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女王キリエ  作者: カイリ
第1章 ロンディニウム教会の修道女
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第1章「ロンディニウム教会の修道女」第7話

クレド城を飛び出したキリエは一路ロンディニウム村へと向かう。

 真夜中のロンディニウム教会。眉間に皺を寄せたロレイン修道女の表情を、弱々しい蝋燭の明りが照らし出していた。経典を開いてはいたが、視線はそこに注がれてはいない。小さく息を吐くと、窓から見える月を見上げる。

 夕食時に、イングレスから早馬が着いた。その報せによると、「グローリア女伯レディ・キリエ・アッサー」が王位を宣言したが、ルール公レノックス・ハートがプレセア宮殿を急襲したと言う。グローリア女伯は敗走したらしいが詳しいことはわからない。その報せにロレインの顔は青ざめた。

 村では、キリエのことは誰も口にしようとはしなかった。教会の修道女が不意に姿を消したかと思うと、実は領主の孫だったと知らされ、村人たちは唖然とした。更には国王の庶子であり、間もなく王位を宣言するとなると、村人たちは歓迎どころか自分たちの身の安全を心配し始めた。次期国王の候補としては悪名高い冷血公がいる。キリエはルール公に消されるのではないか。そうなると、このグローリア伯領も無事では済まないかもしれない。現に、プレセア宮殿に到着したキリエはレノックスに襲われ、内戦が始まった。キリエの屈託のない明るい笑顔を思い出し、村人たちはひそかに彼女を哀れんだ。

 ロレインは静かに立ち上がり、窓を開くと月に向かって手を合わせる。

(キリエ……、どうか無事で……。命があれば、必ず光は差します)

 抑えきれない胸騒ぎを感じながら、ロレインはひたすら祈った。彼女は、キリエが教会にやって来た日を昨日のことのように記憶していた。

 あの日、一台の馬車が人目を避けるようにやってくると、グローリア伯爵ベネディクト・アッサーと、幼子を連れた侍女が現れた。唐突な領主の訪問にロレインやボルダーは驚いたが、ベネディクトの申し出にさらに唖然とした。

「この子は私の孫だ」

 ベネディクトは愛おしげにキリエの髪を撫でながら呟いた。

「父親は……、国王陛下だ。だが、この子の母親である私の娘は先日病死した。王には嫡男がいらっしゃるが、王宮の陰謀に巻き込まれないという保証はない。ここで……、修道女として育ててほしい。誰の目にも触れぬよう」

 領主の申し出にボルダーは難色を示したが、キリエのあどけない姿に心を奪われたロレインはじっと幼子を見つめた。ロレインの視線に気づいたベネディクトは彼女に孫を抱かせた。修道女であり、結婚して子を産むことができないロレインは嬉しそうにキリエを抱き上げた。キリエは大きく目を見開くと、ロレインを見つめて囁いた。

「……ははうえ」

 ロレインは思わず息を呑んだ。ベネディクトは悲しげに目を細めた。思えば、ケイナはちょうどこの修道女と同じ年頃で逝ってしまった。

「キリエ……、その人は母上ではないぞ」

 祖父の言葉に振り返ると、キリエは顔を歪めた。

「ははうえ……。ははうえは?」

 戸惑った表情で母を探すキリエを、ロレインは思わず抱きしめた。その様子を見守っていたベネディクトは、ボルダーに再び頼み込んだ。

「できるだけ、私の目が届くところで育てたいのだ。頼む、ボルダー司教」

 そして、キリエはロンディニウム教会に受け入れられた。今から十二年前のことだ。

 やがてロレインは静かに目を開け、教会の庭を見下ろした。そして、何気なく教会に巡らされた垣根を見つめていると、垣根の一角が不自然に動いているのに気づく。

「……誰です?」

 警戒しながら声高に呼びかける。垣根は一瞬動きを止め、静まり返る。

「…………」

 しばらく見つめていたロレインが、狐か何かだろうかと思った時。垣根からそっと少女が顔を出す。

「誰?」

 驚いたロレインが小さく囁く。

「……ロレイン様……!」

「……キリエ!」

 思わず口を手で押さえる。

「そ、そこにいなさい!」

 ロレインはそう囁くと部屋を飛び出した。音を立てないように階段を下り、庭へ出るとキリエを引き寄せ、思わず抱きしめる。

「よかった、無事で……!」

 涙声でそう呟くロレインに、キリエは夢中ですがりついた。懐かしい、優しいロレインの温もり。彼女は体を離し、キリエの顔を覗きこんだ。

「プレセア宮殿でのことは聞きました。クレドに落ち延びたのではなかったのですか?」

 疲れきった表情でキリエは顔を横に振る。

「……逃げてきました」

 その一言で事情を察したロレインは、そっとその場から連れ出すと周囲に気づかれないよう自室へ導いた。

 部屋へ辿り着くと、キリエは張り詰めていた力がほどけ、その場に崩れ落ちた。慌てて抱き起こそうとするロレインが思わずキリエの腹に触れ、息を呑む。

「あなた……、何も食べていないの?」

 無言で頷くキリエを見ると、ロレインは再び部屋を出た。音を忍ばせて廊下を下りてゆき、厨房へ向かう。通路の角を曲がったところで、

「ロレイン?」

「……!」

 飛び上がって振り返ると、ランプを手にしたボルダー司教がひっそりと立ち尽くしている。

「……司教様」

「先ほど物音がしたと思ったが……、おまえも聞こえたか」

「は、はい」

 ロレインはごくりと唾を飲み込むと平静を装った。

「見てまいりましたが、……狐でした」

「そうか。最近増えておるからな。困ったものだ」

「はい……」

 背を向けようとしたボルダーだったが、陰気な表情でロレインを見つめなおす。

「……どうした。顔色が悪いぞ」

「……いえ、何でもございません」

 それでも目を眇めてロレインを見つめるが、やがて肩をすくめる。

「早く休むようにな」

「はい」

 ボルダーがゆっくり自室へ帰っていくのを見届けると、ロレインは足早に厨房へ向かい、ミルクと黒パンを持って自室へ戻る。キリエに差し出すと、彼女は無言で貪り食べた。思えば夜明け前にグローリア城で朝食を食べたきりだ。それから丸一日食べていない。ロレインは、キリエの傷だらけの両足に気づいた。

「まさか……、クレドから歩いてきたの?」

 食べながら頷くキリエ。グローリアからクレドまで、馬車でも二時間はかかる。少女の足なら倍以上はかかろう。ロレインは思わず涙目になる。

「そこまでして……、クレドからここへ……」

 キリエは食べる手を止めた。強張った表情でしばらく黙り込むと、かすれた声で呟く。

「……死ぬかと思いました」

「……キリエ」

「初めて……、ルール公をお見かけしました。あ、あんな人が……、私の兄だなんて……」

「でも、このままだとそのルール公が国王になってしまうわ」

「もう、関係ありません……!」

 キリエが声を詰まらせながらも呟く。

「誰が君主になろうと……、関係ありません……! 私は、修道女にしかなれません。今から女王になるなんて、考えられません! 私を放っておいて……!」

 啜り泣きを始めるキリエをそっと抱き寄せ、ロレインは言い含めた。

「あなたが背負うには重すぎる運命だとは、わかっています……。でも、あなたはまだ知らないでしょうが、ルール公の黒い噂は数え切れません」

 キリエがそっと顔を上げる。

「国王が催した馬上槍試合で、相手が降参したにも関わらず攻撃を続け、死に至らしめたことがありました。他にも、愛人の夫から決闘を申し込まれ、返り討ちにしたことも数回ありました。それらのほとんどを、エドガー王は甘い処分で済ませています。それに、父王に溺愛されている異母兄弟を妬み、危害を加えたという話も……」

 キリエが思わずびくりと体を震わせる。ロレインは真っ直ぐキリエを見つめて続ける。

「ベネディクト様はその噂もあって、レディ・ケイナが亡くなった後にあなたをここへ預けたのです。修道女として生涯を捧げる姿を見せることで、あなたに累が及ばないようにと……。ですが、周りの状況がそれを許さなかった」

「おじい様……」

「クレド伯はベネディクト様の意向を汲んでいるはず。クレドへ、お帰りなさい」

「い、嫌です」

 キリエは低く呟いた。ジュビリーの言葉が頭を離れない。異母兄エドワードの殺害を告白したジュビリーの元に帰るなど、考えられなかった。

「キリエ……」

「帰りたく、ありません」

 頑なに拒むキリエを、ロレインは困り果てた様子で見つめた。何があったのだろう。城を抜け出し、ロンディニウムまで夜通し歩いて逃げ帰ったのだ。よほど耐え難い何かがあったのだろう。ロレインはそう想像するしかなかった。やがて、彼女の脳裏にある考えが浮かぶ。キリエの手をそっと取ると囁く。

「……キリエ。この国を出る決意が、できますか?」

「え?」

 ロレインの言葉にキリエは眉をひそめる。

「クロイツへ逃げましょう」

 クロイツ。ヴァイス・クロイツ教の聖地。王家の戴冠権を持つ大主教が君臨する宗教都市国家。今や、このアングルを制するがために、クロイツへの注目が高まっている。王位を捨て、クロイツへ逃げ込めば大主教は自分を迎え入れてくれるだろうか。それとも、王位を否定し、一介の修道女になれば、大主教は自分への興味を失うだろうか。

「大主教猊下は、私をどうするでしょうか……」

「自治都市であるクロイツへ留まることができれば、アングルから干渉を受けずにすみます。猊下があなたをどう扱うかはわかりませんが、冷遇はしないでしょう。アングルに留まるよりは、安全かもしれません」

 一種の賭けだ。だが、このまま危険なアングルに留まるよりはいいかもしれない。可能性に賭けよう。キリエは頷いた。

「……クロイツへ、行きます」

 ロレインも頷く。

「今は少し眠りなさい。夜明け前にここを出ましょう」

「はい」

 短い食事を済ませるとキリエは部屋の隅に蹲り、束の間眠りに落ちた。その間、ロレインは静かに身の回りの品を揃えた。

 東の空がわずかに白み始めた頃。キリエは自ら目を覚ました。

「……ロレイン様」

「……起きましたか」

 ロレインが囁き返す。クロイツとアングルの間には海が隔たっている。最短経路でも、アングル島最東端の街ホワイトピークまで行き、船に乗らねばならない。まずそこまで辿り着けるのか。ロレインが不安な胸の内を隠しながら、キリエに服を着替えさせようとした時。突然扉を叩く音で二人は飛び上がった。

「ロレイン。……ロレイン、いるのだろう?」

 ボルダーの声だ。おろおろするキリエを、ロレインはとりあえずベッドの下に押し込む。

「し、司教様?」

「開けなさい」

「何事ですか」

 ロレインが鍵を開け、扉を開くとぎょっと立ち尽くす。ボルダーの背後に立っているのは村一番の嫌われ者、粉挽き職人のウィルキンスだ。

「ウィルキンス? 何故……」

 最後まで言わさず、ウィルキンスは突然押し入るとロレインの腹部にナイフを叩き込んだ。

「うッ……!」

 呻き声を上げると、ウィルキンスの肩を突き飛ばすが、その拍子にロレインの腹から鮮血が迸る。

「ロレイン様ッ!」

 思わずベッドの下から叫び声を上げるキリエ。するとウィルキンスが笑い声を上げて部屋へなだれ込む。

「そこにいたのか、修道女!」

 そう叫ぶとキリエをベッドの下から引きずり出すが、彼女はウィルキンスの手を振りほどいて倒れこんだロレインに駆け寄る。

「ロレイン様! ロレイン様!」

「……!」

 一瞬苦痛に歪んだ表情のロレインが目を開け、キリエを見つめるが、やがてぐったりと仰け反る。

「……ロレイン様……!」

 なおも叫ぶキリエをボルダーが引っ張り上げる。

「し、司教様……! 何てことを……、何てことをッ!」

「おまえこそ、何てことをしてくれたのだ」

 ボルダーの乾いた声がキリエに投げつけられる。彼の顔はいつもと変わらず陰鬱で気が滅入りそうな表情をしていた。

「おまえが王位宣言をしたことで内戦が起こった。この村もグローリア伯領だ。ルール軍の攻撃に晒されるだろう。平和な村を、おまえが危険に晒したのだ」

 思ってもみなかった言葉を突きつけられ、キリエは耳を疑った。そして、逃げ出そうとするキリエをウィルキンスが腕をねじ上げる。

「痛ッ……!」

「可愛そうなロレイン修道女! こんな疫病神を可愛がったばっかりに、命を落とす羽目になるなんてな!」

「……!」

 自分のせいでロレインが殺された。この事実に気づかされたキリエは言葉を失った。自分のせいで、人が死んだ。プレセア宮殿での戦闘でも犠牲者が出たはずだ。キリエは、自分が振りまいた悲劇にようやく気づいた。

「ろ、ロレイン様……。ロレイン様ッ!」

「黙ってろって!」

 ウィルキンスは用意していた布でキリエに猿轡をかませ、両手を縛った。

「よくやった、ウィルキンス」

 無表情のまま、ボルダーが囁く。

「さて、ドビーまで行かねばな」

「はい。あそこがルール公の最南端の荘園です」

 ルール公の荘園。そう聞いてキリエの背筋に寒気が走る。身をよじって抵抗するが、ウィルキンスに髪を引っ張られ、声なき悲鳴を上げる。まだ薄暗い教会の庭を抜けると、いつのまにか馬車が用意されている。

「じっとしていろ、キリエ。おまえをできるだけ無傷でルール公に引き渡さねばならん」

 感情のない声でボルダーはそう告げると、キリエを馬車に押し込んだ。ウィルキンスが御者座に座ると、馬に鞭をくれる。

「ドビーまでは長旅だ。おとなしくしていた方が身のためだ」

 ボルダーの声も、気が遠くなりかけたキリエにはかすかにしか聞こえていなかった。


 夜明けと共に馬車は出発した。北上する馬車をやがて朝日が包むが、車内は車輪が軋む音以外は何も聞こえなかった。ボルダーは、気を失ってもたれかかっているキリエをじっと見下ろした。十二年間手元で育ててきた娘だったが、ルール公に引き渡すのに躊躇いはなかった。

 ベネディクトからキリエを預けたいと申し出があった時も、ボルダーは厄介事は御免だと拒んだ。その七年後だった。教会にジュビリーが現れるとエドワード王太子が亡くなったことを告げられ、このままベル王妃が新たな嫡子を産まなければ、キリエにも王位継承権が発生する旨を伝えられた。もしもそうなった場合、自分がすぐに迎えに来る、とジュビリーは言った。ボルダーは、その時から国政の争いに巻き込まれる懸念を強めていた。ジュビリーはその時キリエを目にしている。彼女はまだ九歳だった。お互い言葉を交わすことなく、ジュビリーはそのまま立ち去っていった。

 それから更に四年経った今、ボルダーが心配していたことが現実に起きた。国はルール公に傾いている。何も自分から危うい立場になることはない。疫病神は必要とされる場所へ連れて行くに限る。ボルダーは、ルール公にキリエを引き渡すことで保身に走った。ロレインを手にかける予定はなかったのだが、このまま教会に帰るつもりもなかった。自分の赴任先はこれからルール公に決めてもらえばよい。何なら聖職を辞しても構わない……。

 馬車を走らせること四時間余り。グローリアを出て、ドビーの地へ入った。ウィルキンスは荘園の城代の屋敷を目指した。

 やがて城代の屋敷へ到着すると、ボルダーは門番に来意を告げた。城代は驚いたが、喜んだ様子で早速早馬をイングレスへ向かわせた。ボルダーたちはそのまま屋敷に招かれ、体を休めた。

 屋敷に到着してしばらく経ってキリエは目を覚ました。そして、見知らぬ室内に驚愕し、怯えた。一度家人がキリエの様子を見に来たが、猿轡や腕の戒めを解くことなく放置された。

 キリエはぐったりとしながらも、これから自分の身に起こることを想像し、体を小さく震わせた。そして、ロレインの死に際の様子を思い出し、思わず目から涙が零れ落ちる。

(ロレイン様……。私のせいで……、私のせいだわ……! 全て私のせいで……!)

 あのままクレドの城に留まっていれば、少なくともロレインは殺されずにすんだ。キリエは自分を責め続けた。助けが来るなど考えられなかった。自分はジュビリーの元から逃げ出したのだ。自分が今ここにいることなど、彼は知る由もあるまい。もう、自分のことなど見限ったに違いない。もう、終わりだ。これで全てが終わる。自分だけでなく、ロレインも犠牲となる、最悪の結末になったことにキリエは絶望した。


 その頃、クレドの部隊がグローリア伯領へ向かっていた。クレド城内をしらみ潰しに探したがキリエの姿はなく、領内を捜索し始めた矢先、ジュビリーはあることに思い立った。プレセア宮殿から脱出する際、キリエが口走った言葉を思い出したのだ。

「教会へ帰るのよッ!」

(まさか……)

 ロンディニウム教会まで帰るつもりか。まさか。しかし、自分は先ほどこう言ったではないか。「手負いの狐は何をしでかすかわからん」と。

 武装したジュビリーは部隊の先頭に立っていたが、やがて数騎の騎士を従えた家令のハーバートがやってきて声を張り上げた。

「大変です、殿……!」

「どうした」

「ロンディニウム教会の修道女が殺され、ボルダー司教の姿が見えないとのことです!」

「何だと」

 ジュビリーの顔が紅潮する。

「その修道女はまさか……」

「ロレイン修道女です。ナイフで一突きだそうで……。それに、村の粉挽き職人も姿がないそうです」

 あの生真面目な修道女が殺された。ということは、キリエは教会まで辿り着き、ロレインと再会できたものの、ロレインは殺され、キリエは連れ去られたというのか。誰に? 消えたボルダー司教か?

「義兄上」

 一緒に捜索に加わっていたジョンが呼びかける。険しい顔つきのまま、ジュビリーが顔を上げる。

「……ここから一番近いルール公領と言えば、どこだ」

 少しの間思案していたジョンが声を上げる。

「ドビーです。あそこはルール公領からやや離れていますが、ルール公の荘園があります」

「ジョン。辺りを捜索しろ。私はレスターとドビーに向かう」

「はッ!」

 ジュビリーは手綱を引き、馬の腹を蹴った。


 昼過ぎまで別室に放置されていたキリエは、やがて外の騒がしい音に気がついた。つい最近耳にした音だ。甲冑や武器が触れ合う音。キリエの全身から汗が噴出す。扉の向こう側でざわめきが続いたと思うと、ノックもなく不意に扉が開け放たれる。そこには、軽い武装姿のレノックス・ハートが立ちはだかっていた。キリエは顔を引きつらせ、息を呑んだ。レノックスは目を細め、口元に笑みを浮かべると部屋へ入ってきた。後にボルダーが続く。

「まさか、こんな形で再会しようとはな」

 レノックスが優しく声をかけるが、キリエは長椅子の上で身を捩り、後ずさる。

「ボルダーと言ったな」

「はい」

「最低な人間だな、貴様」

 そう言ってくっくっと笑い声を零すレノックス。

「司教でありながら、十二年間手塩にかけて育てた娘を平気で敵方に引き渡すとはな」

「ルール公は敵ではございません」

 白々しい物言いに、さすがのレノックスも呆れ顔で振り返る。

「聖職者の風上にもおけん奴だな。その汚れた身で教会に戻るつもりか?」

「いえ、戻るつもりはございません」

「ふん」

 レノックスは鼻で笑うとヒューイットを呼びつけた。オリヴァー・ヒューイットがやってくると、猿轡をかまされたキリエを一瞥し、にやりと笑う。

「お呼びでございますか」

「この汚れた司教に金をやっておけ」

「はっ」

 ボルダーは深々と頭を下げると部屋を出ようとした。その時、長椅子に蹲っていたキリエが突然立ち上がると、縛られた両手でボルダーの背にしがみついた。

「キリエ!」

 驚いたボルダーが倒れこみそうになるが、ヒューイットがキリエを引き剥がす。が、キリエは怒りのこもった瞳でボルダーを睨み付け、両手で顔面を殴りつける。

「おやめなさい、レディ・キリエ!」

 ヒューイットがキリエの腕を押さえつけ、ボルダーを部屋から追い出す。ボルダーは怯えた顔つきで這うようにして部屋を出ていった。

「なかなか勇敢じゃないか」

 まだ暴れるキリエを、レノックスは安々と押さえつけ、ヒューイットに部屋を出るよう目配せする。扉が閉まる音がやけに響き、キリエは途端に体を硬直させた。レノックスは微笑みながらキリエの猿轡をほどいてゆく。

「改めて名乗らせてもらおう。私がおまえの兄、ルール公爵レノックス・ハートだ」

「……あ、兄なんかじゃ、ないわ……!」

 部屋に二人きりになり、恐怖に怯えながらもキリエは精一杯叫んだ。レノックスは目を細め、口元に冷たい笑みを浮かべると妹の頬を撫でた。

「そう冷たいことを言うな。我々兄妹は残りわずかだ。残された者同士仲良くしようではないか」

 残りわずか。その言葉にキリエは恐怖した。レノックスは異母兄弟に危害を加えたとロレインが言っていたではないか。レノックスの精悍な顔が残忍な笑みを浮かべ、ジュビリーに斬りつけられた傷が引きつる。

「……懐かしいな。あの頃、父上に抱かれていたおまえはまだ乳飲み子だった」

 そして、キリエの耳元で低く囁く。

「クレド城から逃げ出してグローリアの教会まで戻ったのか? 見上げた根性だな。そこまでして、あの男から逃げたかったのか」

 あの男。ジュビリーの顔が脳裏をよぎる。

「だが、逃げ出したのは正解だったな。私は自分が冷血公と呼ばれていることぐらい知っている。だが、あの男だって相当なものだぞ? 自分の妻を父上に寝取られたらしい。しかし、挙兵の動きなどついぞ見せなかった。事実ならば冷たい男よ」

 国王に寝取られた? 寝耳に水の言葉にキリエは戸惑うが、今はその事実を確かめる術も、またそんな余裕もなかった。レノックスはキリエの頬を片手で押さえつけ、顔を寄せた。

「や、やめて……!」

 ぞくりと背が泡立ち、キリエは身を捩った。嫌がるキリエの表情を楽しむように、レノックスは笑みを浮かべながら囁く。

「おまえが王位継承権を放棄すれば何の問題もない。おまえを手元で育ててもいい。あの気の触れた妹に比べたら、おまえは可愛らしいものよ」

 気が触れた娘。どこかで耳にした言葉にキリエはぎょっとするが、レノックスが唇を首筋に這わせ、悲鳴を上げる。

「いやッ! やめて! は、放してッ!」

 腹違いの妹であっても、レノックスの倫理観では関係ないらしい。彼は嫌がる妹のワンピースに手をかけると引き裂いた。

「いやあッ!」

「静かにしろ」

 レノックスは慣れた手つきでキリエの口を押さえると空いている方の手でまだ小さなキリエの胸をまさぐる。

(やめて! やめて! やめて!)

 キリエが頭の中で叫び続ける。レノックスの唇がキリエの胸に触れた瞬間、キリエは大きく体を仰け反らせ、途端に手足が痙攣を起す。それでもレノックスは構うことなくキリエの体をまさぐり続けた。血を分けたはずの兄の唇が全身を這い回り、キリエは自分を失った。彼の手がワンピースの裾を捲り上げ、太腿を撫で回した時。扉を叩きつける音が響く。

 レノックスが鋭く顔を上げると、その時彼は初めて部屋の周りから聞こえるざわめきに気づいた。

「公爵!」

 ヒューイットの慌てた声。

「どうした」

「クレド軍が――!」

「!」

 クレドと聞いてレノックスは跳ね起きた。キリエがまるで人形のようにだらりと床に倒れこむ。扉を開け放つと、兵士たちが慌てふためいて武装を施し、屋敷を飛び出していく様子が目に入る。

「ジュビリー・バートランドか」

「周りを包囲されています!」

「馬鹿め! 何故気づかなかった!」

 レノックスはヒューイットを怒鳴りつけると部屋に戻り、まだ痙攣を繰り返しているキリエを無造作に肩に担ぐ。

 屋敷のホールまでやってくると、打ち込まれる長弓(ロングボウ)の矢によって壁や扉、窓が破壊される音が響く。クレド伯領は国王直属のロングボウ隊を率いることで知られていた。このロングボウ隊の名声はアングル国内だけでなく、外国にも知れ渡っている。

 レノックスは屋敷の裏から屋外へ出ようとするが、そこではすでにレノックスの部下たちが白兵戦を繰り広げていた。下馬した騎士のひとりがレノックスに斬りかかるが、彼は顔色ひとつ変えずに剣を抜きざまに打ち返す。そして、体勢を整えると再び打ちかかってきた相手と切り結ぶ。しばらく剣を打ち合わせていたが、やがてレノックスが剣を大きく振りかぶり、相手を甲冑もろとも叩き斬る。相手が崩れ落ちるが、キリエを抱えたレノックスも体勢を崩し、倒れこむ。

「公爵! あれを!」

 駆け寄ってきたヒューイットが指差す方向を見上げる。そこには、こちらを見据えた馬上の騎士がいた。黒一色の鎧に身を包んだ騎士。ジュビリーだ。視線が合った瞬間、ジュビリーは一直線に馬を走らせてくる。

「……ふん」

 レノックスは薄ら笑いを浮かべると、地面に倒れたキリエの顔に目を落とす。気絶したキリエは口をわずかに開き、蒼白な顔で横たわっていた。彼女の紫色の唇を親指でなぞり、その顔をしばし見つめる。  と、その時、地面に投げ出された左手の指輪が光る。レノックスが手首を引き寄せるとルビーの蝶がきらりと輝く。彼は目を細めると自分の左手に目を落とす。中指には、同じ金の指輪が嵌められている。台座には心臓(ハート)をあしらったルビー。レノックスの脳裏に、父エドガーが生まれたばかりの妹を抱き、あやしている姿が蘇った。

「…………」

 やがてレノックスは体を起こし、用意された馬の手綱を手に取る。

「公爵、レディ・キリエは」

 ヒューイットの短い問いかけに、レノックスはふんと鼻で笑って返す。

「……殺すのも面倒だ」

 そう言い捨てるとレノックスは馬に跨り、その場を脱した。

「追うな!」

 その様子を見たジュビリーが部下たちに怒鳴る。

「放っておけ! キリエを確保したら、ただちにクレドへ帰還する!」

 そしてキリエの元まで駆け寄ると馬から降りる。

「キリエ!」

 キリエを抱き起こそうと腕を取った瞬間、ジュビリーはぎょっとして凍りついたように硬直する。

 蒼白のキリエ。一瞬死んでいるのかと思ったが、手足はまだ不規則に小さく痙攣を続け、引き裂かれたワンピースから死人のように白い肌が覗く。呼吸に合わせて小さな胸がわずかに上下している。首元や胸に引っかき傷が見える。ワンピースが引き裂かれていることに、ジュビリーは動揺した。胸が激しく波打つ。頭の中を耳鳴りが鳴り響き、剣戟の喧騒も遠くから聞こえてくるようだった。

 キリエの恐怖に歪んだ顔がぼやける。ぼやけた顔の輪郭はやがて徐々に別の女性の顔を形作った。

「……エレオノール……!」

 思わず口走るジュビリーの脳裏に、妻の叫び声が響き渡る。

(ごめんなさい、あなた……! ごめんなさい……! 私……、私……!)

「伯爵!」

 突然、レスターの野太い声が耳に飛び込む。肩を掴まれ、激しく揺さぶられる。

「しっかり! お気を確かに! キリエ様はまだ生きておいでです! ここから早く逃げねば!」

 まだ朦朧とした様子で、ジュビリーは覚束ない手つきでキリエを抱き起こし、背負うと馬に跨る。よろめくジュビリーをレスターが支え、しっかりと乗り込んだのを確認するとレスターは自らも馬に乗り、部隊に引き上げを宣言した。

 誰かが火を放ったのか、屋敷から火の手が上がる。炎から逃げ出すように、クレド軍はその場から引き上げた。馬を走らせるジュビリーに、ようやく平常心が戻り始める。

(キリエ……。キリエ……!)

 ジュビリーは背中のキリエの体温を感じながら馬を走らせ続けた。


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