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女王キリエ  作者: カイリ
第6章 初恋
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第6章「初恋」第1話

戴冠式の晩餐会で、ギョームから求婚されたキリエ。激しく心が揺れるキリエに、次々と難問が降りかかる。側近くで支えるジュビリーは……。

 南アングル地方の港町、エクス。灰色の雲に覆われた冬の港には長旅を終えた多くの船がひしめき、そこここで船の荷を改める風景が見られた。

「おい、積荷を見せろ」

「へぇ」

 役人の命令に神妙に従い、水夫たちが重そうな積荷を運んでくる。木箱の蓋を開けると、そこには鈍い銀色の輝きを放つ重厚な武器が姿を見せた。

(ランス)ではないか」

 役人の疑わしげな言葉に、船主の男が歩み寄る。

「はい。プレセア宮殿の兵器省からのご依頼でございます。この度騎士団を結成される運びとなり、武器を仕立てる前に外国の武器を参考にしたいと仰せられ、ガリアより持ち帰った武器一式にございます」

 役人はいぶかしげに目を眇めると顎をしゃくる。

「書類は」

「ここに」

 船主が懐から丸めた書状を大事そうに取り出すと恭しく差し出す。広げると、そこには王家の紋章と複雑な数字が並んでいる。役人はその数字を照らし合わせるとふんと鼻を鳴らした。

「間違いないようだな。いいぞ」

「はっ、ありがとうございます」

 役人はちょっと肩をすくめると木箱の武器類を覗き込む。

「ふぅん、これがあのガリアの武器か。噂通り、図体だけでかくて扱いの難しそうな代物だ」

「誠に」

 船主は苦笑いを浮かべると慇懃に頭を垂れた。その間に水夫たちは木箱を次々と粗末な馬車に載せてゆく。全ての積荷を運び終えると、船主は馬車の一台に乗り込み、馬を走らせた。

「ご無事のご帰還、何よりでございます。サー・オリヴァー」

 精悍な顔付きの従者に呼びかけられ、船主の姿に身をやつした男、オリヴァー・ヒューイットは大きく伸びをしながら鼻を鳴らした。

「ああ、疲れた。もうしばらく船はごめんだ」

「ルール公もお帰りを心待ちにしておられます」

「公爵は大事ないか」

「はっ」

 ヒューイットは疲れた体を捻じ曲げると、荷台の木箱に手を伸ばす。蓋を開け、ガリア製のランスを掻き分けると藁屑を取り除ける。と、そこに黒光りする金属が現れた。ヒューイットは思わず口笛を吹いた。

「見ろ、こいつを」

 呼びかけに応じて従者が身を乗り出し、驚嘆の表情を浮かべる。

「これが……、エスタドの槍……」

「そうよ。軽量かつ鋭利で刃毀れしにく、エスタドの黒い悪魔と称される武器のひとつだ」

 エスタドの主要産業のひとつが、優れた防武具の生産だった。ヒューイットの言葉の通り、硬化と軽量化に成功し、武器においては殺傷力が高く、防具においては耐久性に優れた威力を発揮する。エスタドはこれらの武具や防具を同盟国に輸出することで莫大な富を得ていた。だが、それ故国交のない国々は輸入を厳しく禁じている。これだけの武器を密輸するのは並大抵のことではない。

「公爵もお喜びになられるでしょう……!」

 従者の興奮した囁きに、ヒューイットは疲れた笑みを浮かべてみせた。

「こいつで、蹴りをつけられたらいいんだがな」


 年が明けると、キリエは女王として聖アルビオン大聖堂に赴き、一年間の国の平和と発展を祈る盛大な儀式に出席した。儀式が終わり、拝廊から外へ出ると、寒空の下、女王の姿を一目見ようと詰め掛けた国民たちで大聖堂前広場は埋め尽くされていた。国民に向かって両手を合わせ、跪いてみせるキリエに、彼らは歓喜の声を上げる。キリエがイングレスにやって来て三ヶ月。〈ロンディニウム教会の修道女〉の人気は衰えることがなかった。これだけの人々が自分に期待を寄せている。キリエはその笑顔で抑えきれない不安を隠した。

 馬車に乗り込む際、キリエの手を取ったジュビリーが、そっと耳打ちした。

「アンジェ侯がホワイトピークに到着したそうだ」

 眉をひそめ、思わず宰相を見つめる。新年の挨拶をするべく、大陸各国から駐留している大使たちがプレセア宮殿を訪れているが、ガリアがわざわざ本国から宰相を派遣するということは……。キリエは目を伏せると、暗い表情のまま馬車に乗り込んだ。

 宮殿に戻ると、女王の帰りを待っていた大使や、国内の有力貴族、議員やイングレスの職業組合(ギルド)の長たちが順番に挨拶にやってくる。皆恭しく丁寧な挨拶をする中、エスタドを始めとする反クロイツ派の国々は簡潔な挨拶で済ませて帰ってゆく。いつバラが到着するか気になっていたキリエは、彼らがさっさと帰っていくのが実際はありがたかった。立て続けに挨拶を受け、セヴィル伯がそろそろ休憩を告げようとしたまさにその時。謁見の間に緊張した面持ちのモーティマーがやってくると、「アンジェ侯がお越しです」と告げた。その場にいた貴族たちは思わず互いに顔を見合わせ、小声で囁きあう。

「……陛下」

 わずかに顔を青ざめさせたキリエに、傍らのジュビリーが声をかける。彼女はかすかに頷いただけだった。

 やがて、謁見の間に側近を引き連れたアンジェ侯爵バラが現れる。ガリアの宰相の訪問に、皆は固唾を呑んでその場を見守る。居合わせた人々は皆、戴冠式での出来事が記憶に新しく、バラの訪問がただの新年の挨拶ではないことに気づいていた。

 バラは相変わらず洒落た衣装を身にまとい、典型的な洗練されたガリア貴族といった風貌だった。

「キリエ女王陛下、新年のお祝いを申し上げます。今年一年、アングルに平和な時が訪れますよう……」

「わざわざありがとう、アンジェ侯」

 緊張しながらも微笑を浮かべ、バラに声をかけると、相手は穏やかな表情でまっすぐに見つめてくる。

「戴冠式から早二ヶ月でございます。国内もようやく落ち着きを取り戻されたのでは」

「そうですね。でも、まだまだやらなくてはならないことが残っています」

「失礼ながら……、ルール公は……」

 声を落とし、慎重に尋ねるバラにキリエは静かに頷く。

「まだ……、服従しておりません。未だに小さな衝突が繰り返され、予断を許しません」

「お気の休まる時もございませんな」

 バラは眉をひそめ、気の毒そうに囁く。それきり、気まずい沈黙が少しの間流れ、バラは小さく咳払いをした。

「ところで……、この度私がイングレスへ参じたのは、新年の祝賀を奉じるためだけではございません」

 キリエは目を細め、ひそかに息を呑んだ。バラはそんな女王の変化に気づいた上で静かに切り出した。

「我が君ギョーム王は……、ガリアの王妃にキリエ女王をお望みでございます」

 瞬間、謁見の間はまるで墓場のように静まり返った。が、やがて大きなどよめきとざわめきが沸き起こる。キリエの白い顔が益々青ざめ、無言でバラを見つめる。

「静まれ」

 宰相ジュビリーの太い声が謁見の間に響き、居合わせた廷臣や貴族たちは一斉に口をつぐんだ。ジュビリーは険しい表情でキリエを振り仰いだ。彼女は眉をひそめ、泣き出しそうな表情でガリアの宰相を見つめている。

「……我が君には多くの国々からお妃にと縁談が持ち込まれましたが、ことごとく退けられ……、ガリアの王妃にはキリエ女王が相応しいと仰せでございます」

「……アンジェ侯」

 わずかに震えた声でキリエが呼びかけ、バラは目を細めた。皆の視線が一気にキリエと注がれる。

「私は……、天に仕える修道女です。それに、私とギョーム王陛下は……」

「もちろん、存じ上げております」

 バラのきっぱりとした口調はキリエをたじろがせた。

「我が君は、女王陛下が修道女であらせられること、そして、陛下と我が君が従兄妹であることもご承知の上で、王妃にお迎えいたしたいと……。ご成婚のためならば、直接クロイツへ出向き、大主教にお許しを得る所存でございます」

 クロイツ。その言葉にジュビリーは顔を引きつらせた。王族の結婚では、従兄弟などの血縁関係を持った者同士の結婚は決して珍しくなかった。その場合は、クロイツの大主教の許しを得ることになっているが、大抵はすんなりと許可が下りることが多い。ムンディはこの結婚をどう見るのだろうか。対エスタド勢力であるガリアとアングルの結びつきを誰よりも願っているのは、ほかならぬムンディだ。

「ぜひ、前向きにお考え下さりますよう……。後日、我が君が直接イングレスを訪れる予定でございます」

 再びアングルを訪問し、改めて求婚するというのか。キリエは目眩を感じると顔を歪め、目を伏せる。

「……少し……、お時間をいただきたいわ」

「もちろんでございます」

 バラは恭しく頭を垂れた。そして、キリエにとってはどうでもいいようなガリア周辺諸国の近況報告を述べると、退出していった。

「……陛下、少しお休みになられては……」

 謁見の間を後にすると、困惑した表情でセヴィル伯が声をかけるが、キリエは顔をしかめて呟く。

「……いえ、後で休むわ」

「陛下」

 心配そうなレスターに目で頷くと、キリエは自ら会議室へと向かった。会議室では、主要な廷臣たちが皆険しい表情で席についていた。キリエの背後には、不安げな顔つきでモーティマーが佇んでいる。

「……戴冠式でのダンスは、やはり求婚でございましたな」

 セヴィル伯が重々しく呟く。

「ご結婚をお望みということは、要するに我が国と同盟を結びたいということでしょう」

「ガリアとの同盟は歓迎すべきことですが……、そうなれば反エスタドを表明することになります」

 廷臣たちの言葉にキリエは目を伏せる。自分は国家元首である。何よりも国を第一に考えなければならない。例え、意に染まない結婚であっても、国と民を守るためには、甘んじて受け入れねばならない。頭ではわかっていた。だが、心の奥底ではどうしても「何故、自分が」という思いが頭をもたげる。

「しかし、ギョーム王が陛下に求婚したと知れば、エスタドのガルシア王はお怒りになるでしょうな」

 貴族院議長の言葉にキリエは目を上げる。

「何しろ……、ギョーム王はフアナ王太女との婚約を拒絶した過去がございますからな」

 一同が眉をひそめて顔を見合わせた時。

「ガルシア王にはすでに知れているだろう」

 ジュビリーの言葉に皆が一斉に目を向ける。宰相はいつもと変わらぬ、眉間に皺を寄せた表情のまま続けた。

「オリーヴ公が、戴冠式での出来事を報告しているであろうからな」

 ギョーム。ガルシア。二人の名を耳にした瞬間、キリエの脳裏に大主教ムンディの言葉がよぎった。

「ひとつになった世界の頂にはそなたが立つのだ。ギョームにはできぬ」

 アングルとガリアを枢軸として対エスタド戦略を取ろうとするムンディは、キリエとギョームの婚姻をむしろ喜ぶのではないか。だが、頂に立たせるのがキリエだという、その意図がわからない。大主教は何を望んでいるのだ? 自分に、何をさせようと? キリエはにわかに背筋が凍り付いた。大主教の思し召しは天の御心。天が望むならば、自分は逆らえない……。だが、結婚すればアングルを出なければならない。親しい人々と引き離され、見知らぬ人々に囲まれる生活になろう。マリー、ジョン、レスター。そして、ジュビリーとも、遠く離される……。

「陛下」

 ジュビリーの呼びかけに、キリエは弾かれるようにして顔を上げる。真っ青な顔つきに宰相は顔をしかめた。

「……やはり、お休みになられた方が……」

 キリエは無言で頭を振った。だが、やはり険しい表情のモーティマーがそっと寄り添う。

「お顔が真っ青でございますよ」

「……大丈夫」

 モーティマーがジュビリーに視線を投げかける中、廷臣たちが慎重そうに呟く。

「……ルール公やタイバーン女子爵は、今も時折戦闘を引き起こしておる。国内だけでなく、これからは大陸の覇権争いに巻き込まれるであろう……」

「対エスタド勢力の雄であるガリアとの縁戚は、諸刃の剣でございますな……」

「ですが、陛下が長くアングルを留守にするわけには……」

 廷臣たちが声をひそめて囁き合う中、キリエは顔を伏せたまま口を開いた。

「待って下さい……!」

 一同が口をつぐむとキリエを仰ぎ見る。幼い女王は俯き加減に目を伏せ、机の上に置かれた握り拳はかすかに震えていた。

「私は……、結婚などしません」

「……陛下!」

 周囲のざわめきにキリエはきっと顔を上げた。その悲痛な面持ちに、傍らのモーティマーは思わず息を呑んだ。

「私は修道女であり、アングルの女王です。……異国の王とは、結婚できません」

「陛下!」

 ジュビリーが眉をひそめ、腰を浮かしかける。

「これはもはや、陛下お一人の問題ではございません……!」

「わかっています! だからこそ……、結婚はできません!」

 これまで、ジュビリーや廷臣の言うことにおとなしく従っていたキリエが、初めて拒絶を示した。ジュビリーは険しい表情でキリエを見つめた。その脳裏には、戴冠式の夜に交わした言葉が蘇る。

「結婚なんかしない。私は、あなたと一緒にいたい」

 キリエは青い顔のまま言葉を続けた。

「結婚せずとも、同盟は結べるはずです。ガリアとは……、よく話し合う必要があります」

 だが、ギョームにとっては結婚することにこそ意味があるのだということに、皆は気づいていた。若獅子王はきっと、結婚以外で同盟を結ぶ手段を考えないであろう。息苦しい沈黙が流れる中、広間の外が騒がしいことにモーティマーが最初に気づいた。

「申し上げます!」

 広間に飛び込んできた侍従が声を上げる。

「ルール公領周辺で、小規模ながら戦闘があったとのことです」

 会議室がざわめきに包まれる。

「戦闘は間もなく収束したそうですが、北アングル海にも海賊と思われる所属不明船が現れております」

 ジュビリーはキリエに視線を走らせ、席を立った。

「全ての沿岸警備を強化せよ。ホワイトピークに使者を送り、特に警戒するよう伝えろ」

「はっ」

 キリエは大きく息を吐き出すと額を押さえた。


 数日後、次々と難問が降り懸かるキリエに、更に追い打ちをかける者が現れた。

「陛下。ユヴェーレン大使が謁見を求めております」

 ユヴェーレン大使からは新年の挨拶を受けたばかりだが、何事だろう。キリエは眉をひそめた。

 謁見の間へ向かうと、その場はざわめき、不穏な空気に包まれている。ユヴェーレン大使ベッケン伯爵は、どこか目をぎらつかせているように見えた。

「キリエ女王」

 大使は太い声で呼びかけた。

「陛下に申し上げなければならないことがございます」

「何でしょう」

 跪きながらも、大使は上目遣いにキリエを睨みつけた。

「先日、ベル・フォン・ユヴェーレン王女が身罷られました」

 王太后ベル・フォン・ユヴェーレンが死んだ。ざわめきが一層激しく沸き起こる中、キリエはごくりと唾を飲み込み、そっと両手を合わせて弔意を示す。ベッケン伯は語気をゆるめず、更に畳み掛けた。

「我が君オーギュスト王は激しく嘆き悲しみ、姫君の死の原因はアングルでの心労に違いないと仰せです」

 廷臣たちの間から驚きと非難の声が上がる。ジュビリーが静まるよう呼びかけるが、なかなか治まる気配がない。

「よって、身代金五十万マークの返還。及び、弔慰金として五十万マーク。併せて百万マークをお支払いいただきたい」

「何だと?」

「本末転倒だ!」

 貴族たちが騒ぎ始め、キリエは手を挙げてその場を静める。その胸は破裂しそうな勢いで脈打ち、驚きと怒りで言葉がすぐには出てこなかった。

「……ベッケン伯爵」

 キリエはゆっくり呼びかけた。

「あなたは、お国の王女が我が国になされたことをお忘れですか。王太后はアングルを裏切ったのです。リシャール・ド・ガリアと結託し、多くの国民を死に至らしめた……! それを、忘れたとは言わせません!」

「キリエ女王!」

 大使はすっくと立ち上がり、キリエをさっと指さした。

「あなたはエドガー王の妾腹だ!」

 ざわめきが一瞬にして静まる。だが、更に激しい怒号が沸き起こる。キリエの目が大きく見開かれ、肩が小刻みに震える。

「あなたの母親がベル王女の心にどれほどの傷を負わせたか、ご存知あるまい! 本来ならば、あなたにアングル女王たる資格はない! 教会にお帰りになるがよい!」

「無礼な……!」

「何ということを!」

 興奮する貴族や廷臣たちを近衛兵が押さえにかかる。ジュビリーが険しい表情でキリエを見上げる。彼女は顔を歪め、唇を噛みしめた。手すりに置かれた手は真っ白になるまで握りしめられている。母とて……、望んで父の愛人に収まったわけではない……!

「伯爵……!」

 キリエが目を眇め、鋭い声を投げかける。

「ユヴェーレンでは、王に死なれた妃が異国の王を寝所に引き込む慣習がおありか!」

「何と……!」

「お帰りを!」

 キリエは玉座から立ち上がった。

「早々に立ち去るが良い!」

 キリエを支持する貴族たちが歓声を上げる中、大使は女王を凝視すると、やがて踵を返した。

 ユヴェーレン大使は本国へ報告すべく帰国していったが、それで一挙に両国が臨戦態勢に入ったわけではなかった。道義的見地からすれば、どう考えてもユヴェーレンに非があり、小国とはいえ、プレシアス大陸の複数の国家がキリエをアングル女王として認めている以上、ユヴェーレンは手を出せなかったのだ。それに、ベルはクロイツから破門を宣告されたという事実もある。だが、これでアングルはエスタドだけではなく、ユヴェーレンとも敵対することになった。


 石造りの寒々しい廊下を眼帯の青年が行く。城のアプローチ近くの小さな応接間に入ると、汚れた衣服を身につけた男が一人、疲れ果てた様子で座り込んでいた。

「ご苦労だったな」

「……公爵」

 立ち上がろうとしたヒューイットに、レノックスは手で制した。

「座っておけ」

 主君の思わぬ気遣いに、ヒューイットは眉をひそめ、思わず後ろに控えているシェルトンと顔を見合わせる。

「首尾は」

「はっ。武器の移送に成功いたしました」

 ヒューイットの言葉にレノックスは表情を変えずに頷く。

「大陸に動きはあったか」

「ガリアのギョーム王がレディ・キリエにダンスを申し込んだことは、すでにガルシア王に伝わっておりました。ピエドラ宮殿では、ガリアの生意気な態度に我慢ならないといった空気が流れております」

 レノックスは目を細めると静かに腕組みをしてヒューイットを見下ろした。

「……おまえと入れ違いに、ガリアの宰相がアングル入りした」

「……アンジェ侯?」

「正式にギョームがキリエに求婚した」

 ヒューイットは彼独特の笑みを浮かべると肩をすくめた。

「……聞いたところによると、ギョーム王はまだ弱冠十九歳にも関わらず、積極的に改革を押し進め、大陸内でも大きな潮流を作ろうとしているそうです」

「カンパニュラとの同盟か」

「ポルトゥスとも事実上和解したようです」

 シェルトンがそっとレノックスの顔色を伺う。眼帯や鼻の上の傷痕。満身創痍の冷血公は何を考えているのか……。

「ガルシアは何と言っていた」

「それが」

 そこでヒューイットは疲れた息を吐き出すと、戸口に控えていたローザが無言で水差しと杯を差し出す。

「ありがとう、ミス・シャイナー」

 ヒューイットは喉を潤すと主君を上目遣いに見つめた。

「何とか我々に援軍を送ろうと画策しているようですが、アングル沿岸の防衛態勢が思った以上に堅く、手こずっているようです」

「使えん男だ」

 レノックスは忌々しげに毒づいた。

「じきに、ガリアの若造が舞い戻る。情報を漏らすな」

「はっ」

 ヒューイットが頭を下げると、レノックスはシェルトンを伴って応接間を出ていった。

「サー・オリヴァー」

 一度部屋を出ていったローザが熱い湯を張った桶とタオルを持ってくる。

「すまんな」

 汗で汚れた顔を拭いながら、ヒューイットはぽつりと呟いた。

「公爵は……、変わったな」

 以前はあのような気遣いを示す人間ではなかった。あの戦いで、冷血公は右目だけでなく、牙まで削がれたのか。ヒューイットは複雑な思いで沈黙した。


 年明けの慌ただしさはあっと言う間に過ぎ去った。だが、ガリアから正式に求婚の使者が訪れたことが公にされ、プレセア宮殿内の空気は微妙に変化した。廷臣たちは慎重な態度になり、宮殿にはびこる噂好きの貴族たちは、あちこちで声をひそめて会話を交わしていた。むしろ態度が変わらないのは、キリエの側近くで立ち働く召使いたちだった。彼らは今まで通り黙々と勤めに励み、キリエはそのことにひそかに感謝していた。

 二月の半ば、完成したリッピの絵が披露されることになり、キリエは廷臣たちを伴って玉座の間へ向かっていた。背後からエヴァが「陛下」と小さく呼びかける。振り向くと後ろからジュビリーが早歩きで追いついてくる。

「……北アングル海に現れた六隻の所属不明船だが」

「どうなったの?」

 キリエが歩みを止めずに聞き返し、ジュビリーは表情も口調も変えずに続けた。

「すべて撃沈された」

 宰相は間を置いて低く囁く。

「……ソーキンズだ」

 キリエは眉をひそめた。

「彼は無事なの?」

「無事どころか」

 ジュビリーは眉間に皺を寄せると肩をすくめた。

「沿岸警備は割に合わん、と愚痴をこぼしているらしい」

「どういうこと?」

「撃沈すれば略奪できない。それだけのことだ」

 ジュビリーの言葉にキリエはわずかに顔をほころばせた。皮肉っぽい笑みを浮かべた海賊の姿が目に浮かぶ。

「すぐに援助を」

「御意」

 しばらく黙って歩いていたキリエだが、わずかに顔をしかめて口を開く。

「……エスタドの海軍だったのかしら」

「わからん。ソーキンズの見立てによると、エスタドの息がかかった同業者(かいぞく)ではないか、と」

「……そう」

 キリエは目を伏せると再び沈黙した。ギョームの求婚問題が表面化して以来、キリエとジュビリーは微妙にぎこちない関係が続いていた。お互いその問題に触れることは避けていたが、本当はもっと話し合わねばならない最重要案件だ。だが、ここしばらく二人はまともに目も合わせられなくなっていた。

 玉座の間では、リッピと彼の弟子たちが女王の到着を待っていた。

「大変お待たせいたしました」

 跪いたリッピが深々と頭を下げる。

「キリエ女王陛下及び、戴冠の儀でございます」

 弟子が絵に掛けられた緋色の布を取り去ると、華やかな色彩が現れ、皆の口から感嘆の声が漏れる。

 アングルを象徴する深紅のドレスをまとったキリエの肖像画。後方にはアッサー家を表す青い蝶が乱舞している。女王の手にはヴァイス・クロイツ教の教典。だが何よりもキリエが驚いたのは、グローリア城で見た母の絵と自分がそっくりなことだった。キリエは微笑むとリッピを仰ぎ見た。

「……あなたが描いた母上と似ているわ」

「……正直、」

 リッピが珍しく神妙そうに呟く。

「陛下に初めてお会いした時は不思議な感覚でございました。十数年前にお会いしたレディ・ケイナと再会したような……」

「……ありがとう」

 そう呟くと、隣の戴冠式の絵に目を移す。ムンディがキリエに冠を授ける情景だが、人々の目にはこう映っていたのか、とキリエは感慨深げに溜息をついた。よく見ると、ムンディの傍らにはヒースが佇み、画面の隅にはジュビリーも描き込まれている。

「……おじい様にも見てもらいたかったわ」

 キリエの言葉に、後ろに控えていたレスターが思わず無言で項垂れる。だがあの時、聖アルビオン大聖堂を埋め尽くした列席者の中に、ロレインの姿を見出したことが思い出された。きっと、ベネディクトも見守ってくれていたに違いない。

「……クレド侯」

 キリエの呼びかけに、ジュビリーは傍らのモーティマーに目配せする。一度その場を立ち去ったモーティマーはやがて、細かな細工が施された箱を捧げ持って現れた。

「リッピ殿、少ないですが、私から……」

 モーティマーが箱の蓋を開けると、リッピは目を丸くして困惑の表情を浮かべた。そこにはひしめくスターリング金貨が鈍い光を放っていた。

「すべてをギョーム王に賄っていただくわけには……」

 キリエのどこか寂しげな表情に、リッピは眉をひそめ、恐る恐る囁く。

「……ギョーム王陛下が、ご求婚なさったそうですな」

 女王はかすかに頷いた。リッピは少しの間黙り込むと、慎重に口を開いた。

「……ギョーム王は、ご立派な王であらせられます」

「私とは身分が違いすぎるわ」

 リッピが首を傾げ、キリエは恥ずかしげにはにかむと輝く金貨に目をやる。

「私……、イングレスに来るまで金貨など見たことがなかったのよ」

 廷臣の一人が思わず口元をゆるめたが、ジュビリーの鋭い視線に慌てて居住まいを正す。裕福な寄進者が毎日のように訪れる聖アルビオン大聖堂などと違い、キリエが育ったロンディニウム教会は田舎のごく小さな教会に過ぎない。金貨を見る機会などなかっただろう。

「血筋は王族でも、田舎の教会育ちだもの。私がガリアの王妃など……」

「不躾を承知で申し上げますが」

 いつもは皮肉たっぷりな口振りのリッピが、真剣な口調で切り出した。

「ガルシア王の亡くなられたお妃は、王族のご出身ではありません」

 ガルシアの名を耳にしてキリエは思わず目を見開く。

「ガルシア王は、多くの反対を押し切ってペネロペ王妃とご結婚されたそうです。……亡くなられた今も、王の私室にはたくさんのご遺品が……」

 ガルシアの話題にジョンがそわそわするが、ジュビリーが目でたしなめる。一方のキリエはしばし考え込むと、穏やかな表情で顔を上げた。

「素敵なお方ね」

「ギョーム王はきっと、女王陛下の素晴らしさにお気づきになられたのでしょう。だからこそ、多くのお妃候補の中から、陛下を……」

 だが、そこでリッピは口をつぐんだ。

「……申し訳ございません。差し出がましいことを……」

「いいえ。……ありがとう」

 キリエはリッピに歩み寄ると彼の両手を握り締めた。

「またお会いしたいわ」

「……ありがとうございます」

 リッピは、そのまま跪くと頭を垂れた。


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