拳骨と涙
チカの荷物を抱えて家を出ると、既に日は沈みかけていた。
今日の親父はやたらとしぶとく、まるでゾンビのように倒れても倒れても起きあがってきたため、気がつけばこんな時間まで家を出られなかった、と言う次第である。
それでも50回目のKOを決めると、最後は「出て行け」と唸り、いじけた子供のように膝を抱えていた。
それが少しおかしかったが、そこで笑うとまた拗れるので、俺は千佳と彼女の少ない荷物を持ち、もより駅までの道をゆっくりと歩いている。
「本当に良かったんですか?」
人気が少なくなったタイミングで、俺の袖を引いた千佳が、恐る恐るそう尋ねる。
「あの家じゃ、何かを実行に移すにはああするしかない」
「でもあの、おとうさん、ぼっこぼこにしてましたよね」
「あれでもかなり手加減はしてる。高校卒業したあたりから、あの家じゃ俺が一番強い」
だからはじめて親父を負かしたときから、俺は親父に逆らうのをやめた。
暴力一家に見えるが、親父は筋が通らない事で息子に手を挙げたりはしない。
粋がった勢いで親父を負かしたとき、俺はその事に気付き、同時に酷く後味の悪い思いをしたのだ。
だからあれ以来殴り合いは卒業した。むしろ馬鹿を続ける兄貴と、めげることなくそれを正そうとする親父の間にはいるのが今の俺の仕事だ。
「先生のお家って、本当に変わってますよね」
千佳に言われたらおしまいだなと思ったが、普通か普通でないかといえば後者である事は否定できない。
今思うと、そう言う普通でないことに慣れすぎていたから、「運命の相手です」と迫ってきた千佳を、俺は知らず知らずのうちに受け入れていたのかも知れない。
「でも悪い人たちじゃない。頭が冷えればお前のことも受け入れるくらいの器量はある」
「本当ですか?」
「腐っても女だし、可愛い顔してりゃあ親父もそのうちデレるさ」
俺の言い方が気に入らないのか、チカはふくれ面だ。
「でもやっぱり殴り合いはダメだと思います。喧嘩の最中、私30回くらい『私のために争うのはやめて』って言いそうになりましたよ」
「幼児がそんなませた台詞吐いたら、ある意味殴りあいも止まるかもな」
「じゃあ次もし私のことでお父さんともめたら、言っていいですか?」
「お好きにどうぞ」
想像すると笑ってしまいそうだったのでわざと素っ気なく言ったのだが、チカは相変わらずのふくれ面で俺の服の裾をぎゅっと掴んだ。
けれどコートは掴みにくいのか、彼女の腕はすぐに離れた。急いでまた腕を伸ばしているが、歩き方が酷くたどたどしいので腕はまたすぐ離れてしまう。
それが気になって見ていると、どうやら千佳は酷く疲れているようだった。
こうして見ると、チカはとても幼い。にもかかわらず昨晩酷くはしゃいだ上に、今日は一日起きていたのだ。そろそろ体力が尽きてもおかしくはない。
「ちょっとこれ持て」
とチカの少ない荷物を彼女に押しつけたあと、俺は彼女を抱き上げた。
あまりに軽いその体に、俺は少し動揺してしまった。
今更のようにえらい物を拾ってきてしまったと自覚する。本当に今更だが。
「先生どうしたんですか! 今日は凄く優しいですよ!」
「子供に厳しくできねぇだろ」
「子供扱いしないでください! 今日から一緒に住むって事は、私は先生の奥さんなんですよ!」
チカらしい考えの飛躍に呆れつつもホッとして、俺は千佳の頭を優しく叩いた。
俺を見上げていたチカの目から、大粒の涙がこぼれたのはその直後のことだ。
叩いたことでトラウマでも蘇ってしまったのかと焦る俺に、チカが慌てた様子で涙を拭う。
「ごめんなさい。私ずっと、先生に呆れられたり叩かれたりしたくて……。だからこうして貰えて凄く嬉しくて……」
お前はどんだけ変態なんだとわざと呆れた声を出せば、千佳が泣きながら笑った。
「だってずっと妄想してたんです、先生に再会できた時のこと」
「妄想ってお前なぁ」
「私、先生としたいこと沢山あるんです。前の人生よりもっともっと好きって言いたいし、今度こそ沢山キスしたいし、先生の笑顔も沢山見たいし、拳骨も喰らいたいし。あと罵詈雑言も欲しいです。だからもっと罵ってください、叩いてください、なじってください」
恐ろしいお願いを次々言ってから、千佳は俺の肩に顔を強く押しつける。
「私、叩かれるなら先生が良いんです」
それは酷く小さな呟きで、千佳は俺に聞かせる気はなかったのだろう。
次の瞬間にはまた笑顔が戻っていたし、そこに弱々しさはなかった。
でも俺だって馬鹿じゃない、千佳が酷く無理している事くらいわかる。
彼女が俺との再会ばかり考えていたのは、きっと運命の相手だからと言う以上に、この4年間が彼女にとって良い物ではなかったからだろう。でもそれを千佳は俺には言わない。
彼女が語るのは今も昔も俺との事ばかりで、辛いことも苦しいことも俺には見せようとしないのだ。
それが酷く歯がゆくて、でも今ここで無理に聞き出すべきでないのもわかっている。
千佳がそれを口にするまで待とう。そしてそのときまで、今度こそこいつを手放さないでいよう。
彼女に悟られないよう俺は決意し、千佳の頭を乱暴に撫でた。
「本当に変態だな」
俺の呆れ声に、腕の中の千佳は本当に嬉しそうにはしゃぐ。
「もっとお願いします!」
「ガキ、チビ、幼児、ぽっちゃり」
「ぽっちゃり! ぽっちゃりはさすがに酷いです、ちょっと丸顔なだけでしょう」
「なじれと言うから言ったんだ」
「じゃあ今度は、褒めてください!」
正直褒めるべき場所が見つからず、俺は黙り込んだ。
「褒めるところないとか思ってますね! 透けてますよ、考えが!」
むくれているが、千佳の涙はいつのまにか消えていた。
そんな彼女の髪を乱暴になでたあと、俺は彼女の気付かれないよう、額の痣にさり気なく口づけを落とした。
「いくら考えても、褒めるトコなんて見つからんな」
「たったしかに今はこんなですけど! でもいつか凄い美人になりますから! おっぱいも大きくなりますから!」
「これじゃあ無理だろう」
「大丈夫です、先生がもんでくれれば大丈夫です!」
むしろ今すぐもんで下さいと服の裾を刷り上げる千佳に、拳骨を落としたのは言うまでもない。
「……やっぱり、先生の拳骨は最高です」
だからもう一回お願いしますとすり寄る千佳に、俺はため息をこぼす。
こいつは自分の事をあまりに理解していない。記憶があろうと変態だろうと、外見上こいつはまだ幼児なのだ。
故にここはけじめをつけるべきだと決意した。主に自分の感情に。
「お前は俺の恋人ではなく養子だ」
とたんに千佳が喚きだしたが、ここは心を鬼にして、家に着くまで何度も何度もお前は「養子」だと繰り返した。
もちろん本当は養子と言うより嫁を貰ってきた感覚に近かったが、そんなことをチカに言えるわけがない。
そうしなければつけ上がった千佳が暴走して、えらい目に遭うにきまっている。
だから千佳が普通の子供としてちゃんと暮らせるようになるまで、節度は保とうと俺は決意した。
「そう言っていられるのも今のウチですよ! 私の魅力で、先生絶対ムラムラしますから!」
千佳の台詞に嫌な予感も覚えたのも事実だが、もちろんそれは聞かなかったフリをした。