後追いのプロポーズ
「ずびばぜん……」
トイレに頭をつっこみながら、何度となく繰り返した情けない謝罪をチカは更にもう一度口にする。
その弱々しい声に不安を感じながらも、俺は気にするなという意味を込めて、彼女の背中をさすった。
それから年と共に長くなった彼女の髪が汚れないよう手で押さえてやると、チカは低いうなり声をトイレの中にはき出した。
「……うぅ、あのおにぎりが、あのおにぎりが……」
ちなみに、体調不良の原因は食あたりの線が濃厚だ。
冷蔵庫の奥に残っていたコンビニで買った賞味期限切れのおにぎり。
捨てるために分けておいた物を、あろう事かチカは食ってしまったらしい。
「あれは俺が悪かった。大人のオモチャより先に捨てるべきだった」
「気にしないでください、味が変だと思ったのに、ついつい食べちゃったのは私ですから」
俺との一夜に、味覚まで浮かれているのだと解釈したらしい。
普通ならそこで賞味期限を見るべきだが、頭がお祭り状態のチカに人並みの思考を求める方が間違っている。
「今度から、期限が切れた物はすぐ捨てるようにする」
改めてそう言って背中をさすると、先ほどより幾分顔色の良くなったチカが申しわけなさそうに振り向く。
「よりにもよって、こんな日に本当にすいません」
「謝るな。正直、何かしらやらかす気はしてたしな」
それから俺は、期待を裏切らないチカの顔をのぞき込む。
「具合はどうだ? 病院に行くか?」
「大丈夫です。だいぶ気分も良くなりました」
「でも無理はするなよ」
こくりと頷いて、チカは俺が持ってきた水で口をすすぐ。
でもやはりその顔は浮かない。
まあ、何となく考えていることはわかるが。
「……これ、もしかして呪いのせいでしょうか」
タオルで口を拭きながら、チカが右手で俺の手をつかんできた。
「よりにもよって、こんな日にこんな目に遭うなんてできすぎてますよね」
チカの言いたいことはわかる。
何しろ俺達はもう、358回も悲恋を繰り返しているらしいのだ。
そしてその原因である呪いは、まだチカにはかかったままらしい。
「私、やっぱりまた何もできないんですかね……」
ぽつりとこぼすチカの顔は、今にも泣きそうに歪んでいた。
それを見ていられず、俺は衣装ダンスの奥に隠し続けていた小さな小箱を慌てて取ってくる。
便座にもたれかかるチカにそれを見せると、どうやら彼女その中身を察したようだ。
「こ、これはあれですか……!」
具合が悪かったことも忘れる勢いで、チカが俺にすがりつく。
「開けていいぞ」
「い、いいんですか!」
「そのために買ったんだろう」
箱を恐る恐る開けて、そしてチカは先ほどまでトイレで吐いていたとは思えない、嬉々とした笑顔で俺を見上げた。
小箱の中身はもちろん指輪だ。むろん、結婚の約束を取り付けるための物である。
「は、はめていいですか?」
「ダメだ」
何でとくってかかられるより先に、俺は指輪を取り上げチカの薬指にはめる。
「こういうのは、男がはめるもんだろう」
「……先生、今幸せで死にそうです」
むしろ死んだらどうしようと、慌て出すチカの頭を俺は優しく撫でる。
「お前はもう死なねぇよ」
「でも、私まだ呪いも……前世の記憶もあるし……」
「だとしても、今度こそ呪いには邪魔されない」
いや、邪魔されなかったというのが正しい。
そう告げると、チカが惚けた顔で俺を見上げる。
それに苦笑しながら、俺は婚約指輪のはまったチカの手を優しく握った。
「実はもう、婚姻届も提出済みだ」
「でっでも私書いてませんよ!」
「嘘こけ。お前、この10年ちょっとの間に何枚……いや何十枚と書くまくっただろうが」
俺と暮らすようになってから、チカは何度となく婚姻届に名前を書いては「サインしろ」と言いよってきた。
『今度こそ私をお嫁さんにしてください』
と最初に用紙を持ってきたのは幼稚園に入るより前のことで、あまりに頻繁に書かせようとするので出所を探したところ、それが近所にある役場の出張所であることが判明した時は本気で頭が痛くなった。
可愛らしい女の子が『結婚したい人がなかなかサインしてくれないんです!』と大人びた顔で何度も顔を出すものだから、年配の職員達がついつい用紙をあげていたらしい。
もちろん本気で書いているとは思っていなかったようだが、用紙を貰おうとするチカを取り押さえた俺は『あんたがチカちゃんの未来の旦那さんかい』と謎の歓迎を受け、写メまでとられた事は、思い出すだけで恥ずかしい。
「でもあの、今まで書いた奴って全部捨ててたんじゃ……」
「捨ててねえよ。全部取ってある」
「全部!?」
驚いた顔をされるとちょっと居心地が悪いが、事実なので否定はできない。
「なんか、捨てるのも縁起悪いし……」
破ってしまった物も例外なく取ってある、というところまでは口にしなかったが、それでもチカを喜ばせるには十分だったらしい。
「……そ、そういう優しさはもっと表に出してください!」
「だからいま、表に出しただろう」
指輪に目を向けると、チカはそこでまたはっとした顔をする。
「でもあの、私まだ16じゃないですよ」
「いや、実を言うと二日前になってる」
「ええっ!?」
急に素っ頓狂な声を出したせいか、チカがそこで猛烈にむせる。
小さな背中を再びさすってやりながら、俺は事の顛末を説明することにした。
簡単に言えば、誕生日がずれてしまったのはチカの母親のせいだ。
チカは母親に捨てられ、4つの時に俺の所にやってきた。
とはいえチカを正式に引き取るには、色々と手続きも必要だったので、俺はその駄目女を探し出したのだ。
結果として見つけるのは簡単だったが、親とは思えぬ女の言動に頭を痛めたのは今でも苦い思い出だ。
そしてそのとき、俺は押しつけられた書類や母子手帳に書かれた出生日とチカが口にした日にちがずれていることに気づいたのである。
『どうせ祝う予定もなかったから、適当なこと教えたのよ』と言い放った女をそのときは本気で殺したくなったが、ある意味では彼女のお影でチカと再会できたので、そこはぐっとこらえた。
ただ、そのずれを修正するにはどう頑張ってもチカに理由を告げる必要があるし、彼女は小さい頃から聡い子だったので、母親の心理を悟り余計に傷つくのは明白だった。
だから誕生日の件はあえてずっと触れずにいたのだ。運良く差異は二日だし、特に問題も無いとそのときの俺は思ったのである。
「じゃあ、私は毎年二日遅れで誕生会してたんですね」
話を聞き、しみじみとそういうチカに俺は今更のようにすまないと謝罪する。
「謝らないでください。むしろ、気を遣ってもらって嬉しいくらいだし」
でも……、とチカはそこでわざとらしくふくれ面をつくり、俺を見上げる。
「さすがに今回は教えてほしかったですけどね」
そうすれば、もうとっくに色々できたのにとむくれるチカ。
その頬を、俺は謝罪を重ねながら優しくなでる。
「さっきも言ったが、絶対なんかやらかすと思ったんだ。お前は日頃からすぐから回るし、失敗するし、俺をひどい目に遭わせるから、今日に限って何事もないとかありえねぇと思って」
「……まあその、否定はしません」
実際やらかしたあとなので、チカの反論はいつもより弱めだ。
「それに色々不安に思ってるのも知ってた。だから、初めての時はちゃんと安心させてやりたかったんだ」
だから、そういう雰囲気になったら指輪を渡して真実を告げようと思っていた。
もうちゃんと夫婦だから安心してほしいと伝えて、自分に身を預けてほしかった。
「勝手だけど、俺自身も不安があったしな……」
今まで色々隠し通してきた分、自分の気持ちを素直に告げれば、チカは嬉しそうに俺の手を握り返してくれる。
「確かにホッとしました。私、もう二日も前から先生の奥さんなんですね」
「ああ、正直言うと我慢するのが大変だった」
何がとは言わないが、言わなくてもチカは勝手に気づく。
「手、出したかったですか?」
「まあな。……だから正直助かったよ、お前が全裸で待機しててくれたときは」
家に帰るなり、理性が切れたらどうしようかと悩んでいたのは事実だ。
でもさすがに、あそこまで開けっぴろげだとその気がなくなるというか、妙に冷静になる。
「えー、普通もっとムラムラするもんじゃないですか?」
「さすがに、露出狂に興奮する趣味はねぇしな」
「人を露出狂と一緒にしないでください!」
「俺だって自分の嫁が露出狂とか嫌だよ」
でも、まさにそんな気分だったのだから仕方が無い。
けれど俺の言葉に怒るかと思ってチカを見れば、彼女はなぜか目をキラキラと輝かせている。
「いっ今のもう一回お願いします」
「露出狂って呼ばれるのは嫌なんだろう?」
「そこじゃなくて、嫁の所です!」
嫁って呼んでくださいお願いしますと、チカは俺にすがりつく。
でもあえて懇願されると、妙に気恥ずかしい。
「あとでな」
「ごまかさないでください!」
「あれだ、興奮しすぎてまた具合が悪くなったら困るだろう」
「もう元気です。全回復です! むしろ今すぐでもやれます!」
せっかく着せたパジャマを脱ごうとするチカに、俺は急いでげんこつを落とす。
「そんな簡単に全快するわけねぇだろ。今夜は絶対にダメだ」
「大丈夫ですよ、もうあらかた全部吐いたし」
「お前、人の胸に吐瀉しておきながらその台詞はねえだろう」
思わず突っ込むと、不意にチカが俺の顔をじっと見た。
「何だ?」
「……私、今ものすごく重大なことに気づきました」
何だと尋ねるより早く、チカはこの夜の終わりのような顔で床に突っ伏す。
「359回目にしてようやく真のプロポーズを頂いたのに、場所が……場所が……」
「場所?」
「だって、ここトイレですよ!」
なんだそんな事かとうっかり口にすれば、チカが今にも泣きそうな顔を俺に向ける。
「私がこの瞬間を、いったいどれだけ待ったと思ってるんですか!」
「たしかに、まあちょっと、微妙ではあるけど」
「ちょっとどころじゃありません! ここまで絵にならないプロポーズは初めてです」
どうやら、チカは相当へこんでいるらしい。
ようやく戻りつつあった顔色が悪くなっていくのを見かね、俺は仕方なくチカを抱きしめる。
「……じゃあ、あとでお前の望むところでやり直ししてやるから」
「本当ですか?」
「でも、常識の範囲内で頼むぞ」
「高校の下駄箱か、もしくは屋上がいいです!」
それは色々危険すぎると突っ込んだが、もちろんチカは聞いちゃいない。
「夕日に赤く染まる教室、とかも捨てがたいですね!」
「人がいない前提だよねな」
「公開告白もいいと思うんですけど」
それだけは勘弁してくれと言うと、チカは仕方ないですねと頬を膨らませる。
「その代わり、結婚式はロマンチックにしてくださいね」
「おい、話が早いだろう」
「私、ハワイで挙式したいです! ハワイで!」
「ハワイ!?」
「え、そんなに驚くところです? 結構ベタだと思うんですけど」
「……ハワイは、ダメだ」
「えー、少しくらい贅沢にやりましょうよ」
「無理だ」
「じゃあせめてハネムーンに行くとかは?」
「それも無理だ」
どうしてと詰め寄られ、俺は思わず言葉と視線をさまよわせる。
するとチカは、ジト目で俺を睨めつけてきた。
「……先生、何か隠してません?」
「べつに、隠してなんか……」
「じゃあ、なんでハワイはダメなんですか?」
「か、金もねぇし」
「嘘です! 先生が私のためにとこっそりお金積み立ててるの、知ってるんですからね!」
図星なので思わず黙ると、チカは本気で俺の拒絶の理由を考え始めた。
そしてこういうときだけ聡いチカは、あっという間に俺の弱みの片鱗を探り当ててしまう。
「そういえば先生、高いところ苦手ですよね」
これも図星なので黙っていると、チカがやたらとニヤニヤしだした。
「もしかして飛行機が嫌いだから海外のもいけない、とか可愛い理由だったりします?」
答えるかわりに視線をそらすと、チカは楽しそうにはしゃぎ出した。
「先生にも、弱点があったんですね!」
「悪いか」
「いや、むしろ萌えました! その顔で飛行機怖いとか超絶に萌えます!」
喜ばれるのも腹が立つが、申し訳ない気持ちも多少あるのでここはぐっとこらえる。
「でもそうか、ハワイは無理なのか」
「……可能なら、国内にしてくれ」
「無理すればいけるんですか?」
「いや、やっぱりハワイはは来世の俺に頼んでくれ」
何気なく口にしたつもりだったのに、チカはそこで目をむく。
その表情にこちらも少し驚くと、チカは恐る恐ると言った様子で俺のシャツをつかんできた。
「来世も、結婚してくれるんですか?」
「だって、お前どうせまた俺の所に来るんだろう?」
尋ねると、チカはぽかんと口を開ける。
「きて、いいんですか?」
「何今更殊勝なこと言ってるんだよ。お前、何度でも俺の嫁になるって前に言ってたじゃないか」
「でもあの、これは泣きの一回みたいな物だと思ってたので」
チカはそう言うと、何かを確かめるように俺を仰ぎ見る。
「そもそも先生の方は一度諦めた訳ですし、そこを無理矢理すがりついて更に延長戦に持ち込むのはさすがに悪いかなって」
そう言いつつ、未練があるのはあきらかだ。
でもそれを言ってはいけないと思っているのか、チカは言い訳を重ねていく。
「それにほら、結ばれたってことはつまり呪いに打ち勝ったって事でしょう? だから記憶が来世まで残ってるかどうかわからないし、そうしたらあっても先生のことわからないし、だから……」
言葉を重ねる度に弱くしくなっていくチカの声。
それを黙って聞いていられず、俺は彼女の言葉を遮るように彼女の顎に指をはわせる。
「でも俺は、1回じゃ満足できない」
少し強引にチカの肩を引き寄せ、そこで俺は彼女の言葉ごと唇を奪った。