表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
女王キリエ  作者: カイリ
第3章 ローランド会戦
24/109

第3章「ローランド会戦」第3話

エレソナが王都に向かっている上、ジュビリーはレノックス相手に苦戦を強いられている。キリエは、戦場に向かった。

 激闘が続くローランドでは、ほとんどの騎士が馬を降り、地上で白兵戦が展開されていた。辺りは死屍累々の光景が広がっている。折れた槍、打ち捨てられた兜、盾。剣を打ち交わす兵士たちは、死体に足を取られながら、死闘を繰り広げている。騎士らは馬に乗ったまま声を張り上げ、歩兵を鼓舞していたが、双方共に疲れが見え始めている。

 馬に跨ったジュビリーが、渾身の力を込めて敵兵をなぎ払う。息をつく間もなく、横から斬りかかる兵の剣を盾で弾き返し、喉元に剣を突き立てる。

「ぐぅッ!」

 血飛沫が甲冑に飛び散り、敵兵はその場に崩れ落ちる。ジュビリーは荒々しく息を吐き出すと辺りを見渡した。自身も馬も疲労が溜まり、体が思うように動かない。これ以上戦闘を続けるのは困難だ。レノックスの姿を見失ってしまったが、彼に致命傷を負わすことができれば、味方の戦意が上がるはず。ジュビリーは油断なく視線を彷徨わせた。

「どこにいる……、冷血公!」

 ジュビリーがレノックスの行方を捜していた時。ローランド平原を見下ろす崖にキリエたちの部隊が到着した。

「見えます」

 騎士の一人が崖から身を乗り出して告げる。

「すでに白兵戦に突入しています」

 キリエは恐る恐るアガサから体を乗り出して戦場を見下ろす。

「ッ……!」

 血に塗れた死体がいくつも折り重なるようにして広がる光景に息を呑む。戦場へ赴くことは自分で決めたはずなのに、今更ながら恐怖で身がすくむ。初めて見る戦場。血の海と化したローランドの地。自分のために、皆が戦った結果だ。キリエは体の震えを止められなかった。

 ごくりと唾を飲み込むと、そっと左手を上げ、中指に嵌めた指輪を撫でる。ルビーの蝶は今日も艶やかな光を放っている。この指輪は父が自分に贈ったものだ。キリエとエドガーを繋ぐ唯一の遺品。父は諸悪の根源であるが、今は父の強さが欲しかった。キリエは口の中で祈りの言葉を呟いた。

「……女伯」

 騎士が心配そうに声をかけ、キリエは観念したように兜を脱ぐ。濃い栗毛が肩に流れる。

「……行きましょう」

 かすれながらも呟くと、キリエは部隊を振り返った。

「鳴り物の準備を」

 騎士たちが、ラッパや太鼓などをそれぞれ手にする。一斉に鳴り響かせ、不意を襲う作戦だ。キリエは、逃げ出したい思いを必死で抑え、崖を見下ろすと震える手をそっと上げる。そして、

「行けッ!」

 一気に振り下ろす。と、一斉に楽器が大音響で打ち鳴らされ、両軍の兵士は皆仰天して総立ちになった。同時に騎士の一人がグローリアの〈青蝶〉紋の軍旗を突き上げ、それを見たグローリアの兵士たちは一挙に歓声を上げた。

 が、その時、同時に予想外の事が起こった。大音響に驚いたアガサまでもが驚愕して棒立ちになったのだ。

「きゃあッ!」

 劈くような嘶きを上げると、アガサは一気に崖を駆け下りた。

「待ってッ! アガサッ!」

「女伯!」

「レディ・キリエ!」

 騎士たちが慌てて後を追い、雪崩のように平原へと繰り出す。

「きゃあぁーッ!」

 振り落とされまいと首にしがみつくキリエを乗せたまま、アガサは敵陣を一陣の風のように突き抜けた。

「グローリア女伯……!」

「レディ・キリエ……!」

「レディ・キリエだ!」

「グローリア女伯ッ!」

 白銀の甲冑に身を包み、白馬に乗ったその姿は兵士らの目にはさながら白い女神のように映った。

「女伯に続けッ!」

 叫び声を上げ、勢いを盛り返したグローリアとクレドの兵たちは一挙にルール軍に襲い掛かる。兵士らがキリエの名を叫ぶのに気づいたジュビリーが顔を歪めて振り返る。

「……キリエ?」

 すると、ジュビリーの目に、甲冑に身を包んだキリエがアガサに跨って疾走している姿が飛び込む。

「キリエッ?」

 彼は兜のバイザーを跳ね上げると手綱を引き、慌てて後を追う。我を忘れて駆け続けるアガサに追いつくには、全速力で馬を走らせねばならなかった。暴走するアガサに追いついたジュビリーは手を伸ばし、アガサの手綱を引っ張った。アガサの力に引っ張られ、白馬と黒馬はまるで輪舞のようにぐるぐると駆け回った。やがてアガサの勢いが弱まると、ジュビリーは手綱を手繰り、ぐいと引き寄せると兜を脱ぎ捨てた。

「馬鹿者がッ! 何をしに来たッ!」

「エレソナがイングレスに向かっているわッ!」

 怒鳴るジュビリーに対し、キリエも負けじと怒鳴り返す。極度の恐怖が限界を超えたらしい。キリエはジュビリーの手を取ると必死に叫ぶ。

「レスターが進撃を食い止めるために出撃したわ! 諸侯の援軍も間もなく到着するはずよ!」

「おまえが報せに来る必要はないッ!」

 エレソナも援軍も耳に入らない様子でジュビリーは怒鳴りつけると両手でキリエの腕を掴む。

「おまえのために皆血を流して戦っている! なのにおまえが討ち死にでもしてみろッ! 全てが無駄に終わる!」

 一瞬胸を突かれ、黙り込むキリエだったが、必死の形相で言い返す。

「私が戦う姿を見て欲しいの……! 私はレノックスと戦える。だから、皆も恐れずに戦って欲しい……! 今勝てば、皆自信がつく。レノックスへの恐怖も克服できる!」

 ジュビリーは苛立たしげに息を吐くと頭を振る。

「おまえが……、おまえが皆の希望なのだ。忘れたかッ!」

 ジュビリーが本気で怒っていることに、キリエは少しだけ後悔した。だが、その時。異様な歓声と怒号が起こり、二人は素早く振り返った。遠くに、馬に乗った騎兵が見える。兜を脱ぎ捨てたその姿は、見間違えるはずもなかった。

「……レノックス……!」

 ジュビリーが呆然と呟く。遠くにいながら、レノックスがにやりと凄絶な笑みを浮かべたのがわかる。ジュビリーの横顔を一瞥すると、キリエは震える手で腰の剣を引き抜いた。鋼鉄の剣はキリエには振り回せそうにもなかった。が、キリエはごくりと唾を飲み込むと勢いよく剣を振りかざした。

「戦え! ルール公を恐れるなッ!」

 キリエが叫んだ瞬間、周りの兵士たちが一斉に雄叫びを上げるとレノックスに向かって突進した。レノックスと彼を守る騎兵たちは一斉に襲い掛かるキリエ軍に押され、じりじりと後退を始める。再び息を吹き返し、冷血公に立ち向かう兵士らを目にしたキリエは顔を歪めて呟いた。

「見て……。私、レノックスと戦えるわ。もう、あの時の私じゃない……!」

 ジュビリーが振り返ると、キリエの細められた目から涙が溢れ始めた。誰よりもレノックスへの恐怖を克服しなければならなかったのはキリエ自身だったのだ。ジュビリーは黙ってキリエの肩を叩いた。その時、二人の名を呼ぶ声が耳に飛び込む。

「キリエ様! 義兄上!」

「ジョン!」

 振り返ったキリエが嬉しそうに叫び返す。馬を近くまで走らせるとジョンが丘の方向を指さす。丘の斜面を、新たな軍勢が押し寄せてくるのが見える。

「援軍だわ」

 風を切る紋章旗を見つめてキリエが呟く。一方のレノックスは唇を噛みしめ、丘を見上げた。苦々しげに罵声を吐くと手綱を引き絞った。

「退却だ!」

 レノックスがそう叫ぶと、伝令が即座にラッパを吹き鳴らした。

「逃がすな!」

 途端にジュビリーが怒鳴る。味方は疲弊しているが、援軍が到着した好機を逃す手はない。雪崩のようにローランド平原から逃げ去ろうとするレノックス軍をキリエ軍が追いすがる。

「キリエ、おまえは戻れッ」

「レスターが心配だわ。今頃きっとエレソナと戦ってる!」

 ジュビリーは少しの間考えを巡らせると周辺に目をやった。

「援軍を二手に分けよう。私はレノックスを追う」

 そして、疲労の色が見えるが気丈に顔を引き締めるジョンを見つめた。

「ジョン、おまえはキリエを連れてレスターの救援に向かえ。レスターと合流したら彼にキリエを帰還させろ」

「はッ」

「勝手な真似は許さんぞ、キリエ」

「はい」

 素直に返事をするキリエに、ジョンが心配そうに声をかける。

「お怪我はありませんか、キリエ様」

「大丈夫」

「では、参りますよ」

 ジョンはキリエと部隊を伴うと馬を走らせた。その様子を見届けると、ジュビリーは溜め込んでいた息を大きく吐き出した。


 ローランドでレノックス軍が退却を始める直前。ホワイトピーク海峡を臨む、アングル防衛の要衝、ホワイトピーク城で前代未聞の危機が生じていた。所属不明の船団が海峡を渡り、ホワイトピーク沖にまで迫ったため、港から迎撃艦隊が出撃したのだ。

 プレシアス大陸のガリア王国とは狭い海峡で隔たっており、古来よりここホワイトピークはアングルを大陸の脅威から守ってきた防衛の要だった。しかし、いつの時代にもアングルを守ってきた堅牢無比なホワイトピーク城ですら、現在の君主不在の内戦状態ではその防衛力が半減しているのは明らかだった。

 ホワイトピーク城を預かるのは、先王エドガーの甥、ホワイトピーク公ウィリアム・デーバーだ。アングル王家の一員であり、生真面目で愛国心の強い彼を王位に推す者も多かったが、傍系であるために自ら王位継承権を否定していた。そんな彼が最も恐れていた事態、それが他国からの侵略だった。

「船団の数はッ」

「二十ほどでございます」

「所属がわからないだと? 偵察隊は何をやっているッ」

 城代家令は顔を歪め、声をひそめた。

「船の艤装からして、恐らくガリアではないかと……。リシャール王によるものか、ギョーム王太子によるものかはわかりませぬが」

「ガリアだと?」

 内戦に乗じてエスタドが侵略してくるのであればわかるが、アングルより先に泥沼の内戦に陥っているガリアから軍を差し向けられたことにウィリアムは戸惑った。

「一体何を考えているのだ……?」

 眉間に皴を寄せて呟くウィリアムの元に、更に従者の叫びが飛び込む。

「公爵! 前衛の艦隊が突破されました!」

 その言葉にウィリアムと城代家令は言葉を失う。凍りつく室内に、遠くから潮騒のようにざわめきが聞こえてくる。

「……戦闘配置だ……!」

 ウィリアムはかすれた声でそう命じると、自らも兜を取り上げた。

 ホワイトピーク城から海に迫り出した砲台では、慌しく迎撃の準備が進められていた。車輪で牽引された大砲が何台も運ばれ、装填作業が済んだ大砲が次々に敵船に向かって砲弾を打ち込む。砲撃の轟音がひっきりなしに響く中、城の見張りの一人があっと声を上げる。

「何だ、あれは……!」

 城の背後に広がるホワイトピークの市街地。そこには、更に信じがたい光景が広がっていた。城に向かって軍勢が押し寄せているのだ。見張りは慌ててラッパを吹き鳴らす。

「軍勢が向かっているだと?」

 報せを受けたウィリアムが怒鳴りながら見張り塔を駆け上がる。

「防衛隊が突破され、街へ侵入した模様です!」

「どこの軍だ!」

「それが……」

 城代家令が言葉を濁す。

「私には信じられませぬ……!」

 苦しげに呟く言葉にウィリアムは一瞬彼を振り返るが、再び階段を駆け上がる。

「状況は!」

「あちらを!」

 興奮した見張りが指差す方向を仰ぎ見ると、ウィリアムは顔をしかめた。冬空が広がるホワイトピークの街を、武装した軍勢が波のように侵入してきている。先頭を行く騎兵が捧げ持つ旗を目にしたウィリアムは絶句した。アングル王家を表す〈赤獅子〉と、ユヴェーレン王家を表す〈荒れ馬〉を組み合わせた紋章。

「ベル・フォン・ユヴェーレン……!」

 ベイズヒル宮殿に幽閉されているはずの王太后ベルが、ガリアからの攻撃に晒されているホワイトピークを襲撃している。それは、両陣営の結託を意味していた。

「売女めが……!」

 ウィリアムは憎々しげに罵ると篭手を嵌めた手で壁を殴りつけた。


 その頃、ガリアのクーレイとアングルのホワイトピークのちょうど中間地点に当たる海域に、殿(しんがり)を務めるアンジェ伯アルマンド・バラの軍艦が航行中だった。冬の寒風を頬に受けながら、バラは周辺に他の船がいないことを再度確認した。

「艦長を呼べ」

 近くに控えていた側近に声をかけ、更に言葉を継いだ。

「それと、士官を集めろ」

「はっ」

 船が向かうアングル方面へ視線を投げかけたバラの元に、やがて艦長がやってくる。

「お呼びでしょうか」

「進路を変える」

「は?」

 不意の命令に艦長はいぶかしげな表情になる。バラはゆっくりと振り返ると低い声で再度命じた。

「ルファーンへ向かうぞ」

 ルファーン。艦長の表情がさっと変わる。ルファーン城はギョーム王太子の拠点だ。押し黙ったままの艦長とバラの元に、乗艦している士官が続々と集まる。バラは士官たちを整列させると彼らの顔を見渡した。そして、重々しく口を開く。

「……我々は航路を変え、ルファーンへ向かう」

 バラの言葉に士官たちはざわめいた。自分たちはアングル侵略の殿を命じられているはず。それが、何故、今ルファーンへ? 士官たちは不安げに伯爵を凝視した。その不安に答えるように、バラは声を高めて宣言した。

「私はこれより、リシャール王陛下の下を去り、ギョーム王太子殿下の軍門に降る」

「!」

 士官は元より、周辺で会話を聞いていた兵士らにもどよめきが起こる。

「もう、皆も疲れたであろう」

 バラの言葉に皆が沈黙する。

「ギョーム王太子が反旗を翻してから約半年。次々と有力諸侯が王太子側へと離反した。リシャール王陛下の弟君、レイムス公までもが寝返った。そんな中、我々はリシャール王のために必死で戦ってきた。だが、その王は我が国ガリアを捨て、異国の地へ新天地を求めた。我々が戦ってきたのは一体何のためだったのだ? 我々が本当に守りたいもの、それは祖国ガリアではなかったか」

 一斉に賛同の声が上がる。

「王太子も、我々を受け入れてくれるであろう。ルファーンへ向かい、ガリアのために王太子に従い、戦うことを誓うつもりだ。異議のある者は今申し立てよ」

 だが、兵士らは口々にバラを支持する言葉を叫ぶ。

「王太子の元へ参りましょう!」

「一刻も早くガリアに平和を!」

 満足げに頷いたバラは艦長を振り返ると短く呟く。

「見ての通りだ。進路を変えろ」

「はっ」

 艦長は操舵手に向かって怒鳴る。

「進路を変えるぞ。ルファーンへ向かえ!」

 甲板上が慌しくなる中、再び険しい表情に戻ったバラは間近に迫っていたアングルの対岸に一瞥をくれた。

「……さらばです。リシャール王」


「エレソナ様ッ!」

 シェルトンの叫び声と同時だった。振り返ったエレソナの目に、崖から武装した一団が襲い掛かる光景が飛び込んできた。

「何処の手のものだッ!」

 馬首を巡らし、毒づくエレソナの周りを瞬時に騎士たちが囲う。シェルトンは、部隊の兵士がグローリア伯爵家の〈青蝶〉と、レスター家の〈巻物〉の紋章旗を掲げているのを見逃さなかった。

「フランシス・レスターかッ」

 シェルトンは進軍を止めさせると迎撃に転じた。騎兵たちは丘陵に挟まれ、広いとは言えない地形に苦戦を強いられた。

(老臣フランシス・レスターが出撃したということは、バートランドとトゥリーがまだローランドでルール軍と交戦中ということか)

 シェルトンは、キリエ陣営の情報網の広さと迅速さを実感した。

「どけ! 邪魔だ!」

 エレソナの罵声に振り向くと、前に出ようとするエレソナを騎士が必死に押し留めている。

「お下がり下さい、エレソナ様ッ! 危険です!」

「こんな老いぼれの田舎騎士など……!」

 エレソナが顔を歪めて怒鳴り返した時。

「マーブル伯!」

 騎士の言葉に振り返ると、背後後方から更に部隊が迫ってくるのが見える。

「あの紋章……、トゥリー子爵です!」

「……!」

 シェルトンは舌打ちするとエレソナの耳元で叫ぶ。

「分が悪うございます! 退却しますぞ!」

 言い返そうとするエレソナの口を押さえると手綱を引く。

「退け! 退却だ!」

 マーブル軍がまごついている間にもジョンの部隊が襲い掛かる。その時、エレソナの目がある人物を捉えた。

「……あの娘……!」

 エレソナが口走った言葉にシェルトンも振り返る。部隊を指揮するジョン・トゥリーの後ろに隠れるように、濃い栗毛の少女が馬に跨っている。エレソナは頭にかっと血が上った。

「キリエ・アッサーッ!」

 エレソナの叫び声は、騒然とした戦いの場においてもキリエの耳に届いた。

「……!」

 キリエの顔が引きつる。引き止めるシェルトンを振り払い、エレソナはポールアックスを構えると猛然と馬を走らせた。それに気づいたキリエが短い悲鳴を上げる。

「ひッ……!」

 キリエが思わず手綱を引き、馬首を巡らす。迫り来る敵兵の剣をなぎ払いながら突進すると、エレソナは肩越しにポールアックスを大きく振り被った。

「!」

 瞬間、ジョンのオウルパイクがポールアックスを弾く。間髪を入れず、よろめいたエレソナに向かってジョンがパイクを構えなおすとエレソナに向かって突こうとしたその時。

「!」

 キリエが咄嗟に身を乗り出し、ジョンの腰にすがりついた。パイクの穂先がエレソナの鎧をわずかにかすめる。

「キリエ様ッ!」

 顔を歪めたジョンが叫ぶ。はっと我に返った表情でキリエは手を離すが、その間にも横から飛び出した騎乗の男がエレソナを馬から引き剥がすと自身の馬に乗せ、走り去った。

「待て!」

 ジョンが声の限りに叫ぶが、エレソナを乗せた男、ジェラルド・シェルトンは脱兎のごとく逃げ去った。悔しそうにその後姿を見送ったジョンは、大きく息を吐き出すと肩を落とした。

「……ジョン」

 キリエの怯えた声が聞こえる。ジョンは頭を振ると気分を切り替えた。

「キリエ様」

「ご、ごめんなさい、私……、ど、どうして……」

 青い顔で呟くキリエを見下ろすと、ジョンは疲れた笑顔を見せた。

「それは、エレソナ・タイバーンがあなたの姉上だからですよ」

「……姉……」

「……良かったです。止めていただいて」

 キリエは目を伏せた。彼女は自分を殺そうとしたのだ。これが二度目だ。なのに、それでも自分は異母姉を庇おうとするのか。なんてお人好しだ!

「子爵!」

 騎士の呼びかけに顔を上げると、レスターがこちらへ馬を走らせてくるのが目に入る。

「レスター」

「助かりました、子爵。ご無事だったのですね、キリエ様。伯爵には……」

「……大目玉を食らったわ」

 神妙な顔つきで呟くキリエに、レスターはわざと顔をしかめて見せる。

「お帰りになられると、改めてお叱りを受けるでしょう。お覚悟を」

「……そうね」

 憂鬱そうに呟くキリエを見やってから、ジョンがレスターに話しかける。

「レスター、おまえはキリエ様を連れてクレドへ戻れ。私はマーブル軍が退却するのを見届ける」

「はっ」

 レスターが子飼いの部下を呼び寄せようとした時。イングレスの方角から一頭の早馬がこちらへ向かって疾走してきた。

「あれは……」

「私の手の者です」

 レスターが馬を前へ歩ませる。

「レスター卿!」

 斥候が叫びながら手綱を引き、礼もそこそこに申し立てる。

「イングレスより戻りました! 大変でございますッ!」

 斥候のただならぬ表情に、三人は眉をひそめて顔を見合わせる。

「どうした、何があった」

「ホワイトピーク城が陥落しました!」

 陥落。その言葉に皆が凍りつく。

「ホワイトピークが……? 何故だッ?」

「ガリアのリシャール王の軍勢に襲撃され、ホワイトピーク公が必死に抗戦していたのですが、ベイズヒル宮殿から王太后の軍勢が背後から襲い、ついに陥落した模様です!」

「王太后……! あの異国の女狐め……!」

 ジョンが珍しく激しい口調で罵る。

「それで、イングレスは?」

 キリエの言葉に、斥候は荒い息遣いのまま答える。

「リシャール軍と王太后の軍によって攻撃され、制圧されるのも時間の問題かと」

 キリエは絶望して天を仰いだ。

「……何てこと……!」

 レスターもジョンも、予想外の展開に沈黙せざるを得ず、ただ項垂れるばかりだった。


 その頃、戦域を脱したシェルトンにエレソナが激しい勢いで噛み付いていた。

「何故逃げる! あの娘が……! キリエがあそこにいるのだ! 戻れ!」

「なりません!」

 手綱を引き絞り、馬を止めてからシェルトンは鋭く言い返した。

「これ以上は危険すぎます! ここは退却し、態勢を整えて……」

「嫌だ! 戻る! キリエを……、あいつを殺す!」

 幼子のように髪を振り乱して叫ぶエレソナに、シェルトンはぎりっと歯噛みするとぐいと顔を寄せる。

「エレソナ様! あなたにもしものことがあれば、母君に顔向けできませぬ!」

 母という言葉にエレソナはびくりと体を震わせた。シェルトンは目を見開くと真っ直ぐにエレソナを見据え、言葉を続けた。

「私はあの日から、あなたとあなたの母君を守り続けると誓ったのです……! 今、あなたを失うわけにはいかない!」

 いつもは寡黙にただ寄り添うだけのシェルトンの剣幕にエレソナは黙り込んだ。射るように見つめる灰色の瞳に、彼女は遠い記憶が脳裏に蘇った。

 シェルトンとエレソナ、アリス親子の出会いは十三年前。当時、国王エドガーの愛妾だったアリスは王との間に生まれたエレソナと共に王都で暮らしていた。小悪魔のように自由奔放なアリスを気に入っていたエドガーだったが、やがてその寵愛はキリエの母、ケイナへと移っていった。

 母娘二人、王の帰りをひたすら待つ日々。そんな時に、シェルトンは現れた。それは後宮の中庭でのことだった。池に落ちたエレソナを、通りかかったシェルトンが助けたのがきっかけだった。当時彼は貴族院議員。領地には妻を残していたが、シェルトンとアリスは引き寄せられるようにして惹かれ合った。そして、エレソナを加えた三人の日常が始まった。

 エレソナは自分を可愛がってくれるシェルトンに懐いた。だがそれは、父親を慕う気持ちには及ばなかった。父を望み続けたエレソナはやがて、父の愛情を独占する妹キリエに憎悪の目を向けた。そして、事件は起こった。

「気の触れた娘を、殺せッ!」

 キリエに斧を振るったエレソナはエドガーの逆鱗に触れ、幽閉された。母アリスはタイバーンに送還され、シェルトンは議員の職を解かれた。そして、皆は散り散りとなった。

「やっとこうして、無事に母君と再会を果たすことができたのです。戦場で命を落とすなど、絶対に許しません……!」

 シェルトンの搾り出すような囁きに、エレソナはうな垂れた。そして、無言で彼の胸にすがりついた。


 イングレス市内に侵入したリシャールと王太后の軍は、市民の凄まじい抵抗にあった。

 島国であり、大陸から侵略を受け続けてきたアングルの民は、元より外国人を嫌う性質があった。王妃を外国から迎えることも国民は元より歓迎していなかったが、国王亡き後に王太后が外国の王と結託し、アングルを侵略しようとしたことに怒りが爆発したのだ。

 市民は即席の武器を手に必死で戦った。だが、市民をまとめる指導者がいないことと、相手が陸戦を得意とする大陸の軍であることが災いして、抵抗も徐々に弱まっていった。その上、元々海戦に弱いはずのガリア軍は、ホワイトピーク城を海上からの攻撃で陥落させた事実に士気を高めていた。

 プレセア宮殿を直接攻撃したのは、本来守る立場のはずの王太后軍だった。彼らは、どこをどう攻撃すれば良いか全てを知り尽くしていた。王太后軍は、ベルが母国から連れてきた騎士たちが多く在籍していたため、宮殿を襲うことに罪悪感がなかったのである。

 市民による「人間の壁」が突破されると、後は砂上の城も同然だった。破城槌で城門は呆気なく打ち破られ、落とし格子が引き上げられると、王太后軍はプレセア宮殿を一挙に支配下に置き、イングレスは陥落した。

 やがて、悠々と市内に乗り入れたガリア王リシャールを、市民たちは怨嗟のこもった目で見つめた。彼が市内に入った頃には日が暮れ始め、真っ赤な夕日がおびただしい数の死体を染め上げ、凄絶な光景を見せていた。

「陛下」

 補佐官の一人が呼びかける。

「ベル王太后がこちらへ向かっているそうです」

「うむ」

 馬上から市民の様子を小気味良さそうに眺めながらリシャールが頷く。が、しばらくするとわずかに顔をしかめる。

「バラはどうした。まだ上陸していないのか」

 補佐官も腑に落ちない様子で口ごもる。

「まだ……、こちらには到着されていませんな」

「急がせろ」

「はっ」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ