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女王キリエ  作者: カイリ
第6章 初恋
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第6章「初恋」第4話

キリエの縁談に賛否が分かれ、王都は不穏な空気に包まれる。そんな中、ジュビリーに再婚を勧める者も後を絶たず、ついに……。

 四月の始め、プレセア宮殿の大廊下に、大勢の男たちの一団が練り歩く光景が見られた。貴族や召使たちは皆好奇の視線で見守っていたが、この男たちは晴れて聖女王騎士団の入団が許された者たちだった。各方面への挨拶をするためにこうして宮殿を訪れ、人々に堂々たる姿をこれ見よがしに見せつけている。

 報せを聞きつけたエヴァがいそいそと大廊下へと走り、男たちの行進を見つめる。エセルバートはいるのだろうか。選ばれた騎士たちには、若い者もいるが見るからに百戦錬磨といった壮年が多い。皆逞しい体格を誇り、精悍な顔付きで眼光も鋭い。エヴァは少し気後れしながらも高鳴る胸を押さえ、視線を彷徨わせた。その時。

「レディ・エヴァ!」

 聞き覚えのある声と同時に、一団の中から一人の若者が飛び出す。

「エセルバート様……!」

 彼は人差し指で唇を押さえると、エヴァの腕を取り、大廊下に通じるいくつもの細い通路の一つに彼女を連れ出す。そして、耳元に口を寄せると興奮した声色で囁く。

「入団が決まりました」

 エセルバートの晴れやかな笑顔にエヴァは喜びの表情になる。と、彼は不意にエヴァを抱きしめた。一瞬、息が止まる。そして、かっと顔が熱くなっていくのがわかる。エヴァは震えながらエセルバートの名を囁いた。が、彼は黙ったままだ。エヴァの脳裏に婚約者の顔がよぎる。彼女は顔を歪め、震える手でエセルバートの背をそっと抱いた。


 その頃キリエの執務室では、セヴィル伯と共に会議の打ち合わせをする女王の姿があった。

「会議の後、聖女王騎士団の謁見がございます。結団式は後日行われます。それから……、ギョーム王のご来航の日取りが正式に決定いたしました。四月十五日……、ホワイトピークに到着予定です」

「……わかりました」

 強張った表情で頷くとキリエは書類に目を落とす。

「……警備には念を入れるよう……」

「承知いたしております。それで……、沿岸警備の予算と、各沿岸の要塞の修復計画が、うまく調整できていないようで……」

「防衛予算を削るわけにはいきません。宮廷費を削減しましょう」

「はっ。では、会議でそのように……」

 キリエが薬湯を飲み干し、一息つく。その横顔を見守っていたセヴィル伯は少し思い詰めた様子で口をつぐんでいたが、やがておずおずと身を乗り出す。

「あの……、陛下、私事で申し訳ないのですが……」

「何?」

 セヴィル伯は緊張した面持ちで、言いにくそうに切り出した。

「実は……、私の姪がこの度連れ合いに死なれまして……」

 キリエの眉がぴくりと吊り上がる。いつもの彼女なら驚いて弔意の言葉を述べるはずだ。

「それがまだ二八歳で……、よろしければクレド候にご紹介いただければ……」

「伯爵!」

 キリエの鋭い声にセヴィル伯と、背後に控えた侍従が飛び上がる。伯爵はうすうす予想していたのか、即座に頭を下げた。

「も、申し訳ございません、陛下……!」

「何故私に言うのです!」

 キリエは金切り声で叫ぶと、さっと立ち上がった。

「ご夫君を亡くされたばかりの姪御に再婚相手を探すことが、思いやりですか? それに、ジュビリーが再婚の話をずっと断り続けていることを、知らないあなたではないでしょう!」

「お許しを……! 陛下……!」

 必死に頭を下げるセヴィル伯に、キリエは大きく深呼吸を繰り返して怒りを静めようとする。ごく近しい側近の一人であるセヴィル伯にまでこんな話を持ちかけられるとは思わなかったキリエは、苛立たしげに頭を振った。

「本当に姪御の幸せを願うなら、あなたが直接ジュビリー……、いえ、クレド侯に仰って。でも、彼を煩わせるだけならそんなことはやめて、お願い……!」

「承知いたしました。申し訳ございません……!」

 セヴィル伯が微動だにせずに頭を下げ続ける中、侍従が恐る恐る声をかける。

「……陛下、皆様がおいでです……」

 キリエはもう一度息を吐き出すと震える手でこめかみを押さえる。

「……陛下」

 心配そうにセヴィル伯が声をかける。キリエはしばらく肩を震わせていたが、やがて蒼白の顔を上げた。

「……お入れして」

「しかし……」

「お入れして!」

 侍従は息を呑んで扉へ向かった。執務室に入ってきた途端、最初に入室したジュビリーが女王のただならぬ表情に顔をしかめる。

「……陛下?」

 キリエは何も語らぬまま、顔を横に振る。やがてセヴィル伯や侍従たちがそそくさと執務室を退出していく。緊迫した室内に残された男たちはジュビリー、ジョン、レスター、モーティマーの四人。

「……何があった?」

「何も」

 キリエの尖った声に、ジョンとレスターが顔を見合わせる。ジュビリーが何か言いかけるが、険しい表情のまま口を閉ざす。

「……始めてもよろしいでしょうか」

 恐々とした表情でジョンが切り出し、キリエは無言で席に着いた。男たちも静かに着席する。

「……聖女王騎士団の編成が終了し、これからお披露目が行われます。予定では結団式は今月十日に行います」

「その五日後ですな、ギョーム王がご来航予定です」

 レスターが目を細めて書類に顔を寄せる。

「ホワイトピーク公のお話では、すでにお迎えの準備を完了しているとのことです。ここのところ海賊の出没も多く、ルール公による戦闘も頻発していることから、警備体制は万全にせねばなりますまい」

「エスタドにも密偵を放っている。ガルシア王の動きにも充分警戒せねばならん」

「沿岸警備の件ですが……」

 ジョンが難しい顔つきで身を乗り出す。

「不定期に出没する海賊には、フィリップ・ソーキンズが率いる私掠船団が対応しておりますが、いつ何時エスタド軍が襲撃してくるか予断を許しません。そのために沿岸の要塞の修復や強化が急務なのですが……」

「倹約と、財源の確保が必要でございます」

 皆の報告に耳を傾けてはいるものの、実際には身が入らないキリエは思い詰めた表情で俯いたままだった。そんなキリエの態度が気になって仕方がないジュビリーがそっと体を乗り出す。

「……キリエ?」

 はっとした表情で顔を上げると、キリエはとってつけたように頷く。

「宮廷費を……、削減しましょう。宮廷は、まだまだ贅沢です」

「しかし、宮廷は外交の現場でもございます。ギョーム王もいらっしゃることですし」

 レスターの言葉に、キリエは妙な間を置いて「えっ」と聞き返す。

「キリエ」

 ついにジュビリーが強張った顔つきで呼びかける。

「何があったのだ」

「何もないわ」

 キリエも顔を引きつらせて言い返す。

「今話していることはアングルだけではない、おまえ自身のことだ」

「わかっているわ。何も異存などないわ」

 おおよそキリエらしくない言葉にジュビリーは苛立たしげに目を眇める。

「何が気に入らないのだ。何があった」

「何も……、何もない……!」

「キリエ」

 思わず声を高めるジュビリーの肩を、ジョンが慌てて押さえる。

「落ち着いて下さい、義兄上」

「キリエ様、何があったのですか? 先ほどのセヴィル伯の様子といい……」

「何もありません!」

 キリエが泣き出しそうな表情で叫び、益々ジョンとレスターが戸惑う中、ジュビリーはついに立ち上がるとキリエに詰め寄った。

「何もないわけがなかろう。わかるように説明しろ。一体……」

 ジュビリーが更に言葉を続けようとした瞬間。

「あなたにはわからないわ!」

 がたんと椅子が倒れる。席を立ったキリエの叫びに一同は言葉を失った。目に涙を溜めて見上げてくるキリエに、ジュビリーは息を呑んで凝視する。

「わ……、私の気持ちなんか……、わからない!」

 キリエはそう叫ぶと扉を開け放って執務室を飛び出した。

「キリエ!」

「陛下!」

 モーティマーが慌ててキリエの後を追うが、広い廊下にキリエの姿はなかった。

「ど、どちらへ?」

 宮廷には、緊急避難のための隠し扉や隠し通路がいくつもある。その中のひとつを使ってキリエは姿を眩ましたのだ。暗い隠し通路を無我夢中で走り抜け、突き当たりの扉を押し開ける。侍従や召使に見つからぬよう息を潜めて階段を駆け下りる途中、ふと足を止める。クレド城からこうして逃げ出したことがあった。異母兄エドワードの暗殺を告げたジュビリーに恐れをなし、夕闇の迫る城から脱出し、ロンディニウム教会までひた走った。キリエは唇を噛み締めた。あの日クレド城から逃げ出したことで、悲惨な結末が待っていた。ロレインを殺したのは、自分勝手な振る舞いをした自分だ。もう逃げないと、決めたではないか。だが……。

 キリエは自分の頬に涙が流れていることに気づき、手のひらで拭った。情けなかった。自分の感情を抑えられず、心配してくれる者たちの真心を踏みにじるような言葉を投げつけた。だが、我慢できなかった。どうしようもできない。

 とぼとぼと当てもなく歩いていると、人々のざわめきが遠くから聞こえてくる。そして、このままだと大廊下(ギャラリー)に突き当たることに思い当たった。廷臣や貴族たちが多く行き交う大廊下で、側近や侍従を連れずに女王が姿を現せば騒ぎになるだろう。キリエは憂鬱そうに溜め込んだ息を吐き出し、狭い通路を引き返そうとした、その時。涙でぼやけた風景の中に、キリエは見覚えのある人物の姿を目にしてはっとした。そして、慌てて傍らの調度品に身を隠す。

 目に飛び込んできたのは、見知らぬ若者と抱き合うエヴァンジェリン・リードの姿だった。若者がエヴァの腰に手を回し、耳元で何か囁いているようだ。キリエは息を潜め、見てはいけないと思いつつもその光景から目を離せないでいた。

「……誰かに見られたら……」

 エヴァが押し殺した声で囁く。

「誰かって……、誰です?」

 エセルバートの囁きに、エヴァは苦しげに目を閉じる。

「……女官長は、私に婚約者がいることを……、ご存知です」

「いませんよ」

「……エセルバート様」

 吐息混じりの囁きに、エセルバートはエヴァの頬を撫で上げた。

「ここには誰も……、いませんよ」

 エセルバートの温かな手の感触にエヴァはぞくりと震えが走った。そして、彼はゆっくりと唇を寄せた。

 キリエは思わず声を上げそうになると慌てて口元を押さえた。そして、ゆっくり後ずさると、さっと踵を返して今来た道を引き返した。


 その頃、ジュビリーは侍従たちを使ってキリエの行方を捜していた。いつもは聞き分けの良いキリエがあんなに取り乱す姿を久しぶりに見たジュビリーは、胸騒ぎを抑えきれないでいた。騒ぎを聞きつけたセヴィル伯が青い顔で駆けつける。

「侯爵……! 陛下は……!」

「まだ見つかっておらん」

 そして、鋭い目つきで宮廷侍従長を睨み付ける。

「何があったのだ」

「……申し訳ございません」

 セヴィル伯は顔面蒼白で呟き、うな垂れた。

「実は……、陛下に、私の姪とクレド侯を娶わせたいと申し出て……」

 ジュビリーが思わずかっとなって身を乗り出すが、唇を噛み締めて踏みとどまる。

「馬鹿者めが……!」

「お許しを……!」

 ジュビリーが頭を振って息を吐き出す。モーティマーが息を弾ませて駆け寄ると、ジュビリーに耳打ちする。

「薬草園にはおられません」

「……何処へ……」

 ジュビリーは目を細めて呟いた。彼の脳裏にも、キリエがクレド城を逃げ出したことがまざまざと蘇る。彼女はそのままロンディニウム教会に逃げ帰り、結果的にレノックスの手に落ちた。そして、そこで忘れたくとも忘れられない傷を負った。ジュビリーは悔しげに拳を握り締めた。あの時キリエが逃げ出したのは、伝えなくてはならないことを伝えず、彼女を怯えさせたからだ。今も同じだ。もっと普段から言葉を交わしていれば気持ちのすれ違いは防げたはずだ。だが、怖かったのだ。互いの本心に触れることが、恐ろしかったのだ。もう逃げないと、互いに約束したではないか。

 その時、ジュビリーは眉間の皴を寄せた。そうだ。約束したのだ。キリエの側から離れない。側にいると、あの日誓ったのだ。


 どこをどう歩いたか、キリエ自身もわからないまま、気がつくと彼女は鐘楼への階段を昇っていた。王位宣言をしたあの日、ジュビリーと共に昇った鐘楼だ。長い長い階段を無心で昇り、重たい扉を押し開ける。まだ薄寒い風がさっと流れ込み、キリエは体を震わせた。鐘楼では、打ち鳴らす人を待つ鐘が寂しげに揺れている。

 ゆっくり壁際まで歩み寄ると、キリエはイングレスの街を見下ろした。あの日、ここでジュビリーと同じ風景を眺めた。あの時彼は約束してくれた。「おまえの側を離れない」と。

 キリエの脳裏に、先ほどのセヴィル伯とのやり取りが蘇る。そして、戴冠式の祝宴で多くの女性に囲まれていたジュビリーの姿も。あの頃から再婚を勧める者は多かったが、その動きは留まることなくむしろ益々増えていった。皆が、自分からジュビリーを取り上げようとしている。そうとしか受け取れなかった。自分の手が届かない場所へ連れ出そうとしている。そんなことは、絶対に許さない。だが。

(ジュビリーは、再婚しない)

 キリエは胸の中で呟いた。彼が黒衣をまとっている間は。彼の心の中に、エレオノールが存在している間は。キリエは顔を歪めて胸を押さえる。

 何故、それを思うたびに胸が苦しくなるのだ。何故こんなに胸が締め付けられる? どうして……。自分が理解できない感情。今まで知りえなかった苦しみ。キリエは怯えた。どうしてこんなにも心が乱れるのだ。まるで、自分が自分ではない感覚に、彼女は慄いた。

「……誰か、助けて……」

 そっと口に出して呟いてみる。その時、キリエの脳裏に先ほど目撃したエヴァの姿がよぎり、どきりとする。誰かに抱きしめられていた。エヴァの表情ははっきりとはわからなかったが、嫌がる素振りは見えなかった。二人の抱き合う姿が、自分とジュビリーに重なる。不安な時。傷ついて絶望した時。彼はあんな風に自分を抱きしめてくれた。そうやって、自分を守ってくれた。言葉はなくとも、側にいるだけで良いのだ。それだけで、自分がどれだけ救われてきたか。ギョームでは駄目なのだ。ギョームでは……! キリエが息を押し殺し、嗚咽を漏らした時。不意に背後で扉が開く音がした。

 飛び上がって振り返ると、そこには黒衣の宰相が佇んでいた。キリエは言葉を失ってその場に立ち尽くした。ジュビリーがゆっくり歩み寄り、思わず後ずさるキリエに彼がさっと手を上げる。

「待て、聞いてくれ」

 キリエが息を殺して相手を見つめる。彼は再びゆっくりと歩み寄った。目の前までやってくると、しばし見つめ合う。やがて、ジュビリーは躊躇いがちに口を開いた。

「……おまえは、教会から連れ出されて以来、私や周囲に怯えながらもくじけずについて来てくれた」

 抑えた口調で静かに語られる言葉に、キリエはじっと耳を傾けた。

「不安や不満もあっただろうが、口に出さず、素直に言うことを聞いてくれた。たまに頑固なところもあるが、それだけ強くなった証だ。普段は聞き分けも良いし、手もかからない。だから、ずいぶんと助かった。……知っての通り、私は言葉が足りないし、気遣いもできない。だから、その……」

 ジュビリーの言葉が次第にしどろもどろになる。キリエはそれでも黙って辛抱強く彼を見つめた。彼がここまで雄弁に語ることなど、今までにはなかった。

「……早く言えば、おまえの機嫌が悪いと、どうすればいいかわからない。だが……、私はいつもおまえの一番の理解者でありたい」

 理解者。その言葉にキリエの胸が詰まる。

「もちろんおまえも人間だ。感情を抑えられない時もある。機嫌を損ねるなとは言わない。宮廷はクレドの城と違っていろんな人間が集まる。自分を飾ることも、偽ることも必要になるだろう。だが、本当のおまえは変わることがないと信じている。……私もだ。私も変わらない」

 変わらない。ジュビリーはそう信じてくれている。だが、明らかに自分は変わった。キリエはにわかに背筋が凍りついた。

「……わ、私……」

 キリエは震える声で囁いた。

「私、自分が、わからない」

「……キリエ」

 譫言のように口ごもりながら呟くキリエに、ジュビリーの目が哀しげに細められる。

「私、何をしたいのか、何を考えているのか、わからない。自分のことなのに……!」

「落ち着け」

 眉をひそめ、そっとキリエの両肩に手をかける。

「不安なことだらけだ。自分を見失いそうになるのはわかる。だが、自分を信じろ」

「じ、自分がわからないのに? わからないのに、自分を信じろだなんて……!」

 怯えた口調でまくし立てるキリエを、そっと抱きしめる。キリエは息を呑んだ。胸が張り裂けそうになり、苦しげに顔を歪める。

「……ジュビリー……!」

「キリエ」

 キリエの小さな手がぎゅっと抱き締めてくる。

「お願い……、ずっと側にいて……。ずっと、私の隣にいて……! お願い!」

 ジュビリーは思わず顔を歪めた。まるで、キリエの剥き出しの心を抱いているような感覚に、胸が痛む。彼は目を閉じ、抱いた手に力を込めた。


 その後、何とか落ち着きを取り戻したキリエは、聖女王騎士団との謁見や御前会議を無事に終えた、かのように見えた。しかし、実際には言葉にできない胸騒ぎは治まることがなく、その日一日は悶々とした気分で過ごした。

 一日の執務を終え、疲れ果てたキリエのために温かいミルクを用意しようとしたエヴァだったが、そのぎこちない手つきにキリエが眉をひそめる。

「……エヴァ?」

「も、申し訳ございません」

 視線を合わせようとしないエヴァは強張った顔つきで詫びる。キリエは昼間に見かけたエヴァの姿を思い出して妙な胸騒ぎに襲われた。それと同時に嫌な予感が頭をもたげる。相手が婚約者ならば、もっと嬉しそうにしてもよさそうなものだ。男女の機微などわからないキリエでも、それぐらいのことは想像できる。それとも、真面目なエヴァのことだから、宮廷の一角で人目を憚る行為をしたことに罪悪感を抱いているのだろうか。キリエは、思い詰めた表情の友人に思い切って呼びかけた。

「……エヴァ。もしかして、婚約者と何かあったの?」

 予想もしていなかった女王の言葉に、エヴァは弾けるようにして顔を上げた。そして、見る見るうちに顔から血の気が引いてゆく。キリエは慌てて言い繕った。

「ごめんなさい。今日、殿方と一緒におられるところを見かけたから……」

「……ご、ご覧になられたのですか」

「……偶然通りかかったの。でも、誰にも言ってはいないわ……」

「陛下ッ!」

 突然エヴァは叫ぶとその場にひれ伏した。

「エヴァ?」

「お許し下さい、陛下……! 女官長には、秘密にして下さいませ……! お願いいたします!」

「ど、どういうこと?」

 慌ててキリエはエヴァの手を取ると椅子に座らせる。

「何故、マリーには知られてはならないの」

「……女官長は、私に婚約者がいることをご存知です」

 わけがわからないキリエは不安げに顔をしかめる。エヴァは泣きだしそうな顔で囁いた。

「……あのお方は、婚約者ではございません」

 キリエの両目が見開かれる。

「これが知れたら……、私は密通罪に問われます……」

 顔を覆うと声を上げて泣き出したエヴァの肩を恐々と撫でながら、必死に呼びかける。

「どういうことなの。あのお方は、誰?」

 涙を拭い、肩を震わせながら顔を上げると、エヴァはか細い声で呟いた。

「馬上槍試合の会場で知り合ったお方です。私……、あのお方に、恋をしてしまいました」

 キリエは無言で息を呑んだ。恋。甘く優しいはずのこの言葉が、今のキリエには鋭利な刃物のように胸に突き刺さる。

「……お相手は、あなたが婚約中だということを、ご存知なの?」

 エヴァは涙ぐみながら頷いた。思わずキリエも泣きだしそうな顔つきで囁く。

「どうして……!」

 キリエの問いかけにしばらく黙っていたエヴァだったが、やがて小さく呟いた。

「……恋が、したかったのです」

 その言葉の意味がわからず、キリエは眉をひそめる。

「私の婚約者は……、アルバート・グラスヒル子爵です」

「……グラスヒル?」

 聞き覚えのある名前にキリエは顔をしかめた。が、瞬間、大廊下でエヴァと立ち話をしていたグラスヒル子爵の姿が脳裏に蘇る。しかし、彼はどう見ても四十代後半に見えた。

「子爵の、ご子息?」

「いいえ。……子爵ご本人です」

「ま……、待って。どういうこと……!」

 両目を大きく見開き、戸惑う女王にエヴァは悲しげに目を伏せる。

「……彼は五十歳。私とは、三五の歳の差があります」

 三五歳といえば、親子以上の歳の差だ。

「双方の家に事情があって……、私が嫁げば解決するそうです。難しいことはわかりませんが、グラスヒルの領地争いが関わっているそうです」

「……そんな……」

 キリエは信じられないといった顔つきで顔を振る。

 キリエが育った村では、村人同士の結婚は比較的自由で、よく教会でも幸せな結婚式が行われていた。だが、時々身分の違いで結婚を阻まれた恋人たちが、旅の途中でロンディニウム村に逗留していくことがあった。子ども心に、彼らの荒んだ顔は胸に刻み込まれている。

「……私が嫁ぐことで皆が幸せになれるならと、婚約を承諾しました。……子爵は、とても優しいお方です」

 エヴァの言葉に、キリエは以前二人で交わした言葉を思い出した。

(自分を守ってくれる優しい男性と結婚したい)

 その言葉には複雑な思いが込められていたのか。

「私が婚約を承諾すると、子爵はとても喜び、そして、感謝してくれました。それで……、一つだけお願いを申し上げたのです。辺境の地グラスヒルに嫁ぐ前に、一度華やかな王都で暮らしてみたいと」

 グラスヒルは北アングル地方の高地に位置しており、イングレスからは馬を使っても三日はかかる。

「子爵は、願いを聞き入れて下さいました。一年間の猶予をいただき、宮廷で出仕できるように取り計らって下さったのです。そして、私の叔母がかつて女官として出仕していた御縁で、こうして陛下のお側でお仕えできるように……」

 エヴァがプレセア宮殿にやってきた経緯には、こんな理由があったのか。キリエは、無念そうに目を閉じる。だが、エヴァが言うように、確かにグラスヒル子爵は温厚で誠実な印象を受けた。

「子爵は、本当に優しくて良いお方です。でも……、心のどこかで、結婚する前に恋をしたいと……」

 結婚する前に恋を。その言葉はキリエの胸に深く刺さった。まるで冷水でも浴びせられたかのように、彼女は小刻みに震えた。結婚する前に、恋を……。

「……エヴァ」

 キリエは彼女の手を両手で握りしめると囁いた。

「私は……、誰にも言わないわ。でも、教えて」

 エヴァが眉をひそめて顔を上げる。大きく見開いた女王の目は涙で濡れ、眉間には深い皺が刻まれている。

「……恋をしたら、どうなるの? どんな風になるの……?」

 キリエの押し殺した囁き声に、エヴァはわずかに息を呑む。

「修道女にとって恋は……、罪悪だわ」

「……陛下」

「でも、もう、誰も……、私を修道女だとは思わない」

 だからこそ、ギョームはキリエに求婚したのだ。各国の王子たちの前でダンスを申し入れたのも、キリエが田舎の修道女ではなく、アングルの女王であることを知らしめる意味があった。エヴァは小さく頷いた。

「恋は、苦しいです」

「……苦しい?」

「あの方に会える。あの方に会えない。何を思っても、胸が張り裂けそうで……、締め付けられるようで……。苦しいのです」

 キリエの胸が早鐘のように打ち鳴らされる。それは、ジュビリーを思う時と同じではないか……。

 彼と一緒にいると、満ち足りた安心感と幸福感で一杯になった。だが、プレセア宮殿では側にいても目に見えない壁に阻まれている。ギョームが求婚してからは特にそうだ。彼に会えない時。側にいても距離を感じる時。そして、彼の胸の内を思う時……。思わず目をぎゅっと閉じて顔を伏せる。

「……苦しいわ」

「陛下……」

「私も……、苦しいわ……」

 消え入るような小さな囁きに、エヴァは黙ってキリエの手を握りしめた。


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