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女王キリエ  作者: カイリ
第4章 ガリアの若獅子王
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第4章「ガリアの若獅子王」第6話

キリエが王都を奪取したことに気づいたレノックスは怒り狂って軍を差し向けた。迎撃するジュビリー。両者はついに一騎打ちを繰り広げる。

 イングレスを取り囲んだ神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の陣に、斥候が舞い戻った。

「来ました!」

 緊張に顔を引きつらせた斥候が叫ぶ。

「ルール公とマーブル伯の軍勢がこちらへ向かっています!」

 ヘルツォークの傍らに控えた騎士が振り返る。

「イングレスのグローリア女伯は滞りなく王位を宣言され、クレド伯の軍も間もなくこちらへ到着されるようです」

「ギョーム王太子は?」

 ヘルツォークの問いに別の斥候が答える。

「リシャール王と共にホワイトピークへ向かっておられます」

「予定通りだな。見事だ」

 満足げな表情で呟くと、ヘルツォークは馬の手綱を操り、騎士たちを振り返った。

「皆の者、聞け!」

 騎士団長の叫びに皆が注目する。

「〈冷血公〉と〈タイバーンの雌狼〉の後見人がこちらへ向かっている! 何があっても王都に入れてはならぬ! グローリア女伯はすでに王位を宣言した!」

 騎士たちに歓声が上がる。ヘルツォークはなおも続けた。

「ムンディ大主教は、グローリア女伯をアングル女王にとお望みだ。つまり、それは天の思し召しでもある。女伯に敵対する者は天に背く反逆者である! 冷血公の犯した罪を、忘れてはおるまいな!」

 彼の呼びかけに、皆が口々に叫ぶ。

「奴はカトラー大司教を殺した!」

「アングルの平和を乱した大罪人だ!」

「それだけではない!」

 ヘルツォークの言葉に、一同がやや静まる。

「冷血公は、天を恐れぬエスタドのガルシア王と手を結ぼうとしている。断じて許すわけにはいかぬ。我々は、敗けるわけにはいかんのだ!」

 一段と大きな雄叫びが上がり、皆は槍を天に突き立てた。

「冷血公に神の鉄槌を!」

「冷血公に神の裁きを!」

 騎士たちを見渡し、大きく頷いたヘルツォークは馬首を巡らすと剣を引き抜いた。太陽の光を受けた剣はきらりと鋭い煌きを放つ。

「我ら神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の誇りに賭けて! 出陣だ!」

 鬨の声を上げ、騎士たちは一斉に馬を駆り立てた。


 わずかに出遅れたレノックスも、すぐにシェルトンの軍に追いついた。ふたつの軍勢は併走してイングレスを目指した。

(〈ロンディニウム教会の修道女〉だと? とんだ策士だ!)

 馬を駆りながらレノックスは歯噛みした。そして、策士という言葉に思い当たる。異母妹には優秀な参謀がいる。ガリアの王太子とも通じていたとすれば、すべては仕組まれていたことになる。異国の侵略者を我々に駆逐させ、その隙に王都を奪う。あの小娘の知恵とは思えない。やはりあの男……、ジュビリー・バートランドを消さねば。あの男が存在する限り、何度でも自分の前に立ちはだかる。

(この戦いで息の根を止めてやる。奴が死ねば、キリエも王位を望むまい。……元の修道女に戻してやる)

 レノックスの脳裏に、つい昨日の光景が過ぎる。晩餐の席で束の間、父の思い出話をした。幼い異母妹は自分が語る言葉に引き込まれ、黙って耳を傾けていた。それが今、自分を出し抜き、王都を手中に入れようとしている。油断した。修道女としての誇りを持つ彼女が抜け駆けをするはずがないと、心のどこかで侮っていた。

 その時、先陣の集団から警告を促すラッパの音が鳴り響いた。レノックスは冑のバイザーを上げ、目を凝らす。遥か先に武装した集団が陣を張っている。洗練された美しい白銀の甲冑姿。神聖ヴァイス・クロイツ騎士団だ。レノックスはちっと舌打ちをする。なるほど、ギョームとクロイツは最初からキリエをアングルの女王に擁立するために手を組んでいたわけか。

「神の使いが聞いて呆れるわッ……!」

 苦々しげに吐き捨てると、レノックスは剣を引き抜くと天に向かって振り上げた。

「裏切り者からイングレスを奪い返すぞ!」

 ルール軍の兵士たちは一斉に雄叫びを上げると武器を突き立てた。神聖ヴァイス・クロイツ騎士団の騎兵たちは一斉に槍を構え、横一文字になってルール軍とマーブル軍を迎え撃った。

 両軍が激突した瞬間、大地が揺れた。雄叫びと馬の嘶きが天まで届くほどに沸き起こり、その場は一瞬にして血の海と化した。数に勝るはずのルール軍とマーブル軍だったが、騎士団は精鋭の集まりだった。一歩も引かない相手に、レノックスがひそかに舌を巻く。

(さすが、ユヴェーレン相手に戦ってきただけのことはある……)

 クロイツがユヴェーレンから独立を宣言してから今日まで、両者は争いを続けてきたのだ。その日々は、プレシアス大陸でも最強と謳われる騎士団を育て上げた。そして、その強さの根底には篤い信仰心があった。

「神はお護り下さる! 神はお護り下さる!」

 騎士たちの大音声に、ルールの兵士らは怯んだ。クレドやグローリアほど保守的な地域ではないが、元々アングル人は信心深い。ルール軍とマーブル軍に少しずつ動揺が広がる。そんな兵士らに業を煮やしたレノックスが怒鳴り声を上げる。

「黙れ! 神聖騎士団が聞いて呆れるわ! 貴様らは裏切り者だ! 裏切り者にイングレスを奪われてたまるかッ!」

 レノックスは罵声を浴びせかけると、周囲に群がる騎士を次々となぎ倒した。一人の騎士が槍を構えるが、レノックスの軍馬が前足を跳ね上げて蹴り倒す。背後で剣が風を切る音を察知すると振り返りざまに相手を斬り裂く。更に襲いかかる敵の剣を盾で跳ね返し、甲冑の隙間に剣を突き立てる。見る見るうちに返り血に染まってゆく鎧姿に、騎士たちは思わず息を呑んで呻いた。

「獣め……!」

「狂った獣だ……!」

 レノックスは兜を外すと髪を振り乱して吼えた。

「馬鹿め!」

 血走った目で辺りを見渡し、周りの騎士は思わず手綱を引いて馬を後退させる。

「私を誰だと思っている! 私はレノックス・ハート・オブ・アングルだ!」

 レノックスの咆哮にルール軍は勢いを盛り返した。雄叫びを上げ、一斉に攻撃を仕掛ける。その光景を目にしたシェルトンも部下に呼びかける。

「イングレスをグローリア女伯に奪われるわけにはいかん! ルール公に続け!」

 勢いづいたマーブル軍も一斉に攻勢に転じる。騎士団の後方で指揮を執るヘルツォークは顔を歪めて歯噛みした。

「……獣以下だ……。……悪魔め!」

 次々と騎士を屠るレノックスは、じわじわとヘルツォークに迫りつつあった。彼はおもむろに剣の柄に手をかけた。

(……奴一人を消せばルール軍は総崩れになる。ならば、早い段階で……)

 ヘルツォークが剣を抜こうとした時。突然ルールの軍勢から悲鳴と罵声が沸き起こる。

「!」

 レノックスが顔を歪めて振り返る。後方の兵士らが次々と崩れ落ちてゆく。そして、その体には例外なく太く長い矢が深々と突き刺さっている。

(ロングボウ!)

 レノックスの両目が見開かれ、悔しげに歯ぎしりする。

「バートランド……!」

 一方、クレド軍の到着に気づいたヘルツォークは表情をかすかにゆるめた。

「なるほど。到着が遅いと思っていたが、背後から挟撃に出たか」

 レノックスの目が、横一列に配備されたロングボウ隊を捉える。と同時に、射手たちの間を割って騎馬隊が突進してくる。レノックスは舌打ちすると迎撃の号令をかける。

「公爵!」

 振り返ると、手傷を負ったヒューイットが馬を寄せてくる。

「退却なさいますかッ」

「駄目だ!」

 間髪を入れずに怒鳴り返す。

「今イングレスを奪われるわけにはいかん! キリエは今やクロイツと繋がりを持っている。王都を手中に入れれば、すぐさま戴冠するだろう。今退いてはならん!」

 言い分はもっともだったが、神聖ヴァイス・クロイツ騎士団とクレド軍を同時に相手にするのは無謀に近い。兵士らはすでにリシャール軍との戦いで疲弊している。今共に戦っているマーブル軍も、真の味方とは言えない。それは、レノックスにもわかっていた。彼は恨めしげにクレドの紋章旗を凝視した。

 疲労が最高潮に達しながらも、ルール軍は奮戦した。戦好きのレノックスがこれまで遠征で磨き上げてきた自慢の軍勢だ。リシャールがガリア内戦で持ちこたえられたのも、レノックスの援軍があったためだ。だが、一方のクレド軍は今回のリシャール戦はまともに戦っていないため、ほとんど疲労がない。ルール軍はじわじわと防戦一方となってきた。

 戦場の遥か後方に、騎乗の騎士が二人並んでいる。

「……さすがに押され気味ですね。しかし、相変わらずルール公の戦いぶりといったら……」

 ジョンの呟きに、兜を脇に抱えたジュビリーが頷く。そして空を見上げると目を眇める。そろそろ日が傾き始める頃だ。

「……ジョン」

「はい」

 ジョンが振り向くと、ジュビリーは険しい表情で戦場を見つめていた。

「おまえの部隊で、冷血公を孤立させてくれ」

「……義兄上」

 思わず目を見開くジョンに、ジュビリーは短く「頼む」と呟くと兜を被った。


 ジュビリーたちがいる位置よりもっと戦場に近い場所に、数十騎の騎馬隊が佇んでいた。

「見えますか」

 騎士の一人が呼びかけ、先頭の小柄な騎士が兜のバイザーを上げる。そこに現れたのは、紛れもなくエレソナ・タイバーンのやぶ睨みの目だった。

「……何故だ」

 エレソナは顔をしかめて呟く。

「何故兄上がクロイツと戦っている」

「どうやら、クロイツとクレド、ルールとマーブルに分かれているようですね」

 エレソナが不審げに戦いの様子を目で追う。傍らの騎士が険しい表情で声を上げる。

「よもや……、グローリア女伯がイングレスを占拠したのでは」

 その言葉にエレソナはきっと振り返る。

「もしくは、ルール公がイングレスを攻めようとしたのを、クレド伯が阻止しようとしているのか……」

 だが、陣形を見る限り、イングレスを背にした神聖ヴァイス・クロイツ騎士団がルール軍の侵攻を食い止めようとし、クレド軍が加勢しているように見える。

「ブリーで戦っているはずのリシャールとギョームは何処にいる」

「…………」

 戦場には、ガリア王国の紋章旗〈白百合〉は見当たらない。騎士は不安げな表情で辺りに視線を泳がせる。エレソナは苛立たしげにふんと鼻を鳴らすと命令を下した。

「シェルトンを探せ。それと、イングレスの様子を見に行かせろ」

「はッ」

 二人の斥候が馬の腹を蹴って駆り立てた。

「クロイツとクレドが共同戦線を張っているように見えますが……。そうだとすると、グローリア女伯は今何処に……」

「あの小娘……」

 エレソナが小さく呟き、騎士は思わず息を呑む。彼女は目を細め、戦場を見つめていた。

「共同戦線ということは、キリエがクロイツと手を組んだということだ。あの娘、このまま戴冠するつもりだ。……虫も殺せぬような顔をしながら……、雌狐めが!」

「で、では、ギョーム王太子は最初から女伯を王位に就けるつもりで同盟を……」

 エレソナの脳裏に、昨日の同盟会議の様子が思い浮かんだ。自分や異母兄レノックスに対し、恐れと怒りが入り交じった態度で臨んでいたキリエ。そのキリエにギョームが優しく声をかけていたのを覚えていた。

(私も兄上も騙された……。修道女の化けの皮を被った雌狐と、悪魔のように狡猾な王太子に……!)

 二人に愚弄されたことに怒りを抑えられないエレソナだったが、今眼前で繰り広げられている戦いを目にすると冷静にならざるを得ない。

 広大な領地と莫大な財産を持つ兄レノックスをもってしても、キリエの台頭を抑えることはできなかった。キリエは女伯爵という身分ではあっても、実質は世間知らずの修道女に過ぎない。だが、その修道女という身分を逆手に取って民衆の支持を得た。そして、知略に長けた参謀と、情報を巧みに操る老臣がいる。エレソナにもシェルトンという忠臣がいるが、彼一人では限界がある。

 エレソナは複雑な胸中で天を仰いだ。瞳を閉じると病床の母の姿が浮かぶ。

(……母上……)

 戦場のざわめきを遠くに聞きながら呟く。

(私の望みは王位ではなく……、復讐よ。私たちから父上を奪い、十二年という時間を奪ったあの小娘への復讐……!)

 怒りの感情は、おぼろげに残る幼い頃の記憶を蘇らせた。


 あの日は四歳の誕生日だった。プレセア宮殿を訪れると、父から誕生祝いに金細工の美しい髪飾りをもらった。ご機嫌で意気揚々と帰途についたエレソナだったが、そこへ異母兄レノックスが現れた。

「似合わぬものをもらったな」

 そう言って兄は髪飾りをむしり取った。泣き喚きながら兄を追いかけ、その様子を貴族たちは皆嘲りの笑みを浮かべて見守っていた。そして、追い討ちをかけるように、「彼」が現れた。

「レノックス、エレソナ、仲良くしなければなりませんよ」

 もうひとりの異母兄、ヒース。彼は自分たちと違い、父から絶大な愛情と期待をかけられていた。だが、自分たちはいつだって嘲笑の的だった。何をしても「妾腹が」と冷たい言葉を浴びせかけられる。顔を合わせば喧嘩ばかりしていたレノックスだったが、本当は心の奥底では同じ思いを抱えていた。何故、ヒースとキリエは父に可愛がられるのか……。

 エレソナは幼い頃から暴れ者で手がつけられなかったが、エドガーにとっては初めて生まれた女子ということもあり、それなりに可愛がられていた。だが、ケイナ・アッサーが現れた頃から、まずアリス・タイバーンへの寵愛が薄れた。エドガーは移り気な愛人アリスと、その凶暴な娘エレソナを次第に疎んじるようになった。そして、ケイナがキリエを生んだことで、エドガーの心はタイバーン親子から完全に離れた。異母妹を可愛がる父を目の当たりにし、エレソナはついに怒りを爆発させた。

「気が触れた娘を殺せ!」

 斧で妹に襲いかかったエレソナに、エドガーは処刑を命じた。しかし、余りにも幼いエレソナを処刑することは王の評価を下げると恐れた側近たちの取りなしで、彼女は処刑を免れた。だが、待っていたのは寒々とした狭い塔の一室での幽閉だった。

 最初の数ヶ月は、気が狂ったように自由を求めて脱走を試みたが、やがて狭苦しい空間は、立ち上がるのも困難なほどエレソナの体から筋力を奪っていった。

 二年ほど経った頃、エレソナに初めて世話係がつけられた。それが領主の娘、ローザ・シャイナーだった。無口で我慢強いローザは、傍若無人なエレソナに対しても常に服従の態度を崩さなかった。そんなローザにエレソナは次第に心を許すようになり、少しずつ感情の抑制を学んでいった。今あるエレソナは、ローザが育てたといっても過言ではない。

「……せっかく塔から出てこられたのだ」

 エレソナは低く呟いた。

「私は、私の体を使って復讐を遂げる……!」

 そして、目を見開くと眼前の戦場を見渡す。

「復讐のためならば……、私は手段を選ばない」

 傍らの騎士が息を呑む。エレソナはゆっくりと兜のバイザーを下ろした。

「行くぞ」


 プレセア宮殿の玉座の間では廷臣たちが忙しげに行き交い、騒然としていた。

 キリエの頭痛は激しさを増し、吐き気すら感じていたが、今この場から姿を消すわけにはいかないと、青い顔のまま玉座に座り込んでいた。辺りを見渡すと、見知らぬ貴族たちや、どこかよそよそしさを感じる侍従たちばかりで、頼れる者と言えばモーティマーとセヴィル伯ぐらいだ。だが、彼らも険しい顔つきで立ち働いており、声をかけるのも憚られた。彼女は不意に心細さを感じて身を強張らせた。早くマリーエレンやレスターを呼び寄せたい。そして、一刻も早くジュビリーの無事な姿を見たかった。

「女伯!」

 廷臣の一人が声を上げ、キリエは重い体を起こした。

「女伯の王位宣言を支持する諸侯が、使者が派遣し始めております」

 少し考え込むと、キリエは出陣前にジュビリーに言い含められたことを思い返した。

「……沿岸地域の諸侯には、防衛に努めるよう伝えて。エスタドやユヴェーレンの動きに警戒するよう」

「はッ」

 キリエが辛そうに溜息を吐き出すと、傍らから侍従がそっと杯を差し出す。

「えっ?」

「サー・ロバートが……」

 侍従はそれ以上余計なことは言わずに頭を下げる。キリエは杯を受け取ると、冷たい水を少しずつ口にした。しばらくすると、モーティマーが傍らにやってくる。

「女伯、ご気分が優れないのでは……。少し横になられますか」

「……大丈夫。ありがとう」

「しかし……」

 モーティマーが眉をひそめて言い淀んだ時。

「女伯! ギョーム王太子の使者が謁見を求めております!」

 一際大きな声にその場がざわめいたが、キリエは片手を上げて静かにさせる。

「……お通しして」

 甲冑を身につけた物々しい使者の一団が玉座の間に現れ、一同は興味深そうに視線を送った。使者たちは恭しく跪くと頭を垂れた。

「女王陛下」

 流暢なアングル語での呼びかけに、その場は一瞬静まり返り、使者へ視線が集中した。

「プレセア宮殿へのご無事の入城、慶賀の至りに存じます」

 キリエはわずかに引きつった笑顔を見せた。

「……ありがとう。でも、私はまだ戴冠していないので女伯とお呼び下さい」

「我が君、ギョーム王太子殿下が〈女王陛下〉とお呼びするようにと……」

 真っ直ぐのぞき込むように見つめてくるギョームの顔が思い出された。彼らしい命令だ。キリエは苦笑すると頷いた。

「殿下は今……」

「リシャール王陛下と共にホワイトピークを出港されました。誠に勝手ながら、ホワイトピーク城に相当数の部隊を駐留させております故、彼の地の防衛は万全でございます」

「それは……、助かります。本当にありがとう」

 使者は言葉を接いだ。

「王太子殿下はご自分もアングルに留まり、ぜひとも女王陛下のお力になりたいとお望みでございましたが、本国を長く留守にすることは国民の不安を招くとして、残念ながらご帰還と相成りました。戴冠した暁には、改めて謝辞を言上いたしたいと……」

 使者の慇懃な言葉遣いにキリエは内心舌を巻いた。彼は「王太子殿下」「女王陛下」と呼んでいるが、実質、同等扱いだ。一国の君主となると、人々の態度はこうも変わるものか。まだ自分は修道女であると頑なに思い続けていたキリエは、このまま王位に就くことに不安を覚え始めた。そっと辺りを見渡すと、見知らぬ廷臣たちが自分や使者を見守っている。この場にジュビリーがいないことに、キリエはかすかに体が震えるほど緊張を覚えた。

「……ギョーム王太子殿下に……、お心遣い感謝いたしますと……」

 キリエが口ごもりながら述べている最中に、大廊下からざわめきが聞こえたかと思うと、甲冑が触れ合う音が響き、キリエは表情を引き締めた。

「申し上げます!」

 前へ通された斥候は、息を切らして跪いた。

「現在イングレス郊外にて、ルール公とマーブル伯の進軍をクレド伯と神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が食い止めております!」

「戦況は」

「我が軍が優勢でございます。ルール公の敗走も時間の問題ではないかと。クレド伯が、各地に包囲網を張るようと……」

 勝利を確信した廷臣たちが安堵と喜びの声を上げる中、キリエは声を高めた。

「警戒を怠らないよう。戦況は逐一報告して下さい」

「はッ」

 人々に明るい表情が戻り、キリエもほっと息をついた。が、その時だった。肩の力が抜けたと同時に、視界がすぅっと暗くなったかと思うと体がぐらりと傾く。

「女伯ッ!」

 玉座から崩れ落ちようとするキリエに気づいたモーティマーが駆け寄ると頭を支える。

「女伯……!」

 キリエの乱れた前髪を撫で分けて額に手を当てると燃えるように熱い。

「医者を呼べ。早くッ!」

 その場が騒然となり、召使いや侍従たちが慌てて行き交う中、キリエは暗い眠りの淵へと引きずりこまれていった。


 イングレス郊外での死闘は激しさを増していた。ほとんどの騎士は馬を失い、一騎打ちの白兵戦を繰り広げている。そんな中でもレノックスは軍馬を巧みに操り、敵兵を次々と屠っていく。彼の直属の騎士たちは主君の周りを離れずに戦いを続けていた。

 レノックスがさすがに疲労を感じて大きく息を吐き出した時。不意に背後から雄叫びを上げながら騎士の一団が突進してきた。レノックスの部下たちは即座に敵兵を相手に槍を振るうが、彼らは巧みにレノックスたちを戦場から引き離す。

「公爵!」

 主君が戦いながらその場を離れてゆくのを目にしたヒューイットは声を限りに叫ぶ。

「公爵をお守りしろ!」

 だが、そのヒューイットの呼びかけに応じたのは味方ではなく、敵方のクレド軍の騎士だった。レノックスを追おうとするヒューイットの周囲を瞬時に取り囲むクレド軍に、彼は顔を歪めて応戦した。

「いかん……! 公爵が……!」

 一方、敵兵と剣を交えていたレノックスの目が黒馬に跨った騎士を捉えた。

「……!」

 相手は挑発するように剣の切っ先を向けてくる。その黒い甲冑には見覚えがあった。

「バートランド!」

 レノックスは怒鳴り声を上げると目の前の敵兵を薙ぎ倒し、手綱を引いた。と、相手も馬首を巡らすと背を向ける。

「待て!」

 レノックスは馬の腹を蹴ると駆り立てる。

「公爵! 罠です! 公爵!」

 ジュビリーを追うレノックスにヒューイットが叫ぶが、彼の耳には届かなかった。

 疲労で気力が萎えかけていたレノックスだったが、ジュビリーの姿を目にするや怒りが込み上げた。全速でその場を脱しようとするジュビリーを、懸命に追いかける。いつしか戦場から遠く離れ、敵も味方も周りにいないことにレノックスは気づいていなかった。

「待て!」

 手綱を握り締めながらレノックスが吼える。

「どこまで逃げるつもりだッ!」

 その言葉が届いたのか、ジュビリーは速度をゆるめると振り向きざまに剣を向ける。その姿を見てレノックスは顔を歪めて怒鳴った。

「裏切り者め……。汚い山師めッ!」

「裏切りだと?」

 ジュビリーが低い声で返し、レノックスはさらに罵声を浴びせかけた。

「貴様のやったことは裏切り以外の何物でもないッ! 私とシェルトンにリシャールの相手をさせておき、その間にイングレスを奪うとはッ……!」

「黙れッ!」

 ジュビリーが間髪を入れずに一喝する。

「貴様、自分の妹に何をした? 忘れたとは言わさぬぞ……!」

 ジュビリーの言葉に、レノックスは目を細めると薄ら笑いを浮かべた。

「……くくッ……、何を言い出すかと思えば……。そうか、貴様はあれが二度目か。守るべき女を奪われたのは。しかし、キリエは運がいい。命も体も奪われずに済んだのだからな」

 その言葉を最後まで聞かないうちにジュビリーは剣を構えると突進した。レノックスの表情は喜びへと変貌した。レノックスにとっては、死力を尽くして闘い合える相手がいることが無上の喜びなのだ。

 打ちかかるジュビリーの剣を受け流すと返す剣で襲い掛かる。ジュビリーは左手の盾でレノックスの剣を弾き返し、鋭く突きを繰り出す。鎧の脇を突かれ、よろめいたレノックスに容赦なく打ちかかるが、レノックスも渾身の力を振り絞って横一文字に剣を振りぬく。怯んだ軍馬が棒立ちになり、前足でレノックスの馬の頭部を蹴りつける。が、すぐに体勢を持ち直すとレノックスの長剣がジュビリーの兜を直撃した。

「……!」

 一瞬目の前が真っ暗になり、平衡感覚を失ったジュビリーはとっさにレノックスの胸倉に掴みかかり、両者は馬から雪崩落ちた。

「くそッ!」

 レノックスが罵声を上げるが、疲労が重なった重い体を起すには時間がかかった。その間、ジュビリーは兜を脱ぐと足元に放り投げた。流れる汗が黒髪を濡らし、顎鬚が不快そうに肌に張り付いている。

「……!」

 ようやく体を起したレノックスは、左手の盾を外すと両手で剣を握り締めて振り下ろした。ジュビリーも下段から剣を打ち返し、二人は地上で切り結んだ。ジュビリーよりも体格が勝るレノックスはじりじりと相手を追い詰めていったが、ジュビリーの鋭い剣捌きに次第に体力を奪われてゆく。

「バートランドッ!」

 剣を打ち返してからレノックスが怒鳴る。

「何故あんな小娘のためにここまで戦う? キリエが女王になれば、この国は滅ぶぞ! それでもいいのかッ!」

 それに対し、ジュビリーは答えずに無言で斬りかかる。

「世間知らずの修道女が、エスタドやユヴェーレンから国を守れると、本気で信じているのかッ!」

「そうだ!」

 ジュビリーが短く叫ぶ。レノックスは荒い息遣いで相手を凝視する。ジュビリーは目を眇め、剣を握りなおして腰を低く落とした。

「……それが、私の使命だ」

「はッ!」

 レノックスが笑い声を上げると相手を見下ろした。

「使命だと? 笑わせるなッ。貴様がしていることは、私怨の復讐に過ぎん! キリエはその道具だ!」

 ジュビリーの体がびくりと震える。両目を見開き、食いしばった口から搾り出すように呻く。

「違うッ……!」

「違うものかッ!」

 レノックスは剣を両手で構えたまま、ゆっくりと距離を詰めてくる。

「考えてもみろ。キリエは、貴様の妻を辱めた男の娘だ。……憎かろう? 父上はすでに死んだ。だから、代わりにキリエに罪を償わせるつもりだろう。何も知らずに育った修道女を苦しめ、いたぶるために……!」

「やめろッ!」

 ジュビリーが叫ぶと同時に、両者は再び剣を振り上げると切り結んだ。顔を歪め、鬼の形相で斬りかかるジュビリーに、レノックスは下卑た笑みで迎え撃った。剣と剣がぶつかり合う鋭い音が響き、二人は我を忘れて打ち合った。数回打ちかかると、レノックスは剣を交えたまま体を押し付け、ジュビリーの足を踵ですくい上げた。

「ッ!」

 そのまま後ろに倒れこんだジュビリーの顔目がけてレノックスが剣を突き立てるが、ジュビリーは必死に顔を背け、剣の切っ先が左頬を切り裂く。真っ赤な血が噴出し、顔を歪めるジュビリーを覗き込むと、レノックスは狂気に満ちた笑みを浮かべ、相手に馬乗りになると剣を振り上げた。

 その時、ジュビリーは左手を腰に回すと短剣を引き抜いた。レノックスが剣を振り下ろすと同時にジュビリーは渾身の力を振り絞って上半身を起すと相手の顔面に向かって短剣を投げつけた。

「がッ!」

 一瞬、レノックスの体が硬直すると、悲鳴を上げてその場に倒れこむ。

「ぐううぅッ……!」

「……!」

 叫び声を上げながら地面にのた打ち回るレノックス。顔面に突き刺さった短剣が抜け落ち、地面に転がる。

「ああ……、ああああッ!」

 無我夢中で投げつけた短剣だったが、それはレノックスの右目を直撃したらしい。言葉にならない呻き声を上げ、体を震わせるレノックスをぼんやりと見つめていたジュビリーは、やがてよろめきながら立ち上がった。そして剣の切っ先をレノックスの首に向けるが、荒い息遣いで手元が定まらない。レノックスの顔から溢れる血は次第に血溜まりを作り、彼の鎧を真っ赤に染めてゆく。ジュビリーは唇を噛み締め、相手をじっと見つめていたが、やがて相手の腕を取って体を起こす。手で覆い隠した顔から鮮血が滴り落ちる。ジュビリーはレノックスの耳元に口を近づけると囁いた。

「……覚えているか、冷血公」

「うぅッ…………!」

 当然のことながらレノックスは答えない。ジュビリーは構わずに続けた。

「貴様はあの時、殺そうと思えば殺せたはずのキリエを殺さなかった。だから、今は貴様を殺さないでおく」

 一瞬、レノックスがぶるっと体を震わせ、何か言いたげに唇を動かすが、言葉らしい言葉は口から漏れてはこなかった。

「……貴様の体から、最後の血の一滴が流れ落ちる前に助けが来れば良いがな」

 そう言い捨てると、ジュビリーはレノックスを地面に押し付けた。そして、握り締めたままだった長剣を鞘に収めると、左手で頬の血を拭った。一度だけ、地に伏したレノックスを一瞥し、ジュビリーは痛みに顔を歪めながらゆっくりと歩き出すと自らの軍馬に跨った。

 ジュビリーの馬が遠ざかっていく音を、レノックスは遠い場所での出来事のように聞いていた。体が急激に体温を下げ、視界が暗くなってゆく。気が遠くなり、痛みすらわからなくなった彼の耳に、再び馬が地を蹴る音が聞こえてきた。

「冷血公です!」

 男の声だ。

「息はあるか」

「お待ち下さい」

 その言葉がレノックスの耳に届いた最後の声だった。馬を下りた騎士は、慎重にレノックスに近寄り、首筋にそっと手を当てる。

「……まだ生きておいでです」

「顔に傷が……」

「右目をやられています」

「哀れな……」

 騎士は振り返ると主君を仰ぎ見た。そこにいたのは、馬に跨ったままのエレソナ・タイバーンだった。

「いかが計らいましょう」

「連れて帰る」

 エレソナは当然のように答えた。

「応急処置を。終わり次第、この場から離脱する」

「はッ」


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