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女王キリエ  作者: カイリ
第5章 聖女王戴冠
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第5章「聖女王戴冠」第5話

エスタドの攻撃を退け、ようやくアングルに辿り着いた大主教ムンディ。彼を迎えるためにホワイトピークへやってきたキリエは、そこで海賊ソーキンズと対面する。

 海上での戦いが終わった頃、ホワイトピークに向かう街道を馬車の隊列が走っていた。馬車の一台には多くの騎乗の騎士が併走している。〈赤獅子〉と〈青蝶〉が組み合わされた紋章。キリエが乗った馬車だ。

 馬車の中では、ムンディを迎える為に正装したキリエが固い表情で揺られていた。隣には、相変わらず眉間に皴を寄せたジュビリー。彼はちらりとキリエを見やった。イングレスを出発してから、ほとんど言葉は交わされていない。否、今日だけではない。ここ数日ずっとだ。刻一刻と近付く戴冠式への重圧だけではないと感じたジュビリーはそれとなく声をかけたものの、キリエは「何でもない」としか答えなかった。そして、彼もそれ以上聞き出すようなことはしなかった。ジュビリーは再び目を上げてキリエを見つめた。緊張を背負った背中。黙ったまま窓の風景を見つめている。

「キリエ」

 不意に呼びかけられ、キリエはぎくりとして振り返った。

「昨夜は眠れたのか。ホワイトピークまではまだある。眠っておけ」

「……大丈夫」

 キリエはぼそりと呟くと再び窓に向き直る。ジュビリーは溜息をついた。普段は聞き分けの良いキリエだが、時々扱いに困る時がある。

(……年頃の娘はこんなものか)

 と、思ってからジュビリーはぎくりとした。そして、罪悪感に似た思いで顔を歪める。もしもエレオノールがあの時子を生んでいれば、今頃キリエと同じ年頃だと思い至ったのだ。動揺を隠しながら、再びキリエの背を見つめる。キリエはあの男の娘。だが、ケイナの娘でもある。だから……、こうして命に代えてでもキリエを守りたいと願う自分がいる。ジュビリーは自問した。もしもエレオノールが子を生んでいれば、同じようになれただろうか。

 そんなジュビリーの気持ちなど知る由もないキリエが、重い吐息をつくと胸を押さえた。

「どうした、気分が悪いのか」

「……ううん、ちょっと、疲れて」

「だから、眠っておけと」

 ジュビリーが険しい表情で身を乗り出した時だった。

「わぁっ!」

 突然の声にジュビリーは目を剥いた。見ると、窓一杯に荒れた波が踊る海が広がっている。丘を越えた馬車はホワイトピーク海峡が見渡せる沿岸までやってきていた。

「これ……、これが海? ねぇ、これが海なの」

「ああ」

 海を初めて目にするキリエは明るくはしゃいだ声で問いかける。馬車の窓を大きく開けると再び歓声を上げる。

「すごい……! 波が踊ってる……! きらきら光ってる!」

 キリエの弾けるような笑顔が見えたのか、併走している騎士たちが速度を落とし、邪魔にならないように下がる。冷たい晩秋の風が容赦なく馬車の中へ吹き込むがキリエは動じることなく眼前に広がる海原に目を奪われている。やがて、頭上を舞う大鳥を指差す。

「あれ、ひょっとして鴎? すごく大きいわ!」

「……ああ、鴎だ」

「あ、見て! 船が見える! 帆を広げてる!」

 まるで幼子のようにはしゃぐキリエにジュビリーは目を細めた。こんなに嬉しそうな彼女を見るのは誕生日以来だ。思えば、いつも不安で押しつぶされそうな暮らしを強いているのだ。こんな時ぐらい、「年頃の娘」に戻らせてやりたい。

「すごい……。海ってこんなに大きくて綺麗なのね」

 ロンディニウムの教会で十三歳まで過ごしたキリエは、周囲に広がる森と田畑しか目にしたことがない。イングレスを訪れた時も、川や橋を目にするだけで驚いていた。キリエ自身、そんな自分を恥じていたし、廷臣や貴族らには気取られないよう必死で隠そうとしている。だが、今は違う。

「……この海の向こうに、たくさんの国があるのでしょう」

「そうだな」

「すごいわ。わくわくしてくる……!」

 これまで塞ぎ込んでいたキリエが一転して明るくなったことに、ジュビリーが人知れずほっと胸を撫で下ろした時。

「……ありがとう」

 ジュビリーは眉をひそめて顔を上げた。

「私、あなたが迎えに来てくれなければ、一生海なんか見られなかったわ」

 キリエの言葉に思わず口をつぐむ。

「あなたが来てくれなければ、私……、ずっとあの教会にいたんだわ。……誰にも知られることなく」

 教会の庭で薬草の世話に精を出していたキリエの姿が脳裏を過ぎる。まだ身を乗り出して海を眺めているキリエの表情は窺い知れないが、ジュビリーは固い表情で俯いた。自分は修道女を広い広い荒野に連れ出した。自分が、連れ出さなければ……。

「……海は、美しいだけではない」

 その言葉にキリエが振り返る。わずかに眉をひそめ、大きな瞳でじっと見つめてくる。

「荒れ狂う海は人を簡単に呑みこむ。……後には何も残らん」

 荒れ狂う海。キリエはもう一度海原を振り仰いだ。晩秋の海は濁った空の下で細波を立てている。しばらく踊る波を見つめていたキリエは、やがてジュビリーを振り返った。その表情はわずかに明るい。

「でも、この荒波がアングルを守ってくれたんじゃないの?」

 ジュビリーは眉を吊り上げた。

「島国のアングルを守ってくれたのも、この海だわ」

 キリエは笑顔のまま、海原を見つめた。


 やがて一行はホワイトピーク城に到着した。クレド城よりも遥かに巨大な城塞にキリエは息を呑んだ。だが、未だに修復作業が終わっていない様子に表情を曇らせる。思えば二度の襲撃を立て続けに受けたのだ。修復は容易ではないだろう。

 ホワイトピークに降り立ったキリエは緊張した様子で周囲を見渡した。海を見るのも初めてなら、港街を訪れるのも初めてだ。だが、ここは軍港。物々しい砲台がずらりと並ぶ様にキリエはますます顔を強張らせた。城のアプローチへ向かうと、懐かしい人物が出迎えている。

「ウィリアム様……!」

「レディ・キリエ」

 嬉しそうに歩み寄ったキリエの右手を取ると恭しく一礼する。が、上げた顔は険しい表情で、キリエは不安そうに眉をひそめた。

「長旅で疲れただろうが、非常事態だ」

 キリエは目を見開いてジュビリーを振り返る。

「先遣隊が先ほど帰還した。どうやら予想が的中したようだ」

「……まさか」

「船団が襲撃された」

 ウィリアムの言葉にキリエは絶句した。彼はキリエたちを城内へ招き入れた。城内は多くの騎士や役人が忙しげに行き交っている。そのざわめきは戦時のそれと同じだ。キリエ胸騒ぎを押さえながらウィリアムの後に続いた。

 城主の間へ到着すると、ウィリアムは窓辺に歩み寄って窓を大きく開いた。そこからは港が一望できる。数多くの船が停泊する中、六隻の船がこちらへ向かっている。ジュビリーが目を眇めて呟く。

「エスタドが攻撃を?」

「どうやらそうらしい」

 キリエはおろおろした表情で振り返り、ウィリアムは落ち着かせるように穏やかに言い聞かせる。

「先遣隊の報告によると、大主教は無事らしい」

「そうですか……」

 呆然として呟いたキリエは、少しずつ近付いてくる船団を黙って見守った。

 やがて、キリエたちは港まで移動すると下船したムンディを出迎えた。ホワイトピーク港は、ヴァイス・クロイツ教最高指導者ムンディの来航に、市民総出で歓迎した。華やかに飾り付けられた艀舟がゴールデン・ラム号に横付けされ、大主教を乗せる。やがて、ムンディやヴァイス・クロイツ騎士団がアングルの地へ降り立つ。廷臣たちを従えたキリエは、緊張した面持ちで大主教を待っていた。やがて、彼女の瞳が老人の姿を捉える。紫の帽子に、純白の祭礼服。キリエの胸が高鳴る。

「大主教猊下……」

 海戦に巻き込まれ、若干衰弱した感のあるムンディだったが、幼さを残した〈ロンディニウム教会の修道女〉を目にすると穏やかな笑みを浮かべた。

「キリエ・アッサー」

 自分の名を呼ばれた。キリエは夢中で駆け寄ると両手を合わせ、その場に跪いた。

「猊下……! ようこそアングルへ……。お、お怪我は?」

「大事ない。そなたの廷臣が命がけで私を守ってくれたのだ。感謝しよう」

 深い皴が幾重も刻まれながら、力強い光を湛えた瞳で見つめられ、キリエは込み上げてくるものを必死で抑えると、震える手でムンディの手を取った。


 到着したムンディ一行は本来ならばすぐにでも王都イングレスへ向かう予定だったが、ムンディの疲労を考慮し、出発は翌日に延期された。ホワイトピークにはすでに他国からの使節団も多く集結しており、街全体が厳戒態勢となっていた。使節団のイングレスまでの護衛などの打ち合わせの合間を縫って、ジョンはソーキンズをキリエに引き合わせることにした。

「俺は礼儀作法なんざ知らねぇぞ」

 キリエとの謁見を嫌がるソーキンズを、ジョンが無理やり城主の間へと引っ張っていく。

「安心しろ。海賊に礼儀を求めはしない。だが、そなたの働きを女伯に報告せねばならん」

「めんどくせぇ!」

 二人が言い合いながら城主の間まで来ると、中から明るい少女の声が漏れ聞こえ、二人は思わず立ち止まった。

「本当に海って青いのね。すごく綺麗だわ」

「夏には、天気がよければ対岸のルファーンが見える」

「本当に? 見てみたいです!」

 ジョンがそっと室内に入ると、大きく開かれた窓辺に、ホワイトピーク公ウィリアムとジュビリーに挟まれた小柄なキリエの後姿が見える。ジョンの隣で、ソーキンズが目を眇め、唇を噛み締める。

「帆船って、本当に綺麗ね。どうしてあんな大きなものが水面に浮かんでいられるのかしら。それに、どうして帆を畳んでいるの? せっかくだから広げたところが見たいわ」

「帆を広げるのは、風を受けて帆走する時だけだ」

「そうなの……。乗ってみたいです」

 無邪気に声を上げるキリエを、ジュビリーは黙って見守っていた。先ほど馬車の中でも海を目にして歓声を上げていたが、やはりキリエの表情が明るいとほっとする。考えねばならない問題はまだ他にもたくさんある。それを、少しでも忘れられるなら。その時、不意に背後で咳払いが響く。

「ジョン」

 三人が振り返ると、キリエが嬉しそうな声を上げる。が、隣に控えているいかがわしい外見の男を見て眉をひそめる。

「ご苦労だったな、ジョン」

「はい」

 ジュビリーの労いの言葉にジョンが顔をほころばせる。

「実は、この度の航海の立役者、フィリップ・ソーキンズをぜひ女伯に紹介したく……」

 そう言うとジョンはソーキンズを前に出るよう促す。ソーキンズは嫌々ながらゆっくりと進み出る。

「……フィリップ・ソーキンズと申します」

 そして、ぎこちない動きでその場に跪く。キリエは恐る恐る彼に近づくと小さな声で言葉をかける。

「……ご苦労でした。あなたのおかげで、大主教も無事にアングルへいらっしゃることができました」

「……いえ」

 言葉少なげに答えると、ソーキンズはそっと顔を上げ、キリエのすぐ隣に控えているジュビリーと目が合う。彼は険しい顔つきだったが、かすかに頷くと口を開いた。

「……久しぶりだな。ソーキンズ」

「……侯爵も、お変わりなく」

 ソーキンズはほんのわずか口元をほころばせたが、それ以上は語らなかった。

「ジョン、体調は大丈夫? レスターはまだ船酔いが治っていないみたいだけど」

「いや、大変でした。私も初めての船旅でしたが、あんなにひどいものだとは思いもよりませんでした」

 ジョンの言葉にキリエの表情に驚きが広がる。

「そんなにひどいの? 何だか優雅な乗り物に見えるけど……」

「この度は特に海戦がありました故。本来ならば、もっとゆっくりとしたものでしょうが」

 キリエは窓辺を一度振り返り、明るい表情で言葉を続ける。

「羨ましいわ。私、海も船も今日初めて見るの。船の上ってどんな感じなの? やっぱり揺れるの? 一度乗ってみたいわ」

 珍しく矢継ぎ早に質問攻めするキリエに、ジョンが少なからず驚いた様子で答えようとしたその時だった。

「だったら、今すぐ乗せてやるッ!」

 突然跪いていたソーキンズが立ち上がるとキリエの二の腕を突かんだ。

「ひッ……!」

 キリエの表情が恐怖で引きつる。キリエの目に映ったソーキンズの顔がレノックスと重なって見え、彼女は恐慌に陥った。

「や、やめッ……! いやッ!」

「ソーキンズッ!」

「キリエッ!」

 ジュビリーとウィリアムが咄嗟に剣の柄に手をやるが、ソーキンズはきっと振り返ると叫んだ。

「侯爵ッ! 貴様、こいつをガキのまま女王にするつもりか、えぇッ?」

「……!」

 ソーキンズの言葉に、ジュビリーは思わず絶句した。

「よせ……! やめろ、ソーキンズ!」

 ジョンが必死に叫ぶが、ソーキンズは半狂乱に陥ったキリエをぐいと引き寄せると真正面から怒鳴りつけた。

「暢気なことぬかしてんじゃねぇぞッ! 今回の戦いで俺の部下が死んだ! 今回だけじゃねぇ。これまでに何百人もの人間が死んでるんだ! あんたのためにッ!」

「……!」

 恐怖に満ちていたキリエの目の色が変わる。

「あんたのために、これからも人が死んでいくことを忘れるなッ!」

 言うだけ言うと、ソーキンズはキリエを手荒く突き放した。解放されたキリエをジュビリーが受け止める。ソーキンズは両手を上げると声を張り上げた。

「これで気が済んだ。手打ちにでも何でもするがいいや!」

 思わずジュビリーが剣を抜き放った瞬間、ジョンが飛び出してくると跪く。

「義兄上ッ! 彼は、ソーキンズは大主教のために命懸けで戦いました! それは事実です! 何とぞご容赦を! 何とぞ……!」

 荒い息遣いで呼吸を繰り返すジュビリーの手を、キリエが震える手で押さえた。彼女はゆっくり剣を下ろさせると、崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。そして痙攣が止まらない両手を合わせるとソーキンズに向かって頭を下げた。

「……あ……、あなたの、言う通りだわ……」

 ソーキンズは眉を吊り上げると、幼い女王を見下ろした。

「私……、皆の犠牲を……、忘れていたわ……。ごめんなさい……!」

 ジュビリーは溜め込んでいた息を吐き出すと剣をゆっくり収めた。そしてそっと腰を屈めるとキリエの肩を抱く。

「……ソーキンズ」

 ジョンが恐る恐る海賊を見上げる。険しい表情をしていたソーキンズはやがてにやりと笑みを浮かべた。

「……話のわかるお姫さんだ」

「ソーキンズ!」

「これからが楽しみだな」

 キリエは涙で汚れた顔を上げた。海賊は相変わらず皮肉っぽい笑みで見下ろしている。キリエはジュビリーの手助けでゆっくりと立ち上がった。

「……ご苦労でした。……フィリップ・ソーキンズ」

 ソーキンズは再び頭を垂れると跪いた。


 大きな暖炉の前で、ゆったりとした椅子に腰掛けた隻眼の青年。彼の隣には厚手のショールを羽織った少女が寄り添っている。ふたつの影が明かりを受けてゆらゆらと揺れ動く。

「まだ痛むのか」

「……少しな」

 エレソナの問いかけにレノックスが言葉少なげに答える。エレソナがそっと手を伸ばすと左目の眼帯に触れる。

「これからもっと寒くなる。気をつけないと」

「ああ」

 レノックスは残された右目でエレソナを見つめると、わずかに口元をほころばせた。

「タイバーンは今頃、もっと寒いだろうな」

「…………」

「帰りたいか」

 兄の問いかけに、妹は眉間に皺を寄せた。

「帰ったところで、母上はいない」

「……そうだな」

 レノックスは目を伏せ、静かに息をついた。

「……失礼」

 背後から低く声をかけられ、二人は同時に振り向いた。険しい表情のシェルトンがひっそりと佇んでいる。

「ホワイトピークから斥候が戻りました」

「それで?」

 シェルトンは顔を横に振った。

「エスタド海軍が攻撃を仕掛けましたが、撃退されたようです。大主教はアングルに上陸しました」

 エレソナの目が悔しそうに眇められる。

「役立たずめ……!」

「だが、これでキリエの立場も危険になった」

「はい。ガルシア王は本格的にアングル侵攻を計画するでしょう」

 レノックスの顔が少しずつ強張り、ゆっくりと眼帯を押さえる。あの男の言葉が今でも頭から離れない。

「貴様は、殺そうと思えば殺せたはずのキリエを殺さなかった。だから、今は殺さないでおく」

 奥歯を噛みしめ、眉間の皴が深く刻まれる。情けをかけたつもりか。必ず後悔させてみせる……。

「また、策を立てねば」

「……はっ」


 翌朝、大主教一行がイングレスへ向けて出発する直前、ムンディはキリエを応接間に呼んだ。

「今のうちに伝えておかねばならぬ」

 顔を引きつらせ、一人立ち尽くしたキリエは、小さく頷いた。人払いをした広間にはムンディとキリエしかいない。老人は緊張を解くように穏やかに微笑んでみせた。

「いよいよ戴冠式だ。……こんな日がやってくるとは思いもしなかったであろう」

「……はい」

 キリエは眉をひそめ、目を伏せた。そうだ。つい一年前までは王都から遥か離れた田舎の教会で暮らしていたのだ。それが、このような運命が待っていようとは。

「ギョームが、そなたのことを天使と呼んでいた」

「えっ」

 思わぬ言葉に狼狽したキリエが真っ赤な顔を上げる。ムンディは静かに笑った。

「彼の言う通りだ。今この瞬間、そなたが私の前にいることは、決して偶然の結果ではない。そなたは天が地上に遣わした天使だ」

「猊下!」

「よく聞きなさい」

 言葉を遮られ、キリエは黙り込んだ。ムンディは椅子から立ち上がるとキリエに歩み寄った。

「私はギョームの戴冠式において、彼に〈聖使徒〉の称号を授けた。そなたには、〈聖女王〉を授けよう」

「……聖女王」

 キリエは恐る恐る言葉を繰り返す。

「エスタドのガルシアには〈天なる将軍〉を授けたが……、その称号を剥奪せねばならぬ日がくるであろうな」

 キリエは両目を見開き、大主教を凝視した。彼は相変わらず微笑みを浮かべたままだ。だが、射るように見つめてくる力強い瞳に、キリエは戦慄した。

「世界は……、まだまだ不完全だ。ヴァイス・クロイツ教の教えを守らぬエスタドとユヴェーレン。異端を奉じるクラシャンキ。世界を、ひとつにせねばならぬ」

「……はい」

「そなたとギョームがヴァイス・クロイツ教徒を導くのだ。そして、いずれそなたはひとつになった世界の頂きに立つことになる」

「……私が……?」

 両目を大きく見開いたキリエの肩にムンディが手を添える。

「ギョームには出来ぬ。修道女のそなたにしか出来ないのだ」

 キリエは泣き出しそうな顔でムンディを見つめた。王位を目指すまでにも多くの葛藤があったというのに、それ以上の存在になれと言うのか。大主教は、何をお考えなのだ? 体を小刻みに震わせ、今にもその場に座り込みそうな少女をムンディは優しく手を取った。

「もちろん、それはずっと先の話だ。まずは国内の混乱を鎮めねばなるまい」

「……はい……」

「よく、考えてくれ」

 ムンディは穏やかに、だが有無を言わさぬ口調で囁いた。思わず二人が黙り込むと、大時計の針がかちりと時を刻む音が響いた。

「……そろそろ参ろうか」

 ムンディに促され、キリエは扉を開いた。すると、廊下にはジュビリーを始めとした廷臣たちが緊張した面持ちで待機している。ジュビリーは青い顔をしたキリエに眉をひそめ、歩き出した彼女の隣に寄り添った。

「……大丈夫か」

 キリエは黙って頷くが、何か言いたげな視線を投げかけた。

城のアプローチを出ると、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の騎士たちが整然と並んでいる。そこでキリエは不意に立ち止まった。騎士団の背後で、船乗りの姿をした数人の男たちが見える。その中の一人を目にしたキリエは、思わず叫んだ。

「ソーキンズ!」

 廷臣たちが息を呑んで立ち止まる。騎士たちが後方を振り返って道を開けると、そこには海賊が迷惑そうに立ち尽くしていた。キリエがドレスの裾を持ち上げ、小走りで彼の元へと向かう。ジョンが戸惑いの様子でジュビリーを振り返るが、彼は顔を横に振った。

 やがて、キリエを前にしたソーキンズが静かに跪く。皆が見守る中、キリエはその場にしゃがみ込むと両手でソーキンズの右手を握った。

「女伯……!」

 廷臣や騎士たちがざわめくが、ソーキンズ本人は黙ったまま顔をしかめる。周りの困惑をよそに、キリエは海賊の右手を額に押し当て、静かに目を閉じた。

「……どうか、戴冠式が滞りなく執り行われ、ムンディ大主教をクロイツまで無事にお送りできますよう、天よ、お導き下さいませ」

 修道女の祈りの言葉。ソーキンズの懐疑的な色だった瞳がやがて確信へと変わってゆく。

「そして、あなたも無事にアングルへ帰還できますよう……」

 そこまで囁くとキリエはそっと目を開けた。目の前の浅黒く日焼けした海賊は真顔で見つめてきた。

「……いつか、エスタドと戦う日がやってきます。その時、あなたの助けが必要になるわ」

 キリエの言葉に、ソーキンズはにやりと笑みを浮かべると口を開いた。

「……〈戦う修道女〉か。いいねぇ」

 ソーキンズの言葉に、キリエはにっこりと微笑んだ。


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