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359回目のプロポーズ  作者: 28号
本編
6/30

後悔の朝と特別なお見送り

 嫌がる予感はしていた。

 けれどまさかここまでとは思わず、俺は押入の中に籠もったままもう1時間も出てこないチカに頭を抱えていた。

「早く出ないと、幼稚園のバスがきちまうだろ」

「いやです、絶対行きません!」

「何でそう嫌がる」

「人生経験豊富なこの私に、今更カスタネット叩いたりお絵かきしたりピアニカ吹いたりしろって言うんですか! さすがに屈辱です!」

「けど前の人生でもいってたんだろ、幼稚園」

「そこに先生が……、運命の人がいるかも知れないから通ってたんです! 小学校も中学校も高校も、全てはあなたとの出会いを探す為に通ってたんです!」

「ならまたいるかも知れないだろ、本当の運命の人が」

「私の運命の人は先生です!」

「4歳でそれを決めるのは早いって」

「早くないです、こちとらもう358回も人生やり直してるんです!」

「ともかく、幼稚園には通え」

「嫌です! 昼間一日中ゴロゴロしてたいんです! 先生の服のニオイを嗅いだり、下着のニオイを嗅いだりしたいんです!」

 たまに下着が見あたらなかったのはこいつの所為か。

「今ので、お前がいかに自堕落な生活を送っているかがよくわかった」

「自堕落で良いじゃないですか! 私まだ4歳なんですよ!」

「お前をちゃんと育てるって条件で、おやじ達から奪ってきたんだ。兄貴も気分屋だし、下手に手抜きがばれたら後々ややこしい」

 そう言えば、チカは今更のように、自分がややこしい身の上であることを思い出したようだ。

 僅かな沈黙の後、ゆっくりとだが押入の戸が開く。

 その向こう側にいたチカは、勿論不機嫌そうな顔だ。けれどこれ以上口論している時間はもうない。

「支度するぞ」

「……わかりました。でも条件があります」

「なんだよ」

「……キスしてください」

「はあ?」

「バスに乗る前、いってらっしゃいのキスしてください!」

 そしたら1日頑張るとチカは言う。

 保護者が4歳児にキスするのは珍しいことではない。珍しいことではないが、俺にとっては究極の選択である。

「してくれなきゃ行きません」

 そう言って腕を組むチカは、絶対譲らないという目で俺を見ている。

 こうなったら、こいつはこちらが首を振るまで絶対動かない。

 そしてこの頑固さに、4年前の俺は散々振りまわされたのだ。

「……額だったら、してもいい」

 唇はさすがにまずい。頬も妙に気恥ずかしい。故に選んだ最終候補地だったが、途端のチカの機嫌が良くなった。

「支度します!」

 意外とあっけない、と思ったことは勿論口にせず、俺はホッとした顔でチカの着替えを眺めていた。

 最悪今日は俺自身が幼稚園まで運ばねばならないかと思っていたが、これならばバスにも間に合う。

「あ、ちなみに帰りはどうすれば良いんですか?」

 言われて、今更のように大事な事を伝え忘れていたのに気付いた。

 そしてそれを他ならぬチカから問われ、さすがに自分が情けなくなる。

「今日は8時前に幼稚園まで迎えに行く。日によって前後するかも知れないが、俺の帰りの時間は大体わかるな」

「結構遅くまで預かってくれる幼稚園なんですね」

 と言うなり、チカが大人ぶった顔で声を小さくする。

「それなりのお金、取られるんじゃないですか?」

「そう言う心配はするな」

「しますよ! 奥さんですから、家の財政は把握しておかないと」

「計算できるのか?」

「先生に微分積分教えて貰ったじゃないですか!」

 そう言って怒るチカは本当に大人びていて、俺は彼女の幼稚園行きを勝手に決めたことを少し後悔していた。

 チカにはああ言ったが、彼女を幼稚園に入れたかった本当の理由は、あまりにしっかりしすぎているチカが、せめて年頃らしく自由に遊べるようにと思ったからだ。

 それに本人は隠しているつもりかも知れないが、チカは寂しがりやだ。

 学校に来たとき、チカは家に一人で居るときよりずっと生き生きしていていた。

 だからこそ少しでも楽しく過ごせるようにと、俺は幼稚園入学を決めた。

 けれど、手際よく準備を始めたチカをみて、俺は今更のように気付く。

 もしかしたら、小さな子供達の中にいる方が、チカは大変なのかも知れないと。

 よくよく観察すれば子供らしい遊びには興味を示しているが、同じ年代の子供と遊ぶのはまた別だろう。

 そんなことにも気付なかった自分に、俺はあきれ果てる。

「先生、バスそろそろ着ちゃいますよ」

 けれど俺の葛藤などつゆ知らず、幼稚園の制服に着替えた千佳は、得意げになってくるりとスカートを翻す。

「そそりますか?」

「そそるか!」

「えー、これが見たくて幼稚園に入れようとしてたんでしょ?」

 どうしてそう言う考えになるのかわからないが、まあこれもいつものことだ。

「これが鞄。あとピアニカだ」

「懐かしい重さです」

 しみじみとピアニカを担ぐチカは4歳児というより、昔を懐かしむ大人の顔をしている。

 それが心配で、俺は彼女の側に膝をついた。

「何かあったら、すぐに言えよ」

「大丈夫ですよ、空気読めないとか散々言われてますけど、年相応の振る舞いをするのは慣れっこなんで」

 バッチリ幼稚園児になってきますと笑うチカは、多分俺の言葉の意味に気付いていない。

 まあこいつが俺の言葉を正確に理解したことなど一度もないが。

「そんな心配そうな顔しないでください。先生のキスがあればチカちゃん全力で頑張ります!」

「頑張らなくていい」

「頑張りますよ、だからここにちゅーしてください! 触れるだけでも良いです、それだけでパワー百倍です!」

 いつもはあれをしろこれをしろという割に、彼女が本気で求めるのはいつだって些細な物だ。

 そしてそう言うギャップに、多分俺はほだされてしまうのだろう。

「わかった。あと今日は特別だ」

 見上げるチカの唇にそっと口づけを落とす。短く触れるような物だったが、4歳児相手にはこれで十分だろう。

 むしろ刺激が強すぎたかも知れない。

 そう思って顔を上げたのに、チカは喜ぶどころか顔をしかめた。

「これで1ヶ月分とか、そう言うセコイ事言わないですよね」

「……そうして欲しければそうするが?」

 正直、腹が立った。やはりこいつは何もわかっていない。

「それは嫌です! 明日も欲しいです、毎日欲しいです!」

 とか喚いているチカとその荷物を抱え、俺は家を出る。

 丁度バスがついたところだったので、これ幸いと俺はチカをバスに放り込んだ。

 こいつのためにあれこれ悩んだ自分が馬鹿みたいだ。そう思いつつ、俺は窓に張り付くチカから目を背けた。

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