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女王キリエ  作者: カイリ
第4章 ガリアの若獅子王
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第4章「ガリアの若獅子王」第2話

ついに集結した庶子たち。それぞれの思惑が交錯する中、ギョームがキリエに近付く。

 大広間に用意されたテーブルにそれぞれの陣営が席に着いた。

 ジュビリーは数年ぶりに会うシェルトンを一瞥した。王の愛妾に手を出した男という印象しかなかったが、こうして自分と同じように君主を擁立するべく挙兵する立場になろうとは思いもしなかった。向こうもジュビリーの視線に気づくが、無言で見つめ返してくるだけだ。

「最初に申し上げておきたい」

 ギョームは相変わらず流暢なアングル語で述べた。

「アングルをガリアの内戦に巻き込んだことは私の本意ではない。だが、累を及ぼしたのは事実であり、謝罪させていただく」

 ギョームがわずかに固い表情で頭を下げる。

「前置きはいい」

 レノックスが冷たく言い放つ。

「リシャール王はすでに動き始めた。早い内に事を進めねば」

「もっともだ」

 それについては異論のないギョームは素直に頷いた。

「状況は?」

 王太子の問いかけに、ジュビリーが「レスター」と名を呼ぶ。

「はっ。最新の情報では、リシャール王は自ら軍を率いて隣接するブリー公領を攻撃中であります。プレセア宮殿は、王太后を守るユヴェーレン騎士団が今も占拠したままでございます」

「ホワイトピークは?」

「リシャール王がアングルに上陸した直後に呼び寄せた残りの軍が、現在も駐留しております」

 レスターの言葉を継いでジュビリーが主張する。

「リシャール王はこの半年の間にガリアから呼び寄せた多くの軍勢を率いております。……ブリー公は苦戦を強いられているとのことです」

「腐っても国王、か……」

 レノックスの呟きにキリエは肝を冷やした。そして恐る恐るギョームの顔色を窺うが、本人は涼しい顔をしている。ギョームの軍は決して父王相手に苦戦をしていたわけではなく、むしろ圧倒していたのだ。

「王とホワイトピークを同時に攻撃し、その後プレセア宮殿を挟撃するのが最良ではないかと」

「なるほど」

 ギョームが小さく頷くが、レノックスは不機嫌そうな顔つきで身を乗り出した。

「誰がリシャールを攻撃し、誰がホワイトピークを攻めるのだ」

「攻撃については、援軍が加わる予定だ」

「援軍?」

 首を傾げるキリエにギョームが意味深に微笑むとゆっくり言い放つ。

「神聖ヴァイス・クロイツ騎士団です」

「クロイツ?」

 毒でも吐き出すような顔つきでレノックスが呟く。ジュビリーは表情を変えないながらも内心舌打ちした。なるほど、そういうことか。

「ただ、大主教が仰せには、あくまでリシャール王討伐のためであり、決してルール公を支援するわけではない、と」

「余計なことをッ……」

 いらついた態度でレノックスが毒づき、キリエははらはらしながら兄と従兄弟に視線を彷徨わせた。一方、ギョームは自信ありげな表情で冷血公を見つめる。

「我々ガリア軍とクロイツの騎士団が行動を共にする。ルール公、そなたはやりにくかろう」

「こちらから願い下げだ!」

 レノックスが思わず声を荒らげ、ヒューイットが慌ててなだめる。

「とにかく」

 ジュビリーの太い声がその場を静かにさせた。

「援軍は援軍として……。それでは、ホワイトピークはガリア軍と神聖ヴァイス・クロイツ騎士団が海上攻撃を。リシャール王は我々アングルの陣営が攻撃するということでよろしいか?」

 レノックスは苦り切った顔つきで黙り込み、ジュビリーはギョームを振り返る。

「よろしいでしょうか、殿下」

「もちろん」

 ギョームは物腰の柔らかな仕草で頷いてみせる。そうした振る舞いのひとつひとつがレノックスの神経を逆撫でする。

「しかし、それならばブリーとプレセア宮殿を同時に攻撃できるのではないか?」

「それはできん」

 レノックスが短く言い切る。

「宮殿が陥落すれば、そのままその軍勢が居座ることになる。抜け駆けは許さぬ」

 抜け駆けという言葉に思わずジュビリーが含み笑いを漏らす。抜け駆けをするのではないかと一番疑われているのはレノックス本人だ。

「では、あくまで一斉にリシャール王を攻撃するということで……」

 その時、ギョームがわずかに思い詰めた表情で体を乗り出す。

「……父を、確実に捕らえてほしい」

 キリエはギョームをじっと見つめた。息子でありながら父に反逆し、異国の地まで追いかけてきた王太子。何が彼をそこまで駆り立てる? キリエには、理解できなかった。

「父にはまだ、ガリア王としてせねばならぬことが残っている。生きたまま捕らえてほしい」

 ジュビリーはレノックスを見やった。

「……ではルール公、あなたに先陣をお任せしたい。あなたは彼と共に戦った経験をお持ちだ」

「……ああ、そうだ」

 ふてくされたように言い放つと、レノックスはギョームを睨みつけた。

「絵に描いたような無能の王だった。なるほど、息子に背かれるわけだ」

「レノックス!」

 キリエが避難めいた声を上げる。が、ギョームは静かに手を挙げてキリエを制すると、レノックスを見返す。

「そうだ。私が一番よく知っている」

 レノックスは調子に乗ると顔を上げ、ギョームを見下すようにして続けた。

「優柔不断で無責任。他力本願の甲斐性なしだ。奴の臆病さには手を焼いた。だが、それに比べて王太子。あなたは父親の面影が全くないな。……本当にリシャール王の息子か? さては母親の不義の子か」

 その場が一瞬にして凍り付く。ギョームが人一倍母親への思慕の念が強いことを知っているバラは思わず腰を浮かしかけたが、ギョームが素早くそれを制する。キリエが真っ青になってギョームを見つめる。見た目には、彼は静かにレノックスを凝視している。が、やがてゆっくり目を細めると口を開いた。

「……なるほど。さすが妾腹の子は言うことが違う」

 レノックスが椅子を蹴って立ち上がる。

「妾腹だと……!」

「公爵……!」

 ヒューイットがとっさにレノックスの腕を取るが振りほどかれる。

「確かに、庶子には違いない……。だが王位継承権者だ! あなたが口車に乗せた、キリエもな! 同じ妾腹(めかけばら)だ!」

 キリエが思わず泣き出しそうな表情で口元を手で覆う。ギョームが鋭い目で席を立とうとしたその時。

「馬鹿馬鹿しい」

 女の低い声が響き、レノックスははっとして振り返った。エレソナが腕組みをしながら、一人つまらなげに溜め息をつく。キリエは、思わぬ展開に息を呑む。

「頭を冷やせ、男ども」

 言いながらエレソナはギョームとレノックスを交互に目をやる。

「父母の元でぬくぬくと育ってきた者が何をぬかす? ……なぁ、キリエ」

 姉に同意を求められ、キリエは石像のように固まる。エレソナは四歳で幽閉され、キリエは二歳で教会に預けられている。レノックスとギョームは気まずそうに口をつぐむ。

「続けろ」

 エレソナは、会談の進行をジュビリーが握っていることを知った上で先を促した。彼はレノックスに一瞥をくれると、腰を下ろすよう手を差し伸べる。冷血公はまだ怒りがおさまらない様子で椅子に座り込む。強張った表情でレノックスを凝視していたギョームは、キリエの視線を感じて振り返った。おどおどした表情の彼女にギョームは詫びるように微笑む。

「……では、ブリー公領への進軍について細かい戦略を」

「お待ち下さい」

 そこで初めてシェルトンが声を上げる。

「この同盟の有効期間は?」

 あからさまとも言える問いに、皆が思わず黙り込むが、そこが最も重要な点だった。ギョームが体を乗り出し、声を高める。

「父を拘束し、私と父がアングルを出国するまでで良いのではないかな? もっとも、アングル内戦の早期終結のためには、そのまま話し合いの席を持つべきだとは思うが……」

 彼はそこで言葉を切り、微笑を浮かべた。

「……私が口出しする問題ではないな」

 その通り、とヒューイットはひそかに肩をすくめた。

「ところで」

 再びエレソナが口を開いた。

「王太子殿下はお国を留守になさって大丈夫なのか?」

 エレソナの言葉にギョームが振り返る。

「エスタドのガルシア王があなたの不在を黙って見ているかな」

「ご心配なく」

 ギョームは相変わらず丁寧な口調で答えた。

「ガリアの防衛は、叔父に任せてあります」

 リシャールの弟、レイムス公シャルルは最初兄を支持していたが、やがて甥のギョーム側へと寝返っている。シャルルの妻はエスタドの属国レオン公国の公女ロベルタだが、レオンの独立を強く願う彼女は、エスタドとの対決を宣言しているギョームが王位に就くことを望んでいたのだ。

「バーガンディ公国の軍にもガリアとエスタドの国境警備に協力させている。確かに、できれば早々にこの問題を解決させ、帰国したいのが本音ではあるが」

 バーガンディ公国はガリアの属国だ。叔父や属国への根回しといい、ギョームはすでに君主としての才能を発揮している。ジュビリーは、少年の面影を残したままの美しい王太子の横顔をじっと見つめた。


 その後、進軍や配置について細かな取り決めが話し合われ、会談が終わる頃には日も落ちていた。一同は翌朝にそれぞれの領地へ戻ることになった。

 晩餐では、毒でも盛っているのではないかとヒューイットは警戒心を露わにしていたが、主君のレノックスは気にする風もなく、遠慮なく料理を口にしていた。もしも毒殺を謀れば、キリエの信頼を失う。ジュビリーがそんな浅はかな真似をするとは思えなかったのだ。

 晩餐とは言え、顔ぶれが顔ぶれだけに終始静かなものだった。互いの腹を探り合いながらの食事は気が滅入り、元々食の細いキリエはいつも以上に黙り込んでいた。食事が進まないキリエに、不意にエレソナが声をかける。

「食べないのか」

「えっ?」

 エレソナに話しかけられるとは思わなかったキリエはびっくりして顔を上げる。

「……あ、あの……」

 緊張してうまく話せない妹に、エレソナが冷笑を浮かべる。

「ここは教会ではない。好きなだけ食べられるだろうに」

 何か答えようとするがどう返せばいいかわからないキリエは、戸惑いの表情のまま食事の手が止まってしまった。少し離れた席のジュビリーが不安げに視線を送る。

「私は昔、食欲がなかった」

 エレソナが静かに続ける。

「狭い塔に閉じこめられ、体を動かせなかったからな」

 それが今、甲冑をまとい、馬を乗り回す女騎士になろうとは。そんな日々が待っていようとは、本人も思わなかったに違いない。だが、その原因はエレソナがキリエを殺そうとしたからだ。キリエは強張った顔つきで姉を恐々と見つめる。

「……キリエは」

 不意にレノックスが口を開き、姉妹が顔を上げる。

「父上の記憶はなかろう」

 キリエは固い表情のままレノックスを凝視するが、やがて小さく頷く。記憶があるとすれば、エレソナに殺されかけた時の夢。「気の触れた娘を殺せ!」という声だけだ。

「おまえが生まれてから、父上はレディ・ケイナがいるホワイト離宮に入り浸りだった。子どもが生まれたのは初めてではなかろうに、傍から見ていてもおかしいぐらいのはしゃぎようだった」

 レノックスはワインを仰ぐと息をついた。

「最初のうちは、何かにつけておまえたちをプレセア宮殿に呼び寄せていたが、そのうち妃があからさまに嫌がらせをしてくるようになって、レディ・ケイナはホワイト離宮に篭るようになった」

 キリエは思わずレノックスの言葉に引き込まれて身を乗り出した。彼はわずかに穏やかな表情でキリエを見つめた。

「どんな父上だったか知りたいか。知りたければ、話してやろう。……こんな機会はもうないだろうからな」

 レスターが心配そうにジュビリーを振り返るが、彼は険しい表情で顔を振るだけだ。キリエはしばらく黙り込んだ。母のことはレスターやマリーエレンから話を聞くことがあったが、父のことは誰も語ろうとしない。キリエ自身、聞こうともしなかった。だが……。

「女好きで酒好き。よく、名も知れない女たちと共にイングレスの居酒屋に繰り出しては呑んだくれていた。かと思えばユヴェーレンやエスタドといった大陸の列強と巧みな駆け引きを続ける。……たいした男だ」

 キリエはそっと隣のエレソナを振り返った。姉は、険しい表情のまま兄に視線を向けている。思えば、長く父の側にいたのは兄妹の中でもレノックスだけだ。

「……母から話には聞いている」

 不意にギョームが口を開き、庶子たちは一斉に振り返った。

「母と伯父は兄妹仲が良かったらしく、伯父からよく手紙が届いていた。女好きな自分のことは棚に上げて、父とうまくいっていない母をいつも心配していたそうだ」

 レノックスは、ギョームの言葉に意味ありげに含み笑いを漏らした。

 キリエは複雑な表情で俯いた。その、女にだらしない性格が自分たちを生み、運命を狂わせた。王としての技量はあったかもしれないが、彼が周囲に振り撒いた災禍は計り知れない。キリエは思わず小さく呟いた。

「……父上の思い出なんかいらない」

 レノックスとエレソナは俯いた妹を見つめた。ギョームも思わず眉をひそめる。

 レノックスにとっては、自分を甘やかし続けた父親。エレソナにとっては、わずか四歳の自分を生涯幽閉するよう命じた非情な父親。その父親が最後に溺愛したのがキリエだった。いや、正確には、溺愛していたレディ・ケイナが生んだ娘だったということだ。

 子どもたちの中で最も成長を楽しみにしていたのはヒースだったが、キリエは女児故に理屈抜きで盲愛された。そのキリエには父の記憶はほとんどない。運命の皮肉に、三人は複雑な思いを胸に沈黙する。居心地悪そうに俯くキリエを、ギョームはじっと見つめていた。

 晩餐が終わり、一同はそれぞれ割り当てられた客間へと向かった。暗い階段を降り、皆が角を回った時。ギョームがジュビリーの目を盗むとキリエの手を取って物陰に引き込む。

「……!」

 声を上げようとしたキリエの口を優しく手で塞ぐと、人差し指を自分の唇に当てる。

「キリエ様」

 顔を寄せると耳元で囁く。キリエは顔を真っ赤にさせ、両目を見開いて王太子を見つめた。

「隙を見てプレセア宮殿を占拠して下さい。そうすれば、後は戴冠を待つのみです。大主教もその用意をしています」

 キリエは驚きと緊張のあまり顔を引きつらせ、ただ相手を凝視するばかりだ。ギョームは口許からそっと手を離すが、もう片方の手でキリエの右手をしっかりと握りしめた。

「……殿下……」

 震える声で囁くキリエにギョームは穏やかに微笑む。

「ギョームとお呼び下さい。我々は対等です。私は未来のガリア王。あなたは、未来のアングル女王です。あなたが女王になるためなら、私は力を惜しみません」

「……でも、私、兄たちを出し抜くことなど……」

「ルール公やレディ・エレソナはあなたを非難するでしょう。しかし、国民はあなたが君主となることを望んでいます」

 キリエはギョームの瞳から目を離せず、息を呑む。やがて、ギョームはそっと手を離した。彼は周りを気にする素振りを見せると「参りましょう」と呟き、キリエをホールへ連れ出す。ちょうど、キリエの姿が見えないことに気づいたジュビリーが振り返ったところだった。キリエの強張った表情にジュビリーはわずかに眉をひそめるが、ただ黙って見つめてくるだけだった。


 翌朝。緊張で眠れなかったキリエは顔色がよくないまま皆と朝食を済ませた。

「キリエ様」

 食堂を出ようとするキリエにギョームが呼びかける。

「昨夜は眠れなかったのでしょう。大丈夫ですか」

 心配そうに顔を覗き込んでくる王太子にキリエは頬を染めて俯く。

「だ、大丈夫です。申し訳ございません、ご心配おかけして……」

「謝ることはないですよ」

 にっこりと微笑まれ、ますます顔を赤くするキリエを、ヒューイットを連れたレノックスが不機嫌そうに見守る。

 やがてレノックスとエレソナの出立の準備が整い、キリエは彼らを見送るためにアプローチへ向かった。そこでは、ちょうどエレソナがレノックスに手を差し伸べているところだった。

「兄上、またお会いしましょう」

 レノックスはふんと鼻で笑うと、慇懃に手を取り、跪いて見せた。エレソナは満足したように笑みを浮かべる。しかし、妹を振り返った時にはすでにその笑みも消えていた。

「……キリエ」

 姉に名を呼ばれ、キリエは思わずごくりと唾を飲み込む。しばらく見つめた後、エレソナは狐のように目を細めると囁いた。

「……何故、あんな真似を」

「え……」

「ローランドでのことだ」

 キリエはじっと姉を凝視した。やぶ睨みの瞳は焦点が定まらず、キリエは言い様のない不安に駆られた。エレソナが答えを促すように一歩前へ出る。キリエは小さな声で答えた。

「……私にも……、わからない……」

 それを耳にすると、エレソナは口の端を上げてにやりと笑った。しばらく無言で嗤っていたエレソナはやがて顔を寄せるとキリエの耳元で低く囁く。

「……おまえのそういうところが許せん」

 背筋に寒気が走り、キリエは思わず体を震わせた。エレソナは鼻で笑うとそのまま背を向けた。去ってゆく後姿を見守るキリエに、後ろから声が投げかけられる。

「キリエ」

 振り返ると、レノックスが壁のように立ちはだかっている。冷たい笑み。昨夜、父の思い出を語っていた時の穏やかな表情は、今はない。静かに手を差し出され、キリエは後ずさりした。ジュビリーよりもわずかに背が高いレノックスは、まさに巨人のようだった。大きな手は、見つめているとそのまま襲い掛かってきそうに見える。そうだ、この手だ。この手が自分の口を押さえ、ワンピースを引き裂き、胸をまさぐった。この手が! キリエの胸が早鐘を打ち鳴らしたように波打つ。ローランドで克服したと思っていた恐怖心は、まだ胸の奥深くに眠っていた。思わず息苦しい胸に手をやった時。

「三人が顔を合わせるのはこれで最後かもしれん」

 眉をひそめ、大きく見開いた目で見上げるキリエ。レノックスの唇に残忍な笑みが浮かぶ。

「ヒースも呼べばよかったな」

 ヒースの名を耳にしたキリエは思わず声を上げようとしたが、怒りで唇が震え、何も言えずにただ相手を睨み付ける。キリエが唯一慕う兄弟、ヒースの光を奪ったのは、今目の前にいるこの男だ。そう思うと、自分でも抑えられない怒りが込み上げてくる。そんな妹を愉快そうに眺めていたレノックスは、突然手を伸ばしたかと思うと彼女の手をぐっと握り締めた。

「……!」

 キリエの背筋に寒気が走る。彼女が思わず腰を折りそうになった瞬間にレノックスは手を離したが、倒れこみそうになったキリエをいつのまにか背後にいたジュビリーが片手で支える。荒い息遣いで無言のまま凝視するキリエにレノックスはにやりと笑いかける。

「……私は強くなるぞ」

「……え?」

「私はもっと強くなる。おまえはどうかな?」

 それだけを言い残すと、レノックスは背を向けた。その後姿を見守るキリエの耳元でジュビリーが囁く。

「……大丈夫か」

 息を整えながら頷くキリエの元に、心配そうな顔つきでギョームが歩み寄る。

「……キリエ様」

「だ、大丈夫です」

 慌ててキリエが背筋を伸ばし、ジュビリーもさりげなく手を離す。

「では、私はガリアへ戻ります」

「はい。……殿下もお気をつけて」

「ギョームです」

 にっこりと微笑まれ、キリエは困ったように笑みを零す。

「……ギョーム様」

 ジュビリーに促され、キリエはそっと右手を差し出した。ギョームはその手を取ると恭しく跪いた。

またお会いしましょう(ア・ビアント)

 ギョームは熱っぽく囁くと唇をそっとキリエの手に押し付けた。その思いがけず柔らかな唇の感触に彼女は顔を赤らめると小さく囁いた。

「……では、また(サリュ)

 嬉しそうに微笑んだ若い王太子は、立ち上がると踵を返した。彼の後姿をじっと見送るジュビリーに、キリエはそっと呟いた。

「……ジュビリー」

 振り返ると、キリエが何か言いたげな表情で見上げてくる。そっと体を屈めると耳元で囁く。

「……ギョーム様が、王都を奪還するようにと」

 ジュビリーは黙ってキリエを見つめた。


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