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女王キリエ  作者: カイリ
第3章 ローランド会戦
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第3章「ローランド会戦」第1話

ついにレノックスとの戦いが始まった。迎え撃つクレド・グローリア連合軍。

 セレンを抜け、グラムシャーへ入った自軍を追い、レノックスが自ら部隊を率いてイングレスを発ったのは日が落ちかけた頃だった。

「公爵! 兜をお被り下さい!」

 馬を走らせながら、前を行くレノックスにヒューイットが叫ぶ。それに対してレノックスは「邪魔だ」の一言だけを返す。

「戦場で兜を脱ぐ癖はお改め下さい! そのお顔の傷だって……!」

 言われてレノックスは右手で顔を撫でる。傷はようやく赤みが取れてきたが、斬りつけられた日のことは昨日のことのように覚えていた。教会から連れ出したばかりのキリエを馬に乗せ、自分と剣を交えたクレド伯爵。この傷の返礼は倍以上にしてやらねば。しかし、レノックスはむしろ上機嫌だった。彼にとっては復讐すら極上の楽しみなのだ。

 戴冠できない苛立たしさからカトラー大司教を殺害し、国民や諸侯の反感を買ったレノックスだったが、反対勢力を一掃する良い機会程度にしか考えていなかった。クレドに引き篭り、周辺地域で擁立の賛同者を集めていたキリエの動きが癪に障って仕方なかったが、ようやく直接叩ける機会が訪れたのだ。レノックスの脳裏に、自分に襲われ、痙攣を起して気を失った幼い異母妹の姿が浮かんだ。死人のような蒼白の顔。引き裂かれたワンピースからのぞく胸。あの時、殺す手間を惜しんでその場を脱したのがそもそもの間違いだった。

(それにしても……)

 レノックスは馬を走らせながら胸の中で呟く。

(何故あの時殺さなったのか……。我ながら、人の心とは度し難いものよ)

 あまりにも幼いあの異母妹ひとりぐらい、どうにでもなると思っていた。だが、今では自分の対抗勢力を率いている。

(二度目はないぞ、キリエ・アッサー)

 今度は泣いて命乞いしたって聞き入れない。レノックスは楽しみでならないといった表情で笑みを浮かべた。


「使者を派遣している諸侯からの援軍は当てにならんぞ」

「はい」

 上を下への大騒ぎの中、大股に歩くジュビリーの後ろを小走りについてゆくキリエ。城内は武装した騎士や兵士たちが所狭しと行き交っている。

「あくまでもクレド、グローリア、トゥリーの軍で戦うことになる」

「あ、あなたも戦場に行くの?」

「私が行かないでどうする」

 半ば呆れ顔で言い返したジュビリーだったが、顔をしかめて歩みを止める。

「まさか、自分も行くと言い出すのではなかろうな」

 さすがにキリエは無言で顔を横に振る。その表情をじっと見つめてから、ジュビリーは騒然としている大廊下を見渡す。

「おまえにはおまえのやるべき仕事がある。それを果たせ」

「……はい」

 かすれた声にジュビリーが振り返る。緊張と怯えが入り交じるキリエの顔を黙って見下ろしていると、背後から呼びかけられる。

「兄上ッ」

 振り向くと、旅装姿のマリーエレンが数人の従者を伴ってこちらへやってくる。

「今からグローリアへ向かいます」

「頼むぞ」

 ジュビリーとジョンが出陣し、レスターがキリエと共にクレド城に残る為、即席の城代としてマリーがグローリアを守ることになったのだ。城主の妻や子女が留守を預かることは当然の責務だ。

「キリエ様、しばらくお側を離れますが、レスターの言うことをよく聞いてクレドをお守り下さい」

「……はい」

 マリーは跪くと、緊張で強張ったキリエの頬を優しく包んだ。

「大丈夫。キリエ様のお祈りは誰よりも強く天に届きますわ。なんといってもキリエ様は修道女ですもの」

 キリエを勇気づけるはずの言葉だったが、それは彼女の胸の何かを刺激した。

「……気をつけて、マリー」

「はい」

 マリーは兄をもう一度振り返り、ジュビリーは小さく頷いた。

「……兄上もお気をつけて」

 そう囁くとマリーが背を向けた時。

「マリーエレン!」

 呼び止められ、緊張した面持ちで振り返る妹に歩み寄るとジュビリーは低く呟いた。

「西塔へ寄って行け。ジョンが出撃の準備をしている」

 マリーは目を大きく見開いて兄を見上げると、躊躇いの表情を見せた。

「行け」

 ジュビリーに促され、ようやくマリーは頷くと小走りにその場を立ち去った。その様子を見送ると、キリエはジュビリーを仰ぎ見た。

「……ジュビリー。マリーと、ジョンのこと……」

「わかってる」

 ジュビリーは短くそう呟くと再び大股で歩き始め、キリエは慌ててその後を追う。

「夜明けまでには出陣する」

「はい」

「おまえは出征する兵士たちを鼓舞しろ。今から言葉を考えておけ」

「はい」

 二人が大広間に戻ると、そこには巨大なテーブルが用意され、アングルの広域地図が広げられていた。レスターが険しい顔つきで地図を見下ろしていたが、従者に声をかけられ、顔を上げる。

「ルール軍の動きは」

「グラムシャー伯の使者が先ほど到着し、丘陵沿いにルール軍を誘導するよう伝えました」

「それでいい」

「丘陵?」

 レスターが「ここです」とキリエに地図を指し示す。イングレスの北にセレン。セレンを更に北上した場所にグラムシャー。そのグラムシャーを囲むように丘陵地帯が連なっている。

「丘を迂回させてローランドへ誘い込みます。ここは三方を山に囲まれた平地で、迎撃するには打ってつけです」

「うまくローランドに向かってくれるかしら……」

「すでに長弓(ロングボウ)隊を派遣しました。グラムシャー軍とロングボウ隊に挟まれれば嫌でもローランドへ逃げ込まざるを得ません」

 ローランドはグラムシャーとクレドのちょうど中間地点に当たる。確かに三方は山々が連なり、ここで両軍が激突することになろう。

「それと……、マーブルへ遣った斥候が戻ってまいりました」

 レスターの言葉にジュビリーが反応する。

「目立った動きはありませんが、明らかに戦闘の準備をしているようです」

 キリエが恐る恐る口を開く。

「……エレソナ?」

「マーブル伯は戦をしたがらないでしょう。かの地は兵員があまりにも少なすぎます」

「だが、タイバーンの雌狼は黙ってはおるまい。マーブルから目を離すな。逐一報告させろ」

「はっ」


 その頃、マリーは従者を城門に待たせ、西塔へ急いでいた。多くの軍馬がひしめき、装備を移送する歩兵たちが右往左往する中、マリーが兵を掻き分けて塔へと向かう。マリーの身分に気づいた者たちは慌てて道を開け、ようやく入り口まで辿り着く。夕闇が迫る中、ジョンの怒鳴り声が耳に飛び込む。

「急げ! 出撃は夜明け前だ! 装備漏れがないか、確認を怠るな!」

 塔のアーチの前で、武装したジョンの姿を見つけたマリーは後ろから手を握り締める。

「!」

 驚いて振り返るジョンの手を引いて門の影に連れ込むと、マリーは黙ったまま彼を壁に押し付けて胸にすがりついた。

「……マリー様?」

 息を呑んで抱きしめるジョン。二人の耳に、すぐ側から馬の嘶きや将兵たちの怒号や叫び声が聞こえてくるが、不思議とどこか遠くの出来事のように感じられる。ジョンの胸が早鐘のように打ち震え、マリーの肩を抱く手はかすかに震えていた。これまでに何度か、ダンスや馬の遠乗りなどで触れ合ったことはあっても、こんな風に抱きすくめたことはなかった。

「……マリー様」

 もう一度ジョンが名を呼ぶ。

「……今からグローリア城へ?」

 ジョンの呼びかけにマリーは無言で頷く。ジョンはわずかに体を屈めると低く呟く。

「……どうぞお気をつけて……。義兄上は、私がお守りします。ご安心を」

「……必ず帰ってきて」

 初めてマリーが言葉を発する。その声色から怯えを感じ取ったジョンは、マリーの右手を取ると、ガラス細工でも扱うかのように優しく手首に唇を押し付けた。いつでも礼儀正しいジョンに、マリーは少しだけ困った笑みを浮かべると背伸びをして彼の頬に口付ける。それだけでジョンは顔を真っ赤にして息を呑む。

「……気をつけて」

「……はい」

 二人はしばらく見つめあい、やがてマリーは名残惜しそうに手を離すと背を向けた。走り去る彼女の後姿を見送り、ジョンは吐息をついた。


 その晩、クレド城では夜通し戦闘の準備が進められた。斥候がひっきりなしに行き来し、キリエは落ち着かない様子で陣営を見守っていた。実際、彼女にできることは邪魔にならぬようにおとなしくしていることと、天に祈りを捧げることしかなかった。キリエは、自分の非力さを改めて痛感させられた。

 夜中に、仮眠を取るようにとジュビリーから自室に追いやられたが、到底眠れそうになかった。キリエは窓からそっと外を見下ろすと、城の至る場所で篝火が掲げられ、多くの兵士たちがざわめくのを見守った。冬の夜空は灰色の雲で星を覆われている。キリエは眉をひそめ、悔しそうに唇を噛みしめた。

(私は修道女……。祈ることしか知らない、何の役にも立たない小娘……! 私の代わりに多くの人が戦場へ赴く。私の代わりに……!)

 キリエは目を閉じ、天を仰いだ。

(天よ……。私に出来ることは……。私がせねばならぬことは、一体……)

 脳裏にレノックスの残酷な笑みが浮かぶ。あんな、人を人とも思わぬ獣に何人足りとも殺されたくない!

 そこでキリエは不意に恐ろしい想像をした。この戦いで、もしもジュビリーが死ぬようなことになれば、自分は一体どうすればいい……? 彼がいなければ、もはや生きていくことはできない。あの獣のような兄から逃れることもできない。キリエは一晩中自分を問いつめたが、結論が出ることはなかった。

 そして、夜が明ける数時間前。斥候によって、ルール軍がローランド入り口付近に陣を張ったことが知らされ、ジュビリーはクレド、グローリア、トゥリーの軍を城門に集結させた。

「出陣だ」

 扉の向こうからジュビリーの声が聞こえた。扉を開くと、漆黒の鎧を着込んだジュビリーが佇んでいる。キリエは無言で部屋から出た。

「少しでいい。兵に言葉をかけろ。人々を鼓舞し、意志を共有化させることは女王になってからも重要な仕事になる」

「はい」

 わずかに顔を青ざめさせたキリエに、ジュビリーが口を寄せて囁く。

「おまえの言葉で呼びかけろ。おまえのような娘を持った者もいよう。妻を残して往く者もいよう。それを考えれば……、何を語るべきかわかるはずだ。人の心を動かせる言葉は、そう多くない」

「……はい」

 目を閉じ、何度か静かに深呼吸を繰り返す。

「……良いか」

 キリエは静かに黒く光る瞳を開けた。

「行きます」

 そう言い放つと彼女は静かに歩み始めた。その横顔は、今までのキリエとは違う空気を醸し出していることにジュビリーは気づいた。

 城門に向かうと、東の空がわずかに白みかけている。冬の早朝は身を切るような寒さだが、キリエはワンピースの上にぴったりしたガウンだけを羽織り、居並ぶ将兵たちの前を進んだ。

 白地に金糸で刺繍されたガウンは、キリエの神聖な雰囲気を掻き立てるに充分だった。普段は結わない栗毛もきっちりと結い上げ、凛とした表情を作っている。

「グローリア女伯である!」

 ジョンの号令に、騎士や兵士らは一斉に剣を捧げる。

 すでに興奮し始め、体を揺すっている軍馬。凍てつく寒さに軋む甲冑。夜露が光る剣、槍、槌、弓矢。皆白い息を吐き、幼い女伯の一挙手一投足に注目する。

 キリエは、城門に設営された(やぐら)を見上げ、ゆっくりと登ってゆく。登りきると、視界一杯にひしめく兵士たちを見渡す。所々、クレドやグローリアの紋章旗が翻っている。キリエは静かに両手を合わせると片膝をついた。初めてグローリア女伯を目にする者は、その予想外の行動にざわめいた。大勢を前にして演説する人物といえば、キリエはボルダー司教しか知らない。彼はいつも陰気に、抑揚のない言葉をただ並べるだけだった。それでは駄目だ。人々に力を与えるためには、力強い言葉と勢いが必要だ。キリエはすぅっと息を吸い込むと、一息に叫んだ。

「私は信じている!」

 その一言に将兵らは目を大きく見開いた。

「私は、そなたたちが敵を恐れず、勇敢に戦い、平和をもたらすことを、信じている!」

 語り始めると不思議と緊張がほぐれていくのが自分でもわかった。キリエは遠くの兵士にも視線を送った。

「そなたたちが今から戦うのは、悪名高きルール公レノックス・ハートである! だが、恐れることはない! あの残虐非道な冷血公を、神がお許しになるはずがない! 彼が犯した罪を忘れるな! 神は、必ずや我々をお守り下さる! これは神のため、アングルのための戦いである!」

 この時、賛同の雄叫びが一斉に上がった。

「冷血公に鉄槌を!」

「カトラー大司教を惨殺したルール公に神の裁きを!」

「アングルに平和を!」

 戦場におけるレノックスの残虐行為は国内外に知れ渡り、彼を恐れる者も多い。恐怖心を克服させるには、彼の過去の罪を思い出させ、怒りを力に変えさせるしかない。それが、キリエが苦悩の内に導き出した結論だった。

「もう一つ、忘れないでほしい!」

 キリエは更に声を張り上げた。

「そなたたちには、それぞれ無事を祈る者がいることを、決して忘れないでほしい!」

 この言葉は皆の心を打った。戦を前にした者が口にするには陳腐な言葉だが、キリエが今でも自分は修道女であると主張していることが、この言葉に意味を与えた。一斉に歓声が上がる中、一人が叫んだ。

「グローリア女伯を女王に!」

「レディ・キリエを女王に!」

 それはやがて大合唱へと変わった。東から太陽が覗き始めるとクレド城を照らし出す。暁の光に包まれたキリエは、まるで神懸かり的な美しさを放っていた。大音声に揺さぶられ、キリエと軍勢の様子を眺めるジュビリーの脳裏に、ある言葉が浮かんだ。  

 聖女王。神聖にして人々を統べたもう女王。キリエはそう名乗るにふさわしい存在だ。国の隅々までキリエの存在を印象づける称号。ジュビリーには、王冠を戴いたキリエの姿がはっきりと思い描けた。

(その為には、この戦いを落とすわけにはいかない)

 軍勢はまだ鬨の声を上げ、それぞれの武器を天に向かって突き立てている。

「ジョン」

 ジュビリーが声をかけると、彼は頷き、再び号令を発した。

「出陣だ!」

 軍勢が城門を潜り、クレド城を後にしてゆく。キリエは溜め込んでいた息を大きく吐き出した。櫓の下から名を呼ばれ、危なっかしい仕草で振り返るとよろめきながら一段一段降りる。

「よくやった。上出来だ」

 ふらつくキリエの手を取り、地上に降ろしたジュビリーがそう声をかけると力強く肩を叩く。

「これから先は私の仕事だ。おまえは城を守れ。良いな」

 まるで泣きはらした後のように赤い目をしたキリエは黙って頷いた。

「……後を頼むぞ」

 そう呟くとジュビリーは踵を返そうとしたが、咄嗟に右手を掴まれる。振り返ると、そこには雄弁な女伯爵の姿はなく、怯えきった表情の少女がいた。キリエは震える手でジュビリーの右手を握りしめた。同じように震える唇が何度か開きかけるが、言葉が出てこない。キリエの目をじっと見つめたジュビリーは、周りにさっと視線を投げると、左手で彼女のこめかみから頬を撫でた。キリエは彼の手のひらの温もりを感じて泣き出しそうに俯いた。

「……往ってくる」

 キリエは顔を上げると頷いた。ジュビリーはキリエの手をもう一度握りしめてから離し、外衣を翻した。


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