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女王キリエ  作者: カイリ
第3章 ローランド会戦
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第3章「ローランド会戦」第6話

これ以上犠牲者を増やしたくない。そう決意を新たにしたキリエの下に、思いがけない人物が訪れる。

 ジュビリーの誕生日を機に、キリエは改めて内戦状態からの脱却と王都奪還の決意を新たにした。だが、侵略者リシャールがいつ攻め込んでくるのか、いつ何が起こるかわからない状況に、クレドの領民の間では重い空気が漂っていた。そんな中、キリエはできる限り周辺の町や村を訪れ、領民を励ますことにした。自分にできることをできる限りしよう。そう考えた結果だった。

 三月になったものの、まだ寒さが厳しいある日。キリエは最後の訪問地を訪れた。十年間暮らした村、ロンディニウムである。去年の誕生日に近くまで訪れながらも、その地へ踏み込む勇気が持てなかったが、いつまでも避けてはいられない。キリエは不安に満ちた表情でアガサの背に揺られていた。

 見覚えのある教会の鐘楼が見えてくると、キリエは急に胸が締め付けられるのを感じ、顔を歪めた。同行したレスターが、その様子を黙って見守っている。他の村では、冷血公に臆することなく戦ったキリエを温かく迎え入れてくれた。だが、故郷ロンディニウムは、内戦を引き起こした自分を許してくれるだろうか。

 やがて、一行は村の門をくぐった。すると、作業をしていた村人たちが彼らに気づき、手を休めて振り返る。アガサを止めさせるとキリエは降り立った。その所作を見守っていた村人たちは、ゆっくり被り物を取ると地面にひれ伏した。その光景に、息を呑んだキリエは思わず涙ぐんだ。元々静かだった村は、彼女の訪問で墓場のように静まり返った。見覚えのある者たちがそこかしこに見える。懐かしいはずの故郷は、見知らぬ異質の地へと変わっていた。震える手を合わせると、キリエは片膝を突いて敬礼する。しばらく祈りを続けるキリエを、レスターが立ち上がるよう促す。一行は沈黙のまま、教会へ向かった。

 教会では、村長と新しい司教が出迎えた。

「……ようこそおいで下さいました。グローリア女伯」

 あまり親しかったわけではないが、教会の修道女としてよく顔を合わせていた村長は、緊張もあり、よそよそしい挨拶を述べた。

「……村の生活は、どうですか」

「滞りなく……」

「本当に? 困っていることがあれば、何でも仰って下さい」

 キリエの言葉に、村長は気の毒そうな顔つきで見上げると、顔を横に振る。

「……戦争さえ終われば、何も申し上げることはございません」

 キリエは、沈痛の表情で頷いた。

 その後、キリエは教会の庭へ向かった。そこには、ロレインの墓があった。もっと早くここへ来るべきだった。キリエは後悔を胸に、墓標に向かって手を合わせる。

(……ただいま帰りました、ロレイン様)

 閉じた瞼が震え始める。

(……ごめんなさい、ロレイン様……。私のせいで、あなたは……)

 脳裏に、ロレインの最期の苦悶の表情がよぎる。自分は、一生この記憶と向き合っていかねばならない。自分の軽率な行動で大事な人を失ってしまったことを、一生後悔してゆくのだ。キリエは一心に祈りの言葉を呟いた。そして、ゆっくりと顔を上げる。

(私、ロレイン様に言われたように、良き女王になります。でも、本当に、これでいいのでしょうか。私は女王になれるのでしょうか。……向かい合わなければならない問題が、多すぎます)

 弱音を漏らすキリエに、墓標は何も答えない。キリエは静かに、目の前の墓標を見つめる。墓石には〈信仰と真実の護り人〉と彫られている。ロレインにふさわしい言葉だ。

 ロレインとの約束を守り、村人の信頼を取り戻すためには、リシャールをイングレスから駆逐し、異母兄姉との争いを制して女王になるしかない。キリエは、心細さを感じて肩を落とした。

(ロレイン様、お願い。私を見守っていて……)

 冷たい風が頬を撫で、キリエはゆっくりと顔を上げると鐘楼を見つめた。ここで鐘を突くのが大好きだった。ここから見える景色も大好きだった。そして、いつも隣にいたロレインも、大好きだった。教会を出て八ヶ月。……まだ、八ヶ月しか経っていないのだ。しばらく鐘楼を見上げていたキリエに、背後からレスターがそっと声をかけてきた。

「……キリエ様」

 黙ってゆっくり立ち上がり、一行は村の門へ戻った。待たせていたアガサに跨り、振り返ったキリエが手綱を握る手を止めた。

 一行を見守る数人の村人が見える。修道士や、普段から教会によく出入りしていた農夫たちだ。彼らはじっとこちらを見つめると、両手を静かに合わせた。キリエの目から静かに涙が零れ落ちる。

 あの頃に、戻りたい。

 叶わぬ思いを胸に、キリエは手綱を引いた。

 

 キリエたちが戻ると、城はどこか浮き足だったようなざわめきが起きていた。自室に戻ろうとするキリエを、慌てふためいた様子でジョンが駆け寄ってくる。

「キリエ様、お帰りをお待ちしておりました!」

「どうしたの?」

 まだ沈んだ表情のキリエに気づいたジョンは、言葉を続けるべきか一瞬迷った顔つきになった。キリエは笑顔を作ると「何?」と聞き返す。

「はい、実は、仕官を願う騎士の一団が訪れているのですが、それが、その……」

 ジョンはどう説明したものか、困り果てた表情で言い淀み、キリエは思わずレスターと顔を見合わせる。

「仕官を願う騎士?」

「ええ、相当腕に覚えがあるらしく、ぜひ剣舞(けんばい)を見ていただきたいと。それで、キリエ様の後見人であり、クレドの城主である義兄上が代わりに挨拶を受けようとしたところ、自分たちはクレド伯爵ではなく、グローリア女伯爵にお仕えしたいのだ、と」

「そのような無礼なことを?」

 レスターが眉をひそめる。

「それで、ジュビリーは?」

「それが……、『では女伯が戻るまでそこで待つが良い』と、大広間に待たせたままで……」

 それを聞いたキリエは慌てて身を翻し、大広間へ向かった。

 一方、大広間では、揃いの鎧を身につけた騎士たちをクレドの家臣や従者たちが遠巻きに見守っていた。彼らの統率者らしき青年が一歩前に進み出ており、ジュビリーと睨み合いを続けている。その後ろでは、マリーエレンがそわそわした様子で見守っている。

 やがて、外から慌ただしい靴音が響き、ジュビリーが顔の表情を変えないまま呟く。

「……今戻ったようだ。お待たせして申し訳ない」

 凛々しい顔つきの青年は、優雅な身のこなしで頭を下げた。彼が頭を上げると同時に、扉を開け放つ音が響きわたる。

「ジュビリー!」

 緊張した顔つきでキリエが足早にジュビリーの元へ向かう。

「……この者たちが女伯に仕官を願っているそうだ」

 どこか他人事のような言い方に、キリエは思わずぞっとした。ジュビリーは、相当機嫌を損ねている。キリエはわずかに顔を引きつらせて、騎士たちに向かって手を合わせる。

「私が……、キリエ・アッサーです。お待たせして、申し訳ございません」

 騎士たちは片膝を突くと恭しく頭を垂れた。その整然とした身のこなしにキリエは思わず息を呑む。

「お初にお目にかかります。私はジョン・ハーツと申します。南方のベイリー伯爵の下で長らく仕えておりましたが、この度の女伯の戦いぶりを耳にし、何とか女伯に仕官願えないかと……。お伺いした次第でございます」

 キリエは少し戸惑った様子でハーツとジュビリーに視線を漂わせる。

「……お、お立ちになって」

 とってつけたように、それだけを呟く。ハーツは落ち着いた様子でキリエをまっすぐ見据える。

「……剣術に自信がおありだそうで……」

「はい。ぜひ女伯にご覧いただきたく。どなたか私とお手合わせ願えませんかな?」

 自信ありげにハーツは声高に呼びかける。

「……ジョン」

 ジュビリーがぼそりと呟き、ジョンが驚いた様子で振り返る。

「私ですか? 私は、どちらかというと剣より槍が専門ですから……」

 二人はしばし顔を見合わせた後、同時にレスターを振り返る。

「ご冗談を」

 レスターは顔をしかめて肩をすくめる。その時、ハーツが「クレド伯」と呼びかける。顔を向けると、ハーツは招くように右手を掲げた。

「ぜひ、お手合わせ願いたい」

 ハーツの口元に笑みが浮かぶ。

「クレド伯爵は長弓と剣の名手と伺っております」

 キリエは青ざめた顔でマリーを振り返る。マリーも両手を握りしめ、居ても立ってもいられない様子だ。やがてジュビリーはゆっくりと前へ進み出ると、キリエを振り返った。

「よろしいか、女伯」

 まっすぐに見つめられ、キリエは黙り込んだ。ジュビリーが目を眇める。「大丈夫だ」という彼の声が聞こえた気がした。キリエはこくりと頷く。

「……女伯のお許しが出た」

「それでは」

 ハーツが右手を上げようとした時、キリエが口を挟む。

「待って。ジュビリー、防具を……」

「いりませぬ」

 にべもなく言い放つジュビリーに、ハーツは微笑んでみせる。

「なるほど。では私も」

 言うが早いか、ハーツは仲間に手伝わせると鎧を脱ぎ、胴衣姿になる。

「参ろう」

 皆、ジュビリーとハーツを中心に後ろへ下がる。が、最後まで動こうとしないキリエをレスターがそっと手を引く。

「キリエ様」

「でも……」

「大丈夫です」

 レスターが囁き、キリエを下がらせる。

 ジュビリーとハーツが中央で向かい合う。ジュビリーも長身だが、ハーツの方がわずかに体格が勝っている。皆が息を呑んで見守る中、しばらく互いを見つめていた彼らは、やがてどちらともなく剣の柄に手をかける。そして、一気に鞘を走る音が響き、キリエは体を震わせた。

 ハーツの幅広の剣が頭上から降り下ろされ、ジュビリーは鋭く打ち返す。身を翻したハーツは腰を落とすと横へ剣をなぎ払うが、相手は身軽に体を仰け反らす。

「……ッ!」

 素早く身構えるとジュビリーの剣が下から上へ鋭く走り、ハーツの胴衣をかすめる。彼の顔が一瞬歪むと両足を踏みしめ、ジュビリーに向かって突きを繰り出すが打ち返される。剣の打ち合う音にキリエが顔を歪め、体を強張らせる。

 数回剣と剣が打ち合わされ、双方の息がわずかに乱れ始めた時。一気に勝負に出たハーツが打ちかかった剣を返すと素早く振りかぶった。が、腰を落としたジュビリーが柄を握り直すと相手の腹へ向けて剣を繰り出した瞬間。

「やめてッ!」

「!」

 キリエの絶叫に、ジュビリーの剣が止まり、わずかに遅れてハーツの剣もぴたりと止まる。次の瞬間、二人の口から忙しない呼吸が繰り返される。

「……もういいわ」

 震える声でキリエが言い放つ。両手を握り締め、波打つ胸に顔を歪めながら二人に近寄る。

「……あなたの腕前はわかったわ。ハーツ殿」

 ハーツは剣を下ろし、大きく息をつくとキリエを見下ろした。

「決着はついておりませんが?」

「いいのよ」

 震えながらもキリエはきっぱりと言い切る。

「……ジュビリー」

 キリエが振り向くと心配そうに呼びかける。ジュビリーが荒い息遣いのまま、黙ってキリエを見つめると、ジョンが小走りに駆け寄ってくる。

「義兄上、大丈夫ですか?」

「ああ……」

 ジョンの気遣いにジュビリーは呼吸を整えながら頷く。家臣たちは皆安心したように口々に溜め息をついた。その時。

「ひッ!」

「!」

 キリエの短い悲鳴に皆が振り向く。

「キリエッ!」

 そこには、ハーツの逞しい腕に首を締め上げられたキリエの姿があった。ジュビリーやジョンたちが一斉に剣を抜き放つが、ハーツは手にした剣をキリエの腹に当てる。マリーエレンの悲鳴が響き渡る。大広間は悲鳴とどよめきで沸き返るが、ハーツがそれを打ち消すように叫ぶ。

「平和主義者の女伯に、野心家の参謀。なるほど、これは最高の取り合わせだ」

「キリエを放せッ!」

 ジュビリーが怒鳴るが、ハーツの部下たちも抜剣すると切っ先を向ける。

「キリエ様ッ!」

 走り出そうとするマリーをレスターが押し留める。キリエは首を絞める腕を振りほどこうとするが、彼女のか弱い手ではハーツの腕はびくともしない。喉が圧迫され、気が遠くなりかけながら、キリエは歯を食いしばって抵抗する。

「この程度でアングルの君主を名乗るとは片腹痛い。これが、誠に冷血公を打ち破ったグローリア女伯なのか? ただの非力な修道女にしか見えぬがな」

「黙れッ!」

 ジュビリーが鋭く叫ぶ。そして、キリエが苦しげに身をよじる姿が亡妻エレオノールと重なり、思わず呻き声を漏らす。

「キリエ……!」

「剣を収められよ、クレド伯。さぁ、道を開けてもらおうか」

 ハーツの言葉をただ聞くことしかできないキリエは、やがてわずかに眉をひそめ、うっすらと目を開ける。首をひねってハーツの横顔を見上げる。鋭い眼光。彫りの深い顔立ちには、どこか気品も感じられる。だが、容赦なく自分の首を締め上げる冷徹さ。キリエの背に寒気が走る。

「キリエをどうするつもりだッ、ハーツ!」

「ずいぶんと親しげな物言いだな、クレド伯。貴殿は女伯を女王に奉ろうとしていたのではないのか?」

 思わず言葉に詰まるジュビリーだったが、キリエが顔を歪めながら口を開く。

「……ジュビリー……、下がって……」

「キリエ!」

 キリエは目だけをハーツに向け、かすれた声で囁いた。

「……手を放してエス・レスト・エス・フレイ!」

「……!」

 瞬間、その場の空気が凍りつく。ジュビリーの目が大きく見開かれる。

(……ユヴェーレン語!)

 ハーツがゆっくりとキリエに視線を落とす。キリエは怯えながらも見返すと囁いた。

「……あなたは誰ヴェア・ズィント・ズィー?」

 しばしキリエを見つめていたハーツは、やがてにっこりと微笑んだかと思うと腕を緩め、素早く剣を鞘に収めるとその場にひれ伏した。

「キリエ!」

 解放されたキリエが崩れ落ちそうになり、駆け寄ったジュビリーが片手で抱きかかえる。

「貴様……、何者だッ!」

 ジュビリーの一喝に、ハーツはさらに頭を下げる。

「御見それいたしました。グローリア女伯」

 すると、ハーツの部下たちもゆっくりと武器を下ろし、同じように平伏した。

「はっ……、はっ……!」

 キリエは呼吸を不自然に繰り返しながらジュビリーの胴衣を握り締めた。ハーツがそっとキリエを見上げる。

「……何故、私がユヴェーレン人だと?」

 問われて、キリエはごくりと唾を飲み込むと、途切れ途切れに囁く。

「……私は……、修道女よ。生活の半分が……、ユヴェーレン語だもの……」

 ヴァイス・クロイツ教の聖都はユヴェーレンから独立したクロイツであり、経典などは全てユヴェーレン語で記されている。説教や祈りの文句なども全てユヴェーレン語で行われるため、聖職者はユヴェーレン語に精通している。キリエは、ハーツの流暢なアングル語の中にもユヴェーレン訛りがあるのを聞き逃さなかった。

「さすがです」

 ハーツは目を細めてキリエを見つめると、居住まいを正した。

「申し遅れました。神聖ヴァイス・クロイツ騎士団団長、ヨハン・ヘルツォークと申します。……ムンディ大主教の命で参りました」

「……!」

 一瞬、その場が静まり返ったかと思うと、どよめきが起こる。大主教の名にキリエは息を呑み、声にならない様子で顔を振るとジュビリーにすがりつく。動揺し、混乱しているキリエの頬を撫でながら、ジュビリーは目を眇めてヘルツォークを睨み付けた。

「……何故、このような茶番を」

「お許し下さい。大主教が、グローリア女伯の器を見極めて参れと仰せになられたので……」

 それが事実ならば、とんだ狸親父だ。ジュビリーは密かに舌打ちする。

「大主教が……、猊下が、どうして、こんな」 

 キリエが譫言のように呟く。青い顔のキリエを見やると、ジュビリーはヘルツォークに言い放った。

「休ませてから会見に臨む。異存はないな」

「もちろんでございます」

 

 自室で気付けにワインを口にしたキリエは、まだ怯えた様子でソファに座り込んでいた。

「……わからない」

 キリエはかすれた声で囁いた。

「大主教は……、どういうお考えで……」

「何様のつもりだ。……大主教めが」

 ジュビリーの荒々しい言葉にぎょっとして顔を上げる。

「内戦で揺れるアングルに斥候を送り込むのはまだ良い。だが、内情を調べるためにあのような茶番を仕込むなど」

「伯爵……」

 レスターがなだめるがジュビリーの怒りは収まらない。眉間の皴が深く刻まれ、口元が歪む。

「キリエは修道女だ。……キリエに恐怖を植えつけた代償は高くつくぞ」

「……ジュビリー」

 静かに怒りを吐露するジュビリーに、キリエは思わず涙ぐんだ。これから、どうなるのだ。自分が戴冠するにはクロイツの理解と協力なしには実現できない。だが、大主教は一体何を望んでいるのか。

「……だが、仕方がない」

 ジュビリーは吐息をつくと呟いた。

「今はクロイツの意向を知り、協力を求めなければならん」

 ジュビリーの重い言葉を胸に、キリエは口をつぐんだ。様々な思いが浮かんでは消えたが、まずはヘルツォークの話を聞かないことには始まらない。ジュビリーは再び大きく息を吐き出すとキリエを振り返った。

「……キリエ」

 彼女はそっと立ち上がった。

「もう、大丈夫。行きましょう」

「無理はするな」

「……ありがとう。でも、避けては通れないでしょう?」

 それでも疑わしそうな顔つきのジュビリーだったが、やがて手を上げるとキリエの肩を力強く叩いた。

 一行が応接間へ到着すると、ヘルツォークたちが待っていた。先ほどと打って変わって神妙な態度だ。

「先ほどは誠に申し訳ございませんでした」

 まず謝罪したヘルツォークは、深々と頭を下げた。しかし、キリエはともかく、ジュビリーはまだ険しい表情で視線を投げかけてくる。

「……説明していただけますか」

 キリエの静かな呼びかけにヘルツォークは頷いた。

「先月、サーセンのヒース司教から大主教へ書状が届けられました」

「兄上から?」

 ヒースの名を聞くとキリエは身を乗り出した。

「ヒース司教は、アングルの実情を訴えた上で、ぜひ異母妹であるグローリア女伯の王位を認めていただきたい。そして、侵略者を駆逐するためにお力添えも願う、と」

 キリエはジュビリーの横顔をちらりと一瞥したが、相変わらず眉間に皺を寄せたままだ。

「……それで、ムンディ大主教はあなたをここへ遣わしたと?」

「はい。猊下は、修道女である女伯がアングルの君主に即位することを望んでおられます。ただ……、あまりにも幼いことを懸念されております。それに加え、あなたの王位継承に対する意思を確認したいと仰せられ、失礼ながら私がその役目を」

「では、そなたの報告次第というわけか」

「ジュビリー!」

 あからさまな言い方にキリエがたしなめるが、ヘルツォークは申し訳なさそうな表情で答える。

「予想外の事態における、女伯の冷静な観察力と判断力は今し方わかりましたので、嘘偽りなく報告させていただきます。併せて……、女伯は人民に慕われ、家臣に恵まれていると」

「……大主教は……、アングルの内戦をどうお考えでしょうか」

 静かに問いかけるキリエに、ヘルツォークは考え深げに目を細める。

「アングルは敬虔なヴァイス・クロイツ教徒が多く、その地で王位継承を争う内戦が起こっていることに心を痛めておられます。女伯を前にこのようなことを申し上げるのは大変心苦しいのですが、崩御されたエドガー王に嫡子がおられれば……。いえ、せめて後継者を指名されていればと、悔やまれてなりません」

 当然のことながら、ヘルツォークは当たり障りのない言葉しか並べない。だが、ムンディ大主教は、本当に戦時下の信者の生活を案じ、内戦の早期終結を願っているだけなのだろうか。キリエの瞳に懐疑的な色が広がり始めた。

「エドガー王には四人の庶子がおられます」

 更にヘルツォークは続けた。

「申し上げるまでもなく、ルール公は以前より行いが甚だ不品行であり、あろうことか聖アルビオン大聖堂のカトラー大司教を殺害しました。許しがたいことです。長女のタイバーン女子爵は幼少の頃より人格に難があり、女王として国を統治できるとは思えませぬ。そして、我らが同胞ヒース司教は残念ながら光を失い、信仰に生きることを誓っております」

 そこで言葉を切り、ヘルツォークはじっとキリエを正面から見据えた。

「……これも天の思し召しなのでございましょうか。レディ・キリエ・アッサー。あなたは唯一人残された、君主に相応しい王位継承者でいらっしゃいます」

「……本当にそうかしら」

 キリエが探るような目つきで呟き、一同は思わず顔を上げる。彼女が感じ入るであろう言葉を並べたつもりだったヘルツォークは、面食らった顔つきで相手を凝視した。キリエは冷静に言葉を続けた。

「〈冷血公〉も〈タイバーンの雌狼〉も君主に相応しくない。ヒース兄様は政治的な争いとは無縁の高潔なお方。ただ……、私が残っただけ……。世間知らずの幼い修道女であれば、傀儡にも都合が良い。そうお考えなのでは?」

「女伯……」

 思いもしないキリエの言葉に、皆唖然とした顔つきになる。ジョンとレスターは思わず息を飲んで顔を見合わせた。一方、ジュビリーはゆっくりと首を巡らせるとキリエを振り仰いだ。キリエがジュビリーに目を向けると、彼はかすかに頷いた。

「……これは驚きました」

 ヘルツォークは顔をほころばせた。どこか嬉しそうでもある。

「〈ロンディニウム教会の修道女〉のお噂はクロイツにも届いておりましたが、様々な説が乱れ飛び、実際のお姿がどのようなものなのか、私もこの度の会見は楽しみにしておりましたが……、これほどまでとは……」

 そこまで語り終えると、ヘルツォークは表情を引き締めた。

「実は、女伯があまりにも幼い故、よもや奸臣が側へ侍っていようものならば、あなたをクロイツへお連れするようにと命じられておりました」

「!」

 その言葉には、さすがにジュビリーも顔を歪めた。

「しかし、その憂いもなくなりました。大主教へは、グローリア女伯こそアングルの君主に相応しいと報告いたします。その上で、我々クロイツは女伯の即位のために尽力することを誓います」

 そこでヘルツォークは声をわずかに潜めた。

「加えて、女伯にお知らせすることが……」

「何です?」

「エスタドのガルシア王がルール公と連絡を取ろうとしております」

 エスタドのガルシア。ついにこの名前が現れた。キリエの顔が青ざめる。ジュビリーはひそかに溜め息を吐き出した。

(……〈エスタドの大鷲〉……、ついに動くか)

「残念ながら、君主不在のこのアングルの地は沿岸の警備がないも同然。ホワイトピーク城が陥落したことで、大陸の列強は虎視眈々とアングル上陸を計画しております」

 キリエは自分が立つ地盤がどれほど脆弱なものか思い知らされ、緊張で胸が締め付けられた。リシャールのイングレス占領は、大陸から押し寄せる津波の第一波に過ぎない。

「大主教は、アングルの君主にはグローリア女伯が相応しいとお考えになり、我々ヴァイス・クロイツ騎士団を援軍として送り込む用意があると仰せです」

「……援軍……」

「まずはイングレスのリシャール王をアングルから駆逐せねばなりませぬ。それと、リシャール王につきましては……」

 そこでヘルツォークは一度言葉を切った。

「クロイツへ、ギョーム王太子が使者を派遣なさいました」

「……王太子が」

「王太子は父王の行為を許せぬと仰せられ、近々アングルへ派兵するおつもりだそうです」

 派兵という言葉にキリエは落ち着きをなくした。思わず口元を手で覆うと、助けを求めるようにジュビリーを振り返る。彼は静かに前へ出るとヘルツォークに語りかけた。

「それは、あくまで父親を討伐するためだけに?」

「はい。討伐のために、ぜひグローリア女伯の協力も求めたいと」

「私の?」

 ますます頭の中が混乱しながらキリエが声を上げる。

「ギョーム王太子は頭の良いお方です」

 ヘルツォークがキリエを安心させるように顔をほころばせる。

「大陸の最強国であるエスタドに屈することなく、国の立場をはっきりさせるべく優柔不断な父王に反旗を翻した。なかなかの人物でございます。まだ弱冠十九歳という若さでございますが」

 キリエは、自分と五つしか違わない異国の王子の思い切った行動に恐れを抱いた。考えの相違とは言え、何故、自らの父に刃を向ける? そんな人物が、自分に共同戦線を張ろうと持ちかけてくるとは。

「クロイツに派遣された使者が申すには、近々ギョーム王太子が直接アングルへ潜入し、グローリア女伯に面会を願い出るとのことでした。王太子のお考えは、その時におわかりになるのではないかと」

 アングルへやってくる? ギョームが直接? ジュビリーは露骨に顔をしかめるとヘルツォークを凝視した。

「私はこれにて失礼いたします。大主教に女伯は君主に相応しいと報告した上で、再びここへ戻ってまいります」

「……お願いいたします」

 キリエは、ぼんやりとした口調で呟いた。

 エスタドのガルシア王。ガリアのギョーム王太子。クロイツのムンディ大主教。それぞれがアングルへ熱い視線を向けている。今までは、レノックスだけが自らに立ちはだかる敵だと思っていた。キリエの胸にヒースの言葉が蘇る。

「レノックスを倒して王位に就いたとしても、もっと強大な敵と戦うことになります」

 強大な敵。キリエは不安そうに背を丸め、目を伏せた。


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