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女王キリエ  作者: カイリ
第3章 ローランド会戦
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第3章「ローランド会戦」第4話

激闘を制し、レノックスを退けたキリエ。だが、王都イングレスはガリア王リシャールによって陥落してしまう。

 絢爛なはずのプレセア宮殿は、中庭にまで死体が多く転がったままだったが、導入室間(アプローチ)に入ると一転して華やかな空間が広がっていた。しかし、大陸でも最も優美な芸術文化を誇るガリアの王はあからさまに顔を歪めてみせた。

「王の居城がこの程度か」

「ずいぶんと殺風景でございますな」

「所詮、田舎の島国に過ぎん。……だが、それでも今はこの粗末な宮殿で満足せねばならん」

 玉座の間へ足を踏み入れるとリシャールは立ち止まり、アングル王の玉座をしばし見つめた。誇り高い大陸の王国ガリアを捨て、こんなちっぽけな田舎の島国に隠遁するつもりなど、毛頭ない。体力を取り戻したらすぐにでもガリアへ返り咲いてみせる。その時は、ガリア・アングル両王として。

 リシャールが渦巻く思いで玉座にそっと手を伸ばした時。

「リシャール王」

 女の声で名を呼ばれ、彼は振り返った。そこには、深紅の衣装に漆黒の髪の美女が佇んでいた。そこにいるだけで空間が熱を持つような情熱的な瞳。やがて、美しい顔がにっと笑みを浮かべる。リシャールは優雅に礼を取った。

「ベル王太后」

「さすがですわ。半日もしない内にイングレスを制圧されるとは」

「あなたのお力添えがあったれば、でございますよ」

 リシャールは、勝ち誇った表情で差し出されたベルの右手を取ると恭しく接吻した。

「ようこそアングルへ、リシャール王」

 目を細めて呟くベルを上目遣いに見つめると、リシャールは声を潜めて囁いた。

「二十年前……、ユヴェーレンでお会いした時とお変わりない」

「そう?」

 リシャールは王太子時代に何度か父王の代理人としてユヴェーレンを訪れ、当時王女であったベルに会っている。だが、まさかこのような形で再会しようとは両人とも思いもしなかった。

「……王太后」

 背後から遠慮がちに呼びかけられ、二人が振り返るとそこには武装した騎士が所在無げに立ち尽くしていた。

「モーティマー」

 ベルが意味ありげに微笑むとこちらへ手招きする。モーティマーは二人に最敬礼すると重い足取りで歩み寄る

「サー・ロバート。そなたのおかげでずいぶんと助かったぞ」

 リシャールの言葉にモーティマーはわずかに顔を歪めた。

「制圧の功で男爵に叙位しよう」

「……爵位、でございますか」

 疲れた表情のモーティマーに、リシャールは穏やかに問いかける。

「侵略者からの叙勲は受け入れられぬか」

「いえ、そうではなく」

 モーティマーは抑揚のない、沈んだ口調で答えた。

「プレセア宮殿を支配下に置いたとはいえ、まだこの地は混乱のただ中にあります。状況が落ち着くまでは辞退させていただきます」

「なるほど、その通りだ」

 リシャールが頷いた時。広間の外からけたたましい足音が響いてくる。皆が振り向くと同時に、青ざめた補佐官が慌てた様子でやってきた。

「陛下!」

「どうした」

 補佐官はリシャールの耳にそっと手をあてがうと囁いた。

「アンジェ伯が王太子の軍門に降りました……!」

「!」

 リシャールの顔色がさっと変わる。彼は思わず言葉を失って補佐官を凝視した。

「殿を務めていた伯爵は、ホワイトピーク沖で艦の進路を変え、ルファーンへ向かったとのことです……!」

 リシャールの顔が見る見る内に引きつり、怒りに満ちた呻きを漏らす。

「……バラ……!」

 補佐官の囁きはモーティマーの耳にも漏れ聞こえた。

 アンジェ伯アルマンド・バラ。一見、明るく陽気で人当たりの良さそうな印象を持たせるが、モーティマーは前回ガリアで出会った時の自分の印象が間違いではなかったことを思い知らされた。バラが王太子ギョームに寝返ったことで、政局は更に動くであろう。モーティマーは憂鬱そうに吐息をついた。


 ルファーン城のアプローチで、バラは一人項垂れ、その場に立ち尽くしていた。クーレイ同様、アングルとの距離が極めて近い港町ルファーンは、ホワイトピークほどではないにしろ、堅固な城を有していた。父に反逆した王太子ギョームは現在ここを拠点としている。

 やがて、人々が近づいてくる足音が響き始め、バラは顔を上げた。視線の先に、金糸のマントを羽織り、簡素ながら洗練された衣装を身にまとった金髪の少年が現れる。バラはごくりと唾を飲み込んだ。

「……殿下」

 バラの呼びかけにギョームは立ち止まった。バラは真っ向から凝視され、身じろぎもしないで見つめ返した。リシャールの腹心であったバラは、ギョームとも当然普段から顔を付き合わせていた間柄だ。十八歳の王太子は年齢よりずっと幼い顔つきをしていたが、父親との半年に及ぶ戦いが、彼を大人へと変化させていた。やがてバラは平伏すると深々と頭を垂れた。

「……殿下。ご無礼を重々承知の上、申し上げます。私を殿下の軍門の末席に、お加えいただけませんでしょうか」

 ギョームは頭を垂れる父の腹心を、目を眇めて見下ろした。しばらくの沈黙の後、ようやく口を開く。

「父上の元から逃げ出してきたか」

 バラはゆっくりと顔を上げた。

「私は……、国王陛下を支え、守ることでガリアが平和になると信じておりました。ですが陛下は、ガリアをお見捨てになられた。私には……、耐え難いことでございました」

 ギョームはふんと鼻で笑った。

「もっと早く気づけ。一番近くにおった者が」

「申し訳ございません」

 再びバラが頭を下げる。

「先ほどアングルへやった斥候が戻った」

 バラははっとして顔を上げた。ギョームは乾いた声で続ける。

「父上がイングレスを支配下に置いたそうだ」

 では、計画通り、リシャール王は王太后ベルと共にアングルを征服するというのか。バラはごくりと唾を飲み込んだ。王太子は険しい表情を崩さないまま、立ち上がるよう顎をしゃくってみせる。ギョームは短く「来い」と呟くと踵を返した。

 大廊下(ギャラリー)を進むギョームを、バラが畏まった様子で続く。どうやら王太子は自分を迎え入れてくれるようだ。彼はほっと胸を撫で下ろした。

「父上がイングレスを占拠する直前、グローリア女伯が冷血公の軍を破ったそうだ」

「……ルール公が、敗走?」

 少し驚いた様子でバラが問い返す。ルール公は人心を得ていないと聞いてはいたが、よもや敗北を喫するとは。

「グローリア女伯を支持する諸侯の数が予想以上に増えたらしい。それに、勇敢なことにグローリア女伯が自ら戦場で剣を抜いたそうだ」

「しかし……、女伯は確か修道女だったはずでは」

「士気を高めるだけならば、剣を抜くだけで良い」

 冷静沈着な推測に、バラは黙り込んだ。

「そなた、アングルの情報はあるか」

「情報、といえるものか……。リシャール王陛下に謁見を求めたアングルの騎士によれば、民は冷血公をひどく嫌っていると。そして、グローリア女伯の他にもう一人王位継承権者が王位を宣言したそうでございます」

「アングルの騎士?」

 ギョームが歩きながらちらりと振り返る。

「王太后ベル・フォン・ユヴェーレンの使者です。彼によれば、その王位継承権者はレディ・エレソナ・タイバーン。やはりエドガー王の庶子だそうです。ひどく暴力的な少女だったらしく、幼い頃にグローリア女伯を殺そうとして、父王によって幽閉されています」

「……恐ろしい娘だ」

 ギョームは顔をしかめて吐き捨てるように呟く。

「レノックス・ハートにしろ、エレソナ・タイバーンにしろ、伯父上の庶子は猛犬揃いだな」

「しかし、もう一人の庶子、ヒース・ゴーンは聖職に就き、人民に慕われているとお聞きしております。グローリア女伯も元は修道女でございますし」

「グローリア女伯か……」

 ギョームの脳裏に、戦場での光景が蘇った。

 兜を脱ぎ捨て、襲い来るガリアの兵士を相手に野獣の如くなぎ倒してゆく狂戦士、レノックス。彼とは一度だけ戦場で一騎打ちの死闘を繰り広げた。その時、ギョームは冷血公によって剣を叩き折られ、死を覚悟した。何とか側近の者によってその場は脱したが、その時の恐怖は今も忘れてはいない。その獣を相手に、戦場へ赴いた少女が剣を抜いたというのか。

「……バラ」

「はっ」

「クロイツに使者を送れ。ガリアの王は私だと。そして……、アングルの情報を集めろ。父上を追わねばならん」

「は……」

 予想していなかった言葉に、バラは一瞬言葉を失う。そして慌てて身を乗り出す。

「お言葉ですが、殿下。まずは乱れた国内を建て直し、殿下がガリアの王位を宣言することが先決ではないかと……」

「王位宣言はとっくの昔にしている」

 冷たく言い放つギョームに、バラは口をつぐむ。ギョームは大股に歩きながら、怒りのこもった声で低く呟いた。

「私は……、父上を許さない」

「……殿下」

「父上はガリアを捨てたのだ。負け犬なら負け犬らしく、大国(エスタド)に庇護を求めれば良いものを……。よりにもよって異国を襲い、その国の王位を僭称するなど。情けない……!」

「まだ……、アングル王の宣言はなされていませんが……」

「同じことだッ! 馬鹿め!」

 ギョームが怒鳴りつけ、バラは思わず頭を下げる。ギョームの震える握り拳がバラの目に入る。

「あまつさえ……、アングルは母上の祖国だ! 絶対に、許さぬ……!」

「……殿下」

 ギョームの母親、リシャールの妃はアングル王エドガーの妹マーガレットだ。彼女は兄と違って優しく慈愛に満ち、多くの国民から慕われていた。そのため、海を隔てたガリアへ嫁ぐ彼女を惜しむ声が多かったという。美しく気品に満ちたマーガレットはガリアでも人気が良かったが、そんな彼女が癪に障ったのか、リシャールは妻を顧みることがなかった。そして、エドガーほどではないにしろ、数人の愛人を囲い、マーガレットを悩ませた。だが、小心者のリシャールらしく、後の災禍を恐れて庶子は生ませなかった。そんな不甲斐ない父親を見て育ったギョームは、当然のように父親を嫌うようになり、母マーガレットの死は二人の対立を決定づけた。

「父上を討伐せねばならん。我々もアングルへ向かう準備をしておかねば。場合によっては、エドガーの庶子を味方につけることも視野に入れねばならん」

「……はっ」

「特に、グローリア女伯キリエ・アッサー。どんな娘か会ってみたい」

 口調から怒気が消え、ようやく落ち着きを取り戻したギョームは考え深げに腕を組んだ。

「冷血公がアングルの王位に就けば、奴は間違いなくエスタドと手を組むだろう。エスタドの台頭を防ぐためには、私としてもアングルの君主にはグローリア女伯が望ましい」

「そうですな」

「彼女にとっても父上は邪魔な存在のはずだ」

 若い王太子を見つめたバラは、口元にわずかに笑みを浮かべて頭を下げた。

「御意のままに」


 キリエがレスターに伴われてクレド城に帰還して間もなく、イングレス陥落の報を受け、レノックスの追撃を打ち切ったジュビリーが戻った。

 まだ興奮冷めやらぬ大広間に、一際大きな甲冑の音が響く。ジュビリーが戻った。そのことに一瞬顔を明るくしたキリエだったが、すぐに眉をひそめる。レノックスとの戦いには勝利したものの、事態は思わぬ方向へと突き進んでいる。勝手に戦場へ赴いたことも叱責されるだろう。キリエは、暗くなりがちの顔を引き締めた。

「お帰りなさいませ、ご無事で何よりです」

 レスターの出迎えに頷きながら、ジュビリーは強張った顔つきで兜を手渡す。

「ルール公は……」

「奴もイングレスが落ちたことを知って、退却した」

「後は、トゥリー子爵がお戻りになれば……」

 レスターの言葉に耳を傾けながら、血や泥で汚れた顔を拭ったジュビリーは、黙って前へ進み出たキリエを見つめた。彼女は、怯えの表情で小さく囁いた。

「お帰りなさい。……お怪我は、ない?」

「……ああ」

 キリエはすでに甲冑を脱ぎ、簡素なドレスに着替えていた。固い表情の二人はしばらく無言で見つめ合い、レスターが落ち着かない様子で見守る。やがてジュビリーが背を向ける。

「書斎で話そう」

「はっ」

 ジュビリーの疲れた背中を見るのはこれで二度目だ。最初の時も、レノックスと戦った直後だった。キリエは黙って彼らの後に従った。

 甲冑を脱ぎ捨てたジュビリーはさすがに疲れた様子で書斎に現れた。椅子にどっかりと座り込むと、小間使いが置いていった水を一気に飲み干す。まだ騒がしい城内にあって、この書斎はまるで異空間のように静かだった。

「座れ」

 疲れは見えるものの、いつもとあまり変わらない口調でジュビリーはキリエとレスターに告げた。

「いえ、私はこのままで」

「二人とも疲れているはずだ」

 思わず顔を見合わせると、キリエたちは決まり悪そうに椅子へ腰掛けた。

「わかっていることを、順を追って話せ」

「はっ」

 レスターが居住まいを正す。

「伯爵がローランドでルール公と戦闘を開始してしばらくした後、エレソナ・タイバーンが自ら軍を率いてイングレスへ向かったと、報せが入りました。マーブル軍がイングレスへ到達するのを阻止するべく、その時点で私が出撃することを決めました」

 そこまで語り終えてもジュビリーは何も言わなかった。ただ、険しい表情のまま耳を傾ける様子に、キリエはますます緊張した面立ちでぎゅっと手を握りしめる。レスターは息を整えると言葉を接いだ。

「ちょうど同じ頃、ローランドから戦況の報せが届き……、皆ルール公に恐れをなしており、押され気味だと告げられました」

 それを耳にしたジュビリーは、「なるほどな」と呟くと天井を仰ぎ見た。それまで黙っていたキリエが身を乗り出す。

「私が言い出したの。私が、士気を高めるために戦場へ向かうって」

 そこでレスターが静かに立ち上がる。

「キリエ様とクレド城をお守りする役目を仰せつかりながら、お引き留めしなかった。私の責任です」

「違うのよ」

 慌ててキリエも立ち上がる。

「私が自分で決めたの。これは、私の義務だって。戦う姿を見せなければならないって……。だから」

「いいから座れ」

 ジュビリーがぴしゃりと言い放ち、キリエはびくりと体を震わせた。首をもたげると、じろりと二人を睨みつける。彼らは息を呑むと、そろそろと腰を下ろす。ジュビリーは溜息を吐き出すと体を起こした。

「エレソナが守備の手薄なイングレスを襲う可能性はあった。そこまで手が回らなかった私の責任だ。だが、おまえにも問題がある、キリエ」

 正面から見据えられ、キリエは微動だにできなかった。まさに蛇に睨まれた蛙だ。

「……おまえのことだ。レスターが許さなくとも、隙を見つけて城を抜け出し、ローランドへ向かうつもりだったのだろう」

 図星だ。レスターを説得できなければ強行突破するつもりでいたキリエは、体を強張らせ、俯いた。

「……確かに士気は上がった」

 ジュビリーの声から刺々しさがわずかに消えた。

「だが、キリエ。おまえの体はすでにおまえだけの物ではない。皆おまえに未来を託し、血を流して戦っている。……だからこそ、戦場へ向かったのだろうが」

「……ごめんなさい、でも……」

 消え入りそうな声で詫びるが、その表情はどこか悔しそうにも見える。

「今回はいい。結果的にレノックスを破ることができ、おまえも奴に対する恐怖心を克服できた。だが、今後は戦場へ赴くことは絶対に許さんぞ」

「…………」

「キリエ」

 返事をしないキリエにジュビリーはわずかに身を乗り出し、声を高める。彼女は、思い詰めた表情で顔を上げた。

「……破るかもしれない約束は、しないわ」

 ジュビリーは眉間の皴を深めた。

「あなたが戦場で危機に陥れば、私は駆けつける」

 震えながらもきっぱりと言い切るキリエ。頑固な修道女め。ジュビリーが呆れて思わず鼻息を荒く吐き出した時。彼女は泣き出しそうな目でジュビリーを見つめると呟いた。

「だって私……、あなたがいないと生きていけないもの」

 その言葉はジュビリーにとって痛いところを突いた。

 教会から連れ出し、激しい運命のうねりに放り込んだのは他ならぬジュビリーだ。今更教会には帰れない。このクレド城を出れば、どこで、どうやって生きていけばよいのか。キリエは、無言でジュビリーを問い詰めた。

「……キリエ」

 わずかながら狼狽した様子でジュビリーは口を開いた。

「おまえは……、まだ、若い。だから、生きることにもっと執着を持て」

 生きたくとも、生きられない者もいたのだ。

 ジュビリーはその言葉をかろうじて飲み込んだ。何か声をかけようとしたが、どんな言葉を口にしても説得力がないように思える。ジュビリーがもどかしい思いで口を閉ざし、無言のままのキリエを見つめていると、あることに気がついた。膝の上でぎゅっと握りしめた拳がのぞく袖に、血が付着している。

「おまえ……、怪我をしたのか」

「えっ?」

 驚いた様子で顔を上げるキリエに、袖口を指さす。

「これは……」

 袖に目を落とすキリエに変わってレスターが答える。

「城にお戻りになられてから、負傷兵の手当をして下さいました。キリエ様は薬草の知識が豊富ですので、医師がずいぶん助かったと」

「……そんな大層なことでは……」

 キリエは俯くと自信なさそうに小さく呟いた。そんな彼女に、ジュビリーはわずかに目を細めた。

「……おまえの手当で何人の人間が救われたと思う」

「……大した数ではないわ」

 自嘲気味に呟くキリエに、ジュビリーは穏やかに言い聞かせる。

「おまえが女王になれば、もっと多くの命が救われる。……〈良き女王〉になれば」

 〈良き女王〉……。キリエの目の色が少しずつ変わる。

 良き女王におなりなさい。

 ロレインの言葉が脳裏に響く。キリエはジュビリーを見上げた。自分は、本当に戦争を終わらせることができるのか。自分に問いかける時間はもうない。王都は異国の王に奪われた。一刻も早く奪還せねばならない。教会を出た時から、状況は目まぐるしく変化しているのだ。不安で押し潰されそうなキリエを眺め、レスターが自分に言い聞かせるような口調で呟いた。

「……キリエ様は、お強くなられました」

 振り返るキリエに微笑みかける。

「あなたは先ほど、ご自分で決めたと仰せられました。教会にいらっしゃった時には、ご自分で何かをお決めになることなどなかったはず。……キリエ様は、これからもお強くなれますよ」

 キリエはしばらく黙った後、かすかに口元をほころばせた。

「……ありがとう」

 その様子を見て、ジュビリーが密かにほっと胸をなで下ろした時。書斎の外が騒がしくなったかと思うと、扉を叩かれる。

「伯爵、トゥリー子爵がご帰還されました」

「ジョン?」

 キリエが思わず椅子から立ち上がる。扉が開くと、ジョンが入ってくる。

「ただ今戻りました」

「お疲れ様、怪我はない?」

「ええ」

 疲れながらもジョンが笑顔を見せる。さすがにまだ若い。ジュビリーやレスターに比べると顔の表情が明らかに違う。

「ご苦労だった、ジョン」

「はい。マーブル軍が退却したのを確認した後、イングレス近くまで様子を見てまいりました」

 ジョンはレスターに勧められて腰を下ろすと、自分が見聞きしたことを話し始めた。

「さすがにイングレスは防備を固めており、市内の様子はわからなかったのですが、イングレスから逃げ出した者たちから話を聞くことができました。ホワイトピーク城は海上からの攻撃に晒されたと同時に、背後から王太后の軍に攻撃され、やがて陥落したとのことです。その後、主に王太后軍がプレセア宮殿を攻撃し、上陸したガリア軍と合流してからは、宮殿はあっと言う間に落城したそうです」

「上陸したのがリシャール王なのは、確かなんだな」

「はい」

 ジュビリーは眉間に皺を寄せると苛立たしげに溜息をつく。

「聞いた話では、ガリア内戦はリシャールが圧倒的に劣勢だということだったが……。何を血迷ったか」

「ええ、まさか自分の国を捨てて隣国を奪いに来るとは」

 そこで、ジュビリーが思い出したように顔を上げる。

「……ホワイトピーク公は? あの堅物が敵に降るとは思えん」

 その疑問には、ジョンも顔をしかめて首を振る。

「安否は不明です。戦死されたとは聞いていませんが、今どこにおられるのか……」

「それに、幽閉されていたはずの王太后が、いつの間にガリアと密約を結んだのか……」

 レスターも険しい表情で呟く。ジョンが長い溜息の後、静かに続けた。

「市民は激しい抵抗を見せたそうですが、多勢に無勢。あっという間に制圧されたそうです。多くの市民が犠牲になったことでしょう」

 その言葉に、キリエは不安そうな顔つきで口を開いた。

「リシャール王は……、これからどうするのかしら」

 ジュビリーが疲れた体を起こし、キリエに向き直る。

「何故、イングレスを襲ったと思う」

 キリエはごくりと息を呑む。

「……アングルを、征服するため?」

「そうだ」

「しかし、国民が許すはずがありません」

 ジョンが強い口調で口を挟む。

「それに、王太子が黙っているかしら……」

「そこだ」

 ジュビリーが声を強める。

「アングルの内戦にガリアが横槍を入れてきただけの問題ではない。ギョームが葛藤を続ける父親を放っておくとは思えん。必ず追ってくるはずだ。それに……、彼はガリアだけでなく、アングルの王位継承権も有している」

 そのことに一同は沈黙した。レスターは思わず溜息を吐くと右手で顔を覆った。

 王位継承権。

 キリエは背筋がぞくぞくしてくるのを感じた。ギョーム王太子は父の妹の子。つまりいとこだ。異母兄や異母姉に加え、いとことも戦うことになるのか。キリエは目眩を覚えた。

「レノックスやエレソナの比ではない。……最も恐れていた相手だ」

 珍しく弱音を吐くジュビリーに、キリエは思わず振り返った。疲れのせいで顔の皺がいつもより深く刻まれ、悲壮な空気を醸し出している彼から視線を移すと、レスターもジョンも同様に肩を落としている。

 キリエは、皆の落ち込んだ表情を眺めている内に頭の中が冴え渡ってゆくのを感じた。アングルの命運は自分にかかっている。自分に未来を託す人々がいる。アングルの独立をも左右するこの戦い、逃げるわけにはいかない。キリエは背筋を伸ばし、口を開いた。

「……落ち込んでは、いられない」

 皆が顔を上げ、キリエに注目する。

「イングレスはリシャール王に奪われた。……奪い返さないと。レノックスたちと争っている場合ではないわ」

「しかし……」

「ギョーム王太子は王位継承権を持っている。でも、彼はまだガリアにいる。今イングレスにいるリシャール王を何とかしないと」

 ジュビリーはキリエの言葉に、思わず笑みを浮かべた。ようやく、女王になる覚悟ができたか。

「そうだな」

 ジュビリーは体を起こした。

「まずは体勢を整え、情報を集めねばならん。同盟を結んだ諸侯らとも連絡を取り、王都への包囲網を張る」

「はい」

 ジョンも力強く答える。

「ルールとマーブルから目を離すな。それと、ガリアもだ」

「承知いたしました」

 キリエは静かに立ち上がると窓辺へ歩み寄った。日は落ち、篝火が明々と燃え上がっている。

「……ギョーム・ド・ガリア……」

 口の中でそっと呟いてみる。どんな少年なのだろう。彼女はジュビリーを振り返った。

「ねぇ、ジュビリー。ギョーム王太子って、どんなお方なの」

 椅子に腰掛けたまま、キリエをじっと見つめたジュビリーは静かに口を開いた。

「……おまえの父親、エドガーの妹マーガレットと、リシャールとの間の嫡男だ。父親に冷遇された母を慕い、以前から父親とは激しく対立していたそうだ」

 ジュビリーはそこで息を吐いた。

「……真面目な性格で国民からの支持も高いと聞く。母親譲りの美しい容貌と金髪。そのため、人は彼を〈ガリアの若獅子〉と呼んでいる」

「ガリアの……、若獅子……」

 キリエの胸の内に、ますますギョームに対する興味と不安が沸き起こる。いつか、対峙する日が来るのだろうか。そして、それはどんな結末を迎えるのか。キリエは、抑え切れない不安に胸が締め付けられた。



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