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女王キリエ  作者: カイリ
第5章 聖女王戴冠
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第5章「聖女王戴冠」第2話

父の肖像画を描いた画家リッピとの出会い。父への複雑な思いが渦巻くキリエに休む時間はなかった。戴冠のため、大主教ムンディを迎えるために難題が持ち上がる。

 王都イングレスのプレセア宮殿。大広間の壁面に飾られている肖像画のひとつを前に佇む少女。彼女の隣には老臣が控えている。

 描かれているのは先王エドガー・オブ・アングル。艶やかな濃い栗毛に、鋭い眼光。自信に満ち溢れ、口許には微笑が浮かぶ。戴冠祝いに描かれたものだというが若々しく、端正な顔貌が印象的だ。若い頃とは言え、鍛えられ、均整の取れた体つきを見る限り、彼が突然の死に襲われたことが信じられない。

「……五四歳で身罷られました」

 同じく肖像画を見上げながらレスターがそっと囁く。

「お亡くなりになる直前に、レディ・セシリア・ハートが亡くなられ、ひどく落ち込んでおられたそうでございます」

「レディ……、セシリア?」

 キリエが眉をひそめて振り返る。その表情は強張り、声色も固い。

「ルール公の母君でございます。ご子息に振り回され、心労が重なった故に若死になさったのであろうと……」

 キリエはますます険しい表情で父エドガーの姿を見上げた。レノックスの母を振り回したのは息子だけでないだろう。自分たちを数奇な運命に翻弄したのは、他でもない父だ。その父も、今はこうして額縁の中でしか姿を見ることはできない。

 だが、キリエは父の肖像を目にしても何も思い出すことができなかった。自分を溺愛していたという父エドガー。優しく、自分を守ろうとしながら若くして亡くなった母ケイナも、何ひとつ思い出せない。幼かった故か、それとも……。

「……キリエ様」

 呼びかけられ、キリエは項垂れた。

「……髪の色が、私と同じだわ」

「はい」

「嫌だわ」

 そう短く吐き捨てると、キリエは素早く踵を返した。


 ちょうどその頃、ジュビリーを始めとした使節団がプレセア宮殿に帰還した。世に名高い宮廷画家リッピとその弟子らを連れての帰還に、宮殿内は驚きを持って迎え入れた。

「イングレスを訪れるのは久方ぶりです」

 謁見の間に向かう途中、飄々とした表情でリッピが言う。訛りはあるものの、多少アングル語を話せるらしい。

「……先王陛下の肖像画を手がけた時かな」

 エドガーの話題は極力避けたいジュビリーだったが、できるだけ不機嫌そうに見せないよう努めた。

「はい。よもやご息女をアングルの女王陛下として描かせていただくことになろうとは」

 謁見の間に到着すると、程なくして廷臣を連れたキリエが現れた。相変わらず居心地悪そうに玉座に座るとジュビリーに微笑みかける。

「ご苦労でした、クレド侯。戴冠式はどうでした?」

「大変華やかでございました。ギョーム王陛下のご立派な勇姿は見事でございました」

 そこで少し声を落とす。

「〈女王陛下〉がご列席になれなかったことを、大変残念がられていらっしゃいました」

「……そう」

 キリエは困ったように微笑を浮かべる。

「それから、ギョーム王陛下から、戴冠に先立って贈り物を賜りました」

「贈り物?」

 首を傾げるキリエに、ジュビリーがリッピを前に促す。彼は慇懃に跪き、頭を下げた。

「カンパニュラのヴァレンティノ・リッピと申します。この度のご即位、心よりお慶び申し上げます」

「ヴァレンティノ……、リッピ?」

 キリエの顔に驚きの色が広がる。

「まさか……、聖クロイツ大聖堂の天井画を手がけた?」

「はい」

 驚きのあまり両手で口を覆い、相手を凝視する。リッピの方は人懐っこそうな笑顔で見上げてくる。

「この度、ギョーム王陛下の肖像画、及び戴冠式のご様子を描かせていただきました。そのご縁で、ギョーム王陛下がぜひアングルの女王陛下を描いてもらいたい、と」

「陛下が……?」

 世俗に疎いキリエでも、リッピの王侯への報酬の高さは聞いていた。名高い画家に会えた喜びと、ギョームの意図がわからない戸惑いが入り交じった表情でジュビリーに目をやるが、彼は黙って頷くだけだ。

「実は、父君エドガー王陛下の肖像画も描かせていただきました。これも何かのご縁でございましょう。全力で描かせていただきます」

「……父を?」

 キリエの顔色がわずかに変わる。

「では、先ほど見た父の肖像画は……」

 傍らに控えたセヴィル伯が控えめに前へ進み出る。

「はっ。リッピ殿の手がけた肖像画でございます」

 思わず目の前でにこにこと笑い続けている画家を見つめる。

「……父を、覚えていらっしゃる?」

「もちろんでございます」

 口をつぐんだまま、何か言いたげな表情のキリエを見て取ると、セヴィル伯が穏やかな表情で呼びかける。

「せっかくでございますから、晩餐で四方山話をお聞きになられてはいかがですか?」

 キリエは一瞬だけジュビリーに視線を走らせたが、彼の表情はいつもと変わりはなかった。宮廷で国政に携われば、どうしても〈先王〉の話題は付き物になると、頭では理解しているらしい。

「では……、そうしましょう」

 キリエは困惑の表情を押し隠しながら呟いた。


 晩餐が終わった後、キリエは執務室にジュビリーを呼んだ。机に向かうなり、戴冠式の準備に関する書類を手に取る彼に、キリエが心配そうに声をかける。

「疲れているのに、晩餐まで付き合わせてしまってごめんなさい」

「宰相の務めだ」

「ギョーム様はお元気だった?」

「相変わらずだ」

 謁見の間や、晩餐では見せなかった表情でジュビリーは肩をすくめて見せた。

「他国に比べれば、我々は下にも置かぬもてなしを受けた。皆、注目していたことだろう」

「それはつまり……」

 キリエは不安そうに囁く。

「これからもアングルとの関係を重視するということ?」

「……そういうことになるな」

 いつになく歯切れの悪いジュビリーに、キリエは眉をひそめる。ギョームは、キリエが想像している〈関係〉とは違う〈関係〉を求めている。だが、これから戴冠式を控え、内政問題が山積しているキリエにはまだ言えない。

「それから……、エスタドの宰相に会った」

 エスタドと聞いてキリエの顔が引き締まる。

「宰相?」

「オリーヴ公ビセンテ・サルバドール。ガルシアの懐刀だ」

「それで……」

「早速、ギョームに牽制をしていた。あまり出しゃばらぬように、とな」

 キリエは頬杖をつくと、ため込んだ息を静かに吐き出した。レノックスやエレソナの動きも気になるが、大陸の覇者、エスタドも脅威だ。ジュビリーも溜息をつくと椅子に座ったまま伸びをする。その様子を目にして、キリエが心配そうに声をかける。

「大丈夫? 疲れたでしょう」

「……船がな」

 苦々しげにジュビリーが呟き、キリエは身を乗り出した。

「そんなにひどいの?」

 アングル島の中央に位置するグローリアの教会で育ったキリエは、船も海も見たことがないため想像もつかない。

「船に乗るのは十年ぶりだったからな……」

 疲れた声で呟くジュビリーを見つめ、やがてキリエは申し訳なさそうな顔つきで呟いた。

「……先ほどは、ごめんなさい」

「何がだ」

 ジュビリーは顔をしかめて聞き返す。

「……ずっと父の話ばかりだったでしょう。本当は、聞きたくなかったでしょうに……」

 晩餐では、リッピが語るエドガーの思い出話が中心となり、キリエはそわそわした態度で聞き入っていたのにジュビリーは気づいていた。

「……おまえが気にする必要はない」

 疲れた顔ながらもきっぱりと言い切る。そして、険しい顔つきで言い返す。

「そんなことより、おまえこそ体には気をつけろ。宰相の代わりはいても、女王の代わりはいないのだ」

 キリエはわずかに口を尖らすとじっと見つめてきた。そして、声をひそめて囁く。

「アングル女王は一人しかいない。……ジュビリー・バートランドも一人しかいないわ」

 キリエの鋭い目がまっすぐ見つめてくる。キリエからの信頼と思慕。それは、宰相としての重責以上に重くのしかかってきた。だが、不思議とそれが重荷だとは思わなかった。それが、自分で選んだ道なのだ。だがその時、ジュビリーの脳裏に微笑を浮かべたギョームの顔がよぎった。

 彼はゆっくり手を伸ばすと静かにキリエの指先をそっと握った。キリエの表情が少しずつほぐれてゆく。やがて、ジュビリーは手首を返すとキリエの指に自らの指を絡めた。温かく、力強いジュビリーの手に包まれているだけで、恐れも不安も薄れていく。キリエは目を閉じると優しく握り返した。彼に触れるのはずいぶん久しぶりのような気がする。彼がどれだけ自分の支えになっているのか、 キリエは痛烈に実感した。これから女王になると思うと不安ばかりが沸き起こる。だが、彼がいれば怖くない。彼がいなければ……。

 と、その時、不意に扉が叩かれる。二人はびくりと体を震わせ、目を見開いた。キリエは慌てて手を離そうとするが、ジュビリーがぐっと握り締める。キリエが驚きの表情で見つめる。そして、彼女の脳裏にジュビリーと初めて出会った日の光景が蘇る。あの時も、離そうとした自分の手を握り締めて離さなかった。あの時から、二人は手を携えてここまでやってきたのだ。

 俯いたジュビリーの顔を、揺れる燭台の灯りが照らす。暗い影のせいで、疲れた彼の顔が余計に痩せたように見える。左頬には、レノックスに斬りつけられた刀傷。思い詰めたその表情に、何かを押し隠しているように感じたキリエは胸元がざわついた。

「……ジュビリー……」

 ジュビリーは目を上げるとじっとキリエを見つめ、そして手を離すとゆっくり席を立った。

 キリエは思わず握り締めた両手で、破裂しそうな勢いで波打っている胸を押さえた。まるで、何か罪深いことをしたような、見てはいけないものを見てしまったような、言葉では言い表せない後ろめたさに彼女は動揺した。

「入れ」

「よろしいですか? 兄上」

 扉の外から聞こえてくる声に、キリエはほっとして振り返る。マリーエレンだ。

「女伯、お話中のところ、失礼いたします」

「どうしたの?」

 プレセア宮殿に来てから、マリーは宮廷女官長として多くの女官や侍女を統率する立場になり、多忙になった。その合間を縫って、キリエに宮廷での礼儀作法を再び教え込む毎日だ。

「お休み前に申し訳ございません。実は……、女伯に新しい侍女をご紹介しようと思いまして」

「侍女?」

 わざわざこんな時間に新しい侍女を紹介するなどマリーらしくもない。そう思ってキリエが首を傾げると、マリーが横へ退き、彼女の背後に隠れていた一人の少女が現れた。少女は旅装姿で、緊張した面持ちでじっとキリエを見つめている。マリーは優しく少女の肩に手を添えた。

「エクスから、たった今イングレスに到着したばかりなんですの」

「まぁ」

 エクスと言えば、イングレスから遥か離れた南アングル地方の港湾都市だ。

「エヴァ、ご挨拶を」

「は……、初めてお目にかかります……」

 少女はわずかに上ずった声でドレスの裾を持ち、跪いた。

「エクスの貿易商ヘクター・リードの娘、エヴァンジェリンと申します」

 エヴァンジェリン・リードは、明るい栗毛に愛らしい顔立ちの少女だった。だが、その表情は未来の女王を前にして、緊張で引きつっている。キリエは穏やかに微笑んだ。

「遠くから私のためにありがとう。お疲れになったでしょう」

「……え、いえ……」

 キリエから労わりの言葉をかけられるとは思ってもみなかったエヴァンジェリンは、戸惑いがちに言葉を濁す。

「おいくつかしら」

「……十五歳です」

「まぁ、私も来月で十五歳よ。同い年だわ」

 嬉しそうに声を上げると、キリエはエヴァンジェリンの手を取ると屈託のない笑顔を見せた。

「よろしく、エヴァンジェリン」

 女王に手を握られたエヴァンジェリンは喜びと戸惑いが入り混じった顔つきで相手を見つめると、慌ててその場に跪いた。

「い、一生懸命お仕えいたします!」


 翌日、早速リッピのデッサンが始まった。キリエには常に女官や侍従が付き従っていたが、リッピの要望でデッサン中はエヴァンジェリン・リードのみが室内に待機していた。部屋の隅で、エヴァが慣れない手つきでハーブティーを煎じている。

「大丈夫? エヴァ」

「は、はい、何とか」

 エヴァは緊張で上ずった声で返事を返し、キリエが思わず苦笑する。教会を出たばかりの頃の自分を見ているようだ。

「あまり緊張しないで。私、同じ年頃の友人がいないから、あなたが来てくれてとっても嬉しいわ。いろんなお話を聞かせて」

「は、はい」

 緊張は解けないものの、エヴァも嬉しそうな笑顔を見せる。

「それにしても、誰かに絵を描いてもらうなんて、初めてだわ」

 居心地悪そうに腰掛けたキリエがリッピに向かって苦笑を漏らす。

「描くだけならばすぐ描けますよ」

 澄ました顔でそう言うと、リッピは手元の紙に木炭でさらさらと流れるような手つきで、あっと言う間にキリエの顔を描いてみせた。ものの数秒で描いたものだが、見事に本人の特徴を捉えている。

「まぁ!」

 自分の似顔絵を見せられ、キリエは驚嘆した。

「エヴァ! 見て!」

「すごい……!」

 部屋の隅から歩み寄ったエヴァも目を丸くする。

「さすがね、リッピ殿!」

 久しぶりにキリエに明るい笑顔が弾ける。

「やっぱり、小さい頃から絵はお上手だったの?」

「さぁ……。自分の絵が上手いと思ったことはありませんな。ただ……」

 リッピはそこで片目をつむってみせた。

「他人の絵も上手いと思ったことはありませんがね」

 キリエとエヴァが思わず顔を見合わせ、そして同時に吹き出す。

「面白い方ね! 来ていただいて本当に良かったわ!」

 素直な笑顔に皮肉屋のリッピも思わず顔をほころばせた。

「ありがとうございます。私もギョーム王陛下に感謝せねばなりませぬ。女伯の肖像画を描かせていただけるのですから。……何やら因縁を感じてしまいますが」

「因縁?」

 キリエが首をかしげると、リッピは声を低めて答えた。

「実は……、エドガー王陛下だけでなく、レディ・ケイナ・アッサーの肖像画も描かせていただいたのです」

 キリエの表情が変わる。画家は目を細めて見つめてきた。

「確か……、女伯の母君とお聞きしておりますが……」

 すぐには言葉が出ず、黙って頷く。が、はっとして身を乗り出す。

「ひょっとして……、ワイン色のガウンを着て、ブーケを手にした姿の絵?」

「はい。ご覧になられたことが?」

「……グローリア城で見たわ」

 リッピは口元に微笑を浮かべながらデッサンを続ける。あの絵は、リッピの手によるものだったのか。キリエはわずかに狼狽の表情で口元に手をやる。

「リッピ殿、……母のこと、覚えておいで?」

「ええ。確か……」

 リッピはキャンバスを用意しながら顔をしかめた。

「お会いしたのはプレセア宮殿ではなく、別の小さな宮殿でした」

「ホワイト離宮?」

「そのような名前でした」

「父と母の他に、どなたか肖像画を描いた?」

「いいえ」

 物怖じしないリッピははっきりと答えた。

「アングルで描いたのは、エドガー王とレディ・ケイナのお二人だけです」

 妻を差し置いて愛人の肖像画を高名な画家に描かせる。それだけ父は母に愛情を注いでいたというのか。だが、キリエにはどうしてもわからなかった。母や自分に惜しみない愛情を注ぐ父。自分に刃を向けたエレソナを幽閉した父。残酷で横暴な息子レノックスを甘やかし続けた父。そして、臣下の美貌の妻を力ずくで奪った父……。とても同じ人間とは思えない。

「女伯」

 リッピが手を止めて顔を上げる。

「レディ・ケイナは……」

 キリエは寂しげに微笑んだ。

「……私が二歳の時に……、亡くなりました」

「……左様でございましたか」

「父も母も……、私、記憶がないの」

 リッピが気の毒そうに眉をひそめる。キリエの背後では、エヴァが息を呑み、両手を握りしめて話に聞き入っている。

「……皆、仰るの。私は母に似ていると。そして、いつも寂しそうだったと。……あなたが描いた母も、寂しそうに笑っていたわ」

 リッピはキャンバスから一、二歩離れると、窓の外に目をやった。

「一介の絵描きに過ぎない私に対し、とても良くしていただきました。ですが……」

リッピは申し訳なさそうに眉をひそめた。

「国王陛下の寵愛を受けておられるお方ということで、あまり私的なお話はしておりませぬ。女伯に何か思い出話をできればよかったのですが……。田舎へ帰りたいとは仰っておられましたな」

「そう……」

 グローリア城の片隅、母の墓標が目に浮かんだ。母は、亡くなる前に一度でもグローリアへ帰れたのだろうか。

「……ありがとう、リッピ殿」

 キリエは静かに微笑みながら囁いた。

「あなたのおかげで、母に会えたわ」

 その言葉にリッピは顔を上げると、小さく頷いた。

「今まで、色んな人たちを描いてきたのでしょう」

 キリエがやや明るい声で話題を変える。

「大陸中の王侯貴族の肖像画だけでも、大変な数ではないの?」

「そうでもありません。お断りしたお方も随分といらっしゃいますしね」

 キリエは肩をすくめると、エヴァと微笑み合った。

「今まで会った中で、一番素晴らしい方はどなた?」

「そうですな」

 リッピは筆を止めずに顔をしかめて記憶を辿った。キリエは期待を込めた目で見守った。歯に衣着せぬリッピのことだ。正直に話してくれることだろう。しばしの沈黙後、リッピは顔を上げた。

「エスタドの、ガルシア王陛下ですな」

 ガルシアの名を耳にして、キリエよりもエヴァが顔色を変えた。が、リッピ本人はそのまま言葉を続ける。

「あのお方は、百年に一人の逸材でございます。人を惹きつけるものがある」

「リッピ殿……!」

 エヴァが慌てて口を挟むが、キリエは「続けて」と促す。

「あなたがそこまで賞賛するのだもの。本当に、素晴らしい方なのでしょうね」

「ええ。何しろ器が大きい。大胆にして繊細。驚くほど知的で、先を見通す眼をお持ちです。そして、国と人を動かせる絶大な力を併せ持っておられる。大陸随一の君主と申し上げて良いでしょう」

 冷めた目で世界中の王族を見つめてきたリッピがここまで評価するとは。いつかは対決する日がやってくるかもしれない相手だ。キリエは心を静めて耳を傾けた。

「王妃を亡くされてからは、舵取り役がいらっしゃらなくなり、専横ぶりに拍車がかかるのではと懸念されていたようですが、その心配はないでしょう。頼もしい王太女がおられますからな」

 王太女というと、フアナ王女か。ギョームが婚約を拒んだという、ガルシアの長女……。

「フアナ王女は……、どんなお方?」

「幼い頃から父王の後継者として育てられ、御年よりもずっと落ち着いたお方です。母君の優しさと、父君の強さを併せ持っておられます。ですが……」

 リッピがそこで言葉を切り、キリエは思わず彼を見つめた。

「それ故、苦悩されるでしょうな」

 苦悩。その言葉がやけに頭に残る。為政者に優しさなど必要ないのか。キリエは、まだ見ぬエスタドの王と王女に思いを巡らせた。

「ガリアのギョーム王陛下もなかなかの人物でございますが、何せまだお若い。まぁ、裏を返せば、あの御年であれだけの実行力は末恐ろしさも感じますが」

 キリエの脳裏に、穏やかな笑顔の中にも、情熱を秘めた力強い瞳を持ったギョームが蘇る。エスタドに対抗し、自国の独立を守るためには、彼との同盟は必要不可欠になるだろう。だが、彼はいつまで自分に対して穏やかな友人でいてくれるのか。

 不安な気持ちを押し隠し、眉をひそめて黙り込んでいたキリエだったが、その時不意に扉を叩く音が響き、ぎょっとして顔を上げる。エヴァが慌てて扉を開けに走る。

「女伯」

 ジュビリーの声。キリエの表情が引き締まる。

「クロイツから使者が参りました」

 キリエが思わず立ち上がる。そして、申し訳なさそうな表情でリッピを振り返る。が、リッピ本人は筆を机に置くと頭を下げる。

「どうぞ。執務を優先なさって下さい」

「ごめんなさい。また後で」

 キリエは両手を合わせて会釈をすると、客間を後にした。

 部屋を出ると、ジュビリーをはじめとした多くの廷臣が待っている。キリエは先ほどまでの穏やかな表情から一転し、緊迫した面持ちで執務室へ向かった。廷臣たちを引き連れて大廊下(ギャラリー)を移動するキリエを、すれ違う貴族や従者たちが深々と頭を下げてゆく。

「使者によると」

 隣のジュビリーが声を潜めて囁く。

「大主教は迎えが来ればすぐにでもこちらへ向かうつもりらしい。だが、航路に問題がある」

「航路?」

 キリエが振り返りながら尋ね、ジュビリーは顔をしかめて言い添えた。

「エスタドの沿岸を航行することになる」

 キリエはジュビリーをそっと見上げた。いつもと変わらない鋭い目。だが、昨夜のどこか思い詰めた表情が忘れられなかった。久しぶりに彼に触れたことよりも、今まで見たことのない表情に戸惑い、胸騒ぎを覚えた。いつも無表情の仮面をかぶっているジュビリーの、本当の顔を垣間見た気がしたのだ。

 執務室に入ると、すぐさまアングル島及びプレシアス大陸の海図が用意された。

「クロイツは大陸の中央に位置しており、南下すれば対立しているユヴェーレンを縦断することになります。それに、今の季節は北からの航路は非常に危険です。そのため、南からの海路を選ぶことになります」

 ジュビリーの説明に、セヴィル伯が付け加える。

「北上経路でしたら、親クロイツ派のカンパニュラを縦断することになり、比較的安全です。しかし、カンパニュラに到達するまでにエスタドの沿岸を通過することになります」

 キリエは眉をひそめて顔を上げる。

「まさか……、大主教の船を襲うなんてことは……」

「しかし、何が起こるか予想がつきません」

 レスターが控えめに、だが重々しく告げる。

「もちろん、こちらから海軍の艦隊を編成し、充分な護衛をつけねばなりません。しかし、一年半に渡った内戦で、今の我が国には組織だった海軍の艦船はごくわずかしか残されていません」

「その、わずかな艦船も沿岸警備に配備され、大主教の迎えに回すのは非常に難しい状況です」

「最近、北アングル海域で海賊が横行しておりますし……」

「では、どうすれば……」

 廷臣たちから次々と投げられる難題に、キリエは困惑の表情で海図を見つめて呟く。廷臣たちが意見を交わすがこれといった解決策は出てこない。自分たちが引き起こした王位継承戦争のため、今アングルがどれだけの苦境に立たされているのか、キリエは今更ながら思い知らされた。細い指を額に当て、顔を歪ませる。

「……戴冠式だけではないわ。大主教が無事クロイツまでご帰還されて、初めて私の即位は完了したことになります」

「……御意」

 皆が重苦しい表情で頷く。キリエが思い悩む姿をジュビリーがじっと見つめる。一様に押し黙る廷臣たちを一瞥すると、どこか諦めの表情で溜息をつき、重い口を開いた。

「……あくまで、ひとつの提案ですが」

「何?」

 厳しい表情のままジュビリーが続ける。

「精鋭の艦船を数隻手配し……、優秀な指揮官を起用することで危険を避ける方法があります」

「優秀な指揮官……。心当たりはあるの?」

 ジュビリー自身、あまり乗り気ではないのか、やや躊躇いがちに答える。

「フィリップ・ソーキンズです」

「ソーキンズ?」

 廷臣たちがざわめき、キリエは眉をひそめる。が、中でもレスターが息を呑んでジュビリーを凝視したのに彼女は気づかなかった。

「誰?」

「海賊ですよ!」

 半ば呆れた顔つきでセヴィル伯が叫び、キリエは驚いてジュビリーを振り返る。

「ムンディ大主教をお迎えするのに、海賊など……!」

 廷臣たちの抗議にジュビリーは毅然とした態度で言い返す。

「確かに彼は海賊だ。だが、同時に〈サー〉の称号を持つ騎士でもある」

「それは……、そうですが……」

 室内のどよめきは静まる気配はなく、キリエは体を乗り出して尋ねる。

「海賊なのに騎士だなんて、どういうこと?」

「……エスタドの海軍や貿易船を襲撃した功を認められ、先王陛下が騎士号を叙位されたのです」

 そんなことが実際にあるものなのか。キリエはにわかには信じがたい話に困惑した。

「詳しく説明して」

「エスタドは、極東のクラシャンキ帝国など、東方の国々と積極的に貿易を行っています。その船を襲い、奪った金品の大部分を王家に納めていたのです」

「海賊が……、王家に?」

 キリエは呆れた表情で声を上げるが、レスターがおずおずと口を挟む。

「ただ略奪行為のみをしていたわけではありません。ガリア内戦においては、隙をついてガリアに近づいた〈所属不明〉の船舶を撃破しています」

「所属不明……」

「海域からして、エスタド海軍でしょう」

「……本当に海賊なの?」

 キリエの疑問にジュビリーが答える。

「本来ならば罰せられる略奪行為も、アングルにとっては利益になる。そのため、騎士号を与えて臣従の契約を交わし、国の戦闘行為に参加させる。私設海軍のようなものです」

「……どんな人?」

「頭のいい男です。実力はあります」

「会ったことがあるの?」

 何気ないキリエの一言に、ジュビリーは一瞬顔を強張らせ、低く呟く。

「……騎士号が授与されることを伝えに、モーティマーと共にホワイトピーク沖まで赴いたことがあります」

 いつもと違うジュビリーにようやく気づいたキリエは顔をしかめると、ちらりとレスターに目をやるが、彼は険しい表情のままうな垂れている。廷臣たちは未だに懐疑的な表情だが、他に良い案も出そうになかった。ジュビリーにとってもひとつの賭けであろう。彼のためにも、決断を下さねばならない。キリエはジュビリーの態度を気にしながらも皆に呼びかけた。

「他に、良い案はありますか?」

 ざわめきが静まり、皆顔を見合わせるが、誰も声を上げない。キリエはすっと背筋を伸ばした。

「できるだけ海軍の船を集めましょう。クレド侯、フィリップ・ソーキンズの件はお任せします」

「御意」

 皆が一斉に深々と頭を下げ、席を立つ。

「……侯爵」

 レスターがそっと声をかけるが、ジュビリーは黙って頷いただけだった。


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