で小さく頷いた。

「ユヴェーレンの大使が暴言を吐いたことは、お聞きしました」

 ギョームの言葉にキリエは眉をひそめ、わずかに顔を背ける。

「……母を侮辱されました」

 ギョームの美しい眉がひそめられる。

「私に対する中傷は甘んじて受け入れます。でも、母への侮辱は許せません」

 キリエは手の震えを隠そうとぎゅっと握りしめた。

「……母は王の愛人。私はその娘。一生、その烙印は消えないのです。……母は、死してなお嘲笑される。父のせいで! ……私だけではありません。ヒース兄様も、レノックスやエレソナも、傷ついてきたに違いありません」

 ギョームはキリエの言葉に黙って耳を傾けていた。やがて目を細めると低く呟く。

「……私たちは似ていますね。母を慕い、父を憎んでいる」

 キリエは上目遣いにギョームを見つめた。彼は相変わらず穏やかな微笑を浮かべつつ、言葉を続ける。

「どうしようもないことはわかっている。だから……、もどかしい」

 しばらく車内には車輪の軋む音だけが響いた。窓のカーテンからは木漏れ陽がまばらに差し込む。やがて、ギョームがやや躊躇いがちに口を開く。

「お疲れとは、違いますね」

「えっ?」

 はっとして顔を上げる。

「昨日からご様子がおかしい。……私の知っているキリエ様とは、少し違う」

 キリエはぎくりとしてギョームを凝視した。美しい碧眼が探るように見つめてくる。今まで多くの欺瞞を見つめてきた瞳は、キリエの不安と恐れを見透かしたのか。やがて、彼はふっと微笑んだ。

「何があったかは、お聞きしませんよ。早く……、いつものあなたに戻れるよう、私も努力しましょう」

 ギョームの鋭い指摘。その直後の優しい気遣い。自分が翻弄されている自覚がキリエにはあった。同時に、彼女はぼんやりと想像した。もしも、自分がアングル女王でなければ。もしも、ジュビリーがいなかったら。自分は、この若者に惹かれていたのではないか。

 二人を乗せた馬車は深い森をひたすら走り続けた。アングルとガリアの君主を先導するジョンは緊張した顔つきで手綱を握りしめていた。その時。ジョンが目を眇めて前方を見つめる。気のせいだろうか。どこからか、自分たちとは違う騎馬の音がする。

「伯爵!」

 隊列の中ほどの騎士が叫ぶ。

「左前方……!」

 皆が一斉に振り返った瞬間。風を切る音が耳をつんざくと太く短い矢が降り注ぐ。

「あッ!」

「うぁッ!」

 数頭の馬が足を折って倒れ込み、隊列が乱れる。

「賊だ!」

 騎士の一人が叫ぶ。すると、覆面の男たちの一団が周囲から襲いかかってきた。彼らはクロスボウを構えると走る馬車に向かって撃ち込んだ。馬車を曳く馬が甲高く嘶くと棒立ちになり、車輪に矢が突き刺さる。馬車は大きく軋むと横倒しになった。

 狭い車内でキリエとギョームが窓に叩きつけられる。頭を強打したギョームの意識が一瞬途切れるが、顔を歪めて体を起こす。と、自分の手がキリエの胸元を押さえていることに気づいて飛び上がり、頭を天井にぶつける。

「陛下……!」

 ギョームが慌ててキリエの肩に手をかける。

「陛下! わかりますか、私がわかりますか!」

「う……」

 キリエは呻き声を漏らしながら頭を押さえ、虚ろな瞳を開ける。ギョームは扉を叩き破ると馬車から這い出た。

「あ……!」

 騎兵と賊が斬り合いを繰り広げている光景にキリエが顔を引き攣らせる。覆面の男が一人、彼らに気づいて槍を降りかぶる。

「ひッ……!」

 ギョームは咄嗟に腰の剣を引き抜くと繰り出された槍を弾き返した。

「下がって! キリエ様!」

 賊は槍を構え直すが、その隙にギョームは相手が乗る馬の首に剣を叩き込む。馬は崩れ落ち、賊は槍を捨ててそのまま逃走を図った。

「待てッ!」

 思わずガリア語で怒鳴るものの、ギョームは足に激痛を感じてがっくりと膝を突いた。

「退却だッ!」

 賊の一人が叫び、男たちは散り散りになって逃げてゆく。

「追えッ! 逃がすなッ!」

 ジョンが声を限りに叫ぶと馬車を振り返る。

「キリエ様ッ……! ギョーム王!」

 ギョームは荒い息遣いでその場に座り込み、ジョンを見上げた。

「予は大丈夫だ。女王陛下を……」

 そして、激痛が走った足首を押さえる。馬車が横転した時に捻挫したらしい。彼は痛みに顔を強張らせながら立ち上がると、キリエの元に歩み寄った。キリエは両手で頭を抱え、仔兎のように震えていた。

「陛下、お怪我は……」

「う……、あ……、あ……!」

 恐怖でまともに話すこともできないキリエを抱きしめたい衝動に駆られたが、ギョームはそっと女王の両手を握り締めた。

「もう、大丈夫ですよ」

 二人の耳に馬が地を蹴る音が飛び込む。

「グローリア伯! 賊を捕らえました。幾人かは取り逃がしましたが……」

「モーティマー、そなたは先にイングレスへ報せて参れッ」

「はっ!」

 モーティマーの後姿を、気が遠くなりかけたキリエは呆然と見送った。


 プレセア宮殿の大広間では多くの廷臣が行き交い、使者や斥候がひっきりなしに出入りしていた。ざわめく大広間の奥で、ジュビリーは険しい表情で大陸の地図を凝視していた。やがて隣のレスターに呟く。

「ソーキンズを呼んでおけ。ギョームが帰国する際に警備させる」

「はっ」

 老臣が子飼いの部下に耳打ちする。そしてしばらくジュビリーを見つめていたが、そっと身を乗り出す。

「……キリエ様に、結婚をお勧めしたそうですな」

 黒衣の宰相は黙ったままだった。

「本当に、よろしいのですか? キリエ様は、他の誰に何を言われても結婚を拒み続けるでしょう。しかし、あなたに言われれば……」

「……おまえまで私を責めるのか」

「そうではなく……」

 ジュビリーの固い口調に、レスターはやり切れない思いで顔を振る。

「ただ……、あなた自身が、後悔なさらない決断をしていただきたいのです」

 レスターの言いたいことはわかっていた。ジョンが結婚に反対していたことも忘れてはいない。マリーエレンは苦悩するキリエに一番近くで寄り添っている。だが……、キリエはもはや修道女ではなく、アングル女王だ。そして、女王に擁立したのは紛れもなく自分だ。ジュビリーの脳裏に、教会に迎えに行った時のキリエの姿が蘇る。得体の知れない巨大な「何か」に恐れをなし、怯えていた修道女。昨日、結婚するよう告げた時、彼女はまさにあの時と同じ表情をしていた。

 ジュビリーが目を閉じ、重い溜息を吐き出した時、大広間がざわめいたかと思うとモーティマーの叫び声が上がる。

「侯爵! 侯爵ッ!」

 そのただならぬ叫びにジュビリーは咄嗟に顔を上げた。

「どうした」

 人々を掻き分けて現れたモーティマーを見てジュビリーはぎょっとした。秘書官の胴着は乱れ、足元は泥にまみれている。

「何があった!」

「陛下のご一行が、賊に襲撃されました!」

 その場に悲鳴と怒号が上がり、騒然となる。

「お静かにッ!」

 レスターが声を張り上げる。ジュビリーがモーティマーに詰め寄る。

「キリエ……、女王陛下と、ギョーム王はッ!」

「女王陛下はご無事です。ギョーム王陛下は足を捻挫されましたが、大きな外傷はございません。ただ……」

 モーティマーは顔を歪めると宰相の耳元で囁く。

「ガリアの廷臣、クレマンソー伯が重傷です」

 ジュビリーは唇を噛みしめると顔を上げた。

「医師を待機させろ!」

 側近たちが慌ただしく大広間を飛び出していく中、ジュビリーは青ざめる顔を手で押さえる。レスターが不安げに彼の背に手を添える。ここ数ヶ月、キリエと同じぐらい心身共に疲弊しているのだ。

「侯爵」

「……大丈夫だ」

 彼は自分に言い聞かせるように呟いた。


 数時間後、ざわつく宮殿に女王の一行が帰還した。一足先にアプローチに現れたジョンを、ジュビリーは険しい顔で出迎える。

「ジョン」

「……義兄上」

 ジョンの顔は青ざめ、わずかに体が震えている。

「……お二人は、ご無事です。クレマンソー伯も命に別状はないと。しかし……、と、捕らえた賊の中に……」

 ジョンが悔しげに目を閉じる。

「どうした」

「……聖女王騎士団の騎士がおりました」

「……何」

「私の責任です! 私の……!」

 ジュビリーはジョンの腕を取ると耳元で囁いた。

「違う。その男は騎士団の騎士ではない。騎士団に属していると騙ったのだ」

 ジョンは顔を歪める。

「そんな言い訳が通用するわけが……!」

「これから気が遠くなるほど暗殺や謀反の騒ぎが起こるのだ。これは……、その中の一つに過ぎん……!」

「……義兄上」

 ジョンは大きく息を吐き出すと言葉を続けた。

「その男ですが……、キリエ様の侍女と親しくしていたという証言が……」

 ジュビリーの眉間の皺が深まる。

「……何だと?」

 その時背後がざわめき、二人が顔を上げると、近衛兵に囲まれたキリエとギョームの姿が目に入る。キリエは呆然とした表情で近衛兵に両脇を支えられ、ギョームは側近の肩を借りてぎこちなく歩みを進めている。

「陛下……!」

 ジュビリーの声にキリエが顔を上げる。駆け寄ってくるジュビリーの姿を目にしたキリエの瞳から大粒の涙が溢れる。

「ジュビリー!」

 悲鳴のように声を上げると、キリエはジュビリーに抱きついた。

「……陛下……!」

 宰相に抱きつくその姿はまるで幼い子どものようだったが、廷臣たちは真っ青になった。ジョンが思わずギョームを振り仰ぐが、彼は無表情で女王とその宰相を見守っている。その無表情さ故にジョンはごくりと唾を飲み込んだ。美しいはずの碧眼は氷のように冷たく二人の姿を凝視している。困惑したジュビリーが顔を上げた瞬間、ガリア王と視線がぶつかる。ジュビリーは背に冷水を浴びせかけられたようにその場に立ち尽くした。やがて、キリエの両肩を掴むとゆっくり体を離す。

「陛下……、お気を確かに」

 ジュビリーの呼びかけに、キリエが肩を震わせながら顔を上げる。ジュビリーは大きく息をつくとギョームに視線を向けた。

「ギョーム王、お怪我は……」

「大丈夫だ、クレド侯」

 ギョームはいつもと変わらぬ穏やかな表情を作る。だが、ジュビリーはさっとその場にひれ伏した。

「申し訳ございません! せっかくのご訪問中にこのような大失態……! 何とぞお許しを……!」

 キリエは、ジュビリーが頭を垂れ、必死に許しを乞う姿を目にして自分が今どんな状況に置かれているかをようやく理解した。

「そなたのせいではないぞ」

 ギョームは穏やかに言い含めた。

「アングルの騎士は皆、身を挺して予を守ってくれた。感謝している」

「陛下……」

「それよりも、女王陛下の方が心配だ」

「……ギョーム様」

 小さな呟きに、ギョームはにっこりと微笑んでみせた。

「あなたがご無事で何よりです。本当に良かった」

 キリエがまだ困惑の表情で彼を見つめていると、小さなざわめきが起こる。

「ま、待って下さい! 私……、私、何も知りません!」

 皆が振り返ると、レスターが数人の衛兵を先導し、取り乱した少女を連行しようとしている。

「……エヴァ?」

 少女の顔を見てキリエは思わず叫び声を上げる。

「エヴァ!」

「陛下!」

 ジュビリーが止める間もなく走り出し、衛兵を掻き分けて友の元へ向かう。

「エヴァ……! エヴァをどこへ連れていくの!」

「陛下」

 レスターが険しい顔つきで囁く。

「賊の一人が、ミス・リードと親しくしていたという証言がありました」

 キリエとエヴァが同時に息を呑む。まさか……、まさか……!

「……ご心配なく。丁重にお扱いいたします」

 レスターは衛兵に目配せするとエヴァを連れてゆく。

「う、嘘よ……、そんな……、そんなこと……!」

「陛下」

 追いかけてきたジュビリーを振り返り、キリエは必死に訴えた。

「エヴァが……、エヴァがそんなことするわけないわ……! 嘘よ! 何かの、間違いだわ!」

 そこまで叫んで、キリエは突然腰を折るとその場に崩れ落ちた。


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