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女王キリエ  作者: カイリ
第2章 タイバーンの雌狼
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第2章「タイバーンの雌狼」第7話

異母姉エレソナが王位宣言。キリエは異母兄だけでなく、姉とも対決することになった。

 十一月も半ばに入ると本格的な寒さが始まる。雪こそ降らないが、日々冷たい雨が続く。

 そんな初冬の、珍しく晴れた朝。マリーエレンは嬉しそうに窓から空を見上げた。

「良かったわ、晴れてくれて。ナンシーのおまじないが効いたのね」

 小間使いの名を挙げ、マリーは一緒に空を見上げていたジョンに微笑みかけた。

「頼んだわよ、ジョン」

「ええ、任せて下さい」

 ジョンは自信ありげな顔つきで答えると、窓辺を離れた。その足でジョンが訪れたのは、朝食を済ませたばかりのキリエの部屋だった。

「キリエ様、今日は久しぶりの快晴ですから、遠乗りしましょう」

 一人でアガサに乗ることができるようになったキリエは、天気の良い日に遠乗りをしようとかねてからジョンに誘われていたのだ。

「そうね」

 キリエも窓から外を眺める。

「こんなに晴れたのは久しぶりね」

「ええ、何と言っても今日は特別な……」

「特別な?」

 何気ない問いかけに、ジョンは慌ててキリエの背を押して部屋から出す。

「あ、いえ、ここ数日で特別晴れた日ですね」

「そうね?」

 どことなくぎこちないジョンに不思議そうな顔つきになるものの、キリエは素直に厩舎へと向かった。

「何だか今日は皆忙しそうね」

「そうですか?」

 城内では、使用人たちがいつもより忙しげに行き交っている。

「久しぶりに晴れましたからね。溜まった仕事で忙しいのでしょう」

 そういえば、長雨続きで下着が乾かないと、洗濯女の一人が嘆いていた。

 中庭に出ると、久しぶりに暖かな冬の陽差しが二人を包むが、頬を撫でる空気は冷たい。キリエたちは馬丁から水筒などを受け取ると馬に跨った。

「どこまで行くの」

「思い切ってグローリア城まで行ってみますか」

「グローリアまで? 行けるかしら」

「大丈夫ですよ、ゆっくり行きましょう」

 そう言うとジョンは軽く馬の腹を蹴った。

 その様子を書斎の窓から見守る者がいた。ジュビリーは黙ったままキリエとジョンの後姿を見つめていたが、やがて扉を叩かれ、窓からすっと身を引いた。

「兄上、キリエ様とジョンがグローリアへ出発しました」

「……ああ」

 だが、窓が開け放たれているのを見て、マリーはくすりと笑いを零す。

「そのご様子では、ご覧になっていましたね?」

 ジュビリーは特に言い返さず、黙って窓を閉めると机へ向かう。マリーは微笑をたたえたまま、窓越しに空を見上げる。

「きっと、喜んでいただけますわ」

「……ああ」


 クレドからグローリアまでは、普通馬で二時間かかるが、二人はゆっくりと馬を走らせた。時折馬を休ませ、言葉を交わしながらの道行きは、ちょっとしたピクニック気分を味わえた。やがて、なだらかな丘陵にグローリア城の尖塔が見えてくる。

「見えてきましたよ、キリエ様」

 ジョンの声にキリエは上気した顔で頷く。

「もう少しね」

 そして、尖塔を見つめていたキリエは思い出したようにジョンを振り返った。

「そうだわ。私、いつかトゥリーにも行ってみたいわ」

「ええ、是非お越し下さい」

 ジョンも明るい表情で答える。

「クレドやグローリアに比べたら田舎ですが」

「どんなところ?」

「大きな湖があります。真ん中に小さな島があって、子どもの頃はよく遊んでいました」

「わぁ、行ってみたいわ!」

 そう声を弾ませたキリエだったが、尖塔を見つめるジョンに、声を低めて尋ねた。

「……ねぇ、ジョン」

「はい」

「……エレオノール様は、どんなお方だったの?」

 どこか恐々とした口調にジョンが振り返る。キリエの顔は、ジョンが気を悪くするのではないかと心配している様子がありありと見える。そうか、とジョンは思った。クレド城では、エレオノールの話題は滅多なことでは上がってこない。誰もが口にするのを憚る繊細な話題なのだ。だが、キリエ本人は、ずっと気になって聞きたかったはずだ。

「静かでしたよ。でしゃばるような姉ではありませんでした」

 ジョンは、キリエの緊張を解こうと笑顔で答える。

「義兄上は、今と同じで普段は静かでしたが、不思議なことに姉と一緒にいる時はどこか口数が多かったですね」

「そう……」

 そう言えば、母ケイナの肖像画はグローリア城で見たが、エレオノールの肖像画はクレド城に住みながらまだ一度も見ていない。それどころか、埋葬された墓標も目にしていない。

「婚約期間が長かったのですよ。義兄上が求婚した時、姉はまだ十三歳でしたから」

「そ、そうなの?」

 意外な事実にキリエが思わず声を上げる。ジョンは微笑むと肩をすくめた。

「意外でしょう? だから、姉が成人するまで、五年待って結婚したのです」

 五年もの時間を経て結婚した二人。ようやく結ばれた妻を、ジュビリーは大事にしたに違いない。それが……。

「義兄上がプレセア宮殿に出仕することになり、姉も一緒に宮殿へ移り住みました。その時に、二人はレディ・ケイナに会いに行ったそうです」

「母上に?」

「ええ。姉から手紙が届きました。ケイナ様がお生みになった女の子は本当に可愛かったと」

 キリエはどきりとして息を呑む。ジョンはふっと微笑みかけた。

「キリエ様のことですよ」

 エレオノールは生まれたばかりの頃の自分に会っていた。そのことに、キリエは妙に胸がどきどきした。

「……短い結婚生活でしたが、二人は幸せでした」

 隣でジョンがゆっくり呟く。そっと見上げると、いつもは明るいジョンの目が悲しみの色に沈んでいる。

「宮廷に出仕していた義兄上は、結婚すると姉と宮廷で暮らしました。本当は、義兄上も姉も騒がしい王都で暮らしたくないと言っていました。ですが、反乱を鎮圧した功を認められ、廷臣として出仕するよう命じられては、それを拒むこともできず……」

 ジョンは複雑な表情で黙り込むと、遠慮がちに言葉を継いだ。

「……義兄上の功績がなければ、あんな悲劇も起こらなかったかと思うと……。運命というのは本当に残酷です」

 王の愛妾となり、生まれた子の行く末を案じながら死んでいった母ケイナ。愛する者と結ばれながら、美貌故に王に襲われ、宿した子と共に死んでいったエレオノール。女はいつも、こんなにも弱い立場に立たされている。

 だが、そこでキリエは不意に背筋が寒くなるのを感じた。ジュビリーにとって自分は、妻の命を奪った男の娘だ。憎くは……、ないのだろうか。

「実は」

 不意にジョンが声を上げ、キリエははっとして顔を上げる。

「姉が亡くなる前に、マリー様に縁談が持ち上がったのですが」

「そうなの?」

 初めて耳にする事に、キリエは驚いてジョンの横顔を見つめる。

「マリー様が、義兄上に会いにイングレスを訪れた際に出会った貴族です。向こうは一目惚れだと言っていたそうですが、本音はクレド伯爵家との繋がりを持ちたいがためだったらしく、義兄上は渋っていました」

 抑えた口調で淡々と続けるジョン。

「そのうち姉の事件があり、縁談は立ち消えになりました」

「そんなことが……」

「複雑な気分でした」

 低いながらもきっぱりとした口調で彼は言い切った。

「出世への糸口にとマリー様との結婚を望みながら、姉の事件で我々との関わり合いを拒む。……何て身勝手な男だと、憤りました。でも同時に、そんな男とマリー様が結婚なさらなくてよかったと、安心もしました」

 そこまで一気に語り終えると、ジョンは小さく溜息をついた。

「……それ以来、マリー様は義兄上を支え続けています。姉を失った、義兄上を」

 彼の寂しげな横顔にキリエの胸が痛む。

「姉が死んだ後も『義兄上』と呼ぶ私に、自分はもう義兄ではないと仰ったのですが……」

 寂しそうに目を伏せたジョンは低く呟いた。

「私にとっては、義兄上が義兄であることが、誇りですから」

 ジュビリーだけではない。ジョンもマリーエレンも傷つき、悲しい思いをしたのだ。皆、孤独と悲しみを抱えている。自分だけが不幸なのではない。少し考え込んだ後、キリエが小さく呟く。

「……私の父は、一体どれだけの人々を傷つけてきたのかしら」

「あ、そういう意味ではなく……」

 ジョンが慌てて振り返り弁解する。が、一瞬の沈黙の後、予想に反してキリエは笑顔で振り向く。

「どうしてマリーのことは『義姉上』って呼ばないの?」

「えッ?」

 途端にジョンの顔が真っ赤になる。

「本当はマリーと結婚して、ジュビリーに『義兄上』になってもらいたいのでしょう?」

 キリエのあまりにもまっすぐな言葉にジョンは慌てふためいた。

「そ、そうではなく……! あ、義兄上は立場上私の主君でもあるわけで……、そ、そのようなことは決して……!」

 しどろもどろに答えるジョンに、キリエはいたずらっぽい笑顔で畳みかける。

「主従関係だとか、そんなの関係ないわ。私からジュビリーに言ってみましょうか」

「それだけはッ!」

 今度は真っ青になって叫ぶジョン。礼儀を心得ており、人を思いやる優しい性格のキリエだが、教会という閉鎖的かつ特殊な環境で育ったため、時々突拍子もないことを言い出すことがある。しっかり釘を刺しておかねば本当に言い出しかねない。

「キリエ様、く、くれぐれも義兄上にはそのようなことはお伝えしないよう! マリー様にもご迷惑が……!」

「マリーは待っていると思うわ」

「キリエ様ッ!」

 青くなったり赤くなったりするジョンを尻目に、キリエは笑い声を上げながら馬を走らせる。

「アガサ、グローリア城まで後少しよ!」

「あ、キリエ様ッ!」

 慌てて追いかけるジョンの声を背中で感じながら、キリエは二人をどうやって結びつけようかと思案を巡らせた。

 一気に飛ばしたおかげで、やがて二人はグローリア城のすぐ近くまでやってきた。息を整えるために少し馬を止め、ジョンが振り返る。

「今日はレスターがいるはずです。会いに行きましょう」

「そうね。おじい様の墓参もしたいし」

 墓参という言葉に、ジョンが声を潜める。

「……ロンディニウム教会まで、足を伸ばしてみますか」

 ロンディニウム教会。その名を耳にした途端、キリエの顔が強張る。普段はロンディニウムの名を聞いても取り乱したりすることはない。だが、こうしてすぐに訪れることができる場所まで来ると、どうしてもあの光景が脳裏に浮かび上がってくる。ボルダー司教の陰鬱な顔。ウィルキンスの狂気の笑み。苦痛に顔を歪ませて死んでいったロレイン。

「……ごめんなさい」

 キリエは青い顔で呟いた。

「まだ……、あそこへは、行けないわ……」

 かすかに震えながら、キリエはロンディニウムの方角をじっと見つめた。

「……そうですね。またにしましょう」

 ジョンは優しく呟くと、キリエの横顔を見守った。

 そこからはゆっくり馬を歩かせてグローリア城まで向かった。城に到着すると、皆驚いた様子だったが、喜んで出迎えてくれた。四ヶ月前の怯えた修道女姿を覚えている者は、ほんの少しだが女伯爵としての立ち居振る舞いを身につけたキリエに驚いている。出迎えたレスターもいつもに比べてどことなく上機嫌だった。

「もう、こちらまで遠乗りできるようになられたのですね」

「先生が優秀だから」

 そういってキリエはジョンに微笑みかけた。

「おじい様の墓参を……」

「是非、お願いします」

 城の礼拝堂に入ってゆくキリエを見送ると、レスターがジョンに囁きかける。

「……首尾は」

「今のところ、順調だ」

 だが、レスターはわずかに眉間に皺を寄せてジョンの顔を覗きみる。

「……あまり順調ではなさそうなお顔ですな?」

 相変わらず勘のいいレスターに、ジョンはわざと顔をしかめてみせた。

「……早くマリー様と結婚しろと言われた」

「それはそれは」

 大げさに眉をひそめたレスターが追い打ちをかける。

「何故ご結婚なさらないのです?」

「レスター、おまえまでッ」

 馬鹿正直に色めき立つジョンに、レスターは苦笑いで返す。

「しかし、そのようなお話ができるようになりましたか」

「ああ」

 ジョンも気を取り直して表情を戻す。

「……姉上のことも聞かれた」

 レスターは無言で頷いた。

「義兄上にも、お聞きしたいことがたくさんあるはずだ。まだまだ距離はあるな」

 老臣はそっと礼拝堂を眺めた。

「今日が、距離を縮める良いきっかけになるでしょう」

「だといいな」

 墓参の後、城で昼食を済ませるとレスターも共にクレド城に戻ると願い出た。

 帰路では更に時間をかけた。キリエは、ジュビリーには聞きにくいことをここぞとばかりにジョンとレスターに質問責めした。

 レスターの妻子のこと。母の子ども時代のこと。ジュビリーと祖父のこと。

 立て続けに浴びせられる質問にジョンとレスターは代わる代わる答えたが、その多くの質問の中にエレオノールや、父エドガーに関するものがほとんどないことに二人は気づいていた。しかし、あえて触れることはせず、二人は可能限りキリエの疑問に答えてやった。クレド城に帰り着いたのは、日も暮れかかった夕方だった。

「楽しかったわ。ありがとう、ジョン、レスター。疲れたでしょう」

 キリエの明るい笑顔に、レスターはほっと胸を撫で下ろした。教会から連れ出された頃の、怯えた小鹿のような表情は最近目にしていない。少しずつ心の傷を癒し、こちらへ歩み寄ろうとしている。大きな成長に老臣は頼もしさを感じた。

 アプローチまでやってくると、常に待機しているはずの従者たちが慌しく出迎え、キリエは首を傾げた。

「何かあったの?」

「な、何でもございません。晩餐をご用意いたしております。大広間へ」

 キリエは大広間に向かう途中、腑に落ちない表情でジョンに話しかけた。

「朝はあんなに忙しそうだったのに、今は静かね」

「そうですか?」

 どことなく静かな廊下を歩きながらキリエはわずかに眉をひそめる。やがて大広間までやってくると、いつもは開け放してある扉が閉ざされている。思わず扉の前に三人が立ち尽くす。とうとうキリエが不安そうな表情で振り返る。

「何だか今日はおかしいわ。どうしたの?」

「何でもないですよ。お開けしましょう」

 ジョンがそう言うと従者に目配せする。二人の従者が扉の前に立つと、やがて一気に開け放った。

そこに広がる暗がりにキリエはぎょっとした。が、次の瞬間、大広間の中心から細波のように一斉に明かりが灯され、城で働く大勢の人々が現れた。

「えっ……」

 息を呑むキリエに向かって、燭台を掲げた人々が一斉に叫ぶ。

「お誕生日おめでとうございます! レディ・キリエ!」

 そして同時に楽士たちが賑やかな楽曲を奏で始める。キリエは理解できずにぽかんとしている。家臣や騎士たちだけでなく、従者や召使いなど、下働きの者まで様々な人々が口々に祝福の声を上げながら集まってくる。中央からマリーが笑顔で歩み寄った。

「今日、十一月十六日はキリエ様のお誕生日ですよ。キリエ様は今日で十四歳です」

 今日で十四歳。

 聖ロンディニウムの祝祭日ですでに十四歳になったと思っていたキリエにとっては、ただ唖然とするばかりだ。

「……た、誕生日……?」

 今まで確かな誕生日などないと思いこんでいたキリエは、困惑気味にマリーを見上げる。隣のジョンが声をかけてくる。

「夏に、サーセンのヒース司教を訪ねた時のことを覚えておいでですか? あの時キリエ様は、誕生日がわからないから聖ロンディニウムの祝祭日を代わりに祝っていると仰いましたよね。その時に義兄上が気づいて……」

 そこまで聞いた時、キリエの両目から突然涙がこぼれ落ち、思わず両手で口元を覆う。マリーが優しく肩に手をかける。

「それで兄が、誕生日は盛大に祝ってやれと」

 そういえば、今日は今朝から一度もジュビリーを見かけていない。涙をぽろぽろこぼしながら、辺りを見渡す。

「……ジュビリーは?」

「それがです!」

 いきなりマリーが鼻息荒く声を上げる。

「自分が言い出したことなのに、浮かれ騒ぎは嫌いだとか言って書斎に篭っているのですよ!」

 聞いた瞬間、キリエはがばっと振り返った。

「今すぐ連れて来なさいッ!」

 途端に、いつもはおとなしい小間使いたちが数人、喜びの声を上げながら大広間を飛び出していった。涙を拭うキリエに、マリーが書状を見せる。

「サーセンからお手紙が届いておりますよ」

「あ、兄上から?」

「はい」

 震える手で手紙を広げる。サーセンからクレドまで手紙を届けることが、どんなに困難で危険であるか知っているキリエは胸が一杯になった。

 書面には、癖はあるが盲目とは思えないしっかりした筆跡が並んでいる。そこでは、ヒースがキリエの成長を祝い、再会を願う文章が綴られていた。手紙の最後はこう記されていた。

「あなたは今では大勢の人に囲まれています。彼らはあなたを守りますが、あなたも彼らを守らなければなりません。そして、目に見えなくともあなたを待ち望む人々がもっとたくさんいることを、忘れないで下さい」

 キリエがじっと手紙に見入り、やがて満ち足りた表情で手紙から目を上げた時、柔らかな表情でレスターが語りかけた。

「十四年前の今日を、今でも覚えておりますよ。キリエ様がお生まれになったのは、レディ・ケイナがエドガー王から拝領したイングレス郊外のホワイト離宮でした。エドガー王も、大変なお喜びようでした」

 キリエは泣きはらした目をしばたたかせながらレスターを見上げる。

「母上は、私を生んで……、何て仰っていた?」

「もちろん喜んでいらっしゃいました。そして……、女子で良かったと」

 そこで言葉を切り、わずかに声を潜めて続ける。

「男子ならば王位継承争いに巻き込まれただろうと、心配されていました。……結局は、争いに発展してしまったわけですが。キリエ様がお生まれになられてからすぐにグローリアからベネディクト様が会いにいらっしゃいました。キリエ様のお名前を付けられたのはベネディクト様でございます。本来ならば国王陛下がお名付けになられるところを、陛下のご好意でベネディクト様が……」

 祖父の眼差しが脳裏に蘇る。自分の名付け親は祖父だったのか。自分は愛されていた。両親と祖父に、愛されていたのだ。父は諸悪の根元だ。だが、自分の誕生を望み、喜ぶ者は確かにいたのだ。

「……ありがとう、レスター」

 キリエが声を詰まらせて感謝の言葉を囁いた時。小間使いたちの黄色いはしゃぎ声が飛び込んでくる。振り向くと、両腕を掴まれ、否応なく大広間に連行されてくるジュビリーの姿が目に入った。

「ジュビリー!」

 目が合った瞬間、キリエはジュビリーの名を叫ぶと駆けより、彼の胸に飛び込んだ。思わず抱きしめたジュビリーだったが、はっとして手を離した途端、周りの観衆たちが一斉に冷やかす。

「駄目ですよ、兄上ッ! しっかり!」

 言い返す言葉が見つからず、顔をしかめてぎこちなくキリエの腰に手を回す。そして体を屈めて耳元に顔を寄せる。

「……キリエ」

「……ありがとう……!」

 周りから歓声と冷やかしを浴びせられ、聞き取りにくかったがキリエは幸せに満ちた声で何度も呟いた。

「ありがとう……、ありがとう……、ありがとう!」

 大きな手から小さな体の温もりが伝わり、ジュビリーは表情をゆるめた。そして、すっと背筋を伸ばすと叫ぶ。

「歌え! 踊れ! 今宵は無礼講だ!」

 一斉に歓声が響きわたる。楽士たちは華やかな舞曲を奏で、すぐに皆踊りだした。顔を上げたキリエがジュビリーの手を引く。

「踊りましょう、ジュビリー!」

「はっ?」

 ジュビリーらしからぬ素っ頓狂な返事にも動じず、キリエは彼を踊りの輪に引き込む。

「大丈夫。踊りなら私も下手だから!」

「どういう理屈だッ?」

 明らかに狼狽したジュビリーの声にキリエは一瞬動きを止め、さっと向き直る。眉をひそめた顔が真正面からジュビリーを見つめる。

「……こんな風に、皆と楽しい時が過ごせるのも、いつまでかしら」

 寂しげな表情で見つめられ、ジュビリーは言葉を失った。キリエは、これから始まる険しい苦難の道を前にして、自ら足を踏み出す決意をしている。今宵は束の間の休息に過ぎない。「ここ」へ連れ出したのは他でもない、自分ではないか。

 やがて、ジュビリーは思い切った様子でキリエの手を取ると旋律に身を委ねた。彼のダンスは固くぎこちない動きだったが、花が開くようにキリエに笑顔が咲く。ジュビリーも目を細め、わずかに口元に微笑を浮かべる。二人の踊りは確かに上手ではなかったが、繋いだ手から何かが伝わるのを感じた。

「ジュビリー」

「…………」

「……ありがとう」

 嬉しそうに囁きながら、胸に顔を寄せてくるキリエの手を、ぐっと握り締める。

「あら、お上手だこと」

「相性、ですかね?」

 キリエとジュビリーのダンスを見守りながら、マリーとジョンが微笑みながら言葉を交わす。しばらく二人の様子を見つめていたジョンだったが、やがて表情を引き締めると声を低めて囁く。

「マリー様。……踊っていただけますか」

 生真面目な口調に、マリーは苦笑しながらも優雅に手を差し出した。


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