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女王キリエ  作者: カイリ
第1章 ロンディニウム教会の修道女
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第1章「ロンディニウム教会の修道女」第6話

プレセア宮殿で異母兄レノックス・ハートの軍と衝突したキリエは、命からがらクレドへと落ち延びる。だが……。

 プレセア宮殿とその周辺は、ようやく戦闘の後片づけを始めていた。傷ついた者たちは兵舎や教会へ運ばれ、怪我の浅い者は死者の埋葬を始めた。そして、内戦の勃発に、皆不安で一杯の表情で宮殿を見守っていた。

 すでに王太后ベルをベイズヒル宮殿へ追い払ったレノックスは、治療を終えるとロバート・モーティマーを呼びつけた。その口調から、キリエの擁立に傾いていたと思われるモーティマーをどう処分するつもりなのか、ヒューイットは高みの見物を決め込んだ。

「キリエ・アッサーを女王に擁立するつもりだったのか?」

 レノックスは玉座に足を組んで座り込み、頬杖をついてモーティマーを見下ろした。顔面に巻かれた包帯が手負いの獣のような印象を与えるが、その瞳には獰猛な光をたたえている。

「……私はエドガー王の秘書官です」

 目を伏せ、不機嫌そうに答えるモーティマー。若いのになかなか度胸の据わった奴だ、とヒューイットは内心嘲笑った。

「どなたが君主になろうと、それは私の関知しないこと。ですが、秘書官として君主に相応しい王位継承者を正しい手続きで迎えたい。それだけのことです」

「なるほどなるほど。相変わらず生真面目な奴よ」

 レノックスはつまらなげに目を閉じ、眉をひそめる。

「……父上もおまえのその堅物ぶりを気に入っていた」

 モーティマーは黙って冷血公を見上げた。若い頃から王に可愛がられていた自分をレノックスが目の敵にしていたことぐらい、彼は知っていた。

「私はな、合理主義者だ」

 突然、およそ似合わぬ言葉を言い出したレノックスにモーティマーは口をわずかに歪めた。

「使えるものは使い、使えんものは捨てる。あの女、捨てたいのは山々なんだが……」

 王太后ベルのことだ。

「捨てるにしても捨て方に悩むところだ。とりあえずベイズヒル宮殿に幽閉することにした。そこで、おまえには監視係を命じる」

「……私がですか?」

 思わず迷惑そうな顔つきをしたモーティマーに、レノックスは満足げな笑みを浮かべる。

「つまらん毎日になりそうだな?」

 レノックスの真意を量りかね、モーティマーは黙って射るように凝視する。

「私は合理主義者だと言ったはずだ。おまえは秘書官としてこの宮殿の機能に熟知している。消すには惜しい」

 それだけのことか……。秘書官という立場でなければ簡単に殺されていたかもしれない。自分がいつでも消される可能性がある存在だと思い知らされたものの、どこか他人事のような気がしてならなかった。

 エドガー王に仕えて十年余り。モーティマーは彼なりに誠心誠意仕えてきたつもりだった。愛妾たちとの愛欲の生活に溺れ、妻への誠意は微塵も感じられず、庶子を溺愛する王。特にレノックスが次々としでかす醜聞に甘い処分を下し続け、国民や議会からの不満を逸らすのに多くの時間と労力を費やされた。しかし、その罪滅ぼしのつもりか、一方では救貧法を発布して貧しい者を保護し、教会や修道院に多額の寄付も行った。それ故に、農民や下層の市民らは王のふしだらさにも寛大だったのだ。

 特にモーティマーは幼い頃から側に仕えていたために可愛がられた。そして、身勝手で傍若無人でありながら、王としての技量も兼ね備えていたことを知っていた彼は、王に対して余り悪い印象はなかった。そんな主君を失い、正直誰が王位に就こうがどうでもよかった。王は、死んだのだ。

「監視係では不満か?」

「いえ、別に」

 虚ろな表情でモーティマーは頭を下げた。

「……仰せの通りにいたします」


 レノックスがプレセア宮殿を手中に入れたその頃。王都イングレス郊外のサーセン聖堂では修道士たちが慌しく行き交い、礼拝にやってきた信徒たちは皆不安げに彼らの様子を見守っていた。

 聖堂に隣接する僧坊の一室。ひとりの青年が椅子に腰掛け、数人の修道士が忙しげに旅支度をしているのを黙って見守っている。否、その目は堅く閉ざされている。気品のある整った顔立ちをしているが、閉ざされた両目には青黒いクマが広がっていた。やがて、部屋の扉を叩かれる。

「司教……!」

 どこか切羽詰った呼びかけに、眉をひそめながら修道士が扉を開ける。

「司教……! イングレスに行ってはなりません! ルール公がイングレスを支配下に置きました!」

 瞬間、人々が絶句する中、司教と呼ばれた青年が目を閉じたまま顔をもたげる。

「……レノックスが?」

「その直前にグローリア女伯が王位宣言をしたのですが、ルール公の軍と衝突し、女伯は敗走したようです」

 青年の顔がぴくりと引きつる。

「グローリア、女伯……?」

「……レディ・キリエ・アッサーです」

 修道士の言葉に、青年は辛そうに眉間に皴を寄せた。

「……キリエ……」


 それから数時間後。キリエたちは疲れきった体を引きずるようにしてクレド城に帰還した。日が長くなったとはいえ、すでに夕刻に差し掛かっている。

 初めて見るクレド城はグローリア城よりももっと大きく、威圧感のある城壁がそびえ立ち、オレンジ色に焼けた太陽を背に、その姿を黒く浮き上がらせていた。クレド城を見上げたキリエは、やがて憂鬱そうに黙りこくって目を伏せ、ジョンの呼びかけにも応じなかった。

 今回のイングレス入りに率いられた軍勢は、クレドが擁する兵の三分の一にも満たなかったらしい。多くの兵たちが出迎え、そして周辺の国境の周りを固めるため、守備隊が出動していく。

「殿、お帰りなさいませ」

 クレド城代家令ハーバート・ビュート男爵が緊張した面持ちで出迎えた。

「お怪我は……」

「ない。警戒を怠るな」

「はっ」

「兄上! キリエ様!」

 振り返ると、城門のアーチからマリーエレンが駆け寄ってくる。

「皆様、ご無事ですか」

「キリエを頼む」

「キリエ様、お怪我は?」

 マリーが腰を屈め、キリエの髪を優しく撫でる。が、固い表情のキリエはかすかに顔を横に振るだけだった。

「お可愛そうに……。お疲れでしょう。さ、体を清めましょう」

 そう言って優しく手を取るとその場から連れ出す。

「ジョン、グローリアとトゥリーにも使いをやれ」

 さすがに疲れた声でジュビリーが命令を下す。

「レスター、イングレスへの監視は……」

「斥候を放っております」

「よし」

 男たちは重い足取りで城内へ入ると疲れた体に鞭打ち、城主の間に集まる。簡単な食事をワインと共に済ませると、三人はアングルの地図を広げ、これからの対策を練り始めた。

「ルール公がすでにイングレスに入っていたとは……」

「父王の死を聞いたらすぐさま戻ってくるだろうと予想はしていたが、……油断した。考えてみればすでに三日経っているのだ」

「プレセア宮殿はルール公の手に落ちた……。しばらくは、実質的なイングレスの支配者となりますね」

 ジュビリーは大きく息を吐くと額を押さえた。事がうまく運ぶとは思ってもいなかったが、イングレスでレノックスと戦闘に及ぶとは予想していなかった。キリエの精神的な動揺も心配だった。

「宮殿内の様子はいかがでございましたか。 キリエ様を拒む者たちはおりましたか」

「廷臣たちは歓迎していたよ」

 レスターの問いにジョンが答える。

「皆、あの冷血公に比べれば修道女の方が良いに決まっている、といった態度だった。ただ、王太后は不満そうだったな」

「そういえば、王太后は今……?」

「さぁな。どうなったか知ったことではない」

 思わず本音を漏らすジュビリーだったが、レスターは眉をひそめる。

「しかし、ベル王太后はユヴェーレンのオーギュスト王の姫君。手にかけたとあっては、黙ってはおりますまい」

「レノックスも王太后を殺すほど馬鹿ではあるまい」

「そう願いたいのですが……」

 レスターの考え深げな表情に、ジョンまで不安そうな顔つきになる。キリエを盛り立てる一派の中にあって、最も老練な策士であるレスターを、ジュビリーも頼りにしている。重苦しい空気が流れる中、扉を控えめに叩く音がする。

「……兄上」

「入れ」

 扉が静かに開かれ、思い詰めた表情のマリーが顔を覗かせる。

「キリエの様子はどうだ」

「それが……」

「どうした」

「お体を清めて、食事をご用意したのですが、一口もお召し上がりにならないのです」

 ジョンが思わずジュビリーを振り返る。

「戦場で怖い思いをされたのでしょう。それにしても、一言も口をきいては下さらないし……」

 ジュビリーは椅子にもたれかかり、足を投げ出して天井を仰ぎ見た。およそジュビリーらしくない投げやりな姿だ。

「……義兄上……」

 ジョンに促され、ジュビリーは重い口を開いた。

「……キリエに……、王太子を殺したことを告げた」

「い、いつ……!」

 ジョンとマリーが顔を青ざめさせる。

「軍を退却させる時に……、教会へ帰ると言い出して聞かないものだから……」

「しかし……」

「キリエ様はまだ、兄上に対して不信感をお持ちです。そんな状態で王太子の件を持ち出すなど……」

「それなら」

 首をもたげ、妹に視線を向ける。

「信頼関係を結んだ後になって真実を聞かされたらどうする。あの娘の性格だと、その方が打ちのめされる」

「それは、そうですが……」

「いずれにしろ、今の状況とキリエ自身の立場をわからせるためには、遅かれ早かれ告げねばならなかった。……確かに、あの場で告げたのが正しかったかどうかは、わからんがな」

 ジュビリーの言葉に三人は押し黙った。しばらくするとジュビリーは重い溜め息を吐き出すと、体を起した。

「近い内にレノックスはクロイツに使者を送るだろう。大主教がどんな判断を下すか……。これまでにも、行いの悪いレノックスに対して何度も破門をちらつかせてきた大主教だ。まさか戴冠要求を受け入れるとは思わんが」

「クロイツを味方に引き入れなければなりませんね」

「大主教の周辺に人をやります」

「頼む」

 男たちの会話を、マリーはひとり不安げな表情で見守っていた。


「何か必要なものがあれば、いつでも仰って下さいませ、レディ・キリエ。外に歩哨を立たせておきます故」

 華美な衣装から多少落ち着いたワンピースに着替えたキリエは、強張った表情で頷いた。城主と違って人が良さそうな顔つきをした家令は、誰も寄せ付けない固い表情を崩さないキリエを気の毒そうに見つめてから部屋を退出した。扉が閉まるとキリエはゆっくりと窓辺に歩み寄り、外を眺めた。夕暮れの陽射しがクレド城の城壁を照らし、城壁の周りには静かな町が広がっている。その向こうには見慣れた田園風景が広がる。

 外に歩哨を立たされていては、自由に部屋を出ることもできない。キリエは自分の立場を思って戦慄した。戦闘の恐怖もまだ癒えていない。そして、先ほど聞かされたジュビリーの告白。キリエは、まるで悪夢を見ているようだった。

 王太子エドワードは、五年前に狩りの最中に落馬が原因で夭折したとされていた。まだ十歳だった。それが落馬ではなく、ジュビリーによる暗殺が真実だったとは。エドワードは自分の異母兄だ。実権を握るつもりで王太子に手をかけ、自分を女王に擁立したとしたら……。

(言うことを聞かない私に業を煮やせば、私も殺すかもしれない)

 キリエは胸騒ぎを覚えながら呟いた。

(権力のために人を殺すのであれば、レノックス・ハートと一緒だわ。私は、どうすればいいの……)

 考えていても答えは出ず、キリエはよろよろと窓から離れると部屋を見渡した。壁に、美しい細工が施された地図が飾られている。見るとこのクレド及びグローリア周辺の地図だ。キリエはじっとその地図を見つめ、やがて再び窓を眺める。日が先ほどよりも落ちている。胸騒ぎが一段と強まる。キリエの脳裏に、オリヴァー・ヒューイットの言葉が響く。

「あなたも、鳥篭同然の暮らしには戻りたくないでしょう」

(鳥篭……)

 キリエは呆然と呟く。

「そうだ……。鳥篭に戻れば良い……」

 キリエは窓際に駆け寄った。日が落ちる方角を確かめ、地図を仰ぎ見る。外の世界を歩いたことはほとんどないが、今はそんなことを言っている場合ではない。まずは、ここから逃げなくては。キリエは忙しなく呼吸を繰り返し、必死に考えを巡らした。窓から身を乗り出すと、城壁の遥か下の方で農夫たちが荷車を数台率いて城の召使と話をしているのが見える。あれだ。キリエは扉に駆け寄ると拳で力いっぱい叩いた。扉のすぐ外で歩哨に立っていた兵士はびっくりして飛び上がると、慌てて扉を開く。

「いかがいたしましたかッ」

「や、薬草よ!」

 キリエが上ずった声で叫び、歩哨は眉をひそめる。

「早く薬草と水を持ってきて! でないと、私……、し、死んでしまうわ!」

 死ぬと言われて歩哨は慌てた。

「な、何があったのですかッ」

「いいから早くッ! 毒消しの薬草を持って来てッ!」

 キリエに煽られ、歩哨は慌てふためいてその場を走り去った。その後姿を見送ると、キリエは部屋を飛び出した。

 クレド城はグローリア城よりも大きい。キリエは息を潜めて石の廊下を走った。時折、侍女や従者の姿を見かけると、飾られた調度品に隠れるなどしてやり過ごす。最上階から三階ぐらいまで降りたものの、キリエは道に迷ってしまった。不安げにおろおろと周りを見渡していると、どこからか人々の話し声が近付いてくる。慌てたキリエは、手近にあった小部屋の扉を押すと中へ飛び込んだ。すると、

「きゃッ」

 そこは急な斜面になっており、キリエは闇の中に転がり落ちていった。

「痛ッ……!」

 壁に体を強打してようやく止まると、キリエは顔を押さえながら立ち上がる。闇の中で壁を探ると取手らしきものがあり、そっと押し開く。さっと光が流れ込み、同時に土や草の香りが鼻をつく。恐る恐る顔を出すと、すぐそこは屋外だった。辺りに警戒しながら出ると背後を振り返る。どうやら緊急用の脱出口だったらしい。キリエは体を低くしながら城壁伝いに駆け出した。そこへ、賑やかな話し声が聞こえてくる。城壁に身を隠しながらそっと様子を窺うと、農夫たちが談笑しながら藁束を庭に放り投げていく姿が見えた。キリエは農夫たちが作業を終えようとしているのを見計らうと、荷馬車に飛び込んだ。中には農具を入れる大きな麻袋が何枚かあり、その中のひとつに潜り込む。

 やがて農夫たちは作業を終えると荷馬車につないだ馬に鞭をくれ、城門に向かった。キリエは、息を殺して荷馬車が揺れるのに身を任せた。


 国境周辺の警備に抜かりがないか、ジュビリーがレスターと話しながら廊下を歩いていると、マリーエレンの声が響き渡った。

「兄上! 兄上!」

 顔をしかめて振り返ると、妹と兵士が血相を変えて駆け寄ってくる。

「どうした」

「き、キリエ様がッ……!」

 マリーが息を切らして叫ぶ。

「キリエがどうしたッ」

 ジュビリーの詰問に兵士が答える。

「さ、先ほど、女伯がただならぬご様子で薬草を持ってくるように仰せられて……、そ、それで慌てて医師の元へ行き、戻ってくると……、女伯のお姿が……!」

 ジュビリーの無表情だった顔に険しい皺が刻まれる。

「この……、馬鹿者がッ!」

 思わず握り拳で兵士の顔を殴りつける。呻き声を押し殺してその場にひれ伏す兵士。レスターが真っ青な顔でジュビリーを振り返る。

「い、一体どこへ……!」

「探せ! 城内をくまなく探せ! 城の外もだ!」

 その場にいた兵士や召使いたちが慌てて四方へ散る。

「城の外へ出られるでしょうか。まだこの城の内部を熟知していないキリエ様が……」

「手負いの狐は何をしでかすかわからん。最悪な事態は避けねばならん……!」

「はッ! グローリアにも知らせろ! 一刻も早くキリエ様を連れ戻すのだ!」

 レスターの怒鳴り声が響き渡る。ジュビリーは大きく呼吸を繰り返し、唇を噛み締めた。

「キリエ……、早まるな……。おまえにはまだ、話さなければならないことがたくさんあるのだ……!」


 荷馬車の荷台から、そっと顔を出して外の様子を窺うキリエ。すでに日は落ちかけ、辺りは暗くなり始めていた。やがて、通り過ぎてゆく道の傍らに里程石(マイルストーン)が見えてくる。キリエは思い切って荷台から飛び降りた。帰路を急ぐ農夫たちは、荷台からキリエが飛び降りたことにも気づかなかった。道端に転がり落ちたキリエは、痛みに顔を歪めながら体を起こした。マイルストーンまで歩み寄ると、沈む夕日の最後の光で刻んである文字を読み取る。

 西、クレド。東、グローリア。

 ロンディニウム村はクレド伯領との境に近いグローリア伯領だ。キリエはごくりと唾を飲み込むと、意を決して夕日を背に歩き始めた。

 やがて日は落ちた。キリエは飲まず食わずの状態でひたすら歩き続けた。幸いなことにこの日は満月だった。月明かりは思った以上に足元を照らしてくれる。轍がひどい道をとぼとぼと歩く。左右には寂しげな細い白樺が月光を受けて青白く浮かび上がっている。キリエは俯き、できるだけジュビリーのことは思い返さず、教会で過ごした日々を思い出した。

 静かで落ち着いた教会だったが、キリエが成長するごとに明るさが増していくようだった。教会の人々は皆キリエを可愛がってくれた。今思い起こせば、ロンディニウム教会にはキリエと同じ年頃の子どもはいなかった。そのため、彼女は皆の子どものように大事に育てられた。

 幼い頃、大怪我をした時にロレインが処方してくれた薬草で傷が癒えた経験があった。それから薬草に興味を持ち始め、自分の薬草園を作った。手をかければかけるほど質の良い薬草が採れ、キリエは夢中になった。

 いつも暗い表情で沈黙しているボルダー司教よりも、キリエは厳しくも優しいロレイン修道女が大好きだった。ロレインはキリエに読み書きや計算だけでなく、アングルはもちろん諸外国の歴史まで教えた。そして、ヴァイス・クロイツ教にとっての公用語であるユヴェーレン語に留まらず、エスタド語やガリア語まで伝授した。キリエは、孤児でありながら四ヶ国語に精通した少女に成長した。

 「今思えば」とキリエは胸の中で呟く。あれが彼女なりの英才教育だったのだ。だが、教会を出たあの日、キリエを抱きしめて「この日が来なければ」と呟いたロレイン。彼女にとってもキリエは娘のような存在だったに違いない。キリエは、胸が締め付けられる思いだった。

 もうすぐロンディニウム教会へ、ロレインの元へ帰れる。息が切れながらも気力を振り絞って歩みを進めていたキリエの耳に、不意に馬の嘶きが飛び込む。

「!」

 ぎょっとして立ち止まり、周囲を見渡すと、遠くから複数の馬のだく足の音が響いてくる。狼狽たえたキリエはしばらく立ち尽くしていたが、やがて慌てて白樺の根元に身を隠した。

 それから数分後、十数メートル前方を数頭の騎馬が駆け抜けていった。武装した兵士なのか、それとも民間人なのかは暗くてよくわからない。キリエは息を殺してその様子を見守った。

 馬の集団が通り過ぎた後、かなり時間が経ってからキリエは体を起した。膝ががくがくと震えており、思うように歩けない。キリエは道の中央に這うように戻ると、顔に涙が流れていることに気づいてその場にへたり込んだ。汚れた手で顔の涙を拭う。すると、月明かりで指輪がぎらりと光る。思わず左手を見つめると、月光を受けた赤い蝶が毒々しい血のような光を放っていた。

「……!」

 唐突に、背筋が寒くなったキリエはとっさに指輪を外そうとしたが、何故か指輪は指の途中で止まった。キリエは震える指で蝶をそっと撫でる。

「……どうして……」

 キリエはかすれた声で呟いた。

「どうして、私が、こんな目に……?」

 涙がぽろぽろと零れ落ちる。顔を歪め、体を丸めてキリエは突然自分の身に起きたことを思い返した。

 遠縁と名乗る黒衣の伯爵。祖父との出会いと別れ。絢爛豪華な王宮で行われた王位宣言と、その後の乱闘。キリエには、何が起きているのか、皆が何を望み、自分をどこへ連れていこうとしているのか、皆目わからなかった。もう嫌だ。もう、あんな所には戻らない!

 キリエは顔を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。


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