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女王キリエ  作者: カイリ
終章
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終章 第2話

大主教に押し切られ、キリエがついに神聖ヴァイス・クロイツ帝国の女帝として戴冠する。だがその時、聖アルビオン大聖堂に現れたのは。

 結局、数日後にキリエは王都イングレスに帰還し、廷臣たちはまだ不安げな表情で出迎えた。

 後宮に入ると、キリエは赤ん坊の声にぎくりと立ち尽くした。出迎えた大勢の女官たちの中心に、赤子を抱いたルイーズがいる。彼女の腕の中で、ギヨは笑顔で声を上げた。顔を強張らせるキリエに、ルイーズが優しい表情で歩み寄る。

「お留守の間、陛下の肖像画の前であやしておりました」

 ルイーズは穏やかな笑顔でギヨに囁きかける。

「ギヨ様、母君ですよ。ずっとお待ちしておりましたよね」

 ギヨは澄んだ青い瞳を輝かせながらキリエに小さな手を伸ばしてくる。赤ん坊の無垢な笑顔に、やがて口許を少しだけゆるめた。そして、恐る恐る手を伸ばすとそっとギヨの頬を撫でた。皆がほっと安堵の表情になる。ギヨに対するわだかまりが消えれば、逆に女王の心の支えになるはずだ。キリエの横顔を見守るジュビリーは、彼女にケイナの眼差しを重ね合わせた。愛おしい我が子を胸に抱くケイナの顔は優しさと喜びに満ち溢れていた。そのような光景が、いつかは見られるようになるはずだ。

 黙って赤ん坊の頬を撫でる女王に、セヴィル伯がそっと声をかけた。

「……お帰りになって早々申し訳ございません。陛下のお帰りをお待ち申し上げていた者がもう一人おります」

 かすかに眉をひそめて振り返るキリエに、セヴィル伯は側近に頷いてみせる。やがて広間の扉が開かれ、数人の男が静かに現れる。見覚えのある男たち。そして、その中の一人を目にしたキリエが目を見開く。

「……リッピ殿」

「陛下」

 カンパニュラの画家、ヴァレンティノ・リッピ。彼は痩せ衰えた女王の姿に衝撃を受けたらしく、思わず足早に駆け寄ったものの黙ったまま女王を凝視した。そして、思い出したようにその場に跪く。

「……長の無沙汰をお許し下さいませ」

 キリエは表情を変えないまま頷いた。

「……ありがとう。会いに来てくれたの?」

 抑揚のない言葉。リッピは哀しげに顔を歪めた。しばし痛ましい沈黙が流れた後、リッピは居住まいを正すと口を開いた。

「この度は……、女帝陛下としての戴冠のご様子を描かせていただきたく、参上いたしました」

 その言葉にキリエの顔が強張る。

「……猊下のご依頼?」

 リッピは顔を振った。

「陛下がいよいよご戴冠の運びとお聞きし、馳せ参じた次第にございます。大主教猊下からの要請はお受けしておりませぬ。……少なくとも、私は承知しておりませぬ」

 しばしの沈黙。キリエはようやく小さく頷いた。

「……ありがとう。リッピ殿」

 キリエを私室へと送り届けた後。ジュビリーはリッピの訪問を受けた。

「クレド侯。実はこの度、持参いたしました絵がございます」

 ジュビリーは怪訝そうに目を眇めた。

「絵を?」

「はい。本来ならば陛下にご覧いただきたいのですが……」

 そう言うと、画家は弟子に命じて大きな木箱を運ばせた。慎重に箱の蓋を開き、緋色の布に包まれた絵を取り出す。ジュビリーは無言で彼らの所作を見守った。

「こちらです」

 弟子が布を丁寧に取り去る。そして、目に飛び込んできた情景にジュビリーは思わず絶句した。しばし息を呑んで絵を凝視していた彼は、少なからず困惑の表情で振り返る。

「これは……」

「願わくは、この絵を女王陛下にもご覧いただきたいのでございますが、まだ……」

 ジュビリーは黙ったまま頷いた。

「お願いでございます、クレド侯。陛下が心身ともにご健康を取り戻された暁には、ぜひこの絵を……」

 深々と頭を垂れる画家に、ジュビリーはかすれた声で「感謝する」と呟いた。


 廷臣たちの間では賛否が分かれたが、キリエの戴冠式は翌月の八月に決定された。実は、戴冠式そのものをクロイツ大聖堂で執り行いたいと要請されていたのだが、さすがにその要求は退けられた。ヘルツォークが衰弱したキリエの姿を目にしているにも関わらず、横柄な態度を取り続ける大主教に、ジュビリーだけでなく、アングルの廷臣たちは怒りを感じていた。

 当のキリエは、ようやく自分から食事を取るようになったが、それでも未だに口数は少なく、顔の表情は失われたままだった。ジュビリーやバラは心配でならなかったが、これ以上ムンディを待たせるわけにもいかず、ついに戴冠式当日を迎えた。


 聖アルビオン大聖堂の衣裳部屋で、キリエは純白の長衣に着替え、アングルの〈赤〉とガリアの〈青〉の綬をかけた。もともと細身だったキリエの衣装は、まるで人形の衣装のように小さかった。マリーエレンは、女官たちが着付けていく様子を心配そうに見守った。すると、背後で赤子の声が上がる。

「キリエ様、ギヨ様が……」

 マリーの言葉にキリエは顔を上げた。ルイーズが抱いているギヨに、キリエは微笑みかけると頭をそっと撫でる。

「……行ってきます」

 最近、ようやくギヨに対するわだかまりが薄らいだように見えるが、それでもキリエはまだギヨを抱けなかった。それでもよい。少しずつ時間をかけて心を癒していけばよい。マリーもルイーズもそう考えていた。やがて、衝立の奥からモーティマーが声をかける。

「陛下、そろそろ……」

 キリエは黙って頷くと、マリーに手を取られ、衣裳部屋を後にした。

 大聖堂では、大主教カール・ムンディがキリエの到着を待ちわびていた。大陸中から集まった王侯貴族もまた、大陸の半分を統べる神聖ヴァイス・クロイツ帝国の樹立の瞬間を息をひそめて見守っていた。ムンディの傍らに控えているのは、盲目の司教。大主教のあまりに強硬な態度に、帝国の樹立は真の平和を願ったものではないことを見抜いたヒースは、強張った表情でその場に佇んでいた。

(キリエ……)

 ヒースは心の中で呼びかけた。

(もはや、大主教では世界の秩序を保てません。それでも……、私はあなたの心の平安が何よりも大事なのです)

 やがて、女王の到着を司教が告げる。鐘が打ち鳴らされ、修道士たちの詠唱が響き渡る中、皆の視線を一身に浴びてキリエが現れる。ついに、ヴァイス・クロイツ教による帝国が誕生する。教会で育った〈アングル王の庶子〉が、帝国の女帝となる。人々は万感の思いを胸に、まだ若い女帝を見守った。キリエのすぐ後ろにはジュビリーとバラが付き従った。体力がようやく回復したとは言え、女帝戴冠という重圧にキリエが耐えられるのか、二人は不安な思いを胸に、キリエの細い背をじっと見つめた。

 ムンディの目前までやってきたキリエは無表情のまま両手を合わせ、静かに跪いた。ムンディは手を挙げ、力強い声で高らかに宣言した。

「これより、神聖ヴァイス・クロイツ帝国初代女帝、キリエ・アッサー・オブ・アングルの戴冠を執り行う」

 聖堂の人々は皆恭しく跪き、頭を垂れた。司教が王冠を捧げ持つとムンディに差し出す。美しいダイヤモンドが惜しげもなく散りばめられた絢爛な王冠。中央には、純白の真珠が〈正十字〉を形作っている。だが、キリエの虚ろな瞳には、ダイヤモンドの煌めきなど映らなかった。本当ならば、ギョームと共に戴くはずだった王冠。彼はこんなものが欲しかったわけではないはずだ。ムンディは王冠を手にすると身を乗り出した。そして、無言で凝視してくるキリエに、哀しげに眉をひそめる。

「……キリエ」

 ムンディは小さく呼びかけた。

「早く元気を出せ。わからぬのか。ギョームは今でも、そなたの側にいるのだ」

 だが、キリエは目を眇め、顔を強張らせるとまっすぐにムンディを射すくめた。

「私が戦ったのは、あなたのためでも、天のためでもない」

 その言葉に、ムンディは胸を突かれた。虚ろだったはずの瞳は、いつしか怒りと憎しみの色に染まっている。ただ運命を受け入れ、荒波に呑まれるままだった幼い修道女は、もはやいない。だが、ムンディはやがて沈痛な表情で頷くと、そっと王冠をキリエの頭に被せた。瞬間、ジュビリーが抜剣すると叫ぶ。

「女帝陛下万歳!」

 そして、居並ぶ参列者も皆大音声を張り上げる。

「女帝陛下万歳! 女帝陛下万歳! 女帝陛下万歳!」

 だが、ジュビリーはわずかに唇を噛み締め、険しい表情でキリエを振り仰いだ。

 戴冠の儀が終わると、キリエは廷臣らと共に大聖堂の正面(ファサード)に向かった。大聖堂前の広場では、女帝の姿に押し寄せた市民は一斉に歓声を上げた。キリエの体調が思わしくないことは国中に広まっていたため、人々は無事に戴冠を終えたキリエに安堵すると同時に、痩せ衰え、青白い表情で虚ろな瞳を投げかける彼女に胸が締め付けられた。中には、思わず涙を流す者たちもいる。

「女帝陛下! アングルの聖なる女帝陛下!」

「どうか早くお元気になって! 女帝陛下!」

 市民たちの悲痛な叫びに、さすがにキリエは胸が痛んだ。哀しげに眉をひそめると、必死に呼びかける市民たちを見渡す。まだ、自分を必要としている人たちがいる。だが、もう疲れた。もう、ギョームはいない。エレソナもいない。レノックスもいない。自分は、何もかも失った。これ以上、誰かのために、何かのために、がんばれない。

「あなたはもう、がんばらなくていい」

 ヒースの言葉が脳裏に響く。もう、いいですか、兄上。キリエは力なく項垂れた。その心を見透かしたジュビリーは、思わず拳を握りしめた。

 そんなキリエを、じっと見つめる目があった。彼は沈黙したまま、キリエの動きを追う。自らを取り巻く喧噪など耳に入らない。空虚な表情で焦点の定まらない眼差しを向ける女帝。そのひとつひとつの動きを舐めるように凝視してゆく。

 盛り上がる歓声に、彼女はようやく顔を挙げ、手を振って歓声に応えた。観衆は更に熱狂的な大歓声を上げる。キリエは吐息をつくと、観衆に向かってそっと歩み寄った。市民らはキリエに向かってちぎれんばかりに手を振る。観衆の興奮が最高潮に達した、その時。

「キリエ・アッサーッ!」

 突然、男の叫び声が上がる。キリエが振り返ると同時に、近衛兵のひとりが剣を引き抜くと飛び出してくる。男の顔を目にしたジュビリーは息を呑んだ。

(シェルトン!)

「おおおッ!」

 悲鳴が響き渡る中、シェルトンは雄叫びを上げて剣を振りかざし、キリエに向かって突進した。一方のキリエは、呆然とした表情でシェルトンを凝視する。

「キリエッ!」

 ジュビリーの叫び。眩い太陽の下で振りかぶられた剣の輝きに、彼女は大きく目を見開いた。

(……死んだら、ギョームに会える)

 キリエはふらふらと前へ進み出ると目を閉じた。――満ち足りた表情で。

 だが、その瞬間、キリエは不意に手首を捕まれ、ぐいと後ろに引っ張られた。

「あっ……!」

 体が大きく仰け反る。それでも、剣の切っ先は王冠と額を抉った。

 石畳に飛び散る血飛沫。人々の悲鳴。血潮と共に倒れこむキリエの頭を、駆け寄ったジュビリーが支える。が、右腕に鋭い激痛が走り、思わず体が沈む。と、キリエの体がふわりと軽くなる。まるで、誰かもう一人の手が支えているかのように。ジュビリーとキリエに投げかけられた黒い影が剣を振りかぶる。ジュビリーは腰の剣を引き抜くと、振り向きざまに一閃する。〈ギョームの剣〉はシェルトンの首筋を正確に切り裂いた。

 吹き上がる鮮血。悲鳴と怒号の渦の中、石畳に崩れ落ちるシェルトン。駆け寄る近衛兵。バラ、ジョン、モーティマー、ヘルツォーク。ジュビリーは震えながら荒々しく息を吐き出し、キリエを抱き起こした。

「キリエ……! キリエ! しっかりしろッ! キリエ!」

 顔面が血に染まったキリエはぐったりと首を仰け反らせていた。だが、ジュビリーの叫びに、うっすらと目を開ける。眩しい真夏の太陽が照りつける真っ白な世界。キリエは目を瞬かせた。徐々に視界が開けてゆく。返り血を浴び、血塗れになって自分の名を叫ぶジュビリーをじっと見つめる。と、その肩越しに、白く輝く人影が見える。そしてそれは、やがてはっきりと輪郭を形作った。

「……ギョーム……」

 キリエの囁きにジュビリーは言葉を失った。

 ギョームは眉間に皴を寄せ、厳しい表情で見つめてきた。澄んだ青い瞳が真正面から強く見据えてくる。キリエは涙ぐんだ。怒っている。命を投げ出そうとした自分に、怒っている。彼女は子どものように呟いた。

「……ごめん、なさい……」

 妻の囁きに、ギョームはようやく顔の表情をゆるめた。キリエは血で汚れた手を弱々しく上げた。

「……い、いか、ないで……」

 ギョームは困ったように微笑んだ。そして、ゆっくり歩み寄るとキリエの頬を両手で包み込んだ。温かい。その温もりに涙が溢れ出る。ギョームは微笑を浮かべたまま、そっと唇を寄せた。柔らかい、温かな唇の感触。これまでに何度もくれた優しい口付け。もう、これが最後なのか。

 永遠のように長い口付けを交わすと、ギョームはゆっくり唇を離した。キリエの頬を愛おしげに撫でると、にっこりと微笑む。キリエが大好きだった、穏やかで柔らかな笑顔。そして、彼は眩い太陽に溶けるようにして、姿を消した。キリエは空を見上げた。

「……ありがとう、ギョーム……、さようなら……」


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