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女王キリエ  作者: カイリ
終章
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終章 第3話

生きることを選んだキリエ。その腕の中にはギヨ。そして、隣には。〈終章〉完結。

 光に満ち溢れた青空。初夏の爽やかな風が吹き渡る丘に、豪奢な馬車が何台も走り抜けていく。やがて隊列が停まり、先頭の最も豪華な馬車の扉が開くと、黒衣の男が降り立つ。そして、後に続く乳児を抱く少女の背に手を添える。

「ありがとう」

 キリエが微笑を浮かべて囁くと、腕の中の子が大きなはしゃぎ声を上げる。

「ほら、ギヨ。見えるでしょう? ここに父上の大聖堂ができるのよ」

 そう言いながらキリエはギヨを抱いたまま、丘の上から見える景色を指差す。そこには、広大な平野に大掛かりな建設現場が広がっていた。

 ここはホワイトピークを西に回った小さな港町、グリーンズ。ガリア王ギョームが最初に降り立ったアングルの地である。

 女帝戴冠から一年。キリエはようやく心身共に健康を取り戻し始めた。そして、公務に復帰した彼女が最初に取りかかったのが、グリーンズに亡き夫ギョームの名を冠した大聖堂を建設することだった。

 〈聖使徒大聖堂〉。聖アルビオン大聖堂にも劣らない規模の大聖堂になる予定だ。元々、母親の影響で信心深かったギョームのことだ。きっと喜んでくれるはずだ。完成まで何十年かかるかわからない。だが、それはキリエにとって生きる希望になる。彼女の力強い瞳をジュビリーは黙って見つめた。ギヨを優しく撫でながら投げかける眼差しはすっかり大人の女性のものだ。もう、十八歳か。ジュビリーは誇らしさと寂しさが入り混じった思いで呟いた。

 あの日切り裂いた髪は今では元通り綺麗に編みこまれている。そして、左の二の腕には黒いリボンが結われている。公務に復帰して以降、キリエは喪服を着続けていたが、一ヶ月ほど経った頃、ジュビリーが喪服を着るなと言い含めた。

「おまえは帝国の中心だ。おまえが喪に服し続ければ、帝国全体が喪に服すことになる。おまえは帝国を繁栄させなければならないのだ」

 そのため、キリエは今では喪服の代わりに喪章を身につけている。だが、ジュビリーが今でも「黒衣の宰相」でいることに、キリエは何も言わないでいた。

「こうして見ると、実に壮観な眺めでございますな」

「でしょう?」

 背後から声をかけたのはガリアの宰相、アンジェ公バラ。キリエは嬉しそうに振り返った。すると、ギヨが両手を地面に向けて足をばたばたさせる。

「降りるの? 走っちゃ駄目よ」

 ギヨは言うことを聞かず、笑い声を上げて走り出す。すると、後ろから二歳ぐらいの男児が追いかける。

「ギヨさま、ギヨさま」

 男児はギヨに追いつくと二人できゃっきゃっと声を上げてその場を走り回った。

「グローリア侯のお子もずいぶんと大きくなられましたな。まるで、ギヨ様とご兄弟のようでございますね」

「ええ。でもね、ギルフォードには本当にもう一人兄弟ができるのよ」

 バラは驚いて傍らのジョン、マリーエレン夫妻を振り返る。二人の嬉しそうな笑顔にバラは目を細めた。

「それはそれは……!」

 キリエは穏やかな表情でギヨを見つめた。

「ロバートにも女の子が生まれたし、ギヨは友達がたくさんできて幸せだわ」

 そして、おかしそうに付け加える。

「ロバートったら、自分にだけ女の子がいるからって、すごく自慢しているのよ」

「そ、そのようなことは……!」

 慌てるモーティマーに皆が笑い声を上げる。そんな彼をからかうように、バラが畳み掛ける。

「それで? 自慢のご息女のお名前は?」

「ローズ・アンと名付けました」

「それはまた、華やかな……。アンというのは、確か奥方のお名前だったな」

 キリエが嬉しそうに身を乗り出す。

「ロバートとアンの馴れ初めを名前にしたのよね」

「はぁ……」

 モーティマーは照れくさそうに頭を掻き、バラが怪訝そうな表情になる。

「クレド城で薔薇園の場所を聞いたのが、妻と出会ったきっかけでして……」

「ほう! 久々に聞いたな、モーティマーののろけ話を……」

 と、そこまで言ってバラははっと口をつぐんだ。そして、恐る恐るキリエを振り返る。だが、キリエは穏やかに微笑んだまま頷いた。

「またのろけおったぞ」

 ギョームの声色に似せて呟いたキリエに、皆はどこか寂しげに笑った。柔らかな表情の女帝にほっと胸を撫で下ろしたバラは、背後に控えたレスターに笑いかけた。

「女の子のお孫か。目に入れても痛くないであろう」

「ええ」

 老臣は相変わらず慇懃に頭を下げた。

「両親共に地味ですからな。行く末が心配でなりませぬ」

「レスターったら!」

 皆がどっと笑い、その場が和やかな空気に戻る。そして、バラは先ほどから黙ったままのジュビリーを振り返った。

「周りがどんどん賑やかになりますな、クレド公」

 ジュビリーはふっと微笑んだ。

「週末は大変ですよ。私の部屋はギルフォードに滅茶苦茶にされます」

「あら、そんなこと」

 妹の言葉にジュビリーは苦笑してみせる。

 キリエが女帝に戴冠した後、ジュビリーとバラは公爵に。ジョンは侯爵。モーティマーは男爵位を叙位されていた。レスターは新たに創設されたベネディクト伯爵家の初代当主となった。キリエの祖父ベネディクトの名を冠した爵位だ。

 エスタドとはまだ国交が回復しておらず、大陸間の緊張は続いたままだ。これまではギョームが対エスタド諸国を取りまとめていたが、これからはキリエがその役目を引き継いでいかねばならない。

「……そう言えば」

 バラが少し声を低める。

「まだ公表されてはおりませんが、エスタドのフアナ王太女がご婚約されるようです」

 キリエが驚いてバラを仰ぎ見る。

「お相手は?」

「クラシャンキ帝国のルスラン皇子です」

「まぁ、懐かしいお名前」

 ルスランはキリエの女王戴冠式に参加している。

「皇子の母君、アレハンドラ皇后はガルシア王の姉君でございますからな。いとこ同士ということになります」

 そして、バラは肩をすくめて苦笑してみせた。

「当初、ガルシア王は渋っていたそうですが、ルスラン皇子の熱意に折れたとか」

「そう」

 キリエは懐かしそうな表情で空を見上げる。

「きっと……、フアナ様ならお幸せになれるわ」

「……はい」

 優しさと凛々しさを兼ね備えた、美しい姫君の眼差しが思い出される。いつかきっと、フアナと共に大陸の平和を実現できるはずだ。そう心に願うキリエの耳に、子どもたちのはしゃぎ声が飛び込む。振り返ると、ギヨとギルフォードが甲高い笑い声を上げながらじゃれ合っている。ゆっくりと子どもたちに歩み寄り、しゃがみ込んで遊びの輪に加わる。

「ギルフォード、背が伸びたわね」

「はーい!」

「ギヨも負けてはいられないわ」

「あーい!」

「うふふ」

 嬉しそうな顔付きのキリエを目にして、バラはそっとジュビリーに囁きかけた。

「お見受けする限り……、お元気そうだな」

「はい。……ですが」

 ジュビリーは目を細めて言い淀んだ。

「時々……、ギヨ様を抱いたまま、泣いていらっしゃるお姿をお見かけいたします」

「……そうか」

 バラは溜息をついた。彼の脳裏に、在りし日の国王夫妻の姿がよぎる。キリエが隣にいるだけで、ギョームはいつも幸せそうだった。そして、キリエもギョームがいることで穏やかな表情を見せていた。その彼がいないのだ。まだしばらく、この孤独は癒されないだろう。

 すると、ギヨがよちよちとキリエに歩み寄り、「抱っこ」と両手を上げる。キリエが抱き上げてギヨの髪を優しく撫でていると風に頭布(ウィンプル)が揺れ、それが目についたギヨがウィンプルを引っ張る。

「あっ!」

 ウィンプルと一緒に髪を引っ張られ、キリエは顔を歪めた。

「痛い……! 駄目よ、ギヨ……!」

 悲鳴のような声に、ジュビリーがギヨを抱き上げる。キリエは痛そうに顔を強張らせ、乱れたウィンプルを脱ぐ。と、そこに現れたのは額の赤い傷痕。醜く引き攣り、肉が盛り上がった傷痕にバラは眉をひそめた。

「まだ、痕が……」

「……そうなの」

 キリエはウィンプルを被り直すと、ジュビリーからギヨを受け取る。そうしていると三人がまるで家族のように見えることに、バラは少し複雑な面持ちで見守った。キリエもどこか思い詰めた表情で黙り込む。

 あの日、キリエの命を救ったギョームの存在を肌で感じたのはジュビリーだけだ。だが、その場にいた人々は皆、キリエを救ったのがギョームであることを察していた。あの日のことは、キリエはまだ誰にも語ってはいない。しかし、ギヨが大きくなったら教えるつもりだった。「私が今こうして生きていられるのも、全部父上のおかげなのよ」と。

 自分を見守るバラに気づくと、キリエはにっこりと微笑みかけた。

「アンジェ公、抱っこしてあげて」

「よろしいのですか」

「ガリア王を抱っこできるのも今のうちよ」

「仰せの通り」

 バラは笑いながらギヨを抱き上げた。ギヨは鮮やかな青い瞳で見上げてくる。美しい金髪は陽の光を受けて白く輝いている。

「……ギョームにそっくりなのよ」

 キリエの囁きにバラは顔を上げる。キリエは優しくギヨの髪を撫でる。

「今、リッピ殿にエレソナの肖像画を描いてもらっているの」

「レディ・エレソナの?」

「ええ。エレソナの侍女だったミス・シャイナーを覚えている? 彼女にも協力してもらって……。ギョームの肖像画はあるけど、エレソナの絵はないから……」

 ギヨは、養母(はは)がそんな話をしているとは知らず、無邪気に笑い声を上げている。

「出来上がったら、『この人があなたのお母様よ』って教えながら育てるつもりよ」

「左様ですか……」

 キリエの穏やかな瞳はすでに「母親」のものだ。バラは改めて新しい主君を見つめた。きっと、ギヨもギョームと同じく、母親思いの王に成長することだろう。


 一行がプレセア宮殿に戻ると、侍従次長のバートンが嬉しそうな表情で出迎えた。

「お帰りなさいませ、陛下。グラスヒル子爵がお待ちでございます」

「えっ」

 グラスヒルの名にキリエは目を見開く。慌てて応接間へと向かうと、そこに懐かしい面影の男性が佇んでいる。

「陛下、ご無沙汰しておりました」

「いらっしゃい、子爵! お久しぶりね!」

「陛下もお元気そうで何よりでございます」

 最後に会った時よりもずっと若々しく、溌剌とした様子のグラスヒルに、キリエは嬉しそうに呼びかける。

「お元気そうね」

「はい、お陰様で領内も安定し、穏やかに暮らしております」

 グラスヒルはどこかほっとした表情で言葉を継いだ。

「しかし、一年前の戴冠式では生きた心地もいたしませんでした。お元気そうなお姿で、安心いたしました」

 キリエは少し寂しそうに微笑む。グラスヒルは臣下として戴冠式に列席し、暗殺未遂の現場を目の当たりにしている。

「帰郷した後、妻に話しましたらあれもかなり取り乱しまして……」

「心配かけたわね……。もう大丈夫よ」

 そして、顔を明るくして身を乗り出す。

「エヴァは? 元気にしているかしら」

 だが、どういうわけかグラスヒルは顔をわずかに伏せた。

「それが……、その、床に臥しておりまして」

「えっ」

 キリエが眉をひそめて声を上げ、グラスヒルは慌てて言い直す。

「あ、いや、病ではなく、その……」

「もしや……」

 マリーエレンがそっと声をかける。

「……おめでたかしら」

 その言葉にキリエは思わず口を手で押さえる。グラスヒルは気恥ずかしげにはにかむと頷いた。キリエはジュビリーと顔を見合わせた。そして、思わず目頭が熱くなるのを感じた。

「……良かった……!」

 エヴァの屈託ない、愛くるしい笑顔が思い出される。辛い過去を乗り越えて、ようやく掴んだ幸せだ。きっと、これからもっと幸せになれるだろう、グラスヒルと一緒なら。

「体を大事にして、丈夫な子を生んで、と伝えて下さい」

「ありがとうございます。実は……」

 グラスヒルは懐に手をやると、一通の手紙を取り出した。

「妻から、手紙を預かっております」

 キリエは目を輝かせた。

「エヴァから?」

「どうぞご笑覧下さいませ」

 手紙を受け取ったキリエは高鳴る胸を鎮めながら広げる。そこに並ぶ、懐かしいエヴァの字に胸が一杯になる。


「長の無沙汰をどうかお許し下さいませ。陛下、お怪我の具合はいかがでしょうか。一刻も早くお傷が癒えることをお祈り申し上げます。そして、三年前の寛大な処分、本当にありがとうございます。感謝しております。

 私は今、グラスヒルで幸せに時を過ごしております。グラスヒルは何もない地でございます。でも、美しく澄み切った空気が包み込んでくれる、豊かな地だと私は思っております。

 夫も領民も、私を本当に大事にしてくれます。時々、怖くなるぐらいです。この私が、こんなに幸せで良いのか、不安になってしまうのです。そしてこの度、子を授かったこともわかり、この身に余る幸せに少々戸惑いも隠せません。それでも、夫は言い聞かせてくれます。罪の償いはこれからも続いてゆく。その先で幸せになれば、誰も文句は言わぬだろう、と。私は、本当に幸せ者です。

 そんな折、陛下の暗殺未遂の報を受け、生きた心地もいたしませんでした。ですが、命に大事無いと聞き及び、安堵いたしました。お早く心身共に健康を取り戻していただきたいと、切に願います。

 陛下が大陸の半分を統べる神聖ヴァイス・クロイツ帝国の女帝になられるとお聞きした時、様々な思いが胸を巡りました。陛下ならば、きっと世界をひとつにして下さる。世界は平和になり、長く続いた戦乱の世がこれで終わると、確信いたしました」


 キリエは目を細めた。違うわ、エヴァ。これからよ。長く険しい平和への道のりが、今から始まるのよ。キリエは息をつくと再び読み進めた。


「ですが同時に、せつない思いもいたします。陛下も、ひとりの女性として幸せになっていただきたいのです。

 お願いでございます。私は、グラスヒルで幸せになりました。今度は、陛下が幸せになられる番です。どうか、愛しいお方とご結婚なさって下さいませ。きっと、崩御されたギョーム王陛下も、陛下のお幸せを願っておられます。例え人目を憚るお相手でも、ご結婚なさって、幸せになっていただきたいのです。

 差し出がましいことを申し上げましたが、私は、陛下のお幸せを誰よりも願っております」


 キリエは息を呑んで目を見開いた。眉をひそめ、黙ったまま手紙を凝視する。そして、寂しそうに目を細める。

(……エヴァ、結婚は無理だわ。でも……、ありがとう)

 目を上げると、グラスヒルが穏やかな表情のまま、キリエを見つめてくる。しばらく言葉がなかったキリエだったが、やがてにっこりとほほ笑むと身を乗り出した。

「……子爵、ありがとう。エヴァを、これからもお願いしますね」

「はっ。……それから、グラスヒルの特産品をお持ちいたしました。グラスヒルの極寒の冬を乗り越えるための毛織物でございます」

 侍従が用意された黒檀の箱を開けると、中から美しい刺繍が施された織物が取り出される。目の詰まった厚手の生地でできた肩掛けは、確かに温かそうだ。キリエは目を細めて喜びの声を上げる。

「綺麗……!」

「どうぞお納め下さいませ。……では、これにて失礼いたします」

 グラスヒルが深々と頭を垂れ、踵を返そうとした時。彼は、目を見開いて動きを止めた。彼の視線を追ったキリエが思わずふっと微笑む。

「カンパニュラのリッピ殿が描いてくれたのよ」

 そう言って玉座を立つと、壁に掲げられた絵を見上げる。

「良い絵でしょう」

「はい。さすが、カンパニュラの画聖でございますな」

 二人は並んで絵を見上げた。

 嵐を思わせる黒い雲が垂れ込める空を背景に、白銀の甲冑をまとい、鮮やかな〈ガリア・ブルー〉の外衣を翻したギョームと、赤い長衣に〈赤獅子〉と〈白百合〉の軍旗を捧げ持つキリエが描かれている。画面の端では黒雲が切れ、晴れやかな青空が垣間見える。

 キリエの背後に控えたジュビリーも絵をじっと見つめた。彼もこれまでいくつかリッピの手がけた作品を目にしてきたが、これほどまでの気迫を感じるものは初めてだった。リッピが出会った頃のギョームはまだ少年らしさを残しており、キリエも幼かった。だが、この絵に描かれたギョームは精悍な表情をしており、力強い情熱を秘めた眼差しを投げかけている。キリエも美しさよりも毅然とした表情が際立つ。そして、二人は互いの手を取り、しっかりと握り合っている。二人は〈黒雲〉を払い、〈青空〉を招いたのだ。

 リッピがキリエと亡きギョームのために描きながらも、キリエの心の傷が癒えるまでは封印されていたこの作品は、女帝に戴冠してから間もなく、献上された。

「先の大戦がはじまる直前に、エスタドのガルシア王陛下から書簡が届きました。内容はただ一行あるきりで……」

 初めてこの絵と対面を果たしたキリエに、リッピは語った。

「大鷲が勝てば大鷲を。獅子が勝てば獅子を描け、とありました。ですから、私は仰せの通りに〈勝者〉を描かせていただきました。戦いの勝者を」

 そうだ。あの戦いでは、哀しみと切望しか残らなかった。だが、ギョームと共に手にした勝利に違いない。彼が遺したものを、この手で守っていかなくては。そしてそれは、ギヨの未来へと繋がっていくはずだ。キリエは穏やかな微笑を浮かべ、絵の中の夫を見つめた。


 謁見を終えたキリエは、遠出の疲れもあって私室に引き下がった。グラスヒルから贈られた肩掛けを広げ、繊細な刺繍を指でなぞる。厚手の布地に手を当てると温かさが伝わってくる。キリエは目を細めた。そして、机の引き出しを開ける。そこには、金色のリボンで束ねられた手紙があった。大事そうに取り出し、じっと手紙を見つめる。生前、筆まめだったギョームから送られたものだ。

 結婚前にガリアから送られた手紙と、モンフルール戦役の最中に戦場から送られた手紙。それだけでなく、彼は忙しい執務の合間にちょっとした手紙をよく書いてくれた。それら全ての手紙が、今ではキリエにとって大切な遺品だ。

 キリエは手紙の束を肩掛けで包んだ。

「……温かいでしょう、ギョーム……」

 そっと小さく囁く。

「……ルファーンは、寒かったものね……」

 キリエの言葉が涙で震える。あの日、ルファーン城で再会したギョームを抱きしめた時の冷たさが思い出される。

「……ギョーム……」

 頬に涙が一筋流れる。キリエは肩掛けを胸に抱きしめた。……会いたい。もう一度会いたい。ギョーム……!

 その時、扉が控えめに叩かれ、キリエはびくりと顔を上げた。

「……どうぞ」

 言葉を詰まらせながら返すと、扉が開かれる。やってきたのはジュビリーだった。彼はキリエの姿を見て眉をひそめた。

「……どうした」

 キリエは慌てて涙を拭った。そして、肩掛けを羽織ると微笑む。

「綺麗でしょう。一度グラスヒルに行ってみたいわ。エヴァにも会いたいし」

「……そうだな」

 ジュビリーはじっとキリエを見つめた。多くを語るまでもなく、彼女の気持ちを察したジュビリーは黙って肩を撫でた。キリエはしばらく黙りこくって項垂れていた。やがて、顔を上げるとエヴァの手紙を差し出す。

「いいのか?」

 受け取りながら尋ねるジュビリーに、「読んで」と答える。言われるままに手紙を広げるジュビリー。キリエは静かに立ち上がると窓辺に歩み寄った。

 大きく開け放った窓には、夜の帳が下りかけた夏の空が広がっている。夕焼けと、宝石のような深い青が溶け合う空。空の下は家路を急ぐ市民たちがひしめく王都。その向こうには田園と森が広がる。そのずっと向こうは、故郷ロンディニウム。キリエの脳裏に、これまでの思い出が蘇ってきた。

 ロレインと過ごした教会での穏やかな日々。やがてジュビリーが訪れると教会を連れ出され、激動の日々が始まった。レノックスやエレソナとの戦い。ヒースとの絆。ガリア王リシャールのアングル侵攻。そして、ギョームとの出会い。王都の奪還と、王位継承。だが、思えば王位を継承してからの戦いが、辛く、苦しいものだった。

ギョームに求められ、彼の妃となった。彼は自分を守ってくれると約束してくれた。だが、死闘の果てに兄レノックスを失い、国のために姉エレソナを夫の側室とした。自分も、ギョームも傷ついた。誰のため? 何のためだったのだろう。

 だが、キリエは胸に込み上げてくるものを感じて手を握りしめた。その過程があったからこそ、自分はギョームを愛せるようになった。彼の愛を受け入れ、彼を愛し、間違いなく自分は幸せになったのだ。

 程なくしてエスタドのガルシアが自分たちに牙を剥いた。自分とギョームは、死力を尽くして国を守った。だが、結局、自分が心から愛したギョームは帰らぬ人となった。

 ……もうこれ以上、誰も、何も失いたくない。

 やがて、キリエの耳に手紙を折りたたむ音が聞こえてくる。そして、ジュビリーは黙ってキリエの隣にやってきた。二人は黙って窓の外の風景を眺めた。きっと、彼の脳裏にも、これまでの記憶が蘇っているに違いない。

「……あっという間だった」

 キリエの小さな囁きに、ジュビリーは頷いた。

「たった五年なのよ。たった五年で、いろんなことがあった……」

 それでもジュビリーは無言だった。

「たくさんの人に出会って……、たくさんの人と別れて……、ここまで来たの。たくさんの人が死んだわ。多くの犠牲で、私は……」

 その時、ジュビリーはキリエの手を握りしめた。大きい、温かい手。キリエは体を震わせて目を伏せる。この温もりに、どれだけ救われてきたのだろう。しばらく黙り込んでいたキリエは、やがて再び顔を上げた。

「……でもね」

 静かにキリエが呟く。

「マリーやアンを見ていると、もう一度結婚したいって、思う時があるの」

 ジュビリーは黙ったままだった。

「あんな風に幸せな家庭を築きたいって、思うの。……ギョームと過ごした時間は、本当に幸せだった」

 だが、キリエの表情が翳る。

「でも……、もう傷ついたり、傷つけたりするのは、嫌」

 寂しげに吐息をつくと、言葉を継ぐ。

「大事な人を、失いたくない。……ひとりになるのが、怖い」

「私は」

 その時、初めてジュビリーが声を上げた。

「私は、おまえと一緒にいたい」

 キリエは目を大きく見開いて彼を見上げた。そして、思わず目を奪われる。この人は、こんなに穏やかな眼差しを持っていたのか。彼を襲ったあの悲劇がなければ、この眼差しで愛しい人と共に過ごしていたはずなのだ。窓の風景を見つめたまま、ジュビリーは言葉を続けた。

「……おまえとずっと、生きてゆきたい」

 キリエの瞳が涙で揺れる。ジュビリーはゆっくりと振り返った。

「おまえには、忘れられない者がいる。私にもいる。だが、彼らに恥じないよう、精一杯生きてゆきたい」

 初めて耳にした、自分への想い。キリエは胸が一杯になった。自分は独りじゃない。これからも、寄り添っていける人がここにいる。思わず彼の胸にすがりつくと目を閉じた。そして、満ち足りた笑顔で小さく囁く。

「……生きてて、良かった……」

 その言葉に、ジュビリーは自分の贖罪を果たしたことを知った。だが、それでも贖罪は続く。ジュビリーは、キリエの細い肩を抱いた。

 キリエはジュビリーと出会ってから、多くの出会いと別れを経験した。互いを求めながらも運命は容赦ない試練を与え続け、二人を引き離した。だが、運命の女神は再び二人を結びつけた。この上ない、残酷な方法で。

 ジュビリーの言うとおり、キリエにはギョームが、ジュビリーにはエレオノールが胸の中で生き続ける。その愛おしい思いを抱いたまま、二人で寄り添い、歩み続ける。

 永遠に。


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