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女王キリエ  作者: カイリ
第12章 ゴールデン・ニムバス
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第12章「ゴールデン・ニムバス」第7話

キリエの元にやってきたエスタドの王女フアナ。終戦を望むフアナとキリエは束の間心を通わせるが、そこへもたらされた報せが二人を震撼とさせる。ついに、キリエは大鷲と対峙する。

 その頃、エスタドの陣地ではガルシアがビセンテと激しく言い争いをしていた。

「退却だと……! 貴様、気でも違ったか!」

「陛下……!」

 椅子を蹴って仁王立ちしたガルシアに、ビセンテは顔を青ざめさせながらも言い放った。

「状況は予想以上に不利でございます! ガリアとアングルには大主教によって援軍が次々と送り込まれております。ですが、こちらはそうは参りません!」

「黙れッ!」

 王と宰相の激しい応酬に、廷臣らは息を呑んで見守るしかなかった。

「あの……、あの田舎娘が前線で指揮をしているのだぞ! 背を向けて、逃げ帰れと申すか!」

「このまま戦いを続け、不利な状況で和平を結ぶ前に、今ならまだ……!」

「ビセンテ!」

 身を乗り出し、盟友の胸倉を掴む王を側近らが慌てて引き剥がす。

「見損なったぞ……! 貴様が、臆病風に吹かれるなど……!」

「エスタドのためでございます! エスタドと、陛下の未来のために……!」

「落ち着いて下さいませ! 陛下!」

 廷臣らが興奮する王を椅子に座らせ、侍従が気付けに酒を満たしたゴブレットを差し出す。

「……このまま……、引き下がれるものか……!」

 酒を呷るとゴブレットを地面に叩きつける王に、ビセンテの背後で控えたトーレス男爵がごくりと息を呑む。

「陛下……。今戦いを続け、疲弊しきった状態になれば、人心が離れます。十年先、二十年先のことをお考えにならねば……。フアナ王太女のためにも……」

 フアナの名を耳にしたガルシアは、ぴくりと眉を吊り上げた。自分はともかく、フアナに苦労はさせたくない。ガルシアは冷静にならざるを得なかった。

「……フアナはどうしている」

 まだいらつきが感じられる声で問いかける王に、トーレスが身を乗り出す。

「テントでお休みに……」

「しっかり休んでいるか気になる。様子を見に行かせろ」

「はっ」

 侍従の一人が一礼して踵を返す。

「……陛下。戦いを終わらせたいのはあちらも同じ。それならば、敗色が濃くなる前に交渉に入らねばなりません」

「……何故だ……」

 ガルシアの口から悔しげな呟きが漏れる。

「あの若造といい、田舎娘といい、何故予に歯向かうのだ……!」

 これまで全てを力でねじ伏せてきたガルシアが、初めて力に飲み込まれようとしている。それを認めることができない王を諌めるのが、自分の使命だ。ビセンテは震える息を吐き出した。フアナの言うとおりだ。エスタドを衰退させるわけにはいかない。エスタドはこれからも世界の中心でなくてはならないのだ。ビセンテが再び口を開こうとした時。不意にテントの外が騒然となる。怒号が飛び交い、甲冑がぶつかり合う不穏なざわめきにガルシアとビセンテは顔をしかめた。

「どうした」

 ビセンテがテントを出ようとすると、

「陛下ッ!」

 侍従が慌てふためいた様子で飛び込んでくる。

「お、王太女殿下がッ……! 王太女殿下がいらっしゃいません!」

 ガルシアの体が硬直する。ビセンテの背は冷水でも浴びせかけられたようにぞくりと粟立った。

「どういうことだ!」

 侍従はごくりと唾を飲み込んでからまくし立てた。

「て、テントには、女官しかおりません! どこにいらっしゃるのか問いただしても、皆黙って……!」

 呆然として立ち上がるガルシアの前へ、数人の女官が引き立てられてくる。フアナに似た姿格好の女官が、甲冑をまとっている。テントの影に映ることを想定した、身代わりか。

「陛下……!」

「お、お許し下さい! お許し下さい!」

 女官たちは皆震えながら口走り、地に平伏した。ガルシアの顔が見る見るうちに紅潮したかと思うと、突然剣を抜き放つ。

「陛下!」

 咄嗟にビセンテがガルシアを押さえつける。その場は騒然となった。

「フアナ! フアナはどこだッ! フアナ!」

「王太女はどこへ行かれたのだッ!」

 トーレスの怒鳴り声に女官たちはその場に蹲って譫言のように囁いた。

「で、殿下は……、あ、アングルの、陣地へ……!」

 それを聞いたガルシアは奥歯を噛み締めると肘をビセンテの首に叩き込んだ。宰相は呻き声を上げてその場に跪いた。

「許さん……! 許さぬぞ! フアナに手出しをすれば……、絶対に許さんぞ! キリエ・アッサー!」

 廷臣らは雄叫びを上げる王を必死で取り押さえた。


 テントで言葉少なく会話を続けているキリエらの元に、緊張で強張った声がかけられた。

「陛下」

「何?」

 キリエの声にジュビリーが険しい表情でテントに入ってくる。

「……エスタド軍に動きが」

「えっ」

 キリエは思わず声を上げ、フアナは息を呑んだ。そして、ジュビリーを押しのけるようにしてエスタドの騎士たちが入ってくるとフアナの周りを固める。キリエは顔の表情を引き締めた。

「どうして……」

「恐らく、殿下の不在が知れたのでは」

 そう言ってジュビリーはフアナを一瞥した。キリエは、怯えた表情のフアナをじっと見つめた。やがて、彼女はすっと立ち上がるとフアナに呼びかけた。

「フアナ様、父君がお迎えにいらっしゃるのでしょう。行きましょう」

「キリエ様……!」

 キリエは右手を上げるとフアナの言葉を遮った。

「父君とお話がしたい。……お願いできますか」

 フアナだけでなく、ジュビリーやバラも顔を引きつらせた。

「陛下……!」

「最後の希望よ」

 キリエはフアナをじっと見つめた。陣地のざわめきが段々と大きくなってゆく。やがて、フアナは静かに頷いた。


 東の空が白み始める中、雨上がりの平野をエスタドの軍勢が押し寄せていた。軍の先頭には、怒りで周りが目に入らないガルシアが手綱を握りしめ、アングルの陣地を目指していた。ビセンテはその後ろで必死に王に追いすがった。宰相の脳裏に、フアナの囁きがよぎる。

(これ以上戦いを続けて大敗を喫することにでもなれば、エスタドは衰退の道を歩み始めるわ。そうはしたくないの)

 ビセンテは顔を歪めた。あの時、王を説得すると答えていれば、こんなことには……! 王女に、そして王に何かあれば全て自分の責任だ……! 抑えきれない胸騒ぎを抱えたまま、ビセンテはガルシアと共に馬を走らせた。


 アングルの陣地では進軍の準備が始められ、兵士らは浮き足立った異様なざわめきに包まれていた。女王のテントでは、キリエが黙って鎧を身に付けている。深紅の外衣(サーコート)を掛け金にかけるがうまくいかず、はらりと落ちる。それを見たジュビリーが無言で掛け金をかけてやる。

「……ありがとう」

 キリエの低い呟きにジュビリーは一瞬胸が詰まった。もしもエレオノールとの間に男子が生まれていたら、今頃こうして息子の鎧を着せつけていたかもしれない。そう思うと、ジュビリーの胸に遣りきれない思いが広がってゆく。

「ジュビリー」

 キリエの呼びかけに目を上げる。

「母上と、父上の夢をみたわ」

 手を休め、キリエをじっと見つめる。彼女は強張った表情で空を見据え、乾いた声で囁いた。

「……母上は床に伏していて、私を抱きしめてくれたわ。いい子ねって、言ってくれた」

 陣の喧騒が遠くから響く中、二人は黙って身じろぎもしなかった。やがて、キリエは目を眇めて口を開いた。

「後から父上が来て……。おまえは、誰にも渡さないって」

 キリエの険しい表情を黙って見守る。

「……私、父上が大好きだった」

 キリエは眉を寄せ、ぎゅっと拳を握り締めた。

「思い出さなければよかった……!」

「キリエ」

 言葉を遮るようにジュビリーが呼びかける。

「エドガーがいなければ、私はおまえに出会えなかった」

 その言葉にキリエはびくりと体を震わせるとジュビリーを見上げた。わずかに怯えた表情のキリエに、ジュビリーは片手でそっと頬を撫でた。大きな手。父の手も大きく、温かだった。キリエは思わず目を伏せた。

「……行こう」

 ジュビリーの囁きに、小さく頷く。


 甲冑を身につけたキリエとフアナが陣地を出ると、兵士らのざわめきに包まれる。アングルとガリアの兵士らから罵声を浴びせかけられても、フアナは気丈にも胸を張り、前を見据えている。

「静かになさい!」

 キリエの叫びにわずかにざわめきが静まるものの、将兵はそれでもフアナへ憎悪の目を向ける。そこへ、背後から一段と大きなどよめきが上がった。ジュビリーが顔をしかめて振り返ると同時に、

「王妃! 王妃!」

 斥候が人波を掻き分けて駆け込んでくる。

「ナッサウから使者が! こちらへ合流すると!」

 瞬間、その場に歓声が上がる。フアナは苦しげに目を伏せた。これまで動きを見せなかったナッサウがついに動いた。ガルシアの母の故郷は、キリエを選んだ。これで、ついにエスタドとユヴェーレンは孤立した。キリエは朝日が昇ろうとする空に眼差しを向ける。もう少しだ。もう少しで、戦いを終わらせることができる。キリエは高鳴る胸を抑え、一歩前へ踏み出した。

「行きましょう」

「はっ」

 そして、少しだけ不安そうに振り向く。そこには、槍を肩に担いだジョンの姿があった。

「……ジョン」

「はい」

 彼はにっと笑ってみせた。

「……気をつけて」

「お任せ下さい」

 ジョンはキリエに一礼すると傍らの馬に跨がった。

「行って参ります!」

 馬の腹を蹴ると、ジョンと数名の騎士がその場を後にする。キリエは、手を握り締めてジョンの姿が遠ざかってゆくのを見守った。


 エスタド、ユヴェーレンの軍勢は怒涛の勢いで進軍していた。

 フアナに何かあったら、ただではおかぬ。キリエ・アッサーが今も前線にいるのならば、この手で斬り捨ててくれる……! ガルシアは歪めた口から荒々しく息を吐き出した。進軍が続く中、王を先導していたトーレスが馬を寄せてくる。

「陛下! 先遣隊が!」

 ガルシアは顔をしかめた。先遣隊の騎士たちが引き返してくるのが目に飛び込む。

「どうした! 何があった!」

 ビセンテの怒鳴り声に、先遣隊の騎士らが駆け寄る。

「アングル軍の使者が……!」

「使者だと?」

 顔を強張らせた宰相が王を振り返る。馬の手綱を引いたガルシアは、手を挙げて進軍を止めさせた。

 皆は目を懲らして平野の先を見つめた。軍勢がすぐそこまで迫ってきている。

 アングル、ガリア、クロイツ、カンパニュラ、ポルトゥス、バーガンディ。そして、寝返ったレオン、レイノ、ナッサウを従えた軍勢は、戦いを始めた頃よりも数を増している。エスタドとユヴェーレンの将兵らは皆息を呑んだ。

 軍勢を離れ、数騎の騎馬がこちらへ駆けてくるのが見える。ガルシアが馬を進ませ、ビセンテが後に続いた。皆が見守る中、〈赤獅子〉と〈青蝶〉の軍旗を捧げ持った騎士らがはっきりと見えてくる。

「……アングルの聖女王騎士団です」

 ビセンテの囁きにも、ガルシアは黙ったままだった。やがて、騎士たちはエスタド軍の目前までやってくると手綱を引いて馬を止めた。中央の騎士が兜のバイザーを上げ、大声で呼ばわる。

「私はキリエ女王の使者、グローリア伯爵ジョン・トゥリーである! ガルシア王に申し上げる!」

 兵士らはざわめいてジョンたちを見上げた。トーレスが馬を歩ませる。

「ガルシア王陛下の御前である! 下馬せよ!」

「断る!」

 跳ね返すような返事に皆は唖然とした。トーレスは目を見開き、ビセンテは険しい表情でジョンを凝視した。皆の視線を一身に浴びながらも、ジョンは堂々と言い放った。

「ここはガリア王国。勝手に土足で上がり込んでおきながら、下馬し、礼を尽くせとは片腹痛い!」

 まだ若い小柄な騎士の啖呵に、エスタド軍の将兵らは一斉に笑い声を上げた。命知らずの青二才が!

「陛下……」

 ビセンテがそっと囁くと、ガルシアは苦り切った表情で顎をしゃくった。宰相は頷くと傍らの騎士に短く言い放った。

「やれ」

 それを聞くや否や、騎士は槍を構えると馬の腹を蹴った。ジョンも槍を握り締めると手綱を引く。わっと歓声が上がる中、騎士は雄叫びを上げて槍を繰り出すが、ジョンはその穂先を弾いた。巧みに馬を操り、体を入れ替えて素早く突きをくれる。相手が柄で横へ流し、身構えた隙を逃さなかった。主の意図を感じ取った騎馬が嘶くと前脚で騎士を蹴倒した。

「あッ!」

 地面に転がり落ちた騎士の首にジョンが槍を突き付ける。

「殺しはせぬ!」

 ジョンの叫びに皆が息を呑む。

「私は主君の言葉を伝えに参っただけだ!」

 エスタドの将兵は息をひそめて王を仰ぎ見た。ガルシアは目を眇め、わずかに口許を歪めると馬を歩ませた。ジョンは険しい表情を崩さぬまま、〈エスタドの大鷲〉を見返した。

「……娘を渡せ」

 ジョンは落ち着いた様子で頷いた。

「今、我が君がこちらへお連れ申し上げる」

 そして、はっきりとした言葉で付け加える。

「我が君が謁見を願い出ていらっしゃる」

 謁見? ガルシアはかっとなると身を乗り出した。

「島国の田舎娘の分際で謁見だと!」

「陛下……!」

 隣のビセンテが鋭く囁く。

「王太女を、無事に連れ戻さねば……!」

 ガルシアがぎりっと奥歯を噛み締めた時。将兵がざわめきを上げる。これまでのやり取りの間に、敵軍はぐっと接近してきていた。ジョンは味方の到着に気付くと、ふっと笑みを浮かべた。

「我が君がお待ちです。……フアナ王太女も」

 そして、手綱を引くと供を連れて友軍の元へと帰ってゆく。

 ガルシアは迫りくるアングル、ガリア勢を見渡す。先頭の集団が〈赤獅子〉と〈白百合〉と〈青蝶〉の軍旗を捧げ持っている。彼は舌打ちすると馬の腹を蹴った。ビセンテやトーレスらが慌てて後を追う。

 キリエはフアナと共に馬を走らせていた。やがて、ジョンの姿が見えてくる。

「……ジョン!」

「キリエ様!」

 大役を終えたジョンが少し興奮気味に戻ってくる。手綱を操って馬首を巡らし、エスタド勢を振り返る。

「王太女を引き渡せと仰せです。……大変なお怒り様です」

「……そうでしょうね」

 キリエは頷き、「ありがとう」と小さく言い添えた。

 フアナはごくりと唾を飲み込んで父の軍勢を見つめた。父は会見に応じるだろうか。勝手な行動をした自分にも呆れ果て、怒り狂っているに違いない。彼女は幼い王妃をそっと見遣った。先ほどまでの落ち着きはもうない。緊張でキリエの顔は青白く強張り、目はわずかに彷徨っている。

「……王妃」

 背後からジュビリーが声をかけてくる。キリエは頷くと友軍を振り仰いだ。

「皆はここで待っていて」

「はっ」

「ヘルツォーク殿、後はお願いします」

「御意」

 ヘルツォークが甲冑の胸に手を添え、頭を下げる。それを見届けると、キリエは再び馬を走らせた。フアナ、ジュビリー、ジョン、バラがそれに続く。

 キリエの目に、すぐそこまで迫ったエスタドの軍勢が飛び込む。そして、〈大鷲〉と〈青兜〉の軍旗が見えてくる。ガルシア……!

 キリエの瞳に、中央で馬を走らせる男が目に映る。黒い甲冑をまとった、一際目立つ巨体。彼だ。あれが、〈エスタドの大鷲〉。やがて、呼ばわれば聞こえるまでに近付いた時、双方が動きを止めた。そして、馬上の男が身を乗り出す。

「フアナ!」

 獣のような咆哮。その叫びにフアナはびくりと体を震わせた。

「……父上」

「戻ってこい!」

 平野に響く大鷲の叫び声に、皆は口をつぐんだ。微動だにせず父を凝視していたフアナに、キリエがそっと声をかける。

「……フアナ様、お帰り下さい」

 フアナは眉をひそめて振り向いた。

「キリエ様……!」

 蒼白の顔を強張らせた女王は、黙って頷いた。フアナは小さく震えながら馬を降り、ゆっくりと父の元へと歩み寄った。ガルシアは身を乗り出すと手を差し延べた。

「フアナ……!」

 だが、彼女はぴたりと動きを止め、立ち尽くした。

「フアナ! 早く!」

「父上……!」

 フアナは声の限り叫んだ。

「キリエ女王とお話して!」

 娘の言葉にガルシアは顔を歪めた。

「早く帰って来い!」

「父上!」

 体を震わせながらもフアナは訴えた。

「あなたは、エスタドの王よ!」

 王太女の悲痛な叫びに、ガルシアの傍らに控えたビセンテが眉をひそめ、王を仰ぎ見る。ガルシアは荒々しく息を吐き出すと馬から飛び降りた。そして、キリエをきっと睨みつける。

 キリエはガルシアを見つめ返した。小さく息をつくと自らも馬を降りる。女王に従い、ジュビリーらも次々と下馬する。

 ガルシアは肩を怒らせて大股に歩み寄ってきた。艶やかな黒髪。眉間に寄せた皺。鋭い眼光。額に浮き上がる血管まで見えるほど顔貌がはっきりわかってくると、キリエの胸は早鐘のように打ちつけた。

 見上げるような巨人。脳天を貫くかのような眼光。大波のように飲み込もうとする大鷲……! キリエは、恐怖した。耳鳴りが響き渡り、頭ががんがんと打ち付けられ、次第にに視界が暗くなる。気がつくと膝が震えている。そう自覚した途端、震えは全身に広がった。

(怖い……。怖いよ……!)

 握りしめようとした拳は、震えて力が入らない。やがて、キリエはその場に立ち尽くしてしまった。ガルシアはそれでも歩み寄る。真っ直ぐ、自分だけを凝視して。

 キリエの恐怖に満ちた表情に気付いたガルシアは、にやりと笑みを浮かべた。背筋にぞっと寒気が走ったキリエは思わず片足を引き、後ずさろうとした。その時、

(逃げるのか)

 突然脳裏に響いた声。キリエは眉をひそめた。視線を彷徨わせ、ごくりと唾を飲み込む。「声」は更に囁いた。

(目の前にいるのは、おまえの夫を殺した男だ)

 キリエは呆然として視線を上げた。

「……レノックス……!」

 あれほど自分を悩ませ、苦しめたはずの異母兄が今、自分に呼びかけている。キリエは、耳元に彼の息遣いさえ感じた。

(思い出せ。奴がおまえにしたことを)

 レノックスの言葉に、キリエは我に返った。そうだ。この男はギョームを……、殺したのだ!

 キリエの目が細められる。頭の中が冴え渡り、耳鳴りが引いてゆく。そう、私は〈冷血公〉レノックス・ハートの妹。そして、エドガー・オブ・アングルの娘だ。キリエは、震えが止まった手を握り締めた。

「……ありがとう、兄上」

 そう呟くとキリエは前を見据え、再びゆっくり歩み出した。


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