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女王キリエ  作者: カイリ
第6章 初恋
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第6章「初恋」第5話

ジュビリーへの思いに戸惑うキリエ。だが、無常に時は過ぎ、ギョームの来航が迫る。

 その頃、海を越えた先のガリアでもまた、王を巡って様々な意見が取り沙汰されていた。戴冠式に招かれたギョームがアングルの女王に求婚したという話は瞬く間に国内を駆け巡り、ここでもまた、人々は賛否に分かれて論戦が繰り広げられていたのである。

 即位したばかりのギョームは思い切った政治改革を断行し、外交でもその手腕を遺憾なく発揮しており、国民は若い王に並々ならぬ期待を寄せていた。だが、ギョームが敵対するエスタドはあまりにも強大であり、国民は内戦が終結したばかりの自国が生き残っていけるか不安を抱えていた。そのため、アングルとの強力な同盟は必要不可欠だと考える人々も多い一方で、キリエとの結婚を不安視する者も多かった。

 キリエはムンディの戴冠を受けた正当なアングル女王ではあるが、先王の庶子に過ぎない。しかも、二年前まで教会に引き篭もっていた修道女だ。それだけではない。ガリアは百年前にアングルから侵略を受けており、長年の冷戦状態から脱却するためにガリア王リシャールと、アングル王女マーガレットの政略結婚が結ばれている。マーガレットの人柄のおかげで、ガリア人に根強く残っていたアングル人への不信感は和らいだものの、完全に警戒心を解いたわけではない。

 ギョームがキリエと結婚すれば、エスタドのガルシア王は自分への挑戦だと受け止めるのではないか。キリエとの結婚は、強固な同盟を実現させるだけでなく、エスタドを刺激する引き金にもなる。

「陛下、オランド伯の意見書はご覧になられましたか」

 宰相バラの言葉に、ギョームは背を向けたまま頷いた。窓からの陽射しが、美しい金髪に一層輝きを与えている。だが、その表情には陰りが見える。

「妃にはポルトゥスのロサ王女が相応しい、とあった」

 バラは溜息をつくと隣の男を見上げた。レイムス公爵シャルル・ド・ガリア。先王リシャールの弟で、ギョームの叔父だ。兄とは驚くほど似ていないシャルルは、温厚そうで思慮深い眼差しが印象的な男だった。彼は眉をひそめたまま甥の背を見つめている。バラは居住まいを正すと声を高めた。

「ポルトゥスとの関係を正常化し、一層の連携を深めたい、という考えでございましょう。同じ意見を持つ者は多いようです」

 隣国ポルトゥスとはその領地を巡り、長い間紛争が続いてきた。だが、即位したギョームはまずこのポルトゥスに歩み寄り、和平を結ぶことを成功させている。その同盟関係を更に強めたい、と考える一派がロサ王女との政略結婚を望んでいたのだ。

「叔父上」

 甥の呼びかけにシャルルが顔を上げる。

「……叔父上は、政略結婚を持ちかけられた時、いかがいたしましたか」

 シャルルは微笑を浮かべてみせた。

「もちろん、兄と何度も話し合いを持ちましたよ。この結婚にどれだけの価値があり、未来に何をもたらすのか、熟慮を重ねました」

 そうして結婚したのが、レオン公国の公女ロベルタだった。エスタドの属国であるレオン公国の公女と縁戚を持つことで、リシャールはエスタドとの結びつきを強めようと考えたのだ。だが、その結婚は結果的にガリアに大きな変革をもたらすことになった。

 リシャールとギョームの争いが内戦に発展すると、ロベルタはリシャールと袂を分つよう夫に願い出た。母国レオンの独立を強く願っていた彼女は、エスタドとの対決姿勢を打ち出すギョームを支持したのだ。シャルルは妻の願いを受け入れ、兄リシャールに反旗を翻した。それが引き金となり、内戦は一挙にギョームへと流れが変わっていった。

「縁談が舞い込んできた時は、それがガリアの国益に適う、と思ったのです。……今でもそう信じております」

 ギョームは小さく頷いてから宰相に目を向けた。

「国益だ。君主は国益を第一に考えねばならん。だからこそ、アングルとの同盟を優先するべきだ」

「陛下」

「そなたが心配していることはわかっている」

 バラは困り果てた様子で息をついた。ギョームは政略結婚と言い張るが、どう考えてもこれは恋愛感情が絡んだ求婚だ。元は政略結婚だったシャルルとロベルタにも強い絆が芽生え、国の命運を左右する決断を下すまでになった。バラは、不安で仕方がなかった。

「アングルとの同盟は国益をもたらす。何も問題はない。ポルトゥスやカンパニュラとはすでに同盟を結んでいる。これ以上の連携は必要ない」

 何か言い返そうとするバラを遮るように、ギョームは言葉を続けた。

「アングルへ向かう日取りはすでに決めてある。誰に何と言われようと、これだけは譲らぬ」

 口をつぐみ、ただ王を見守るしかできないバラを横目で見やってから、シャルルは静かに口を開いた。

「あなたにそれほどまで思われるキリエ女王は、きっと偉大な君主なのでしょう」

「……そうです」

 わずかに顔を強張らせてギョームは目を伏せた。シャルルは身を乗り出すと声を低めて囁いた。

「一国の君主を妃として迎え入れるのです。多くの反対を跳ね除けて。陛下には、その妃を一生守っていく義務があります」

 ギョームは眉をひそめると心外そうに唇を尖らす。

「当然です。私は……、父上のような男にはなりません」

「陛下」

 シャルルが哀しげに呟いた時。扉が叩かれると秘書官が現れる。

「陛下、駐アングル大使より書状が届けられております」

 アングルと聞いてギョームは眉を吊り上げた。秘書官が差し出す手紙を受け取ると無言で読み進める。その表情が少しずつ険しくなっていく様子にバラは顔を強張らせた。

「……アングルも今頃大変な騒ぎであろう」

 シャルルがぽつりとこぼした言葉にバラも頷く。

「我が国同様、賛否両論で渦巻いておりましょう」

「まだ幼い女王には気の毒な話だ」

 バラの脳裏に、初めて見かけたキリエの姿がよぎる。垢抜けない修道女は、怯えた表情で異国から訪れた自分たちを見上げてきた。まさか、このような事態になろうとはあの頃は思いもしなかった。

 と、不意にぐしゃりと紙を握り潰す音が響き、二人はぎょっとして顔を上げた。

「……陛下」

 俯いたギョームは目を見開いたまま右手で手紙を握りしめている。バラは息を呑んで王を凝視した。

「……バラ」

「はっ」

 仮面のように無表情のまま、ギョームは振り返った。

「女王陛下は黒衣の宰相がお気に入りだそうだ」

 抑揚のない声でそう言い放たれ、バラとシャルルは息を呑んだ。ギョームは握り潰した手紙を肩越しに投げ捨てた。


 不安を抱えたキリエを嘲笑うかのように時は駆けるように過ぎ、いよいよギョーム来航の日を迎えた。

 出発の日。女官長マダム・ルイーズ・ヴァン=ダールは若き王をビジュー宮殿のアプローチまで見送った。彼女は「品定め」と称してアングルまで同行すると言い出したが、ギョームはそれをきっぱりと拒んだ。

「私は、コンスタンツァ王女がよろしいと申し上げましたのに……」

「ルイーズ」

 不服そうに呟くルイーズに、ギョームはにっこりと微笑んで振り返る。

「もう一度言ってみろ。冗談でも許さんぞ」

 ルイーズは目を眇めて口を尖らせたが、バラは背筋を凍らせた。この王は、交渉が成立しなければ女王をさらいかねない。バラは半ば本気で危ぶんだ。

 先日届けられた駐アングル大使からの報せで、人々が女王と宰相の親密さを噂していることを知ってからギョームは明らかに機嫌を損ねている。王はきっと激しい嫉妬心を煽られたに違いない。

(何事も起こらなければ良いが)

 バラは人知れず重たい吐息をついた。


 一方のアングルでは、求婚のためにガリア王が来航するとあって厳戒態勢が敷かれていた。そして、ホワイトピークからイングレスにかけ、市民に対して王宮から「過度な歓迎は慎むように」と触れが出た。廷臣たちの間では、キリエがホワイトピークまで出迎えるべきではないかとの意見も出たが、求婚を断るつもりでいたキリエはそれを拒んだ。そのため、代わりにホワイトピーク公ウィリアムが出迎えることとなった。

 港に近づくガリア王国の船団をウィリアムは目を眇めて見守った。

「……ついにやって来たか」

 ウィリアムはキリエの身を案じ、低く呟いた。王宮を訪れた時、不安で肩を震わせていた様子を思い出すと心が痛んだ。だが、いつかは対峙しなければならない問題だ。これは、アングルの未来がかかっている。ウィリアムは息をつくと踵を返した。

 やがてガリアの船団がホワイトピーク港に到着した。バラは、若い王が突拍子もないことをしでかさなければよいがと、やや憂鬱そうな顔つきでホワイトピークの空を見上げた。一方のギョームはどこか自信に満ちた表情だ。だが、それでもさすがに緊張した様子でウィリアムに尋ねる。

「ホワイトピーク公、あなたは最近女王陛下にお会いしましたか」

「ええ、数日前に。慣れない執務に少しお疲れのご様子でございましたよ」

 ウィリアムの返答にギョームは眉をひそめて頷いた。

「そのような時にこうして訪問し、実に心苦しいです」

「執政は緊張の連続です。陛下がお気に病むことはございませんよ」

 ギョームははたと歩みを止めると、少し思い詰めた表情を見せた。ウィリアムが首を傾げると、ギョームは穏やかに微笑を浮かべて振り返った。

「私が、少しでもその労苦を除いて差し上げたいものです」

 その言葉に、ウィリアムは何と返せば良いかわからず黙り込むしかなかった。そして、乗り込んだ馬車の扉を閉める直前に、ウィリアムはそっと身を乗り出した。

「ギョーム王」

「何です?」

 ウィリアムは思い詰めた表情で囁いた。

「キリエ女王は……、教会育ちの修道女です。そのことを、お忘れなく」

 その言葉に、ギョームは安心させるように微笑んで見せた。


 ギョームが上陸した報せは、ルールにも届けられた。密偵からの報告を受けると、レノックスは城の中庭へと向かう。渡り廊下を歩いていると、木立の中で立ち尽くすエレソナの姿があった。

「エレソナ」

 振り返ったエレソナは、ドレスの上から簡素な鎧をまとい、手には槌矛(メイス)が握られている。額に汗を光らせ、〈タイバーンの雌狼〉は鋭い眼差しで異母兄を見上げた。

「ギョームが上陸した」

「……何をしに?」

「正式にキリエに求婚するためにだ。本人は乗り気ではないらしいがな」

「ふん」

 エレソナは苛立たしげに息を吐き出した。

「同盟を結ぶために若獅子王を手玉に取るつもりだ。あの雌狐……!」

「策は立ててある」

 レノックスの言葉にエレソナはきっと振り返った。

「まだるっこしいことなどせず、さっさと王都に攻め入ればいい!」

「イングレスでの戦いを忘れたのか」

 兄の冷たい言葉にエレソナは口をつぐんだ。

「キリエとギョームの共謀で不利な戦いを強いられた。今も状況は変わらん」

 あの戦いで、レノックスはクレド・グローリア連合軍、ガリア軍、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団という三つの軍勢と戦った。相手は今も強大な軍勢を率いている。エレソナは懇願するような目でレノックスを見上げた。

「兄上の代わりに、私は戦場へ赴いたって構わないわ……!」

「エレソナ」

 レノックスはひとつしかない目を細めた。

「おまえはもう、戦場へ行かなくてもよい。……落とし前は自分でつける」

 有無を言わさぬ口調のレノックスに、エレソナは黙り込んだ。


 王都イングレスに、ついにガリア王ギョームの一行が到着した。侵略者リシャールを駆逐した若獅子王の来訪に、市民はそれなりに歓迎した。本来ならばもっと歓迎したいところだったが、軍の目が厳しいため、控えめな歓迎ぶりだ。

 プレセア宮殿のアプローチには、いつもと変わらず黒衣をまとった宰相が出迎えている。馬車からその姿を目にしたギョームは意味深に目を細めてみせた。同乗したバラは思わずごくりと唾を飲み込む。馬車から降りると、ジュビリーが恭しくその場に跪く。

「遠路遥々、ようこそいらっしゃいました」

「クレド侯」

 ギョームは相変わらず穏やかな笑顔でジュビリーを見つめた。美しい碧眼。口許に浮かぶ冷たい微笑に宰相は顔を強張らせた。

「成功を祈っていてくれ」

 その言葉に、ジュビリーは顔を歪めた。思わず返事も返せない彼を尻目に、ギョームは宮殿のアプローチへと向かった。ジュビリーの険しい表情にバラはひそかに同情の目を向けつつ、ギョームの後を追う。

 ギョームは目にも鮮やかな青の盛装だったが、飾り立てられているわけでもなく、あくまで洗練された装いだった。多くの側近を引き連れた若く美しい王に、謁見の間へ続く大廊下の貴族たちは口々に感嘆の声を漏らした。

 謁見の間では、緊張に顔を引きつらせたキリエが居心地悪げに玉座に座していた。姿を現したギョームに、キリエはますます顔を引き攣らせると居住まいを正す。キリエの顔を目にしたギョームは素直に嬉しそうな笑顔を見せた。

「キリエ女王」

 ギョームはキリエの前まで来ると恭しく跪いた。

「ご機嫌麗しゅうございます。突然の訪問をお許し下さい」

「……ようこそいらっしゃいました」

 言葉とは裏腹に、あまり歓迎しているとは思えない表情にギョームは困ったような笑顔になる。少しの沈黙の後、ギョームは息を吐くと背筋を伸ばし、声を高めた。

「アンジェ侯が新年の挨拶の折に、私の代わりにお伝えさせていただきましたが……」

 キリエがごくりと唾を飲み込む。高座の下ではジュビリーが心配げにキリエの顔色を伺う。ギョームも緊張した表情ながら、まっすぐにキリエを見つめる。

「女王陛下、あなたをガリアの王妃に迎えたいと願っております」

 覚悟はしていたものの、実際に告げられると衝撃は大きかった。心のどこかで、ギョームが諦めていてはくれないかと、手前勝手な期待をしていた自分に、キリエは情けない思いでわずかに顔を伏せた。

「……ギョーム王陛下」

 キリエの小さな声に、ギョームが身を乗り出す。彼女は申し訳なさそうに口ごもりながら答えた。

「アンジェ侯にもお伝えしましたが……、私は、今でも天に仕える修道女でいるつもりです。そして……、あなたの母君は、私の叔母です」

「覚えておいでですか?」

 唐突に尋ねられ、キリエは面食らって目を見開く。

「私は、クレド城であなたをお見かけした折、天使と見間違えました」

 ギョームの言葉にキリエの頬が見る見るうちに真っ赤に染まる。廷臣たちも思わず顔を見合わせて息を呑む。そんな人々に構わず、ギョームは熱っぽく言葉を継ぐ。

「天上の天使とは結婚できませぬが、地上の修道女ならば、一縷の望みがあるかと」

「……陛下……」

 困り果てた様子のキリエを見て、ギョームは小さく頷く。

「もちろん、今ここではっきりとしたご返答を賜るつもりは毛頭ございません」

 長丁場になるな。ジュビリーは眉間に皴を寄せると胸の中で呟く。

「しばらくイングレスに滞在する所存です。色々と積もる話もございますし……」

 そこで、急に思い出したようにギョームは表情を明るくした。

「そういえば、リッピの絵は完成いたしましたか?」

「……ええ。立派な作品を描いていただきました」

「拝見できますか」

「もちろんです」

 そうして、キリエたちは謁見の間から、絵が展示されているバンケティング・ホールへと向かった。謁見の間で相対するよりも多少は気分が落ち着くだろうと考えたギョームの戦略だ。ジュビリーがキリエにそっと耳打ちする。

「無理はするな」

 寵臣の言葉に、キリエは強張った顔つきのまま黙って頷く。だが、そのひとつひとつの動きをギョームが目で追っていることに本人たちは気づいてはいない。バラがはらはらと落ち着かない表情で見守る。

 バンケティング・ホールを訪れると、玉座を挟むようにリッピの絵が二枚掛けられている。その絵を二人で見上げる様子を、ジュビリーたち廷臣は遠巻きで見守った。

「素晴らしい」

「ありがとうございます。陛下のおかげです」

 ギョームがキリエの肖像に歩み寄る。

「青い蝶が、アッサー家の紋章でしたね」

「はい」

 そう答えるキリエの胸元に視線を向けるギョーム。そこには、キリエ個人の紋章、アッサー家の〈青蝶〉とアングル王家の〈赤獅子〉を組み合わせた紋章をあしらった胸飾りがあった。ギョームが自分の胸飾りを指で手繰る。彼の紋章は、ガリア王家の〈白百合〉と、アングル王家の〈赤獅子〉。〈赤獅子〉は母、マーガレット・オブ・アングルによってもたらされたものだ。

「お揃いですね」

 〈赤獅子〉を示し、無邪気に微笑みながら囁くギョームにキリエはつられて微笑むが、どうしても引きつった笑顔になってしまう。

「母があなたと引き合わせてくれたのかもしれませんね」

 どう返事をしていいものかわからず、黙り込むキリエに、ギョームが畳み掛ける。

「そういえば、アングルに母が建立した修道院があるとお聞きしていますが……」

「聖マーガレット修道院ですね」

 さすがにこういったことには反応が早いキリエは、即座に返答する。

「ぜひ訪問したいのですが……」

 キリエがジュビリーを振り返る。彼は重々しい表情で頷いた。

「明日以降で、調整いたしましょう」

「……お願いします」

 キリエは、相変わらず緊張したまま囁く。「それから、もう一つ」

 今度は何を言い出すのだ。キリエが思わず眉をひそめる。ギョームは少し恥ずかしそうに声をひそめた。

「……幼い頃、母から聞いた話でずっと憧れていたことがありまして……」

「何でしょう?」

「プレセア宮殿の堀で、舟遊びをしていたそうです。子ども心にとても憧れまして」

 キリエはセヴィル伯を振り返った。

「……舟遊び?」

「確かに、ございます」

「……ご用意できる?」

「はっ」

 瞬間、ギョームの嬉しそうな笑顔にキリエは不覚にも吸い込まれそうになり、はっとして顔を引き締める。

「では、すぐに準備を」

「はっ」

 ひとしきりリッピの絵を鑑賞した後、一行はイングレス市内を流れるノーヴァ川を引き入れた内堀へと向かった。ガリア王の突然の申し出にも関わらず、堀には季節の花々が盛大に飾り付けられた小舟が用意されていた。堀の管理をしている召使いたちが慌ただしく用意してくれたと思うと、キリエは申し訳ない気持ちで一杯だった。

「そう、これですよ」

 ギョームが少年のような笑顔で嬉しそうに言う。

「母が小さかった頃、兄君……、つまり、陛下の父君とこうして遊んでいたそうです。ビジュー宮殿にはそんな優雅なものはありませんから……」

 屈託ない笑顔で微笑みかける王に、キリエも表情をゆるめる。ギョームの穏やかな笑顔は嫌いではなかった。彼にあって、ジュビリーにはないものだ。だが、何かが違う。

 後ろでセヴィル伯たちが「どなたが櫂を……」と話しているのが聞こえて振り返る。廷臣たちがまごついている様子を見、ついでギョームを振り返ると、彼は「どなたでも」と涼しい顔で答える。廷臣たちが恐々とジュビリーの顔色を伺うが、彼は厳しい表情で顔を横に振った。

「……クレド侯」

 それでも食い下がろうとする廷臣たちを見たバラが慌てて前へ進み出ようとした時。キリエが咄嗟に声を上げた。

「サー・ロバート」

 俯いていたモーティマーが、びっくりして飛び上がる。

「わ……、私、でございますか?」

「お願い」

 モーティマーが助けを求めるように周囲を見渡すが、ジュビリーが「頼む」と耳打ちしてくる。困惑の表情のまま、モーティマーは小さく頷いた。

 先に舟に乗り込んだモーティマーが櫂を川面に差し、次に乗り込んだギョームが足下のおぼつかないキリエの手を取る。と同時にその指をぎゅっと握りしめ、彼女は息を呑んで顔を赤らめる。ギョームは嬉しそうににこにこ笑うと腰を下ろすよう促す。二人が腰を下ろしたのを確認すると、モーティマーは静かに舟を出した。心細げな主君をエヴァが心配そうに見送り、そっと宰相を見上げる。キリエが「苦しい思い」を向けている相手は彼に違いない。女王は、自分よりもっと苦しい恋に落ちている。彼女は複雑な思いでジュビリーを見つめた。彼は、眉間に皺を寄せ、心なしか拳を強く握りしめているように見えた。

 船が岸を離れると、キリエは不安そうに視線を彷徨わせた。そんなキリエを見てとると、ギョームは腰を浮かせて身を乗り出した。

「大丈夫ですか?」

「は、はい」

 が、首を傾げたギョームは覗き込むようにして顔を近づけてきた。

「……陛下、少しお痩せになられましたか」

「え、そ、そんな」

 顔を真っ赤にして後ずさろうとするキリエにギョームははっとして身を引く。

「あ、失礼……!」

 キリエははち切れんばかりに高鳴る胸を抑え、黙り込んで俯いた。ギョームの方もやや頬を染め、じっとキリエを見つめている。が、やがてそっと小さく呼びかける。

「……キリエ様」

 黙ったまま目を上げると、彼は船縁を指差した。

「鳥が」

 目をやると、可愛らしい水鳥の親子がのどかに水面に浮かんでいる。キリエはふっと顔をほころばせた。

 降り注ぐ春の陽差しがギョームの美しい金髪を輝かせている。川面を反射する光が、キリエの顔にきらきらと真珠のように降り懸かる。小舟は静かにゆっくりと進み、花々がそよ風に揺れ、舟の上は甘い香りに包まれる。確かにこれは優雅な遊びに違いない。キリエが目を上げると、宮殿の外に集まっている貴族たちが笑顔で手を振っている。ギョームは穏やかな表情で手を振り返した。彼の魅力は何と言ってもこの笑顔だ。そして、まっすぐな情熱。だが、それが怖い。キリエはおずおずと口を開いた。

「……ギョーム様」

 名前で呼ばれたことに彼は嬉しそうに身を乗り出す。

「はい」

「あの……、どうして、私なのですか?」

 ギョームはかすかに首を傾げた。

「カンパニュラにも、ポルトゥスにも、素敵な姫君がいらっしゃいます。何故……、田舎育ちで何の取り柄もない私を……」

「何故でしょうね」

 キリエを煙に巻くようにギョームはにこにこと笑って聞き返す。

「何故これほどまであなたに惹かれるのか、私にもわかりません。恋とは、そんなものではありませんか?」

 恋という言葉にキリエは青くなった。強張った表情の女王に、ギョームは申し訳なさそうな顔つきになる。

「失礼。ご気分を害されたなら、お許しを」

「いえ、そうではなく……」

 背後で櫂を操るモーティマーがそっとキリエの様子を見守る。

「……笑わないで聞いて下さいますか」

「はい」

「クレド城でお見かけした時……、一目で恋に落ちました」

 耳まで真っ赤になるキリエを見つめたまま、ギョームが声を高める。

「笑ってはおるまいな? サー・ロバート」

「い、いえ……」

 慌ててモーティマーが口ごもる。楽しそうに笑い声を上げると、ギョームは手を挙げて陽差しを遮った。

「一つ申し上げるならば……、あなたの目です」

「……目?」

「私は……、他人の視線が何より嫌いでした」

 自信家で、何も恐れるものなどないような振る舞いをするギョームの告白に、キリエは思わず引き込まれた。

「皆、私を利用して出世しよう、利権を得ようといった者ばかり……。父を廃してからもです。政治の実権を奪おうとする者が周りにはびこっています。物心がついてから今まで、ずっとそうです」

 キリエは眉をひそめた。教会で育った自分とはまるっきり境遇が違う。彼の少年時代は、両親が側にいたにも関わらず、満ち足りたものではなかった。

「だけど、あなたはそうではなかった。穢れのない、まっすぐな目で私を見て下さった。私の身分を知ってからも。だから……、嬉しかった」

 そんな些細なことが……。キリエはひそかに気の毒そうに彼を見つめた。ギョームの顔から笑みが消え、目を伏せて呟く。

「……私は父を廃した男です。心が歪んでいる。だから、あなたのまっすぐな目に惹かれると同時に……、怖くもある」

「そんなことないわ」

 咄嗟に声を上げるキリエに、ギョームは顔を上げた。

「あなたはまっすぐだから……、誰よりも国を思っているから、祖国を救おうと。歪んでなんか……」

 どこか必死に言い募るキリエに、ギョームは嬉しそうに微笑む。

「……ありがとう、キリエ様」

 そして、急に恥ずかしくなったのか、ギョームは目を伏せると小さく呟いた。

「……子どもですね。つくづく私は、まだ子どもです」

「……ギョーム様」

 光る川面をしばし見つめてから、ギョームは寂しげな微笑を浮かべて顔を上げた。

「大人になれるかもしれません。あなたが妻になれば」

 あなたが妻になれば。その言葉を耳にした瞬間、キリエは脳幹を激しく揺さぶられた。

 煌めくシャンデリア。流麗な舞曲。握り合った手と手。そして耳元に寄せられる唇。キリエは「あっ!」と声を上げて口元を覆った。ギョームとモーティマーが何事かと目を見開く。

「わ、私、あの時……! あなたの足を……!」

「……思い出されたのですか? 晩餐会でのことを」

 ギョームの問いに、キリエは真っ赤になってこくりと頷く。途端にギョームがぷっと吹き出す。

「本当にお忘れだったのですね。私はてっきり、クレド侯の方便かと」

「も……、申し訳ありません……!」

 ギョームは腹の底から笑い声を上げ、キリエとモーティマーは思わず顔を見合わせた。

「良かった。あの日のことを思い出していただけただけでも、今回アングルまで来た甲斐がありました」

「……ごめんなさい、ギョーム様……」

「良いのですよ。久しぶりにこんなに笑いました」

 確かにすっきりとした表情でギョームが笑いかけ、キリエもつられて笑顔を見せる。その笑顔に、ギョームは目を輝かせて身を乗り出した。

「やはり、あなたには笑顔の方が似合う」

 キリエは、思わず言葉を失って若獅子王を見上げた。


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