第6章「初恋」第2話
〈聖女王騎士団〉の立ち上げに伴い、王都イングレスで大規模な馬上槍試合が開催される。ギョームとの縁談に心が揺れるキリエは、束の間憂いを忘れるが……。
アングル沿岸に海賊の出没が増えると共に、レノックスの軍勢がルール公領だけでなく、各地に神出鬼没に現れて戦闘を引き起こす日々が続き、プレセア宮殿では緊迫した空気が流れていた。三月に入り、ようやく春の息吹が感じられ始めた頃、馬上槍試合の開催についてジョンはジュビリーの執務室を訪れた。
「思った以上に人数が集まりそうです」
以前と比べて一層思慮深くなり、ただの好青年といった佇まいから精悍な顔立ちへと変貌したジョンは、計画書に目を通しながら熱っぽく語った。
「大陸から参加したいとの申し出がかなりあったのですが、安全上、原則的には国内の騎士に限定いたしました。参加希望者は……、驚かないで下さいよ。千人です! しかし、基本的な技量や身元の調査で三割程はふるい落としましたが……。うまくいけば来月にはトーナメントを開催できそうです。最終的には三百名程度で騎士団を構成したいと考えています。名称も決定しました。〈聖女王騎士団〉。どうです?」
そこまで語って、ジョンは不意に口をつぐんだ。義兄は頬杖をついたまま眉間に皴を寄せ、黙り込んでいる。ジョンは腰を屈めて「義兄上」と呼びかけた。
思わず目を見開いて顔を上げるジュビリーに、ジョンは小さく息をつく。
「キリエ様のことで頭が一杯ですね」
「……いや」
ジュビリーは暗い表情で口ごもるが、ジョンは小さく顔を横に振る。
「わかっていますよ。今回のことで、一番心を痛めておいでなのは義兄上ですから」
ジョンは書類を机に置き、窓から外を眺めた。広大なプレセア宮殿は多くの建物がひしめき、クレドのようなのどかな田園風景は望めない。そんな環境に一番息苦しい思いをしているのはキリエだろう。ジョンはそっとジュビリーを振り返った。
「義兄上は……、どうなさるおつもりなのですか」
答えようとしないジュビリーにジョンは顔を強張らせ、まっすぐ視線を投げかける。
「私は反対です。キリエ様のお気持ちに反することなど、したくありません」
「……ジョン」
「考えてもみて下さい。キリエ様は教会を出られて、まだ二年足らずですよ? 俗世での未知の出来事に翻弄され続け、心を大きく傷つけられながら、ようやく女王に即位されたばかりなのに……。キリエ様は生まれながらの修道女なのですよ。結婚など、到底受け入れられないでしょう。……それに、キリエ様はきっと、義兄上を」
「ジョン」
言葉を遮られ、ジョンは黙り込んだ。ジュビリーは顔を上げ、亡妻の弟を見つめた。その瞳に悲痛な思いを見て取ったジョンは、思わず顔を歪めた。
「私はベネディクトと約束したのだ。命がある限り、キリエの側を離れないと。……破るために約束をしたわけではない……!」
ジュビリーはそう呟くと辛そうに目を伏せ、机の上で拳を握り締めた。
「……だが、こんなにも早く、約束を破る日が訪れるとは……」
「義兄上……!」
慌てたジョンに対し、ジュビリーは力なく頭を振る。
「……努力は続ける。私とて、キリエを犠牲にしたくない」
ジョンは、沈痛な面持ちでジュビリーを見下ろした。彼はこんなにもキリエを想っている。何故、苦しまなくてはならないのだ。いつでも天に祈りを捧げ、人々のために戦ってきたキリエが、何故こんな仕打ちを受けなければならないのだ……。ジョンは、不安げに再び窓から空を見上げた。
ジョンが綿密な計画を立てた馬上槍試合がついに始まった。王都イングレスに集結した大勢の騎士たちはイングレス郊外で大規模な団体戦で篩にかけられ、勝ち残った五百名がプレセア宮殿での一騎打ちによる試合に臨んだ。ジョンの構想では三百名編成の騎士団だったが、技量を見極めるため、特に選ばれた百名が女王陛下の御前で一騎打ちの戦いを披露する栄誉が与えられた。
会場となる、プレセア宮殿の後方に広がる広大な騎兵演習場は市民にも開放され、戴冠式以来のお祭に市民は大挙して押し寄せた。
中央に設けられたテント席に女王キリエとその側近たちが席についている。賑やかなお祭騒ぎにもかかわらず、キリエはどこか伏し目がちだった。エレソナに殺されかけた記憶を持ち、短いながらも戦場に身を置いた経験のある彼女にとって、武器や鎧がぶつかり合う音に身が竦む思いだったのだ。それでも、彼女の一挙手一投足に市民が歓声を上げ、そのたびに女王は笑顔で手を振った。やがて、華やかな飾りを施された甲冑姿のグローリア伯ジョン・トゥリーの雄姿を目にしたキリエがようやく笑顔になる。
「立派ね」
キリエにそう囁かれ、マリーエレンは少し恥ずかしそうにはにかむと頷いた。そして、どこか誇らしげな目でジョンを見守る。
「それにしても、すごい人ですね」
後ろに控えたエヴァンジェリン・リードが少し興奮した面持ちで呟く。
「皆、女王陛下のために命を賭して戦うことを望んでいるのよ。頼もしいわね」
マリーがエヴァに囁き、幼い侍女は夢見るような表情で頷く。
馬上槍試合の開始が華々しく宣言されると、三組ずつ、テント席の前で一騎打ちの試合が始まった。
致命傷を与えないよう覆いをかぶせられた槍を手に、騎士らは雄叫びを上げ、巧みに馬を操り、まるで舞でも舞うように戦いが繰り広げられる。馬たちが交錯し、激しく槍が打ち合わされる。騎士によっては、槍だけではなく、剣や鎚で戦う者もいる。騎士の雄叫び、馬の嘶き、武器が鋭い音を立てるたびにキリエはびくりと体を震わせた。そんな彼女を隣のジュビリーが少し心配げに見つめる。
「……大丈夫か」
宰相の囁きに女王は小さく頷くが、キリエの浮かない表情は剣戟のせいだけではないと、ジュビリーにはわかっていた。
一人の騎士が落馬し、大きなどよめきが上がる。別の組み合わせでは勝者が誇らしげに槍を天に突き立てる。しばらく騎士たちの戦いぶりを見守っていたが、そのうちマリーがエヴァに耳打ちする。
「そろそろ休憩に入るわ。準備を」
「はい」
エヴァは頷くとそっと席を立った。
演習場の地面は多くの騎馬に蹴立てられたことで凸凹に掘り返されており、エヴァは轍に足を取られないよう慎重に足を運んだ。ドレスの裾をつまみ上げ、ゆっくり歩いていると、突然男の声で呼びかけられる。
「レディ!」
びっくりして振り返ると、テントの前に兜を脱いだだけの甲冑姿の若い騎士が手招きしている。
「失礼。医者を探しているのですが……」
恐る恐る歩み寄る。騎士の影には、十歳ぐらいだろうか、小姓の少年が膝から流れる血を必死に押さえている。
「連れが怪我をしてしまいまして」
「まぁ」
エヴァが眉をひそめて声を上げる。少年は唇を噛みしめて痛みに耐えている。
「あちらに救護テントがあります。私、呼んでまいります!」
騎士の返答を待たずにエヴァは走り出した。救護テントにはかなりの数の怪我人が集まっており、野戦病院のように慌ただしかったが、医師の一人が、エヴァが女王付きの侍女であることに気づいた。エヴァが医師と共に騎士の元へと戻ると、医師は手際よく手当てを始めた。
「ありがとうございます。助かりました、レディ……」
騎士の言葉にエヴァは笑顔で顔を振る。
「私はレディではありませんわ」
だが、騎士は顔をほころばせると跪いてエヴァの手を取った。騎士の思わぬ行動に彼女は息を呑む。
「私はジョージ・エセルバート。あなたは?」
「……エヴァンジェリン・リードです。皆からはエヴァと呼ばれています」
「ありがとうございます、レディ・エヴァ」
柔らかな栗毛に、大きなグレイの瞳。人懐っこい笑顔にエヴァは思わず吸い込まれるような感覚を覚えた。エセルバートはゆっくり立ち上がる。
「今から試合なのですが、小姓が怪我をしたままでは気になって集中できなくなるところでした」
「あなたも……、騎士団をご希望されていらっしゃるのですか?」
「ええ」
年齢は二十歳そこそこといったところだろうか。エセルバートは、治療を終えた医師に深々と頭を下げて見送った。
「アングル中の騎士がここイングレスに集結しているのです。自分の腕も試せる。その上女王をお守りできる騎士団に入団できれば、こんなに嬉しいことはありません」
少し興奮した口調で語る騎士を、エヴァは目を輝かせて見つめた。
「あなたのような夢を持ったお方が入団されたら、きっと女王陛下もお喜びになりますわ」
「だといいのですが」
「ジョージ様、そろそろ……」
まだ痛みに顔を歪めながらも、少年が声をかける。
「本当にありがとうございました。レディ・エヴァ」
「ご武運を」
槍を担ぎ、歩きかけてからエセルバートは振り返った。
「またお会いしましょう」
「……ええ」
エヴァの返事に相手は嬉しそうに微笑むと踵を返した。エヴァは、騎士と小姓が立ち去っていく姿を黙って見送った。思わずドレスの裾を握りしめ、高鳴る胸の鼓動を鎮めようとしながら。
一日中賑やかな馬上槍試合が繰り広げられた後、夜はプレセア宮殿で晩餐会が開かれた。廷臣や貴族だけでなく、試合の上位入賞者も招かれ、戴冠式の祝宴に比べるとどこか雑多な空気が流れている。
天井には趣向を凝らした見事なシャンデリアが煌めきを放ち、会場のテーブルには様々な料理が供され、軽やかな音楽が奏でられている。キリエが普段豪奢な生活を好まないため、いつもは落ち着いた雰囲気の宮殿も、今夜はさすがに華やかに盛り上がっていた。
ジュビリーは前回の祝宴で懲りたのか、晩餐が始まると女王の隣に早々と「避難」していた。しかし、隣にいながらも相変わらず気まずい空気が流れ、キリエは自分たちに向けられる無言の視線にも居心地の悪さを感じていた。やがて気まずい沈黙を破り、キリエは正面を向いたまま呟く。
「……今夜はジョンが忙しそうね」
キリエの言葉にジュビリーが頷く。馬上槍試合の実質的な開催者であるジョンには、挨拶に訪れる者が途切れない。だが、宰相ジュビリーの様子を伺う者も多い。
「皆、あなたが一人になるのを待ってるわ」
「御免被る」
ジュビリーが即座に言い返し、キリエはくすりと笑った。彼女の表情がゆるむのを久しぶりに見た気がして、ジュビリーは思わず振り返る。すると、キリエは近くで控えていたモーティマーを手招きした。
「……サー・ロバート、お願い」
「承知いたしました」
その場を立ち去るモーティマーの背中を見送りながら、ジュビリーが眉をひそめる。
「どうした」
だがキリエはいたずらっぽい目でジュビリーを見つめるだけだ。やがて、モーティマーがジョンとマリーを連れて戻る。
「お呼びでしょうか、キリエ様」
ジョンの言葉にキリエはただ微笑むだけで、彼とマリーは不思議そうに顔を見合わせる。と、モーティマーが楽士たちに合図を送り、舞踏の曲が始まる。とたんに大広間は一層華やぎ、あちこちでダンスの組が出来上がる。キリエがそっと身を乗り出して囁く。
「二人で踊って」
「えっ?」
ジョンとマリーが思わず目を丸くする。ジュビリーも目を見開いてキリエを見つめる。
「ほら、早くしないと邪魔が入るわ」
その言葉でキリエの意図を察したものの、ジョンは息を呑んで義兄を凝視する。相変わらず仏頂面のままジュビリーが目で促し、ジョンは緊張した面持ちでマリーと向かい合った。
「……踊っていただけますか」
マリーは微笑を浮かべ、キリエと兄にちらりと目を向けてから右手を差し出した。手を取り合う二人のために人々が道を開け、華やかな歓声が上がった。
大広間の中央で美しいダンスを披露するジョンとマリーは、確かに似合いのカップルだった。しばらく二人を楽しそうに眺めていたキリエだったが、ジュビリーの視線に気づいて振り返る。
「レスターじゃないわ。私が思いついたのよ」
嬉しそうな笑顔で囁くキリエに、ジュビリーもわざとしかめっ面をしてみせる。
「……もう、そろそろいいんじゃないの?」
二人の様子を見つめながらキリエが呟く。
「でも……、仕方ないかしらね……。あなたにとってマリーは、妹というよりも娘のような存在でしょう? 手放したくないわよね」
ジュビリーはキリエをそっと見つめた。シャンデリアの揺らめく明かりに照らされた彼女の横顔は、以前と比べるとずいぶんしなやかな強さを感じさせる。だがその表情の下には、抑えきれない不安と孤独が見え隠れしている。手放したくないのは、おまえも一緒だ。だが、口が裂けてもそんなことは言えない。自分は……、欲張りだろうか。そんなことを考えていると、キリエが振り向くと首を傾げて身を乗り出してくる。
「ジョンならいいでしょう?」
「ジョンでなくてはならん」
ジュビリーの即答にキリエは嬉しそうに微笑み、二人は思わず黙ったまま見つめあった。こうして目を合わせるのはずいぶん久しぶりのような気がする。だが、キリエは不意に目を潤ませると顔を伏せた。
一方、女官長マリーエレンとグローリア伯爵のダンスを憧れの眼差しで見つめる者がもう一人いた。
「……さすがね」
侍女仲間が囁き、エヴァも目を奪われたまま頷く。ジョンとマリーは緊張しながらも喜びを噛みしめるように微笑みを浮かべ、優雅な旋律に身を任せている。
貴族の子女の結婚適齢期といえば、十代後半から二十代半ば。マリーは今年で三十歳になるが、とてもそんな歳には見えない。兄嫁エレオノールの事件のために、持ち上がっていた見合い話が破談になってからも、「嫁に」と望まれる声がなかったわけではない。だが、マリーは縁談を断り続けた。ジョンは「義兄上を支えるため」と解釈していたが、もちろん理由はそれだけではなかった。
姉とジュビリーの縁談が持ち上がった時から、ジョンは三歳年上のマリーに心を惹かれていた。美しさもさることながら、聡明で朗らかな彼女は、身分の異なる自分にも優しく接してくれた。彼は強烈な憧れを抱いたが、相手は義兄であり、主君でもある男性の妹。しかも名門伯爵家の令嬢だ。自分は田舎の子爵に過ぎない。決して結ばれることはないだろう……。そう思っていた矢先の、姉の死だった。
エレオノールが亡くなった直後、ジュビリーは人との接触を一切絶ち、その間、マリーが不安と孤独に陥らないようジョンが奔走した。やがて、落ち着きを取り戻した義兄が口にした言葉に、ジョンは息を呑んだ。
「エレオノールを奪った男から、未来を奪う」
だが、詳しい計画を聞く前に、ジョンは協力を申し出た。彼はその時心に誓ったのだ。ジュビリーと、エレオノールと、マリーエレンのために、これから先の人生を捧げよう、と。
「皆が見ているわ」
「……そうですね」
緊張して顔が強張っているジョンに、マリーがわずかに肩をすくめる素振りを見せる。
「これで、私たちに近付く者も減るわね」
「……ご迷惑では……?」
「近付いてほしいの?」
「そんな!」
思わず声を上げかけ、慌てて口をつぐむジョンに、マリーはくすくすと笑う。彼女が嬉しそうにしていると自分も嬉しい。ジョンは穏やかな表情でマリーを見つめた。
マリーも、出会った時から常に自分を慕ってくれるジョンに好意を持っていた。そして、エレオノールの死で絶望の淵に沈んだ時からこれまで、ずっと兄と自分を全力で支えてくれた。そんな彼が側にいながら他家へ嫁ぐなど、マリーには考えられなかったのだ。
「それにしても、まさかキリエ様がこんな気遣いを……」
「そうね。ご自分の結婚問題で頭がいっぱいでしょうに……」
暗い表情で目を伏せるマリーに、ジョンは小さく囁いた。
「キリエ様には、義兄上が必要です。……そうでしょう?」
「兄上にとっても、キリエ様は必要だわ」
マリーはそう呟くと顔を上げ、ジョンをまっすぐ見つめた。
「私が、あなたを必要としているように」
マリーの言葉にジョンは息を呑む。口を開きかけるが言葉が出てこない。煌めくシャンデリアの明かりに照らされたマリーの瞳は、強さを感じさせると同時に、壊れてしまいそうな儚さも感じる。そう、自分にも彼女が必要だ。彼は、取り合った手を強く握りしめ、そっと額と額を合わせた。
そんな二人を遠目に見ながら、エヴァはせつなそうに溜息をついた。
「女官長……」
「あんなにお似合いなのに、何故まだご結婚なさらないのかしら」
侍女仲間はエヴァと同じく、二人が普段から親しくしているのを目にしているため、少々やきもきした様子で呟いた。
「色々、事情がおありなのでしょうけど……」
エヴァも腑に落ちない様子で口ごもる。その時、侍従頭が侍女仲間に用事を言いつけ、エヴァは一人でそこに取り残された。そろそろ女王の側で待機した方が良いだろうか。宰相との時間を邪魔してはならないだろうと、キリエの側から離れていたエヴァがそっと移動を始めた時。いきなり手首を掴まれ、彼女は悲鳴を上げた。
「し、失礼……!」
ホールの隅は薄暗がりで相手の顔がよく見えない。だが、聞き覚えのあるその声に、エヴァは眉をひそめた。
「もしかして……、エセルバート様……?」
「やはり、レディ・エヴァ!」
エセルバートは嬉しそうな笑顔で声を上げた。昼間とは違い、夜会用の礼装を身につけた彼はまた違った雰囲気を醸し出していた。だが、昼間に感じた人懐っこい印象の笑顔は変わらない。
「ここにいらっしゃるということは……、良い成績を残されたのですか?」
「まさか」
エセルバートはおどけた表情で肩をすくめた。
「衛士に無理を言って潜り込みました。あなたと再会できるのではないかと」
「まぁ!」
冗談でも嬉しかった。彼女は思わず笑い声を上げた。
「試合はいかがでした?」
「三回戦で負けてしまいました」
「それでも素晴らしいですわ。今回の御前試合は、特に選ばれたお方しか参加できないのですから」
「おかげさまで、騎士団の候補生に残ることができました」
「まぁ……! おめでとうございます!」
エヴァの喜ぶ顔にエセルバートは満面の笑みで答える。
「あなたが私にツキをくださったのかもしれませんね。感謝いたします」
「そんなこと……。お連れ様のお怪我は?」
「まだ痛むようですが、適切な処置をしていただいたので、後々響くことはないでしょう」
「よかった」
ほっとした表情で呟くエヴァに、エセルバートは腰を屈め、囁いた。
「しかし、驚きました。衛士から伺いましたが、あなたが女王陛下付きの女官でいらっしゃったとは」
「女官ではありませんわ。行儀見習いの侍女にすぎません」
「でも、陛下のお側近くでお仕えするのでしょう? すごいことですよ」
「本当に……、私は幸運です。あんなに素敵なお方にお仕えできるのですから」
キリエに仕えることに誇りを見出しつつあるエヴァは、しみじみと呟いた。エセルバートは、大広間の高座に座す女王と宰相を眺めた。
「……クレド侯はいつも陛下のお側に?」
「ええ。侯爵はいつでも陛下を支えていらっしゃいます。きっと……、陛下にとって特別なお方なんですわ」
エセルバートはわずかに目を細め、女王とその寵臣を見つめた。やがて、彼は恐る恐るエヴァに囁いた。
「……レディ・エヴァ、ご迷惑でなければ、踊っていただけませんか?」
「えっ」
突然の申し出にエヴァは驚いて相手を凝視した。真剣な眼差しで見つめてくるエセルバートにエヴァの胸は高鳴るが、彼女はせつなげに目を伏せた。
「……ごめんなさい。私、殿方からのお誘いはお受けできない身なので……」
エセルバートは予想外の言葉に驚いた表情になるが、やがて残念そうに眉をひそめる。
「……そうでしたか。ご無礼をお許し下さい」
「いえ、私こそ……」
事情を察したらしいエセルバートは口を閉ざし、舞曲に合わせて楽しげに踊る人々をじっと眺めた。エヴァは申し訳なさそうな表情で俯いたままだったが、やがて急に体を震わせた。エセルバートが彼女の指先をそっと握り締めたのだ。エヴァの胸が張り裂けそうなほど大きく波打つ。指を握り締めたまま、エセルバートは何も語ることはなかった。だが、二人はそのまましばらく寄り添ったまま人々の舞踏を眺めていた。