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女王キリエ  作者: カイリ
第2章 タイバーンの雌狼
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第2章「タイバーンの雌狼」第2話

解放されたキリエの異母姉エレソナ。姉と自分の間に何があったのか。

 暗闇。だが、時々燭台の煌きが目の端に飛び込む。自分に覆いかぶさる誰かの温もり。悲鳴と怒号。金属がぶつかり合う音。

「何てことを……! 何て娘だッ!」

「陛下! 落ち着いて下さいませ!」

「許さん! 殺せ……! その娘を殺せッ! 気が触れた娘を、殺せッ!」

 怒り狂った野太い男の声に被さるように、若い女の声が上がる。

「お許しを! 陛下! お許し下さい! ま、まだ年端もゆかぬ子どもでございますッ!」

「貴様も出てゆけッ! 子どもだと? これが……、子どものすることかッ!」

 激しい言い合いに、「キリエ」は恐ろしさのあまり泣き出す。すると、別の女の消え入りそうな声が聞こえてきた。

「大丈夫よ……、大丈夫。だから泣かないで……、お願い……。キリエ……」


「ッ……!」

 息を呑んで両目を見開くキリエ。眼前には、ようやく目になじんできたクレド城の自室の天蓋。辺りはまだ薄暗い。弾む息を無意識に抑え、キリエは汗ばむ額に手をやった。のろのろと体を起すと呼吸を整える。

 祖父ベネディクトが亡くなる直前にみた、あの悪夢だ。しばらくみていなかったのに、何故……。そして、今日みた夢では、はっきりと自分の名が呼ばれた。そして、怒り狂った男は「陛下」と呼ばれていた。では、あの男は父エドガーなのか。キリエは言いようのない不安で胸が一杯になった。ゆっくりと寝台から降りると窓辺に寄り、厚手のカーテンをそっと開ける。東の空が白んでいる。

 あれから二ヶ月。広大なクレド城にもようやく慣れ、その間にもマリーエレンから貴族としての礼儀作法を学び、レスターからは国内外の歴史を学んでいた。もっとも、歴史に関してはロレインから学んでいたこともあり、レスターはキリエの知識の豊富さに驚くと同時に賞賛していた。

 ジュビリーはというと、ジョンと共に周辺の領主と粘り強く交渉を続け、盟約を結ぶことに奔走していた。皆、冷血公の即位に悲観的ながらも彼に対する恐怖心が拭いきれず、キリエを擁立しようとする勢力はまだ少数に過ぎなかった。

 朝食を取った後、キリエはジョンに連れられて城の厩舎を訪れた。今日から馬術の訓練を始めることになっていたのだ。

 ジョンと微妙に距離を置くキリエ。レノックスに襲われかけてから約二ヶ月。あれからしばらく男性への恐怖心が拭い切れなかったが、最近はジョンやレスターにはようやく自然に接することができるようになっていた。しかし、ジュビリーは元々本人が持っている近寄り難さのせいで、今でもぎこちない関係が続いている。

「良い天気になりましたね。練習にはもってこいですね」

 ジョンが明るい笑顔で声をかける。

「はい」

 緊張した面持ちで返事をするキリエに、ジョンは思わず苦笑する。

「大丈夫ですよ、慣れればすぐに野を駆け回れるようになりますよ。ダニエル!」

 ジョンに呼ばれ、年老いた馬丁が一頭の白馬を引いてやってくる。

「おとなしい馬を選んでおきました」

 ジョンがそっとキリエの手を取って、馬の首をゆっくりと撫でさせる。やがて、白馬は触られることに慣れた様子で落ち着いてきた。

「……この子の名前は?」

 キリエの質問に、馬丁が「アガサと申します」と答える。

「アガサ?」

「二歳になる牝馬です」

「そう」

 キリエは、そっと「アガサ」と呼びかける。アガサはキリエをちらりと一瞥すると、鼻を少女の顔にこすりつけた。

「ひゃ!」

「ははは、アガサがキリエ様を主と認めてくれたようですよ」

「そ、そうなの?」

「まずは乗り方から始めましょう」

 手綱を握り、轡に足を掛けさせるとジョンはぐいとキリエを押し上げる。

「わ……!」

 思っていた以上に高い視線にキリエは怯えた表情になる。戦地から脱する時には気づかなかったが、こんなに高いのか。

「しっかり鞍に座って下さい。そう、そうです」

 手綱をぎゅっと握り締め、強張った顔つきのキリエを乗せたまま、ジョンがゆっくり轡を取る。アガサはジョンに従って静かに歩みだした。

 アングルの短い夏が終わりを告げ始めている。以前よりもっと乾いた風が吹き、陽差しは日に日に弱まりつつある。

「……キリエ様」

 馬丁の姿が見えなくなったところで、ジョンが声をかける。

「はい」

「昨夜は、よくお眠りになれなかったのでは?」

「ど、どうして?」

「マリー様がご心配されていました。キリエ様は時々夜中にうなされているようだと。昨夜も……」

 キリエは目を伏せ、どう説明したものかと顔をしかめる。

「……夢をみるのです」

「夢?」

「……よくわからないのだけど……、周りが騒がしくて、何だか不安で……、怖い夢なんです。小さい頃から時々みるのですが……」

「……そうですか」

 ジョンが考え込むような顔つきになる。

「それは……、日頃の不安が投影されているのではありませんか?」

 思わず黙り込むキリエに、ジョンは相変わらず生真面目な口調で続ける。

「不安なことばかりだと思いますが……、どうかお一人で思い悩まず、ご相談なさって下さい。義兄上に申し上げにくかったら、マリー様や私がお伺いします」

「……ありがとう、ジョン」

 何気ないことだが、ジョンの気遣いが嬉しかった。

 クレド城は大きな城だったが、思っていた以上に静かな城だった。侍女や従者も必要以上には干渉してこないし、特に身分の低い召使や使用人たちはキリエに対して温かく接してくれている。女王などならず、ずっとここで暮らせたら。ふとそんな思いに駆られることがある。が、そんな時は決まってレノックスの顔が脳裏に浮かび、複雑な思いになるのだった。

 しばらくアガサの背に揺られていると、中庭にレスターの姿が見える。きょろきょろと辺りを見渡し、何かを探している様子だ。

「レスター!」

 馬の上からキリエが手を振って呼びかける。それに気づいたレスターが馬に乗っているキリエを見て驚いた表情になるが、すぐに暗い顔つきに戻る。

「……どうしたのかしら」

 不吉な思いを感じたキリエは、ジョンと顔を見合わせた。


 城の書斎で、腕組みをしたジュビリーがアングル全域の地図を見下ろしている。広々としたその書斎は、いつしかキリエの勉強部屋となっていた。やがて扉が叩かれると、キリエたちが入ってくる。

「義兄上、何事ですか」

ジョンの問いかけにジュビリーは眉間の皺を深めてみせると、彼の代わりにレスターが口を開く。

「キリエ様、シャイナーという地をご存じですか」

「……いいえ」

 キリエは小さく頭を振る。

「何があったのですか……?」

 不安そうなキリエの言葉に、ジュビリーがゆっくり顔を上げる。

「……シャイナーは辺境の地だが、国王の直轄地だ。そのシャイナー城が、昨日攻め落とされた」

「……誰に、何のために?」

そこで初めてジュビリーはキリエを真正面から見つめた。

「攻め入ったのはマーブル伯爵ジェラルド・シェルトン。目的は……、シャイナー城に幽閉されていた罪人の奪還だ」

罪人。穏やかでない言葉に、キリエの胸に不安が群雲のように沸き起こる。

「……どういう人?」

 いつもは沈着冷静なレスターまでも、険しい顔つきで押し黙っている。再びキリエが口を開こうとした時。

「……幽閉されていたのは、エレソナ・タイバーン。アリス・タイバーン女子爵の娘だ。父親はエドガー・オブ・アングル。つまり、おまえの異母姉だ」

「……!」

予想もしなかった言葉に、キリエは手で口を覆った。ジョンも驚いた様子で義兄を凝視する。何故、腹違いの姉が幽閉されていたのか。キリエは困惑の表情で身を乗り出す。

「ど、どういうことです……!」

ジュビリーはどこから説明したものか、束の間迷いの表情を見せたが、思い切った様子で語り始めた。

「……おまえより二歳年上のエレソナ・タイバーンは父王の怒りに触れ、生涯幽閉するよう言い渡されていた」

「生涯?」

震える声で聞き返すキリエ。怯えた表情のキリエに、ジュビリーは幾分穏やかに「よく聞くのだ」と声をかける。

「隠していてもいずれわかることだ。正直に話す。……おまえは二歳までプレセア宮殿で暮らしていた。その二歳の時、事件が起こった。エドガー王は末っ子のおまえを大層可愛がっていたそうだ。その様子を見て嫉妬心にかられたエレソナは、大廊下(ギャラリー)に飾られていた斧でおまえに襲いかかった」

その瞬間、キリエの視界が暗転し、耳に風を切る音が突き刺さる。

「ひッ!」

「キリエ様ッ?」

悲鳴を上げて両耳を塞ぐキリエに、ジョンが慌てて駆け寄る。信じられないといった様子でジュビリーは呟いた。

「おまえ……、まさか、覚えているのか」

聞こえるはずのない音に怯えるキリエはがたがたと全身を震わせていた。ジュビリーがそっと肩に手をかける。

「……キリエ」

「私……」

キリエは小さく囁いた。

「小さい頃から……、斧とか鉈の音が嫌いで……。ゆ、夢をみるのです」

夢と聞いてジョンがはっとする。

「人がたくさんいて……、いきなり風を切る音がしたと思ったら……、誰かが私に被さってきて……」

ジュビリーとレスターが思わず顔を見合わせる。キリエは更に続けた。

「男の人が叫ぶのが聞こえるのです。……気の触れた娘を殺せと。それが……、私のことかと、ずっと思っていて……」

「違う、おまえではない」

ジュビリーはレスターに目配せすると椅子を持ってこさせた。二人がキリエを座らせると、彼女は大きく深呼吸を繰り返して気を落ち着かせた。

「……ごめんなさい。大丈夫です」

「無理はするな」

ジョンが恐る恐る声をかけてくる。

「キリエ様がいつもうなされていたのは、そのご記憶だったのですね……」

思い詰めた表情で頷くキリエを見つめていたジュビリーが、少し声高に呼びかける。

「レスターに感謝しろ」

「レスター……?」

「その時、斧を振るうエレソナ・タイバーンからおまえを守ったのがレスターだ」

「えっ」

顔を上げ、ついでレスターを振り返る。が、彼は特に表情を変えず、黙ってキリエを見つめ返してくる。では、あの夢の中でキリエを抱きすくめていたのは、レスターだったのか。

「あの日、レスターがレディ・ケイナに付き添っていなければ、どうなっていたか……」

「そんなことはありませんよ」

レスターは照れ隠しに顔をしかめ、肩をちょっとすくめて見せる。

「武器を手にしていたとは言え、相手は四歳の子どもですから。それよりも……」

そこでレスターは気の毒そうな顔つきになり、声を低めた。

「キリエ様がまだそのご記憶に苦しまれているのが……、不憫でなりませぬ」

「……レスター」

キリエはそっと呼びかけると、「ありがとう」と囁く。

そういえば、とキリエが思い出す。あの時レノックスも言っていた。「もう一人の妹。気の触れた娘」と。あれは、エレソナのことだったのか。

「それで、……姉は……」

「エドガー王はエレソナをすぐさま処刑しようとしたが、あまりにも幼いために幽閉処分となった。一生出さないという条件でな」

キリエは思わず唾を飲み込んだ。四歳から死ぬまでずっと幽閉……。父の怒りの凄まじさが伝わってくる。

「それ以前から、すでにあの凶暴性は問題とされていたからな。母親のアリスも同時に宮廷から追放された。……その頃王の寵愛がアリスからレディ・ケイナに移っていたという背景もあったようだが」

何ということだ。レノックスといい、エレソナといい、何故異母兄弟たちはこれほどまで危険な人格を備えて生まれてきたのだ? だが、もしもそれが父親譲りのものだとしたら、同じ血を受けた自分にも影響がないとは言い切れない。キリエは、背筋がぞくりとした。

「……そんなことがあってすぐ、病気がちだったレディ・ケイナが亡くなり、おまえの身を案じたベネディクトはロンディニウム教会へおまえを預けた。……王の庶子である限り、危険がつきまとうからな」

キリエの脳裏に、グローリア城を訪れた際に見かけた母の肖像画が浮かび上がる。そして、祖父ベネディクトの顔も。

「……姉は、これからどうするつもりなのでしょうか……」

当然抱くであろう不安を口にすると、キリエはジュビリーを見上げてきた。彼は目を眇め、自らに言い聞かせるように呟いた。

「まず間違いなく王位を宣言するだろう。アリス・タイバーンはそのつもりで娘を救出させたに違いない。あの女、王の愛妾でありながらマーブル伯を愛人にしていたしたたか者だからな」

 姉を奪還したマーブル伯はアリスの愛人なのか。だが、キリエはふと眉をひそめた。ジュビリーは、確か王位継承権者は五人いると言った。キリエ、レノックス、ガリアのギョーム王太子、そしてエレソナ。後の一人は放棄した。何故? 何故放棄したのだ。そして、どこにいる?

「……伯爵」

 少し落ち着いた様子でキリエは呼びかけた。

「王位継承権者は全部で五人。放棄したお方は、一体どんなお方なのですか?」

 キリエの問いに、ジュビリーはすぐには答えなかった。ちらりとキリエを一瞥すると、彼は再びアングルの地図に目を落とした。

「……サーセン聖堂は知っているな」

「は、はい」

一瞬、キリエはどきりとした。サーセンと言えば王都イングレスに近い地方都市だ。そして、実はある理由から、キリエはいつかそのサーセン聖堂を訪れてみたいと熱望していたのだ。

「もう一人の王位継承権者はそこにいる。まだ若いうちに放棄したがな。彼はエドガー王がもっとも可愛がっていた庶子だ。だが、彼には王位よりも大事なものがあった。人格者として人々に慕われ、学問を修め、おまえと同じく生涯を神への信仰に捧げた……」

「ヒース司教様……!」

キリエが思わず叫び、ジュビリーが頷く。

「……さすがに知っているようだな」

「ま、待って下さい! ほ、本当に、あのヒース司教様なのですか?」

いつになく興奮気味なキリエにジョンが目を丸くする。

「お会いになったことが?」

「い、いえ、お会いしたことはありませんが……」

キリエはわずかに顔を赤らめると口ごもる。

「……ロンディニウム教会にも、ヒース司教様のお噂は伝わっていました。勤勉で人徳もあり、皆から尊敬を一身に受けながらも、決して驕ることなく修行を続けているお方だと……。いつか、お会いしたいと思っていました」

そこでキリエが顔をしかめて呟く。

「でも……、高貴なお生まれだとは聞いていましたが、まさか、父の庶子だなんて……」

頭の中が混乱している様子がありありとわかるキリエを、ジュビリーは目を細めて見つめる。

「……恐らく、ボルダーがそれとなく隠していたのだろう。ヒース司教は認知された庶子の一人だからな」

サーセン聖堂の司教ヒース・ゴーンと言えば、聖職者の間ではもちろん、国民にも広く知られた若き司教だった。十歳で修道僧となり、十九歳の若さで司教となった聡明な青年。その頭脳明晰さは有名で、また、博学さだけでなく優れた人徳者でもある。周辺の教会区で、横暴な領主や商人といった有力者の噂を聞きつけると自ら出向いて直接交渉に当たるなど、勇気ある聖職者といった面もあった。だが、人々が賞賛したのは、それだけが理由ではなかった。

「ヒース司教様は、その……、盲目だとお聞きしていますが……」

キリエの問いにジュビリーが頷くが、妙な間があった。

「……そのとおりだ」

 キリエが聞いた話では、ヒースは現在二二歳。〈サーセンの盲目の司教〉と呼ばれて尊敬され、慕われている。

「目がお見えにならないのに……、きっと他人にはわからない大変な努力をなさっているのですね」

 自分に言い聞かせるように呟くキリエの様子から、彼女は相当ヒースに対して憧れを抱いているらしい。レスターはちらりとジュビリーの顔を見やった。

「でも……、もしもヒース司教様の目がお見えになられていたら、今頃王位継承は……」

「それは……」

 ジュビリーは言いかけて口をつぐんだ。そしてキリエをじっと見つめる。その瞳には、同情とも哀れみともつかない、複雑な感情が混ざり合っていた。

「……伯爵?」

 キリエが不思議そうに首をかしげる。室内に、重苦しい沈黙が流れる。やがてジュビリーは溜め込んだ息をそっと吐き出した。

「……ヒース司教は生まれつきの全盲ではない」

「……はい」

「エドガー王にとって司教は第一子だ。学問に秀でた上に人徳がある。当然国民から絶大な人気を得た。実際、他に男子がいなければ王はヒースを王太子にしていただろう」

 黙って聞いているキリエの顔が少しずつ強ばってくる。

「だが、レノックスが生まれ、更にエドワードという嫡男が生まれた。エドワードが生まれた直後、ヒースは自ら聖職の道を選んだ。……もちろん、彼は元々為政者になるつもりがなかったのだろう」

 ジュビリーはそこで言葉を切り、息をついた。

「……それでもヒースの人気は衰えることを知らなかった。彼なら王を支える未来の宰相になれるだろうと、皆が還俗を望んだ。だが……、奴はそれを望まなかった」

「まさか……」

 キリエの顔が見る見るうちに青ざめる。

「ヒースを妬んだレノックスは実力行使に出た。毒を盛られたヒースは命を取り留めたものの、視力を奪われた」

 キリエの全身が総毛立つ。そして、思わず祈るように両手を握りしめた。

「……そ、そんな……!」

 震える唇からかすれた声が漏れる。

「……だ、だって、兄弟ですよ……?」

「奴がどんな人間か、おまえも知っているはずだ」

 言われた瞬間、キリエの背筋にぞくりと寒気が走る。そうだ。あの男は自分を犯そうとした。信仰に生涯を捧げる誓いをした修道女を、腹違いの妹を、犯そうとしたのだ。そして、腹違いの兄をも失明に追い込んだというのか。兄とは知らず、自分がずっと憧れ続けていた司教から光を奪ったのか。あの男は獣だ……! キリエの瞳は恐れから怒りへと変わった。

「……ち、父は、何をしていたんですッ……!」

 怒りと興奮で取り乱しかけているキリエを見てとると、レスターが思わず声をかけようとするがジュビリーはかすかに首を振って下がらせる。

「もちろんすぐに捜査の手が及んだ。だがその直前、王太子が死んだ際にレノックスが疑われ、奴は烈火のごとく怒り狂い、兵を起こしかけた。それもあって、エドガー王は捜査を打ち切った」

「そんな……!」

 キリエは落ち着きを失い、目を四方に彷徨わせるとかすかに震える手で額を押さえる。心配したジョンがそっと歩み寄ろうとした時。

「キリエ」

 ジュビリーに呼ばれ、キリエが顔を上げると彼は険しい顔つきで正面から見つめてきた。

「……責めてもいいぞ」

 低い声でジュビリーは続けた。

「私がエドワードを殺さなければ、こんなことにならなかったと」

 瞬間、キリエはまるで息を止めていたかのように大きく息を吐き出すと顔を背けた。ジュビリーを責める気など毛頭なかった。彼がエドワード王太子を暗殺したことで、多くの運命が変わった。それは確かだ。だが、元を正せば諸悪の根元は父エドガーだ。父は、自らの道を外れた行いのせいで世継ぎを失い、溺愛していた庶子は光を失った。そして今、国は乱れに乱れている。

「……どうしようもないわ……」

 顔を背けたままキリエが呟く。

「……どうしようもない父親だわ……!」

 今にも泣き出しそうな勢いで呟くキリエに、ジュビリーは黙り込んだ。ただ怯えるだけだった修道女は、絶望から這い上がろうとしている。恐怖ではなく、怒りを表現し始めている。怒りは力の源になる。それはジュビリーが一番よくわかっていた。

「……レスター」

 呼ばれてレスターが振り返る。

「引き続き、タイバーンとイングレスの動きに警戒しろ」

「ガリアはいかがいたしますか」

「気にはなるが……、今は国内の状況が優先だ」

「わかりました。……キリエ様」

 レスターが退出する前にキリエに声をかけるが、彼女は目を伏せた。

「ごめんなさい。……少し一人にさせて」

「……はっ」

 ジュビリーはしばしキリエを見つめると、ジョンとレスターを連れて部屋を出ていった。一人になると、キリエはのろのろと立ち上がり、窓辺に向かった。秋が近い。窓から見える麦畑は収穫を終え、寂しげな畑が広がっている。

 ロンディニウム教会の薬草園はどうなっているのだろう。教会の司教と粉挽き職人がいなくなった村は、落ち着きを取り戻しただろうか。この二ヶ月間、自分の身に起こったことを理解し、受け入れることで精一杯だった。だが、思えば自分だけではない。この国のすべてが内乱に巻き込まれたのだ。ヒースの周辺にも影響はないだろうか。

 ヒースの名を口の中で呟き、複雑な思いに駆られる。盲目でありながら厳しい修行を続け、有力者に屈しない強さを持ち、人々から尊敬を集める若き司教。ヒースの噂は村人からも耳にしていたが、その逸話のほとんどはロレインから聞いたものだ。

 ひょっとしたら、とキリエはぼんやりと思った。ロレインは、キリエにとって唯一誇れる兄弟としてヒースの話を多く聞かせたのではないだろうか。キリエは彼女の話を聞き、〈サーセンの盲目の司教〉に憧れを抱いていったのだ。まさかそのヒースが、腹違いの兄だったとは。キリエはこれから先、一体どれだけの運命が自分に待ち受けているのか、不安と恐れで胸が一杯になった。


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